『バック・チェンジ』
後編
(七)
西蘭高。
六限目の現代国語の授業が終わった。放課後になり、校内にざわめきが満ちる。
「柊、なんだか、最近……」
岡田が柊の机の横にやってきた。表情が冴えない。
「なによ」
「あんまり良くない噂、聞いちゃってさ」
周囲の目を伺うように辺りを見回してから、岡田はここ数週間、柊のバスケット部における練習態度が悪くなっているという話を切りだしてきた。
「ちょっと信じられないんだけど、柊、本当なの?」
「まあ、前通りじゃないけれど、別にさぼっている訳じゃないんだけどね」
首筋を揉みながら、柊は応えた。困ったな、というのが正直な感想だった。早晩問題になるという自覚はあったが、ふんぎりがつかないままにここまで来てしまったのだ。
「だといいけれど。らしくない気がする」
「心配してくれているんだ」
「まあね。私だって、柊の糾弾記事なんて書きたくないからさ」
「そんな個人攻撃してる学校新聞がどこにあるってのよ。第一、糾弾されるとしたら私個人じゃなく、バスケット部全体なんじゃないの」
「……そりゃ判るけどね。柊、ちょっと変わったような気がする」
「そうかな」
「あ、悪い意味で言ってるんじゃないの。ただね、急に変わると、周りの人がびっくりしたりするから、もし柊が自分を変えたいと思っていても、気を付けたほうがいいと思うな」
「ご忠告、感謝します」
おどけて敬礼などしてみる。岡田は呆れたように鼻をならした。
「で、最近、なにやってんの?」
荷物をまとめ、教室を出ようとした柊を岡田が呼び止め、小声で聞いてきた。
「なに、って?」
「新聞部の情報網を甘くみてもらっちゃ困るわね。ほら、この間の十二番と一緒になってストリートバスケットやってるって話、ちゃんと押さえてるんだから」
岡田は一層声を低くする。柊は眉を寄せた。小学校以来のつきあいで、同じ町に住んでいるのだ。新聞部云々より前に気づいてもおかしくはない。
「別に、問題があるとは思えないけど」
「そうかなぁ。ま、そういうのも流行りなのかも知れないけど。主将が他の学校の生徒とチームを作って遊んでるって聞いたら、他のコ達、きっといい気はしないと思うよ」
言いたいことが判るだけに、柊も返事のしようがなかった。
(八)
その晩。
柊は昔からシャワーが苦手だった。耳にすぐお湯が入ってしまい、ずっと後まで違和感が残ってしまうからだった。
だから風呂に入るときは、湯船に首筋まで深く浸かる。髪と身体を洗った後で、もう一度浸かるのが習慣になっていた。
連日の練習による疲労が癒されるような気がする。もちろん、風呂に浸かっただけで疲れから回復される訳ではないが。
スリー・オン・スリーの大会に出るのか、否か。家に帰ってきてからずっと、柊の思考はその一点に集中していた。
「どうしようかな……。まあ、二人次第かな。もし、二人が全国大会にまで行きたいっていったら、その時は――」
バスケット部を退部してでも。胸の奥で、そう覚悟を固める。どのみち、三年生にとってはこれが最後の大会となる。自分の出たいほうに出て悪いはずがない。……他の部員を見捨てるという事に目をつぶれるのなら。
「くそっ」
両手でお湯をすくった柊は、ばしゃばしゃと音を立てて顔を洗った。思考を切り替える。この場で結論を出さなければならないという訳でもない。じっくり考えてからでも、遅くはない。
お湯の中で両手を広げたり握ったりしながら、鍛えて握力をつけなきゃな、と柊は思う。思おうとした。無理にでも他のことを考えないと、暗くなってしまいそうだった。
ともかく。握力があれば、零美のように片手で掴んだボールを自在に扱える。そうなれば、ゲームの様々な場面でプレイの選択肢が増える。
零美のように。今までも、何度となくその言葉を思い浮かべる。零美がみせるプレイを自分のモノにしたい。そう願う。
