『ぷにF1』 第二話
――Angel's Circuit
(一)
オーストラリアグランプリ終了後、駆は久遠のスタッフと一旦別れ、帰国していた。
今回は飛び入り参加だったが、次回のブラジルグランプリからは正式なメンバーとして、チームと行動を共にする。その前に身辺整理をしておく必要があったのだ。
駆はアパートの一人住まいだ。
F1チームに同行するとなれば、二週間に一度レースが開催される為、まず半年はまともに戻ってくる余裕も無くなる。とはいうものの、引き払ってしまうには、駆自身の決意が固まっていなかった。
なにしろ、まだチームから本当に信頼を得ている状態ではない。全戦を同行出来る保証もないのだ。
とりあえず駆は、大家に半年分の家賃を前払いして、しばらくはあまり戻ってこられない旨だけを伝えた。詳しい行き先等については適当にぼかしておいた。
元々私物の多いほうではない。半日かけて片づけを済ませたアパートの部屋は、妙に広く見えた。
夕日差し込むその部屋で、駆は家族や知り合いに電話で連絡を入れはじめた。やはり、大事になっても困るのでF1チームに同行する事は話さない。
両親は既に諦めているのか、レーサー以外の仕事をやるというだけである程度安心したようだった。
逆に昔のレース仲間は残念がる者もいたが、すでにシーズンが始まっている時期でもあり、食いつなぐためには別の仕事をやるのも仕方ない、といった感じの返事が戻ってくる。
(久遠のスタッフになって、F1ドライバーにアドバイスするなんて話、信じてもらえるとも思えないからな……)
騙しているつもりはないのだが、肝心な点をぼかして話をする度に、少しずつ駆の心には罪悪感が積もってくる。だがそれでも、めぼしい相手にはおおむね連絡を付けることが出来た。
「さあ、新天地だ。頑張ろう!」
いまいち気合いの入りきらない自分を意識し、ついそんな事を口走る。だが、字面とは裏腹に妙に冷え冷えとした言葉は空っぽになった部屋に広がり、消えていった。
(二)
数日後。駆はブラジルのインテルラゴスサーキットで、ジャックウェルおよび久遠のスタッフと合流した。
「これからがいよいよ本番だぞ」
パドックで、小田切が笑顔で出迎えてくれた。そして彼は、一台のバイクを駆に託した。
「これは?」
「君は我々よりも蓮と行動をあわせる必要があるだろう? 移動手段がいるだろうと思ってな。まぁ、契約金代わりだ」
「ありがとうございます」
バイクはシノダ製のオフロードタイプだった。四輪に転向する前、レースのキャリアをモトクロスで始めた駆は、思わず顔をほころばせていた。それをみて、小田切もほっとした表情を浮かべたのを、駆は見逃さなかった。
なにげない風ではあったが、小田切はどうやら駆が、事故の後遺症で乗り物を運転することが出来なくなっているかもしれない、と心配していたらしい。
久遠の一員として招いてくれたことも、今回のバイクも、駆が可能な限り現役の勘を失わないようにとの小田切の配慮なのだ。
「本当に、ご心配ばかりおかけして……」
「いやなに、気にするな。それよりも、これで君はチームでも有数の機動力を持つ事になった。その分、あちこちに使い走りに行く事も多くなるだろう。覚悟しておいてくれ」
わざとらしく表情を引き締めた小田切の大仰な言葉にも、駆の笑みは消えない。
「判りました。よろしくお願いします」
金曜日のフリー走行開始前から、数万の観客が詰めかけている。
ブラジルはフェラーリのセカンドドライバー、バリチェスの地元であり、まるでサンマリノかモンツァか、と思わせるほど、インテルラゴス・サーキットのスタンドはフェラーリのチームカラー・赤一色に染まっている。
凹型をしたこのサーキットは、F1の開催されるサーキットとしては珍しい反時計回りのデザインがなされている。
