瑠璃色の星 第四話
(1)
ルリが目を開けると、知らない天井が見えた。
と、自分の陳腐な表現に内心で腹を立てる。そこが病室だと、すぐに判った。妙に細長い部屋にはベッドは一つだけ。個室らしい。クローゼットや流し台なども置かれているのが見えた。妙に甘ったるい薬剤の匂いが室内に染みついている。
ルリが横になっているベットは、頭が窓際に向く格好でおかれていた。頭上を仰ぎ見るようにして見る窓の外は、次第に白み始めているのが見て取れた。つまり、夜が明けようとしているのだとルリは理解する。
ルリは何が起こったのか、頭の中で整理する。”ウイングオーバー”に出向き、サージと戯れていたことを思い出す。その後、立ち眩みのような感覚があって倒れたところで、彼女の記憶は途切れていた。
今が夜明け前。だとすると、ほとんど半日意識を失っていたのだ、と理解する。
ふと、ベッドの右横に置かれた、箱形をした長椅子に横になったシンジがうたた寝をしているのに気づき、わずかに頬を緩める。ずっとそばに付いていてくれたのだろうかと思うと、何とも面はゆかった。
それにしても。
(この身体のだるさは何?)
全身を包み込む倦怠感と、傍らにシンジがいる安堵感を同時に内包しながら、ルリは再び身体が求めるままに瞼を閉じた。
「なんや、シンジの妹が倒れたゆうて聞いてなぁ。こいつが見舞いに行くんやいうてきかんかったさかいに」
次にルリが目を覚ましたのは、鈴原トウジの大声が原因だった。ルリは目を閉じたまま、その声に耳を傾ける。朝から見舞いに来てくれたらしかった。話しかけているのはトウジの妹。トウジは友人を連れてきているらしかった。
学校はどうしたんだろう。そういえば、今日は日曜日だったかな。いや、もう月曜日になってる。じゃあ、放課後なのかな。ルリがそんな事を考えていると、トウジの妹がルリの枕元にまで顔を寄せてくる気配を感じた。
「……」
言葉はない。ただ、暖かい心が伝わってくる。
「それで、容態の方はどうなんだ? なにかタチの悪い病気かな?」
「いや、医者の話やったら、ちょっと疲れてるだけやろうってな。二、三日の間、点滴して様子を見る言うてたわ」
トウジの声が、遠慮が無く響いた。「つまり、べっちょないっちゅうこっちゃ。な?」
「うん……。たぶんね」
「ほらな、安心したか?」トウジが相変わらず周囲をはばからない語調で、友人に言った。「にしてもなあ。ケンスケ、お前の情報網は大したもんやなあ。半信半疑やったけど、まさかシンジにこない別嬪な妹がおったとはなあ」
「だろ?」ケンスケと呼ばれたトウジの友人が自慢そうに胸を張ったのを、ルリはわずかに目を開けて確認した。
「あー、ダメよお兄ちゃん達、ルリちゃんに手出したら、アタシが承知しないから」
トウジの妹が口をとがらせる。
「アホ抜かせ、なんでお前に釘さされないかんのじゃ。第一なあ、ワイはこないなガキ――や、すまん、とにかく、子供には興味はないんや」
「ふーん」
「なんや、その目は?」
トウジと妹が、関西人らしいテンポで応酬するのを、ルリは寝たふりをしながら聞き入っていた。その内、本当に睡魔が襲ってきた。
その時、また病室のドアがノックされた。トウジと妹が顔を上げて振り返ると、花束を抱えたアキトが神妙な顔つきで入ってくるのが見えた。その後ろに、面白くなさそうな顔をしてくっついているのは、何かとアキトにつきまとっているユリカだった。
「ルリちゃんの様子は?」
足音を忍ばせて歩み寄ってきたアキトが、小声でトウジに尋ねた。
「ちょうど寝てるところです」
妹がすかさず、押し殺した結果却って耳に付く低い声を出した。
「あの、……君たちは?」
アキトが尋ねたのをきっかけに、お互いに簡単な自己紹介がかわされる。
「ところで、シンジ君はまだ来てないのかな?」
トウジがシンジの同級生であると聞かされたアキトが尋ねる。
「ああ、シンジは学校で日直の仕事があるさかい、遅れるちゅうことです。言うても、ホンマの日直は惣流で、シンジはつき合わされてるだけなんやけどな。あいつ、惣流には頭があがらんから」
