――MESSAGE#11 復活
真夏の暑さもようやく薄れてきたころ、一軍ベンチに翔子の姿があった。あの日から、わずかなきっかけを掴んだ日から、どれくらいの時間が経ったのだろう。
再度、這い上がった一軍。カクテル光線の眩しさが懐かしく感じられる。
「今度こそ頑張れよ!」
「よーっ! またすぐ二軍へお帰りか」
今の翔子にはマスコミの目、ファンの声援、罵声といったものは、まるで気にかからない。心なしか、翔子の表情には自信さえうかがえる。
(もう、あの時の私とは違うわ)
四日後、翔子はプロ二度目のマウンドの土を踏むことになる。
「いいか、沢村。落ち着いて投げろ」
「ハイ。監督」
東京ロイヤルズとの十七回戦。八回裏、スコア二対八と、六点のリードを許した場面。いわゆる敗戦処理ではあったが、翔子の表情は自信に満ちあふれ、初登板の時にみせた緊張感といったものはまるで感じられない。そして、翔子は一軍のマウンドへ向かった。
一番バッターの浅田がバットを構える。翔太と同じ左バッター。しかし、あの時ほどの不安は感じない。
「いくわよ!」
初球、外角一杯に決まるスライダー。二球目も外へのストレート。これはわずかに外れてカウント一―一。
「もう一丁、外!」
外角低めに落ちるカーブ。浅田のバットが振り出された。打球音。打球は真っ直ぐ翔子めがけて飛んだ。
「!」
翔子は反射的にグラブを突き出した。そのグラブに、打球はすっぽりと収まっていた。
観客の悲鳴が、一瞬の後に翔子への声援と、浅田への強烈な野次へと変わる。
「ふーっ、危なかった。失投じゃなかったと思ったんだけど、プロはやっぱり凄いわ」
翔子は額の汗を拭って、早くも弾み始めた息をつく。
続いて二番・小森が打席に入った。翔子は早いテンポで投げ込み、カウント二―一にまで追い込んだ。
しかしその後、ファールが二球が続いた。
「やっぱり、落ちる球がないと、球数が多くなるわね……」
だが、次のカーブに小森は空振りしてくれた。
「やった、プロ初奪三振!」
勢いに乗った翔子は三番・野口もサードゴロに打ち取り、きっちりと役目を果たしたのだった。
次に翔子に巡ってきた登板のチャンスは、対左のワンポイントリリーフであった。対札幌ベアーズ十九回戦。八回裏、一死三塁。ワンポイントといえども、一点リードしている試合の終盤である。これは、大森が翔子を戦力として考えつつあることを示していた。
「いいか、沢村。落ち着いて投げろ」
(監督さん、私にはいつも同じ事しか言ってくれないのね)
グラブを手にしながら翔子は思う。
「聞いているのか、沢村」
「ハイ、監督。行って来ます」
翔子はベンチを飛び出した。
打席に迎えるのは、球界屈指の和製大砲、札幌ベアーズの四番・手塚である。
二度、三度とワッグルして左打席に入った手塚は、すさまじい形相で翔子を睨み付けた。『女に抑えられてたまるか!』全身でそう物語っている。
初球、翔子は内角高めにストレートをたたき込んだ。手塚はのけぞって避ける。スコアボードの電光掲示板には球速百三十八キロと表示された。イーグルス応援団からやんやの歓声が起こる。
二球目は外角一杯に決まるカーブ。これでカウントは一―一。
「よし、行ける」
三球目。外角に逃げていくスライダー。手塚がフルスイングしたが、バットの先端でボールの下を叩いていた。
打球はほとんど真上へと弾き上げられた。キャッチャーの北山がマスクを跳ね飛ばして天を見上げる。
(やった……)
翔子はほっとして打球の行方を目で追っていた。しかしあろうことか、北山は球を弾いて落球してしまった。
嫌な雰囲気になった。歓声と野次が交差する中、イーグルス内野陣がマウンドに集まる。
北山は蒼白になって頭を下げた。
「済まない……」
「ドンマイですよ、北山さん」
翔子は何事もなかったかのように笑ってみせる。その笑顔が、選手達の雰囲気をがらりと変えた。
「頑張れ、翔子!」
「三振に打ち取ってやれ!」
内野陣は口々に翔子を激励し、守備位置に散った。
「よーし! 今度こそ」
