7月6日、月曜日早朝。菱谷の部屋で携帯電話が鳴っていた。菱谷は欠伸をしながら布団を抜け出して携帯電話を手に取ると『通話』ボタンを押した。
電話の相手は成田だった。
「何だ、こんな朝早くに」
『まだ寝てやがったか。早く起きて新聞を見てみろ』
菱谷の間の抜けた声のせいか、成田はひどくせかすような口調だった。
成田に言われるまま、菱谷は携帯電話を持ったまま、新聞受けから束になって押し込まれていた新聞を引っぱり出した。商売柄、情報収集の為、日経からスポーツ新聞まで、多種多様だ。
「どれだ?」
『スポーツ新聞ならどれでもいい』
スポーツ新聞の一面には、阪神の敗戦についてどうこう、という記事が載っているだけだった。取り立てて驚くに当たらない。
『記事じゃない。週刊誌の広告だ』
阪神の記事の下には、週刊誌の広告が二つ並んで載っていた。その内の一つに大きく書かれた見出しに、菱谷の目は釘付けになった。そこには最も恐れていた、水沢の『性別』についての記事の掲載が明示されていた。
「……これは!」
『大騒ぎになるぞ』
「どこから漏れたんだ……」
菱谷は自分の呟きに閃くものがあった。
「おい! お前、もしかして、出浦さんに何か話したんじゃないのかっ!」
『いや、それは……』
その歯切れの悪さに、菱谷は確信を持った。今、電話で話をしている相手――成田こそが張本人だ、と。
「どういうことだ!」
『俺が教えた訳じゃない』
「何を今更! お前以外のどこから、情報が漏れるって言うんだ」
『……確かに、穂ちゃんの事について聞かれた。だがな、彼女は俺の所に来たときは、大体の事情を把握していた。俺が聞かれたのは、いつから知っていたか、それだけだ。信じてくれ』
「何て事だ……」
成田を責める余裕はなかった。ついに恐れていた事態が発生してしまったのだ。
その日の昼過ぎには、成田の言った”大騒ぎ”が現実のものとなっていた。水沢本人は言うに及ばず、仰木監督を初めとするオリックス球団関係者が手当たり次第に取材攻勢に見舞われていた。
当然の事のように、菱谷の事務所にも取材陣が襲来した。菱谷は、「性別による規制がないプロ野球において、水沢の性別に関して、何らかの問題があるとは思えない」
との主張を貫いた。しかしながら、相手は、「性別の問題を隠して入団した」との点にこだわり、話しは平行線をたどるばかりだった。
「彼女が悪いのよ。水沢がマスコミに愛想良くしなかったツケが回ったんだからね」
取材陣が一通り引き上げた後、出浦が勝ち誇った表情を見せた。彼女は他の記者の前では一切質問を発しなかった。余裕の現れといったところだろうか。
確かに水沢は、男社会の野球界に乗り込む女性として興味本位にしか扱わない週刊誌などは、今まで全く相手にしていなかった。
「意趣返しの機会を伺っていたのか?」
うなだれた菱谷が、上目遣いに出浦を見る。
「かも知れないわ。私はともかく、レベルの低いところは特にね。ワイドショーや、週刊誌の特ダネ記事、三流大衆紙あたりはボロカスに書き立てるわね。テレビや新聞はそっちの勢いに引きずられるでしょうし」
「随分と嬉しそうだな」
「そりゃね、やっと調べ上げた、私のスクープだもの。それにしても、まさかこんなからくりだったなんてね」
出浦は、復讐を成し遂げたかのような響きのある声を菱谷に叩き付けた。
その日は当然仕事になるはずもなく、全ての予定をキャンセルして事務所から車で十分の所にある、マンションの自室へと舞い戻った。
明日になれば、今日と変わらぬ取材を受けるかも知れない。菱谷が何を答えても、水沢の心の傷は痛みこそすれ、癒されることは決してない。
「どうすればいいんだ……」