「お兄ちゃん、余計なことは言わない!」妹がトウジの耳を摘まんで耳元で怒鳴る。
「ぎゃっ! じゃっかわしいわ、ボケ!」
「へ、へえ。そうなんだ」アキトは二人のやりとりに唖然としたが、すぐに少し落胆したような顔つきになった。
アキトはしばらくシンジが来るのを待っていたが、ユリカに促されるままに早々に退室することにした。最後までルリを起こすことなく、「シンジ君によろしく」と、トウジの妹に持参した花束を託して部屋を出た。
(2)
ルリに与えられた個室の病室は、第三新東京大附属総合病院のA病棟四階東端にあった。A病棟は東西に長く伸びていてエレベータが病棟の中央にのみ集中して配置してあるため、ルリの病室に足を運ぶには長い廊下を歩いてくる必要があった。アキトとユリカは連れだって、白く塗られた何かのパイプが何本ものたくる高い天井を頭上に仰ぎつつ長い廊下を戻り始めたが、ふとアキトが話し声を耳にして足を止めた。
「また、随分と景気の良い事態ではないですか?」
「皮肉は止めて下さい」
ユイが白根教授と、ルリの病室・4038号室にほど近い、階段の踊り場の隅で話し込んでいた。
「しかし」白根はどこか愉快そうだった。「これで、”R”計画は完全に向こう――、ドイツ第二支部に委譲することになる。碇君達、人工進化研究会のメンバーにとっては残念な結果だが、致し方あるまい。ところでこの事態は、全く予測が付かなかったのか?」
「いいえ」眉間に溝を刻んだユイの口調は沈痛だった。「引き金となったのは恐らく第二次性徴です。体調不良は予見されてはいました。無論、ここまで深刻な影響を及ぼすとは想定外でしたが……。外部での生活による影響とは考えにくく……」
「しかしそれでは、実験そのものを根底から見直さなければなるまい。いずれにせよ、詳細の研究は第二支部に委ねることになるわけだが」白根の目に侮蔑的な色が宿った。
ユイはがっくりと肩を落とし、何度も頷いた。
「ええ、ええ。仰るとおりです。今は実験も研究も関係なく、まずルリの健康を守ることを考えなければ。星野博士にも顔向け出来ません」
「無論、”R”は何しろ貴重なサンプルですからな」
「白根教授。いい加減、その非人道的発言をお控え下さい」流石にユイが気色ばむ。
「失礼。とはいえ、遺伝子操作のどの段階をして非人道的とラインをひくかは、難しいものがありますな。第一、研究の発端は――」
そのときユイが、通路に立ち止まって二人の会話を眺めているアキトとユリカの視線に気づき、咳払いした。
白根の、眼鏡の奥に光る酷薄そうな瞳に射すくめられ、アキトとユリカはそそくさとその場を逃げ出した。
追われるようにエレベータに飛び込み、一階へのスイッチを押したアキトは、耳に飛び込んできた断片的な言葉を思い返して、不気味な胸騒ぎを感じていた。
「ねえアキト、さっきの一体、どういう意味だったんだろ……?」
ユリカが尋ねる。彼女の場合、不安と言うよりは興味が先に立っている。
「遺伝子、研究、実験? まさかルリちゃんの事じゃないだろうな」
アキトはそれには答えず、難しい顔つきで一人思案していた。あまり楽観的な考えは浮かんでこなかった。
(3)
結局、やたら日直の仕事に細かい注文を付けるアスカにつき合わされ(というより、一方的に働かされ)、シンジが病室に顔を見せた時、室内には夕焼けの茜色に染まっていた。
「なんや、ここまで遅いとはなあ。待ちくたびれたでえ」
帰りそびれていたらしいトウジが投げ遣りな声を出し、椅子から腰を浮かせた。
個室の奥隅にあるキャビネットの上に置かれた花瓶に、アキトが持参した花束がトウジの妹の手によって生けられている。ふと、シンジの目が細められたのが、その花に目を留めたからか、それとも単に夕焼けが眩しかったのか、トウジの見る限りは良く判らなかった。
「……ああ、ゴメン。ちょっと手間取っちゃって。それに、家にも一度寄っていたから……」
シンジが申し訳なさそうに言い訳した。見れば、学校から直接足を運んだトウジやその妹と違い、シンジは私服に着替えていた。
