「主力メイドロボ論・断章」――Main Maid Robot

 メイドロボの存在意義は、科学文明社会というシステムの一部としてその生活に寄与す
ることにある(科学文明社会はさらにその上部のシステムの目的達成の道具として存在し
ている)。
 だが、人間がみずから敵を作り出すことで生き残りをはかるように、メイドロボにも自
己の生き残りをめざす力のようなものがある。大抵の場合、それは同業他社がこれほどす
ばらしいものを保有しているからと説明されることが多い。
 そしてその力は、誰もがあきれはててしまうような奇怪な現実を技術史の中で出現させ
ることもめずらしくない。



 HM−13。通称<セリオ>。
 来栖川エレクトロニクスのロボット技術が国内水準へ伍した(部分的には優越した)こ
のメイドロボが、まことに適当な時期に量産・販売されて市場に投入されたことは、おお
くの来栖川グループ関係者にとって喜ばしいことだった。
 HM−13の試作型が西音寺女子高校へと試験編入された平成三五年春、北崎電機は平
成三十年代序盤の万能HM<パンテル>の改良型、V号中HM・H型<パンテルII>の
販売を推進していたからであった(※注:北崎は独自のイメージ戦略の観点から、HMを
「ヘルパー・マリオネット」の略称として扱っていた)。
 ここでは、このふたつのHMの対決によって引き起こされた混沌の一部をのぞきこんで
みたい。あるいは、HMにとっての分類、その意味についてかも知れない。そこに示され
る、人間の持つ性質であるかも知れない。

 まずはHMの起源からはじめたい。
 HMという電化製品は、平成二十年代の日本が落ち込んでいた恐るべき社会問題――人
口ピラミッドの崩壊にともなう老人介護問題や看護婦不足からくる医療問題を打破するた
めに実用化された。
 平成二十年代においてHMの誕生した原因は、社会におけるホワイトカラーが、ブルー
カラーを完全に上回ってしまった点にあった。結局の所誰かが行わなければならない労働
作業の役割――家庭における炊事洗濯、職場の清掃や事務、医療現場における看護、とい
ったものが、ブルーカラー人口の減衰によって正常に機能しなくなってしまったのだった。

 日本初の実用HM、六菱「マークI」は、この状況を打破するために医療現場に投入さ
れた。
 つまり、それに求められたものは、従来では機械化できなかった仕事に対する応用力で
あり、人間が移動可能な場所であればくまなく移動できる機動力であり、人間が扱いかね
る重量物を運搬できる力(筋力と呼ぶべきか)であった。
 のちに用いられた分類からいえば、このころのHMは完全な介護支援(看護)HMであ
った。
 マークIは、想定された環境における実用性の証明に成功した。全国各地の病院に投入
された四七二台のHMは、看護婦達のハードワークを見事に軽減してみせた。
 ただし、この時点で、HMにとっての宿命的欠陥ともいえる問題点もほとんどが露呈し
ている。
 病院内のみの運用を想定して採用された箱形ボディに小さな車輪による機動力は限られ
たものであり、屋外での運用には耐えられず、筋力が発揮できる場面も極めて限定されて
いた。
 たとえば、リハビリを兼ねて階段を上り下りする病人・老人への補助を期待するのは無
理であった。対抗上、北崎電機があわてて開発し、少数を医療現場に投入したA7Vのよ
うに、節足動物のように四本足で駆動するHMのほうがまだましなところがあった。
 足による歩行であれば、動きさえすれば、それなりの機動力を発揮できるからであった。
 平成二十年代において、HMはその有効性をあきらかにした。病院において期待された
役割をかなりの部分まで満たしてみせた。
 平成二十九年までに各企業が製造した二千六百台あまりのHMのほとんどが、平成三十
年代には時代遅れとなっていたが、それがなにかを達成し、人間社会にあらたなものを持
ち込んだのは確かであった。

