『バック・チェンジ』
前編




  (一)


「気合いいれて行こう!」
 川染柊(かわぞめ・しゅう)の凛とした叫びが、体育館にこだました。元気の良い返事を耳にしながら、西蘭高女子バスケットボール部の主将である彼女は、得点表に視線を向けた。
 十点のリード。
 むろん、バスケットボールにおいて、この程度の得点差はまったく安心できるものではない。
(守りに入っちゃだめだ。攻める気持ちを忘れずに行かないと)
 彼女のポジションはポイントガード。チームの司令塔であり、ゲームを作り上げる存在だ。身長百六十センチと、決して大柄ではない彼女でも、どうにか務まるポジションである。実際のところ、身長が低くてもこなせるポジションなど、バスケットボールにおいては無いも同然なのだが。
 柊は、自分の鍛え上げたチームをどこかで信じ切れずにいる。飛び抜けた能力の持ち主のいないチームにあって、ディフェンス重視の練習を進めてきたのは柊自身なのだが、試合に臨む度、その地味なスタンスに自己嫌悪に陥りそうになる。

 H県K市の西蘭高と三搦高は、旧制中学以来の兄弟校として知られている。実際に通っている生徒達は普段ほとんどその事を意識することはないが、年に二度、否応なくその事実を思い起こさせられるイベントがある。春と秋に実施される対抗戦であった。
 この対抗戦は、両校に存在する体育会系クラブのほとんどが、春か秋のどちらかに振り分けられて対戦することになる。春は三搦高が、秋は西蘭高のグラウンド及び体育館が、それぞれの開催地となる。
 それぞれのクラブの勝敗が学校全体のポイントとして加算されるのだが、あくまでもメインイベントは春は野球で秋はラグビーであった。それ以外の競技は前座試合の趣があり、声援を送る両校の生徒にもどこか熱意が欠けているようにみえる。
 むろん、実際にプレイしている選手にはそんな事はお構いなしだ。あくまでも自分達の競技で勝利することに全てを賭ける。
 今日は毎年五月上旬に開催される、春の対抗戦の日だった。

