エイジ
プロローグ
昭和一九年十二月。
黒々とした海面上に、慣れたものでなければよほど近くまで近づかなければそれとは気づかない船影があった。
波間に泡立つ航跡を扇状に広げながら進む日本の輸送船だった。その船腹には、陸軍の兵員が乗り込んでいた。
三年前、アメリカ太平洋艦隊の根拠地を日本の連合艦隊が奇襲してはじまった太平洋戦争だが、日本の戦況は、かなり悪い。緒戦の快進撃も、現状から思えば嘘のようだ。
折しも今、輸送船が航行している台湾沖は開戦前からの支配地域である筈なのだが、もはや安全圏にはほど遠く、アメリカ軍の影に怯えなければならない。
輸送船の甲板へと這い出た一人の兵隊の姿が、星明かりに照らされて影を作る。
その兵隊の周囲に人の気配はないが、彼の顔を目の当たりにすれば、その名を思い出せる日本人は少なくない。
兵隊の名は沢村(さわむら)栄治(えいじ)。プロ野球・読売巨人軍においてエースと呼ばれた男だ。
彼ほどの男ですら、赤紙一枚で戦場へと駆り出されている事実こそが、日本のおかれた立場を如実に物語っていた。
栄治の表情には憂いの色が濃い。
かつては全日本選抜の一員として太平洋を横断して北米に渡った経験もあるだけに船旅に慣れていないわけではないが、緊張感や切迫感は当時の比ではない。
規則的な機関音に混じって時折船首が波を切る音が響く。舷側の手すりに手をかけてしばしその音に耳を傾けていた栄治の背後で、不意にことりと音がした。
はっと身体をこわばらせた栄治の足元に、見慣れないものが転がってきた。
目を凝らすと、拳大のなにかが月明かりに照らされて輝いているのが判った。
見たところ、ガラスか氷の塊のようにみえた。
「まさか、こんな南の海で雹でも降るかね」
膝をかがめて謎の物体に顔を寄せた栄治は、首を傾げながら呟いた。
撃墜された飛行機の破片と考えたほうがまだ合理的だろう。そっと手を伸ばして拾い上げてみると氷の冷たさはなく、むしろ熱を帯びていた。
月の光に透かしてみる。水晶らしい透明な輝きを帯びるそれは、放射状に六方向に六角柱の突起を伸ばしている。
「なんでこんなものが――」
口先から出かかった独り言は中途で途切れた。
――地球の英雄は我が星の戦士に足るか。
どこからともなく、無機質な声でそう聞こえたのだ。
栄治はあわてて周囲を見回す。船室から勝手に出歩いているところを上官に見つかれば拳の一発や二発は覚悟しなければならない。
しかし、誰もいなかった。
それを確認した栄治の背筋に、ざわざわとした感覚が走る。ある意味では上官の鉄拳制裁よりも恐ろしい予感のせいだ。
声がしたのは、手に持っている水晶の塊からのような気がしたのだ。
「そんな馬鹿な――」
――戦う術を知る存在か。
栄治の困惑を無視して、再び声が聞こえた。ほかならぬ栄治自身に向けられた問いだ。
(なんだってんだ? なにが言いたい?)
と、問いかけに対する返事も待たず、手に持った水晶が不意に形を保ちきれずに崩れ始めた。
栄治がどう反応すべきか思考がまとまる前に、水晶は跡形もなく、無数の細かな粒子となって潮風に吹かれて消え去ってしまった。
手にはわずかな感触も残っていない。氷でもここまで鮮やかに溶け去ることは出来ないだろう。
「いったい何が」
栄治の呟きはまたも途中で消える。胸、端的に言えば心臓に鋭い痛みが走ったのだ。息がつまり、視界が暗くなる。
「くうっ!」
思わずあげかけたうめき声を、栄治は左手を胸にあてて押し殺す。
だがその異変も一瞬の出来事だった。
栄治は深呼吸を繰り返して呼気を落ち着ける。だが、息は最初から乱れてもいなかった。痛みもまったく残っていない。
むしろ船酔いから来る慢性的な調子の悪ささえ消えていた。
「いったいなんだったんだ」
そのため息混じりのつぶやきに応えるように、今度こそ人の動く気配が伝わってきた。栄治はたじろぎながら振り返る。
だが、それは彼が恐れた上官ではなく、童顔の、いや実際に年若い輸送船の船員だった。
思わず安堵のため息をもらす栄治に、船員もにこやかに話しかけてくる。
「沢村さんですね」
「そうですが。どこかでお会いしましたでしょうか」
栄治にとっては見覚えのない顔だった。とりあえず丁寧な口振りで応対する。
「やっぱりそうでしたか。直接お会いするのは初めてですが、でも観客席ではいつも応援していました」
