第十二話

(四十一)


 大会三日目の第三試合、冲鷹高対東翔学園戦は、十二時十分に開始の予定でグラウンドの整備が始められた。
 これに先立つ第二試合では両チームのエースが踏ん張って無失点を続けた為、あわや延長かというところ、八回裏にソロホームランが飛び出し、結局これが決勝点となった。
 試合時間が二時間あまりで終わってくれたのは、聖志達にとってはありがたかった。じりじりと待っているのは精神的に疲れるからだ。

「いよいよですね。頑張らないと」
 ベンチを出るかもめが小さく呟いた。
 母親は干物工場の仕事から手を離せず、応援には来ていないという。自分の家族が甲子園に出場するというのに仕事を休ませてもらえないなんて、と聖志は腹立たしく思うが、こればかりは無理強い出来ることでもない。
 おそらく、応援団と共に行動すれば、世間体の悪いことも根ほり葉ほりあら探しされてしまうのを避けているのだろう。
 母親が応援に来られない一番の要因――父親は、この広い甲子園のスタンドのどこかで、成長した愛娘を見つめているのだろうか。
 背番号一を背負ったかもめの後ろ姿を見送りながら、そうであって欲しいと聖志は願った。たとえ、家庭を崩壊させる原因となったにせよ、かもめにとっての唯一無二の存在であることに違いないのだから。
 試合は東翔学園の先攻ではじまる。
 サイレンの鳴り響く中、マウンド上で振りかぶったかもめが第一球を投じた。身体を傾け、ほとんど真上から投げおろすカタパルト投法から放たれた鋭いストレートが、インハイぎりぎりを衝く。
 右打席でクローズ気味に構えていた一番バッター・楠が、わずかに上体をのけぞらせるようにして見送った。
 審判がストライクの判定を下す。
 観客のどよめきに動ずるそぶりもみせず、かもめは秋上からの返球をグラブに収める。
 エースの一枚看板で甲子園まで駒を進めるチームは最近では少なくなっている。かもめも県の予選から、ここまで一人で投げ抜いてきた訳ではない。
 部員数十四名の冲鷹高校野球部において、後事を託せる抑えの投手は山中ただ一人しかいないのだ。
 かもめの球筋や配球、あるいは球種といった様々なデータは、地区大会準決勝以降の登板の結果、すでに東証学園は充分につかんでいるだろう。
 それだけに苦しい展開が容易に予想された。このキレの良い速球がどこまで通じるかが勝負のカギとなるだろう。
 二球目は、再び強気のインハイ。秋上のサイン通りに、構えたミットに寸分違わぬコントロールでボールを入れてくる。三球目は、外角にカーブを落としてきた。これまでバットを動かさなかった楠がスイングしてきたが、タイミングがあわず、三球三振に倒れた。
 マウンド上のかもめは、ほんの一瞬だけ表情を崩しかけ、あわてた様子で口元を引き締めた。感情をあらわにしないよう、マウンドの感触を確かめるかのように義足の左足で蹴ってみたり、右足一本でその場で軽くジャンプなどしている。
 二番バッター・嶋木への初球は、カーブから入った。これに対し、嶋木は迷うことなくバットを出してきた。
 強い当たりだったが、セカンド・横路の正面を衝く。片膝をつく基本に忠実な動作でこれをさばいた横路はファースト・柴橋のミットに正確なスローイングでボールを送る。
(狙い球を変化球に絞っているのか。いや、これだけでそう判断するのは早計か。そう思わせたいだけなのかもしれない)
 監督としての経験が違いすぎる。どのような策を講じてくるのか、それとも明らかに格下の相手に小細工を弄する必要を感じていないのか、聖志にはまるで判らない。
 つづいて、三番バッター・色部と相対する。
 初球、低め一杯に決まるストレート。色部はやはりバットを振ってこない。
(まさかサインが漏れているなどということはないだろうが……。それとも、癖を見抜かれているのか?)
 聖志は思わず疑心暗鬼にとらわれる。ここまで迷い無くストレートを見逃されると、なにかこちらの気づいていない欠点を見抜かれてしまっている気になる。
 指示を出したい衝動にかられたが、まだ初回、それもツーアウト・ランナーなしの状態で動くのはためらわれた。ここはかもめと秋上のバッテリーを信頼するしかない、と聖志は腕を組んでマウンドを見据えた。
 秋上も変化球狙いで来ているらしいという見当はつけているようだった。外角ぎりぎりのきわどいコースに再びストレートを要求する。
 かもめの球はほぼ秋上の構えたミットの位置へと飛び込んだが、これは惜しくも外れてボールとなる。三球目。かもめはここではじめてツーシームを使った。色部はバットを振り出すが、ボールはその下をかいくぐった。
(動いてきたな……)
 ツーシームの投球フォームはストレートのそれと全く同じだ。だから、投球フォームの癖で球種を見抜いているとは考えづらかった。
 四球目。今度はカーブ。ほれぼれとするような大きく縦に割れるカーブに、色部のバットがむなしく空を切る。腰をひねって投げ終えた姿勢から勢いよく身体を跳ね上げることで、かもめはうれしさを懸命に押し隠していた。
 大きく暖かな歓声に出迎えられて、かもめを先頭に選手達がベンチへと引き上げてくる。
「ナイスピッチングだ」
 そう声を掛けて聖志が右手を掲げると、かもめは満面の笑みで右拳をノックするように打ち付けてくる。他の野球部の選手と監督ではまず見られない光景だった。
「監督。変化球をねらってきていますね」
 秋上がかもめの後から入れ替わるように近づいて言う。
「ああ。沖野のストレートをそうそう捉えられないと見たんだろうな。だからってあわてることはないぞ。ストレート主体でカウントを作って、相手を追い込んでいけばいい」
「はい」
 秋上は神妙な顔つきでうなずいた。
「向こうの先発は背番号十か。侮られてるのかな」
 マウンドに目を向けながら、一回裏の先頭打者となる倉田がバットケースから金属バットを引き抜いた。
 東翔学園の先発投手は三年生のサウスポー・渡瀬だった。先日、聖志は東翔学園のグラウンドを訪れた際に投球練習をしていた姿を目にしている。強豪校だけあり、専門誌などを開けば、主立った選手については詳しくその経歴が明らかにされている。
 それによれば、渡瀬は二年生の秋まで公式戦の登板経験がなく、上級生の陰に隠れていた選手だ。同級生に、一年生からエース級として名が知られていた同じ左腕投手・内山がいたことも、彼にとっては不運だった。
 しかし、練習試合の二試合目にかろうじて出番を与えられるといった不遇の扱いにも決してくさることなく、黙々と地道な努力を重ねてきていた。試合に出られなかった一年生の間に誰よりも基礎体力を養うことに専念し、スライダーと縦に割れるカーブという武器になる変化球もマスターしていた。
