新世紀エヴァンゲリオン外伝
『おとぎの国のレッドサン』
特別編――『修学旅行最後の一夜』 後編
NEON
GENESIS
EVANGELION
SUPPLEMENT EPISODE:X-b
Shoot at the Moon!
(1)
23:25。『レッド・ウィンダム』船室。
鋼鉄製の扉が開く。中の全員が身構えたところで、レイが部屋の中に突き飛ばされて入った。
「大人しくしていることだな」
捨てぜりふと共に扉が閉まる。それと同時に、レイはおぼつかない足どりで二、三歩よろめき、その場に崩れ落ちた。
「おい、しっかりせぇや!」
トウジが慌てて抱きかかえる。柔らかい感触に、トウジは戸惑った。
(女の身体ちゅうのは、こないに軽いモンやねんな)
レイが顔を上げた。焦点の合わない、潤んだ瞳でトウジの顔を見つめる。と、彼女の両手がトウジの首に絡んだ。
「わ。おい!」
「碇……君……」
(――!)
レイの小さな呟きは、トウジの耳にしか聞き取れなかった。
「いやーんな感じ。この非常時に……」
ケンスケが、げっそりした顔で言った。眼鏡が半分、顔からずり落ちている。
「ほらほら、いつまでもくっついてるんじゃないの!」
ヒカリが強引にレイの身体を引き離し、ゆっくりと床に横たえる。ヒカリの顔が真っ赤になっているのが、薄暗い室内でもはっきりと見て取れた。トウジは気づいていないが。
「綾波さん。大丈夫かしら……」
ほとんど意識のないレイの顔を覗き込み、ヒカリが不安そうに呟く。
「綾波もそうやが、ワイら、これからどないなるんやろな?」
トウジが壁にもたれて座り込んだ。ケンスケが丸窓の傍により、夜空を見上げた。
「どうも、南に向かってるみたいだな」
「なんでそないな事が判るんや?」
「星の位置と月の動きを見れば判るよ」
「サバイバルゲームで鍛えた成果、ちゅう訳やな。相変わらず役にたたん知識やけど」
「だから、そういう冷静な突っ込みはやめてくれよ……」
思わずケンスケが泣きを入れるが、同情する者は皆無だった。
23:45。航空自衛隊厚木基地。
最初に顔を合わせたときアスカは、こいつはファースト・チルドレンの兄貴かなにかだろうか、そう思った。EVA専用大型輸送機の操縦士はそれほどまでに無表情で寡黙だった。
爆撃機をEVA輸送専用に改造した巨大な全翼機、B−4E『ブラックフォートレス』は本来真っ黒な外観をもっている。機体を構成する炭素繊維の地肌がむきだしになっているからだ。
だが、今はその機体下面には、夜目にもまばゆい銀色の塗装が施されている。レーザー対策であった。独十二式自走臼砲のレーザー砲の破壊力を基準に行ったシミュレーションによれば、高度一万二千メートルでレーザー砲の直撃を受けた場合、0.5秒間は耐えられると計算されていた。
「撃たれる事を前提に作戦が立っているんでね。まあ、エヴァは頑丈に出来てるから、どうという事はないだろうが」
操縦士は最小限の言葉でアスカにそう説明すると、さっさと操縦席に乗り込んでしまった。
作戦開始から三時間以上もあった。機体のチェックその他が必要な操縦士とは違い、アスカに必要なのは、緊張感を維持して作戦開始を待つことだけだった。
「ヒカリ、絶対に助けてあげるからね。……優等生、死んでたら殺すわよ」
慌ただしい出撃作業の中、後半部の意味不明な独り言を気に留めた者はいなかった。
00:20。『レッド・ウィンダム』。
「分析結果が出ました」
艦橋のFFの元に、研究分析室に詰めるシムズ博士の通信が入った。
「よし、直ぐに向かう」
FFはスプラグーを連れて艦橋を出た。
コンピュータが静かなうなりを立てる研究分析室では、多くのディスプレイが素人には理解できないグラフを映していた。部下の研究員達にあれこれと指示を出していたシムズ博士は、FFを最敬礼で迎えた。
「専門的解析は抜きだ。結論から聞く」
「はい。かなり高い確率で、『ゼロ計画』の推進は可能と判断いたします」
「よし。零号機パイロットをこの部屋へ」
「はっ」
スプラグーは急ぎ足で研究分析室を後にした。
00:55。太平洋上。
戦略輸送潜水艦『おだわら』(艦番SSC−9001 九万八千トン)。
全長四百五十メートルという、旧日本海軍の戦艦『大和』の倍近い、馬鹿でかい船体を持つ潜水艦が凪いだ海面上に船体をさらしていた。『細長い消しゴムのような』と言われる事の多い船体形状を持つが、その詳細は例え昼間であっても船上にいる者が実際にその目で確認することは困難だった。それほど大きいのだ。
余りにもだだっ広い平面な上面部を持つため、この潜水艦には揚陸艦あるいは潜水空母としての機能が与えられているのではないか、海外の軍事専門家はそう評していた。が、実際には全くの過大評価だった。このフネは純粋に、戦略物資の運搬を目的に建造されている。潜水艦であるというのは、水上艦の造波抵抗を嫌ったのと、小規模な武装集団からの海賊行為を逃れる、それ以上の意味はなかった。
それ故、推進機関も独特のものがある。液体酸素とメタンを燃焼させる燃料電池である。燃費はともかく、速度性能はせいぜい十二ノットしか出ない。運動性能も図体のせいで最悪の一歩手前。とても軍事目的には使えそうもない。自衛隊が開発を主導しているのは、自らが為すべき海上護衛の負担を減らす為という、あまり健全とはいえない発想に基づくものだった。
だが、彼らにイレギュラーな仕事が与えられる事となった。とんだ災難を持ち込んだのは、勿論ネルフである。