「まっすぐ来たら良かったんちゃうんか……? ああ、そういうこっちゃな」
少し怪訝そうな顔になったトウジだが、シンジが大きな鞄にあれこれと荷物を詰め込んで持ってきているのを見て、得心したように大きく頷いた。
「いざ入院ちゅうことになると、身の回りの物があれこれと入り用やからな。流石にシンジは手回しええがな」
「お兄ちゃんとは大違い」すかさず妹が茶々をいれ、また漫才が始まった。
「昨日泊まったとき、いろいろ不便そうに感じたから、それで……」
自分の言葉を全然聞いていない二人を横目にしたシンジは苦笑いしながら、持参した荷物を鞄から出し始める。真っ先に取り出したのはルリが愛用しているモバイル機”オモイカネ”である。日頃はあまり他人に触らせないルリの宝物だが、この非常時では許してくれるだろう、シンジはそう思っている。最近では電磁波対策も進み、病院で伸しようも差し支えが無くなっている。
「そういや、惣流の奴はどないしたんや?」
「え? アスカなら帰ったよ?」シンジがごく当然といわんばかりの声を出す。
「なんや、薄情なやっちゃなあ……」
対照的に、トウジがあきれかえった声を出して首を振る。
「そうじゃないよ」シンジが、ルリの水玉模様のパジャマを入れたナイロン袋を取り出しながら言った。これらを持ち出す時は、流石に額に汗が吹き出るほどの勇気を必要とした。「アスカは、ルリが身体壊して寝込んでるところを見るのが辛いんだと思う」
「……そりゃ随分と、好意的誤解すぎると思うがな。ま、シンジがそう思うんやったらワイには言う言葉は無いけどな」
トウジは納得しかねる口調ながらも、厳しい表情を緩めた。
トウジ達が帰った後も、シンジはあれこれと個室の中を動き回り、衣類や洗顔用具、飲食良品など、長期滞在に備える準備を整えた。
「何ヶ月でも住めそうですね」横になり、点滴の針を左腕に指したままのルリが小さく微笑む。
「ちょっと、大げさだったかな? あれもこれもって考えてるうちに……」
ようやく荷物を出し終えたシンジが照れ笑いをして、わざとらしく頭をかいた。ユイから、「ちょっと体調を崩しただけ」とは聞かされていたものの、具体的な病名などは伺いようもなかった。その為か、シンジは漠然とした不安を感じずにはいられず、こうした大げさな態勢で病室に来てしまったのだ。
勿論、妹の為に最善を尽くすことが兄としての勤めだという気負いもある。
結局その日も、シンジは病室に泊まる事にした。仕事柄か、担当医とも個人的に親しいらしいユイの話を聞く限りはそれほど深刻になるほどの病状ではないらしいが、シンジはどうしてもルリの居ない家に帰る気になれなかった。
(4)
その夜。
物入れ兼用の四角い椅子に座ったまま、いつの間にか眠り込んでいたらしい。
シンジは、ふとした拍子に耳に飛び込んできたルリの苦悶の息づかいにハッとなった。
「ルリ!」
慌てて顔を上げる。途端に、ルリの甲高い声が投げつけられる。
「見ないで!」
わずかな月明かりが差し込むだけの真っ暗な部屋。ベッドの上のルリは頭までシーツをかぶったまま、荒い息をついていた。
「どこか痛むの、苦しいの?」
今までに聞いたこともない口調のルリにとまどいながらも、シンジは優しく声を掛けて腰を浮かせ、歩み寄る。
「ダメ、来ちゃダメなの! ……うっ」
ルリがひときわ苦しげなうめき声をあげると、寝返りを打つようにしてうつぶせになり、それから四肢を踏ん張って懸命に身体を起こそうとする。シーツが身体から落ちる。青ざめた顔には、異常とも思えるほどの量の汗が吹きだしている。
「ルリ……」
「っう、うああ、くうっ、ダメ、……ダメ、ううっ、ああっ!」
ルリが悲鳴を上げ、弾かれたようにのけぞる。次の瞬間、シンジは信じられない光景を目の当たりにした。
ルリのパジャマが背中から裂け、黒い何かが二つ、活火山の火柱のように吹き上がった。細長く伸びたそれは左右に分かれ、炎のように揺らめきながら形を整えていく。
「……翼!?」