 後半開始にあたって、三搦高にメンバーチェンジがあった。
 背番号十二を付けた小柄な選手が柊の対面に入る。どういうつもりなのか、頭にペーズリー模様のオレンジ色のバンダナを巻いている。
 ジャンプボールで後半戦が始まる。三搦高のジャンパーのほうが跳躍のタイミングに優り、ボールをとられた。
 変わったばかりの十二番にパスが回った。と思った次の瞬間には、柊の眼前に十二番がいた。
(いつの間に、こんなところまで切り込んできた?)
 その言葉は、実際に柊の脳裏に文章として組み立てられた訳ではなかった。感じたのは驚きと焦りだけだった。
 柊はあっけなくディフェンスにとってのウィーク・サイド――右横をドリブルで十二番に抜かれていた。
「ちっ!」
 重心のバランスを崩し、たたらを踏みながら柊は身体を捻り、後を追う。
 十二番の動きは小憎らしいほどキレが良かった。後衛の二人の間に突っ込み、身長の低さを活かし、わずかな隙間をねじり込むようにしてブロックをかいくぐる。
 チャージングすれすれの鮮やかな速攻。彼女はそのままゴールポストの下に潜り込んでいた。
 伸び上がるようにしてシュートを放つ。レイアップ・シュート。ボールは直接リングの中に飛び込んだ。
 西蘭高のプレイヤー達に動揺が走った。相手の速さはこちらの想定の上を行く。
(声を出していかないと。気圧されてる場合じゃないのに)
 そう思いながらも、柊自身が声を出せずにいた。
 その後、五分ほどは攻防に渡って三搦高十二番の独壇場だった。西蘭高のドリブルは、思いもかけない位置から飛び込んでくる十二番にあっさりスチールされ、逆襲を喰らってあっけなくゴールにボールを放り込まれてしまう。
「ゾーンディフェンスでは対応しきれません。マンツーマンにチェンジしましょう。十二番を止めないと」
センターのポジションを務める二年生の副主将・斯波悠子が柊の元に近づき、悲鳴じみた声をあげる。それでも相手に聞かれないよう、低く押さえたつもりなのだろうが、その切迫した調子は痛いほど柊にも感じ取れる。
 元々斯波は、バスケットに対してどこか求道的な姿勢で取り組んでいる。激しい運動に適したように、刈り上げ一歩手前にまで短くした髪型一つとってみてもそれが判る。
 その斯波が凄んだ声を出すと、それだけで柊は思わずひるみそうになった。
 柊は肩にかかる程度に伸ばした髪を、バスケットをするときだけ首の後ろで簡単にまとめている。斯波の髪型を見る度に後ろめたいものを感じるのだが、ここは斯波の意見には従えない。
「駄目よ。それこそ相手の思うつぼよ。自分達のやってきた練習を信じなさい」
 左手の掌を口元にあて、柊は言下に却下した。動揺している姿を敵の前で晒している事に、耐えられないほどの恥ずかしさと怒りを感じる。
 今まで彼女たちは徹底したゾーンディフェンスで食らいつき、相手の攻撃を封じる戦法を用いて数多くの試合をこなしてきた。急にそれを忘れろと言われても、付け焼き刃のマンツーマンディフェンスでどれほど役に立つものか。
(元々、個々の技量でそれほどみるべきものがある訳じゃない。判りきってるのに、なにも出来ないなんて)
 唇をかみながら柊は思う。一対一でかなわないからこそ、より緊密な連携で相手のシュートを阻止するゾーンディフェンスを堅持してきたのだ。
 斯波は引き下がったが、実際は柊自身も迷いが残っていた。
 混乱から立ち直りきらないうちに、またしても十二番が圧倒的な軽快さで突っ込んでくる。センターサークルを横切り、右サイドのゾーンをあっさりと突破された。動きが西蘭高の部員と違いすぎる。
 だが、柊もあきらめない。十二番の動きを読んで、リング前に切れ込んで正面に立ちはだかる。
「抜かせるかっ!」
 両腕を広げ、膝を軽く曲げた。十二番の身体が左に流れる。柊もそれにあわせて身体をシフトさせるが、そう簡単に重心を預けきらない。
 案の定、十二番は右に切り返してきた。それも、バック・チェンジでボールを自分の背後で弾ませつつ、ロール・ターンで柊の身体を押し込んで振り切る、アクロバティックな動き。柊は翻弄された。
(動きは読めていたのに……)
 柊は歯がみする。動きは読めても、そのスピードについていけなかった。バランスを崩しつつも執念で右手を伸ばすが、軽々と十二番はその向こうをすりぬけていた。
 すかさず斯波が両手を広げ、ディフェンスに入る。客観的に見て、良い動きだと柊は思った。瞬間、十二番が跳んだ。斯波も飛ぶ。リング下での攻防だ。
 十二番は、その小柄な身体のどこにそんな跳躍力が秘められているのか、と思うような高さまで、駆け登っていく。そこから空中で見えない踏み台を蹴ったかのように、さらに一段高いところまで伸び上がる。
 斯波のジャンプのタイミングは、結果的に十二番のタイミングとずれる格好になっていた。斯波は身体が落ちていくのに、十二番はなおも宙に浮いている。
「まさか……!」
 予想外の高さから放たれたシュートは、ブロックに飛んだものの頂点を過ぎて沈んでいく斯波の掲げた両手の上を越えるアーチを描き、すぽりとリングに沈んだ。
 再び悲鳴じみた歓声。よもやと思われたシュートを決めていたのだ。斯波はチーム一の長身だった。その斯波と一対一でまともに競り合って勝ってしまうとは、柊には目の前の光景が信じられない。
十二番がすとんと床に着地する。自陣へと駆け戻っていくその表情を柊は見た。
 悪戯小僧のような邪気のない笑み。心底バスケットボールを楽しんでいる、と言えば聞こえは良いが、小馬鹿にされているような気がした。
「なんなのよ、こいつは……」
 思わず萎えそうになる気分を引き締めながらも、柊は思った。この試合、負けるかも知れない――。