特に、彼女が軽々と決めるバック・チェンジは魅力的だった。相手ディフェンスとボールの間に自らの身体を入れ、背中側にボールを通すことで、ドリブルをカットされることを防ぐ高等技術だ。それこそ、背中に目でもついていないかぎりコントロールミスの確率が極めて高い。
それを、零美はいとも簡単に実戦で多用する。しかも、トラベリングを指摘される余地のない素早いチェンジ。一対一で向き合っても、これを使われると簡単に振り切られてしまう。
どうやったらあんなことが出来るのだろう、と柊はいつも思っている。思うだけでなく練習しているが、なかなか自分のものに出来ないでいる。
(地道な練習は当たり前だけど、少しは科学的根拠に基づくトレーニングというものに本腰を入れるべきなのかな。PNFとかいうのもあることだし……)
科学トレ。その言葉は魅惑的であるが、いったいどういうものかなかなか本質を理解できないでいる。
一度、比較的判りやすいと思える科学トレーニング法を記した本を買ったことがある。しかし、内容の単調さと書かれている説明の難解さに、中途で放り出してしまった。
風呂からあがったら、あれをもう一度読み直してみよう、そう考える。
身長を劇的に伸ばすことは不可能に近いが、身体能力を高めることは、努力次第では可能なはずだった。
どうしても、零美の敏捷な動きに一歩でも近づきたい。逆に言えば、あんな小柄な零美でも充分一人前に戦えるのだ。自分でも出来ないはずがない。敬意を抱きながらも、同時に負けん気も沸き起こってくる。
「このままじゃ、私が二人の足を引っ張ることになってしまう。……そんなのは、やだな」
柊は勢い良く湯船から立ち上がった。飛沫が飛び、張りのある肌に湯玉が滑って流れ落ちる。
浴室の外から母親の声がした。
「柊、電話がかかってるけど、どうする? かけ直して貰う?」
「ううん、今あがるところだから、ちょっと待って貰って」
慌て気味に脱衣所に出て、バスタオルで身体をくるんで廊下に出る。
「バスケット部のお友達みたいよ」
そういって、柊の母親がコードレス電話の子機を手渡した。
「はい、もしもし」
『あ、柊。今何してたの?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、意外にも零美の声だった。
「零美? えっと、お風呂に入ってたところ。なにかあったの?」
一応の連絡先として互いの電話番号は交換していた。柊は自宅のそれだったが、零美は携帯電話を持っていた。今時携帯も持ってないの、と零美は笑ったが、実際問題として柊には使うアテが無かった。つくづく、零美は柊の思い描く天才プレイヤーのストイックなイメージをぶちこわしにしてくれる。
それはともかく、本当に零美から電話がかかってくるのは少し予想外だった。
『ちょっと話があってさ。今、公園のバスケットスペースにいるんだけど、出てこられる?』
「電話じゃダメなの?」
『出られないんなら、それでもいいけど』
ふと気づくと、柊の傍らでは母親が興味ありげに電話のやりとりに耳を傾けている。
「……判った。すぐ出るから」
『悪いね。よろしく』
「じゃ、後で」
電話を切る。
「やっぱりバスケット部のお友達なの。なにかあったの」
「まあ、バスケ絡みには違いないけど。ちょっと、外に出てくるね」
「こんな時間に?」
母親が怪訝そうな顔をする。
「たまにはいいでしょ。普段は真面目な女子高生やってるんだからさ」
「変な事に巻き込まれないで頂戴よ」
「大丈夫だって」
風呂あがりだというのに。部屋に戻った柊は、そう思いながらスポーツウェアに着替えている。バスケットスペースに行くのに、スカートを履いていく気にはなれなかった。まず間違いなく、零美はいつものスタイルでいるという確信があった。
「あいつのスカート姿なんて、私以上に似合わないもんね」
ドライヤーでいい加減に髪を乾かして、外に出る。