その言葉で、野球の試合を見に来てくれていた客の一人であったことを知った。
声と仕草から、まだ少年と呼んでも差し支えのない年齢と見て取れた。どのような理由によるものかはわからないが、今の日本の時勢で兵隊にとられずに済んだのは奇跡的だ。
が、輸送船の船員として戦地に赴くのであれば危険の具合はさほど違いがない。羨ましいという気持ちには到底なれなかった
「ありがとう。いまや野球は遠くになりにけり、だけど」
栄治は少し砕けた口調になって船員の言葉に応じた。
「また、見られますかね、野球」
「俺はそのつもりだけど、どうかな」
栄治はふと星空を振り仰ぐ。手のひらの中で消え去った水晶の感触を確かめるように指を数度屈伸させる。
「こんなちっぽけな船では心もとないでしょう」
栄治の内心を知る由もない船員は、自嘲気味の言葉を口にして話題を変えた。野球の話に触れるべきではない、と彼なりに気を回したのかもしれない。
「船のことはわからないが、そうなのか。結構大きく見えたが」
「海軍はこんな船よりもずっと立派な軍艦をいっぱいもっているはずなんですけどね、我々の護衛にはまわす余裕がないようで」
そう言って船員は肩をすくめた。
「やっぱり護衛が必要かい」
「そりゃ、丸腰じゃあどうにもなりませんよ。海軍には大和という、世界一の戦艦があるんですよ。大和が護衛にでもついてくれれば、なにかと安心なんですがね」
「大和。どこかで聞いたことはあるよ。そんなに強いのか」
栄治の素朴な問いかけに、船員は年齢に不相応とも思える皮肉げな表情を浮かべて首を横に振った。
「いえいえ。戦艦同士の撃ち合いならともかく、我々のような輸送船団を狙うのは潜水艦です。大和といえど、潜水艦相手では手も足もでません。ですが、大和なら魚雷の一発や二発じゃ沈みません。それに、潜水艦のほうでも、ちっぽけな輸送船より戦艦を沈めてやりたいと思うのが人情じゃないですか」
一気に言ってから、少し大きな声でしゃべりすぎたことに気づいたのか「まあ、アメリカ人に人情があるのかどうかは知りませんがね」と声を低くして付け加えた。
船員の話を聞き終えた栄治は、世間を知っているつもりの立ち居振る舞いであっても、やはり考え方は子供のそれにすぎない、と思った。
いや、それを言うなら日本中が子供じみた考え方に取りつかれているのかもしれないが。
「彼らにも、人情はあるよ」
栄治は反論ともつかぬ語調でぽつりと言い、闇夜に溶ける東の水平線に視線を向けた。船員の反応を見越してのつぶやきではない。ごく素直な実感にすぎなかったが、それだけに有無を言わせぬ説得力を有していた。
「失礼しました。沢村さんはアメリカに行ったことがあったんでしたね」
船員はさすがにバツの悪そうな表情を見せた。
「いいことばかりがあったとは言わない。が、鬼畜米英なんて言っているが、彼らも人間であることは確かだ」
「なるほど。そのことを自分の目で見て知ってる人も少なからずいるはずなのに、なんでこんなことになっちまったんでしょうね」
「さあ、どうしてだろうな」
「おっと、長話はこれくらいにしておかないと、誰かに見つかってもつまらないですよ」
「まったくだ」
二人はお互いに首をすくめて忍び笑いをかわす。
「では、機関全速、宣候(ようそろ)で願います」
と、船員は歳相応のいたずらっぽい口調で言った。
「前から気になってたんだが、その宣候ってのはどういう意味なんだい」
「海軍用語ですよ。まっすぐとかそのままとか了解とか、そういうのは海軍はなんでも宣候で済ませるんです」
「なるほど。じゃあ、さっさと就寝、宣候だな」
栄治は軽口を叩いてブリッジの基部にあるハッチに向かって足を向けた。
船内に入る寸前、何気なく振り返って夜の空に視線を向けたが、すぐに何事もなかったかのように船倉の中に戻り、自分の寝床に潜り込んだ。
彼は知る由もなかった。
このわずかな時間が、彼にとって外の世界を目にした最後の機会となることを。
日本球史に永遠に名を刻む不世出の大投手・沢村栄治を乗せた輸送船は、朝を迎えることなく米軍の潜水艦が放った魚雷により撃沈されたのだ。
陸軍兵長・沢村栄治、台湾沖にて戦死。享年二十七歳。
その死の詳細については、現在もなお正確なところは判っていない。
第一話に続く
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