直線と高速コーナー、そしてテクニカルなインフィールド・セクション(内周部)とに分けられる為、どこを勝負どころと捉えるかによってセッティングは変わってくる。
「むかしは、ここはエヤトン=シルヴァの地元だから、みんなシルヴァを応援してたのにねー」
スタンドに詰めかけたファンを見上げながら、蓮は呟いた。どこか懐かしげな口振りに、駆は苦笑する。
「死んじまったドライバーは応援できないよ。それに第一、蓮はシルヴァの事も覚えてないんだろ?」
「うん、思いだせない。むかしのことはぜーんぶ忘れちゃった」
「知ったかぶりかよ」
「良いじゃん、べつに。そんなフンイキがするんだよ」
ぺろりと蓮が舌を出す。
フリー走行開始を知らせるサイレンが鳴り響いた。ピットに戻った蓮は無造作にマシンのコクピットに身体を収めると、シートベルトを締め、ステアを装着してピットアウトしていった。
セッティングは前年のデータを元に理論値を計算し、それにあわせる形で行われている。そう的外れなものである筈がないから、細かな調整を行うのが駆の役目ということになる。
「NJ10は比較的セッティングの幅の広いマシンだ。その分、正解を求めるのが難しいとも言える」
並んでモニタを見つめるスペンサーの言葉に、駆は神妙に頷いた。
結局、一時間の走行の結果、蓮は六番手につけた。まだどこも実力を出してきていない状態ではあるが、蓮が天性の速さを持っていることを、駆は再確認した。
午前のフリー走行が終わると、ドライバーを中心として、ミーティングが行われる。駆だけでなく、フィールセンも自分の担当のメカニック達を交えてミーティングを行っている。F1生活が七年目になるというベテランであるフィールセンには教えを請う事も多い筈なのだが、彼は蓮のことを快く思っていないらしく、ほとんど情報交換らしいことが出来ない。
「まあ、初戦でいきなり頭を抑えられたんじゃ、腹を立てて当然だけどな……」
チーム内の不協和音など珍しい話ではないが、蓮がその矢面にたつことを思うと心中は穏やかでない。無邪気な蓮は、第一戦のスタートに関してコメントを求められて、「ボクのほうが加速がよかったんだから、追い越しただけだよ」などとマスコミ相手に公言してしまうだけになおさら始末が悪い。
「もう少し直線でスピードが乗るようなセッティングに出来ませんか? そのほうが連にとっては走りやすいでしょう」
と、駆がスペンサーに提案した。
第一戦での感触から、蓮の真価はコーナーの内側を衝くテクニックにある、と駆は考えていた。最初から最後までそのライン取りで走ることには賛同しかねるが、ここぞという時の切り札に出来る。
それを最大限に活かすのも手だが、逆に、少々コーナリングには厳しいセッティングであっても蓮はテクニックでカバーできるのではないか、という方向性を駆は提案していた。
(トップギアでアクセル全開で突っ込むストレートの最高速度は、テクニックでどうにかなるもんじゃないからな……)
「それはコーナリング性能を犠牲にしても、という意味かね」
スペンサーの問いかけに、駆は蓮の顔をちらりと伺った。蓮が頷くのを確認してから、駆はスペンサーに向かって頭を下げた。
「はい。彼女のテクニックなら多少辛くても問題ないでしょう。ギア比を上げて、ウイングを寝かせて下さい。メカニカルグリップでカバーできる範囲だと思いますので、タイヤの圧をほんの少し押さえて、サスも柔らかめに変えます」
「よし、それは後で試してみよう。今は先に予選仕様のデータ修正の方向性を出さなきゃならんからな」
しばし口をへの字にしたスペンサーが、渋々といった感じでうなずき、ゴーサインを出した。
「ねぇねぇ、そのセッティングにするとどうなるの?」
興味津々といった様子で蓮が訊ねてくる。
「今から説明する。きっちり頭に叩き込んでくれよ」
駆は蓮を前に、セッティングを変更したマシンでの走り方を、事細かに指示していく。理論上の話だけにどこまで伝わるかは疑問であったが、やるしかなかった。
