「つまり小説を書くのを道楽と思っている人はすでに小説を書くのに必要なエネルギーの大半が欠けているわけで、こういう人の書いたものは小説の形はしていても小説ではない……」

――筒井康隆『大いなる助走』(※野田昌宏『新版 スペースオペラの書き方』ハヤカワ文庫JAより引用)












『晴れた日は屋上へ行って』
第二話『選択無き未来』




(1)


 昨晩は早々に眠りに就いたせいもあってか、翌朝は珍しく随分と早起きだった。
 浩之は自らの体内に気力が満ちているのを自覚した。
 いまだに脳裏に残る昨日の奇妙な体験の余韻を振り払うように、早朝のランニングに出かけることにする。どのみち習慣になるほど長続きするなどとは思っていない。だからこそ、たまにやる気になった時くらい、ハードにこなしておきたかった。
 トレーニングウェアに着替え、朝焼けが残る外の世界へと飛び出す。通学路としても利用する公園の外周を二周ほど走ってから、公園の中に入る。
 木陰になる片隅まで来て、スピードを緩める。呼吸を整えながら歩き、立ち止まる。ここまできたらついでにやっておきたいことがあった。
 息づかいが静かになるのを見計らい、軽く柔軟運動を行い、それからシャドーワークを始める。
 エクストリームスタイルの打撃技の基本形である拳をにぎり、ジャブ、ストレート、フックをランダムに繰り出す。足技を警戒する面から重心はボクシングのように前傾せず、フットワークにも独特の足さばきがある。
 左右の足を踏み込み、交差させ、身体を入れ替えながら自在にポジションを動かしつつ、拳がうなる。やがて、その動きに蹴りが加わる。
 膝打ち、ローキック、ミドルキック、ハイキック。拳との連携を取り、リズミカルに、しかも単調にならず、続けざまに打撃技が飛ぶ。左右のジャブで上方に相手の意識を集中させ、一歩踏み込んで左ローキックの動きでフェイントをかけ、右上段後ろ回し蹴りを放つ。「シュッ」という右足の風切り音と浩之の唇から漏れる呼気が重なる。
 すっかり素人の域から一皮むけた激しい運動を繰り返しながらも、浩之の意識は奇妙に醒めていた。エクストリームのことを考える。
 果たしてこれが、「自分が生まれてきた意味」の証明になるのだろうか。松原葵であれば躊躇無くうなずくだろう。しかし自分はどうか? 葵が坂下を破った一戦に立ち会って感動したのは事実であり、戯れに来栖川綾香と勝負して一発でKOを喰らった屈辱が浩之をして正式なエクストリーム同好会のメンバーに加入させたのは事実である。
「だからってだな……」
 一五分ほど見えない敵を相手に拳と蹴りをうち続けた浩之がその動きを止める。深呼吸して荒くなった呼吸を戻す。ある程度収まってきたところで、家路につく。もちろんランニングでだ。
 公園を出たところで、浩之は見知った顔と出くわした。相手のほうが先に浩之に気づいた。
「あ、藤田君? どうしたの?」
 高い声で話しかけてきたのは雛山理緒だった。彼女が肩に下げた独特の形状をした鞄をみただけで、彼女が何をしていたかは聞くまでもなかった。新聞配達を済ませた帰りなのだ。
「おっす、理緒ちゃん。まあなんだ、ちょっとばかり青春の気合いがほとばしってたもんで、発散させてた」
 浩之の訳の判らぬ言い回しに、理緒はどう答えてよいものか見当もつかず、はにかむような笑顔をみせる。
「しっかし、俺はたまの早起きだけど、理緒ちゃんは毎日だもんな。真似できないよ」
「そ、そんな……。私はただの仕事だし」
「あ、そうだ」浩之は突然思いついたように言った。「今何時か判る? 時計持たずに飛び出して来たもんで。陽もだいぶ高くなってるみたいだけど」
「え、……あ!」腕時計に視線を落とした理緒が悲鳴じみた声を挙げた。時間を聞いた浩之も顔色を変えた。そろそろあかりが家に顔を出していてもおかしくないほどの時間だった。
「やべ、遅刻しちまう」
「私も、カバン取ってこないと」
「それじゃ。ダッシュで帰るわ」
「うん、また学校で」
 二人は慌ただしく挨拶を済ませてそれぞれが向かう場所へと走り出した。
 その朝もまた、あかりと浩之は過酷な長距離走を強いられる羽目になった。