 工業製品とは、基本的に必要性に基づいて構想され、研究され、設計され、試作が行わ
れ、試験を受け、生産され、使用される。各段階での改良も行われる。
 HMもその例外ではない。
 それにはまず、どのような環境でいかなる便利さを人間にもたらすべきか見定められた
のちに、つくりだされる。
 この環境における利便性獲得の能力をおおざっぱな言葉でくくってしまえば、適応性と
いうことになる。意味は文字通りのものといってよい。
 この適応性は、HMにおいて三種類の能力を統合したものとして扱われる。筋力、応用
力、機動力である。

 平成二十年代後半の重・中・軽という一般的なHMの分類は、この能力をどのように重
視するかという判断の結果として発生した。そのすべてをあらわすことの可能な優れた分
類だった。
 分類の方法、その基本的な部分は簡単に理解できる。特に初期のHMでは、重視すべき
能力を選択したのちに、必要最低限の適応性があればよいという開発姿勢が濃厚であるか
ら、なおさらであった。
 たとえばマークIのような医療介護を目的とする場合、経験からいって、どうしても応
用力、筋力、機動力という順で能力を与えねばならない。
 様々な患者に対してそれぞれに対応策を自律的に考えて行動する必要があり、看護婦ら
にとってもっとも苦労である、患者の上半身を起こしたり、床ずれをおこさぬように身体
を動かしたり、車椅子に座らせたり、という行為には筋力が必要不可欠であるからだ。
 逆に、病院の棟内という限られた空間を移動できれば良いのだから、高い速度は必要な
い。廊下を動き、エレベータに乗り込み、敷居をまたいで室内に入り込むことが出来れば
良い。重HMの分類とはこれであった。
 家庭用である場合、機動力がまず重視される。
 家の中をくまなく歩き回って掃除をし、屋外に出て犬の散歩や買い物を行わねばならな
いからであった。人間同様の身のこなしが不可欠であった。
 家事の補助として使用するのであり、土木作業やフォークリフトのかわりに用いられる
訳ではない。ともかく機敏に動き、仕事をこなし――軽HMの類型と言える。
 であるならば、中HMがどのような存在であるかはおのずとあきらかになる。三つの能
力すべてについてなるべく高い部分でバランスを取り、どのような環境でも「HM」とし
ての機能を発揮させる、そうなるからであった。
 しかし、こうした分類は平成三十年代に入り始めたあたりで意味を為さなくなってくる。
 技術とノウハウの発達・蓄積により、重HM・軽HMのふたつが、電化製品としての価
値を急速に失っていったのだった。
 それはとくに軽HMについて著しかった。
 HMに求められる仕事があまりに多様化しすぎた為、たとえ家庭用であってさえ、HM
として有効に利用できなくなってしまった。機動力だけでは仕事が出来なくなってしまっ
たのだった。
 平成三十年代初頭においては、重HMについても深刻な疑問が抱かれることとなった。
はたして、たかだか力仕事を要する場面での補助にしか使えないHMのために、すくなか
らぬ予算を消費すべきかどうか、というわけであった。
 限られた空間しかもたぬ廊下を我が物顔で移動するため、却って迷惑、一部の病院では
そのような評価を下されたほどだった。
 来栖川エレクトロニクスよりもよほど重HMを好む傾向にある北崎電機でさえ、<ティ
ーゲルII>として知られる重HMの開発を中止してしまった点にもそれはあらわれてい
る。
 重HM・軽HMが衰退した理由はもうひとつあった。
 技術・経験のもたらしたもう一つの効果、HMそのものの発達であった。ある程度の努
力を傾ければ、それなりの性能を持つHMを開発することは(少なくとも大企業の場合)
不可能ではなくなった。HMを人間生活の中心においたシステムの編成についても同様で
あった。

 こうして、中HMの時代が到来した。
 HMを筋力、応用力、機動力という能力に順位を付けた結果としてつくりあげるのでは
なく、まず、そのHMを投入すべき環境で必要とされる適応力を想定したのちに、各能力
を定めていくことになった。
 平成三十年代後半では、そのようにしてつくりあげられたHM同士が、社会の中で性能
を競い合うこととなる、