午後から、スペンサーの言葉通り、先に明日の予選を前に、予選仕様のセッティングが試された。目に見えて違う訳ではないが、予選仕様は燃料をほとんど搭載しない状態を基準とする為、車体が軽くなり、地上高を本戦仕様に比べてかなり下げた形で走らせる事になる。空気の流れを考えると、車高が低いほど速度が出るのである。
他にも、短い周回だけタイムを向上させる為に、セッティングを決めていく箇所はいろいろあった。極端な話、決勝ではマシンもドライバーも最後まで保たないようなハードなセッティングも可能という事だ。
この予選仕様のマシンでも、蓮は五番手のタイムを出した。この段階では、フィールセンより前に来ている。
「良いかんじだよ。ヘンなところはないしね」
午後のフリー走行終了後。蓮は自分のイメージ通りの走りが出来てご機嫌だった。駆の指示がしっかり守られているとは言い難い面もあったが、タイムが全てにまさる。
それに蓮の様子を見ていると、自然と駆も心が和むのを感じていた。マシンをベストに仕上げて、思い切り走らせてやりたい。その思いが強くなる。
蓮はチームスタッフと別行動をとる他の多くのドライバーと違って、監督がそのスケジュールを管理している。自分の車も持っておらず、ホテルに戻るにもスタッフの誰かに便乗させて貰っている。
だが、メカニック達は大抵深夜まで作業に追われている為、なかなか蓮の送迎にまでは手が回らない様子だった。
「カケル、済まないがレンをホテルまで送ってもらえないか?」
ニコルソン監督が、仕事を終えた駆に声をかけてきた。
「いや、それは構わないですけど……」
駆は口ごもってしまった。
もちろん異存は無かったが、駆の移動手段は小田切から貰ったバイクである。今日初めて乗るバイクだけに、いきなり二人乗りをすることに多少の抵抗がある。ましてや、四輪に転向して以来ここ数年バイクにはほとんど縁が無かった。昨年の事故の後は全く乗っていない。
不吉なものを感じるには十分すぎるほどの悪条件が揃っている。
だが、そのことをニコルソン監督は知っていて、その上で頼んでいるのだった。
「しっかり掴まっておくように言っておくさ。大丈夫だ、アイツはああ見えても、F1ドライバーなんだからな」
そう言って、それが最高のジョークでもあるかのように笑う。駆もまた、ジョークじみた仕草で肩をすくめて頷いた。
「おまたせー」
モーターホームで私服に着替えた蓮が駆の元にやってくる。バスケットボールのユニフォームを模したようなデザインの、だぶついた黄色い上着。膝上までの丈のある青灰色の短パン。サイズが大きめに思われるバスケットシューズ、という出で立ちである。
「バイクに乗るには最悪の服装だな、おい」
そういう駆も、いきなりバイクに乗るとは思ってなかったので久遠のスタッフが着ているのと同じ開襟シャツに綿パンなのだが、何事にも用意に抜かりのない小田切がヘルメットとライダーグローブを用意していたのでなんとか格好がついている。
「そうなの?」不思議そうに蓮は自分の服を見下ろす。「一応、ヘルメットはもってきたよ」
そう言って、レースに実際に使っているヘルメットを頭の上に掲げてみせる。
「まあいいさ。要はバイクから落ちなきゃいいんだ。ちょっと待っていてくれよ、こいつのクセが全然判らないんだ」
蓮の見守る前で、駆はバイクのエンジンをスタートさせた。乾いた排気音がパドックに響く。排気管から二サイクルエンジン特有の白煙が立ち上る。
おもむろにアクセルを煽ってみる。反応は良好だった。スタンドをあげ、とりあえずそろそろと走らせてみる。
小田切が懸念して、駆自身も確証を得られずにいたのだが、事故の忌まわしい記憶がフラッシュバックするような事は無かった。四輪と二輪の違いのせいもあるのかも知れなかったが、とりあえず駆は安堵した。ともかく、すぐに二輪の感覚は取り戻せた。扱いやすいバイクだった。