(2)


 朝から運動した上に朝食を取り損ねるという事態に、浩之は一限目の英語をほとんど上の空で聞いていた。寝てしまわなかったのは、やはり昨日の失態が頭に引っかかっていたからに過ぎない。
 ようやくのことで悪夢のような一限目をやりすごした浩之だが、考えたくもない事態に直面することになった。
「くっそ〜、次の時間は体育かよ……」
 運動神経の決して悪くない浩之にとっては、普段であれば体育は苦手な教科ではない。しかし、体力(と気力)を朝っぱらで使い切った風情の現状では、いささか憂鬱にならざるを得ない。
「大丈夫、浩之ちゃん?」
 基本的にA組と合同で行われる体育の授業は、女子がA組、男子がB組で着替えることになっている。着替えを胸に抱えたあかりが、困り顔で浩之に尋ねていた。
「まあな。適当に流すさ。にしても早く昼にならねえかな」
「もう……。せっかく珍しく早起きしたんだから、ちゃんと朝御飯食べてくればいいのに」
「わーってるよ」
 浩之がのろのろと席から身体を起こしたのを見て、あかりは「じゃ」と言い残してA組に向かう。
「浩之、今日の体育はサッカーだよ。久しぶりに浩之のプレイが見られるね」
 雅史が嬉しげにそんなことを話しかけてくるが、浩之にはそれを受けて立つ事さえ億劫だった。

(3)


 二限目。体育の授業。
 雅史の言葉通り、男子はサッカー、女子はバレーボールだった。
 移動式のネットで区切ってグランドを共用するため、男子は席順の奇数・偶数などを元に四チームを編成し、フットサルに近い規模でトーナメント戦を行う。女子のほうも二面のコートを用い、六チームでリーグ戦のような事をしているらしかった。
 初っぱな、浩之所属の赤チームと雅史所属の緑チームが対戦することになった。
「なんだかなあ。両チームみても、サッカー部はお前だけじゃねえか。こりゃウチの負けだろ」
 試合前、浩之が投げ遣りな口調で浩之が雅史に言う。
「浩之が本気になれば、話は違ってくると思うな」
 相変わらず、飄然とした雅史があっさりとそんな事を口にする。彼は今日の試合では本職ではないフォワードに入っていた。同じく浩之もフォワード。中盤ではしばしば接触することになる。
 前後半無しの一五分一本勝負。スタミナ切れを気にする浩之の思惑などお構いなしに、試合開始のホイッスルが鳴る。
 さっそくにボールが敵陣に渡り、雅史へのパスが通ると、俄然、敵の緑チームは速攻で押し上げてきはじめた。
(負けて、たまるか)
 ふいに浩之の中で何かが弾けた。疲労が残っているはずの全身に力がみなぎってくる。
 瞬間、景色が揺らいだ。陽光降り注ぐグラウンドが、白いものが吹きすさぶ雪原に見えた。突っ込んでくるのは<帝国>騎兵隊。本来なら方陣を作って対抗すべき状況だが、それではいずれ揉み潰される。
 ならば。浩之は決断した。
「雅史! お前の望むサッカーをやってやるぞ」
 敵の攻撃陣の中央を突き破り、その後方へと突き抜ける。その光景をありありと浩之は幻視した。
「行くぞっ!! 突撃っ! 俺に続け!」
 浩之の号声一下、彼らの赤チームが果断な反撃に転じる。緑チームに動揺が走る。
 真っ先に浩之が飛び込み、俊敏かつ強引な挙動で雅史の足元からボールをはじき飛ばす。二トップ制を敷く赤チームのもう一人のフォワードがそれを拾い、ドリブルを開始する。すぐに浩之にパスが戻ってくる。
 だが、いかんせん攻撃の展開が性急に過ぎた。わらわらと緑チームのディフェンス陣が群がってくる。二人、三人と浩之は驚くほどの敏捷さでそのタックルをかわすが、敵陣に孤立した状態でそう長くボールをキープ出来るものではない。
 いっそのこと、このままロングシュートを狙ってみるか。敵ゴールに近づけない状況に半ば絶望し、浩之は安易な逃げ道を考える。
 しかしそれは最悪の選択でもあった。
 動きにキレが無いとはいえ、戦線を押し上げてきている赤チーム。
 ここで浩之がロングシュートを放ち、相手キーパーにセーブされたら(いや、この距離では恐らく止められるだろう)、手酷いカウンターを喰う恐れが高かった。
 なんということだ。いい加減、自棄になりかけたとき、後方から声が響いた。
「藤田を救けろ!」
 赤チームの矢島が、ミッドフィルダー二人を率いて駆けつけてくるところだった。
「終わらせてやる!」嬉々とした声の雅史も突っ込んでくる。「浩之のサッカーをここで終わらせてやる!」
 畜生。気に入らない。気に入らないぞ。
 全てを怨嗟するような視線で周囲をねめまわしつつ浩之は思った。たかが体育の授業のサッカーじゃないか。もっと気楽で、楽しいものであるはずなのに。こんなサッカーは、大嫌いだ。