 背番号こそ十番をつけ、一番を主将でもある内山に譲っているが、精神面でもろいところのある内山よりもねばり強いピッチングが出来るとの評価を得ている。
 スタミナに難のあると言われる内山を温存したと言ってしまえばそれまでだが、今日の先発マウンドも、決して単に侮ってのことではないだろう。
「向こうは決勝まで視野に入れてるだろうからな。だからといって、こっちが相手を侮るようじゃ話にならん。東翔の背番号十をつけるだけでも並大抵の事じゃない」
「何気に自慢ですか監督。監督は一番だったんでしょ」
 こういう役割は鮎川に一任されている。律儀に口を挟んでくれるおかげで、聖志もなにかと話しやすかった。
「そういう問題じゃないんだぞ」
 聖志は苦笑いをするしかないが、鮎川がそう言いたくなる気持ちも判る。野球強豪校の日々がどのようなものか、言葉で説明することは難しい。
(しかしあれは、知らなければそのほうがいいかもしれない世界だ)
 そう反論したい気持ちを一方で飲み込む。
 投球練習を行う渡瀬は、サイドハンド気味の位置から腕を振り出している。
「ウチには左打ちが少ないから、左の横手投げは球が見やすくていいかもしれませんね」
「理屈でいえばそうなるが、事はそう単純にはいかないだろう」
「では、まずは球筋をじっくり見極めていきましょう」
 気負い込む秋上に、聖志は首を横に振った。
「いや、むしろ俺は『先の先』をとる戦法で行きたい」
「といいますと」
「相手はこちらの出方を探ろうとしてくる。監督は待ちの一手だ。だからこっちは相手の動きに惑わされ、いろいろとよけいな考えを巡らせるような状態に陥ったら思うつぼなんだ。来た球は初球から全部打って行け。明らかなボール球以外は見逃すな」
「いいんですか。相手の疲労を待つという手も」
「向こうはエースを温存させてる。まだ一回戦、相手投手も元気いっぱいだ。球数を投げさせてもリリーフが出てくるだけだ。それより、初球から振り回してくるとなれば、向こうは自然と初球の入り方を考えざるを得なくなる。こっちがペースの主導権を握れる」
「さすが経験者。恐ろしいことを考える」
「良く球を見て、どんどん振って行け」
 ウグイス嬢の声が倉田の名を告げる。高校球児にとって、この瞬間がどれほど晴れがましいことか。もっとも、緊張と興奮のなかで、その喜びをしみじみとかみしめていられるような者はそうそういないだろうが。
 聖志もそうだった。だが、その貴重さが本当に判るのは、ずっと後になってからなのだ。
 渡瀬がサイドハンドから繰り出した初球は内角低め一杯に決まるカーブだった。曲がり具合でいえばかもめのカーブのほうが大きいが、渡瀬のカーブはスライダー気味に速い。
 かもめのストレートには球速だけなら劣るかもしれない。しかし、投手としての完成度の高さは疑うべくもない。場数を踏み、自分の能力を知り尽くしている強みもある。カーブの切れが、速球の威力を高めることを、感性だけでなく経験で学んでいるのだ。
 倉田はバットのグリップを大きく余らせて持ち、とにかく打ち返すことだけを念頭において構えていた。指示通り、食らいついていくつもりだったのだろうが、鮮やかな変化を前にのまれてしまったらしく、バットが出なかったようだ。
 二球目も低めに来たが、これは膝下に沈むボールとなった。踏み込んでいた倉田はバットを止めて見送る。いまのはボール球ですから見送って正解ですよ、とでもいいたげな目をベンチに向けてくる。聖志は安心させるように、口元に笑みを作ってうなずき返した。
 三球目も、外角低めを狙った球だったが、わずかに外れた。
 聖志の指示を破るつもりはないのだろうが、倉田はボールをじっくりと見ていた。
 そうそう甘い球は来ない。それが判っているから、無理に打って行けとの指示は聖志には出せない。少なくとも、選球眼を買って一番打者を倉田に任せている倉田に対しては。
 むしろ聖志は、倉田の落ち着いた様子に満足を覚えていた。難しい球に中途半端にバットをあわせて凡打するぐらいなら、自信を持って見送るほうがいい。
 四球目。先ほどとほぼ同じコースだが、やや威力にかけるストレートだった。ストライクを取りに行く球だった。倉田がようやくここでバットを振る。
 バットの先端に当たった打球は鈍く跳ねてファウルグラウンドに転がった。倉田の顔が一瞬だけゆがむ。カットしたのではなく、ヒットを狙ったスイングだった。それがまったく前に飛ばなかったのだ。
 続く二球、ストライクゾーンに入る球に倉田は積極的にバットを出していく。かろうじて当ててはいるが、やはり前に飛ばず、ファウルとなる。
 ここまで渡瀬は徹底して低めに球を集めている。高めの吊り球に速い球が来ると危ない。
 ちらりと倉田がベンチ方向に顔を向けた。今度はまるで「監督が心配していることはちゃんと判ってます」とでも言いたげな表情の倉田と視線があう。
 七球目。やはり高めへとストレートを投げ込んできた。やや大根切りになる崩れたスイングながら、倉田はこのボールを捉えた。
 打球はホームベースからおよそ三メートルほどセンター方向のフェアグラウンドにたたき付けられていた。投げ終えた姿勢から身体を起こした渡瀬がボールに視線を向けたまま、打球を追ってマウンド方向へと足を向ける。
 だが、プレート付近で足をとられる不安が一瞬脳裏をよぎったのか、ボールを追いきれない。突っ込んできたショートがツーバウンド目でこれを捕球し、素早く一塁に投げるが、それより先に倉田は一塁ベースを蹴ってファウルグラウンドへと駆け抜けていた。
 両チーム通じての初ヒットに、スタンドが盛り上がる。
(この一打が、試合の流れを左右するかもしれない)
 聖志の背筋が伸びる。
 二番・横路は最初から送りバントの構えだった。予選で何度も成功した攻撃パターンだ。
 当然、東翔学園バッテリーは警戒して何度も一塁に牽制球を送る。
 横路に対しても、まともにはストライクにボールを入れてこない。簡単に送らせるつもりはないようだった。
 それでも、二球ボールが続いたあとの三球目、さすがに送りバントを嫌うあまりフォアボールを出してしまうことを恐れたのか、渡瀬のストレートは外角低めの難しいコースながらストライクゾーンに入ってきた。そのボールに、横路は綺麗にバットをあわせた。 
 見事に勢いを殺されたボールが三塁線に転がる。渡瀬は今度はマウンドからまっしぐらに駆け下りて打球を拾うと、振り向きざまに二塁へと投じた。
 だが、小さなリードながら俊足を飛ばして二塁ベースへと駆け込んだ倉田の足のほうが一瞬速かった。送球がそれ、カバーに入ったセカンド・矢竹の足が離れてしまったのだ。
 矢竹は間髪入れず一塁に転送するが、横路も懸命に走って一塁ベースを先に踏んでいた。
