『Sweep! カーリング娘と雪女』
第四話




 (八)


 『レディ・レックス』のメンバーをのせたミニバンが、淡海村へと通じる山道を走っている。一応は中央分離線のあるれっきとした幹線道路なのだが、左右から木々の枝が頭上から灯の光を遮るように大きく張り出していることもあり、人跡未踏の地にでも迷い込んでいきそうな雰囲気がある。
 枝の先端がミニバンの屋根に触れ、ガサガサと鳴った。
「こりゃ、この調子だと淡海村ってのは想像以上の田舎ですよ、加賀井先輩」
 耳障りな音に反応して、ミニバンの一番後ろの席で周防美晴が頓狂な声をあげた。
「そうね」
 周防の前の席に座る加賀井愛里は、気のない返事をかえした。彼女は窓に映る自分の暗い表情を見つめながら、千雪のことを考えていた。
(長野から、こんな遠いところにまで出ていくほどに千雪が悩んでいたなんて、気づかなかった……)
 千雪の苦しみを思うと胸が潰れそうに痛む。元々、カーリングに千雪を誘ったのは他ならぬ愛里なのだ。
 愛里自身がカーリングを始めたのは、小学校四年生の時だった。
 その頃の愛里は、自分に何一つこれといった取り柄がないことに毎日思い悩んでいた。
 容姿には全く自信がなかった。赤みがかった癖毛は特に嫌いだった。勉強も得意ではないし、運動だって人並みかそれ以下で、体育の授業でも目立たない。
 そんな彼女にとってカーリングとの出会いは、運命的だった。
 もっとも、さほど劇的なものではない。たいして興味もないままに従兄弟の不破に誘われて地元のチームに参加した際に、周りの大人達から上手だと誉められただけの話だ。
 だがそれは、愛里にとっては特別な出来事だった。
 そこにいる限り自分が特別な存在でいられるのなら、たとえ客観的に見て見栄えのしない競技だろうが、関係なかった。それ以上の動機は、愛里には何も必要なかった。
 それからしばらくの後。
 カーリングによってアイデンティティを見出し始めていた愛里は、学校の休み時間に、校庭の鉄棒に腰掛けている千雪を見つけ、一つの決心をした。
 千雪は両手でしっかりと鉄棒をつかみ、鉄棒の上でバランスをとり、分厚い雲が張りつめた空を見上げていた。
 まもなく三学期も終わりの三月半ばとはいえ、吹き付ける風は切れるように冷たい。
 艶やかな千雪の黒髪が風の動きにあわせてなびいている。が、表情からは全く寒そうな様子は伺えない。霜焼けの気配すらみえない肌はどこまでも抜けるように白い。
 その横顔を見上げ、愛里はしばし見惚れる。
(やっぱり、美人だな……)
 愛里にとって、千雪は初めて同じクラスになった時からずっと、気になる存在だった。
 もっとも、同じクラスになってもうすぐ一年が経とうというのに、愛里はこれまでまともに千雪に声をかけたことすらない。
 これまでは、まっすぐに顔を見ることすらためらってしまっていた。千雪はあまりにも整った面立ちで、綺麗な髪の持ち主で、誰もが羨望のまなざしで見つめる存在だった。
 自分とはつり合わない。だから友達になんてなれない。
 これまではずっとそう思っていた。愛里がそんな気持ちでいることを知ってか知らずか、千雪から言葉をかけてくる事もなく、話をするきっかけすらなかった。
(だけど、今は違う……)
 愛里は小さな手をぎゅっと握りしめた。頬が紅潮しているのは風に吹かれているからだけではなかった。ありったけの勇気を両足に注ぎ込んで、千雪の元に歩み寄る。
 空を見上げていた千雪が、愛里の足音に気づいて顔を向けた。
 真っ正面から目があったのは、この時が恐らく初めてだったであろう。
 怪訝そうな顔で見つめてくる千雪に向かって、息を吸った愛里は声を振り絞った。
「ねえ、カーリングって知ってる?」

 山道を抜け、視界が開けたところでバスの中に曇り空から薄日が差し込んだ。光の加減で鏡状になっていた窓ガラスから自分の顔が消え、愛里は我に返った。
(今にして思えば、あの切り出し方はないよね)