この一日、何度と無く繰り返した独り言が口から漏れる。
そのタイミングを見計らうかのように、ドアがノックされた。時計を見ると、既に十一時を過ぎていた。
「こんな夜中まで取材かよ……!」
最初は応対せずにおこうかと思ったが、悪いと思っていなければ堂々と相手になるべきだ、そう思い直してドアを開けた。
そこには、疲れ切った顔をした水沢が立っていた。
「水沢……! どうしたんだ」
「逃げて、来ちゃった」
無理に笑う彼女の姿が痛々しい。古傷をえぐり出されたショックがありありと見て取れた。
「記者連中に嗅ぎ付かれなかったか?」
「たぶん……」
「とにかく、入れ」
菱谷は急いで水沢を招き入れ、ドアを閉めた。
「こんなつもりじゃなかったのに……!」
緊張の糸が切れたのか、水沢は下駄箱に寄り掛かって泣き出してしまった。菱谷はどうにか彼女をなだめながら、居間に連れていった。それから机の上に放り出してあった携帯電話を拾い上げ、成田に連絡を付ける。今となっては、頼れるのはやはり成田しかいなかった。
『どうするつもりだ?』
事情を打ち明けられた成田は最初にそう聞いた。
「とりあえず、水沢を連れてどこかに身を隠す。ほとぼりをさます以外にあるまい」
『いいのか? お前、ただでさえ社会的信用が危ないんだ。これ以上、水沢の件に関わると、お前の人生が駄目になるかも知れん』
「随分冷たい言い方をするんだな」菱谷は部屋の隅でじっと彼を見つめている水沢を振り返ってから、声を落として続けた。「今ここに、彼女が来てるんだぞ」
『お前の覚悟が知りたいだけだ』
「俺は、一度責任を果たし損なっている。今度は、最後まで責任を持って彼女を守る」
『そうか』嬉しそうに成田が答えた。『その言葉が聞きたかった。辛いだろうが、俺からも頼む。穂ちゃんを守ってやってくれ。仰木監督には俺から話を付けてやる。……俺も、けじめは付けさせて貰う』
翌日。菱谷と水沢が失踪した事で、マスコミの取材対象はオリックス球団に絞られ、さらに加熱の様相を呈していた。
仰木監督は、水沢が落ち着いてプレーできる環境が整うまで、試合に出す予定はない。ただし、こちらは水沢の居場所については完全に把握し、またその行動を承認していると発表し、それ以上のコメントを避けていた。
水沢と菱谷は北海道にいた。以前、菱谷がPNFを指導していたあるサッカーのクラブチームが、夏の合宿で使ったスキーロッジだった。
基本的に観光名所ではないので、スキーシーズンでもない今は人影はまばらだった。そこのロッジの経営者とは、夏合宿の際に懇意にしていたお陰で、秘密を守って貰える約束を取り付けていた。
「空気が澄んでますね。涼しくて気持ちいい……」
ロッジ近くの湖が見える白樺林の中を、水沢がゆっくりと歩みを進める。良く晴れてはいたが、北海道では極端な暑さを感じることはない。水沢の言うように、爽やかな空気が心地よい。
菱谷はかなり間合いを取って、水沢の後ろを追っていた。麦わら帽子をかぶり、白いTシャツにキュロットスカート姿の水沢は、意識して見なければとても、世間を騒がす女子プロ野球選手には見えない。木々の隙間を縫って差し込む陽光を浴びる水沢の姿は、どこか幻想的ですらある。
「部屋の中に閉じこめておかなくて正解だな」
菱谷は小さく呟く。今のところ、出浦や週刊誌の記者に居場所を嗅ぎ付かれた気配はない。
やがて水沢は白樺林を出て、湖の縁に出た。わずかな風が生み出したさざ波が、湖浜に打ち寄せて音を立てている。
「先生! あれ、貸しボート屋さんですよ。ボート、乗りませんか?」
水沢が、湖岸の建物を指さした。中に管理人がいるのかどうか、その位置からは判らない。ただ、湖面にボートの姿は一つも無い。
