「感想を述べてもいいですか」
「感想を聞くのは大好きだ」
「あなた、少し気狂ってますよ」
「うん、そうだな」男は満足げにうなずいた。
「俺もそう思うんだが、なかなか世間が気づいてくれない」

――引間徹『19分25秒』(集英社文庫)












『晴れた日は屋上へ行って』
第三話『混乱状況』




(1)


 2−B教室。
 半ば以上苦痛でしかない四限目の授業がチャイムと共に終わりを告げる。
「大丈夫か?」
 浩之は、自分の席についたまま、どこか元気のないあかりに思わず声を掛けていた。
「うん……」
 心配してくれる浩之を逆に気遣ってか、笑顔でうなずくあかり。しかしその表情はやはり冴えない。
 あかりがバレーボールの試合中、ボールを頭にぶつけてひっくり返ったという話は体育の授業が終わってすぐ、志保から聞かされていた。当然そのことと関係していると浩之は気づいていたが、なにか隠してるようにもみえる。
「気になることがあったら、相談してくれよ」
「ありがとう。……なんだか、昨日と逆になっちゃったみたい」
 ぽつりとあかりが呟いた。
「昨日、か」
 浩之は昨日の奇妙な体験を思い出していた。正直言って、まだ違和感から立ち直れているとは言い難い。体育のサッカーでも、不思議な感覚にとらわれたことを忘れた訳ではない。
(もしかしたら、あかりも俺と同じ、あの世界を見たのか?)
 <帝国>の銃弾に頭部を砕かれた<皇国>軍の神岸あかり少尉の骸を脳裏に思い浮かべ、浩之は顔を歪めた。
「浩之ちゃん、それよりも」
 あかりが、気分を変えるように明るい声を出した。
「ん?」
「今日はパン、買わなくていいの?」
「げっ」
 良い訳が無かった。今日は朝食も食べ損ねているのだ。ここで昼飯にもありつけないとなると、午後の授業に耐えられない。
「それを先に言えよな」
 下手に他人の心配をするとこれだからな。浩之はあかりには聞こえないように口の中でだけ呟くと、脱兎の如く教室を飛び出した。
「浩之ちゃん、今日は天気も良いから、屋上で食べよ。待ってるから」
 背中からあかりのそんな声が聞こえた。

 網膜が焼け付くような強烈な日差しの元、姫川琴音は巨大な宇宙港・JSP−03、その正面エントランス前で途方に暮れていた。
 彼女の視線はツアーのガイドに連れられ、あるいは勝手知ったる足取りで続々と見学席に続く通路へと入っていく人々に向けられていた。泳ぐ瞳の中に浮かぶ、内心のどこかにある不安をうち消すことは出来ないでいた。
 今日、彼女と同じ行動をとっているクラスメイトはここにはいない。だからと言って、気が休まると一口に言えないところが彼女の厄介なところだった。あの特異な力が無ければ、本来は孤独を好む性分では無いのだ。
 琴音は、ここで落ち合うべき人物と出会っていなかった。周囲を歩み去る様々な年格好の人々の中で、彼女は自分が十五歳であることの意味を思い知っていた。
「姫川……琴音サン、ダネ?」
 背後から女性の声がした。
「ええ、はい」
 琴音は相手の顔に落ち着きのない視線を向けながらこたえた。
「Sorry.ワタシ、宮内レミィ。よろしくネ。アナタを案内するようにヒロユキに言われてるヨ」
 琴音は、はいはいと頷くしかなかった。歳上の女性との会話に慣れているわけではなかったからであった。さらに言えば、宮内と名乗った女性は派手な顔立ちのかなりの美人だった。琴音が男であれば、いささか目のやり場に困ったであろう体つきをしている。
「さて、どうする? 今すぐ中に入る? 展示物を見て回ってもいいけど、先にお昼にしようヨ?」
 レミィは尋ねた。
 琴音は、浩之の乗った宇宙往還機<プロメテウス>の帰還を見学するために、この赤道から緯度にして七度ほど北にずれた南海の孤島に作られた宇宙港に訪れていたのだった。
「あの」琴音はおずおずと訊ねた。「JSP−03って、どういう意味でしょうか?」
「え?」レミィは不意をつかれたような表情になった。肩をアメリカン・スタイルですくめ、脳天気な笑みを浮かべる。
「ワタシもよく知らないネ。ヒロユキに誘われたから観に来たダケネ。本当に知りたいんだったら、トモコに聞いてあげるヨ? ここの主任管制官だから、いつでも大丈夫ネ」
 琴音は安堵するような笑みをみせ、いえいいですと言った。レミィもなにが可笑しいのか笑っている。
 楽しげな声でレミィは再び訊ねた。
「ねえ、これからどうする?」
 レミィはおどおどしている琴音の顔を面白そうな顔でみつめた。
 己の容姿に劣等感を持たぬ女性にとって、年下の同性はおおむね不愉快な存在ではない。とくに、彼女が自分の支配を受け入れる態度をしめしているときは。それに、レミィが案内することになった琴音のみかけはそれほど悪くはなかった。
 レミィは優越感を楽しむことにしていた。あわれな琴音に話を続ける。相手も決して不快を感じていないことに、彼女は気づいていた。
 昼御飯はなんにしようか? なんだか暗いネ、なにかあったの? えっと、なにがいいかな。どうせヒロユキが出してくれるんだから、ちょっといいものを食べようヨ。さて、姫川琴音サン。なにか反対意見ハ? Ok! Follow Me!