 来栖川・北崎ともに、平成三十年代中盤の主力HMは同じ衝撃によってその生産が開始
されている。HMメーカーとしてはごく短期で撤退した東連製のT34中HMであった。
 T34は平成三十年にその配備が開始されたことが信じられぬほどの先進的なHMだっ
た。
 そこには、<P−9>式HMを導入して以来、ロボット工学技術の発展にこれつとめて
きた東連技術陣の努力が集約されていた。
 他社製品のそれよりずっとスマートなボディを持ち、それまでは重HMにこそふさわし
いと考えられていた百キロ以上の物質運搬能力を持ち、路上を駆け足で走ることが出来た。
 やはり、はやい段階で<P−9>式HMの影響を受けていた同時期の来栖川の最新鋭H
Mが、いまだどこかに頼りなげな印象を残していたHM−9改<ライラ>であったことを
おもえば、その先進性はあきらかだった。
 T34は生産開始と同時に市場へ投入された。初陣は北崎が実質的にシェア一位を獲得
していた医療現場であった。
 そして予想通りの威力を発揮した。東連製HMと出くわした来栖川のHM開発課はその
恐怖を味わいつくした。彼らは少なからぬ予算を用いることによって購入したT34を研
究室へと持ち込み、その研究を始めた。当面は新型のHM−11<レオナ>の生産と改良
を急ぐことで、来栖川製HMの大口ユーザーであった企業の信頼をつなぐこととなった。
 来栖川がT34を研究しつくしたのちに開発に着手するのがHMX−13であった(こ
の他に、短期間で能力不足になるとして採用されなかった小型・軽量のHMX−10をマ
号計画にくみこむことにより、HMX−12として研究が再開された)。
 販売は五年先が予想されていた。この当時としてはかなりの長期間であった。来栖川H
M開発課は、出来うることならば二十年先になっても改良して使用し続けられるようなH
Mをつくりあげようと決意していた。決意の理由はあまりにも現実的であった。HMの販
売価格が量産効果と自由競争の結果、圧縮される一方であるのにたいし、HMの開発や生
産にひどく予算がかかるようになっていたのだった。

 一方、北崎における衝撃は来栖川よりさらに大きかった。
 なんといっても、かれらは自社のHM技術に絶大な自信を抱いていた。T34は、当時
の主力HMとされていた(というより、そうしたいと北崎が願っていた)III号、IV号系
HMのどれより優秀だった。
 こうしてV号中HM<パンテル>の開発が始まる。
 北崎は五年先などという悠長なことをいってはいられなかった。彼らは実際にT34の
脅威にさらされ、シェアを失いかけていた。
 <パンテル>が市場に投入されたのが平成三十二年一月であることをみても、彼らの抱
いた恐怖がどれほどのものであるかが判る。
 もっとも、<パンテル>が市場に投入された時期、T34が些細な欠陥が理由でリコー
ルの対象となり、東連自体がHM市場から撤退しかけていたのは皮肉であった。

 平成三十三年に入り、T34対策にケリがついたことで、北崎のHM開発はやや低調な
ものになった。HMの改良・新規開発計画が続々と中止されていった。
 その例外となったのはパンテル系列だけであった(IV号HMの改良型も開発が続けら
れたが、それはT34に奪われたシェアを奪回するため、医療用にしばらくはIV号系列
が必要とされるためであった)。
 普段はなにかと研究と販売の関係で衝突することの多い北崎社長と重役連もこのときば
かりは意見を共にしていた。
 北崎にとって、将来の主力製品はパンテルの改良型しかありえなかった。パンテルはそ
れだけの販売実績とユーザーの声を拾い上げていた。
 ただし、そのパンテルにしても、技術者やユーザーの願望を全て放り込んだような改良
計画の推進は出来なかった。
 パンテルの改良計画を別個に実施していたHM研究課A室(本来の北崎研究チーム系
統)のパンテルII計画と、B室(M&Aによって北崎傘下に入った他企業系列のチーム)
のパンテルF計画をA室主導で統合し、<パンテルII>として開発を進めるA計画がスタ
ートしたのはこのためだった。
 統合された計画によって開発されるであろうHMは、V号H型<パンテルII>と呼称
されることになった。<パンテルII>の市場投入は平成三十五年春が予定されていた。