(4)


 浩之が雅史と苦闘を繰り広げている頃。
 女子の六人制バレーボールはどこか緊張感にかける、正月の羽根つきのようなテンポでボールの応酬を続けていた。
 男子同様、A組・B組混成のチームの対戦。同じクラスの保科智子とあかりが敵同士となって試合が行われていた。
 これまであかりは鈍い運動神経ながら目立ったミスもなく、ボールを拾い続けている。
 もちろんスパイクなどという高等技術に縁はないが、それは他のクラスメイトも同様であり、彼女は気にも留めていない。あかりにとって、バレーボールとは飛んできたボールをレシーブするゲームであった。
 サーブ権は相手チーム。
 エンドライン後方に立った智子がサーブの構えを取る。
 智子はその気性故か、安全サーブと呼ばれるアンダーハンドではなく、オーバーハンドからサーブを放ってきた。
 低い弾道でネットを越えたボールが、後列に入るあかりの元へと飛んでくる。
(これは、エンドラインを越える!)
 あかりはその軌道を目で追いながらそう判断した。ちょうど自分の頭をかすめるようなコースを描いている。彼女は身体を横にずらせてそのボールをかわすことにした。
 だが。
(あ、あれ? 身体が動かない!?)
 手を組み、レシーブの構えをとったまま、あかりはその場に立ちすくんでしまっていた。ボールが眼前に迫ってくるのに、凍り付いたように身動きがとれない。
(当たる!?)
 瞬間的なパニックに襲われたあかりは思わず目を閉じていた。

(5)


 着弾の衝撃に本能的に身構えた瞬間、巨大な水柱が三本、艦の背後に噴き上がった。
 至近と呼ぶにはやや距離があいているが、それでもその衝撃波が船体を細かに震わせる。
 いわゆる遠弾であるから、日本戦艦を語る際の枕詞である水中弾効果に関しては考慮する必要はない。
 砲撃を受けた艦は奇妙な姿をしていた。
 前甲板に集中して配置された三基の主砲塔。艦尾から左舷半ばにかけて伸びる、現代であればアングルド・デッキと称されるであろう飛行甲板。工費と工期の削減を理由に採用された愛想のない筒型艦橋。日本人の美的感覚にはひどくそぐわない、アンバランスな艦がそこにいた。
 航空巡洋戦艦『高台』。
 艦尾には白地に赤い星を描いた人民海軍旗が翻っている。
 昼戦艦橋でツァイス製の双眼鏡を構える神岸あかり中将が、一瞬垣間見せた緊張を取り繕うように目尻を下げた。
「やっと撃って来たね。何度やっても慣れない。当たるかと思った」
 正直な安堵の声に、艦橋の要員が概ね好意的な表情をみせる。
 あかりの双眼鏡越しの視線、その先には、第三砲塔の三本の砲身をこちらに向け、反撃の意志を明確にした、あの懐かしい『大和』の姿があった。
 反撃を受けるのも当然であった。
 あかりが実質的に指揮をとる『高台』は連装三基、計六門の四五口径三十六サンチ砲を振り立て、最大戦速で突進しながら一斉射撃を続けているのだ。