「全く、ネルフってのはとんでもない連中だよな……」
船体全長の後部から六分の一ほどの位置にある司令塔に登る艦長は、先ほどからぶつくさ文句を言い続けていた。副官はこの気むずかしい艦長の扱いを心得ている。適当に相づちをうつ。これが一番。下手に逆らうとロクな目に遭わない。
「大体なあ、こいつはまだ公試の真っ最中なんだぞ。自衛隊の装備年鑑にも載っとらんようなフネを『徴発』だなんて、何考えてやがるんだ……」
「艦長ー! 方位3−0−0、赤外線感知装置に反応あり! 『デカブツ』が来ますよ!」
艦長以下、司令塔に詰めていた要員が指示された方向に注目した。やがて月明かりに照らされた物体が視野に入ってきた。
「呆れたな……」
全長百五十メートル、最大直径三十二メートルの巨大飛行船が空に浮かんでいた。胴体下部からはチタン製のフレームが左右に張り出され、その先には片側三機、つまり六機のタンデムツインローター・ヘリが連結されている。十二式長距離重量物空輸専用飛行船『ATLAS』の勇姿だ。気嚢の横腹にはゴシック体で『陸上自衛隊』と大書きされている。
そして、中央から幾条ものワイヤーでつり下げられている物こそ、彼らの待っていたデカブツ――エヴァンゲリオン初号機であった。
初号機は艦首よりの甲板にゆっくりと降り立った。輸送機からダイブさせたのではとてもこう静かには降りられない。甲板を踏み抜くのがオチだった。だからこそミサトはこの飛行船を徴発したのだ。
シンジは既にエントリープラグ内に乗り込んでいる。甲板から転げ落ちないよう、慎重に姿勢を低くしていく。
続いて、一緒に運ばれてきた燃料電池の補助動力装置が降ろされ、初号機の後ろで設置作業が開始された。
「お手数をおかけします」
作業が急ピッチで進む中、部下を甲板に整列させたリョウジは、への字口で司令塔から降りてきた艦長と対面した。
リョウジはアラミド繊維性の黒づくめの防弾スーツを着込んでいた。保安部に便宜的な指揮権を委ねている、本来は陸上自衛隊に所属するチルドレン警護用の特殊部隊『トップチーム』”刀”小隊の二十名も同様だった。
リョウジは手にH&K−MP5SD6、腰にはマチェットをつるしていた。彼の部下の装備はまちまちだった。大抵の者は、AKMやXM177E2など、年代物とも言える装備を持っていた。コンバット・ナイフのほうも様々で、なかには何を考えているのかククリ・ナイフを腰に下げている者もいる。
「ドンガメにようこそ」
艦長はこの異様な風体の一団を前にしても、さして驚いた様子を見せなかった。
「この手の突入作戦の指揮官ともなれば、全身から殺気を迸らせているもんかと思っていたが……。自制しとるんですか?」
「いえいえ。元からこういう性格なんですよ」
リョウジは軽い調子で答えた。
「ま、どっちでも構いませんが。人質になっとるのは、あのデカブツのパイロットの――」艦長は、前傾姿勢をとって上甲板にしがみつく初号機を見上げながら言った。「クラスメイトだそうですな。あの坊主と、そのお仲間を幸せにしてやって下さい」
補助動力装置の設置に二十分を要した。補助動力装置のお陰で、初号機はケーブルを接続した状態であれば三時間活動できる。ただし、ケーブルの長さに余裕が無いため、戦闘時には切り離さざるを得ない。
「シンジ君、しばらく独りで寂しいだろうが、みんなを助ける為だ。我慢してくれよ」
船体中央にある昇降口から船内に入るリョウジは、ふと初号機を振り仰ぎ、独り言を呟いていた。 やがて上甲板が波に洗われ始めた。『おだわら』の潜航はゆっくりしたもので、初号機の姿が海面から消えるのに九十秒を要した。
02:10。レッド・ウィンダム『研究分析室』。
レイの頭部には、インターフェイス・ヘッドセットの代わりに、ヘルメット型の神経接続インターフェイスが付けられていた。
彼女の瞳はぼんやりと前をみたままで、表情にはいつもにもまして精気が無い。
「私の声が聞こえているかね?」
「……はい」
レイはゆっくりと頷き、抑揚のない声で返事した。
「これからは、我々の命令に従うのだ。ネルフは敵だ。憎むべき敵だ」
「ネルフは、敵……」
呟くように反復する零号機パイロットを前に、FFとシムズ博士は会心の笑みを見せあった。
「『ゼロ計画』というのは、つまり……」
スプラグーが蒼白になって呟いた。
「そう。さっきの自白剤は、自我を失わせる効力がある。投薬量を調整し、適切な暗示を与えれば、無条件で命令に従わせる事が可能だ。我々は、エヴァンゲリオンだけでなく、宝石よりも貴重なパイロットをも手中に収めるのだ」
シムズ博士の言葉に、スプラグーは息を呑んだ。どうかしてるとしか思えなかった。
(2)
02:20。戦略輸送潜水艦『おだわら』。
初号機を乗せた『おだわら』は、這うような速度で深度百メートルの海中を進んでいた。夜でもあり、この深度では何も見えない。エントリープラグ内のシンジは、闇に覆われた世界の中で、自分と自分を取り巻く環境について思いを巡らせていた。
……アスカは僕よりも百倍は優秀なんだ。みんなもそのことは良く知っている。なのにどうして、アスカは僕と張り合おうとするんだろう? いや、どうして僕のほうが戦功を挙げる事になってしまうんだろうか。運、かな。いや違う。じゃあなんだろう。
……ひょっとしたら、人を殺してしまうことになるのかな。嫌だな。でも、綾波や、クラスのみんなを助ける為なんだから。……。やっぱり嫌だ。人を殺したくなんてない。もしそんなことになったら、綾波はどう思うだろう?