「格下の相手だからってムキになってるな。今のうちだ」
 聖志の視線の先には、ネクストバッターズサークルから打席に向かう三番・柴橋が映っている。肩に力が入り、誰の目にも気負っているのが明らかだった。いくら聖志が声をかけても耳には入らないだろう。
 しかし、下手な小細工をもっとも苦手とする柴橋に、そもそも難しい指示など不要だ。
「ガツンと行け!」
 聖志が張り上げたのはこの一声だけだった。聞こえているのかいないのか、柴橋は恐ろしいヘッドスピードでの素振りをしてからバットを構える。
 思わぬ展開にやや混乱しているのか、渡瀬のコントロールは乱れ気味だった。初球はカーブがすっぽ抜けてキャッチャーが伸び上がってミットに収めた。二球目もはっきりと判るボール球になる。それでも三球目は内角低めにカーブを決めてくる。ボールになると思ったのか柴橋はバットを出さなかった。
 四球目、外角に逃げる速い球がくる。柴橋の渾身のスイングはしかし空を切った。タイミングはあっていたがボールの上を抜けていた。
「沈んでるな。向こうもツーシームを使ってきたか」
 渡瀬や内山にどのような球種があるか、聖志のもとにある情報は、スタンドの熱心な観客と大差のないレベルでしかない。いや、聖志自身がテレビにかじりついていられない分、彼らのほうが詳しいかも知れない。
 五球目、東翔学園バッテリーは間合いをはずす球を用いず、一気に勝負を狙ってくる。内角高めに鋭いストレートを投げ込んできたのだ。薙ぎ払うように柴橋がバットを振る。腰が回る。打球は左中間へと飛んだ。
 反射的に聖志が身を乗り出す。ベンチの選手達も総立ちだ。打球はワンバウンドでレフトが捕り、中継のショートへと投げ返す。
 二塁ランナーの倉田は三塁を蹴り、一気にホームへ。ショートからのバックホームとのクロスプレーとなった。倉田が頭から飛び込む。
 ミットにボールを収めたキャッチャー・北岸の腕がたたき付けられる。
 立ち上る土埃。
 主審の腕が水平に広げられた。セーフ。
 だがその判定を聞くか聞かぬかのうちに、北岸は三塁へボールを送っていた。オーバーランしていた横路が慌てて三塁ベースへと滑り込むが、これはタッチアウトとなった。その間に、暴走気味ながら柴橋が二塁を陥れていた。
 ベンチに戻ってきた倉田は笑顔だったが、横路は唇をかんでいた。
「いや、相手のキャッチャーが一枚上手だった。あの状況で、よく見えている。柴橋のほうが、明らかにアウトのタイミングで二塁に向かっていたんだからな」
 無邪気に二塁ベース上でガッツポーズをみせている柴橋に目をやりながら、聖志は笑って横路の肩を叩いた。
 四番・秋上が打席に入る。
 なおもワンアウト二塁のチャンスが続いている。穏やかな顔つきは生まれついての性なのか、マウンド上の渡瀬は動揺しているようにはみえない。しかし、鏡のように平静な心でいられる筈がない事を、聖志は自らの経験から見抜いていた。
(頼むぞ、秋上)
 特にサインは出さない。ここは秋上を信頼して任せるしかない。
 ピッチャーの初球は外れた。自分なら、次はカーブでストライクを取りに行くか、と腕組みをしながら聖志が考えていると、横路がそっと横に寄ってきた。
「ん、どうした」
 まだ先ほどのタッチアウトを気にしているのか、と横路のほうを向く。だが横路が渋い顔をしていたのはまったく別の理由からだった。
「柴橋のやつ、狙ってますよ」
 聖志がはっと気づいて顔をグラウンド方向に向けると、二球目を投じようとする渡瀬と、その後ろでスタートを切った柴橋の姿が目に飛び込んできた。大柄な身体を揺すりながら懸命に走っている。
「この場面で!」
 秋上はピッチャーの投じたカーブにタイミングがあわずに空振りする。さきほど強肩を見せつけた北岸が、秋上のスイングに遮られながら、窮屈な姿勢で三塁にボールを送る。
 実にきわどいタイミングだった。最後はラグビー選手のタックルばりの勢いで飛び込んだ柴橋の気力が勝る格好になった。判定はセーフ。
「無茶なヤツだ。調子に乗るとこれだからな」
「観てる人には、監督の名采配だと思われてますよ」
 ベンチで喝采を送る選手達はみな笑顔だった。
 ランナーを気にしながらのセットポジションからの渡瀬の投球には、なおも真っ向勝負で打ちとろうと力みが入っていた。秋上はその球をいきなりひっぱたいた。
 打球はライト方向に高々と舞い上がった。スタンドにそのまま飛び込むかに見えたが、浜風に押し戻されて、フェンス際まで背走したセンター・藤王のグラブに収まる。しかし、それを見届けてタッチアップした柴橋が、どたどたとホームベースを駆け抜ける。
 これで二点目。試合を左右するのは間違いない貴重な追加点に、スタンドの盛り上がりは一層高まる。このまま相手を押し崩せるのではないかと期待したくなるほどだ。
 もちろん、東翔学園もそう簡単に崩れはしない。五番・深田はカーブを引っかけて平凡なサードゴロに倒れた。
 息を吹き返したように三塁側の東翔学園応援団から声援が飛ぶ。応援団の数では、圧倒的に冲鷹高が負けている。それでも、阿久津島の出身者などが全国から駆けつけてきており、決して冲鷹高の応援団も少ないものではない。

 二回以降も、かもめのピッチングはキレをみせていた。三回表の先頭打者にヒットを許し、完全試合の期待はあっさりとうち破られたが、連打を許さずに無失点に抑えている。
 一方、二失点で気合いを入れ直したのか、立ち直った渡瀬からは、簡単に付け入る隙すら見つけられなくなっていた。
 緊迫した投手戦の様相を呈する。この重圧は、大舞台に慣れていない冲鷹高に不利に働くのは言うまでもない。二点のリードがかえってプレッシャーに転じることのないよう、聖志は選手達の一挙手一投足や、何気ない言動にすら神経を尖らせる。
「ねえ、カントク。肩に力が入りすぎてますよ」
 にまっと笑うかもめに不意に背中をつつかれて、聖志は思わずのけぞった。

 六回表。東翔学園は打順が三巡目に入り、一番からの好打順となる。
 外角低めを衝くはずのかもめのストレートが、ベルトの高さに甘く入った。楠はこれを見逃さず、強打する。打球は白い軌跡を曳くような鋭い当たりとなって、左中間のフェンスを直撃した。クッションボールは勢い良く跳ね返り、当たりが強すぎて短打になるところだったが、センターの持友がファンブルし、二塁進塁を許してしまった。
 採石場跡地のグラウンドで、むき出しになった岩肌をフェンスに見立てたクッションボール処理の練習は何度と無く繰り返したのだが、残念ながらこの大一番ではあまり役には立たなかったようだ。
 ノーアウト二塁のチャンスに、これまでじりじりとしていた東翔学園応援団が息を吹き返して盛り上がる。それには目をくれず、かもめはしきりに足元を気にしている。