 七年も前の出来事だというのに、今でもつい苦笑を浮かべてしまうほどの恥ずかしい第一声だった。が、結果的にその一言がきっかけとなって千雪もカーリングを始めるようになり、二人が『レディ・レックス』のサードとスキップとして共にプレイするに至ったのだから馬鹿にも出来ない。
 それに、今の自分は、あの時の自分とは違う。愛里は自らを励ますように心の中でそう付け加えた。
 自分に自信を持てている。ルックスは十人並で、赤い癖毛は相変わらずだが、体つきはカーリングを続けてきたせいかそれなりに引き締まったものになっている。もちろん、千雪の足下にも及ばないが、少なくともコンプレックスを抱くほどではない。
 そして『神の視点を持つカーラー』の呼び名は、自分に誇りを与えてくれる。
 それもこれも、千雪と共に歩んできたから。今の自分があるのは千雪のお陰だ。
「あ、加賀井先輩、あれですよ、あれ。ただの倉庫みたいですけど、きっとそうです!」
 周防が弾んだ声をあげた。
 彼女は愛里より一つ年下なのだが、仕草や舌足らずな言葉遣いは年齢以上に幼さを感じさせる。最後席にいる周防が「あれ」と指さしても、前にいる愛里にか伝わらないことに考えが至らないらしい。
 薄く笑った愛里は無言で小さく頷き、口元を引き締めた。
(もうすぐ、千雪に会える)
 愛里はこのときになって、初めて千雪に声を掛けたときと同じか、あるいはそれ以上に緊張している自分に気づいた。掌がじっとりと汗ばんでいた。
 その思いを振り払うように、後席の周防に向かって向き直りながら尋ねる。
「千雪のあだ名って、覚えてる?」
「えっと、確か『雪女』でしたね。あんまり響きが良くないから、ご本人の前では言ったことはないですけど」
 唐突な質問に、周防は首をすくめながらこたえた。
「どうしてそんなあだ名が付いたか、知ってる?」
「いえ」
「大事な試合の日には、いつも雪が降ったのよ。だから雨女ならぬ雪女って訳」
「なるほど。……ですが、チームのメンバーはいつも同じなんですから、なにも初島先輩が雪女とは限らないんじゃないですか?」
「まあそうだけどね。雪女は美人と相場が決まってるのよ」
 真面目くさって言い切る愛里に対し、周防が探るような上目遣いになる。
「っと、その……。こういう場合、はいそうですね、とか答えたら、怒ります?」
 やや素直すぎるところのある周防は、普段から愛里によくからかわれている。予防線を張るのは経験から来る当然の反応だった。
 愛里は苦笑して首を振った。
「千雪が美人なのは事実だから仕方ないでしょ。民話の雪女のルーツは長野だし、民話では猟師との間に子供をもうけてるぐらいだから。わたしはあのコが雪女の子孫だと言われても信じるけどね」
「はぁ」
「今日はさすがに雪が降るとは思えないけど、ちょっと曇り気味だし、雨ぐらいなら降ってきそうな雰囲気じゃない?」
 言うだけ言って、愛里は身体を前に向け、座り直した。後席では、冗談か本気か計りかねた周防が、しばらく目をしばたたいていた。

 淡海村の名の由来には諸説ある。
 村の東に五百郎池という大きな池があり、これを淡水の海と称していたという言い伝えもあるが、実際の五百郎池は湖と呼ぶのもはばかられるような大きさしかなく、あまり説得力がない。
 最も有力なのは、淡路島が見える村、すなわち淡見村から来たというものだった。実際、自動車で海まで一時間近くかかる場所にありながら、村の北東部の高台からは淡路島が望見できるポイントがあるのだった。
 今でもその場所からは、天気が良ければ海に浮かぶ島影と明石海峡大橋の姿が見える。

「ふぅむ……、まだか?」
 次第に分厚く空を覆いはじめた雲の下、カーリングアリーナの屋上にジャージ姿の人影がある。メンテナンス用のハシゴを使って登った空音だった。右手でアリーナ正面の壁から伸びる旗竿を手すり代わりに掴み、左手を額にかざしている。
 眼下では、和子が「危ないから降りてきなよー」と呼んでいるが、空音の耳には全く届いていない。
 空音はなにも、淡路島を拝んでやろうと屋上に登っている訳ではない。