「……どうして」
 琴音が足を止めた。
「え?」
 レミィが怪訝そうな顔で振り返る。
「どうして、私がレミィさんと一緒に食事を摂らなくちゃいけないんですか?」
 困惑の色を強く浮かべた表情の琴音に、レミィもきょとんとした顔になる。
「あれ? なんでだっけ?」
 レミィは周囲を見回した。いつもとかわらぬ学校の廊下だった。食堂に向かって早足で歩いているところに、階段を下りてきた琴音とぶつかりそうになり、そして。
「なんだか夢を見てたような気分ネ。不思議デス」
 その瞬間、自分が自分でなかったような感覚を、二人とも感じていた。そのことは互いに理解していたが、うまく言葉にすることができない。
「あの、私達、初対面、ですよね」
 さぐるような目つきの琴音。
「ウン、そのはずダヨ。でも、お互いに名前知ってる、ホントに不思議」
 レミィはけらけらと笑った。対照的に冴えない顔つきの琴音は、考え込むように目を伏せた。予知能力とは違う、漠然とした胸騒ぎがしていた。

(2)


 購買部の激しいパン争奪戦に出遅れた浩之は、あまり本意ではないパン(甘い菓子パンばかり三つ)で我慢せざるを得なかった。いっそ食堂へ転進、とも考えたが、あかりに一方的に屋上での食事を約束させられたため、そうもいかなくなった。
 顔に似合わず、かどうかはともかくとして、約束は守る性分であった。

