東鳩のやさしい掟

第一話

 序文


 本作品の内容は執筆時点におけるごく近い時期に発売されたゲームを取り扱っているが、それらはすべて二次創作である。実際のゲーム内容、キャラクターに近似していない部分があるとしても、それは必然にすぎない(関係者は、二次創作とはより高度な研究のもとで、すべてのお約束をみたしつつ行われると断言するであろう)。
 また、本作品は娯楽以外の目的をもっていない。いかなるキャラの扱い、原作からの改編その他の擁護、批判も筆者の意図するものではない。



 プロローグ


 少年の死は数日のあいだ誰にも気づかれなかった。
 いつも安物に見えない服を着ていた彼は、決して愛想の悪い人物ではなかった。むしろその逆だった。大都市の西にある私鉄がつくりあげた住宅街の住人。ことさら若い女性には微笑みを浮かべて挨拶することを忘れないような人だった。
 そんな彼が、日常性の積み重ねによって発見されたのは連休も終わった五月の事だった。浴槽に湯を張り、それに自らが漬かった状態で剥き出しの電線を湯船に漬ける。少年に、そんな不可思議な趣味もなければ過激な健康法を試みる必要は考えられなかった。
 連休明けの朝、彼を起こしにくる事を日課にしていた少女が不振に思い、恐る恐る入った浴室で彼の姿に気がづくと、その事を周囲に伝えなければならない衝動にかられた。
 彼女は、電話を探して勝手知ったる彼の家中をひっかきまわし、階段を二段ほど踏み外しかけたあと、彼の家の電話が玄関にあった事を思い出し、数字が刻まれた三つのボタンを押し込んで大声でわめきたてた。
 だが、彼女の要領を得ない通報よりも、彼女のただならぬ大声を聞いた隣家の住人の通報の方が素早く伝わったのだった。
 結局、近所の公園にある交番から駆けつけた巡査が彼の家の玄関を激しくノックしたその時でも、少女は要領を得ない通報を続けていた。
 世界でも最高峰の初動捜査能力を有していた治安警察の電子的端末網を情報がかけめぐり、自転車の巡査が到着した八分後。所轄警察署の捜査班が到着した。対立する首都圏警備警察機構の機動捜査隊はその十三分後に到着し、所轄捜査班とどちらが捜査の主導権を握るかで到着までの時間よりも長く論争した上で、上層部からの連絡を受けて待機任務へと復帰していった。
「金にも困っていない。体調は年齢相応かそれ以上。一人暮らしに近いが、別に問題はなかったようだ」
 通報から三時間後に鑑識班とともに到着した中年の男は、混乱した答えで捜査員を辟易させている少女にふれる。
「少なくとも、昔の俺は毎朝起こしに来る娘がいようものなら、舞い上がっているはずだ」
 彼は、三〇の坂をかなりの高さまで登りつめた男で、階級は警部補だったが、山間の温泉街から引っ張られてきただけあって、その能力は無視できないものがあった。
 彼の背広は、本人がだらしないだけかもしれないが、外勤営業部員のそれと同じように疲労している。
 彼のその姿は、生涯をかけて巡査部長になるだけで幸運な高卒警察官にとって、階級の示すそれとは異なる畏敬の念を呼び起こすものでる。それと同時に、能力よりも勤務態度を重んじる上司には不快感を与えるものであった。
「なんで自殺なんかしたんですかね」
 彼の道ずれをくって、温泉街から飛ばされた若い刑事が尋ねた。声にも外見にも怜悧な何かが含まれている。
「そりゃ、みかけ通りじゃなかったって事だろ」
 警部補は、とぼけた様な顔のままでいった。
「でも、彼女や近所から聞いた限りには」
「愛想は良いがまともに話した事はない。それに、あれだよ。恋する乙女は盲目ってな」
「近所では清廉潔白で通っていたようですが」
「俺やお前がどれだけ札びら撒いても獲られないような彼女を持っている。プレイボーイでも、怪しいな」
「なにか疑って?」
「まさか。どうみたってこれは自殺だ。他に解釈できない。鑑識もそう言っている。ただ、自殺した人間について納得がいかない。気に入らないね」
「たとえばどんな?」
「望んで自殺したわけではないんじゃないか?」
「はぁ」
「思い込みはいけませんね」
 背後からの声に、二人の警察官はそちらを振り向いた。そこにも警察官がいたが、警部補はのんびりとした表情を不機嫌なものにした。
 仕立ての良い黒のスーツを着た女性は、警察官であるという以外に自分とは全く違う人間であるとわかったのだ。
 紙のような白い肌に垂れ気味の眼を持ち、高く通った鼻と腰までありそうな髪をかすかな風に揺らしているその姿は、あきらかに三十前だったが、奇妙に自信ありげな態度だった。自分の背後に何が存在しているかを熟知しているような態度であった。垂れ気味の眼も、外見を少々やんわりとしたものにする程度で、全体を覆う冷たさをかくしきれてはいない。
 彼女の印象を要約するなら、偽善者であった。
 偽善者の女は言った。
「初動捜査の効果をだいなしにしてまいます」
「あなた、誰です?」