 彼女の視線は山並みの向こうではなく、幹線道路を左折してアリーナへと通じる緩やかな登り坂になった農道に向けられている。
 わざわざアリーナの屋上にまで登ったのは、少しでも早く『レディ・レックス』の到着を見届けたかったからだ。
 もっとも、いち早く見届けてなにがどうなるというのか、本人にもよく判ってない。ただ、強敵来襲を間近にして、じっとしていられないだけだった。
「おっ。たぶんアレやな。来たでーっ」
 やがて、空音は見慣れない車種のミニバンが農道に入ってきたのを見て、なんの確証もないまま大声をあげた。
 その声が下にいる和子達に届いたのを、見上げている生徒達の動きで確認すると、自分の役目は終わったとばかりに、ハシゴを伝って地上に降りる。
「判ったから、そんなに浮かれないでよね、恥ずかしいからさ」
 和子が顔を赤らめて抗議するが、空音は全く意に介さない。
「しゃあないやん。ウチらにとっての初試合の相手やねんで」
 テスト期間中は精彩を欠いていた空音だが、テストをどうにか切り抜けた後は、俄然元気が有り余る状態になっている。
「それとアリーナの屋上に登るのと、関係があるとは思えないけど」
 和子も今回ばかりは、いつものことか、で済まさない。わざわざ長野からやってくる人たちに、自分が空音と同類と見られてはたまらない。
「まあ、ええやないの」
 いつもながら、空音が相手ではらちがあかない。和子は自然と千雪に助けを求める目を向けていた。
「ねぇ千雪……。わたし、さっきから緊張しちゃってしょうがないんだけど」
「怖い人はいませんから大丈夫ですよ。それに、あくまでも親善なのですから、勝ち負けは二の次です。カーリングを楽しんでいただければ……」
 千雪は、どことなく歯切れの悪い口調で応じる。その表情が曇っているのに気づいて和子は胸を痛めた。
 高野村長や木村学園長でさえ、千雪が淡海村にやって来た本当の理由を知らない。恐らく、千雪がなにか人に言えない思いを抱えている事に気づいてすらいないだろう。
 かつての仲間達と再会したときに何が起こるのか、和子には想像もつかない。
 もし、千雪がなんらかのトラブルが原因で、長野から逐われる形で淡海村に来ているのだとしたら、遺恨がぶり返す可能性もありうる。
(とにかく、喧嘩とかになったら絶対に千雪を守ってやらないと)
 和子はそれだけを繰り返し繰り返し、胸の中で呪文のように呟いている。とはいえ、つかみ合いの喧嘩などに関わった経験は全くない。
 決意とは裏腹に、身体中が震えだかしびれだか判らぬ妙な感覚につつまれて、意図したとおりに動いてくれそうもない。
「お、なんや、ワコも武者震いか?」
 空音が、こんな時だけ目敏く訊ねてくる。
「そ、そんなんじゃないわよ」
 喉に引っかかりそうになる声をそう絞り出すのが、今の和子にはやっとだった。
 学園の生徒だけでなく、親善試合があると聞いて練習に顔を出していた村人達が興味深げに見守る中、ミニバンが駐車場に停まった。
 側面のスライドドアが開き切るのを待ちかねるように、私服姿の女性が次々と降りてくる。写真を千雪に見せて貰っていた和子は、それぞれの顔と名前を一致させることが出来た。
 愛里が真っ先に千雪の姿に気づいた。目があった瞬間の両者の反応は対照的だった。息を呑み、顔を背けた千雪に対し、愛里は満面の笑顔になって駆け寄ってきたのだ。
「千雪ーっ! 会いたかったよぉ」
 皆があっけにとられるなか、愛里は千雪の胸に飛び込んでいた。
「あ、愛里さん……!」
「どうやら元気にしていたようで、なによりだ」
 コーチの不破が進み出る。愛里に肩を抱かれた状態のまま、千雪が小さく頭を下げる。
「はい、おかげさまで。淡海の皆さんも、とても良くして下さりますので。その……。愛里さん、少し、苦しいです」
「あ、ごめん」
 愛里は、千雪に軽く背中をぽんぽんと叩かれ、名残惜しげにその胸から離れた。
「千雪が抜けたお陰でいろいろ大変よ。リザーブから美晴を抜擢しないといけなくなって、大変だったんだから」
(この人が、加賀井さん? なんか、千雪の話とは雰囲気が違うような……?)