改めて手塚と対峙する。敵のエラーに助けられた屈辱で顔を真っ赤にした手塚は、前のめりになって構えている。
「絶対に打たせない!」
内角高め、ボールからストライクゾーンに入ってくるスライダー。
手塚が再び強振する。
鋭い打球が一、二塁間に飛んだ。イーグルスの選手、首脳陣、応援団は息を呑み、目を覆い、天を仰いだ。
しかし次の瞬間、横っ飛びに飛びついたセカンド・高城が、打球をグラブの先端に収めていた。
翔子は思わずマウンド上に膝を突きそうになった。ヒヤリとしたが、ともかく抑えたのだ。
翌日の毎朝スポーツに川崎の書いた記事が載る。
『左バッターを確実に抑える技術、それだけでプロで飯を食っていくことが出来る投手がいる。すなわち左のワンポイントである。沢村翔子もその一員となるのであろうか。個人的な願望をここで書くべきではないだろう。が、もっと上のレベルを目指して欲しいと思う。パイレーツの鹿狩やコメッツの榊のようなストッパーを……』
翔子が再度一軍に上がってから、早くも十日が過ぎ去ろうとしていた。今日は月曜日。月曜日は試合がないから早く帰って来れる筈だったが、雑誌とかテレビとかの取材で結局は、いつもより二時間くらい早く帰って来ただけだった。
自室に戻った翔子は部屋の散らかりように溜息をついた。
「うーん。テレビの上とか、机の上とか、だいぶホコリが溜まっちゃったな。この前にこの部屋を掃除したのはいつだっけ。二週間くらい前だっけ。部屋に帰って来るのはいつも夜の十二時近くだし、ロードで留守にする事も珍しくないし。それに、この部屋は帰って寝るだけの所だし。少しくらい汚れていても、ま、いっか」
そうは思うものの、やはり汚れている事に変わり無い。十八歳の可憐な乙女の部屋にしては、少々問題がある。
(そうだわ、いいこと考えた。この部屋を掃除するのは、お兄ちゃんを打ち取ってから! 打ち取るまでは掃除しない、っていうのは、どうかしら?)
火曜日から、埼玉パイレーツとの三連戦がある。今、チームは絶好調で五連勝中。明日からの埼玉パイレーツ戦に三連勝すると、一気に三ゲーム差になる。三ゲーム差になれば優勝だって夢でなくなる。それに、事と次第によっては、翔太と対決する可能性もある。
翔太は今、埼玉パイレーツの三番・サードに定着している。新人王はほぼ当確となっていて、打点ではタイトルを狙える位置にいる。
「でも、もうこの前のようには絶対打たせないんだから! この前のホームランの仕返しをさせてもらうわ! 何てったって、こっちには秘密兵器があるんだからネ!」
秘密兵器。それはアンダースローで投げるシンカーである。川崎から伝授された握り方を少し変えて、山神と二人で編み出したのだ。
今、彼女の持ち球はオーバースローでのストレート、カーブ、スライダー。アンダースローでのストレート、シンカー。アンダースローのストレートには自信がないが、シンカーだけだと、打者にすぐシンカーだと見破られてしまう。だから、アンダースローでストレートも投げる事になったが、即席としてはまずまずの最高百二十六キロが出ている。
なお、これらの練習はマスコミの目を完全にシャットアウトした状態で行われた。従って、翔太も秘密兵器の存在に気づいていないはずである。
無論、こんな方法がベストだとは翔子も思っていない。しかし、例え一度でも翔太を打ち取る方法があるのなら、それに賭けてみるべきだった。
「さて、そろそろ寝ようっと」
翔子は布団に潜り込んだ。
(お休みなさい。明日からも、いいピッチングができますように)
この晩も翔子は野球の夢を見た。しかし、開幕前に見たあの素晴らしい夢とは違った。それは、翔太に打たれたホームランの完全なリプレイだった。
――MESSAGE#12 対決
大森は翔子の真の実力を試す気なのだろうか。一点リードの九回表二死満塁、打者は沢村翔太。白けるほど劇的な状況の中、場内アナウンスが翔子の登板を告げる。ふと、兄に打たれたことが翔子の脳裏にちらつく。だが、二度の登板経験が弱気をねじ伏せる。
翔子は再び、運命の兄妹対決の舞台に立った。