 屋上。
 そこには、すでに夏の日差しが満ちていた。薄い雲が青空を背景に流れ、ほんの時折、屋上に淡い影を落とす。
 あかりと落ち合った浩之は、さっそくに昼食を開始する。
 朝食を抜いた分を埋め合わせるように、一気にパン三つを平らげ、カフェオレで甘ったるくなった口の中を仕上げる。
「昨日から、なんだかいつもと調子が狂ってる」
 浩之は、あかりに無理に尋ねるのではなく、独り言を呟くように言った。
「そう、かな……。今日はいつもの浩之ちゃんだよ?」
 早々に食事を済ませた浩之を後目に、ゆっくりと味わいながら弁当を食べているあかりが、箸を止めて言った。
「いつもの俺なら、いきなり早起きしてトレーニングなんてするものか」
「エクストリーム、だよね。浩之ちゃん、やる気だしたら凄いから」
「そのあまり出てこないやる気が、たまたま出てきたってのか?」
「だと思うよ」
「そうか」
 いつもの、たわいのない会話になってしまった。浩之は小さく溜め息をついた。やはり自分の考え過ごしだったのかも知れないと思う。同時に安堵も抱く。あかりがあの妙な世界に巻き込まれていたら、やはり気持ちが収まらない。
 しばし沈黙が流れた。
「ね、浩之ちゃん。聞いていいかな?」
 小声で、あかりが場を繋ぐように尋ねた。
「なにを?」
「浩之ちゃんって、その、戦争とか、ミリタリーっていうのかな、そういうのって詳しい?」
「なんでまた急に?」
 浩之は眉を寄せた。戦争、と聞いた途端に、あの雪原での光景がまぶたの裏にはっきりと蘇ったからだ。しかし、あかりの言いたい戦争とは、それとは場所と時代が違っている様子だった。
「えっとね、戦艦大和って、判る?」
「ヤマトぐらいなら判るぞ。確か、沖縄に行く途中でアメリカ軍に沈められたんだ」
 浩之は曖昧な知識を思い起こしていた。どこで覚えた記憶だかは忘れたが、確かその筈だった。
「うん。やっぱりそうだよね。第二次世界大戦だよね」
 あかりは、自分でもうなずきながら、その表情にどこか納得しないような色を浮かべていた。
「どうしたんだよ?」
 浩之が尋ねる。一度は杞憂と思いかけた疑念が再び膨らんでくる。声音に真剣味が加わっていた。
「……夢を、見たの。バレーボールが頭に当たって、転んだ一瞬なんだけど」
 あかりが、うつむきながら告白した。
「それに、戦艦ヤマトが出てきたのか?」
 無言でうなずくあかり。
「あかりらしくない夢だよな、確かに」
「あの夢、いったい何だったのかな、ってずっと気になってるんだ。なんだか、夢にしてはずいぶんはっきりしていたし、意味があるのかも知れないって思う」
「夢は夢だってばよ」
 浩之はあえてぶっきらぼうに言った。もしかしたら自分に似た体験をしたのかも、と思う。しかし、理解あるふうな表現をすれば、却ってあかりを戸惑わせる。浩之はそう考えていた。
 夢は夢だと割り切っているほうが良い。
「……そうだよね」
 あかりが吹っ切れたような笑顔を見せたとき、空気の弾けるような乾いた音が屋上に響いた。
「なんだ?」
 浩之が顔を上げて、音の発生源を探す。その視界に、一人の少女が入った。
「おうい、琴音ちゃん!」
 浩之が声を出して、フェンス際に立って街の景色を眺めていた姫川琴音を呼んだ。
「あの、さっきの音で、驚かせてしまったでしょうか?」
 申し訳なさそうな顔をして、琴音が浩之達の元に歩いてくる。
「あ、さっきの、琴音ちゃんが?」
「はい」琴音が目を伏せた。「<力>を空気中に逃がしていたんですが、ちょっと、予知めいたものが見えてしまって、コントロールし切れなくなって」
 彼女の言う<力>、とは、一般的には超能力と表現されるべきものである。琴音は、いわゆる念動力と予知力の持ち主だった。とはいえ、その力を制御しきれず、持て余しているというのが実状である。
 入学当初はしばしばその<力>の暴走でガラスや蛍光灯を割り、クラスメイトから気味悪がられていた彼女だが、浩之がその制御を提案し、特訓につき合った経緯がある。
 その甲斐あって、今では放置しておけば体の中に溜まってしまう<力>を、定期的に放出することが出来るようになっている。
「姫川さん、それで、予知って?」
 あかりが尋ねた。琴音の超能力については、志保から聞いて彼女も知っている。浩之と違って、その光景を目の当たりにしたことはないが、特に疑ってはいない。メイドロボに関してもそうだが、そのあたり、あかりには桁外れの度量があった。
「はい。正確には予知というより、別世界の出来事みたいでした」
「別世界?」
 浩之とあかりの声が重なった。どちらにもそれぞれ思い当たる節があるのだが、今の段階では互いにそのことに気づいていない。
「でも、はっきりと見えた訳じゃないんです。よく判らなくて……。あ、ごめんなさい。意味のないこと、言ってますね」
 琴音が申し訳なさそうに頭を下げた。浩之が笑って首を振る。
「いや、良いよ。琴音ちゃん、またその『別世界』ってのが見えたら、教えてくれないか」
「はい、いいですけど……」
 頷いた琴音だが、どこかその目は浩之の言葉を納得しかねると言いたげだった。