舞い散ったそれの破片が自分の頬を撫でた時、シンジはそれが羽根であることに気づいた。ルリの背中からは、身長よりも長い翼が二枚、生えていたのだ。
「一体、これは……」
喉が詰まったかのように潰れた声を絞り出すシンジ。妙に冷え切った頭の一部では、天使の翼にはほど遠いな、という言葉が同じ場所をぐるぐると渦巻いている。ルリの背中から噴き上がった翼は、闇よりも濃い漆黒をしていたのだ。
「……お兄さん」
ルリは、泣いていた。今までほとんど取り澄ました顔しかみせなかったルリが、自分の身に起こった現実に耐えきれず、大粒の涙をとめどもなくこぼし、汗と一緒になって頬をぬらしていた。
「ルリ……。気分悪い? 苦しくない?」
シンジは懸命に気持ちを沈めながら、ルリに尋ねた。声が裏返りそうになる。目の前にあるのは理解できない事態だが、ルリがルリであることに変わりはない。そう、シンジは信じた。
「大丈夫……。気分は、悪くない。息も、苦しくない」
ルリがしゃくりあげながら、自分でも不思議そうな声で答えた。
「そ、そう。良かった」何が良いのか自分でもまるで判らないまま、シンジはかくかくとぎこちなく頷いた。「すぐ、お医者さんを呼んでくるよ」
「待って!」
背を向け掛けたシンジを、ルリが呼び止める。シンジが振り向く。ベッドの上にすらりと立ったルリが、まっすぐにシンジを見つめていた。その背中には、天井に届きそうなほどに伸びた翼。
「……一緒にいて下さい。私一人だと、不安だから……」
「でも……」
「身体は大丈夫ですから」
「判った」
シンジはしばらくためらった後、ゆっくりとベッドの端まで歩み寄る。そのまま、左腕で腰を下ろしたルリの肩を抱いた。左手の指が黒い翼に触れる。
「翼も、触ってるのが判る?」
ルリがシンジの腕の中で、こくんと頷いた。
「大丈夫だよ。何があっても、ルリは僕の妹だから」不思議と、気負いもなくその言葉が口をついた。
「はい……。ありがとう、お兄さん」
(5)
シンジは何の前触れもなく、現実に引き戻された。目をこすり、自分の頬を二度三度叩いて、今度こそ本当に目を覚ましたのだと確認する。全身、特に背中と脇の下にひどく寝汗をかいていた。
病室には、日の出直前のうっすらとした空の光が差し込んでいた。
シンジは恐る恐る、シーツにくるまって静かな寝息を立てているルリの元に近づいた。ベッドの左脇に置かれた大きな点滴の容器からチューブが伸び、点滴を受けている左腕がシーツから突きだしている。勢い、少し不自然な寝姿になっている。
あれは夢だったんだ。夢の中では、点滴の存在が消えていたぐらいだし。そうだよ、ただの悪夢だったんだ、と自らに言い聞かせるものの、胸の鼓動は馬鹿馬鹿しいまでに高まっていた。
「気にすることはないんだ、夢なんだから」
そう呟いてみても、どうしても自分の目で確かめておかずにはいられなかった。息を懸命に殺し、ゆっくりとシーツの端に指をかけ、ちょうどシンジのほうに背を向ける格好で眠っているルリを起こさないように気をつけてめくりあげてみる。
当然の事ながら、ルリの水玉模様のパジャマの背中には、ひっかき傷一つついてはいなかった。
息を詰めていたこともあり、シンジの口から思わず安堵の息が漏れた。と、その拍子にルリが寝返りを打った。シンジの気配を察したのか、うっすらとルリの目が開く。
「……お兄さん?」
まだ少し寝とぼけた、はっきりしない口調でルリが問うた。
「あ、ご、ごめん。起こしちゃったね」
シンジが真っ赤になって、慌ててシーツから手を離す。
「ずっと、ここにいてくれたの?」
「うん、家にいても、気になって落ち着かないから。ああ、でも、なんだか妙な格好で居眠りしちゃったから、首が痛いよ」
照れ隠しにシンジが早口で一方的にまくし立て、情けない笑い顔を作った。ルリも穏やかな微苦笑を漏らす。
「いま、何時ですか?」
ルリの問いに、シンジははめたままになっていた腕時計のデジタル表示に視線を落とした。
「朝の、五時十分過ぎ」
「ずいぶん早いですね」
「ルリ、ちゃんと眠れた?」