 垂れ気味の眼を持つ女性はポケットから手帳を出し、階級と所属を記した場所をふたりに見せた。警部補のそれと違い、紐で服とつながれてもいなければ、角が擦り減ってもいない。
「霞ヶ関の公安九課が、ドロ刑になんの用事ですか。いや、こいつはドロ刑の扱いですらない。ただの自殺ですよ。理由がわからないだけで」
「そうそう」
 女性は紙のように白い肌に穏やかな笑みを浮かべる。
「捜査というのは、そうした現状認識ですよね」
「何をおっしゃりたいので」
「どうです、うちに来ませんか?面白いですよ。御役御免になるまで、何年かはあるんでしょう?警部以上にだってなりますよ」
「遠慮しときます。自分は、高度に政治的な判断ってのが苦手でして。ところで、あなたはまだなにも教えてくれてませんね」
「何も知りませんから。世間では公安といえば大したものと思っていますけど、現実はこのとおりです。熱心な現場の方の憎まれ役が良いところです。いやですねぇ。選択肢の選び方で全ての問題が解決して、いくつかの人生に救いがもたらされるゲームみたいじゃないですか。現実はもう少し複雑なものであってほしいですよね」
「場合によってはバッドエンドもありますがね。ハサミが出てくるならなおさらですが。ともかく、その複雑な現実とやらは私にどうしろと?」
「現場検証と司法解剖でこの件はおしまい、そういうことです。あなたもおっしゃった通り、ただの自殺です」
「気にいりませんな」
「あなたならそう言うと思いました。本当にこちらに来る気はありませんか?」
「本当に遠慮します。その人達は誰です?」
 警部補は公安の女性の背後へやってきた二人を顎で示した。比較的小柄な少女と、筋肉質の男だった。
「右がお嬢様。左がセバスチャン氏。ノッポさんとゴンタ君でもかまいません」
「それで、社会見学か何かで?」
「お嬢様はある種の書物の収集家で、亡くなった彼はかなり貴重な一次資料の収集家でして。一財産になるかもしれないそうなんです」
「そうは見えませんな。それに、通報から三時間でどうして?」
「あなたの所の課長は色々なところに電話をかけました。その中に、お嬢様の御宅があったのです。早くしないと、古本屋が大挙してやってきます。この国は自由経済を標榜してますから。競争は激しいらしいんです」
「つまり」
「はい。あなたの役目はここまでです。ご苦労様でした」
 三十分の後。現場に残された人間はひどくすくないものになった。残ったのは玄関で立番する制服警官と、その他には公安の女性にお嬢様とセバスチャン氏だけだった。
「あまり、よろしくありません」
 公安の女性は困った顔をして言った。事実だった。
 治安警察は、テロをのぞく犯罪に対処するにあたって絶対的な権力を有していた。その権力が制限されるのはごくまれにしかない。今日は、そのごくまれな日だった。
「本当に、法的な問題はありませんね?」
「・・・・・・」
「ええ。とおっしゃっています」
 ぼそぼそと喋るお嬢様の後ろに立つセバスチャン氏が通訳をする。
「・・・・・・」
「上の方々も納得ずみという事で。とおっしゃっています」
 女性は、穏やかな笑みを浮かべる。
「貸しという事にはしていただけませんか?上はともかくとして、あなたに対する私の個人的な」
「・・・・・・」
「もし、何か手伝える事があれば、喜んで借りをかえします。私が個人的に約束します。とおっしゃっています」
「警部!」
 玄関の制服警官が叫ぶ。
「なんだかしりませんが、マイクロバスとトラックでのりつけてきた連中がいます」
「邪魔をしないで、御通ししなさい」
 女性は答えると、さきほどとは違う、冷たい表情でお嬢様とセバスチャン氏を見つめる。
「ひとつだけ、伺ってもよろしいですか?」
「・・・・・・」
「どうぞ、とおっしゃっています」
「藤田少年はどうして死んだのです?」
 お嬢様はわずかに表情を動かした。しかし、それは変化と呼ぶに値しないかすかなものだった。
「・・・・・・」
「なんて事をおっしゃるのです。とおっしゃっています」
「なにが、ですか?」
「・・・・・・」
「藤田さんは自殺したのです。警察の捜査がそれをあきらかにしてくれると私は期待しています。とおっしゃっています」
 お嬢様はセバスチャンにうなずいた。
 セバスチャンは今のところは主を失った家にやってきた集団の監督に向かう。いそがねばならないのだった。
 周囲に知られては困るという事だけが理由ではない。いかな来栖川グループとはいえ、特殊な。ある意味私的な資料調査に訓練された人材を長時間使うわけにはいかない。
 バブルからこっち、予算はかぎられているのだった。人材はそうでもなかったが。
 ああ、懐かしきかな前大戦の日々。セバスチャンはおもったが、すぐに否定する。前大戦の頃もいまとはかわりはしなかった、特高といった邪魔が消えたぶん、ましにはなったかもしれない。
 それに、とセバスチャンはしかめっ面に苦笑を浮かべる。
 前大戦の全盛期。俺は何も知らない青二才だったではないか。