 そのやりとりを後ろで見ていた和子は目をしばたたいた。写真だけでは性格まで見抜けない。千雪の話しぶりから、もっとクールな雰囲気をイメージしていたのだ。
 それに、なにかのトラブルが原因で喧嘩別れをするような形になっていたのであれば、もっとぎくしゃくした再会になるだろうと考えていた。最悪の場合、顔をあわせた途端に喧嘩になることも覚悟していただけに、嬉しい拍子抜けではあった。
「へへっ、先輩、おひさしぶりです。加賀井先輩には、しごかれっぱなしで大変です。やっぱりサードってそれだけ大事なポジションなんですよね」
 後頭部に手をやり、愛想笑いを浮かべた小柄な選手がへこへことしながら千雪の前に出る。チーム最年少の周防美晴だ。
「周防さんにもご迷惑をおかけしました」
「いや、迷惑だなんて、そんな――」
「でもまあ、千雪ほどではないにしろ、このコもいいもの持ってるから。鍛えればそれなりに、ね」
 言いながら愛里が周防の背を思い切り叩いた。げふっ、と声をあげて周防が言葉を詰まらせる。それをみて愛里が楽しそうに笑う。
(この人達には、わだかまりとか全然ないみたいだし、どうなってるの?)
 遺恨と呼べるものは何も無かったのかも知れない。だとすれば全部、和子の取り越し苦労だったということになる。しかし、だとしたら千雪の暗い表情と、はしゃいでいるかつての仲間達とのギャップが説明が付かない。
 和子が戸惑ってる間に、千雪が先頭に立って『レディ・レックス』の面々をアリーナの中へと案内していた。見守っていた村人もぞろぞろと続いている。出遅れた和子は慌て気味に後を追った。
「へえ、結構本格的なんだ。いいよなぁ、専用リンクなんて。私たちだって持ってる訳じゃないのに」
 リンク後方の通路に足を踏み入れ、三面のシートを一望した愛里が羨ましげな声を上げた。周りにいる他の選手達も驚きの表情であちこちを見回している。
「環境はおそらく日本でも屈指だと思いますわ」
 説明する千雪の口調も誇らしげだ。
 そこへ、簡単な歓迎式典を準備していた高野村長が嬉しげな表情を隠さずに近づいてきた。『レディ・レックス』の来村に際しては、せっかくの機会であるからという高野村長の提案で、短時間ながら講習を行ってもらう事になっていた。
 控え室でしばらく休憩の時間を取った後、式典が始まった。
 これまでカーリングを体験していない者も含め、五十名ほどの村人がリンクに集まっていた。その人数をざっと確かめた村長が、マイクの前に立った。
「このたびは、淡海学園の特待生である初島千雪さんのご縁で、遠路はるばるお越しいただいたカーリングチーム『レディ・レックス』の皆さんに、心から歓迎の意を表したく思います」
 そう言って、高野は実際に『レディ・レックス』の面々に向けて頭を深々と下げる。村長としてさまざまな行事に顔を出し、交渉事にあたってきただけあって、泥臭いながらも演説には慣れている。 
「まだ我が村のカーリングは普及の第一歩を踏み出したばかりですが、いずれは長野や北海道にも劣らぬカーリングの王国として、オリンピック級の選手を輩出する地になっていくと私は確信しております。ぜひ村の皆様には、今回の講習で技術的なものだけでなく、一流チームの心がけといった精神的なものも含めて、多くのことを学んでいただきたいと思います」
 景気の良い挨拶にぱらぱらと拍手が起こる。
「この村からオリンピック選手を出すだなんて、どれくらい先の話かしらね」
 和子が思わず小声で呟く。
「そう悲観したもんでもないやろ。ウチは出られるものなら出てみたいけどな。ワコはどや?」
「わたし?」
 目を輝かせた空音に逆に尋ねられて、和子は返事に窮した。今までそんな話は真剣に考えたことすらない。だが、その為に千雪が転校してきたのだから、真っ向から否定するのもためらわれた。