(3)


 放課後。
「浩之ちゃん、これから格闘技同好会?」
 あかりが尋ねた。
「の、つもりだが、ちょっと考えてたことがある」
「なにを?」
「ここは一つ、先輩に占って貰おうかと思う」
「なにを?」あかりは同じ問いを繰り返した。
「昨日今日、調子が狂ってる理由。琴音ちゃんが言っていた、別世界ってのも気になるし。同好会は、その後だ」
 浩之は言った。人間、弱気になったときほどこの手のなにかにすがる傾向があるというが、他人のことは笑えないな、そう思っている。
 もちろん、芹香の人柄は信じるが、その占いを無批判に信じているとは言い切れないところもある。しかしそれでも、なにか他人から与えられる拠り所が必要なときもあった。

 五分後。
 オカルト研究部へと足を運んだ浩之の傍らには、あかりの姿もあった。私も夢占いでもしてもらおうかな、と言ってついてきたのだ。
 そもそもあかりは雑誌の占いなどで一喜一憂するタイプではないのだが、体育の時の出来事がやはり気にかかっているらしかった。浩之もそれを拒みはしなかった。
「ちわっす、先輩」
 部室のドアをノックしてから開け、浩之が中を伺う。
「……」
 いかにもそれらしいマントと帽子を装備して雰囲気を出している来栖川芹香が、静かに顔を出した。
「ちょっと先輩に占ってもらいたいことがあるんだけど、良いかな? あ、あかりの奴も、占って欲しいってさ」
 浩之の後ろで恐縮しているあかりのほうへ視線を送りながら、浩之が言った。芹香が頷き、二人を部室内へ招き入れた。
 分厚いカーテンで陽光を遮った部室は、ロウソクのみが光源となり、薄暗い室内を照らしている。いままであまり嗅いだことのない独特の臭気が室内に漂っていた。
「……」
 なにを占えば良いのですか? 芹香はか細い声でそう二人に尋ねながら、カードを取り出し、円卓の上に並べ始める。
「そうだな……、どう言ったらいいのかな」
 向かい合って座りながら浩之ははたと困ってしまった。夢占い、と単純に考えていたが、ここで自分のみた夢を告白してしまえば、あかりに聞かれてしまうことに、いまになって気づいたのだ。
 連れて来るんじゃなかったな、とは思ったが、あかりもまたなにか悩んでる様子が伺えた以上、しかたの無いことでもあった。
「じゃあ、浩之ちゃんと私、それぞれ、近い将来、どんな出来事があるか占って貰えますか?」
 あかりが助け船を出す。名案だと浩之は思った。とりあえず将来、悪いことが起こらないのであれば、夢のことをあれこれ思い悩まずに済む。
「そう、それで頼むよ。出来るかな、先輩?」
 こくりと芹香は頷き、しなやかな指先でカードを繰りながら、一層の小声で呪文のようなものを呟き始めた。
 静かな時間が流れた。
「……」
 終わりました。ややあって芹香がそう告げる。
「で、どうだった」
「……」
 判りません。芹香は意外としか言いようのない答えを返した。
「え、判らない? どうして?」
 彼女が言うには、二人の将来は余りにも不確定要素が多く紛れ込んでいるため、占いが及ばないのだという。この世以外のなにかが影響を与えている、とも言った。
 占いっていうのはそういうものじゃないだろう、と浩之は納得しかねて食い下がったが、芹香にとっても予想外な結果だったらしく、申し訳ありません、と頭を下げるばかりだった。
「まあ、考えようによっちゃ、うまくやれば良い未来になるってことだよな?」
 浩之の言葉に、芹香は救われたように頷いた。そのやりとりを見ていたあかりは、釈然としない表情をしていた。