第一話
退役部員


 その建物は数年前に完成したばかりだった。
 校舎の外れに横たわるように設計されたそれは、建築芸術の点から見れば決して誉められるような外観をもっていなかった。
 だが、学校の内外を問わず、独特の世界観をもつ人々はそれを無視しなかった。かつては独自の場所で活動していたいくつかの部活。その総本部がそこにおかれたからだった。
 全ての部活は、その能力が著しく強化された事になっていた。すくなくとも校内放送はそう主張しており、賛否はともかくとしてその発表を信じる人々の数もかなりのものとなっている。
 生徒はそれを武道場と呼んだ。

 松原葵はその建物の三階北側に部室を与えられていた。
 彼女のような部活の女子がそのような扱いをうけるなど、かつてならば考えられないことだった。
 当時の主将が柔道場で敗北した後、空手部では対外試合が重視されたことがなかった。
 発作的におもんじられる事はあったが、結局は長続きしないのだった。寺女との公式戦に負けた数日後、あらたな部の体制が成立してからもそれはかわらなかった。
 変化が起こり始めたのは、ここ最近の事だった。エクストリームの影響により、配分される予算がいくらかマシになり、あたらしい練習機具はもちこまれるようになった。しかし、人材は常に慢性的な不足から脱却できずにいた。
 しかし、エクストリームの視聴率増大とともに少しずつではあるが増加傾向にはあった。葵。いや、エクストリーム部に独立した部室が与えられている理由はそういう変化が原因になっていた。