 結局、否定も肯定もできないうちに、高野村長に入れ替わるようにして不破コーチが前に出て、再びの拍手によって会話は断ち切られた。空音はさほど気にも留めていない様子だったが、和子にとってはこの問いかけが後に重要な意味を持ってくることになる。
「暖かい歓迎、ありがとうございます。カーリングはまだまだ知名度の低い競技です。私どももこういった機会に慣れておりませんので、ご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、よろしくお願いします」
 謙遜気味の言葉とは裏腹に、背筋の伸びた不破の態度も堂々としたものだった。
「カーリングを村おこしに、という村長さんのアイデアは、一見すると突拍子も無いように思われるかも知れませんが、子供からお年寄りまで、どんな人でも簡単に楽しめるスポーツとして、カーリングに注目されたのは正解だと思います。どんな団体競技でも、チームプレイの大事さを謳わないものはないでしょう。しかしながら、カーリングにおいてはひときわ重要な意味を持つ、と私は考えています。なぜなら、今日お集まりいただいた皆様は、カーリングの基礎についてはもうご存知だと思いますが、一回のショットを放つ時ですら、リードの指示と二人のスイーパーの力なしには、決して狙った位置にストーンを運べないからです」
 全員が常に協力し合うのがカーリングの素晴らしさであり、このスポーツにより親しんでいただくお手伝いが出来れば非常にうれしく思います、と不破が挨拶を終えると、さきほどより一段と大きな拍手が起こった。
 その後、和子が写真でみたのと同じデザインの、赤とオレンジと白、三色に彩られたジャージに着替えた選手たちが、それぞれ簡単な自己紹介を行った。

 和子達カーリング部は講習の参加者というよりも、むしろ千雪を中心として『レディ・レックス』の手伝いに回ることになっていた。しかし、実際には参加者と一緒になって感心するばかりだった。
 講習会はなごやかななものだけでなく、ぴんと緊張感が張り詰めた雰囲気の中で行われた。空音いわく「あんまり不細工やと、千雪の面目が丸つぶれや」と考えているからだ。それは和子も同感だった。
 千雪から教わった基本的なプレイについては、基礎の出来ている参加者の多くがそつなくこなしてみせた。なかでもゆかりがみせた荒削りながらも鋭いショットには不破コーチはじめ、『レディ・レックス』の面々も感心するほどで、和子はうれしくなった。
 もっとも、当のゆかりはつまらなさそうな表情を隠さない。
 「呼ばれたから仕方なく来たけど、講習が終わったらすぐテニス部の練習に戻るから」と、手伝いにも熱心ではない。
 カーリング部員である前にテニス部の副主将という立場が優先されるのはしかたないことだから、和子としてもあまり強く注意は出来かねた。いやむしろ、一流どころのプレイに目を奪われていて気にとまらなかったというのが正確かもしれない。
 愛理、左右田、山根、周防の四人が「模範演技」として正確なショットを見せつける。
 不破コーチの冒頭の挨拶の通り、いくら千雪が優れたプレイヤーでも、一人だけでは最高のショットは放てないのだという事実を、あらためて肌で理解する。
「こういうのが本物なんだね。わたしたちのは真似事だったのかな」
 ため息混じりに呟くと、空音が眉間にしわを刻んで首を横に振った。
「そうでもないって。その気になったらウチらでも出来る」
「とてもそうは思えないけど」
 どこまでも強気な空音に、和子はうなずけなかった。

 講習を終え、親善試合を行う前に休憩時間がとられた。『レディ・レックス』の四人に割り当てられたロッカールームにジュースの差し入れを持っていった和子は、中から聞こえてきた千雪のものらしき声を耳にして、思わずノックしようとした手を止めていた。
 旧交を温めているだけなら気兼ねすることもないだろう。だが、言葉こそ聞き取れなかったが、千雪の口調はかなり緊迫したものだった。