別に感謝してもらいたいなんて思わない。……助ける、絶対に助けてみせるよ、綾波。
自らが何かの役に立てるという証明、それに勝る喜びはない。シンジは口を固く結び、来るべき瞬間を待ち続けた。
02:55。高度一二〇〇〇メートル上空。B−4E『ブラックフォートレス』。
闇は海中だけにあるわけではない。月明かりがあるとはいえ、夜空も闇の世界にはちがいない。
地上からそれを見たものがあれば、UFO以外の何物でもないと思っただろう。
鏡のように景色と光を反射する銀色の塗装を施された全翼機は、異様な姿を夜空にとけ込ませつつ、一路『レッド・ウィンダム』上空に向かっていた。
弐号機のエントリープラグでは、彼女の独り言がとめどもなく漏れ溢れている。
……全く、何もかもが気に入らない。一番気にくわないのは、あのバカシンジ。誰も彼もが、私がバカシンジに何か『好意のようなもの』でも抱いているんじゃないかと思っている。どうして? ミサトが言ってたわね。日本のことわざ。『嫌よ嫌よも好きのうち』だっけ。はん。バッカじゃないの? 嫌は嫌に決まってる。
そうは言いつつも、彼女の頬は赤く染まり、頭の中からはシンジの面影が片時も離れなくなっていた。勿論、アスカは気づいていない。
アスカは作戦開始までのカウントダウン表示に視線を送った。もう五分となかった。
……ふん。バカシンジ。万一しくじってみなさいよ。裸で浅間山の火口に放り込んでやるんだから。
02:57。ネルフ中央作戦室発令所。
スクリーン上には、問題の貨物船のシンボルマークを中心とした位置関係図が映し出されている。二つのマークが次第に中央に接近していく様を、ミサトは息を詰めて見守っていた。マヤが相変わらず的確な情報を伝え続けているが、ミサトの耳に届いている様子はなかった。
「リツコ、汎用人型決戦兵器の『汎用』たる所以、見せて貰うわよ」
スクリーンを見たまま、ミサトが気負った口調で言った。
「私に責任を転嫁する気? 私はハードを提供しただけよ」
対照的にリツコは涼しげな顔で応じた。ミサトは黙って苦笑を浮かべた。むしろ、リツコの調子がいつも通りであることに、安心感を覚えたのだった。
02:58。『レッド・ウィンダム』艦橋。
艦橋の指令席に陣取るFFは、仰臥する零号機を見つめていた。一体この巨人にどれほどの価値があるのか、本当のところFFには理解できないでいた。だがそれが、日本、UN、ネルフといった連中を慌てさせることになるなら、十分に彼のプライドを満足させ得るものであった。電源供給用の補助車両も奪取しているから、後はパイロットの都合さえつけば、いますぐにも起動できるのではないかとFFは考えていた。
「シムズ博士。『ゼロ計画』の進捗状況は?」
FFが無線で研究分析室のシムズ博士に聞く。
「順調です。順調すぎるくらいで」
「慌てる必要は無いぞ」
FFはにんまりとして言った。
「ええ。本部に引き渡す頃には、実戦投入も可能かと」
「素晴らしい」
感に堪えないといった表情の彼の元に、一層下のCICから報告が入った。
「ソナーに感あり。艦首方向より、何か巨大なものが接近しています」
「何かとは何だ。潜水艦なんだろう?」
「はい……。ですが。大きさは四百メートル以上。全高も異常に高くて。浮上してくる模様」
FFはCICに入った。対潜コンソールのディスプレイ上には、ソナー反応を元に描き起こされた3D画像が回転していた。ソナーマンの言うとおり、得体の知れない形状だった。
「何か判らんが、敵には違いない。浮上したときがこいつの最後だ。レーザー砲発射スタンバイだ」
「いつでもどうぞ!」
それぞれ前後のレーザー砲を担当する二名の砲手が元気良く応じた。メンバーの中で彼らが一番意気軒昂であっただろう。無理もなかった。今まで彼らの倒せなかったものはない。
彼らの強気がFFにも伝わり、彼は微苦笑を漏らした。実際、相手の出方は無様としかFFには見えなかった。
(潜水艦での奇襲? 無謀な……。懲りない連中だ)
FFはここまで来て、初めてと言っていい判断ミスを犯した。
対潜コンソールに張り付いていたFFを、後ろから呼ぶ声があった。
「真方位3−4−7より、航空機が接近しつつあり。高度一万二千。速度、九百五十キロ」
対空捜索レーダー担当のメンバーだった。声音に緊張が浮かぶ。
「やれやれ。立体同時多方向攻撃とはな。艦尾砲、迎撃態勢を取れ、発射スタンバイ。射程圏内に入り次第攻撃。問答無用だ」
「了解」