(疲れが出てきたのか……。それと、やっぱり足にきてるか)
 疲れれば踏み込みが甘くなり、球が高めに浮く。かもめは元から左足の踏ん張りがきかないため、余計にその傾向が顕著に現れる。
 続く二番・嶋木に対し、かもめは今度こそとばかりに外角低めに投げ込んだ。
 ここで、右打席の嶋木はバットを寝かせた。セーフティバントの構えだった。ファーストの柴橋と、サードの深田が険しい形相で突っ込む。
 バットの位置をそのままに、嶋木は一塁方向に向かって走り出す。そして、バットで勢いを殺されたボールが、三塁線ぎりぎりに転がった。拾い上げた深田は三塁に向き直ったが、二塁牽制時にベースカバーに入る事になっていた倉田のカバーは到底間に合わない。
 ベンチの聖志のところまで聞こえる罵声をあげ、深田は一塁方向に向き直ったが、こちらは柴橋が戻り切れていない。一拍遅れでカバーに入るセカンド・横路にようやく送球したが、間に合わなかった。
 かもめはマウンドから降りたところでぺたんと座り込んでいる。勢いの死んだボールを拾い上げようとしたものの、足がもつれて転んでしまったのだ。スタンドが騒然となる。それは先ほどまでの、好ましいものに向けられる声援とは空気が異なっていた。
(最初から判っていた。この手でこられるのが一番厳しいってことは……)
 聖志は握りしめた拳を、人目につかないように背中にまわした。
 マウンド周辺に、内野陣が全員集まっている。その理由が聖志にはすぐに判った。
 円陣を組んだかのように肩を寄せ合う彼らの真ん中で、座り込んだままのかもめが義足を付けなおしているのがかいま見える。
 いったんユニフォームのズボンの裾を膝上までまくりあげると、足首と膝をつなぐ丸い金属製の棒があらわになる。いったん固定具をはずすと、つるりと丸みをおびた切断面が一瞬だけ姿を見せる。転倒した際に固定具が外れるか、ずれるかしたのだろう。
 それらを、これみよがしに他者の目に触れさせないための人垣だ。やがて、かもめは秋上の手を借りて立ち上がった。安っぽい感動を表現するかのような拍手がまばらに聞こえた。かもめは唇をかみしめている。
「カメ、伝令たのむ」
 聖志はマウンドの選手達を見つめたまま、カメこと亀井を呼ぶ。
「とにかく練習通りにやるだけだ。無理に背伸びをする必要はない。バント対策はしっかり練習してきたんだ。みんなにそう伝えてやってくれ」
「判りました」
 亀井は頬を紅潮させて、グラウンドへとすっ飛んでいく。地味な伝令の仕事でも、彼にとっては大事な晴れ舞台だ。
 その背中をしばし見送ってから、聖志は視線をずらして相手側のベンチを見据える。
 ベンチに身体を預け、微動だにしない吉川監督の表情からはなにも伺えない。
 片足が義足のかもめにとって、バント攻撃が有効であるのは、素人にも判る。問題は、誰の目にも明らかな弱点を敢えて狙ってこられるかだ。
 正々堂々の勝負が潔いとされる高校野球においては、あからさまな急所を攻めるのはアンフェアと見なされる。事実、予選でも送りバントはあったが、かもめの守備範囲が狭いことを考慮したバント攻撃をうけたことは一度もなかった。
 だから、油断がなかったと言えば嘘になる。対策も考えていた。しかし、聖志はその策を本当に使うか、ためらっていた。リスクが大きすぎる。相手チームのフェアプレイ精神に期待するしかないのが実状だった。
(吉川監督は、勝利のために冷徹に仕掛けてくるだろうか)
 一回戦敗退の不名誉を避けるためには、どんな非情な手段をも用いてくる。そんな気がしてならなかった。
 だが、必要以上にスクイズ警戒を伝令の亀井には伝えなかった。甘いと言えばそれまでとはいえ、どこかに情けを期待する気持ちがあったのは事実だ。
 しかし、聖志の思惑を鼻で笑うかのように、三番バッター・色部は初球から再びバットを寝かせてきた。
 しかしランナーはどちらもスタートを切っていない。
 柴橋と深田はつんのめるようになりながら数歩前に出ただけだった。
 セカンドとショートでカバーに入るにしろ、一塁にもランナーがいるために難しい。二塁に進塁されるのは織り込んでおかねばならないだろう。
 二球目。秋上は大きく外角にはずさせた。
 しかし、このサインは見透かされていたのか、色部は寝かせたバットをさっと引いた。ランナーも動かない。
「完全に向こうのペースに引き込まれている」
 聖志は歯がみするが、手のだしようもない。
 そして三球目。かもめが投じると同時に、一塁ランナー・嶋木がスタートを切る。色部はバットを寝かせてスクイズの体勢。一呼吸遅れてから三塁ランナー・楠が飛び出した。
 単独スチールかと思わせる嶋木のフェイントにセカンドの横路が引っかかった。結果、内野の守備陣形が完全に崩されてしまった。バントされたボールが、マウンド前に踏み込んだかもめの正面へと力無く転がる。
 本来ならホームゲッツーさえ狙える失敗バントになるところだが、焦りを隠せないかもめはいつもよりもぎこちない動きでしかボールを追えない。それでもどうにかボールを拾い上げ、間髪入れずにバックホームした。クロスプレーになる。 
 返球の位置が絶妙だったこともあり、タイミング的にはアウトに出来そうだった。しかし、真正面から飛び込んでタッチされるほど東翔学園の選手は単純ではない。
 秋上のタッチは、身体を直前でひねった楠にすり抜けてられてしまった。
 あっと思った次の瞬間には、楠はベース横に滑り込みながら、伸ばした左手の先端をホームベースに触れさせていた。
 主審の腕が水平に広げられる。
 それに落胆する暇もなく、秋上は瞬時に一塁と二塁に目線を走らせる。しかしながら、どちらの塁もカバーが間に合わずがら空きになっている。投げる場所はどこにも無かった。
 ついに一点を返されてしまった。しかも、依然としてランナー一、二塁。
 そして迎えるのは四番・今滝。聖志が東翔学園を訪問したとき、ひときわ長打が目を引いた強打者だ。
 スタンドの異質なざわめきがベンチにまで伝わってくる。
「汚ねえ。沖野先輩の足の事が判ってて、三番にスクイズさせるなんて」
 亀井が悔しがる。
「向こうも本気なんだよ」
 聖志にも亀井の憤りは理解できるが、だからといって素直にうなずけるものではない。
 逆の立場に立たされた時、自分にスクイズのサインが出せるだろうか。
(やはり自分は監督失格かも知れない)
 左打席に入った今滝にバントのそぶりは見られない。だが、深田と柴橋は中間守備で構えている。当然ながら、ダブルプレー狙いである。
 かもめの初球。今滝の胸元を衝くストレートは、この試合一番と思しき球速で秋上のミットに飛び込んだ。