 浩之とあかりが去った後、ひとり残された芹香は、しばし物思いに耽るように遠くを見る目つきで視線を宙に彷徨わせていた。
 それから、ゆっくりとした動作で立ち上がり、魔導書を片手に校舎の屋上へと向かった。
 給水塔の脇――校内でもっとも高い場所まで登り、魔導書を開く。
 そしておもむろに、わずかな風にさえ吹き消されてしまうような声で、呪文の詠唱を始める。
 彼女は、未来を変えたかった。その為の、今までに試したことすらない巨大な魔法を、彼女は完成させようとしていた。
 その兆候は、浩之とあかりを占った際にも現れていた。未来を不確定にすること、それこそが彼女の欲した魔法の成果だった。
 かといって、とりたてておどろおどろしい野望のようなものがある訳ではなかった。
 来栖川家の令嬢としての芹香の未来は、あまりに確定的でありすぎた。いや、それ以上に、浩之とあかりの間に割り込むことの出来ない寂しさを感じすぎていた。
 彼女には、不確定な未来が必要だった。ただ、それだけを願っていた。目の前に新しい世界が広がれば全てが変わる。そう、信じていただけだった。

(4)


 松原葵は出稽古に向かう道すがら、駅前の書店に入った。彼女は、格闘技以外の物事に時間を奪われることを極端に嫌う傾向の持ち主だった。限られた時間を有効活用するため、どこに行くにも早足で歩くということが癖になっていた。
 彼女はその傾向に違わぬ足取りで、わき目もふらずに目当ての雑誌架の前にくると、探していた本が残っているかどうかを確認した。
 発行部数の少ない、エクストリームを大々的に扱っている格闘技専門誌を、彼女は探していた。
 彼女の探し求めていた本は、一冊だけながらそこに存在していた。
 だが、一つだけ問題があった。そのたった一冊を手にとって広げている先客がいたのだった。
「失礼ですが」
 葵はためらいのかけらも感じさせず、自分とおなじデザインのセーラー服を着た少女に声を掛けた。今は本を買うべき時なのだ。
「何ですか?」
 いささか幼さを感じさせる声で、相手が雑誌に視線を落としていた顔を上げる。やや特徴的な前髪が跳ねた。
「貴女はその本を買われるつもりなのでしょうか?」
 葵はわずかに姿勢を正しつつ尋ねた。
「もしそうでないのであれば――ああ、つまり、私は今日、それを買うつもりでこちらへやって来たのです」
「あ、それは失礼しました」
 恐縮しながらも、葵と変わらぬ背格好の小柄な少女は、好奇心に満ちた面白そうな顔をして葵を注視した。
 彼女は手にしていた雑誌を葵に手渡し、尋ねる。
「貴女は格闘技ファンなの? こんな本を欲しがるなんて」
「ええまあ、そうとも言えるかも知れませんが」
 葵は曖昧に言葉を濁した。
 格闘技はあくまでも彼女にとって「やる方」であり、「観る方」としてのファンという立場は彼女には無縁だった。
 葵は相手の質問に対して応じている間に、格闘技以外で時間を浪費していることに急速に焦燥感が強まってきたことを自覚した。駄目、我慢できない。
「失礼します。私は松原葵といいます。放課後は大抵、校舎裏手の神社の境内でエクストリームの練習やってます。足を運んで下されば、この場の非礼はそこでお詫びします」
 早口で言った葵は相手が返事するのも待たず、手渡された雑誌を抱えるようにしてレジに向けて足早に去っていった。

 呆気にとられた様子でその後ろ姿を見送っていた小柄な少女――雛山理緒はやがて押し殺すような声で笑いを漏らした。
 彼女は自分の弟・良太が近頃「エクストリーム」という言葉を口にしながらなにかと暴れるのが気になり、その言葉の意味を知るために偶然その雑誌を手にしていたのだった。
 面白い娘、と理緒は思った。彼女の言葉を反芻する。
 「エクストリームの練習」という、さきほどは理解し損ねていた言葉の意味に気づく。
「へぇ」