日中はともかく、夜になるとまだ少し肌寒い。どうせなら、とジョギングで公園まで向かうことにした。歩いていたのでは、零美を長く待たせてしまう。
(零美の奴、いったいなんの用だろう。やっぱりバスケットに関係することだろうな)
私がバスケットを始めるきっかけはなんだっただろうか。走りながら柊は考える。
あれはきっと、ホントにささいなことだった。小学校高学年の頃の体育の時間。たまたまバスケットの試合をやり、そこそこ活躍出来た。友達や先生に誉められた。ただ、それだけのことで自分にはバスケットの素質があると思いこんだ。もともと、運動は好きでも得意でも無かったのに、現金なものだと我ながら思う。
零美はどうだろうか。ケイトは。やっぱり本場アメリカのバスケットの天才プレイヤー達に憧れて、とかだろうか。そうだったら格好良い、と考えつつ、今まで柊には、こちらの期待する理想像をことごとくうち砕かれていたことも思い出す。
(案外、私と同じような、どうということのないきっかけだったのかも知れない)
そう考えると、自然と柊の口元に笑みがこぼれた。
バスケットスペースには照明灯が一基設置されているが、灯りがついたところを柊は今まで見たことがない。
ジョギングコースに沿って立っている街灯から差し込む光だけが、ほの暗いバスケットスペースを照らしている。
案の定というべきか、シュートの練習をしている零美が居た。
「零美!」
弾む息を静めながら、柊が声を掛ける。シュートの態勢にはいっていた零美が手を止め、にこりと笑う。
「急になんの用なの?」
「嶋崎さんの言ってたスリー・オン・スリーの大会のこと。あれ、どうする?」
「なに、その話なら、今度会うときまでに考えておこうって話したばっかりじゃない?」
並んで、芝生の斜面に腰を下ろす。静かな夜だった。空一面を覆う薄雲に星の瞬きは見えない。月だけが雲に負けじと光を下界に差し掛けている。
「そうは思ったんだけどさ。もしかしたら、ボクとケイトのこと気にして、バスケット部辞めるなんて言い出さないか気になって」
零美が柊の瞳を覗き込みながら、言う。深い色をした零美の目に見つめられ、柊の心臓がごとりと嫌な音を立てた。
見透かされている。
元々、柊は洞察力には自信があった。ポイントガードとしてチームを引っ張るためには、相手の心理を読み、その攻め手を見抜いてディフェンスを指示しなければならないからだ。
同時に、相手にこちらの考えを悟らせない自信も持ち合わせていた、つもりだった。それが零美の一言であっさり崩れ去った。
「やっぱり零美には勝てないな。……図星。もし二人がその気なら、付き合うつもりだった」
肩を落とし、苦笑する。
「やだなぁ。ボク達はそこまで勝ちに餓えてないよ。ここで、強そうな相手とゲームして、勝てれば充分なんだから」
「そうは言うけど……」
「話はそれだけ。わざわざ呼び出して、ごめんね」
すまなさそうに頭を下げる零美。
「気の向くまま、あいた時間だけスリー・オン・スリーを楽しむ、か」
ふう、と柊は息を吐いた。惜しいとは思ったが、零美の思いやりもありがたかった。今回の件では、バック・チェンジのような高等技は必要ない。落ち着くところに落ち着くだけだ、ということを思い知る。
「それで良いと思うよ」
「ちょっとこの間から気になってたんだけど、一つ聞いていい?」
膝を曲げてかがみ込み、太股に両肘をついて頬杖をつくような格好で零美の顔をのぞき込む。
「何?」
「えーと、嶋崎さんのこと。零美とはどういう関係? 彼氏?」
「発想がちょっと短絡的な気がするなあ」
「いいじゃない。発想力が貧困なんだから」
「あはは。そんな複雑な話じゃないよ。たまたま家が隣同士だったし。偶然バスケやってた。それだけのこと」
「ふうん。でも、嶋崎さんのプレイって私は見たこと無いんだけどな」