「良し、いいぞ」
駆が合図すると、ヘルメットをかぶった蓮が後ろに飛び乗ってきた。本来、オフロードタイプのバイクにバックシートは無いか、あってもごく簡単なものなのだが、このバイクは蓮の送迎を目的とした特別仕様なのか、シートもフットレストもきちんとついている。
「しっかり掴まってろよ。振り落とされたらアウトだからな。F1みたいにモノコックに守られてるどころか、シートベルトもないんだからな」
「……うん」
腰にしがみついてきた蓮の腕に力がこもり、身体が押しつけられるのを駆は背中越しに感じた。バイクの二人乗りはあまり経験がないのか、少し緊張しているらしい。
相手の緊張を感じると、却って自分のほうは気持ちにゆとりが出るものだ。軽快な気分で駆はバイクを走らせた。
それでも初めて乗るバイクで、しかもF1ドライバーとの二人乗りで日本国外の道を走る。細心の注意を払い、なんとか何事もなくホテルまでたどり着いた頃には、駆はリラックスしていたつもりでも精神的にひどく疲れてしまった。
「ねぇ。カケルって、久遠に来る前はなにやってたの? バイクのレーサー?」
バックシートから降りた蓮がヘルメットを脱ぎながら訊ねる。駆とは対照的に、バイクの二人乗りという緊張した空気は、途中から全くなくなっていた。
「日本のフォーミュラニッポンのドライバーだった。その前にはイギリスのF3にも参戦していた。……言ってなかったか?」
レーサーとしての過去に思いが飛んでいたところだったので、自分の内心が見透かされたような気がしながら駆は問いかえした。
「今、はじめて聞いたよ。そうかあ。だからマシンのセッティングとかがじょうずなんだね」
蓮の言葉に、駆は思わずつんのめりそうになる。
「いったい俺をなんだと思っていたんだよ」
「へへ、べつになんとも。だから聞いたんじゃない」
悪びれることなく笑う蓮。だが、お陰で上手い具合に肩の力が抜けた。
「そうだ。ちょうどいい機会だから、俺のレース経験じゃ少々心許ないかも知れないけど、ひとつだけアドバイスさせてくれないか?」
「なに? ボクだってレースはあんまりやってないから、アドバイスしてくれるとうれしいんだ。それに、もともとカケルはその為にいるんだから、どんどん言ってよ」
不思議そうに蓮が駆の目をまっすぐに見つめてくる。その純粋な瞳の輝きに気圧されないよう、駆は一息ついてから、口を開いた。
「コーナーで、早めにインに切れ込んでいく蓮の走りだけど、あれはずっとやるのは危ない」
「えー? ボクはあれが一番走りやすいんだけどなぁ。みんな心配するけど、だいじょぶだよ」
「判っている。だけど、一つ一つのコーナーをクリアするのは問題なくても、ずっとあれを続けているとタイヤやラジエターに負担がかかる。蓮だって、くだらないマシントラブルでリタイアしたくはないだろ?」
「……うん、だけど」
蓮が眉の端を下げた、困った表情になる。
「あのライン取りは、前にマシンがいて、それを追い抜くときだけに使う方がいい。あれが蓮の切り札なんだから」
駆の言葉に、しばらく蓮はうつむき加減で駆の足下に視線をさまよわせた。それから、ややあって顔を上げて微笑んだ。
「……わかった。やってみるよ」
(三)
そして翌日。土曜日。午前のフリー走行の後、午後から予選が行われる。
ジャックウェルのピットには、蓮の注文――実際には駆の注文だが――に従い、ウイングを寝かせた他、セッティングに変更を加えた蓮のマシンが用意されていた。
「あんまり無理をするなよ」
マシンに乗り込む蓮に、駆はそれぐらいの事しか言いようがない。
「わかってる」
そんな気持ちを知ってか知らずか、蓮はにこりと微笑む。
ピットからNJ10が滑り出した。一周の後、バンク角のついた最終コーナーから豪快に立ち上がってタイムアタックを開始する。四、五周に渡り、予選を見据えたここ一発の本気の走りで調子を伺う。