 学校裏手。神社の境内。
 周囲を木々に覆われて影が多くあるせいか、それとも校舎より一段高い場所にあるせいか、午後の陽光に照らされている割には、空気は涼しげだった。
「――というわけで、来てみたんだけど」
 と、理緒。
「そんなこと、ありましたっけ?」
 葵は不思議そうに理緒の顔を見る。見覚えがあるような、無いような、説明の付かない感覚が胸に広がる。
「違ったのかな。夢だったのかな」
 理緒はしきりに首をひねっている。彼女自身、実体験だといいきれない違和感を感じていたのだ。
「……あ、でも、私、雛山先輩の名前、前から知ってましたよ。どこで聞き覚えたのかはよく判らないんですけど」
「おかしいなあ。松原さんはほら、有名人だけど。私の名前知ってる下級生なんて、そういないと思うよ?」
「そうですか。なんでしょうね」
 浩之が顔を見せたのは、理緒と葵が二人して首を傾げているときだった。
「あ、先輩。今日は遅かったですね? 掃除当番ですか?」
 葵が表情を輝かせる。既にサンドバッグを一人で太い木の枝に下げ、トレーニングの準備は整っていた。
「いやちょっと、野暮用でね。あれ、理緒ちゃん、どうしたの?」
 浩之は曖昧に笑ってごまかし、話を理緒にふった。
「なんとなく、ここに来て松原さんと話をしなくちゃいけないような気がして。でも来てみたら、なんでそんな風に思ったのか、よく判らなくなっちゃった」
 ぺろりと舌を出す理緒。
「変な話だな。ま、せっかくだから見学していったら良いよ」
 葵もはにかむような笑みを浮かべ、さあ始めましょうと言った。

「スパーリング、やらないか?」
「え?」
 練習開始からしばらくしての浩之の提案に、葵は少し戸惑った様子だった。今日の練習メニューには無いからだ。浩之はあまり練習メニューと違ったことをやらないタイプの筈だった。
「実は今日は朝練してきてるんだ」
 ちらりと理緒のほうを伺ってから、浩之がやや得意げに言う。
「へえ、凄いですね」
 素直に葵は感心している。
「一日じゃなんにも変わってないだろうけどな。ちょっと最近の成果も試しておきたいし」
「判りました。やりましょう」
 葵はすぐに明るい声で頷いた。
 二人はナックルとレガース、それに練習用のフェイスガードを付けて対峙した。

 最初は、もっぱら葵の攻撃を浩之が受け続けることになった。しかし、朝練の成果という訳でもないだろうが、浩之には葵の攻撃パターンがうっすらと見えた。致命的な一発をくらうことなく、反撃のチャンスをうかがう。
 葵の鋭く繰り出された右拳が、うなりをあげて浩之の鼻先をかすめた。これを冷静にスウェーでよける。続いて襲ってきた葵のローキックを下がってかわした刹那、すかさず踏み込んで葵の軸足へ逆にローキックを放つ。
「あっ!」
 葵が小さな声を漏らした。かまわずさらに前へと押し込む。右拳をフック気味に繰り出しつつ右足を踏み込み、左拳でボディを狙う。葵がそれを右手で払った。
 瞬間、浩之の身体が半旋回し、右足による後ろ回し蹴りが葵の側頭部を襲った。
「ひっ」
 葵が腰をかがめてそれをよける。かわすにはかわしたが、体勢は完全に崩れている。これ以上は浩之のラッシュに耐えられない。
 が、浩之は攻撃の手を止めていた。
「どうした、葵ちゃん? 俺の蹴りくらい、どうってことないだろ」
 どこか憮然とした表情で、浩之が尋ねる。
「いえ。そんなことは……」
「あるさ。かわせた筈だ」
 浩之は怒ったような声で言った。どうにも手加減をされたような気がしたのだ。
「はい。でも……」
 葵は目を伏せて、言葉を濁した。
「どうした?」
「さっきの先輩、すごく、怖かったんです。なんだか別人みたいで。凄い殺気でした。本物の殺意みたいで……。あ、ごめんなさい。真剣に戦ってくれていたのに」
 その日は結局、どこかぎくしゃくしたまま練習は終わった。

(5)