「あんまり無茶を言うなよ。俺はともかく、君の場合は顔が知られているから」
菱谷は苦笑しながらも釘を差すのを忘れない。
「はぁい。残念だな、せっかくこんな素敵な場所に来てるのに」
立ち止まった水沢は視線を落とした。彼女の足元では、真っ白な砂がさざ波に洗われている。
「いつか、もう一度来よう」しばらくの間、水沢の寂しげな後ろ姿を見つめていた菱谷は、意を決して力強く言った。
「先生……?」水沢は、菱谷の言葉の意味を判じかねてか、小首を傾けている。
「夏場に来れるのは、何年先か判らない。プロ野球には、夏休みなんてないからね。だけれども、君が引退した後にでも、もう一度、ここに来よう。その時は、ボートにも乗ろう」
「でも、私はもう、野球選手でいられないかも……」
「大丈夫だ。今は確かに辛い時期だ。でも、近いうちに風向きは変わる。きっと試合に出られる日が来る」
「先生……。嬉しい、有り難う……」
水沢は両目に涙を溜め、菱谷の胸に飛び込んできた。菱谷はためらいながらも、押しのけるような真似はしなかった。
菱谷の言った通り、騒ぎが起こって三日目から風向きが変わり始めていた。
最初の”反撃”はオリックスの選手達だった。
「優秀なチームメイトを試合に出られなくした、マスコミの責任は重い。今の攻撃的な態度を改めない限り、取材には応じない」
選手会長の藤井がそう断言した。マスコミにとって衝撃的だったのは、グリーンスタジアムでの試合前、テレビカメラの前でそう宣言した藤井の横に、イチローが並んで立っていた事だった。
イチローを敵に回す事の恐ろしさは、取り立てて述べるまでもない。報道関係者として失格の烙印を押されるも同然なのだ。
さらに、遺伝病に携わる医師会からも非難の声が上がった。
「不完全な遺伝が起こりうる確率は、決してゼロになる事はない。大多数の、健常な遺伝子及び染色体を持つ者は、不幸にして不完全な遺伝を受け継いだ人達の、いわば身代わりの上に存在している。彼らを決して粗略に扱ってはならない」
最低限の良心を持つ者なら誰も否定できぬ人道・人権上からの発言は、痛い追い打ちとなった。こぞって水沢を追いつめていた一部週刊誌にとっては、逆に自らの首を絞める結果となった。発端となった当の出浦は、巧妙に批判の的から抜け出ていたようではあったが。
その出浦は、四日目の昼過ぎになって、菱谷と水沢のいるロッジに姿を現していた。
菱谷は開き直りの気分で、彼女を見晴らしの良いバルコニーに誘った。
敢えてぶしつけな態度で、荒削りな木製の椅子にどさりと腰を降ろす。出浦がテーブルを挟んだ向かいの椅子に座った。不機嫌そうな顔を隠さない水沢は、菱谷の後ろで出浦を睨んでいる。
「参ったね。さすがと言うべきなのかな。ここを見つけだしたのは今のところ、出浦さんだけだ」
溜め息混じりの菱谷の言葉にしかし、出浦はゆっくり首を振る。
「いろいろと調べて、ようやくね……。でも、降参するのはこっちのほう。まさか、こんな成り行きになるとは思わなかったもの」
菱谷は、出浦に今まで感じていた殺伐とした雰囲気が消えているのに気づいた。昔の屈託の無さが戻っているように思われた。
「水沢さんには、謝らなくちゃね。本当にごめんなさいね」
諦観にも似た笑顔を見せる出浦に対し、水沢は険しい表情を崩さない。
「ここまで追って来て、どうせまたあること無いこと書くんでしょう?」
「まさか!」出浦は大げさに声を上げてみせた。「もう、今回の一件で懲りたわよ。もう、あなた達の事は二度とネタにしないから。約束するわ」
「何が狙い?」水沢は頬を膨らませている。