「三振を穫りに行く気か」
 バント対策にはそれしかない。バントさえ許さぬように、力でねじ伏せるのだ。
 その為には、半端な変化球などいらない。速球だけで押しまくるしかない。
 二球目、ほぼ同じコースだが、高めに外れる。ホップして伸びてくるボールは、吊り球としては絶妙なところに決まったが、今滝のバットは動かなかった。
 セットポジションから一球二塁への牽制球を投げてからの三球目。
 かもめがホーム方向に踏み出したところでランナーが一斉にスタートを切った。さらに今滝がバットを寝かせる。
 迷いながらも深田と柴橋は突っ込むしかない。それを見透かしたかのように今滝は強打に切り替える。
 やや甘く真ん中に入ったストレートを見事に捉えられた。ランナーの動きが視界の隅に入った分、かもめの球威が前の二球より若干落ちていたのかもしれない。
 打球は三遊間へ。誰もが抜けたと思った次の瞬間、ショートの倉田が大きく伸び上がり、めいっぱいに突き出したグラブの先端でこのボールをつかみ取っていた。
 腹這いになるように着地した倉田は、身体を起こす間も惜しんで二塁に送球する。転げ込むようにベースカバーに入った横路がこのボールを捕球して二塁ベースを踏み、さらに一塁に転送する。しかし、一塁には頭から戻った色部の手が先にベースに触れていた。
「ナイスプレイだ。良くやった!」
 聖志は倉田にむかって大声をあげて手を叩いてみせた。
 しかし、このファインプレーでも試合の流れは簡単には変わらなかった。
 足で引っかき回され、好守備に助けられたとはいえ強烈な当たりをくらったかもめは、明らかに動揺していた。そして、充分に落ち着きを取り戻す間もなく、五番バッター・矢竹と相対していた。
 今度こそ三振に仕留めてみせる、という入れ込みは、一塁ランナーの軽視を招いた。それはかもめ一人の責任ではなく、内野陣全体、いや聖志を含めた冲鷹高全体が浮き足立っていたからだと言える。
 とにかく、初球を投げた瞬間、まったくノーマークに近い状態で悠々と色部に二塁への盗塁を許してしまったのだ。得点圏にランナーを進められ、またも窮地に立たされる。
(ツーアウトとはいえ、バントが来ないとも限らない)
 この後、かもめの投じた速球は二球続けてボール球となった。
 次に投げたのはストライクを欲しがる棒球となった。
 小細工は不要とばかりに矢竹が強振する。またもボールは真芯で捉えられていた。今度は打球は綺麗に一、二塁間を切り裂いた。二塁に進んでいた色部は打球が飛ぶと同時にスタートをきり、一気にホームを駆け抜けていた。
 これでスコア二対二と、同点に追いつかれた。
 アルプススタンドから、落胆のため息が聞こえてきそうだった。
「まあ、二対ゼロのまま逃げ切れるほど甘い相手じゃないってことだ」
 聖志は、自分に言い聞かせるようにつぶやく。
 なんとかしてやりたい。マウンド上で立ちつくすかもめを見ながら、聖志は胸がしめつけられる苦しい思いを味わっていた。
 代われるものなら、自分が代わりにマウンドに立ってやりたいとさえ思う。二番手となる山中にはウォーミングアップを指示しているが、ここでチームの支柱を引き抜く真似をして、勝てるとは到底思えなかった。
「ツーアウト、ツーアウト!」
 ベンチから、そんな励ましの声を送ることしか出来ないのがもどかしい。
 かもめも秋上も、聖志の声が聞こえているのかいないのか、焦りを隠し切れぬまま、六番・藤王を迎えていた。
 初球、外角に外れるボール球。それを中腰になって捕球した秋上は、間髪入れずに一塁にボールを投じた。
 深田が一塁のベースカバーに入り、ややリードを広くとりすぎて飛び出す格好になっていた矢竹が頭から飛び込んでくるところをミットで迎え撃った。
「アウト!」
 一塁塁審が即座に右拳を空に掲げた。聖志の肩からどっと力が抜ける。
 ベンチに守備に散っていた選手達が戻ってくる。一番最後にかもめが、秋上の肩を借りるようにして引き上げてきた。
「秋上、冷静にランナーの動きを見ていたな。よくやった」
「カントク、ごめんなさい」
 かもめが顔をくしゃくしゃにしている。目尻には涙が浮かんでいる。
「泣くやつがあるかよ。逆転された訳じゃないし、まだ四イニング残ってるんだ。もう一度突き放すまでだ」
 聖志は反射的にかもめの頭に手を伸ばし、ふとためらったが、結局はそのまま頭を撫でた。歯の浮く台詞よりは、思いが伝わると信じた。
 六回裏、冲鷹高の攻撃は七番・持友から。持友は先ほどクッションボール処理を誤ってから失点を招いた失態を挽回しようと、真っ赤な顔で前のめりになって構えている。
 普段、冷静さが目立つ持友だけに、一度火のついた気迫は並々ならぬものがあった。
 渡瀬は、それを充分にあしらって打ち取れるだけの力を持っているはずだった。
 しかし、技量では遙かにまさるはずの渡瀬が持友に気合い負けしたらしい。球筋が荒れ、ボールカウントが増えていく。
「……カントク、わたし、左足が欲しいよぉ」
 その間、テレビカメラに映らないベンチの奥で、義足の調整をしながら、かもめは泣きべそをかいていた。その口から泣き言が漏れる。
 これまで一度として、かもめのそんな言葉を聖志は耳にしたことがなかった。おそらく、かもめ自身も口にするのは生まれて初めてなのだろう。本当に悔しそうに何度も何度も、「足が欲しいよ」と漏らす。
「よし、今日の試合に勝ったら、俺の左足をやる。すっぱり切り取って持って行け」
 かもめの肩越しに聖志は真顔で言った。
「カントクの足じゃ、左右のサイズがあわないよ」
「だったら、俺の右足も使っていいぞ」
 泣き笑いの表情でかもめは首を振る。
「両足が無くなったら、カントクが困るでしょ。だってカントクはこれから――」
 スタンドが沸き、かもめは言葉を中途でとぎらせた。持友がフォアボールを選び、塁に出たのだ。八番・鮎川が打席に向かい、かもめはネクストバッターズサークルに出て自分の打順を待たねばならない。
 かもめは足を引きずりながら、ベンチを出て行く。バットを杖代わりに使わなかったのは、せめてもの意地か。
「痛々しくて、見ていられない」秀美が涙声で顔を覆った。
「しっかり目を開けて、見てやるんだ」
 聖志が厳しい声で叱咤する。彼自身は、グラウンドで起こるわずかな挙動も見逃すまいと目を凝らしている。
 鮎川はボール球が二つ先行したことでかえってフォアボールが頭にちらついたのか、きわどいコースをつく球にバットを思い切って振り出せないまま三振に倒れる。
 続いて打席に立ったかもめは、初球からフルスイングした。空振り。勢いあまって尻餅をつく。片足で跳ねながら打席をはずし、その場に座り込んだ。
(また義足がずれたか)