艦尾のレーザー砲が旋回、仰角を取った。レーザー砲手が向かうモニターには、フネを中心とした三次元画像の上に半球状のラインが引かれている。大気の減衰を計算したレーザー砲の有効射程圏を示すものだった。
侵入してきた航空機のシンボルマークが半球内に入り、マークの色が緑から赤に変わった。レーザー砲手はジョイスティックでカーソルを動かし、シンボルマークと重ねた。
「艦尾レーザー砲、発射します」
宣言しつつ、トリガを引く。砲塔から青緑色の光線が伸びた。
全翼機の右翼に、闇を切り裂いてレーザーが直撃した。その照射時間は0.45秒であった。衝撃音が響き、弐号機のエントリープラグにもそれは伝わった。
だが、全翼機はびくともしなかった。対レーザー塗装が奏効したのだ。
「これよりエンジン停止。墜落を偽装して降下開始します」
操縦士の言葉に、アスカはふと疑問を抱いた。すでに降下が始まっている。
「こっちはいいけど。この図体でエンジン止めてダイブして、リカバリー出来るの?」
「意外だね。心配してるのかい?」
操縦士のひくついた笑い。
「あたしはカミカゼ精神ってのが大嫌いなのよ。自殺覚悟なんてのはやめてよね。夢見が悪くなるから」
「こっちもプロです」
「……判ったわ」
ファーストにもせめて、これくらいの感情の機微ってのがあればいいのに。アスカはとりとめのないことを考えていた。
B−4Eは急降下爆撃のような角度で高度を下げていく。まさしく墜落だった。
「ドッキング・アウトまでのカウントダウン、よろしいか?」
輸送機のジャンプ・マスターが無線でアスカに問うた。
「いつでもどうぞ」
「了解。五、四、三、二、一。ドッキング・アウト」
弐号機の両肩を固定していたロックボルトが外れ、弐号機は宙に躍りだした。
「スクーバの次はスカイダイビング、か。これって結構、悪くない趣味よね」
独り言を呟く。ちらりと青色でデジタル表示された高度表示を見る。目にも留まらぬ速さで高度を失っているのが判った。赤外線暗視装置越しに、眼下の海面に伸びる航跡と、その先端にあるフネが見えた。
高度表示が赤色に変わった。アスカは弐号機の左腕を動かし、弐号機の背中から伸びた、電車の吊革を思わせるDハンドルを引いた。直後、巨大なパラグライダーが射出され、展開された。本来戦車や装甲車を空中投下する際に用いられる代物だ。弐号機はこれを二つ並べて装備していた。
首根っこを掴まれて引きずり戻されるような衝撃がアスカを襲った。歯を食いしばってそれに耐える。続いて、高度表示の変化率が緩やかになったのを確認する。パラグライダーは正常に展開されていた。
「さあ、いくわよ!」
02:59。『おだわら』発令所。
「人質の安全は考慮されてるんですかね」
艦長は緊迫した状況に不似合いな声でリョウジに聞いた。
「何とも言えないですね。人間の判断は合理的とは限らない。エヴァンゲリオンがなぐり込んでくる修羅場に、人質の頭をぶち抜いて回る余裕はない。そう判断してくれる事を期待するだけです。まあ、万一人質が――いや、エヴァ零号機のパイロットの身に何かあったら、ネルフの司令が黙っちゃいませんがね」
「そういうもんかね。いいさ。責任は俺が持つ」
「随分と強気ですね」
「艦長ってのは、そういう仕事なんだ。嫌になるよな、全く」
艦長はひとしきりぼやき倒した後、面倒くさそうに命令を発した。
「敵さんの鼻先に飛び出るぞ。メインタンク・ブロー。機関全速」
初号機を艦首付近の外殻に乗せた『おだわら』は、鈍重な船体を振るわせながら浮上を開始した。
「それでは我々は」
「ああ。健闘を祈るよ。くれぐれも、味方に踏みつぶされるような無様な真似はせんでくれよ。何しに来たのか判らなくなる」
「了解です」
リョウジは船首付近の脱出用昇降口に向かった。そこは確かに、初号機の足元といってよい場所だった。
発令所に残された艦長は自嘲した。潜水艦を踏み台にして目標の正面からつかみかかろうなんて。こんな作戦を考えやがったのは、一体どんな奴だろうかと彼は思った。
「間もなく艦首が海面上に出ます」
操舵手が報告する。
「補助動力装置停止。セイルを海面上に出すなよ、レーザーに焼かれるのがオチだ」
(3)
03:00。『レッド・ウィンダム』。
海面が盛り上がり、波頭を割って肩を怒らせた初号機の上半身が海面上に現れた。船首間近に浮上したその姿に仰天した艦首レーザー砲手が、FFの命令を待たずにレーザー砲をぶっ放した。
「うああ!」
シンジは、眼前を圧するように突っ込んでくる舳先に驚く間もなく、レーザー照射にさらされた。