「はい。お兄さんは寝不足でしょう?」
病身でありながら、自分を気遣ってくれることが、シンジには何より嬉しかった。
「僕は大丈夫だよ」
「でも、学校がありますよ」
「そうだね。……一眠り出来るかな」
シンジはそう言いながら、さっきまで座った格好で眠っていた、箱形の長椅子に寝転がろうとした。
「お兄さん」
ルリがシンジを呼び止め、自分の身体をベッドの左端にずらした。
「え?」
「ちゃんと布団で寝ないと、また首が痛くなりますよ。風邪ひくかも知れないし」
「一緒のベッドで、寝る、って?」
思わず”寝る”と言った瞬間に完全に声が裏返り、シンジは狼狽えて視線を外した。
「ダメだよ、そんなの……」
困惑するシンジを前に、ルリが眉を寄せ、悲しげな表情を見せる。
「私の病気、伝染するタイプじゃないですよね?」
「違うよ、そんなんじゃ!」
これ以上拒むのは、必要以上に意識しているということになりはしないか。シンジの思考はあてどもなく彷徨い、自らを納得させる方策を探し続けていた。だが結局、ルリの好意は素直に受け取っておくのが”良いお兄さん”としては一番良いのだろうと結論づけた。
「ありがとう。じゃあしばらく横に慣らせて貰うよ」
なるべく軽い調子に聞こえるように意識して言って、シンジはルリの隣りに横になった。華奢な体つきのルリと、同様に肩幅の広くないシンジであるが、やはりシングルベッドに二人が横になるにはやや狭苦しい。
ルリに対して背中を向けたシンジではあるが、背後にルリの息づかいを感じると思わず息を詰めてしまい、簡単に眠れそうに無かった。
それでも、ルリはしばらくすると再び寝息を立て始めた。自分が傍らにいることでルリが安心して眠れるのだと思うと、シンジも無意味に動揺していた気持ちが落ち着いてきた。やがてシンジもまどろみ始めた。
(6)
「……ジ、バカシンジィ!」
アスカの普段より一段と激しい金切り声が耳元で炸裂して、シンジは慌てて顔を上げた。
「なんだ、アスカか……」
状況が把握できない。アスカが怒鳴っていると言うことはここは家の自室だろうか、寝ぼけた頭でシンジはそう考える。だが、その考えがまとまる前に、シンジは強烈な打撃を頬に受けてベッドから転がり落ちた。
「この、腐れ外道があっ!」
「いたた、グーはやめてよアスカ……」
頭を振りながら周囲を見回す。そこがルリの病室であることに気づく。
これも夢か? 凄く痛いけど……。
恐る恐るベッドの上を見る。枕に頬を寄せ、穏やかな顔つきで寝入っているルリの姿があった。当然、悪夢にみた背中に翼がある様子は無い。
ほっ、とため息が漏れる。自分が痛くても、ルリの背中に翼が生えているよりはいい。やはり昨日の悪夢は悪夢以外の何物でもなかった。思わず笑顔がこぼれそうになるが、今度は背後から首が絞められる。
「スケベだヘンタイだと思ってたけど、まさか妹に夜這いかけるなんて、見損なったわ! 死になさい、そうよ、しんじゃえ!」
「ぐうううっ。ヘッドロックは、ヘッドロックはやめて……」
冗談抜きに息が出来なくなる。シンジは懸命にもがくが、逆上して見境の無くなっているアスカの異様な力に圧倒されて身動きできない。
意識が遠のきかける、と、揺らぐ視界に、ルリがゆっくりと目を開け、身体を起こすのが見えた。
「アンタ、このバカシンジになんかされなかったでしょうね!?」
シンジの首を絞めていたアスカが、唐突にシンジを放り出してルリに詰め寄る。
「お兄さんは、私を一晩中看病してくれました」
涼しい顔で、ルリはそう答えた。
「それだけ?」
「それだけです」
はあ、と盛大にため息をつくアスカ。ルリがベッドから上半身を起こすのを見ながら、シンジのほうを振り向きもせずに悪態をつく。
「全く、そうならそうって早く言いなさいよね。それにしても、妹と一緒に寝てるところなんて、アタシが第一発見者だったから良かったようなものの、看護婦さんに見つかったりしたら思いっきり誤解されたわよ」
「アスカだって誤解したじゃないかあ」
「えーい、やかましい」
