ストライクゾーン 第十一話
(五十三)
10月16日。
仙台ファルコンズ対横須賀セイバーズ最終戦、仙台ファルコンズにとってはプレーオフ出場を賭けた”もっとも長い一日”が始まった。
「セイバーズの連中は夜遅くまで祝賀会で馬鹿騒ぎしてたに違いないよ。それだけ私達のほうが有利」
作間は球場へ向かうバスの中で選手達にそう言った。しかし、彼女達にしても、眠れぬ夜を過ごした事に変わりはなかった。
「皇太子妃殿下が優勝決定戦で始球式やるって話、あれどうなったのかな?」
村崎が、緊張をほぐすように軽い口調で呟いた。
「あれ、中止になったみたいよ。皇太子妃殿下ってば東京スターズのファンだから」
戸隠が答える。彼女はその手の情報には異様に詳しい。
「そうなんだ。知らなかったな」
そう独り言を呟いた鷹霧は、隣の窓側の席に座る山戸が、しきりに窓の外を気にしているのに気付いた。
「何見てるの?」
「いえ、戦艦が泊まってないかと思って」
横須賀は海軍の街だ。道路上からも、場所によっては軍港に停泊する艦を視界に収められるところもある。
「Z旗でも揚がってればいいんだけどね」
「そんな。軍艦がZ旗揚げてたら、それこそ戦争ってことじゃないですか」
生真面目に答える山戸の様子がおかしくて、鷹霧はつい笑みをもらした。
試合開始は2時。仙台ファルコンズは2時間半前の11時30分に球場入りした。驚くべき事には、熱心なファンが関係者専用出入口のまわりに数十人集まっていた。彼等は選手に様々な激励の言葉を掛け、プレゼントを手渡し、サインをねだって群がってきた。
「大したもんじゃないか? ファンというのは有り難いな」
バスから最後に降り立った早瀬が、前にいた鷹霧と山戸に言う。確かにその通りだった。彼等の存在が、どれほど勇気を与えてくれるか、早瀬は良く知っていた。
鷹霧の前に、一人の女の子が走り出た。彼女は口を固く結んだまま、手に持った色紙とペンを鷹霧のほうに突き出した。
鷹霧は嫌な顔ひとつせずにそれを受け取り、左手でサインを書いた。正直なところ、右腕は色紙を持つ事さえ苦痛を覚えるような状態だったが、鷹霧はそれを決して顔には示さなかった。
「お嬢ちゃん、お名前は?」鷹霧が聞いた。
「くすのきななみ、です!」目を輝かせて女の子が答える。
鷹霧はそれを聞いて頷くと、くすのき、は木に南だけ? そう、木もいるの。ななみは? 奈良県の奈? 後は、佐々木の真ん中で、最後は美しいでいいの? と名前を書いていった。
そして最後に、「奈々美ちゃんは野球が好き?」と、愚にもつかない質問をした。すると楠木奈々美は子供らしい飛躍した思考で、自分は小学校の五年で双子の姉がおり、その姉の名前は奈津美で一緒の野球チームに入っており、自分はピッチャーで、姉がショートで四番だという事を次々と喋った。ついでに、姉は横須賀セイバーズのファンだという事まで話してくれた。
鷹霧はニッコリ笑って色紙の「楠木奈々美ちゃんへ」の横に「未来の私達のエース」と書き加えてあげた。楠木はそれを見て跳び上がって喜び、何度を頭を下げながらその場を離れた。
「ああいうファンがいてくれる限り、私達は諦めてしまう訳にはいかない」鷹霧はそう言って口もとを引き締めた。傍らに付き従う山戸がそのやりとりを見て、感に堪えないと言う表情を浮かべていた。
12時50分。一塁側監督室。
「本当に良かったんですか?」投手コーチ・辻勇一が富士原に尋ねた。富士原が憮然とした表情で答える。
「立花も納得してくれた。ここで確実に勝とうと思えば、他の選択は考えられない」
「中三日、ですか。まあ、ここでファルコンズの将来性の芽を摘むという考えには賛成しますが。余りに露骨すぎませんか?」
「まあな。しかし、敢えて苦しい道を歩もうというのだ。批判される事もあるまい」富士原は言った。
ここで立花を出して勝った場合、優勝決定戦の相手は名古屋シルフィードになる。名古屋シルフィードはそれを見越して日程終了直後から調整を始めている。しかも越原監督が辞意を表明し、選手達は何とか花道を飾らせてやろうと必死になっている。
本当なら、パワーは無いが老獪な手腕でこちらを翻弄する名古屋シルフィードよりも、パワフルではあっても単純な仙台ファルコンズと優勝決定戦を行うほうが楽だった。仙台ファルコンズがその場限りの勢いだけでプレーオフを勝ち上がってくれば、横須賀セイバーズにとっては撃破しやすい。そう考えれば今日の試合、無理に勝ちに行く必然性は存在しない。