すぐさまATフィールドを展開する。八角形の障壁がレーザーを浴びて浮かびあがる。弾かれたレーザーは放射状に広がり、一部は海面に触れて水蒸気爆発を発生させた。
相対速度は三十ノット近い。たちまち間合いがつまる。
初号機が『レッドウィンダム』の船首を両手で掴んだ。鈍い衝撃音。『レッド・ウィンダム』の船首がへこむ。船体が大きく震え、一瞬スクリューが海中から浮かび上がって空回りした。
「物理エネルギーはこっちのほうが上なんだぞ。押し負けるなよ……」
『おだわら』艦長が呟く。
その声に応えるように、初号機は『レッド・ウィンダム』を無理矢理停船させようと押し返し始める。だが足場が不安定な上に、三万トン以上もの大型船の慣性ともなれば、さしものエヴァでも簡単に押しとどめられるような相手ではなかった。
シンジは初号機の体重を掛けるように上半身を乗り出した。足を構え直す。足元で妙に柔らかい感触がしたが、彼は全く気にしなかった。
豆腐の上でタップダンスを踊るようなもんだな、発令所で指揮を取る艦長はこめかみにつたう汗を気にしながら、そんな例えを思いついていた。おぞましいことに、初号機が踏ん張り、足先に力を込める度に船体上部の外殻が軋み、歪み、浸水を起こしていたのだった。『おだわら』の上げる金属の悲鳴は、艦長のみならず乗組員全員にとって、断末魔の叫びに等しく聞こえていた。
初号機は左手だけで船首を抑えた。右手で左肩からプログレッシブ・ナイフを抜き、砲塔を台座から一撃で切断する。
一瞬、台座から送る宛の無くなった電力が、火花となって吹き出した。人間の首を切り落としたら、こんな風に鮮血が飛び散るのではないか。シンジは血が上りきった頭でそう感じた。
だが、かろうじて事前の打ち合わせを思い出す。足元を見た。甲板にしがみつく、黒ずくめのリョウジ達の姿があった。プログレッシブ・ナイフを肩に納め、右手を差し出した。
右手の掌に乗ったリョウジ達を、シンジは慎重に『レッド・ウィンダム』の船首に運んだ。
「とんでもない連中だ……」
『レッドウィンダム』CICで、船首付近の映像を凝視していたFFが呆れ返った。
人質をとっている以上、当然突入作戦があることは予想し、また警戒していた。だからこそ、Xバンドレーダーを搭載してパラシュート降下を見張り、舷側には特殊塗装を施して、簡単に這い登ってこられないよう工夫を凝らしていたのだ。
しかしそれも、エヴァンゲリオンの掌に乗って甲板に降りるなどという滅茶苦茶な行動の前にはなんの役にも立たない。
「白兵戦だ! 敵が侵入したぞ!」
FFはまだ諦めていなかった。だが。
「上空より接近中の物体を視認! エヴァンゲリオン、恐らく弐号機!」
見張り員の絶叫がCICを凍り付かせた。
「ネルフめ、手持ちの戦力を全て叩き込んできやがった!」
艦尾レーザーが、上空に向けて閃光を放った。だが、弐号機のATフィールドに弾かれ、明後日の方向に跳ねた。
FFは決断した。エヴァンゲリオンが相手では、これ以外に方法がない。
「例のパイロットを零号機に! 『ゼロ計画』発動だ」
「駄目です! 起動手順が把握し切れていません。第一、パイロットの洗脳がまだ30%しか完了していません。ショックを受けた場合、容易に『目が覚めて』しまいます!」
研究分析室のシムズ博士が即座に反対した。FFの目がつり上がる。
「では、それ以外にエヴァンゲリオンに対抗する手段があるというのか!」
シムズ博士に、反論の余地は無かった。研究分析室に拘束されていたレイは、直ちに零号機の元に連行された。
リョウジ達突入部隊は、闇に紛れて前部上甲板から船内に侵入を果たしたようだった。後は、アスカの着地まで、エヴァ初号機がフネを抑え込むだけだ。
シンジは船首を握りつぶさないよう、柔らかく押し返し続けた。と、視界の端で何かが動いた。
その正体に気づいた時、シンジは顔色を失った。
「あ、綾波!」
零号機が起動し、起きあがってきたのだった。
(どうやらシンジは、フネの行き足を止めてくれたようね)
アスカの視線は、『レッド・ウィンダム』の後部にあるヘリパッドに向けられている。
弐号機の着地地点であるそこは、人間のサイズに換算すれば、人一人座るのがやっと、という程度の大きさしかない。しかも、応急のパラグライダー装備は、細かな制御は無理と来る。そこが動いているとなれば、まず狙った位置に着地するのはもう絶望的な数字になる。艦橋を踏みつぶしでもしたら、人質の命に関わる。
初号機が『レッド・ウィンダム』の船首を抑え込んだのは、弐号機の着地を助けるためだった。