 『高台』は北日本民主主義人民共和国が独自に設計した艦ではなかった。ロシア艦を貸与されたものでもなかった。その原型となったのは、今は亡き帝国海軍が作り上げようとした通商破壊艦『高千穂』であった。
 発想はともかくとして、その内実はひどく日本人好みのするケレンに溢れていた。
 無論、それは経験則から導き出された存在であった。通商破壊に関する、大西洋でのいくつかの事例があった。
 しかし彼らはむしろ、通商破壊という経済的効果よりも、一隻の大型通商破壊艦が暴れ回ることによって鼻面を引きずり回された艦艇の質および量に着目したのだった。
 その裏には、海軍伝統の漸減作戦――短期決戦思想が存在していた。ようするに一回こっきりの大海戦で、全ての決着を付けようという考え方である。日露戦争において海軍はそれに成功を収めていた。
 しかしながら、東郷平八郎が率いた連合艦隊は、ロシアが有していた全ての艦隊をただ一度で粉砕した訳ではなかった。彼らが屠ったのはあくまでもバルチック艦隊というロシア海軍の一部の艦艇でしかなかった。
 一撃の下に、とはいうものの、その本質は各個撃破――こちらの全力で、敵の一部を順々に潰していく――なのである。
 日露戦争以後、アメリカを仮想敵とした日本海軍が恐れたのは、彼らが文字通りの全力で殴りかかって来たら、という想定であった。無論、米海軍は太平洋だけでなく大西洋にもかなりの規模の艦隊を貼り付けておく必要がある。
 それでもなお、太平洋側に存在する全ての艦艇が一丸となって日本に押し寄せてきたら。本当に漸減の末の決戦で勝利できるのか。
 そこで彼らが着目したのが通商破壊艦であった。彼らはそれを、短期決戦時において米艦隊の一部を引きつけ、翻弄する目的で建造することを決め、設計を開始したのである。時に昭和九年のことである。
 漠然とした高性能を求められた通商破壊艦――予定艦名『高千穂』は、帳尻あわせ気味ながら、その要求に応える設計となっていた。三十六サンチ砲六門に加え、連装魚雷発射管二門を持ち、さらに航空機を常用一六機、補用四機搭載出来たのである(攻撃力としてではなく、防空力を強化する目的が全てであり、戦闘機のみ搭載されることになっていた)。
 むろん、通商破壊艦としてみるかぎり、まともな艦ではなかった。三六センチ砲六門は商船相手には火力過多であるし、搭載する航空機も同様であった(直掩用の戦闘機は爆装可能を前提とされ、爆弾倉も設けられていた)。
 加えて技術的限界からドイツのポケット戦艦のようなディーゼルを採用できなかったため、通商破壊艦にとって不可欠である航続距離にも特筆すべきものはない。最高速力は二九ノット。
 大和級よりは優速だが、金剛級ほどではない。まったくもって中途半端な、人によってはまるで意図をつかめぬ存在であった。如月東あたりであれば、十点満点中二点をつけるかどうか怪しいくらいだろう。
 ともあれ、使いどころさえ誤らねば相応の働きを見せた(と一部関係者が主張する)『高千穂』であるが、建造開始直後に太平洋戦争が勃発し、その運命は大きく変わった。
 誰もが気づかぬうちに、大艦隊を仕立てての艦隊決戦などというものが発生しそうもない新たな世界が現れていたのである。
 建造が遅れに遅れた『高千穂』は、船殻のみが形ばかり完成した段階で終戦を迎え、なかばスクラップ扱いで戦勝国ソ連への賠償目的で引き渡されたのである。

(それが、こうしてあの『大和』と撃ち合っているなんて)
 あかりは『高台』の変転ぶりにおかしみを覚えていた。ほとんど笑み崩れるという表情をみせている。無論それは彼女の頭脳のごく一部分の発露であった。残りの部分はいかにして、『大和』を仕留めるに至らないまでも、壊乱状態一歩手前のソ連海軍艦隊が戦場から離脱する隙を作るか、その一点に集中している。
 『やまと』の砲弾が再び降り注いだ。が、これも『高台』を飛び越えて遠弾となり、空しく巨大な水柱を三本形成したに終わった。やはり砲塔一基のみの射撃では、なかなか名中弾は得られない。

 樺太及び北海道の一部を占拠し、北日本民主主義人民共和国が興った。その軍備においてもっとも困難であったのが海軍力の再建であった。
 ハードはソ連から多少は供与されるにしても、ソフト――要するに高度な教育を受けた存在である水兵――が極端に不足していた。
 それはつまり、軍事において大概の場合最優先されるべき量(この場合は艦艇の数)の急速な確保が不可能であることを意味していた。
 可能な限り少ない数で、最大限の効果をもたらす艦を有する必要に、彼らは駆られていた。
 鋳なおされて戦車か砲弾にでもされていた筈の、『高千穂』の船殻およびその設計思想を誰かが思いだしたのは、その懊悩の最中であった。
 航空巡洋戦艦『高台』はこうして三年の空白期間を経て、建造が再開されていた。ただ、その本来の性質が正しく理解されていたか、についてはいささか疑問が残る。
 『高千穂』の敵艦隊誘出思想を称して、しばしば「一艦よく一艦隊を屠る」と言われてきたからである。これは、決戦となる海域に駆けつけることが出来なければ、その艦は存在しないも同然、という程度の意味合いだったのだが、本当にただ一隻で一艦隊並みの働きが出来ると誤解したものがいたとしても不思議ではない(なにしろ、ソ連と赤い日本である)。