「どんな感じだ?」
ピットに戻ってきた蓮がマシンから一旦降りる間も惜しんで、駆はメカニックをかき分けるようにして傍らに駆け寄って訊ねた。やや驚いたような顔をしながら蓮がヘルメットを脱ぐ。
「いい感じだよ。コーナーでも特にヘンな感じはしない。ストレートでも伸びてるし」
実際、昨日よりタイム的には若干の向上が見られていた。だが、いつものようにコーナーインに早めに切れ込んでいくライン取りに変化は感じられない。
「なぁ、蓮。昨日話したライン取りの件なんだけど……」
「うん、わかってるけど、クセになっちゃってて。でも、予選ではとにかく速くないとダメなんだから、いつものように走らせてよ。その方が速いってこと、カケルもみとめてくれるよね?」
「そりゃ、確かにそうかも知れないが。蓮が速いのはあの危なっかしいライン取りのお陰だけじゃない筈だよ。充分に蓮は速い」
「うーん……。かんがえてはみるけど」
駆としても、これ以上蓮を悩ませたり、怒らせたりするのは得策ではないと感じたので、「まあ、走りに余裕がある時に感じを掴んでくれればいいから」と曖昧にごまかしてしまった。
アドバイスをする、とは言うものの、個性を殺して枠にはめようとしてタイムに悪影響を及ぼすような事態になっては元も子もない。まだ駆にはその見極めが充分についていなかった。
(ともかく、マシンのほうは問題なく仕上げておかないと……)
スペンサーと話し合いながら、ブレーキバランスとウイングの他、いくつかの手直しをマシンに施し、午後の予選に臨む。
予選に与えられた周回数は十二周のみ。そのうち、コースに出る周とピットに戻る周はアタック出来ない為、基本は出る周、アタックする周、戻る周の三周を一セットとして四回のアタックを行う。
その四回のアタックの結果、蓮の予選順位は十二位。一方のフィールセンは七番手につけて面目を保った。
「前より悪くなりましたね」
モーターホームの中。ニコルソン監督の前で、駆はうなだれた。マシンセッティングに対する自分の理解の浅さもさることながら、やはりライン取りのスタンスを変える、などというアドバイスをして蓮を困らせた事を反省する。
「気にすることはない。ルーキーが二戦目で、この位置なら上出来だ。それに、理由は判っている」
ニコルソン監督はそういって元気をなくしている駆の肩を叩いた。
はっとなって駆が顔を上げる。
「コーナーのインに切れ込んでいくライン取りを変えるように言ったんだろう?」
「はい。ですが、予選の時までその通りにしなくてもいいと言っておくべきでした。決勝の完走に向けて、マシンとタイヤの負担を和らげる走りを覚えても悪くないと思ったものですから……」
「いいんだ、それでいい。ワシ等も前から判っていたことだからな。……どうやらレンはカケルの事が気に入ったらしい」
「そうなんですか?」
「ああ。アイツはことレーススタイルに関しては頑固でな。ワシやスペンサーがいくら言っても、あの走りを変えようとはしなかったんだ」
「でもそれで、予選のタイムまで落ちてしまったんじゃ意味がないです」
「いや。今回の経験が、決勝につながってくる。絶対にな」
ニコルソン監督は力強く言った。駆も、そうなればいいと思いたかったが、気は晴れなかった。
やるだけのことをやったか、と言えば必ずしもそうでないことに気づいていたからだ。
(調整出来るのはウイングやギア比、サスペンションだけじゃない。タイヤ空気圧、車高、キャンバー、ブレーキバランス、デフロック、その他にもいじれる箇所は無数にある。それらは全て意味があるんだ。もっとその組み合わせを理解しなきゃ、到底ジャックウェルの戦力になれない。蓮の役に立てないってことだ……)