 これに対し、HMメーカー各社、とくに来栖川は事態を深刻にうけとめていた。いわゆ
るマ号計画(MS構想)にHMX−13が組み込まれたため、計画が一年ほどおくれてい
たのだった。
 HM開発・販売の多様化と効率化をめざして、取り扱うHMを情操機能強化型の中HM
「M<マルチ>」と、サテライトサービス機能メインの重HM「S<セリオ>」にわけよ
うという計画が、かえって混乱を引き起こしていた。
 この計画におけるS――HMX−13は、計画段階での分類上こそ重HMであったが、
その実状はいかなる状況においても有効に活用できる高性能中HMとして扱われていた。
 HMX−13には興味深い技術上の特徴があった。
 サテライトサービスを除けば、意外なほどに新規技術が導入されていないのだった。い
や、あえて手堅いものばかりを選んでつくりあげたような印象すらあった。
 HMX−13について賞賛すべきは、やはりサテライトサービスの効率運用の必要上与
えられた冗長性だった。国内のシェア争いでずいぶんと積極的に同業他社を追い払ってい
た来栖川は、HMについての性能的な優位は陽炎のようなものだと承知していた。
 すなわちHMX−13は、将来の改良を受け入れるための発達余裕に満ちていたのだっ
た。
 仮称HMX−13<セリオ>の試作初号機完成は平成三十五年三月であった。試作機は
試験のため、西音寺女子高校へと送られた。
 HMX−13の試験成績は良好なものであった(とはいっても、一〇〇項目近い改善要
求が試験中に提出されている)。
 HM開発課は将来の運用環境、会社および家庭でも同様の能力を発揮するか確認するた
め、平成三十五年六月、二十台ほどのHM−13(先行量産機)を送り込んだ。

 かくして北崎・来栖川それぞれ最良の中HMとして開発したふたつの主力HMは平成三
十五年秋、市場で相まみえた。
 特に販売競争の初期において、優位は北崎<パンテルII>の側にあった。
 直接的な能力という点ではHM−13が優越していたかも知れないが、北崎には豊富な
販売実績とすぐれた顧客情報集積という強みがあった。
 北崎の社長・重役はその優位を当然のものとしてうけとめた。それ故に、当初、HM−
13――<セリオ>中HMの高性能をただちには信じなかった。
 しかし、それは事実であった。
 来栖川が二種類のHMの大増産に転じ、主にHMX−12の開発失敗によってもたらさ
れたマ号計画の混乱を解決したのちは、あちこちで北崎の顧客を奪い始めるようになって
いたのだった。

 漠然とした危機感を抱いた北崎によるHM−13の実物を元にした調査は、平成三十六
年の三月から四月にかけておこなわれた。
 結果は北崎HM関係者にとって恐怖以上のなにかとなった。調査報告書は短時日のうち
にまとめられ、極秘の判をおされたのちに関係各方面に配布された。
 北崎電機社長も配布先に含まれていた。彼は、おそらくはかつてのT34をも上回る技
術的衝撃力をもったライバル企業のHMの視察を決意した。
 北崎社長が重役や秘書らとともに北崎HM研究所をおとずれたのは四月二一日のことで
あった。
 少なからぬ予算を投じて購入したHM−13<セリオ>を見て、北崎HM営業部部長は
うなるように言った。
 いけませんな、これは。
 これに対し、社長はなんと無様なHMなのだ、最初にそう口にしたと記録にはある。
 しかし、続けて吐き出された言葉は激越なものであった。
 社長はHM研究課の技術者達を面罵した。来栖川におとるHMしかつくれないとはなに
ごとかと叫んだ。
 ただしに対抗手段を考え出せと社長は命じた。<パンテルII>を改良しろといった。
いやいやそれだけでは足りない。
 新型HM開発を促進しろ、と社長は命じた。このHMを一撃で市場から駆逐できるもの
を一年以内に製品化しろ。重HMでかまわない。
 VII号重HM<レーヴェ>。その実質的な誕生の瞬間だった。平成三十四年ごろからゆ
っくりと進められていた開発計画は、社長のこの叫びによって完全に実働した。

