マリーンズの閃風 第四話
千葉ロッテが福岡ダイエーに三タテを食らわせた三連戦の間、近鉄と西武は直接対決で潰し合っていた。結果は1勝1敗1分。千葉ロッテは一歩上位2チームに近づく格好になった。
第17節から第21節まで、千葉ロッテは西武と近鉄相手に、一歩も引かぬ奮戦を見せた。なにしろこの機会を逃せば、次はいつ優勝戦線に残れるか判らないのだ。
新納は先の安打以来完全に復調し、第21節最後の対西武戦で39個目の盗塁を決めていた。
咋シーズンの記録は福岡ダイエー・佐々木誠が決めた40盗塁。新納は十分、盗塁王を狙える位置に達している。
しかし今シーズンは簡単にはいきそうに無かった。福岡ダイエーの佐々木誠、山口裕、浜名、大野の俊足カルテットや、日本ハムの川名、近鉄の大石、西武の辻といった俊足自慢がさかんに盗塁を競っていた。その様は、まるで新納に触発されたかのようにも見えた。
特に福岡ダイエー・山口裕の奮闘は白眉だった。レギュラーで出場している選手は盗塁を狙える可能性が増え、新納には苦しくなる。
確かに近年、球場の大型化にともない、機動力野球の重要性はどこの球団も認識している。だが、実際に行動に出ている球団は少ない。ホームランの魅力と、足を使った攻撃を秤にかけるのは、容易ではないからだ。
だが八木沢監督は、単に時代の流れを読んで機動力の整備に力を入れている訳ではない。八木沢は西武の投手コーチであった時代に、たとえ西武であっても足を使った攻撃に対する備えが、万全で無いことに気付いていた。
つまり機動力野球こそ、西武に対抗出来る最良の選択だったのだ。そして新納の存在は、機動力野球の必要性を各球団に認識させるのに十分な衝撃を与えていた。だが、もう今シーズンに関してはどうすることも出来ない。盗塁を阻止する練習など、キャンプ中にやっておかねばならなかったのだ。上位チームほど、今更そんな練習をしているヒマなどない。新納を始めとする千葉ロッテの選手が走り回るのを、黙って見ている以外にないのだ。
様々な戦いがあった。近鉄相手に、両チーム無失点で迎えた延長十一回にサヨナラ勝ちをした試合。新納、西村、堀が西武戦でトリプルスチールをしかけた試合。福岡ダイエーと両軍合わせて28安打を打ち合った壮絶な乱打戦があった。涙をのんだ試合があり、勝利の喜びで優勝したような大騒ぎをした試合があった。
そしてどの試合にも共通していたのは、千葉ロッテの選手は決して勝負を捨てないことだった。
八木沢は千葉ロッテの選手達は変わったと思った。12球団一弱いと自他共に認めていた雰囲気はもうどこにもなかった。いくら点差が開こうとも、試合を投げ出す者などいなくなっていた。矢尽き刀折れてもなお絶対に引かぬという、戦国時代の武者のような雰囲気すら漂わせていた。彼らはマリーンズの名に恥じぬ戦士たちだった。
もっとも天を衝くような士気を保っていられるのは、勝ち続けているからだ。ひとたび負けがこむようなことになれば、たちまち弱小千葉ロッテに戻ってしまうに違いない。だが今の状況を見る限り、そのようなことはめったに起こりそうになかった。
第21節終了段階でオリックス、日本ハム、福岡ダイエーの3チームは優勝への射程圏外に置き去りにされていた。一方、西武、近鉄、千葉ロッテの3チームは脅威的な勝ち星を挙げながら、壮絶な首位争いをも続けていた。
前に敵が現れればそれを蹴散らし、それが消えれば優勝への道を駆け上がればいい。難しいことはなにもない。選手会長・愛甲は某雑誌のインタビューにそう答えていた。
第22節からは以前に雨天中止になった試合が日程に新たに組み込まれてくる。必然的に日程は苦しいものになる。
そんな千葉ロッテに、朗報がもたらされた。右首筋の故障の治療が遅れに遅れていた牛島が28人枠に入ってきたのだ。これにより千葉ロッテの投手陣は随分と救われた。
新納にとっての朗報もあった。キャンプで苦労を共にした林がついに一軍に上がり、ヒットを放ったのだ。だが、残念ながら市場と小林至はシーズンを通じて一軍に上がる機会を得られなかった。
そして、第24節・9月19日の対福岡ダイエー戦に勝利した千葉ロッテはこの時点でわずか0.5ゲーム差ながら初めて首位に立った。千葉ロッテの選手達は優勝が机上の空論などではなく、本当に可能性のあることだと実感した。
結局第25節の対日本ハム戦に負けた千葉ロッテは、首位の座を西武に譲ったものの、決してひるむことはなかった。