 いま『高台』は、三十ノットで船体を左舷に傾けながら取り舵を切っていた。その後には、日本海軍の松型駆逐艦を接収し、それぞれ適当な名を与えられた赤い日本海軍の水雷戦隊が続いている。
 そう。『高台』はその高速性から、水雷戦隊指揮艦としての役割も与えられていたのだった。と同時に、飛行甲板を有していながら、現在のところ赤い日本は艦載機と呼べるべきものをただの一機ももっていない。格納庫はまったくの空となっている。つくづく奇妙な艦であった。

(6)


「ふん、ごっついもんやな」
 海上保安庁海上警備隊・超甲型警備艦『やまと』昼戦艦橋。
 海上警備隊第一船隊司令・兼・『やまと』艦長である保科智子一等海上保安正は思わず鼻を鳴らしていた。
 確かにごっついと称するべきかも知れなかった。
 かつて日本海軍のお家芸であった夜間雷撃戦術すらとうの昔に陳腐化したというのに、白昼堂々、巡洋戦艦の分際で水雷戦隊を率いて突進してくるのだ。
 しかも小憎らしい事に、奇妙な形状をした艦は(智子はそれが、かつて日本海軍が企図していた『高千穂』のなれの果てだと知っていたが、あえてその事実は過去の恥辱同様に扱って記憶の片隅に圧縮の上で押し込んでいた)、『やまと』の背後に回り込む機動を描いている。
 ふん。智子は思った。
 あのフネの艦長、相当に出来るやっちゃ。恐らくは旧軍の関係者やろな。少なくとも露助では無いわな。後方に回り込まれればそれだけこちらの攻撃力を振り向けるのが難しくなるし、砲雷撃によってフネにとっての足である舵やスクリューに損傷を被る可能性が高くなる。
 T字を描くだけが艦隊戦闘ではない、ちゅうこっちゃ。特に、今の状況に置いては。ふん。かなわんな。
 護衛艦艇の一部が迎撃に回ったが、その効果についてはやや彼女は疑念を抱いている。なにしろ既に、艦艇の多くをソ連艦隊の撃滅を果たすために投入してしまっていたからだ。
 その判断を下したのは智子ではなく、ソ連艦にめった打ちにあって沈んでしまった戦艦『アラバマ』座乗の艦隊司令官であったが、曲がりなりにも指揮権を継承した以上は最善を尽くさねばならない。
 残敵掃討はこれまでや。
「これ以上の追撃は無理やな」智子は呟いた。「そういう訳ですから、あの妙ちくりんなフネを潰して、今日のところはしまいです。よろしいでんな?」
 智子は言いながら、背後に立つ観戦武官であるヘレン・クリストファー・レミィ大佐に振り返った。言葉こそ通じないが、本質的に優れた士官であるレミィにもその意図は判っていた。彼女は軽く肩をすくめただけだった。彼女はあくまでも観戦武官であり、正当な指揮権のラインから外れている。
 智子は軽く頷いた。鼻を鳴らすのは意識的に押さえ込んでいる。
「本艦はこれより敵第二群を迎撃する。取り舵、一杯」
 関西弁を隠さぬ発音で周囲の者に宣言する。間をおかず、勢いの良い復唱が響きわたる。
 同時に、レミィのためにかなり怪しげな英訳が通訳によって為されている。レミィも賛意を示すように頷いていた。しかしその瞳はどこか悪戯を思いついた悪童のようでもあった。