弐号機が後部のヘリパッドに両脚を揃えて綺麗に着地を決めた。派手な音響とともに、甲板が二層まとめて抜ける。瞬間、反動で艦首が大きく跳ね上がった。初号機の足が『おだわら』から離れ、上半身が『レッド・ウィンダム』の艦首に乗り上げる。ブレーキを失った『おだわら』は慌てて全速後進をかけつつ潜航。危うく司令塔が船首に接触するのを防いだ。
「アスカ、見参! ……って、なにやってんのよ、あんた達!」
アスカがそこで目撃したのは、信じられないような光景だった。敵の手に陥ちたはずの零号機が、初号機に『抱きついて』いるのだ。
(4)
「何が起こっているというの?」
ミサトは、初号機と弐号機が転送してくる画像に戸惑っていた。シンジが懸命にレイに呼びかけているが、レイのほうは無言のまま。零号機からの情報は全て受信できているが、異常が見られない。エントリープラグ内のレイは、いつもの無表情だ。
「暴走?」
「いえ、神経接続は正常値を示しています。シンクロ率も誤差範囲内です」
ややうわずったマヤの声。ミサトはリツコの顔を伺った。
「レイが零号機を動かしている。そうとしか言いようがないわ」
「何て事……。どうしちゃったのよ、レイ」
『レッドウィンダム』CIC。
スクリーンに映し出される巨人同士の戦闘に、どよめきが起こっていた。
「素晴らしいぞ、シムズ博士!」
さしものFFも、声がうわずっていた。無線でシムズ博士に声を掛ける。
「洗脳作業は、予想通り、あるいはそれ以上の効力を発揮したようです」
研究分析室のシムズ博士も、手のひらを返したように満足げに応じた。
「このまま二機とも倒してくれれば良いのだが」
「FF。こんなフネの上で三体も暴れ回ったら、我々なんて蟻のように踏みつぶされてしまいます」
スプラグーだけが状況を冷静に受け止めていた。
「綾波……、どうしたんだよ。しっかりしてよ、僕は綾波を助けに来たんだ。それなのに、どうして……」
シンジは懸命に訴えるが、レイの返事はなく、零号機の両腕は初号機の腰に回されたまま、離れる気配もない。それどころか次第に力が籠もり始める。頑強な初号機の装甲がめりめりときしみ音を立て始めていた。
(まさか、暴走? いや違う。じゃあ一体)
混乱したシンジは反撃もできない。
その様子を見て、アスカの怒りボルテージが一瞬にして最大値を振り切った。艦尾レーザー砲が浴びせ続けられていることなど、完全に意識の外に押し出してしまった。
「いい加減にしなさいよ!」
ATフィールドを展開しつつ、弐号機はヘリパッドより一段高い位置にある艦尾レーザー砲塔を踏み潰した。爆炎が四方に飛び散る。
そしてそのまま勢いを付けて、零号機の後頭部目がけて飛び蹴りを加える。弐号機は勢い余って背中から左舷よりの甲板に落下。クレーンと電源車を押し潰した。衝撃で船体が左舷側に二十五度も傾いた。
いきなり蹴飛ばされた零号機もただでは済まない。アスカのもくろみ通り、初号機の腰から両腕を離した。が、傾斜した左舷側から海に滑り落ちてしまった。魚雷が船体に命中したような水柱があがる。
海中に沈み込みそうになった零号機の右腕を、初号機がかろうじて掴んだ。
「アスカ! 右に寄ってよ。このままじゃ転覆しちゃうよ!」
シンジの声に、アスカは不機嫌な声で応じる。
「ファーストがぶらさがってるから、フネが傾いてるんでしょ!」
とはいうものの、彼女にしてもエヴァに乗って遠泳大会をやるつもりはなかった。四つん這いになって甲板上を右舷側に移動する。
初号機は反動を付け、零号機を引っ張り上げた。舷側と零号機の装甲板がこすれあい、不快な金属音が響いた。
ずぶぬれの零号機を甲板にまで上げたところで、初号機の活動限界が訪れた。再び抱き合うような格好で動きが停止してしまう。弐号機が電源車を押し潰すまで、零号機は外部電源を用いていたから、まだしばらくは余裕があるはずだったが、レイはもう動こうとはしなかった。
「もう! さっきからなにやってるのよっ!」
アスカの金切り声。再び二体を引き離そうとするが、初号機と零号機の肩に手を乗せたところで弐号機も固まってしまった。
その頃、閉じこめられているトウジ達がいる船室も、修羅場と化していた。エヴァが三機揃って取っ組み合いをしているお陰で、部屋の中はミキサーよろしくかき回されていたのだ。
「きゃあっっ!」
部屋が大きく傾き、ヒカリは壁際までずるずると滑った。
「と、と、と」
そこに、同じく立っていられなくなったトウジが突っ込んでくる。反射的にヒカリは首を竦めて目を閉じた。
バシ!