 聖志は直感した。案の定、かもめは人目もはばからず左足のユニフォームの裾をまくりあげ、義足をむきだしにして付け直しはじめていた。
 観客席がざわつき、きまずい沈黙が広がっていく。
「義足を固定する部品がなにか壊れたのかも。さっき付け直したばっかりなのに」
 秀美が不安そうな声を出す。
 やがて、誰の手を借りることもなく義足を直したかもめが立ち上がる。
 二球目のインコースを衝く速球に対し、身体ごとボールにぶつけるようなスイングで打球を押し返した。打球はライト前へと力なく飛んだ。前進してきたライト・山端が足から滑り込みながら勘捕りしようとしたが、グラブの土手にあたって落ちた。
 身体でボールを止めた山端は、流れるような動きで立ち上がってそのまま一塁めがけて鋭い返球をみせた。かもめはあわやというところを、頭から倒れこむようなヘッドスライディングでかろうじてセーフになった。スコアボードにはEの文字が点灯する。
 わっと歓声が広がった。
「大振りするな。綺麗に振り抜け」
 打席に向かう倉田に、聖志は声を掛けるが、どうしても気負いが先にたつ。
 倉田は渡瀬の変化球を打ち損ね、ボールはほぼ真上にあがった。サードが、ラインをまたぐような格好でこれをキャッチする。当然かもめはタッチアップなど出来ず、ツーアウト一、二塁と変わらない。
 続いて横路が打席に入る。地区予選ではあまり打撃で活躍できていないが、ここは彼の冷静さに期待するしかない。誰しもが頭に血をのぼらせるこの状況にあって、横路は相変わらず落ち着いていた。厳しいコースを衝いてくるボールをきっちり見送る。
 ボール二つから、インコース狙いのストレートに対し、横路は腕をたたんだコンパクトなスイングでこれを打ち返した。金属音が響く。
 鋭い打球は三塁線を破った、かに見えた。が、惜しくもベースの外側を通っていた。
「あー、惜しい!」
 祈るような面持ちで見つめる部員達が一斉にため息をもらす。壁やベンチをメガホンで殴りつけている者もいる。
 四球目。外角に逃げるカーブ。
 横路はこれを完全に読みきっていた。タイミングをあわせて強振する。打球は惚れ惚れする角度を描いて左中間へ飛んだ。完全な長打コースだ。
 クッションボールを処理するライト・山端を尻目に、二塁ランナーの持友は横路の放り出した金属バットを拾う余裕を見せてホームを踏む。
「まずい」
 聖志が顔色を変える。勝ち越し点の喜びもつかの間だった。二塁を蹴って三塁へ向かうかもめは、明らかに暴走だった。ライト・山端からショート・嶋木の中継を経て送球されたボールが、かもめが三塁に飛び込むより先にサード・今滝のグラブに収まっていた。
 再度のヘッドスライディングもむなしく、タッチアウトになる。
「うう、ごめんなさい」
 半べそをかいて戻ってくるかもめの頭を、聖志は荒っぽく撫で回す。
「なに情けない声を出してるんだ。ナイスガッツだ。勝ち越したんだ。胸を張っていけ」
 せっかくの横路の長打が、一塁ランナーの自分が足手まといになってシングルヒットになってしまう事に耐えられなかったのだろう。その気持ちがひしひしと伝わってきて、聖志は怒る気には到底なれなかった。

 七回表。かもめは先頭打者となる六番バッター・藤王に対して四球を与え、出塁を許した。
 ランナーを気にして数回牽制球を投じるが、もちろんアウトに出来るはずも無い。
 かもめの肩が揺れている。もはや疲れを隠せなくなってきている。
「予選の時は、完投しても平気だったのに」
 秀美がもどかしげな声をあげる。
「やっぱり甲子園の雰囲気で平常心を保っているのは難しいんだ。それに、足の事もある」
 義足をいためているとしたら、素人である自分にはなんの手助けも出来ない。
 七番・山端への初球が暴投となり、進塁を許す。続く二球目は明らかにコントロールを意識しすぎた。
 ど真ん中への不用意な一投を見逃さず、山端はこれを痛打する。左中間に打球が落ち、藤王が生還する。
 スコア三対三と、冲鷹高は再び追いつかれた。
 八番・北岸に対する初球は、低めに外れてボール。二球目、踏み込んだかもめの左ひざが不自然な形で曲がった。
 高く逸れたボールは、伸び上がった秋上のはるか頭上を越えてバックネットに達した。一塁ランナーの山端は二塁に進む。 
 場内が騒然となる。
 マウンド上で、かもめが這いつくばっていた。
「まずいな」
 すかさず聖志はタイムを要求した。やがて、秋上と柴橋に両腕を抱えられるようにしてかもめがベンチへと戻ってきた。
 聖志はかもめを伴い、すぐにベンチ裏に入った。
「どうすればいい。俺になにか出来ることがあるか」
「大丈夫です。なんとかしますから」
 脂汗を額に光らせ、頬を上気させたかもめは気丈に微笑んだ。
 無力感にとらわれて唇をかむ聖志の横に、牛尾がすっと近づいてきた。
「なんですか、こっちは忙しいんですが」
「判っています。その上でお願いします。本部席に、沖野さんを連れてきてください」
 牛尾の目には真剣な光が宿っていた。その目が沖野に向けられる。
「本部席にお母様が見えられてます。義足の予備の部品を持っておられるそうです」
「お母さんが」かもめの表情がぱっと明るくなる。
「それにしても、どうやって本部席に? それに仕事だったはずでは」
「仕事については、教師の立場で、お母様の職場に横車を押しました」
 牛尾は涼しい顔で言う。思わず聖志の眉が下がる。
「応援団とは別行動で、離れたところで観戦されていたようですけど、さきほどからの沖野さんの様子を見て、義足の具合が悪いとお気づきになられたそうです」
 係員に事情を話したところ、部長である牛尾を呼び出し、面通しをした上で本部席に案内することになったのだという。
「お母さん、わたしの義足をあわせるの、いちばん上手だから」
「ええ。予備の部品も持っておられるとおっしゃってました」
「いや、助かります」
 聖志が深々と頭を下げると、牛尾は柔和なまなざしをみせた。 
「苦労しましたよ。あちこち手配して。ここまでやる必要が私にあるのかと思うくらい」
「それぐらいやってもらって、いい具合だと思いますよ」
 聖志の捨て台詞めいた言葉にも、牛尾は動ずる気配も無かった。
 監督がベンチを離れて本部席まで付き添うことは出来ない。かもめは、牛尾に肩を支えられながら本部席に向かう。
「監督。沖野は大丈夫ですか」
 ベンチ奥から、秋上が顔を覗かせていた。聖志は力強くうなずき返す。
「ああ。問題ない。それより、こうなったら『アレ』をやるしかない。心の準備がいるかもしれんから、さっさと戻ってみんなに指示を出しておいたほうがいい」

 治療中のため試合を中断している、との旨のアナウンスが流れてから三分後、かもめは再びベンチへと戻ってきた。その顔を見れば、大丈夫かなどと問いかける必要はなかった。