「膝が悪いんだって。今はバスケやってないってさ。憂さ晴らしに上半身鍛えて。ちょっとすごいでしょ、あの筋肉」
「うん。アメフトか格闘技でもやってるのかと思ってた」
「あ、格闘技は本当にやってる。膝を傷めたのって、バスケというより極真空手の練習中の話らしいから」
「極真なんだ。喧嘩強そう」
「試してみる?」
「なんで私が」
零美と話をしていると楽しかった。バスケットに関係ない話でも、心が浮き立つような気がした。
(九)
土曜日。公園のバスケットスペース。
柊と零美の話を聞くと、ケイトもあっさりと「そのほうが良いかも知れません」と賛成してくれた。
「嶋崎さんには、ボクのほうから言っておくからさ」
「そっちは任せる。さ、ちょっと今日はゲームの相手もいないみたいだけれど」
柊はバスケットスペースを見回した。何人かがゴール前で練習しているが、ゲームが始まりそうな雰囲気はない。
「仕方ないなあ。しばらくパス回しでもやってるか?」
言って、三人はコートに出た。
「キャプテン!」
しばらくの間ウォーミングアップのようなパス回しで汗を流していると、聞き慣れた声が耳に飛び込んできて、柊は顔を上げた。
振り返ると、斜面の上のジョギングコースに西蘭高バスケット部の主立った面々が顔を揃えていた。柊を呼んだのは斯波だった。
柊はコートを出て、悲壮な顔をしている斯波達と向き合った。柊の後ろでは、零美とケイトが、困り顔を見合わせている。
「どうしてなんです?」
斯波が、かすれた声で問うた。無数の意味がこもった「どうして」だった。彼女にしてみれば、それ以外に問いかけようもなかった筈だ。
「ごめん、柊。このコ達に教えちゃった。だって、これだけ慕ってくれるんだから、隠しておくのも可哀想じゃん」
斯波の横から岡田が顔を出して、苦しい顔つきで言い訳した。柊も、岡田を責める気にはなれなかった。先延ばしにしていた結論をここで出す、いいきっかけだった。
柊は、口元を掌で覆い、こする仕草をした。考え事をするときの癖だった。柊にとっても、一言で片づけられる問題ではなかった。
ややあって、彼女は口を開いた。
「理由ねぇ。どうなんだろ。少なくとも、私にとっちゃ、今のバスケット部よりも、こいつら二人と組んでストリートバスケやってるほうが楽しい、ってことかな」
「そんな……」
絶句する部員達を前に、罪悪感が柊の胸をよぎる。だが、自分の実力を押さえてチームプレイの実践者を演じるのに嫌気が指しているのも事実だった。
「私達を見捨てるということですか? 今のチームのプレイスタイルを作ったのはキャプテンです。今さら一人だけ抜けるなんて」
斯波の横合いからすっと一人の部員が前にでて、つかみかからんばかりの口調で言う。
「じゃあ、ここで私達と勝負してみない? 貴女達のレギュラーメンバー五人と私達で? 五対三。これならいい勝負になるんじゃないかな」
さすがにこうまで言われておとなしくしているほど、彼女たちもおとなしい羊の群ではなかった。体育会系らしい、本来の攻撃的な瞳の輝きが戻ってくる。
「判りました。それでキャプテンの気持ちが判るなら。ただし、五対三なんてヤボなことはしません。やるなら、スリー・オン・スリーです」
斯波が言い切り、部員の中から二名の名を呼んだ。共に二年生。斯波にとって特に気心の知れたレギュラークラスのチームメイトだった。
「さあ、やろっか」
柊は振り返って零美とケイトに声を掛けた。
「いいの?」と、零美。
「いいもなにも、元はといえばあんた達のせいじゃないの。私をこっちの世界に引きずり込んでおいて」柊が笑顔を作ってみせる。「それよりも、悪かったわね。勝手にゲームの約束なんかしちゃって。嫌だったら嫌って言ってよ。私は五対一でも勝負するつもりだから」
「誰が抜けるなんて言った?」
零美が不敵な笑みを浮かべた。
「ワタシ達はチーム。勝つも負けるも一緒よ」
ケイトが親指を立てる。