 (二)


 翌朝。
 西蘭町はK市の中心から電車で二十分ほど北の谷あいにある。西蘭高の最寄り駅がいわば谷底にあるため、登校時はほぼ全時間、坂道を登ることになる。
 柊の場合、登り坂をうっすらと汗をかく程度の早足で登っていく。体育会系とは当然そうあるものだと思いこんでいる節があった。
 同じ制服を着て登校している生徒達の間では、やはり昨日の対抗戦が話題にのぼっている。早足で追い抜いていく彼らの声を耳にしながら、柊は口元を歪める。
 校門をくぐったのが八時十五分。早足のペースを緩めずに、三階の教室まで一気に階段を登る。
「また、こっぴどくやられたものね」
 教室の自席についた柊に気づいたクラスメイトの岡田梓が、朝の挨拶も抜きにそんな言葉を掛けてきた。
 髪を頭の両サイドでまとめ、細いフレームの丸眼鏡をかけている。白く、健康的ではない肌とその眼鏡をみれば、日頃運動と呼べるものに縁遠いことが一発で判る。
 彼女は新聞部の屋台骨を支える、記者兼カメラマンをつとめている。最近の高校生には珍しく学校行事に対して行動的だった。昨日の対抗戦は新聞部にとっても重大な行事であり、一日中あちこちの試合の取材と撮影に大忙しだった筈だ。
「判ってるわよ」
 敗北感は人一倍感じている。だからいちいち言われたくないな、と柊は不機嫌そうに応じた。結局、前半で稼いだ十点差を後半でひっくり返されたのだ。
「敗因は、あの十二番にひっかきまわされたから?」
「仰るとおり。だけど、情報収集にミスがあったってことよ。判ってる?」
 柊は岡田の顔をじろりと睨んだ。ただでさえ低血圧気味で朝は機嫌が悪いのだが、今日は特に無愛想だった。
「良くないよぉ、そうやって他人のせいにするのは。新聞部はバスケ部のスパイ組織じゃないんだから」
 岡田が腕を組んで自分の台詞にうなずいてみせる。
 しごくもっともな意見だった。今まで取材名目で三搦高の練習や試合を取材し、戦力分析の元となる情報を集めてくれたのは、ひとえに二人が小学校以来の付き合いだからだ。いかに兄弟校とはいえ、三搦高がそうそう手の内をみせてくれるはずがないのだ。
「判ってるけど……」
 柊は不承不承といった様子で同意する。
「ね、実際のところ、どうなのよ」
 岡田が細い目の奥を輝かせて問いかけてくる。校内新聞作成のための事後取材だった。
「とにかくすばしっこい。バレリーナのようにくるくる回る。ゾーンディフェンスじゃあ、対応しきれなかった」
「もともと、一対一じゃかなわないから、ゾーンディフェンスばかり練習していたんじゃないの?」
 岡田は柊にとって参謀のような立場でもあった。柊にとって気の重い事実も平気で指摘してくる。もっとも、辛辣な物言いは誰に対しても同様であり、あまり友達に恵まれるタイプではない。目が細い上につり上がり気味であることもあって、相手に怖がられてしまうことのほうが多い。
 それでどうやって取材が出来るのか、柊はいつも不思議に思っている。
「今回ばかりは、数で圧倒するはずだったゾーンディフェンスが通じなかった。もっと練習して動きをスムーズにして、完成度を高めることは出来るだろうけど……」
 言いながらも、柊は、自分で自分の言葉を信じていないような気がした。
 机の上に、岡田が一枚の写真を滑らせた。昨日の試合のものだろう、三搦高のバスケット部の赤いユニフォームをみにつけた十二番が写っている。
 全家零美。全ての家に、ゼロの美しい、と言いながら、岡田が空中に指で名前を書く。
「私達と同じ三年生。誰だか判らない筈よ、今年の春に転入してきたんだって。身長体重は、まだわかんない。本人にでも聞かない限りはね」
 岡田の「これで満足?」とでも言いたげな口調。柊は、ふっ、と口元を緩める。
「口ではなんのかんのと言いながら、追跡調査をしてくれたんだ。やっぱり親友だねえ」
「負け試合の記事を書く身にもなってよね。対抗戦は終わっちゃったから仕方ないけど、県大会はきっちりリベンジしてよ。そうじゃないとせっかくの情報も無駄になるんだから」
「はいはい。バックアップは任せるからさ」
 柊は親しげに岡田の肩を叩いた。タイミングを合わせるようにチャイムが鳴った。