結局、予選結果は第一戦に続いてマクラーレン陣営が第一列を独占し、その背後にフェラーリ勢がつける格好となった。タイトル争いは実質的にこの二チームに絞られた、と気の早い関係者は早くも結論づけているほど、その実力は一段上を行くと思われた。
翌日。決勝が始まる。
レッドランプが消えた。と同時に全てのマシンがタイヤスモークを絡ませたタイヤが路面をグリップし、弾かれたように車体を前に押し出す。
ロケットスタートで順位を一つでもあげようと各マシンが競り合うのはいつものことだが、スタートにつきもののアクシデントが今回も発生した。
八番手につけていたEARのラシアノ=ゾータのマシンがスタートに失敗してエンジンをストールさせてしまったのだ。エンジンの止まったマシンは路上におかれた巨大な障害物となって、後続のマシンの眼前に立ちはだかった。
スターティンググリッドから飛び出すと同時に、車体を左右に振って前車の横をすり抜けようとしていた後続のドライバー達は、F1ドライバーでもなければ到底反応しようのない状態でありながら、逃げ場のない状態で懸命にマシンを操り、クラッシュを回避する。
しかし、後方につけていたマシンは前の状況が判らない状態で飛び込み、何台かがもつれ、弾きあってマシンを損傷してコース上に残された。
十二番手スタートだった蓮はあやうく回避に成功した。そんな危険な状況にあってでさえ、前方のマシンの間をみつけてマシンのノーズを向けて、すり抜けていく。
巻き込まれなかった全てのマシンが第一コーナー直後の下り坂にあるシケインをクリアし、直線区画に入ったところで、ようやく混乱は収まったが、セイフティカーによる先導の措置が取られていた。これにより、追い越しが禁止される。スタートライン前後でエンジンを止めてしまったマシンや、パーツの破片が残ってしまっている為だ。
(レース中断にならなくて良かった……)
と、駆は思った。蓮の順位はいくらかあがっている筈だ。とりあえずマシンにトラブルを抱えていない状態で走っているのだから、マシンを損傷させたドライバーよりも条件は有利になった筈だ。
赤旗が振られた場合は再スタートとなり、マシンを壊してリタイアとなったドライバーもスペアマシンに乗り換えて、何事もなかったかのようにレースに参加出来るのだが、どうやらその措置はとられないらしい。
屋根につけた警告灯をフラッシュさせるセイフティカーが、タイヤをきしませながらコース上へと飛び出してきた。隊列を組んだマシンの群をセイフティカーが先導して三周。ここでレース再開を告げるグリーンフラッグが打ち振られ、セイフティカーはピットロードへと退避していく。
再びフェラーリとマクラーレンの四台が上位で激しい戦いを繰り広げる。その間に、蓮は懸命に中盤からのステップアップを計っていた。
駆に注意された通り、ほとんどのコーナーでの進入を教科書通りのライン取りで走る。それでも、マシンの限界ぎりぎりを本能的に掴む彼女の才能のたまものか、コーナリングのスピードはトップドライバーと比較しても全く遜色がない。そして、先行するマシンの背後から、マシンの鼻先が相手マシンのテイルランプをつつくほどに接近する。
テイル・トゥ・ノーズと呼ばれるこの態勢に入ると、前のマシンが空気を高速で通過する際に後方に生み出される乱気流の中に入り、空気抵抗を減らすことが出来る。それによってマシンに余力が発生し、そこから躍りだした一瞬は前を行くマシンよりスピードが乗る事になる。
蓮はスリップストリームを使って相手マシンに充分に引っ張って貰ってコーナーの入り口まで差し掛かると、例のインに早めに切れ込む得意のライン取りで、鮮やかに追い抜いていく。
彼女の前でトップ争いをするマクラーレンとフェラーリはピットストップの回数が異なり、その為タイムに差がつきはじめた。ピットストップ回数を敢えて二回に増やし、その分燃料を少なく積んだフェラーリのほうが速いのだ。