だが、長期戦略を重んじる富士原は、敢えて将来の強豪となる可能性を秘めた仙台ファルコンズをここで叩き、プレーオフ進出を阻む算段を立て、エース・立花の起用を決めていた。立花が鷹霧に相性が悪いことは考慮しているが、そう何度も苦汁を飲まされる投手ではない。むしろ、今年中にケリを付けておかないとシーズンオフへの影響も考えられた。その考えの上での立花先発である。
「問題はこちらの打線だな。投手戦になるぞ」
富士原のつぶやきに、辻は大きくうなずいた。
1時10分。一塁側ロッカールーム。
「今日こそやってやるぞ!」
立花由利は、右手の拳のグローブの中に叩き込んだ。瞳には静かな闘志の色が揺らめいている。
「随分気合いが入ってるなぁ」傍らに立つ太刀守が呆れた。
太刀守はホームラン部門のタイトルも狙っている為に、今日もベンチ入りする事になっていた。レギュラー格でベンチ入りするのは、後は最多盗塁のタイトルが賭かる神内と、キャッチャーの真柴ぐらいだった。真柴は特にタイトルが掛かっていなかったが、レギュラーはどんな試合でも出場しなければならない、という信念を持っていた。第一、立花の剛球をまともに捕球出来るキャッチャーは、横須賀セイバーズのチーム層が厚いと言えど、真柴しかいない。
「今まで負け通しですからね。今度こそ勝ちます」
立花のいつにない気負った台詞に、太刀守が眉を寄せる。
「鷹霧に、か? 全く執念深いな」
「そんな事を私に言えるのは、ウチのチームじゃ、監督と太刀守さんだけです」立花がニヤリとした。
「そうかもな」太刀守は笑った。かつてソフトボール全日本女子チームの4番を務めたほどの彼女は、これくらいの凄みには動じない。「みんな言ってるよ。立花は織田信長みたいだって」
「戸次鑑連じゃないんですか?」立花がつまらなさそうに聞いた。戸次鑑連とは、戦国時代、九州の大友家に仕え、三十七度の合戦で一度も負けなかったという闘将・立花道雪の若き頃の名前である。
「ははっ、意外と日本史に詳しいんだな。せいぜい、監督に本能寺されないように気を付けろよ」
そう窘める太刀守のぶっきらぼうな言葉だったが、その中には、ベテランとしての優しさが満ちていた。
1時20分。三塁側内野スタンド。
「女子リーグの選手が毎試合タダ券を貰っているなんぞ初めて知ったぞ」
プラスティック製の座席に窮屈そうに腰を落とす山形運輸・小須茂景勝が言った。
「僕も最近知ったんです。妹は今までいろんな選手にツケがあったらしくて、今日無理やりに数を揃えてくれたんです」
隣りに座る鷹霧伸一がグランドに目をやったまま答えた。ちょうど仙台ファルコンズの打撃練習が始まっていた。
「それは済まなかったな。無理言って」
「いいんですよ。あいつの晴れ舞台ですからね」
伸一は、しきりに選手の中に妹の姿を探していた。
小須茂は、伸一の穏やかな顔つきと、隣に座ってはしゃいでいる愛娘・春菜を見比べて、決意を新たにした。将来、春菜が大きくなったら、鷹霧佐知子のような素晴らしい選手に育ててやろう。そして、絶対にプロ選手にしてやろう。
「俺の果たせなかった夢を果たしてもらうんだ」
「何か言った? お父さん?」
春菜が小須茂のいかつい顔を振り仰いでいる。
「いや、なんでもない」
小須茂の、堅いマメに覆われた掌が春菜の頭を撫でる。
「ね、お父さん。ファルコンズ、絶対勝つよね?」
「ああ、絶対だ」
小須茂はきっぱりと言い切った。
絶対に勝たなければならない。スタジアムジャンパーを羽織る早瀬はバッティングゲージの車輪に片足をかけ、頼もしい選手達の後ろ姿を見ながら自らに言い聞かせた。
この勝負は、選手を縛る管理野球と、選手の実力を引き出すお祭り野球との戦いだ。管理野球の西武が、実質的な男子球界の盟主となったように、この試合の勝者が女子リーグの趨勢を決する。
鋭い打撃音が早瀬の耳を突いた。反射的に顔を上げる。鷹霧の放った打球がレフトスタンドに放り込まれた。
早瀬は、心のどこかで鷹霧に嫉妬している事に気付いていた。うん、羨ましい。私にあれほどの才能と、強烈な意思があれば。畜生め。こんな大事な試合に、選手として出場出来ないなんて。
早瀬の熱い視線に気づいたか、鷹霧が振り返った。