「お父さんもきっと今日の試合を観てるに違いないよ、ってお母さんが言ってました」
 かもめは嬉しそうにそう言い残し、背を伸ばしてグラウンドへと身を躍らせていく。
 彼女の姿を目にして沸いた観客が、冲鷹高の守備陣形を目にして、再び驚きの声をあげる。
 ショート・倉田がマウンドの横に来るほどに前進し、ショートの定位置やや後方に、ライトの鮎川が入っている。センター・持友とレフト・藪中は、それぞれ右中間と左中間に位置取りをしていた。
 かもめのフィールディングの悪さにつけこむバント攻撃に対抗するために考案し、聖志達が『アレ』と呼んでいた五人内野の布陣だった。
 昨日今日の付け焼き刃ではない。特別に時間を割いて何度も練習をしてきたのだ。
「さあ、守備は死ぬ気で守るんだ。かもめが思い切り投げられるように!」
 ベンチから聖志が叫ぶ。
 打席に入り直した北岸は戸惑いの色を表には出さず、淡々とバットを立てて構える。送りバントがセオリーの場面であるが、さすがにこの五人守備を前にしてはやりづらいのだろう。完全に強打の構えだった。
 作戦通りではあるが、外野に飛ばされれば、ただのシングルヒットのはずの打球を長打にしてしまう可能性もあり得る。裏目に出れば傷口を無意味に広げるだけになりかねない。聖志は奥歯をかみしめながら勝負の行方を見守ることしかできない。
 かもめの初球。ツーシームが沈み込む。振り出された北岸のバットはボールの上っ面を叩いた。大きく跳ねた打球は前進守備の倉田の頭上を越え、鮎川のもとへ。伸び上がって捕球した鮎川は二塁へ転送。横路から柴橋へとボールは渡り、ダブルプレーとなった。
「いいぞ、よくやった!」
 このプレイでかもめは息を吹き返した。落ち着いて腕を振れるようになり、ボールの伸びが戻ったのだ。次打者を三振にしとめ、結果的に三人で攻撃を終わらせた。
  
 七回裏。この回から東翔学園は渡瀬にかわり、背番号一・内山がマウンドに登った。
 なかなかに目鼻立ちの整った好男子だった渡瀬とは対照的に、ニキビ痕も露わな内山は、お世辞にもハンサムとは言い難い。細い目といい肉厚の唇といい、『大仏』と仲間内で呼ばれているという理由が一目でわかる。
 それでも愛嬌のある見た目とは裏腹に、頼りがいのある主将としてチームをまとめ、カリスマ性を発揮しているという。
 ウォーミングアップが終わり、試合が再開される。振りかぶって投じられた内山のボールが、北岸のミットに叩き込まれる。鋭い音が一塁側ベンチにまで届く。
「やっぱ、速えぇな」
 鮎川が脱帽だとばかりに舌を巻く。
 サイドハンド気味の渡瀬に比べ、オーソドックスなオーバースローの内山の球の速さは、力感がある分、実際以上に差がついて見えた。四番・秋上からの攻撃は、みな懸命に食いついていくが、力でねじ伏せられる格好で三者凡退に終わった。
 八回表の東翔学園の攻撃は、かもめが負けじと投げ込む渾身のストレートが冴え、三者三振に切って取った。 
 そして八回裏。内山の速球に手も足も出ないまま、ツーアウト・ランナーなしの状況でかもめに打順がまわる。
「頑張ります。今度こそ、ちゃんとしたヒットを打ちます」
 かもめはそう言い残して打席へと向かう。聖志は眉を下げ、唇をかむ。
 選手層が厚ければ、ここは代打だろう。かもめの疲労は明らかなのだ。長丁場になれば、選手層の薄い冲鷹高が不利になるのは目に見えていた。
 しかし、聖志はかもめをそのまま打席に送った。戦術的な妥当性について問われれば言葉もない。ただ、代えて負けることになれば、きっと後悔する。そう思っただけだ。
 つくづく監督失格だな、と自嘲しながらも、聖志は自らの采配に迷いをみせなかった。
 かもめは初球、内山の投じたインハイへのストレートに対し、踏み込んだ左足に体重を乗せて強振するが、かすりもしない。かもめは自らの生み出した遠心力を左足で支えきれず、打席から吹っ飛ぶ。
 ややサイズの大きなヘルメットも頭から跳ね飛んでファウルグラウンドに転がった。
「大振りするな! コンパクトに振り抜け!」
 聖志はベンチから身を乗り出して声を張り上げる。
「それにしても、すげえ振り。当たれば一発だ。沖野にあんなスイングが出来たなんて」
 柴橋が舌を巻いている。
「今更なに言ってるのよ。今日までいっぱい練習してるの、見てたでしょ? でも、あんなにムキになっちゃ、当たるものも当たらないよ」
 怒ったように言う秀美だが、顔の前で祈るように手を組んで、グラウンドをまともに目を向けられない。
 仲間達の声援を受け、ヒンズースクワットのように右足一本で立ち上がったかもめが、ヘルメットを拾ってかぶりなおす。
 二球目は外にはずれる。バットを出しかけたかもめは、前のめりになってつんのめって踏みとどまる。
 かもめの身体に、体格から判断する常識に当てはまらないほどの破壊力を秘めていることに、東翔学園の選手達は今日の試合を通じて否応なく気づかされている。
 当たれば飛びそうだと悟ったのか、外野陣がやや定位置より後退していた。
 内山はおそらく直球では勝負してこないだろう。勢い込んで冷静さを欠いた相手には、変化球でかわすのが常道だ。下手に直球のタイミングがあえば、出会い頭でスタンドまで運ばれかねない。
 三球目、高めにはずれる吊り球に、かもめは伸び上がるようにしてバットを振る。バットがボールの下腹を撫でた。
 擦過音とともに、打球はダイレクトにバックネットまで飛んだ。
「落ち着け、逸るな!」
 聖志は声は届かないだろうと思いながらも、叫ばずにはいられない。
 四球目、シュートが内角低めに来た。足のクッションを使って柔らかく打ち返すなどといった芸当の出来ないかもめには、振りたくても振れない最悪のコースだった。
 万事休す、かと思われたが主審の手はあがらなかった。ほんのわずか、ストライクゾーンからはずれていたようだ。
「あぶねぇ」
 頭を抱えながら部員の何人かが、ベンチに腰を落とす。皆、知らず知らずのうちに総立ちになっていた。
(悔いを残すな)
 勝ち負けよりも、今はそれだけが気になっていた。三年生にとって最後の夏。二度と取り返せない夏だ。
 カウント二―二。内山にはまだ一球の余裕がある。最悪、歩かせてもかまわないのだ。
 同じ同点でも、精神的な勢いはかなり違っている。冲鷹高は、ほとんど追いつめられている状況だった。
 五球目。外角に縦に割れるカーブが来た。かもめが大きくあげていた左足を踏み込んでスイングの体勢に入る。と、その左膝が大きく曲がり、身体がベース方向に傾いた。義足であるため、踏ん張りが利かなかったのだ。だが鋭く振り出されたバットは軌道をゆがませながらも止まらない。