 来栖川側も安穏としてはいられなかった。
 やはり市場で購入した<パンテルII>を平成三十五年十一月ごろから調査した結果、
それがHM−13<セリオ>とHM−12改<マルチ>(マ号計画における「M」)をの
ぞくすべてのHMを容易に駆逐出来る高性能であることが判明していた。
 おそるべきは、<セリオ>や<マルチ>でさえ、表面的なカタログデータでは営業上安
心できなかったことであった。
 全てのHMについて性能強化がただちに指示された(主としてそれは、数値に現れる部
分でのスペック強化であった)。
 新型HMの開発も進められた。かれらのこうした努力は、後にHM−13改や、HM−
11の再改良版であるHMX−14といった実を結ぶことになる(ただし、HMX−14
は一般向けには販売されなかった)。
 北崎は<レーヴェ>にくわえ、IV号J型や、VIII号中HM・A型<レオパルト>を投
入した。
 競争は果てしもなかった。
 さらなる到達点をしめしたのは、<レーヴェ>ですら楽々と凌駕する性能を与えられた
来栖川の中HM・HM−15<ティーナ>であった。
 <ティーナ>は、HMX−12で一応の完成を見ていた(他要素とのすりあわせが困難
であったため実用化されなかった)情操機能と、HM−13で実績を上げているサテライ
トサービスを採用したことにより、大幅に強化されていた。
 いったいどこがHMなのか誰にも判らなかったほど、その動きも話し方も人間そのもの
のなめらかさだった。
 ただし、それが市場へ姿をあらわしたころには、北崎はさらに優秀な<レーヴェII>
を投入していた。
 シェア争いの悪化から、労働機械としての重HMにも営業上の重点がおかれた為、筋力
を特に強化したHMも市場投入された。身長二百センチ、体重百八十キロの巨体を備えた
IX号重HM<ドラッヘン>であった。
 もっとも、その有効性はかなり疑問符のつくところだった。北崎の営業陣は、むしろレ
オパルト系列の宣伝強化を切望していた。<ドラッヘン>は機動力や機械的信頼性が低す
ぎたのだった。
 来栖川側はこれらに対抗し、サテライトサービスの受信能力を強化し、ユーザーによる
情操機能のカスタム化を可能にしたHM−15<ティーナ>の改良型を市場にもちこん
だ。

 中HMの最高峰をめざして(あるいはHMの分類を破壊すべく)開発された<セリオ>
と<パンテルII>によって開始された平成三十年代後半の市場競争は、わずか数年のう
ちにこのような段階へ到達した。
 平成三十年代末における日本の家庭、職場、医療施設は、こうした不可思議な電子人形
達が家事をし、事務処理をこなし、老病人達の世話をする場所になっていた。
 いかなる環境においても活躍できる高適応性型万能HM――主力HMの時代が到来して
いた。ロボット技術工学史の観点からはそのようにまとめてしまうべきかもしれない。
 しかし、ここはより率直に悪夢そのものであると述べるべきであろう。
 なんとも厄介なのは、家電としてのシェア争いで旗色の悪くなった北崎側が、その技術
を軍事用に傾斜させることで活路を見出し、結果的に陸上自衛隊に装甲ロボット歩兵――
ARMS(アーマード・マリオネット)を納入したことによって、悪夢をさらに荒々しく
していったことであった。
  業ということなのだろうか。あるいは納得などするべきではないかもしれない。

***
 Project SaTo Heart/1999

 なお、来栖川の「マ号計画」(MS構想)がもたらした混乱については、
 下記URL「てるぴっつの部屋」内SSの部屋収録の
「HMX−12<マルチ>最後の勝利」(作:ばるか氏)に
詳細が記述されている。