 天井にあるスピーカーが鳴ったのは午後五時の事だった。もちろん内線である。というか、外部に通じた校内放送などというのがあるとは考えにくかった。
 要所要所で長岡志保が眼を光らせるこの校内で、携帯電話や公衆電話が使われることは滅多にない。ちかごろはエリントまではじめたと噂があるのだ。
 放送は葵を呼んでいた。それは、彼女も知っている保科智子の声だった。
 微妙に関西弁かかった声が、彼女に図書室まで来るように告げた。
 それに、葵はただ事ではないと感じた。部をさして呼ぶ事もまれであれば、保科が彼女を呼ぶ理由もわからない。しかも、図書室という場所も異様と言えば異様ではある。
 しかし、行かない訳にはいかない。呼び出しを無視するほど彼女は怠け者ではないのだ。

 図書室についてみると、そこには意外な人物がいた。
 縁の丸い目がねをかけて、始終不機嫌な表情をしている女子は、見慣れてはいないが面識のないわけではない保科智子に間違いはなかった。
 もう一人の、椅子に、育ちの良さをうかがわせる優雅さで足を組んだ女子は、ピンク色の制服を着ていなかった。シャツの上に袖なしのセーターを着るというスタイルはまちがいなく寺女のものであった。
「久しぶりね。葵。少しは強くなったかしら?」
 瞬時に硬直した葵に、微笑みながら声をかけたその人こそ、葵が某偉大なる指導者級に尊敬してやまない来栖川綾香であった。
 突如として現れた尊敬する先輩に、葵はもちまえのあがり性を発揮して瞬時に硬直してしまった。
 藤田浩之の助力により、試合でこそ上がりきる事はめずらしくなったが、私生活では改善の余地はまだまだであった。
「練習の邪魔をしたかしら?」
 どうやら、葵の硬直を何か勘違いしたらしい。綾香は少し遠慮するような口調で尋ねるが。硬直した葵は首を恐ろしい速度で振って否定した。
「い、いえ。練習器具の確認と、苦情についての処理を」
「どんな器具かしら」
「サンドバックです」
 現在、エクストリーム部にサンドバック以外の練習器具は存在していない。
「苦情というのは?」
「道場の使いかたがどうとか、色々と書かれています」
「要約すると?まあ、ろくなものでないでしょうけど」
「部の違いはありますけど、同じ武道場を使っているのはたしかです。ただ、天井の軋みがどうこうというのは私にはどうしようもないです」
「空手部ね」
「はい」
「本当に、彼女たち、なにを思ってそんな苦情出すのかしら」
 綾香の問いは、半ば答えを期待していない嘆息に近いものだったが、硬直している葵は答えてしまう。
「どうすれば良いかわからないんだと思います。エクストリームじゃなくて、私が好恵さんに勝ったという事に」
「それで、ささいな苦情というのも問題ね。常識に欠けるわ」
「常識、ですか」
 ようやく緊張の解けてきた葵の言葉に、綾香はうなずく。
「そ、常識。今回あなたに頼みたいのも。常識のお話」
「な、なんですか?」
 唐突な話の展開についていけない葵の声は再び緊張する。
「葬式に出て欲しいの。なんていうかね。私の知る中じゃ、葵。あなたが一番適任みたいなのよ」
 葬式。の言葉が出た瞬間、葵の表情が恐ろしく沈み込むのが綾香にはわかった。そして、葵は震える声で尋ねる。
「藤田・・・・・・浩之さんの、ですか?」
 今にも泣きそうな葵を見て、いたましい。という表情を綾香は浮かべる。
「ちかごろ、連絡は?」
「一昨日。練習に、出ました」
「葬儀は明日の午後。ちょうど休日だから、行ってらっしゃい」
「はい」
「そうしてくれると助かるわ。保科さん」
 綾香が呼ぶと、智子は相変わらずの不機嫌な表情で「なんや」と答える。
「明日。葵についていってあげて。どうせクラスメイトだから、行くんでしょ?」
 露骨な敵意をもって綾香を睨み付けるが、智子は黙ってうなずく。
「それで、浩之さんはどうして死んだのですか?」
「知らなかったのね。事故よ」
「事故? どういう?」
「感電死」
「かんでんし・・・・・・ですか?」
「まあ、世間は自殺と呼ぶ状態だったけどね」