斯波達が身体を暖めるのを横目でみながら、柊達は額を付き合わせる。
「フォーメーションはいつもと一緒。とくに奇手は考えない。いいね?」
小声で柊がささやく。
「オーケイ、問題なし、です」
ケイトがにっこりと微笑む。
「言っておくけど、西蘭バスケ部は舐めてかかると痛い目に遭うからね。なにしろ、私が鍛え上げたんだから」
「あ、その西蘭バスケ部との試合で、後半戦だけで十点差をひっくり返したのが誰か、忘れてない?」
零美のふてぶてしい言葉。柊は片方の頬だけを吊り上げて笑ってみせた。
そう、あれから全ては始まったのだ。
もし、斯波達があの時の零美のプレイになんにも感じていなかったとしたら。今日のゲームが終わっても、なにも感じることがなかったとしたら。そんなバスケット部は、もう自分の居る意味はない。柊はそう心に決めた。
今日は生憎と嶋崎はいないが、柊は心配していなかった。相手は勝手知った西蘭高バスケット部なのだ。ラフプレイを多用するような真似はしないと確信できた。
ゲームが始まった。
「ゴー、ゴー!」
チアリーダーの嬌声のような声をあげたケイトが、零美と柊に突進を促す。柊は左サイドへと走り、零美は真正面から切り込む。
ケイトから柊へのパス。間髪入れず零美へと回す。
正面のディフェンスを軽くフェイントでかわし、ゴール下に飛び込んで、レイアップ・シュート。リングにボールが沈む。
「よしっ!」
柊の口から、思わず声が飛び出ていた。
良い感じだった。やりにくい相手だという感は否めないが、それすら楽しめそうだった。紅白戦とは違った真剣味があった。
序盤は柊達が飛ばしてリードしたが、戸惑いから立ち直ってくると、斯波達も黙ってやられていなかった。
一つ一つのプレイでは、零美もケイトもまったく西蘭女子バスケット部を寄せ付けないものをもっている。
パスをカットし、ドリブルをかすめ取り、しばしば相手の攻撃を中断させる。が、攻撃に転じようとすると途端に、鍛え上げたゾーンディフェンスに阻まれてパスが出せなくなる。
(このコ達、成長してる。この前は、零美のスピードにまるで歯が立たなかったのに!)
柊の中では、嬉しさと驚きが半々だった。
強引な突破を図り、ラフプレイで柊と零美が一度、ケイトが二度ファウルを犯す。審判がいないためにゲームが中断しないが、良くない傾向だと柊は思った。自分もふくめ、日頃のプレイの荒っぽさを反省する。
「相手のシュート成功率の低さに助けられているな」
試合終了間際、零美があえぐように言った。
結局、十三対十一で、柊達が逃げ切った。柊にとっては想像以上の苦戦だった。零美の言葉通り、シュートミスに救われた格好になった。柊達は、ディフェンスでは負けていたかもしれない。
「どうですか、感想は?」
斯波は息をあえがせながら、聞いた。悔しさをにじませているが、どこか吹っ切れたような顔つきをしていた。柊の気持ちを少しは判ってくれたのかも知れない。
「腕をあげたわね。それに、三人のコンビネーションも完璧だし。本当のチームプレイってのをみせてもらったような気がする。ウチの部って、味方だとちょっと物足りないけど、敵に回すと厄介な相手だったんだね。逆に感心しちゃった」
「ありがとうございます、キャプテン。勉強になりました」
斯波は左脇にボールを抱え、右手をこめかみに掲げて敬礼のまねごとなどをしてみる。日頃の生真面目さからは想像もつかない仕草だった。
「やめてよ、そういうのは」
柊は苦笑しながら手を振る。斯波も照れ気味に笑った。
「どうも先輩に感化されすぎたようです」
「もう。……貴女達は影響を受けないようにね」
柊が、これからどうなるのか不安げな顔をしている部員達のほうを見ながら、おどけ口調で声を掛ける。
「さて。はやいとこ退部届を書かなきゃな。すっきりさせたいし、みんなもそのほうが――」