ヒカリが恐る恐る眼を開ける。トウジの困惑した顔が間近に迫っていた。
トウジは、壁に背中をつけたヒカリの頭の両側に手を広げ、危うくヒカリにぶつかるのを防いでいたのだ。
「す、鈴原……」
ヒカリは息をつめて小さな声を出した。
もっとも、端から見ると、『路地裏で女の子を脅している不良』にしか見えない光景ではあった。
「すまん、イインチョ。にしても、どないなっとるんや、これは」
再び激しく揺れた。今度はヒカリがトウジの胸に倒れ込んだ。トウジも足元を取られて背中から床に転ぶ。
「ごめん……」
ますます小さい、消え入りそうな声でヒカリが謝る。
「いや、別にかまへんけども」
「……なんだかなぁ」
二人の緊迫感のないやりとりを見ながら、ケンスケが嘆息する。彼は壁にまともに顔をぶつけ、眼鏡にはひびが入り、鼻血まで流しているという情けない姿だった。が、彼にハンカチを貸してくれるような相手がいるはずもなかった。
とりあえず、エヴァンゲリオンは封じた。CICのスクリーンを睨むFFは、停止した巨人の映像を見ながら、低いうなり声を上げた。
これからどうする? FFは自問した。
うまく立ち回ればエヴァンゲリオン三体を手中に収めることも出来るが、頼りのレーザー砲は破壊されてしまった。救出部隊の侵入も許してしまった。
「人質を最大限に活用するしかないな。スプラグー! 全員を主甲板上に並べろ! 連中に良く見えるようにしてやるんだ」
シンジの戦いは続いていた。
「綾波、綾波! 返事をしてよ!」
活動限界を迎えても、シンジはレイを呼び続けていた。
「こらー、優等生。何か言いなさいよ!」
アスカも怒鳴る。
気の遠くなるような沈黙。
「……碇君?」
かすかなレイの声が聞こえた瞬間、シンジは盛大に溜め息をついた。
レイの正気を取り戻させたものが、シンジの必死の呼びかけだったのか、それとも海面へ落下した為のショックだったのか、答えを知る者はなかった。
船室の扉がふいに開いた。
反射的にトウジ達は顔を上げる。救助の手が差し伸べられたか、と淡い期待を抱いて。
しかしそこにいたのは血走った目をしたスプラグーだった。部下二名と共に、トウジ達に小銃――AKMSを突きつける。
「出ろ!」
スプラグーが青筋を立てて喚く。反抗する気力の残っている者はなく、ぞろぞろと廊下に出る。
廊下には、緑がかった印象のある薄暗い照明が灯っていた。その光に照らされた2−Aの生徒達の顔は、実際以上にやつれているように見えた。
最後にヒカリがトウジの陰に隠れるようにして廊下に出た時、船首方向からくぐもった、銃声らしき音が響いた。
「MP5SD6……」
ケンスケが呟く。この期に及んでも彼の知識は如何無く発揮されていた。
「なにっ?」
スプラグーが目の色を変えた。このフネにはMP5シリーズは積んでいなかったはずだ。とすれば……。
ハッチの向こうで断末魔の悲鳴が聞こえた。廊下を走る足音。船首側のハッチが内側にこじ開けられた。
それが開ききる寸前、スプラグーはAKMSをハッチ目がけて放った。跳弾する鋭い音が響きわたった。
「止まれ! 人質がどうなってもいいのか?」
「……人質には、手を出すな」
ハッチの陰から、苦しげな声が聞こえた。
「武器をおいて、姿を見せろ」
我ながら、陳腐な台詞ばかり口にしているな。スプラグーは奇妙な感覚を抱きながら、ハッチに近づいた。
「……う!」
「ぐわっ」
その時、後方から相次いで声が上がった。スプラグーが慌てて振り返る。
彼の部下は、船尾側の廊下から音もなく近づいてきた突入部隊に制圧されていた。一人はククリで喉を掻ききられ、もう一人はコンバット・ナイフで背中から腎臓をひと突きされていた。
「くそったれめが! 恨むなら、無茶な正義の味方のほうにしてくれよ」
スプラグーは人質の一人――ヒカリに銃口を向けた。その前にトウジが立ちふさがる。
「大したナイト様だ」
「何とでも抜かせ」
トウジは臆した様子もなく、真っ直ぐにスプラグーを見据えている。
(ガキ相手に、銃を使うのか?)
瞬きする間もないほどの戸惑いを振り切り、スプラグーは引き金にじわりと力を込めた。ヒカリが目を堅く閉じる。
銃声。
糸の切れた操り人形のように、スプラグーは崩れ落ちた。彼の頭部は半分ほど吹き飛び、赤黒い血液にまみれた脳がこぼれ出ていた。
「冷や汗ものだな……」
ハッチの陰。片膝をつくリョウジのMP5SD6の銃口からは、まだ煙が漏れていた。
「スプラグー、どうした! 報告せんか」
CICのFFは無線に怒鳴っていた。さきほどから反応がない。
こういう場合、CICってのは不便なだけだな。艦橋からであれば少なくとも甲板上の様子は直に目で状況を確認出来るのに。
元戦闘機乗りのFFは、まどろっこしいCICでの指揮に苛立った。艦橋に向かって飛び出そうとする。
が、代わりにCICに得体の知れない連中がなだれ込んできた。突入部隊であった。
FFは腰の拳銃を抜いた。だが、それより先に懐に飛び込んできたウェットスーツの男が、マチェットでFFの顔面を切り裂いた。最後の瞬間、FFは自らの命を奪う男の顔を網膜に焼き付けた。
(髭くらい、ちゃんと剃れってんだ)
間抜けなことに、それがFFの考えた最期の言葉だった。
他の乗組員も、突入部隊にまともに対処する間もなく制圧されていた。その攻撃は容赦なく、さして抵抗の意志を見せなかったシムズ博士も蜂の巣にされて絶命していた。組織だった対応が出来なかったのは、エヴァ同士のとっくみあいに完全に気を取られていた為だが、どだい、リョウジ直率の猛者連中と、ただの船員では戦闘能力が違った。
「全く柄じゃないことやってるよな。こんな格好、葛城やリッちゃんには見せられないな」
リョウジのとぼけた声。