 葵が自宅へ帰り着いたのは午後九時をまわろうとする頃だった。
 普段から、トレーニングがてらにジョギングしながら帰るから多少は遅い時間の帰宅になるのだが、今日は普段よりもかなり遅い時間帯だった。
 行くまいと思っていたのに、葵の足は近頃では滅多に行かなくなった神社に、あの。浩之の家の近くの公園へと自然に向く。
 しかし、そこには誰もいない。
 もちろん、葵が自宅に帰りついた所で気分が晴れるわけでもなかった。
 泣きそうな顔を見られまいと、葵は玄関から自室まで駆け抜ける。
 そして、たどりついた自分の部屋。
 ダンベルや、格闘技系の雑誌。小さな本棚を埋め尽くす格闘技マンガや、壁にはられた綾香をはじめとする葵にとっての英雄達のポスターに混じって、ベッドの上にちょこんと座るもの。
 いかにもお土産といった、値段の割りに貧相な縫製の無意味に可愛らしくしたデザインのキツネのぬいぐるみが、プラスチックのつぶらな瞳で葵を見返している。
 こらえていた涙が、その瞬間に関をきったように流れ出す。
 ベッドにくずおれるようにして倒れ込み、キツネのぬいぐるみを抱いて泣きじゃくる。
 喪失感と呼ぶにも、それはあまりに大きかった。
 はじめて真剣に話しを聞いてくれたのは、たった一人だった部に入部してくれたのは、自分の練習に付き合ってくれたのは、そしてあの好恵との戦い。トレーナー役をかってでてくれたのは、無様なほどに緊張する葵をひたすらにはげましてくれたのは。最後に勝利のチャンスを掴ませたのは。それからも、これまでずっと生まれて間もないエクストリーム部と葵を支えてくれたのは。そう、藤田浩之だった。
 泣きじゃくりながら、葵はもし、浩之がいなかったらと考える。それは、これまであえて考えないでいた事だったが、多分。葵はたった一人で結局は好恵との戦いに望んでいただろう。
 そして、たった一人のエクストリーム部は消滅し・・・・・・。
 そう思うと、葵の涙は更に激しさを増す。
 葵は浩之を大切に思っていた。しかし、失ってみてはじめて、それが恐ろしいほどの重みと哀しみになって葵を責めさいなむ。彼女は、自分の予想をはるかに上回って浩之に依存していたのだ。それをようやく理解した。
「ふ、じた、さん」
 震える横隔膜によって、声は途切れ途切れになる。
「藤田さんなしで、私はこれからどうすれば良いんですか」
 葵の絞り出すような声に答える者はいない。浩之が贈ったぬいぐるみも、プラスチックの瞳でうつろに天井を見上げるだけだった。
 涙は、途切れる事なく溢れている。
「わたしは、どうすれば、いいんですかぁ・・・・・・」
 その問いに答える者は、やはりいなかった。