シンジの抗議より数段けたたましい叫び声をあげて、アスカの鉄拳がシンジの頭頂部にめりこんだ。
(7)
中学校がちょうど放課後を迎える頃合いを見計らい、ナルミとアキトが連れだって、ルリの見舞いに訪れていた。ナルミはルリのことも気にかかったのだが、恐らくは相当に思い詰めて居るであろうシンジも励ませれば、と思い、シンジが見舞いに来るであろう時間帯を考えてここに足を運んでいたのだった。
本当ならナルミはアキトに店番を頼み、一人で来たかったのだが、アキトが「どうしても、気になるんです」と案内役がてら同行を希望したのだった。
ルリが倒れた時、ちょうど居合わせたのがアキトであるから、責任を感じているのだろうとナルミは一人決めをして、アキトの好きなように任せていた。家には休暇中の真崎がいたが、流石に彼に店番を押しつけるほどナルミは無謀ではない。
「ルリちゃん、入るわよ」
ノックして返事も聞かずにドアノブを回して室内に入ると、中では淡い紫色のスーツ姿のユイと、眼鏡を掛けた白衣の医師が、ルリの傍らで何事かを話している最中だった。アキトは、その医師が昨日もユイと話し合っていたのを思い出した。
「あ、……お取り込み中でしたか?」
視線が集まり、ナルミがばつの悪そうな顔をする。
「今はちょっと、この娘の今後の治療法について相談していたところです」
母親の顔になったユイが、静かな声で説明する。
「そうですか。じゃあ、席を外したほうが良いですね」
ナルミが首をすくめ、アキトを促して退室しようとしたとき、ベッドの上に上半身を起こしていたルリが突然胸を押さえ、息を荒くし始めた。
「いかん!」
それまで無表情に、ユイと話し込んでいたらしい医師が初めて生の表情らしきものを垣間見せた。胸ポケットに押し込んであった何かのスイッチを押す。
それは緊急用のブザーか何かであったらしい。間をおかず、ナルミとアキトが何事かと立ちすくんでいる後ろから、看護婦と若い医師が数名、慌てた様子で駆け込んでくる。ナルミはその勢いに思わず突き飛ばされてしまった。
だが、次第に苦しみ始めるルリの姿を見ていると、到底文句を言える状況ではない。
それどころか、険しい顔をした看護婦に、追い立てられるように病室の外に出されてしまった。
「どうしよう、アキト君……」
幾分取り乱した青い表情で、4038号室のドアを前に立ちすくむナルミが、ほとんど独り言のように呟いた。
それを聞き、同じように動転していたアキトは、逆に自分の感情が冷え、いわゆる”肝が据わった”状態になるのを感じた。
「僕たちにはどうすることも出来ませんよ。ちゃんとお医者さんがついているんですから、大丈夫ですよ」
「そうね。このこと、誰かに知らせたほうがいいのかな、ああ、頭が混乱していて……」
「そのあたりは、ちょうどお母さんが同席して居るんですから、大丈夫ですって。それに、ほら」
アキトがナルミを支えるようにして話し、さらにエレベータホールの方を指さした。
そこには、授業が終わってすぐさま駆けつけた風情のシンジが、怪訝そうな顔つきで足早にこちらに向かってくる姿があった。
ルリの発作は10分もせぬ間に収まったが、その体調は目に見えて憔悴していた。
その日の夕方に、ルリは個室の病室から、より即応体制の高い集中治療室に移された。
その場に、シンジも立ち会っていた。
「大丈夫だよ。ちゃんと直して貰えるから」
シンジはほとんど泣きそうな表情で、ストレッチャーに乗せられたルリが運ばれる速度に合わせて横を歩きながら言った。ルリを励ます言葉というよりは、もはや自分に言い聞かせるような声音だった。
ユイには、「後で話があるから、待合室に来るように」と言われていた。何とも言えぬ不吉な思いにとらわれ、シンジの顔色は、ある意味ではルリよりも冴えなかった。
シンジの呻くような激励の言葉を聞いて小さく頷いたルリは、弱々しい笑みをみせてから、
「……サージに会いたい」
と、ぽつりと呟いた。
(つづく)
『瑠璃色の星』(C)まルリ委小説製作委員会/NAMAKE企画,1998