そして上位3チームは、もつれあいながら、いよいよシーズンの勝敗を決する第26節へと突入したのであった。
1993年10月9日。
その日はついにやって来た。千葉ロッテは本拠地・千葉マリンスタジアムで、近鉄との最終26回戦を迎えていた。太陽は東に傾いて地平線に姿を隠しつつ、戦いの幕開けをもたらそうとしているかのようだった。
順位 | チーム | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | ゲーム差 | 残り試合 |
1 | 西武 | 74 | 53 | 3 | .582 | − | 0 |
2 | 千葉ロッテ | 72 | 52 | 5 | .580 | 0.5 | 1 |
3 | 近鉄 | 71 | 56 | 2 | .559 | 2.5 | 1 |
4 | オリックス | 57 | 68 | 5 | .456 | 13.0 | 0 |
5 | 福岡ダイエー | 53 | 74 | 3 | .417 | 5.0 | 0 |
6 | 日本ハム | 51 | 75 | 4 | .404 | 1.5 | 0 |
既に、近鉄が千葉ロッテを破ったとしても近鉄の優勝はなくなっている。ここで千葉ロッテが負ければ勝率・576となり当然西武の優勝。引き分けると勝率・580でやはり西武の優勝となる。しかし千葉ロッテが勝てば、勝率・584となり、逆転優勝することが可能なのだ。
西武は昨日の福岡ダイエーとの最終戦を戦った。が、自力優勝の出来ない苛立ちをそのまま福岡ダイエーにぶつけて、スコア9−1と福岡ダイエーを叩きのめしてしまった。
「結局、勝利は自分たちの手でつかみ取れということだ」試合を前に、選手会長・愛甲が一軍選手全員の前でゲキを飛ばす。「最後の勝利は我々がつかむ」
球場は試合開始3時間も前から人で埋まり始めた。図体のでかい割に収容人数が3万人と意外に少ない千葉マリンスタジアムは、早くも超満員だった。この認識が甘く遅れて球場にやってきた人々は、歴史的一戦をその眼で見る機会を失っていた。
スタンドでは、なにかのはずみで時折り歓声が上がる。この優勝決定戦はまたある意味で遺恨試合でもあった。忘れもしない10・19。より熱心な近鉄ファンであればあるほど、近鉄の優勝を阻止した千葉ロッテが許せない。
そして、千葉ロッテファンも近鉄憎し、の気持ちを持たぬ訳でない。千葉ロッテが取り損なった小池を近鉄が獲得した。小池への言い様のないやりきれなさは、そのまま近鉄への憎しみへと変わっていった。グランドだけでなくスタンドでも、決着を付ける戦いが始まろうとしていた。
スカウト・林場はひとり自宅のテレビの前に座り、これから起こる出来事を見届けようとしていた。直接球場に足を運ぶことは、どうにも恐ろしくて出来なかった。彼に出来るのは、千葉ロッテの優勝を、新納の活躍を祈るばかりだった。
重光オーナー代行は、千葉マリンスタジアムの特別席に腰を据え、超満員のスタンドを眺め、満足そうにうなずいた。彼は新納の活躍に満足していた。新納のおかげで観客が入り続け、なおかつ優勝を目前にしている。あの林場とかいうスカウトの眼に狂いはなかったということだな。重光はそう考えてニヤリとした。そのスカウトの案を採用した、俺の眼にも狂いはなかったという訳だ。
新納はウォーニングゾーンをジョギングで往復しながら、この一年を思い返していた。
ドラフト七位での入団、キャンプでの特別練習メニュー、ほとんど失敗だった初盗塁。オリックス戦での盗塁シフト。福岡ダイエー戦での初安打。そして今まさに最高潮を迎えた、胃が痛む激しい首位攻防戦。
だが、それも今日限りだ。今日の試合が終わればペナントレースは終わる。
ここまで来た以上、優勝しなければ意味がない。そのために戦い続けて来たのだから。
(やれるだけやってやる。悔いなど残してたまるか)
新納は気合いを入れると、ふと一年以上前のバルセロナの予選を思い出した。そして、東峰体育大のかつての仲間や後輩は今どうしているだろうか、ということを考えた。あの時はみんなが応援してくれていると信じていた。いや、信じ込もうとしていた。けれども、今は日本の意地のためではなく、千葉ロッテの優勝のために走る自分を、陸上を捨てた自分を彼らが応援してくれるか、自信は無かった。