レース前半が終わる頃には、フェラーリのバリチェスが油圧系のトラブルで、トップを快走していたマクラーレンのルッキネンもエンジンのトラブルを抱え、それぞれピットに戻ったままリタイアとなった。
後半、トップを奪ったのはピット回数を増やしてラップタイムを縮めたアルベルト=シューバッハ。二位にランディ=クルサージがつけ、レースは進む。こうなると、ピットの戦略が奏功したシューバッハは圧倒的に速く、手がつけられない。
だが、ジャックウェルのピットで蓮とフィールセンの走りを見守る駆達には、それを悔しがっている余裕は無かった。
上位陣の脱落もあり、フィールセンが二度のピットストップによる給油とタイヤ交換を済ませてコースに復帰した時には、いつの間にかその背後に、先に既に二度目のピットを終えていた蓮がつけていたのだ。
七番手スタートのフィールセンもそれまで順位を落とさずに頑張り、上位二人が消え、一台をオーバーテイクした結果、四番手にまであがっていた。だが、蓮はホームストレートから外周部の終わりにかけて、給油を終えたばかりで重く、タイヤの暖まり方も充分ではないフィールセンの背後に忍び寄っていた。
そして、コースのおよそ中間地点、インフィールド・セクションにあるピニェーリニョ・コーナーで、早めにインに突っ込む得意の走法で、フィールセンのライン上にマシンを滑り込ませ、難なくフィールセンの頭を押さえてかわしてしまった。
「またやりやがった!」
声を荒げたのは、ジャックウェルのクルーの中でもフィールセン担当のメカニック達だ。
モニタ映像でその瞬間を目撃した駆も、思わず額に手を当てて天を仰いでしまった。
だが、やってしまったものはもはやどうにもならない。今、彼女にフィールセンを前にいかせるように指示したところで耳に入るとは思えないし、実際問題として先に給油を済ませてマシンの軽い蓮のほうがキレのある走りをみせていたのだ。
蓮は四位に満足せず、三位走行のベネトン・プレイライフのジャンピエロ=フィリアノ相手にアタックを開始する。昨シーズン、ジャックウェルに在籍していたフィリアノも、ここは簡単に引き下がる筈もない。両者は激しいつばぜり合いを続ける。
「こいつを抜けば表彰台だが……」
モニタをしばし睨んでいた駆は、同じくモニタに映る映像と、テレメータの伝えてくるデータを凝視しているニコルソン監督に視線を向けた。「行け」という指示を出そうと出すまいと、蓮は間違いなく最後までアタックを続けるだろう。
テイル・トゥ・ノーズのバトルは実に三周に渡って続いた。
遂にラスト五周目になったところで、蓮は第一コーナーへの飛び込みでインにノーズを突っこむことに成功し、フィリアノを抜き去った。
これで三位。
蓮の走りはなおも衰えない。前を行くマクラーレンのクルサージにすら襲いかかろうという気迫をみせたが、さすがに残りの周回数が足りなくなっていた。クルサージの後ろ姿を蓮が視界に収める事は出来なかった。
結局、優勝はシューバッハ。蓮もそのまま三位でゴール。なんと、参戦二戦目にして表彰台を勝ち取ってしまったのである。
「やったぞ!」
ニコルソン監督が歓喜の声をあげ、ピットから飛び出す。メカニック達も驚喜しながらピットレーンへと戻ってくる蓮のマシンを出迎えるべく駆け出した。駆も遅ればせながら走る。
コクピットから飛び降りた蓮は、ヘルメットを脱ぐのももどかしげな仕草で、まず真っ先にニコルソン監督に飛びつき、そのまま両手だけでなく両足も使ってしがみついた。
「やったよ! 三位!」
蓮の高い声も歓声にかき消される。
駆も声を掛けようとしたが、我がちに押し寄せるメカニック達と、さらには報道陣が入り乱れた騒ぎとなってしまい、蓮の元に近づくこともできなかった。そうこうしている間にも、表彰式の準備が整えられていく。