「キャプテンが辞める必要なんてありません! そんなつもりでここに来た訳じゃありません」
斯波が柊の言葉を遮った。悲鳴のような声だった。
他の部員達も柊の周りに集まってくる。口々に辞めないで下さい、と言い募る。
「でも、見たでしょう? 私はもう、貴女達を率いて戦うことなんて出来ない」
「そんなことはありません。私達、きっと、キャプテンのことを誤解していたんだと思います。キャプテンの言った自主的っていう言葉を……」
「キャプテン達は、ホントに息があっていました。仲間の動きも、その実力も、手に取るように理解して、自分の判断を信じて動いていました。私達はキャプテンの指示が無ければ何も出来なかった。だから、こんな有り様です。ですけど、見捨てないでください!」
「もっと、高いレベルを目指します。キャプテンが見せてくれたおかげで、私達に何が足りないのか判りました。ですから、もう少し、私達を引っ張ってくれませんか」
それまで黙っていた岡田がわざとらしい咳払いをした。
「なかなか良い部員が揃っていると思わない? このコ達の言うとおり、まだバスケット部には貴女の力が必要だと思うよ」
「私はただ、自分のしたいようにやっただけなのに。バスケット部のことを思ってのことじゃ……」
「結果オーライですよ。良いじゃないですか、それで」
斯波が微笑んだ。
「しょうがないなあ」
柊はおかしそうに言って、それから照れくさくなった。顔を背けて手にしていたバスケットボールを思い切りコートに叩きつける。思わず潤みそうになっている目で、大きく弾むボールを見上げる。
「日頃の試合に比べたら、たった五分のゲームじゃ物足りないでしょ? もうワンゲーム、付き合わない?」
「そうですね。見てただけのコには、いまいち通じてないかも知れませんからね」
落ちてきたボールを受け取った斯波が再び微笑んだ。日頃の肩の力が抜けた、良い笑顔だと柊は思った。
その日は、日が暮れるまで柊達はゲームに興じた。零美もケイトも、西蘭高バスケット部員達と組んで、入れ替わり立ち替わりでゲームに参加した。
柊は、技術では劣ってもひたむきにボールを追う部員達の姿を見て、自分の胸の奥にあったわだかまりが消えていくのを感じていた。それは同時に、零美達との別れが近づいていることを切なく予感させた。
(十)
そしてその日はやってきた。
短めだった梅雨が開けようとする七月初めの土曜日。
柊は公園のバスケットスペースまで、いつものようにジョギングで向かった。
休みの日であれば、スリー・オン・スリーをやることは西蘭バスケット部員達に「公認」されることになっていたので、気が軽い。
零美とケイトは既に顔を見せていた。しかし、普段とどこか空気が違う。あの、溢れるほどの覇気が感じられない。
「どうしたの、二人して浮かない顔して」
顔を上げた零美とケイトがしばし互いの顔を見合わせた。どちらから説明するか目で会話したようだった。
「やっぱさあ、柊は学校のバスケに戻って良かったと思うんだ」
口を開いたのは零美だった。傍らでケイトも大きくうなずいている。
「ワタシもそう思う。キャプテンがチーム放り出す、よくない」
「よく言うわね、この不良ガイジンが。で、なに? 二人して私をチームから追い出したいわけ?」
柊が言う。零美とケイトが肩を落として、また互いの顔を見合わせて目配せする。
「この間も言ったけど、これってホントに踏み絵だったよね……」
零美が四つ折にしたパンフレットをポケットから取り出し、視線を落とす。嶋崎からもらった、スリー・オン・スリーの大会の案内だ。
「なにを訳のわかんないこと言ってるのよ」
「ごめん、柊。私達、黙っていたことがあるんだ」
零美が顔を上げた。真剣な顔つきだった。
「え?」
「ケイトは親に放蕩ぶりがバレて国に強制送還されることになったんだ。ボクも一学期限りで、また転校でここを離れるんだ」