「がんばってくださーい」
スタンドから声援が飛ぶ。新納は手を挙げてそれに答えながら、頭では別のことを考えていた。ここまで来て頑張らない奴などいない、と。
また別のところから「新納っ」と呼びかけられた。最初はそのまま通り過ぎようとした新納は、その声に聞き覚えがある気がして立ちどまった。
スタンドを見上げると、そこには懐かしい顔があった。東峰体育大陸上部顧問・飛田と、陸上部の仲間たちだ。
「頑張れっ!俺たちがついているぞっ」
飛田が叫んだ。新納は頑張れの一言がこれほど自分を奮い立たせてくれるとは、今まで思いもしなかった。
千葉ロッテファンの神経を逆なでにするかの様に、近鉄は先発に小池を立ててきた。盛り上がる近鉄ファン。対する千葉ロッテは武藤をマウンドに送った。ルーキー同士の先発は、実際は両陣営ともにローテーションの都合でこうなったのだが、観客を盛り上げる効果は十分だった。
初回はともに三者凡退に終わった。だが、2回、ブライアントがシーズン41本目のホームランを放ち、近鉄がまず1点先制した。一方の千葉ロッテ打線は伸びのある速球を放つ小池を思うように捕らえることが出来ない。
4回裏、攻めあぐむ千葉ロッテの攻撃は、今まではクリンアップトリオの一角に名を連ねている五番・丹波からだった。
丹波はマウンド上の小池を見る。奴も少しは進歩している、丹波はそう思う。だが、俺だって、ただ飯を食ってきた訳じゃない……。
丹波はかつての都市対抗戦で9本のホームランを打っている。そのうちの一本が小池からのものであったことを忘れてはない。
小池が一球目を投じた。彼もまた社会人時代の丹波の爆発するような軌道を描くホームランを思い出していたのか、今までの豪快な投球が少しだけ勢いを失った。
丹波はその失投を見逃さなかった。心の中で吠え、バットが一閃した。打球は鋭く伸び、近鉄ファンの陣取るレフトスタンドに突き刺さった。スコアは1−1の同点になる。
これで反撃開始、千葉ロッテ側は奮い立った。だが小池は踏ん張り、この回の後続を断った。
だが近鉄がこのまま引き下がる訳がない。彼らも必死だ。ここで負ければ眼の前で千葉ロッテの胴挙げを見なくてはならない。西武ならともかく、千葉ロッテに優勝されたとあってはたまらない。
この思いが六回、近鉄に再び反撃の機会を与えた。長短打をからめた攻撃で2点を奪い、武藤を降板させた。
ここでリリーフエース・牛島が救援し、どうにか逸る近鉄打線を封じ込めてみせた。スコア1−3。
千葉ロッテファンの悲痛な声援がスタンドを包む中、試合は淡々と進み、8回裏ランナー一塁の場面で、6番・島田が打席に入った。
島田はこの試合に特別な感情をもって臨んでいた。あの10・19に島田は一ファンとして参加した経歴を持っている。マスコミに流されない本当の感動がそこにはあった。島田は、その感動に加わりたくて千葉ロッテに入団した。島田の放出をしぶった日産自動車を自主退社して、ドラフト外としてでも入団したのは、なによりその自らも感動の一員になりたかったからに他ならない。
今こそ、自分の行動が間違っていなかったことを証明しなければならない。他の誰でもない、自分自身の手で。島田は奥歯をかみしめてバットを構える。
小池は、薄笑いをしているような妙な表情で第一球を投じる。
外角低めのストレートを島田は何事もなかったかのように見逃す。決して気負い、逸っているだけではなかった。内角に切れ込む二球目はカット気味にファールした。
打席を外し、間合いを取る。その後も、小池の投球に島田はしぶとく食いついて粘り、カウント2−3、フルカウントとなった。
小池は島田への7球目、四球覚悟と言わんばかりに低めに落ちるフォークを投じた。だが、この投球はこの日二度目の失投だった。
強烈な打撃音が響いた。打球は、さきほどの丹波が叩き込んだレフトスタンドとほぼ同じ場所に飛び込んでいった。これで点差は再び同点。
「やってくれるね」
西武球場で、千葉ロッテ同点の知らせを聞いた森監督は思わずそう呟いた。あの千葉ロッテがここまでやるとは思わなかった。やはり八木沢はただ者でなかった。そう考え、かつて自分のスタッフであった彼を是が否でも放出すべきでなかったと考えた。
(飼い犬に手を噛まれるとは、こういうことをいうのか)
西武の球団関係者は、千葉ロッテが負ければ即、胴挙げをするべく準備をしている。