 そして、まさしくバットの進行方向上に、変化して落ちてきたボールが飛び込んできた。
 妙に濁った打球音が響いた瞬間、打球は高々と打ち上げられていた。一瞬、どこに飛んだか、動体視力に優れた選手達が揃って見失うほどの一撃だった。
「やった!」
 ベンチの部員達より一呼吸遅れてボールの行方を目でとらえた秀美が声を弾ませる。
「いや、あがりすぎだ」
 目を細めて打球を見据える聖志の声は対照的に渋いものだった。
 だが、経験から聖志はそう判断したのだが、かもめの放った打球はこれまでの経験で図りきれない不思議な軌跡を描いていた。
 よほど高くまであがっているのか、陽光を浴びる白いボールはふわふわと漂い、ゆっくりと飛んでいくようにみえる。実際にはわずかな間にすぎなかったのだろうが、ひどく間延びした時が流れたかのようだった。
「まるで、鴎が飛んでいくみたいじゃないか」
 思わずそんなつぶやきが漏れた。
 打球は誰の手にも触れられることなく、レフトスタンドの中段へと落ちていった。
 その途端、聖志の周囲から遠ざかっていた歓声が一気に耳元に戻ってきた。
 打球の行方から視線を外し、かもめの姿に目を向ける。
 バットを振り抜いた勢いで仰向けにひっくり返ったかもめは、背中を土埃に汚して起きあがったところだった。何が起こったのかわからずきょろきょろとしている。
 主審が穏やかにホームランを宣し、立ってベースを一蹴するように告げた。
 すっくと立ち上がったかもめは、何を思ったのか主審に一礼すると、左足を引きずりながらゆっくりと一塁ベースに向かって歩き始めた。その歩みは遅くとも、誰にも邪魔をされることはない。そして歓声も鳴りやまなかった。
 ベンチに倒れ込むようにして戻ってきたかもめを、部員全員で出迎えた。もう言葉にならず、泣き出している者さえいる。
「しっかりするんだ。まだ攻撃は終わってないだろ?」
 そう叱咤する聖志の声も潤んでいる。例え、今日の試合で敗退することになっても、彼らは決してこの夏に悔いを残さないだろう。
 聖志はそう確信していた。

(四十二)


 蝉が鳴いている。南の海、四国の山稜の向こう側からは入道雲が沸き立っている。
 野球部の夏が終わっても、阿久津島の夏の盛りは当分のあいだ続きそうな様子だった。
 白いワンピース姿のかもめは、自宅の縁側に座布団を敷き、義足をつけた左足を投げ出す格好で柱にもたれるようにして腰掛けていた。
 手にはうちわをもってパタパタとあおいでいる。その表情は穏やかだった。その様をみていると、とても甲子園で力投していたピッチャーには見えない。
 玄関先から彼女の姿を見つけた聖志の表情が思わずゆるむ。 
「スイカ買ってきたぞ。冷えてるやつだから、すぐ食べられる」
「あ、カントク。ありがとうございますー」
 身体を起こしたかもめがうちわをあおぐ手を止め、にっこりとほほえんだ。

 ホームランを放ったかもめは、九回表の東翔学園の色部、今滝、矢竹のクリンアップトリオの攻撃を退け、冲鷹高に歴史的な一勝をもたらしていた。
 一躍名をあげた冲鷹高野球部だったが、それは同時にこの夏の最後の勝利となった。
 精根尽き果てた彼らは、二回戦にて東翔学園より格下と思われた東北からの出場高を相手に一対二十二と記録的な大敗を喫し、静かに甲子園を去っていたからだ。
「まあ、一勝でも出来て上出来だったよ。あれで三勝分ぐらいの価値はあった」
 縁台に腰掛けた聖志はそう述懐する。
「そうは言いますけど、最後は、どうしてわたしに投げさせてくれなかったんです?」
 スイカを切って盆に載せて戻ってきたかもめが、聖志の隣に座りながら尋ねる。
 二回戦のマウンドには、最初から最後まで山中が立った。三回まで二失点とまずまずの内容だったが、打順が一巡した中盤に一気に集中打を浴び、勝敗は早々と決してしまった。
 七回に、ようやく長短打を絡めて秋上の犠牲フライで一矢報いたが、時既に遅かった。
 聖志は最終回までに、かもめを除く部員全員に出場機会を与えた。薮中と山中以外の一年生にとって公式戦初出場の舞台が甲子園だった訳で、忘れられない思い出になるだろう。
「あの状態で沖野を投げさせたら、虐待で訴えられてしまうよ」
 スイカにかぶりつきながらの聖志の返事に、かもめは不満げに口を尖らせた。
「おおげさですよ。充分投げられました」
 一回戦から二回戦まで三日の間があったから体力は回復していた、とかもめはすねるように言うが、本気で怒っている様子はない。
「沖野個人は、勝って終われたんだからいいじゃないか」
 ふとスイカの皮を持つ手をとめた聖志は冗談めかす。
 だが自分の中に、せっかく一勝を挙げたかもめが、無惨に打ち込まれる姿をみたくなかったという思いがあったのは事実だ。やはり最後まで、監督になりきれなかったのだろう。
 
「それでカントクは、これからどうするんですか」
 しばらくの間、無言でスイカを食べていたかもめが探るような上目遣いに尋ねる。
「それなんだけどな。監督に向いてないみたいだ。いっそ、現役復帰しようと思ってる」
 聖志が迷い無く答え、ポケットに突っ込んであった船場の名刺入れから、プロ野球チームの名前が記された名刺を取り出す。
 かもめは息をのみ、恨めしげな目を向けた。
「そんなの勝手すぎると思いますけど。野球部はまだこれからも続くのに」
「なにしろ三年生六人が引退して、いま野球部の部員は八人しかいないんだ。練習試合も出来やしないからな」
「けど、だからって。他の学校の野球部が相手ならともかく、島の中での試合なら」
 言い募るかもめの目尻には、わずかに涙が浮かんでいる。それを見た聖志は、少々からかいすぎたかなと内心で反省しながら、殊更にわざとらしい笑顔を作ってみせた。
 そして、手にした名刺の端に指をかけ、一気に引き裂く。
「ちょっと芝居かかってるかな。けど、一度はこういうのもやってみたかった」
「え、え……?」
 状況を理解できないかもめが目を丸くした。
「だから言ったろ、現役復帰するって。ったく、俺がメンバーに入らなきゃ試合すら出来ないなんて、これが甲子園出場高の野球部かよ」
 聖志はこれ以上はない、というぐらいに会心の笑みを浮かべて言い切る。
「カントク」
 その途端、かもめが身体を預けるように聖志の肩にすがりつき、鼻をすすった。
「なんで泣くんだよ」
「判りません」
 涙声のかもめにどう応じて良いか考えあぐね、聖志は気が済むまでそうさせておくことにした。こういうのも悪くはないか、などと監督にあるまじき不謹慎なことを思いつつ。

(おわり)

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