 和子は反射的に身構え、息を殺して耳をそばだてていた。場合によっては喧嘩の仲裁に入る必要もあるだろう。収まりかけていた不安と緊張が一気に蘇ってくる。
『けど、人材に恵まれていなかったら、いくら設備が整っていても腕が落ちちゃうよ。やっぱり強い相手と戦ってないとさ』
 愛里の冷ややかな声が、かすかに廊下まで聞こえてくる。
『それは……』
『ごめん、千雪……! 私が悪かった!』
 別の声が割って入った。左右田の声だ。
『左右田さん……。いきなり、どうされたんです?』
『千雪は悪くない。そんなことはあの時だって判っていた。判っていたのに、あんまりにも悔しくて千雪につらく当たってしまって……。転校したくなるほど千雪を苦しめるつもりなんて無かった。すまないっ!』
『もう、その事はいいですから。そんな風に謝られると、わたくしも困ってしまいます』
 喧嘩にはなりそうにないが、これは相当に深刻な内容の話らしい。和子はペットボトルを抱えたまま、中に入るきっかけを失ってしまった。
 そこへ、ひょっこりと空音が顔を出した。
「なにしとるん? 千雪も来てるんか?」
「しっ!」
 顔をしかめて口の前に人差し指を立てた和子に、空音は興味を惹かれたらしい。足音を殺してロッカールームの前まで来て、事情の判らないまま和子の横で聞き耳を立てる。
 中では、思いがけない方向に話が向かっていた。
『じゃあ、長野に戻ってきてくれるのね。良かった……』
「え?」
 和子と空音は思わず顔を見合わせていた。
『だから、私たちの事を許してくれるんだったら、もうここにいる必要はないでしょう。次のシーズン、今度こそはみんなで優勝しましょう』
『初島先輩にはまだ教えてもらわないといけないことがたくさんあります。今のわたしには、どうやっても初島さんのかわりにサードのポジションはつとまりません』
 周防の声が追い打ちをかける。
 和子は息を詰めて千雪の返事を待った。
『待ってください。……それは、出来ません』
 静かながら凛とした千雪の声が、ドアの向こうから聞こえた。
 まさか拒絶されるとは思っていなかったのか、愛里達の声がしばし途切れた。
『どうして? 今度こそ、リーグ戦で優勝してA指定をもらわないとオリンピックに出るのは難しくなる。私達には、千雪の力が絶対に必要なのよ」
 それまで無言だった山根が仲間の思いを代弁するように言った。
『ですがわたくしは、自分の意志でここに来たのです。今になって、淡海の人たちを裏切るような事をする訳にはいきません』
『裏切る? そりゃ、ここの人たちには迷惑をかけることになるよ。けど、だからって遠慮してても仕方ないじゃない』
 感情を押し隠す意図的な演技なのか、それとも本心をさらけだしたのか、愛里の声は冷たく乾いていた。
『そんな……』
『第一、ここにいたって腕がなまるばっかりよ。いくら設備があっても、結局大事なのは人だから』
『そんなことはありません。みなさん、熱心にカーリングに取り組まれています。淡海村はいずれきっと、日本有数のカーリング王国になります。わたくしはその手助けをしていきたいのです』
『どうしても、戻らないというの?』
『申し訳ありません。確かにあの試合が、ここに来たきっかけでした。みなさんに顔向け出来ないと思っていたのです。ですが、淡海の皆さんが懸命にカーリングの技術を学び取ろうとしている姿をみて、ただ勝ち負けにこだわるだけがカーリングでないと思うようになりました。それに、わたくしはここにいても自分の腕がなまるなどとは考えていません』
「せや。だいたい、いきなりなんなんや。来た途端になんちゅう話をするんや!」
 我慢しきれないといった風情で、空音が前置きも無しにロッカールームのドア越しに喚いていた。和子が制止する間もなかった。
「ちょっ、空音ってば!」