選手たちはもうビールかけが決まったような顔をして、近鉄の勝利の報を待っている。気の早い西武ファンが一塁側スタンドでお祭り騒ぎをやっている。
だが森はひとり、その雰囲気から離れたところにいた。
(近鉄に全てを託さねばならんとは……)
今までのライバルの勝利を願い、かつての仲間の敗北を祈らなければならない彼は優勝を目前にしながら、どこまでも憂鬱だった。
千葉ロッテは、牛島から伊良部へとスイッチした。近鉄は小池が奮闘し続けていた。
そしてスコア3−3のまま、延長戦に突入した。
10回表、近鉄の攻撃中に、一塁側スタンドで騒動が起こった。
グランドでは何度も乱闘の危険性があったがなんとか回避していた。が、スタンドでは、これまでもあちこちでもめているようだった。
もちろん、千葉ロッテの球団関係者はこの事態を予想していない訳ではなかったが、その予想をはるかに上回るエキサイトぶりだった。
このとき新納は血の匂いを嗅いだ。最初は、選手の誰かが負傷しているのかと思ったが、どうやらその匂いは、スタンドから流れてくるようだった。
新納はぞっとした。勝っても負けても、無事に済みそうにない、そう感じた。同時にその中に身を置くことにたまらない喜びを感じていた。
俺はこれを味わいたくて陸上を捨て、野球をやって来たのだ。人々の期待を受けて勝負の出来る、このプロ野球というスポーツを。
11回から千葉ロッテのマウンドには守護神・河本があがった。近鉄も押さえの切り札・赤堀を繰り出し、必死の戦いを続ける。
12回表、四番・ブライアントが三振に倒れると近鉄の勝ちは無くなった。パリーグにおいては試合時間が4時間を越えているか、延長12回より新しいイニングには入らないからだ。
だが、近鉄ファンは勝ったかのような騒ぎだった。同点ならば千葉ロッテの優勝を阻止出来る。自らが優勝出来ない以上それで十分だった。
しかし試合は、千葉ロッテのペナントレースはまだ終わっていない。12回裏、八木沢監督は二番・南淵に代え、林を代打に送った。
林はこの10試合で代打の切り札として、五割近い打率を残して、代打の切り札となっていた。ここで林は期待に応え、執念のセンター前ヒットを放った。八木沢は満を持して、温存していた新納に代走を命じた。
「これが、集大成だ」と八木沢が言った。
「必ず、生きてホームに帰ってきます」
「頼むぞ」八木沢は大きく頷いていて、新納を送り出した。
いよいよ、新納の出番がまわって来た。一塁ベースに向かう新納は、役目を終えてベンチに戻る林とすれ違った。
「頑張ってください。僕は役目を果たしましたよ」
「まかせとけ。給料分の仕事はさせてもらうつもり」
千葉ロッテファンは勝利を、そして優勝を確信した。一点、ただ一点でいいのだ。それで全てが終わる。この長い戦いの全てが。
赤堀が三番・マックスに初球を投じる。新納はすかさず走った。もちろん近鉄バッテリーは十分に警戒していたが、止めることはできなかった。
マックスは粘ったあげくライトフライに倒れたが、すかさず新納はタッチアップして三塁に達した。いよいよ一塁側の喚声は狂気に近づく。そして四番・ホールに一打サヨナラを期待する。
赤堀はホールに対し、残像が残るような切れのあるストレートを投じた。
ホールは決して振り遅れることなく反応し、フルスイングした。打球音。白い球が巨大な放物線を描こうと上昇していく。スタンドがすさまじい歓声に包まれる。だが、その角度は大き過ぎた。浅いレフトへのフライだと悟った観客は新納に注目した。
その新納は三塁上で、まるで引き絞られた弓矢のように全身に緊張をみなぎらせ、捕球される瞬間を待っていた。
レフト・中根が捕球した瞬間、新納は迷わずスタートを切った。そのスタートは、かつてのロケットスタートを思い起こさせる素晴らしいものだった。千葉ロッテファンの声援を背に受け、新納は懸命に走った。
本塁が目前に迫る。新納が心の中で叫ぶ。
(誰よりも、何よりも速くゴールラインに飛び込むんだ!)
捕手・光山に球が返ってくる。迷わず、新納が正面から滑り込む。光山が全身で止め、土煙が薄くたち昇った。
主審のゼスチャーを見た観客の全てが、歓声を怒号に変え、千葉マリンスタジアムを揺さぶった。
その轟きは、まるでとどまることを知らぬかのようだった。
(おわり)
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