「もう、勘弁して頂戴。そういうんじゃないってば。私はただ、あなた達に戻ってきて欲しいだけ。私達の負け。この通り、お願いだから」
出浦がぺこりと頭を下げた。水沢は菱谷の方を伺ってから、ようやく顔を綻ばせた。
(どうせ、この程度の事で懲りたりなんてしないんだろうが)
菱谷は、部員達をなだめすかして練習に駆り立てるかつての出浦の姿を思い出した。相手は負けを認めてはいるが、とても勝った気にはならなかった。
グリーンスタジアム近くの車道脇に一台のRV車が停まった。
照明の光芒をまだ夕焼けの残る夜空へと立ち上らせているグリーンスタジアムから、どっと歓声が湧くのが聞こえてきた。オリックス対千葉ロッテ戦が行われているのだ。
「もう、試合が始まってるな」
運転席の菱谷が、左手に見えるスタジアムを見ながら呟いた。時計を見る。7時30分過ぎだった。
出浦の訪問を受けた後、水沢が「試合に復帰したい」と言い出したので、出浦と三人で東京まで飛行機で戻り、その後新幹線で新大阪まで、そこからさらに菱谷のRVで神戸まで駆けつけたのだが、流石に今日の試合には間に合いそうもなかった。
「ご迷惑をおかけしました。……監督さんには一応、挨拶だけはしておきますんで」
助手席の水沢が頭を下げる。そう言いつつも、彼女はユニフォーム姿だった。出来れば試合に出して貰いたいという気持ちが痛いほど菱谷には伝わっていた。
「本当に大丈夫か?」
「はい。もう、吹っ切っちゃってますから」
水沢の笑顔に、以前のような痛々しさは感じられない。心からの笑みであることが、菱谷には嬉しかった。
「今日まで登録抹消しなかった仰木監督の為にも明日から頑張らないとな。もっとも、いきなりスタメンとはいかないだろうけど」
「はい。あの、先生?」
「なんだ?」
「私……、いえ、何でもないです」
しばしの沈黙。
「頑張って来いよ」
「はい。思いっ切り、楽しんできます」
水沢は、戦場に臨む戦士の顔になっていた。再び頭を下げ、ドアを開けて車外に出る。肩には野球用具の詰まった大きなバッグ。
背中の『MIZUSAWA』の文字も、背番号59も、菱谷には大きくたくましく見えた。
「……なんか、格好良いわね、あの娘」
後部座席で二人のやりとりを黙ってみていた出浦がぽつりと呟いた。
「ああ。きっと今回の件でも、何かの糧にして成長してしまうんだろうなぁ」
菱谷がハンドルをポンと叩いた。どこか寂しげな表情になっていた。
「菱谷君……、貴方も結構格好良かったわよ。見直しちゃった」
出浦が小さく鼻をこすり、笑顔を作ってから言った言葉を、菱谷は鼻で笑った。
「ふん、よく言うぜ。記事にしないつったって、水沢が試合に出る分には取材しない訳にもいかないんだろうが?」
「あはっ。よく判ってるじゃない」出浦が肩をすくめる。
「かなわないよ、全く……」
菱谷はブレーキを外し、RV車を再び走らせ始めた。観客用の駐車場に車を停める為だった。
チケットを見せて通路を抜けた菱谷が最初に視線を走らせたのは、当然スコアボードだった。五回表。スコアを見てげっそりとなる。9対1で千葉ロッテがリードしている。先ほどの歓声は、千葉ロッテが得点を挙げた為らしかった。
オリックス先発の星野は早々にノックアウトされている。が、一方、千葉ロッテ先発の小宮山は完投ペースである。菱谷の表情がわずかに曇った。ふと、今ではすっかりオリックスに肩入れしてしまっている事に気づき、すぐに自嘲気味の表情になる。
「よお! 全く心配かけさせやがって!」「本当に! でも良かったなあ!」
一塁側内野指定席。5回表の攻撃が終わり、便所や売店へと足を運ぶ人の群をかき分けて姿を見せた菱谷と出浦を、先に来ていた成田と羽田が大声をあげて出迎えた。