早瀬と目が合い、困ったような表情をする。
(監督、か)鷹霧は思った。監督としてチームを引っ張り、優勝への階段を駆け昇ろうとしている早瀬さんはどんな気分なのだろう。自分に将としての才能があるとは思わないけど、もし許されるならば、一度ぐらいその気分を味わってみたいものね、と。
群馬県太田市。中島重工本社、社長室。
「間もなく試合が始まります」
仙台ファルコンズ球団社長・岡江慶治が、壁の時計と自分の腕時計を確認してから言った。
本社社長・浅見利輔は机に向かったままだった。手元の書類に目を落としたまま応じる。
「そうだな。彼女達は良くやってくれたよ。球団の赤字が解消された訳ではないが、宣伝効果を考えるなら、身売りを考える必要は無くなったな」
「ありがとうございます」岡江が頭を下げた。
「しかし、どうしてあのチームがここまで強くなれたのかね。私には見当が付きかねるよ」
「人材の適材配置、これに付きます」岡江が胸を張って即答した。
「鷹霧、だな?」浅見が聞く。
「そうです。そして早瀬監督。彼女達が今年のような成績を残してくれる限り、ファルコンズは後5年は安泰です」
岡江は、鷹霧の肘の故障も、早瀬の監督としての周囲の評価もほとんど知らなかった。知っていればこんな安請け合いはしなかっただろう。
「試合の様子はどうしましょう。差し支えなければ、随時報告させて頂きますが」浅見の女性秘書が聞いた。ボールを10メートルも投げられないような華奢な女性だった。
「これから会議だぞ」浅見は不機嫌そうに答えた。それから、苦笑いを浮かべて付け加える。「それに正直言って、おっかなくて聞いていられない。岡江君、試合が終わったら報告してくれ」
三塁側ベンチ裏。
試合直前、鷹霧はトレーナー・内藤に最後のマッサージを受けた。入念に筋肉を揉みほぐし、肘の負担を軽くしようと試みるが、気休め以上のものではないことは、内藤自身が一番よく判っていた。
「本音を言うと、試合に出て欲しくないな。君の身体はもうボロボロなんだ」内藤が言った。
鷹霧が静かに首を振る。
「分かってますよ。でも、勝ち逃げは出来ないんです」
「立花が相手だからか。何でそこまで勝負にこだわる?」
流石に、負けたっていいじゃないか、とは言えず、内藤は愚問を発していた。
「この勝負に勝てたら」鷹霧は言った。「私はこれから先、どんな困難にも打ち勝てそうな気がするんです」
鷹霧は、そう言って晴れやかな笑顔をしてみせた。
(五十四)
2時ちょうど。
主審の手が高々と掲げられた。試合開始。
立花はロジンバックを手に持ちながら、スコアボードを振り返った。スタメン表を見て不敵に笑う。
・横須賀セイバーズ
1神内 3B
2宇崎 LF
3相馬 1B
4太刀守 CF
5置鮎 SS
6三雲 2B
7飯富 RF
8真柴 C
9立花 P
・仙台ファルコンズ
1犬飼 SS
2小加茂 RF
3鷹霧 1B
4山戸 CF
5作間 C
6戸隠 2B
7吉田 LF
8村崎 3B
9神崎 P
仙台ファルコンズはほぼベストメンバーだが、横須賀セイバーズはかなり控え選手が組み込まれている。
立花がスコアボードを振り返っているのを見て、センターの守備位置に就いた太刀守も、彼我のスタメンを再確認する。
(ま、ちょうどいいハンデといったところか。でもウチの若手は必死になってポイント稼いでこようとするだろうから、ハンデにもならない、か? まあいい。少なくとも今回は、立花は鷹霧と三回は対戦出来る。今度こそ打ち取って、いや、三振に仕留めてくれるだろう)
立花という投手は、どういう訳かチームの勝敗に全くこだわらず、個人的な対決に全力を投入する時がある事を、太刀守は知っていた。そして相手チームにとって、そういう時の立花こそ最も厄介な敵なのだ。太刀守は勝利を疑わなかった。
ロジンバックを足元に落とした立花はしばし、男子用より一回り小さい女子野球用硬球をこねまわしてからおもむろに振りかぶり、渾心のストレートを真柴のミット目がけて投げ込んだ。球は走っていた。スピードガンは時速136キロを記録した。横須賀セイバーズ応援団の歓声が爆発する。
打席の犬飼は全くバットを動かさなかったが、鋭い眼光から闘志は消えていない。
(いつまでも好き勝手させるかよ! ファルコンズは山戸と鷹霧さんだけのチームじゃないって事を見せてやる!)