 浩之の自宅。
「今日はいつもより疲れたな〜」
 心底ぐったりとして、浩之は独り言を漏らしていた。
 芹香の占いのこと。あかりの不審な態度。琴音が言った「別世界」という言葉。葵が怯えた浩之の殺気。体育のサッカーでの奇妙な違和感。
 それらの意味を組み立てて考えると、なにか恐ろしいことが起こりそうな気さえしてくる。しかし、それをじっくり考える間もなく、浩之はベッドで眠りに落ちていた。

 周囲は倉庫ばかりで、人通りが本当に絶えていた。
 浩之は足音ばかりが響く通りをゆっくりと歩いていた。背後に気配を感じた。三人。どう考えても友好的であるようには思われない。
 浩之は殊更にしっかりとした足取りで歩き、角を曲がると同時に全力疾走した。おそらくは気配を察して三人の追撃も本格化しただろう。どうなるかな、浩之は内心に冷や汗をかきながら思う。
 扉に鍵のかかっていない倉庫の中に駆け込む。
 短銃の実包を確認しながら、木箱の陰に隠れて待つ。
 慎重とも勇敢ともつかぬ足取りで飛び込んできた最初の二人に対し、短銃を連射する。三人とも仕留めるには、短銃の構造上、飛び込んでくる間隔が開きすぎていた。装填する間が無かったのだ。仕方なく、短銃自身を投げつける。
 くの字をしている事がなんらかの空力的効果を生むのか、驚くほど力強い軌跡を描いた短銃が、三人目の頭部に命中して鈍い音を立てた。膝から崩れるように三人目が倒れる。
 三人とも戦闘力を失ったことを悟る。素早く木箱の陰から飛び出した浩之は、最初の一人が胸部に銃弾を受けてほぼ即死状態であるのを確認すると、二人目が太股に銃創を負ってはいるが、命に別状ないのに気づいた。三人目は脳しんとうを起こして動けない様子だった。
 床にはいつくばりながらも短剣を抜こうとしている二人目の右手を浩之は体重を掛けて踏みつけた。くぐもった女のような高い悲鳴。
 かまわず、浩之はその相手の腹を蹴りつけた。
「貴様等は誰だ? 俺が誰だか知ってるのか?」
 蹴っている当人ではなく、三人目に尋ねる。そいつが三人の中で頭目格だと、雰囲気から察したのだ。
 相手は浩之の言葉に応じなかった。浩之は薄く笑った。その目が冷酷な光をたたえている。
「職業倫理か。どうなんだ?」
 さらに浩之は二人目の顎を鋭く蹴りつけた。もんどりうって二人目が仰向けに倒れる。その姿勢から胸を踏みつける。
 頭目は浩之と仲間の惨状を交互に見つめた。が、何も言わない。生きているほうの仲間は泣いていた。
 浩之は溜め息をつき、情けない声をあげている二人目の傍らにしゃがみ込み、右手を掴んだ。小枝を折るような調子で、右手の人差し指をへし折る。
 新たな悲鳴があがり、頭目格が目を剥いた。
 浩之は無言のまま、親指を除く右手の指全てに同じ作業を行った。そのまま、事務的に左手に移る。
 その間、頭目格は何度かやめろ、と叫んだが無視する。
 左手も同様に四本の指を折る。浩之の口元には微笑が浮かび続けていた。
 作業を終えると、浩之は奇妙な形にねじ曲がった右手を踏みつけた。二人目は抵抗しない。もはや正気を失っている様子だった。
「頼む、やめてくれ」
 頭目格が悲鳴じみた声をあげる。浩之はそれを無視し、踏みつけ、蹴りつけ続けた。笑みが大きくなっている。
「やめてよ、ヒロ。その娘は私の大事な友達なのよ!」
 頭目格の声が、ふいに聞き馴染んだ声に変わった。はっとなって浩之はその声の主を見る。志保だった。恐怖と憎悪の入り交じった目で、浩之を睨んでいる。
 瞬間、浩之は全てを理解した。射殺され、転がっているのは雅史だった。そして浩之が散々に痛めつけていたのはあかりだった。自分が何を為したのかに気づく。
 今度は浩之が悲鳴をあげる番だった。

 第四話『虚栄の日常』につづく