「ったく、苦労して手に入れた指定席のチケットをくれてやったのは誰だと思うんだ?」
菱谷がふざけた口調で成田の頭に腕を回して締め上げる。4人分の指定席のチケットを確保したのは菱谷だった。
それを聞き、一番通路の奥側にいた羽田がげらげらと笑った。
「俺はともかく、こいつは腰が定まらないってさ」
羽田がそういいながら隣席の成田をつっつく。
「そうそう。俺はなんと言ってもスポーツカメラマンだからなあ」
「この間だってすっかり客になっていたじゃないか? 第一、ビール飲んで出来上がってるスポーツカメラマンがいてたまるか」
菱谷が成田の座っている席の肘掛けにおかれた紙コップを奪い取り、一息に飲み干す。
「はあ……。相変わらずの三バカぶりね。しかもオヤジ入ってるし」
一番通路側の席に腰を下ろした出浦が大げさなため息をつく。
一瞬、”3番・キャッチャー・成田、6番・サード・羽田、8番・ピッチャー・菱谷”、という高校時代の顔が三人に戻った。
「出浦さんはずいぶん変わったな……」
羽田がすこし湿った口調で言った。事の次第を、成田から聞いていたらしい。非難する目つきになっていた。
「……そりゃ、私だって、それが仕事なんだし……」
「やめとけよ、羽田」
そう言ったのは菱谷だった。
「みんな、それぞれに事情もあれば問題も抱えているもんだから、な」
「しかしだな――」
突如、歓声がスタンド中からわき上がった。話に熱中してグランドをみていなかった菱谷達は何が起こったのか理解出来ずに周囲を見回す。
「嘘! あの娘……!」
見ると、一塁側ベンチから軽く素振りをしながらバッターボックスに向かっているのは、背番号59をつけた水沢だった。
五回裏・オリックスの攻撃。先頭打者の代打として、水沢が打席に立とうとしていた。
観客の騒ぎは半端ではなかった。なにしろ今日の試合は、あまりに不甲斐ない内容だったからだ。オリックスファンは精彩を欠くプレーに辟易していた。それらをうち消してくれるのは、やはり水沢以外にはいないのだった。
「演出としてはともかく、仰木監督のする事はどうにもわからんなあ」
成田が首を振った。
「いや、そうでもないぞ」羽田がそれを即座にうち消す。「少なくとも、彼女の復帰でオリックスベンチは盛り上がってる筈だからな。だが……、勘が鈍っているかも知れないぞ、大丈夫なのか、菱谷?」
「一応素振りとかは欠かさなかったが……。いきなり実戦は、辛いかも知れない」
渋い顔の菱谷の背中を、出浦が強く叩いた。菱谷が激しくむせる。
「何言ってるの! あの娘は貴方達みたいな二流選手とは違うのよ。絶対打つわ。菱谷君、貴方が信じてあげなくてどうするのよ!?」
その羽に布着せない口調は、昔の敏腕マネージャの檄と全く同じだった。菱谷は顔をしかめながらも、どこか嬉しげに頷いた。
打席に入り、足場を均し、さらに素振りをくれ、スタンスを決める。その挙動一つ一つに、観客が沸く。
突如として異様な盛り上がりを迎えたことに困惑した様子で、ピッチャー・小宮山は2球続けてボール球を投げた。
かつて、バレンタイン監督率いる千葉ロッテが、マジック1となったオリックスの眼前に立ちふさがり、三タテを喰らわせて地元での優勝を阻んだことがあった。小宮山はその時の事を思い出しているかもしれない、と菱谷は思った。ちょうどあの時も、スタジアムはオリックスファンのもたらす異常な興奮に満ちていた。
三球目。今度は内角高めを衝く直球。水沢がこめかみ近くにグリップを寄せた独特の構えから鋭くバットを振り抜く。が、打球はライナーで一塁側のカメラマン席に飛び込んでいった。