犬飼が心の中で毒づいた。足元を均して間合いを稼ぎ、相手のペースにはまらないよう意識する余裕があった。
二球目。再びど真ん中にストレート。犬飼が素早く金属バットを寝かせた。鈍い音を立ててボールが金属バットに命中する。犬飼は衝撃を全身で吸収しつつ、一塁目指して走り出した。
「いきなりセーフティバントかよ!」
サードの神内が腹の中で悪態を付きながら思い切り突っ込んでボールをすくい上げ、一塁に送球する。しかし球は高くそれた。レギュラーの張純子ならうまく処理出来たのだろうが、ルーキーの相馬恵美子は飛びついて後逸しないようにするのが精一杯だった。
ノーアウト・ランナー一塁。
続いて打席に入った小加茂に、早瀬は送りバントのサインを出した。
(許せ、小加茂)
早瀬は自分の出したサインに、たまらない気持ちになった。
自分が監督になってから、一体何回小加茂に送りバントのサインを出しただろうか。こんな大事な試合、しかもまだ初回なのに、私はあなたに打たせてあげる事が出来ない。あなただって、みんなと同じように、思い切りかっとばしてみたいだろうに……。
小加茂は、早瀬の気持ちに気付く風もなく、絶妙の送りバントを決めた。これでワンアウト・ランナー二塁。
ここでバッターは三番・鷹霧。この対決を見るためにやってきた横須賀セイバーズファンも多く、歓声が一段と高まった。
「今回は計算もかけ引きも無しだ。全力でぶつからせて貰うぞ!」
立花が怒鳴った。しかし歓声に阻まれて、鷹霧ははっきりと聞き取れなかった。それでも鷹霧は大きくうなずいた。
(ここで絶対に悔いは残さない! 24年間の自分の平凡な人生を振り返らない為にも! これからも野球を続ける、山戸や清川達の為にも! スタンドで応援してくれている兄さんや、奈々美ちゃんの為にも!)
立花がランナーの存在など無視して大きく振りかぶった。その姿は、たとえ試合を落とそうとも、鷹霧には勝つ、といわんばかりの全力投球を予感させた。
立花が左脚を持ち上げる。それと同時に鷹霧も左脚を引き上げ、身体を静止させる。過酷な実戦をくぐり抜けてもなお、一本足打法に揺らぎはない。立花が大きく右腕を引き、左足を踏み込んだ。右腕が弓のようにしなり、そして――。
(五十五)
仙台宮城球場は満員だった。
女子リーグが二リーグ・100試合制になってからはや2年が経っていた。
一塁側は、いまやリーグ屈指の強豪となった仙台ファルコンズのチームカラーである緑色に染まっている。そして三塁側は女子リーグ加入二年目にして、この優勝決定戦に初出場を決めた神戸グリフォンズのチームカラー、青・赤・白の三色が埋め尽くしていた。
試合は五回表が終わった時点で、スコア2対1で神戸グリフォンズがリードしている。
「あれから何年たった? 時の経つのは早いね」
監督が、一塁側の緑色を見て目を細めながら、独り言のように呟きを漏らした。
「あの時の事が、昨日のように思えますか?」
ヘッドコーチがすかさず悪戯っぽく応じて、二人して静かに笑みを漏らす。しかし、真面目なヘッドコーチの脳裏には、3勝3敗で迎えた優勝決定戦の第七戦の最中に、こんな話をしていていいのかとという疑問が同時に頭に浮かんでいる。
「ああ、全くその通り。ここが痛むたびに――」監督はそう言って右肘にそっと手を当てた。「あの頃を思い出さずにはいられない」
「昔話は後にして下さいよ」とユニフォームの背番号26の上に「COSMO」の登録名をつけたDH・小須茂春菜が話の腰を折った。鼻っ柱の強い小須茂は、ルーキーながら天才的な長打センスを持っていて、チームの主砲となっている。
「私達の頃はDH制は採用されてなかった。羨ましいよ」監督は肩をすくめると、マウンドへと向かうエース・楠木奈々美に声を掛けた。「少々飛ばしても構わんぞ。栄美が出たがってる。ベテランにも花を持たせてあげないとな」
「やですよ、そんなの」きょとんとした顔で振り返った楠木が、笑って首を振った。「ベテランに花、って言ったって、沢村さんはリーグ優勝の時のウイニングボールを持ってっちゃったじゃないですか。私は日本一のウイニングボールを頂きます。それに、姉さんが待っているんです。ここで引き下がれないんですよ」
「そうかあ。あなた達はいつになってもライバルなんだな」
ヘッドコーチが感心した声を出して、しきりにうなずく。