「アンタらと千雪の間に何があったかは知らんけど、帰りたくないって言うとる千雪を渡す訳にはいかんなぁ!」
「……じゃあ、これからの試合で決めようか」
 ドアが開いた。中から姿を見せた愛里は、頭半分低い空音を見降ろして、うっすらと笑みさえ浮かべながら思いがけないことを口にした。
「試合で?」
「そう。練習を始めてから、もう二ヶ月は経ってるんでしょ。全くの素人ってことはないわけだから、もしあなた達が試合で私たちを負かすぐらいの実力の持ち主なら、千雪の言ってることにも納得出来ると思うの」
「そんな……。たったの二ヶ月で、勝てるはずが――」
 後ろから思わず発した千雪の言葉は、愛里の鋭い声に断ち切られた。
「たったのってことはないわ。二ヶ月もの間、毎日のように練習していたんでしょう? 全国のカーラーがうらやむほどの環境だわ。逆に、初歩の初歩ばかりに携わっていたら千雪の腕が落ちていて当たり前だけどね」
「ですが」
「こっちだってベストの状況じゃないのよ。公式戦からはリーグ戦以来離れているし、千雪が抜けた代わりに周防が入ることになってるけど、まだこの子、危なっかしいから」
 愛里が周防の肩を揺さぶる。周防は照れ笑いを浮かべながら同意するように頷く。
「それでも戦えないってんなら、やっぱりここにいる意味はないよ」
 左右田が千雪の肩に手を乗せて静かな口調でささやく。千雪はそれに対する返事を持ち合わせていないのか、うつむいて黙り込んでしまった。
 千雪の代わりに応えたのは、愛里達の物言いに腹立ちが収まらない空音だった。
「おっしゃー、やったろうやないけ!」
 受けて立った空音の言葉に、愛里は待ってましたとばかりにうなずいた。
「じゃ、あなた達もはやく準備することね。……千雪、また後でね」
 思い詰めた表情の千雪がロッカールームから出てドアを閉める。
 それを見届け、和子は空音に喰ってかかる。
「ちょっとお! だいたいなんでこんな大事なことを、自分一人で簡単に決めちゃうわけ? 信じられない」
「売られた喧嘩や。買わんでどうする。だいたい、向こうは本場やからってふんぞり返りよって。馬鹿にするにもほどがあるっちゅうねん」
 空音は頬を膨らませて悪びれる様子もない。
「腹が立ったのはわたしも同じだけど、こんなの無茶だよ」
「それに、あの加賀井とかいうヤツの胸は気にくわん。やっぱりカーリングをやっとる連中は胸がでかくなるんか? ウチらかて二ヶ月やっとるのに、なんにも変わらん。むかつく」
「もう、こんな時に馬鹿なこと言って……」
 和子は額を抑えた。一方で空音の鼻息は収まらない。
「馬鹿でも無茶でも、やるしかないやろ。どっちにしろ試合をすることになっとったんやからな。で、メンバーはどうする? 和子は出る気あるか?」
「こうなっちゃったら、しょうがないでしょう」
 和子は頭痛をこらえて顔を上げた。こんなことで千雪を奪われる訳にはいかない。無謀な賭けだとは思うが、だからこそ他の誰にも任せたくない。
「わたくしも参加いたします」
 千雪が静かな声で言った。
「千雪……。大丈夫?」
「親善試合の筈でしたから、皆さんに高いレベルを体験していただこうと思っておりました。ですが、これはわたくしの進退がかかった試合です。自らの手で針路を決めるのは当然でしょう」
 千雪の厳しい顔つきからは、かつての仲間と敵味方に分かれて試合をすることの迷いは伺えない。空音が大きく頷く。
「まあ、実際のところ、千雪抜きでは戦えんやろ。古巣相手でやりにくいやろうけど、期待しとるで」
「あと一人ね。どうする?」
「そんなもん、ゆかりしかおらんやろ」
 それほど熱心ではないとはいえ、ゆかりの実力は和子も実際に目にしている。それが順当な選択だろうと和子はうなずいた。
「そうね。いま、どこにいるか判る?」
「そら、講習会の後はテニス部や、って言うてたから、テニスコートに戻ってるやろ」