CICは赤色灯によって全てのものが赤く見える。それでも彼が返り血を半身に浴びているのは明らかだった。
「船内の制圧、完了しました!」
ククリを手にしたトップチーム隊員の一人が、CICに駆け込みざま叫んだ。
「さて、アスカにも刺激が強すぎる格好だし、さっさと退散するとするか」
リョウジは満足げに二度三度頷き、マチェットを鋭く振った。刃先についた血糊の一部が、CICの床に飛び散った。
エピローグ
06:30。ネルフ中央作戦室発令所。
ようやくのことで、あるいは早くもというべきか。東の空が白み始めていた。
「浅間の件でも仕事が山ほど残ってるってのに……。徹夜なんて、美容の最大の敵よ……」
中央作戦室発令所でぼやくミサトの目の下には、はっきりとクマが出来ていた。コンソールに突っ伏して寝ているマヤを、注意する気にもなれない。
「仕方ないでしょ?」
リツコが生真面目な表情で言った。が、直後に彼女も思わず欠伸が出てしまう。
「シンジ君達が帰ってくるまで、一眠りさせて貰おうかしら……」
溜め息のような息を吐き、ミサトは背伸びした。今回の事件で、何かプラスになる成果を挙げたのではなく、マイナスをゼロに戻しただけだというのが、どうにも釈然としなかった。
巨大な船体が、広々とした航跡を残しながら這うような速度で北上している。
「こいつ、一から作り直したほうが早そうだよな……」
『おだわら』の上部指揮所に登った艦長は、泣きそうな顔で言った。
彼の眼下には、醜く波立った外殻が三百メートル先から続いている。
「ネルフのほうで、弁償して貰えるんでしょうな?」
「さて。そちらは領分ではありませんので」
隣で同じ光景を眺めていたリョウジはとぼけた調子で言った。今回に限って言えば、本当にとぼけているのだった。
『レッド・ウィンダム』の艦橋上では、真紅のプラグスーツをまとったアスカが仁王立ちになって甲板を見下ろしていた。
「みんな、私に感謝しなさいよ!」
気のない拍手がぱらぱらと起こる。それでもアスカはご満悦の表情で、自分の活躍について熱弁を振るい続ける。浅間で感じたシンジへの負い目を、ほんの少しだけ忘れることが出来た。
初号機と零号機の足元で、シンジはレイの顔を覗き込んでいる。レイは自白剤の影響で、まだ気分が優れない様子だった。
二人は黙ったまま見つめ合い、互いに相手の言葉を待った。先にシンジが声を出す。
「大丈夫?」
「……」
伏し目がちのレイは答えない。答えるべき言葉を思いつけないのか、シンジには判らない。
「もう、大丈夫だよね?」
レイはこくりと頷いた。ためらい気味に口を開く。
「……ごめんなさい」
「え?」
「私、碇君を傷つけようとした」
「いいんだよ、綾波のせいじゃない。綾波は薬を打たれて、正気を失っていただけなんだ」
そう言うと、シンジはうつむき、肩を波立たせた。怒りを抑えているようにも、笑いをこらえているようでもあった。
「碇君……?」レイの瞳にほんのわずか、動揺の色が見えた。
シンジが顔を上げた。彼は目に涙を溜めていた。
「涙……。どうして泣いているの?」
「……怖かったんだ」
「私の事が? 私に殺されそうになったから?」
レイが狼狽えたように聞く。
「違うよ! そうじゃない」シンジは悲鳴のような声を上げた。「綾波と二度と話が出来なくなるかも知れないって思ったら、凄く怖かったんだ。話したいことが、聞きたいことがまだ一杯あるんだ」
突然、シンジはレイの背中に手を回し、彼女の身体を引き寄せた。レイはシンジの為すがままに任せている。
「ごめん……。でも、ほんの少しで良いんだ、こうしていさせてよ。僕の震えが止まるまで」
レイの肩越しに、シンジはかすれた声を出した。
「私は、構わないけど」
「ありがとう、綾波……」
レイの肩を抱くシンジの手に力がこもり、彼の頬を涙がつたった。
「あのバカシンジ……! ファーストも、恥ずかしくないのかしら、バカじゃないの?」
こめかみに血管を浮かべて両拳を振るわせるアスカには、近づきがたいオーラが漂っている。
「あ、あの、アスカ。ありがとうね」
声を掛けたのがヒカリでなかったら、即座にはり倒されていただろう。
「”ビッテ ゼーエ”。友達でしょ?」
やや感情を抑え、ドイツ語混じりのおざなりな返事をかえす。それでもアスカの視線は、シンジとレイに向けられたままだった。
「え、ええ。……なんか、いいよね」
アスカの視線の先にあるものを確認して、ヒカリが目を細めた。アスカが熱い物を飲み込んだような表情になって、ヒカリのほうに向き直る。
「なっ、なにが? もしかしてシンジが?」
声が半分裏がえっていた。
「ううん、そうじゃなくて」
その言葉に、アスカはつかの間安堵した。が、ヒカリが継いだ言葉は、彼女らしからぬ失言だった。
「あの二人って、結構お似合いよね」
「――! なんですってぇ! 冗談じゃないわ!」
アスカは完全にキレた。一気に艦橋脇のラッタルを駆け降り、シンジとレイに向かって突撃を開始する。
途中、甲板上で「朝っぱらから愛の抱擁やなんて、せんせぇもやりよるなぁ」「またしても、またしてもいやーんな感じ」などと言い合うトウジとケンスケを殲滅し、シンジの頭を抑え込む。綺麗にヘッドロックが決まる。
「このバカシンジ、エロシンジ! 何考えてんのよ!」
「アスカ……! く、苦しいよ、……うぐっ」
「やめて。碇君が死んじゃうわ」
「うるさいうるさぁい!」
アスカの叫びが海の上を流れていく。一見物騒でも、微笑ましい時間が訪れていた。
そしてチルドレン達の頭上では、彫像のように固まったエヴァンゲリオン三体が同じように絡み合ったまま、きらめく朝日を浴びているのだった。
おわり
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