「やる気になったみたいだね」
 回答を始めた『やまと』の姿を確認し、あかりは双眼鏡を片手持ちし、空いた手で髪をなでつけながら言った。
 時局の変化に伴って、彼女のトレードマークであった短い三つ編みは、肩に掛かるショートカットに変貌を遂げている。
「――ただちに突撃し、敵を撃滅すべきです」
 妙に平板な日本語で、お目付役である軍事顧問という名の政治将校が言った。
 確か名前はセリオだったか、あかりは侮蔑の視線を苦労して押さえ込みながら曖昧に頷く。
 もしかしたら、莫迦なのかしら。このフネで、あの『大和』とまともにやりあって勝てるとでも思っているの。やはり露助は海では三流なんだね。
「もちろんです。しかしながら」
 あかりは時間を惜しむように自分たちの目的が敵艦の撃沈ではなく、足止めであることを早口で説明する。無論、消極的ととられかねない単語は可能な限り使わない。
 しかし、頭の固い軍事顧問に伝わったかのかどうか。何事か、軍事常識に外れたことを並べ立てている。
(ここが恩の売り時。それを判ってないなんて)
 あかりはそれを聞き流しながら、彼我の戦況をもう一度確認する。
 巡洋戦艦二隻を失って壊走中のソ連艦隊は、『大和』をこちらにひきつけたことで、間もなく戦場を離脱できる距離にいる。あともう少し、あの巨艦の後方でうろついてみせれば。
 『高台』は、巴を描くように取り舵をうち続けている。
 速力が『やまと』よりも優越しているため、『やまと』はなかなか決定的な体勢をとる事が出来ずにいる。後甲板に配置された第三砲塔を振り立てて盛んに射撃しているが、あかりが絶妙の不規則さで舵の切り具合を調節している為、未だに夾叉出来ていない。
 それは常に船体を傾斜させながら突っ走っている『高台』も似たようなものだった。もっともこちらは、初めから当てるつもりで射撃を行っている訳ではない。
 ただひたすら、『大和』の周囲に着弾し続けるよう、一斉射撃を続けているだけである。三六サンチ砲で大和級戦艦のヴァイタルパートを破ることは不可能であるからだ。
 撃ち続けることで相手にプレッシャーをかけ続けること。『高台』はただそれだけで、与えられた任務を達成しようとしていた。
 アートオブウォーを気取る余裕があるわけではない。あかりは赤い日本の国家主席が「世界を革命する力を持つ我等が『高台』」と評したこのフネの実力では、それが限界だと考えていただけだった。もちろん言葉にはしない。
(あとは、頃合いを見計らって本艦の高速性を活かして離脱するだけ。足の速さしか頼るものがないなんて、まるで“私に名前の似た人”みたいだけれど)
 その時、ついにソ連艦隊を放り出して回頭していた『大和』が旋回の末に第一、第二砲塔が『高台』に対して射角を得る位置関係を作りだした。轟然と九門の四十六サンチ砲が吼えた。
「そうそう当たるものでは無い、ですよ」
 あかりは青い顔をして立ちつくしている軍事顧問を安心させるように、『大和』から視線を外して振り返り、言った。
 『高台』の船体が、あかりが今まで経験したことのない重い衝撃に襲われたのは、その三十六秒後であった。

(7)


「あ、あれ?」
 着弾の感触というよりは、まるでボールを頭にぶつけられたような……。え、え?
 あかりはゆっくりと意識を取り戻した。青い空が見え、自分の周りを取り囲んでいるクラスメイトの顔が見えた。
「あかりはホント、ドジなんだから」
 心配げな表情を見せていたクラスメイトが安堵の笑い声をもらす。
「……被害状況は?」
 頭の混乱が収まらないあかりがそんな言葉を漏らすと、クラスメイトが一斉に噴きだした。
「あかりの頭レシーブでボールが明後日の方向に飛んで、一点取られちゃったわ。あと、あかりがそれで伸びちゃったことくらいね。被害といえば」
 クラスメイトの一人がそう説明しながら、大の字にひっくり返っていたあかりの手を引いて立たせる。
「ほんと、大丈夫? 保健室行こうか?」
「ううん。なんともないから」
 軽く頭を振り、あかりは土埃を払いながら言った。顔を上げ、ネットの向こうにいる智子の表情を伺う。言葉で説明するのは難しいが、彼女であれば自分のみた白昼夢を理解してくれるように思えたのだ。
 智子もあかりのほうを見ていた。その顔には、なんの表情も浮かんではいないように見えた。しかし、眼鏡の後ろに隠された瞳が動揺に震えているようにあかりには思われた。
(どうしてあんな夢、みちゃったんだろう……?)
 この段階では、彼女には昨日の浩之の奇行と結びつけて考えることは出来なかった。悪夢は密やかにして確実に、彼女たちの足元に忍び寄っていた。

 第三話『混乱状況』につづく