 待ち合わせの場所となっている公園にたどり着くと、保科智子は改めて自分の姿を確認した。
 しっかりと折目のついたピンクの制服、学校指定のソックスにもはや彼女くらいしか履くものはいないと言われる指定靴。少なくとも、服装的には完璧の筈だった。
 十分な睡眠と、起床後に行ったそれなりの手入れ(彼女は女性である。それは事実だ)を行った肌も問題はない筈だった。かなりの時間をかけた髪の手入れも全く問題はない。眼鏡も、一点の曇りすらなく磨き上げられている。
 自分の格好に問題のない事を改めて確認した智子は、左腕の腕時計を見る。
 鈍い銀色の本体に茶色の革バンドがついたそれも、持ち主の性格を反映してなのか、全く装飾や無駄な機能を省かれた実用本意の品物だった。
 智子は、待ち合わせの七分前である事を確認する。
 気分は、少なくとも外見ほど完璧ではなかった。体調が悪いわけではなく、気分的な問題だった。
 葬式というもの自体、智子は好きではない。年齢不相応に冷め切った物の見方をする彼女には、全てが欺瞞と脚色に満ちていた。
 これまでの行いを忘れて、自分はこの人とこんなに親しかったと思い込んで生前の贖罪をする。そんな自己欺瞞すらも、葬儀という場を借りて集団でしかやれない人々に嫌悪感すらも感じている。
 そんな場に、これから行かなければならないのだった。憂鬱以外の何物でもない。
 彼女はそう思っていたが、けして浩之に悪意は抱いていない。それどころか、である。
 智子はそれを語る言葉を持たないが、藤田浩之という人間相手だったら、委員長ではなく保科智子になれるのではないだろうか。と思う事もしばしあった。
 だが、それもこれまでだった。死人とは仲良くなれない。ゲームでもない限り。
「遅れてすみませんでした」
 智子は振り向くと、かすかに眼を見開いた。
 そこに立っているのは、確かに松原葵その人ではあったが、その姿はたった一晩で覇気と呼べるものを根こそぎ奪い取られたような、力ない姿だった。
「たいしたこと、ない」
「それじゃあ、行きましょうか」
 疲れきった葵の声に、智子ですらも哀れみを覚える。それと同時に、心の中で安堵する。自分は浩之と親しくなりすぎなかったから、ここまで冷静にいられるのだ、と。人前で号泣するのは、少なくとも自分のやる事ではないと智子は思っている。

 式場は、白と黒で覆い尽くされていた。
 それは、けして鯨幕や喪服の色だけではなく、人々の内心もまさしく白と黒だった。ショックのあまり何も考えられないか、哀しみのあまり心の闇に沈み込むか。
「神岸さんは?」
 ピンク色という、葬式の場では恐ろしく目立つ制服を着た一団の中に、見知った顔を見つけ出した智子は小声で尋ねる。
「病院よ。あかり、ヒロの死体みちゃったからね」
 志保も、普段の力を完全に失ったのか、呟くような声しか出さない。いつもの甲高い、智子には不愉快な声の面影は微塵もなくなっている。
「はりあい、なくなるわ。あいつ、このあたしに無断で死ぬなんて」
 故人にむかってそう毒づくが、智子にはそれが虚勢以外には見えなかった。その眼が何もかも雄弁に語っている。
 これでも、悲しいんやな。
 と智子は誰にも聞こえないように呟く。
 いったい、この中の何人が哀しみを演技しているのだろうか、そう思った智子はピンク色の集団を見回すが、わかるはずもなかった。わからない事だらけだった、どうして藤田浩之は死んだのか。何故、来栖川綾香が異様な関心を示すのか、そして。綾香はあの。ひたすらに涙をこらえ続ける松原葵に何をさせようというのか。
 わからない事は多すぎる。
 智子はそう結論づけると、考えるのをたやめた。とにかく今は、自分の役割を。哀しむ同級生という演技をするべきだ。もちろん、普段の自分のイメージを壊さないように十分な注意を払いながら。
「あ、保科さん」
 そう言って、ピンク色の海を泳ぐようにしてやってきたのは、いかにも人畜無蓋な顔をした佐藤雅史だった。さすがに普段は柔和な顔も、くらくひきつっている。
「本当に、突然やね」
 智子の言葉に、雅史は曖昧な笑みを浮かべた。しかし、ひきつっている。
「浩之とは付き合いが長かったけど、どう考えても自殺なんてしそうにないからね」
「せやけど」
「そう。死んじゃったね。完膚ないくらいに」
「藤田くんと、近頃付き合いは?」
「僕はサッカー部。浩之はエクストリーム。放課はともかく、授業後はあまり顔を合わせなかったね。あかりちゃん――神岸さんは、けっこう見に行ってたみたいだけど」
 と言葉を切ると、「おかしな事を聞くんだね」と言った。
「ちょいと疑問に思っただけや」
「どんな疑問を?」
「わからへん。なにが疑問なのか疑問なんや」
「複雑だね」
 そう言って微笑むと、雅史はどこへとなく立ち去っていった。
 しかし、最後に振り向いた時の雅史の眼は、智子ですらも背筋が寒くなるほどに冷たい瞳をしていた。何が彼にそんな眼をさせたのか、智子にはわからなかったが、これから雅史への評価を改める必要がある。そう思った。
 しかし、いいかげん演技に疲れ始めていた智子は、この忌まわしい場から即刻立ち去るべく、遺影をみたままぴくりとも動かない葵に向かって歩き出した。
 とりあえず、今は頭を使う気分にはなれなかった。疑問はあとにすれば良い。智子は、自嘲的に思った。なに、学生に時間はたっぷりあるんや、卒業式のその日まで。