初球は外角へストレート。二球目も内角へのストレート。三球目は外角低め一杯に決まるカーブ。カウントは一―二になった。
「お兄ちゃん、バットを振ってこない……。何を待ってるの?」
額の汗を拭いつつ、翔子の心に疑念が沸く。何もかも見通されている気がする。
「ううん、そんなことないわ。今度は抑えてみせる」
試合前、翔子は山神に会った。山神は言った。
「いいか翔子。もし沢村翔太が十年もこの世界で飯を食っているベテランなら、ワシもこんな作戦は勧めん。ベテラン相手に奇策を仕掛ければ、間違いなく逆にばっさりと斬られる。だが相手は、いくらレギュラーの三番バッターだとしても、所詮はルーキーだ。経験がない。だから、奇策の通じる可能性がある……」
翔子は北山のサインに頷き、四球目を投げ込む。アンダースローからのストレートだ。
「なにっ!」
翔太は一瞬ためらったが打ちに出た。打球はあのときと同じ鋭い音を発し、ライト線の真上に飛んだ。
「切れてっ」
翔子の願いが通じたのか、打球はポールの右側ぎりぎりに切れた。
「もうっ! ちょっとは手加減してよ」
翔子が呟く。が、それは本心ではない。全力で向かってくる翔太を実力で打ち取ってこそ、自分は本物の一軍選手になれる。そう思う。
「だけど、今の私にはそこまでの実力はない……。ここは奇策でもなんでも使って打ち取らないと」
五球目、内角高めへの、アンダースローからのストレート。危険球すれすれの球だ。
翔太は振り出し掛けていたバットを止めて見送った。これでカウントは二―三。
「今の球、わざとはずしたのか……? 何故だ? それにあのアンダースローは一体……。くそっ、目先を変えるぐらいで、俺を打ち取れると思ってるのか?」
バットを構え直しつつ、翔太はそう思った。迷ったら負けだと自分に言い聞かせる。追い込まれたらストレートのタイミングで待つ。翔子の変化球なら、何が来ても打ち返す自信はある。
「勝負!」
翔子は大きく振りかぶった。ツーアウトでカウント二―三だから、ランナーが一斉にスタートを切る。またもアンダースロー。
球威はない。打ち頃の速度でストライクゾーンに入ってくる。
「貰った!」
翔太が大きく踏み込み、腰の回転によってスピードの乗ったバットが鋭く振り出される。だが、ボールはバットを避けるかのように沈み込んだ。翔太のバットが空を切る。
(シンカーだと……! そうか、あのアンダースローはこのシンカーを使うためのものだったのか)
「ストライーック! バッターアウト」
主審が右手を突き出す。
「勝った……。勝ったんだ!」
翔子は投げ終わった姿勢のまま、そう呟いた。
「してやられたな。しかし、こんな小手先の戦法は二度とは通用しない。これで一勝一敗。今度の勝負が楽しみだ」
ベンチに引き上げる翔太は、一塁ベンチ前で握手攻めに会っている翔子の姿をちらりと見た。勝負がついた訳じゃない。案外、翔子こそ、自分の最強のライバルになるかも知れない。そのことがひどく楽しく思われた。
翔子は今、ほんの数分前まで兄妹二人がいた空間を眺めている。ようやくここまで来た、そう感じていた。戦いはまだ終わっていない。これからが本当の勝負だと自分に言い聞かせる。
報道陣に囲まれた大森がぽつりとつぶやく。
「やっとウチにも、ストッパーができたな」
エピローグ
大海を漂う漂流船が一筋の燈台の灯火を見つけたかのごとく、翔子の活躍が、笑顔が、そして明るさが、それまで低迷していたチームの流れを大きく変え始める。
(あきらめかけていたものに手が届くかも知れない)
そんな気持ちがチームに漂い始める。そして、チームは一丸となって遥かなる夢に向かって突き進む。
『ピッチャー島崎に代わりましてショーコ。背番号四十七』
渦巻く歓声を背に、翔子はカクテル光線の中に消えていく。
十月三日現在、東海イーグルス、首位埼玉パイレーツと二・五ゲーム差。
―― おわり ――
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