そして四球目。外角低めに落ちるカーブ。きわどいコースだが水沢のバットが出た。空振り。ヘルメットが中途半端な勢いで頭から飛んでグランドに落ちた。水沢は照れくさそうに乱れた髪を手でなでつけてから、拾い上げたヘルメットをかぶり直す。
「気負ってるな」
「しかしバットの振りは悪くない」
成田と羽田の会話を横で聞きながら、菱谷は祈る思いで水沢の打席を見つめる。
五球目。内角をえぐるシュート。水沢は踏み込みながら上体を開き気味にして捌いた。打球は三塁線を抜けた。
歓声が爆発する。
「やった!」
「走れ走れ、二ついける!」
羽田と成田が大声を出す。見れば、出浦もまた、腰を浮かせて声援を送っていた。
水沢は一塁を蹴り、二塁へ。打球はレフト線上を走り抜けてフェンスに当たって跳ね返り、ライトがそれを捕球して二塁へ。打球の勢いが良すぎた分、返球までの時間は早かった。クロスプレーになった。水沢は頭から二塁ベースに飛び込んでいた。
即座に駆け寄った二塁塁審が両手を横に広げる。セーフだ。
「やった、流石だなあ……」
立ち上がっていた成田が大きく息を吐いて腰を落とした。
「ああ。言ってみれば一億二千万に一人の逸材だよ。彼女の指導を受け持てた事が、今は本当に嬉しい。感謝する」
「なに改まってるんだよ。今は穂ちゃんを応援してやろうぜ」
真面目な表情になった菱谷を、成田が笑顔で咎めた。
「ああ、そうだな」
二塁上で水沢は両腕でガッツポーズを作り、とびきりの笑顔で一塁側を見ている。それはかつてのように、菱谷を探し求めての行為ではない。オリックスの選手・首脳陣、そしてファン全員に、感謝と喜びを伝えたいという思いがそうさせているのだ。
「いよいよ、手の届かないところに行ってしまったかな……」
小さな声での菱谷の独り言は、成田も出浦にも気づかれなかった。
菱谷は思った。人生はしばしばマラソンに例えられるが、彼女の場合は短距離走なのだ、と。決して走り続けているわけではない。ゴールしてしまい、目標を失ってさまよう時もある。しかし、彼女の目が前を向いている限り、いつか必ずスタートラインが見えてくる。そして、一度スタートを切った彼女を止められるものは存在しないのだ。
菱谷は自分自身と水沢に向けて大きく頷いた。
「一気に駆け抜けろ、水沢!」
彼女は今まさに、新たなスタートラインに立とうとしていた。
――おわり
あとがき
あう、たかが女子野球小説でここまで重い話になってしまうとは……。もっとも重いかどうかは、島津の他作品と比較しての話ですが。
ラストの菱谷の行動、主人公らしからぬものだという意見もおありの方もいらっしゃるかと思います。逃げるのではなく、堂々と戦ってこそ、物語の主人公ではないか、と。
今回の作品には幾つかテーマがあります。ヒーローでも何でもない、普通の人間が出来る精一杯の事、というのもその一つです。納得していただけるかどうかは判りませんが、とりあえずああいう形で決着を付けるのが普通の人のやり口であろう、と。
結果的に小説技法のダシとして染色体異常を扱ってしまいました。巷には性転換をネタにしたコメディな漫画や小説があります。それを否定する気は全くありません。ただ、実際にそういう遺伝的な問題を持っている人も少なからず実在しているということも、忘れたくないものです。
なお、全体構想は戸川昌子著”赤い暈”(徳間書店、1969年)を全面的に参考にしております。なにぶん元ネタが古いので、医学技術の進歩を描写出来ていない可能性もあります。そして、作中の事実誤認あるいは認識不足故の不適切な表現の全てが、島津の責任であることを明言します。
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