「そうだった。じゃあ、呼びにいこっか。千雪はここで待ってて。すぐ連れてくるからね」
 千雪をその場に残し、和子は空音と共に学校のテニスコートまで駆け戻った。

「どうして、アタシが出なきゃならないのよ」
 テニスウェア姿でコート上に居たゆかりは、空音と和子に呼びつけられて事の経緯を説明されると、むっとした表情をみせた。
「ほかにおらんもん」
 と、空音が身も蓋もない言い方をする。ゆかりの表情がいっそう険しくなった。
「それだったら、なおさらお断りよ。人の人生を左右する大事な話なのに、カーリングの試合で決めるなんでばかげてる。それに、員数あわせに借り出されて、負けたらアタシの責任にされたらたまらない」
「そんな」
 いい顔はしないだろうとは予測していたが、ここまではっきりと拒絶されるとは思わなかった和子は途方にくれてしまう。そんな和子の方を空音がぽんぽんと叩く。
「ワコ、ここはウチがなんとかするさかい、先に戻っといてか」
「判った。あんまり怒らせないようにしてよね」
 なんといってもゆかりとの付き合いの深さを考えれば、空音に任せるしかないのだろう。後ろ髪を引かれる思いはあったが、残してきた千雪のことも気になり、和子はアリーナまで戻った。
「どうでしたか?」
 やはり心配だったのだろう、こわばった顔つきの千雪が尋ねてくる。
「大丈夫。すぐ、空音が連れて来るから」
「ルール上は、三人でも試合が出来ないこともなかったんだけどね」
 二人のやり取りを冷ややかなまなざしで眺めていた愛理が口をはさんでくる。
 しばらく和子達がアリーナのシート後方にあるベンチで待っていると、空音に伴われて、更衣室で再度ジャージに着替えたゆかりが不満顔を隠さす姿を現した。
「どうやって説得したの?」
 胸をなでおろしながらも不思議に思い、和子は小声で空音に尋ねる。
「奥の手を使うた。出来ればやめときたかったんやけどな」
 なぜか、そう答える空音も不機嫌そうだった。
「奥の手だなんて、いったいそうやって説得したのよ」
「ウチのおとんに言いつけたる、って言うたった」
 口を尖らせる空音を前に、和子はどう反応してよいものか、少しのあいだ言葉に詰まってしまった。
「なによ、それ。いまどき、子供の喧嘩でもそんな台詞言わないでしょ」
「ええやろ、それでゆかりが試合に出てくれるんやから」
「わかった。確かに、いまはとやかく言ってる場合じゃないものね」
 和子は無理に自分を納得させた。

「どないしたんや、いったい」
 親善試合のはずが、『レディ・レックス』の面々と、淡海学園カーリング部員が揃って緊迫した空気を孕んで向かい合っているのをみて、高野村長が首を不審げな声を出した。
「ああ、村長。試合ですよ試合。ちょっとばかし、ただの親善試合では収まらんようになりましたけど」
 取り繕うように空音が早口で言う。
「ん……?」
 首を傾げる高野の前に不破が進み出た。
「私たちもはじめからこのような真似をするつもりで来た訳ではないのですが……」
 不破が一連のいきさつを説明する。特待生の千雪が長野に帰ってしまうかも知れないと知って、さすがに高野も顔色を曇らせた。
「全ては初島さんの気持ち次第やろうな。どうなんやろ、初島さん。君は本当は長野に帰りたいんか?」
「それは……」
 千雪が不破と和子達の間に視線を泳がせて言いよどむ。
「ダメですよ。千――初島さんは義理堅いから、自分でどっちかなんて選べないんです」
 見かねて横から和子が千雪の肩を持つと、高野はやれやれと言った風情で顎を撫でた。
「せやったら、そちらさんの言うとおりに試合で決着をつけるより無いやろうな。その決め方がどうあれ、本人の意思を尊重するよりないからな……」
 高野は自らに言い聞かせるように呟いた。


 第五話に続く

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