 葵が家についたのは、日が沈んだ後だった。
 時が経つにつれて、名残惜しくなる式場から智子が冷徹に引き剥がしたのだった。
 流す涙もかれ果てて、葵は力なくベッドに倒れ込む。
 哀しみと喪失感と、未来への不安と絶望に、葵の小さな心は押し潰されようとしていた。何もやる気がおこらない。数日前まで楽しみにしていたエクストリームの試合の中継も、彼女の心を動かすには力不足だった。


 今日、この日。
 空手というものにであってはじめて、松原葵は毎日かかさなかった練習を行わなかった。

東鳩のやさしい掟
第二話に続く


解説(というか、そう呼ぶべきもの)

 ここを読まれる方の全員が、いわゆる「SaToHeart」に通暁している訳ではないと思うので説明させてもらうと、本作は、佐藤大輔著『東京の優しい掟』(徳間文庫・1996)を下敷きに生み出された作品である。
 『東京〜』は、自衛隊の諜報活動を扱った内容だけに、雰囲気は陰鬱な、粘液質に満ちている。派手な戦闘シーンがほとんど無いことで、後ろ暗い空気を払拭する場を失っているかのようにもみえる。
 そして、そんな物騒な原作を取り扱っているのが、かつてエヴァ小説の極右として名を馳せ、今なおチャットで出会った途端に絶叫する人もいるという『巨悪』こと、12式臼砲氏である。それだけでもう、いったい都合何人が作中で死亡するのか見当も付かない、といった趣といえる。
 そして12式臼砲氏は、エヴァ小説において――というより、ファンフィクションに佐藤節を取り込むという作業を(おそらく)ネット史上初めて行った経歴をもっている。いわば、「SaToHeart」の原点を知る存在であり、それだけに作中に横溢する佐藤節は濃厚きわまりない。
 それでいて、どう考えても読点が来る、とおもわれる箇所に句点をおくことで他の誰も真似できない文章のリズムを意図的に創り出す「12式節」は健在。本作であらたなファンを獲得することは間違いない、私はそう確信している。
 そう、エヴァ小説界から手を引いて久しいにもかかわらず、今なお作品のインパクトでその名前が語り継がれている12式臼砲氏の新作を、こういった形で読めるのは、私にとっては望外の喜びである。
 懸念があるとすれば。12式氏の連載作品の完結率が必ずしも高くない、という一点に尽きるであろう。なかなか一筋縄ではいかない作者ではあるものの、感想・激励メールが励みにならないはずはない、と信じるものである。なんらかのインパクトを感じられた方は、是非メールを送っていただきたく思う。

(編集・文責:島津)



 この作品のご意見、ご感想は、12式臼砲氏までお願いします。


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