三位までに入ったマシンが表彰台の前に並べられる。グランドスタンドに面した表彰台に、まず優勝したシューバッハが立つ。次いでクルサージ、その後で蓮の名がコールされ、拍手と歓声を受けてシューバッハの両側の一段低い位置に上がる。
シューバッハよりも頭二つ分は背の低い連が表彰台に上ると、優勝したシューバッハに対してよりもなお、惜しみない賞賛の拍手がおこった。それがフェラーリとマクラーレンの牙城の一角を崩した小さな英雄への、掛け値無しの評価だった。
ブラジルのスポーツ省大臣に就任しているサッカーの『神様』ペレの手によって、F1の『皇帝』シューバッハに優勝カップが渡された。蓮もクルサージの後で、一回り小さなサイズの入賞カップを貰う。
三人がそれぞれのカップを足下に置くと、今度はモエのシャンペンが渡される。四リットルも入るシャンペン・ファイト用の特別に大きな瓶で、蓮は持っただけでふらつくのではないか、と見ている駆のほうが心配になった。
シャンペンファイトが始まる。最初のほうはシューバッハもクルサージも蓮に対して遠慮じみたかけ方しかしなかったが、それも蓮のはしゃぎようをみて、すぐに普段通りの応酬へと変わっていった。
こうして、女性ドライバーが史上初めて参加した表彰台は終わった。スーパールーキーの登場に、観客は大いに盛り上がっていた。
蓮のインパクトの前では形無しだったとはいえ、もう一人のルーキーであるウィリアムズのジェイソン=バトルも六位入賞を果たし、その走りをアピールしていた。蓮にオーバーテイクされたフィールセンも五位入賞で、最低限の面目を保った。
表彰式の後で、上位三名には共同の記者会見が義務づけられている。今日ばかりは、二戦連続優勝のシューバッハも、初戦でつまづいたマクラーレンにどうにかポイントをもたらしたクルサージも、蓮の前では主役を譲らざるを得なかった。
「表彰台に立てたのはうれしいけど、まだ上に二人いるんだよね。ボクは、どうせならいちばん上にいきたいなぁ」
不遜としか言い様のないコメント。だが、蓮が話すとこの身も蓋もない挑戦的な台詞も滑稽さを感じさせる。なぜなら、彼女の頬ははっきりと上気し、いつもにもましてその口調は舌足らずなものになっていた。シャンペンファイトの結果、アルコールに当てられてすっかり酔っ払ってしまっているのだ。
事実、蓮に名指しされた格好の『一番上』のシューバッハも苦笑いを浮かべて、「これまでずいぶんと長くF1で走ってきたが、これほどの脅威を感じたことはない」と言って報道関係者を笑わせていた。
「彼女のマシンにも、アルコールを飲ませてあげるのはどうかな?」
と、二位のクルサージもおどけて肩をすくめてみせる。
「……ったく、こんなのに三位取られたんじゃ、他のドライバーはたまったもんじゃないよな」
ぶつぶつと悪態をつきながら、蓮を背負った駆は、撤収作業を進めるピットのスタッフをしり目にパドックのモーターホームへと向かっていた。酔っ払った蓮は、合同記者会見が終わってすぐにすっかり寝込んでしまっていて、今も駆の背中で夢の中である。
駆の小言が聞こえる筈もなく、むにゃむにゃと日本語とも英語ともつかぬ寝言をもらしている。
「だけど、確かに蓮は三位だったんだよな。こんなに小さいのに、どうしてあんなに速く走れるんだろうなぁ……」
やっかみ、羨望、そして素直な賞賛。駆の中で、蓮に対する評価はいつまでも定まりかねていた。
この時、駆も知らなかったことがある。
記者会見が終わった後になって、各チーム関係者に思わぬ知らせが舞い込んでいた。二位になった筈だったマクラーレンのクルサージが、マシンのウイングにレギュレーション違反が発覚して失格となり、蓮は二位に繰り上がることになったのである。運は彼女に味方している筈であった。この時までは、確かに。
第三話に続く
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