「いつになってもライバル、か。ちょっとした皮肉だな」
神戸グリフォンズ監督・鷹霧佐知子は小さく溜め息をつき、一塁側ベンチの奥に目を凝らした。そこでは、彼女にとっての宿命のライバルが、鷹霧の古巣のチームで指揮を執っているのだ。皮肉としか言いようがなかった。
時代は流れ、全ては変わってしまった。今、早瀬さんはファルコンズの編成部長とかいうポストに就いているらしい。あぁ、早瀬さんは今でも、実働わずか一年足らずで、逃げるようにファルコンズを出ていった私の事を怒っているだろうか? けど、仕方無かった。あの時は手術をしなければどうにもならなかったんだから。
「立花さんも必死ですよ。今度こそ鷹霧さんに勝つって、相当張り切ってますから。そうでもなきゃ、セイバーズを飛び出して監督になんかなりはしませんからね。リーグが違ってても、あの人には関係ないみたいですし」
ヘッドコーチ・山戸誉が冷静な分析をしてみせた。
「ウチの球団社長に感謝しなくちゃな。成り行きとはいえ、私みたいな実績の無い人間を監督にしてくれたんだから」
「記録には残りませんが」鷹霧の言葉に、山戸が困ったような表情をした。「鷹霧さんは記憶に残る選手ですよ。もっと自信を持って下さい。でも、今でも残念ですか? あの時の最終戦」
二人の脳裏には、共にプレーした、最も熱い日々の情景が駆けめぐっていた。
「そうかも知れない」鷹霧が答える。「でも、あそこまで行ったのは出来過ぎだったよ」
しばらく間を置いてから、鷹霧は未だに失われていない、魅力的で爽やかな笑顔を見せた。
「シーズンの最終戦に勝ち、プレーオフにも勝ち、決定戦であの頃のセイバーズ相手に3勝3敗まで持ち込んだんだからね。第七戦を落としたのは痛恨だけど、私は十分に満足してる。でも、最後の一勝は、そうね、今日、立花監督から頂くとするか」
185打数66安打、打率.357。本塁打25。打点42。
これが、鷹霧佐知子の通算成績である。実働わずか一年。シーズンを通して出場出来ず、結果として個人タイトルの類は一切獲得していない。
ただ、98年末に「女子リーグの発展に貢献した」として与えられた連盟特別表彰だけが、今なお半ば伝説的色彩を帯びて語られる、選手としての彼女の存在を、記憶だけでなく、記録の世界に留めている。
(おわり)
※ この物語はフィクションです。登場人物及び名称、団体、組織等は全て架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。
また、プロ・アマを問わない野球に関する様々な情報を提供してくれた武井幸二氏に、この場を借りて厚くお礼を申し上げます。
あとがき
連載開始から半年、当HPのメイン(のつもり)だった『ストライクゾーン』は、以上で完結です。おつきあい下さった読者の方には、感謝の言葉もありません。
この作品は大学時代の文芸部の部誌に、三年に渡って連載していたものです。HP掲載に当たっては、部誌版では紙数の関係でカットしたラストの最終戦の試合内容を出来るだけ細かく書き込むつもりでした。が、やはり全体の流れを考えて、部誌版通りの展開にとどめております。話数の予定がくるくると変わってしまったのはその為です。混乱させてしまったのであれば、どうか構成上の試行錯誤ということでご容赦下さい。
さて。私にとっては思い入れの深い作品ですが、再掲載にあたって読み直して感じるのは、小説の野球では、生やテレビは見れない野球の裏側、グラウンドの外の野球選手の姿を描くことが出来る、逆に言えば、試合そのものの迫力で実物には敵わない以上、違った切り口を模索していかなければならない、ということです。
本作では、鷹霧佐知子を始めとして、登場選手はそれこそ100%野球漬けの描写しか出来ませんでした。日常のしがらみ――それこそ、野球を続けることに反対する親や恋人を前にしての苦悩や、安い年俸に頭を抱え、生活を切りつめるつつましさ、といったものをもっと描写出来ていれば、よりグラウンドで弾ける選手達の魅力も際だって描けたのではないか、と反省します。
ともあれ、彼女たちの戦いはこれでゲームセットです。ま、同一の世界観を有する外伝が出てくる可能性がなきにしもあらずですので、そのときは又よろしくお願いします。
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