またド真ん中だった。バットの先も動かなかった。石嶺はバットを膝にはさむようにしてボックスを外し、目をこすった。そして、ベンチを振り返った。ベンチは静まり返っていた。誰も自分を見ていなかった。全ての視線はマウンドに注がれている。石嶺はマウンドに目をやった。だらりとグローブを下げ、豪田とかいう新人ピッチャーが自分を見ていた。自慢そうな顔ではない。何か投げ遣りな表情だ。その肩越しにスコアーボードが見える。速球百六十五キロの標示が浮かび上がっていた。 |
「いやあ……これだけ速くてキレのあるピッチャーは、ここしばらく出ていないんじゃありませんか」 「全盛の時の小松を思い出しますが、彼の球より寺井の球のほうが重い感じがしますね」 「寺井、キャッチャーのサインを見ました。なかなかサインが決まらない。寺井、首を横に振り、プレートを外しました。驚きました! デビュー戦で先輩キャッチャーのサインに首を振る。ちょっと見たことないんじゃありませんか?」 「私らの新人のころには考えられなかったことですよ」 「さて、しきり直し。寺井、ランナーを見て、投げた。空振り! 三振! 外角の低めのストレート。スピードは百五十四キロ!! ”パリ・エクスプレス”三者連続三振でノーアウト満塁のピンチを抑えきりました……」 |
「自分の弱さがわかったときに欲が出てきたんです。今までは勝てるところまで行かれればいいとしか思っていなかった。このぶんだと甲子園に行かれるぞっていうやつもいるけど、ぼくはどっか醒めていたんですよね。でも、勝ちたくなった。もっと、もっと……」 「どこまで行きたいんだ」 「メジャーリーガーになるくらいまで」光はかすれたような声でいい、喉を鳴らしてコップの水を飲んだ。 |
モッカの強烈なライナーを、嘉手納はくるりと返した左足のスパイクの裏で受け止めたのである。 受け止めただけではない。 さっと身体を三塁側に沈ませながら、その足の先を返してボールを一塁へ送り込んだ。 ライナーの打球は、いったん嘉手納のスパイクの裏で衝撃を弱められ、さらに方向を変えられて、一塁の中畑の頭上に舞い上がったのだ。 いわば、一瞬のうちにスパイクをクッションにしたわけである。 中畑がファーストミットを差しだした。 モッカが一塁キャンバスを駆け抜ける前に、嘉手納の足技で方向を変えられた打球は、手でトスしたより正確にそのミットにおさまっている。 |
堀内は投球動作に入り、内角に外れるはずのフォークボールをほうった。 球は彼のねらい通りの軌道を描いて接近し、大きくステップした掛布は、ボールと読んで途中でバットを停めてしまった。 その瞬間白球はコースを変えた。内角へのボールのはずがとつぜん外に折れ曲り、掛布はもちろん球審も、投げた堀内自身もみたことのないふしぎな軌跡を描いて、内角低めぎりぎりのストライクとなったのである。 |
「プロは甘くねえ」 真ん中の球を空振りしたら、わざわざ戻ってきた価値がねえ、乾が口ごもる。 一回二回、素振りをして、構えた。豪田が走者を目で牽制する。慣れぬ行為に神経が苛立ち、小さく見えた。 豪田が振りかぶった。乾が足を引き上げる。 バットが一閃した。それだけだった。 打球はバックスクリーン上段に突き刺さった。 |
「分ってる。みんな分ってる。でもおれは野球をやるんだ。一軍に上がるんだよ。そうすれば何もかもが解決する。アパートだってもっと広いところに移れる」 「そんなことはどうでもいいのよ」 「よくないさ。おれのおやじとおふくろは仲が悪かった。その原因は狭い都営住宅にずっと住んでいなければならないことだったんだ」 彼女は涙ぐんだ。 「なんとかなるさ」 と羽後はいった。「もしこれだけ努力してコーチが認めてくれなかったら、それはコーチが悪いんだ」 |
フォークやった。東さんが自信を持って投げ込んだそのフォークボールを、名倉はダイレクトで右中間フェンスのいちばん深いところへたたきつけた。 やられた。 まんまとしてやられた、思うたわ。 おいしいところを、かっさらわれたからやない。配球をフォークと読んで、しかも打ち返した技にでもない。あいつはな、東さんにフォークを投げさせたんや。追い込まれとったのは名倉やない、東さんのほうや。追いつめられてフォークを投げさせられたんや。 |
「冗談じゃない。おれにとって左でホームランを打つことは、この世から太陽が消えることより大事なことなんだ。いいかい、おれは他の誰とも約束していないし、関わってもいない。この世の中でたった一人、君と、それから君と俺の愛に対して約束したんだ。絶対に打つんだ」 |
イン・ハイへ要求したボールが何かに吸い寄せられるように真ん中に無防備に入ってきた。コンマ何秒かの刹那が、まるでスローモーションのように流れてゆく。 橘の体がクルリと旋回した。驚く間もなかった。打球はライトスタンド最上段にライナーで飛び込んだ。 まさに地を揺るがすような歓声が上がった。橘はバットを持ったまま、ライトスタンドを見つめて立ちつくした。プロ生活六年目にしての初安打だった。 |
ところが、今日の克美はいつまでたっても相変わらずだった。ボールとストライクがはっきりしすぎているので、狙い球をしぼられて持っていかれている。秋山の2本めのホームランはボール球を強引に運ばれていた。9番の東尾が打席に入ったところで、及川はこの試合何度めか怒鳴りつけた。 「いいかげんにせんかい! しゃんとせい、しゃんと。なんちゅう球ほおるんや!」 克美もそれなりに必死だったのだろう。とうとう及川に向かって怒鳴り返した。 「しゃんとしとるワ! ゴチャゴチャぬかすな!!」 これにはバッターの東尾の方が思わずふきだしそうになってあわてて左手で口を覆った。 (なんとまあ、強気なバッテリーだ……。) |
ベンチからは監督が駆けてきて、 「どうした? ひょっとしたら、なにが始まったのかね?」 と、声をかけた。 「それとも、わざと打たせてやったの?」 アンは答える代わりにグラヴで口を覆い、投手板の上にしゃがみ込んだ。吐き気がするらしい。やがて、しばらく呼吸を整えてから、アンは監督にはっきりとこう言った。 「わたし、妊娠したらしいんです。これ、つわりじゃないかしら?」 |