零美が無理矢理に喉の奥から押し出したような声を出した。寂しそうな顔だった。
「つまり、柊がたとえバスケット部を辞めていたとしても、どっちにしろチームは解散だったってこと」
両肩が抜けるような脱力感が柊を襲った。
「……そうだったの。それで、あんなに部に残るようにって」
「なんか、言いづらくて。ボクは、柊とケイトの三人でつるんでるのが、本当に楽しかったから」
こんな歯切れの悪い零美を見るのは初めてかも、と柊は思った。小柄ながら存在感に満ちていた零美が、急に体格相応に小さく見えた。
「らしくないなぁ、零美。もっとカラっとしてなきゃ」
柊の言葉に、零美が肩をすくめた。それから頭に巻いていたオレンジ色のバンダナを外し、柊の手に乗せた。
「これ、記念にとっといてよ」
「いいの? 何かの縁起担ぎじゃないの?」
「そんな大したもんじゃないけどね。ボク達がチームだったって証。またいつか一緒にバスケをやろうよ」
「いつか、ね。本当にそんな日が来るかな」
「先のことは判らないって。ボク達が出会ったことだって、予想も付かなかったんだから」
柊を見上げる零美は片目をつぶってみせた。
コートには、他のチームの姿もちらほら見え始めていた。
「さあ、最後の一日。いつものように、思い切り楽しもうよ」
気分を切り替えるように、零美が明るい声を出した。
柊はもらったばかりのオレンジ色のバンダナを自らの頭に巻いた。
「似合う?」
「うん、ボクよりはちょっと負けてるけど」
零美が言い切る。くすくすとケイトが笑っている。「似合わない」と言いたげだったが、柊は気にしなかった。
その日一日で柊達は五試合をこなした。一度も負けなかった。
(十一)
夏。市立体育館。
県大会の初戦。西蘭高バスケット部員は、コート上でウォーミングアップをしながら心身共にテンションを高めていく。体育館の中には熱気が満ちていた。無風状態なのが辛い。
「夏の太陽に照らされるのも地獄だけれど、これも酷いな」
試合前から既に額に汗を浮かべて、柊は苦笑する。その言葉を耳にした斯波も肩をすくめていた。
「好きでやってることですから」
「それを言われると立場がないな」
チームメイトの輪から離れた柊はスポーツバッグの奥から、オレンジのバンダナを取り出した。そのバンダナは部員達にとっても見覚えのあるものだった。
意味ありげに微笑み、柊はそれを頭に巻く。小さな呟きが漏れた。
「見ててよ、零美。最高のプレイをしてみせるから」
西蘭高女子バスケット部が、個人技ではいまいち見栄えのしないチームであることに変わりはない。仕方なかった。このチームには零美もケイトもいないのだから。
だが、今までとは違う。チームプレイに汲々とする必要は何もないのだ。いちいち柊に指示されなくても、それぞれが自分達の判断で動くことが出来るようになっている。そして、五人の判断はお互いを理解した上で、一つにまとまっている。それがバスケットの醍醐味、本当のチームプレイというものだった。
零美とケイトは、そのことを柊達に教えてくれた。
「気合いいれていこう!」
自らに言い聞かせるような声を発し、柊がコートに戻る。
ジャンプボールで試合がはじまった。ジャンパー二人の互角の競り合い。ボールが弾かれた。相手チームの眼前で跳ねたボールを柊がかすめ取る。西蘭高のフォワード二人が相手コート内に切り込んでいく。
自らもドリブルして相手リングを目指す。相手ディフェンスが立ちふさがる。柊は迷わず右に突っ込むふりをしつつ、ボールを背中に回して左手のドリブルに切り替え、左へと重心を流して振り切った。零美のプレイを間近でみて、練習を重ねてようやく身につけたバック・チェンジだった。
「取るぞ、この一本!」
叫びあげながら、低いドリブルで柊は鋭く突っ込む。零美のように。
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