  (三)


 土曜日。
 西蘭高女子バスケット部の週間スケジュールでは、学校が休みになる月二回の土曜日を休みの日と決めてある。日曜日は、公式の試合がない時でも、毎週のように練習試合が組まれる。相手がない場合も紅白戦をなるべく多く取り入れて、実戦の勘を鈍らせないように配慮されている。
 柊はあまり朝に強くない。練習不足を感じながらも強固に朝練の実施を主張できないのは、主将である自分が遅刻することを恐れているからだった。情けないとは思うが、こればかりは身体が言うことを聞いてくれない。
 海岸線近くまで山が迫るK市。
 谷あいの西蘭町から電車で西へ二十分の、かつては新興住宅地と呼ばれた街に柊の家はある。周囲にまだまだ緑の残る中、いささかくたびれた風情の無粋な団地が密集して立ち並んでいる。
 柊は九時過ぎに起き出し、スポーツウェアに着替え、十時前から住宅地の北にある公園のジョギングコースを走る。休みの日でも、大体はこうやって体を動かしている。
 走っていると、自然といろんな事がとりとめもなく頭の中に浮かんでくる。
 やはり心に引っかかっているのは、先週の試合だった。三搦高の十二番の動きが目に焼き付いて離れない。
 たった一人のノーマークの選手に、さんざんディフェンスを引っかき回された負け試合。そのせいで、この一週間、どこか調子が狂ってしまったような気がしていた。それだけの衝撃を、あの小柄な十二番は柊に与えていた。
(それにしても)
 柊はバスケット部に物足りないものを感じている。飛び抜けた才能の持ち主がいないことは仕方ない。かといって、才能を努力で補おうとする者が一人も居ない。むしろそちらのほうが腹立たしかった。
 先週の試合の不甲斐なさに身を焦がす思いを抱いているのは、おそらく柊ただ一人といっても過言ではないだろう。
 主将としてはもっとチームを発憤させなければならない。判っているが、その術が彼女にも思いつかない。頭ごなしに怒鳴りつけて練習させるのは趣味ではないからだ。
(自分一人だけならどうとでも出来る。けれど、それぞれ考え方の違うチームメイトを率いていくとなると、やっぱり難しい)
 せめて自分だけでも、あの十二番に対抗できるような力が欲しい。その為にはもっと練習を。技術を支えるだけの体力を。
 思いは、とめどもない。ジョギングのペースが早まる。さらに、距離が足りない気がして、いつものコースを外れ、さらに北側に回ってみることにする。考えてみれば、そこを走るのは一年半ぶりだった。
 公園の北側には、さらに新しい街づくりが進められている。こちらは、柊の住む団地よりもよほど設計に配慮がされた綺麗な街になるはずだった。一部では入居も始まっていて、そちらの住人も公園を利用するようになっている。こころなしか、公園で見かける人影が増えているような感じがした。
 久しぶりの景色に新鮮な思いを抱きながら走っていると、意外な発見をした。
 ジョギングコースの右手の一段低くなったところに、テニスの壁打ちをするためのコートが見えていた。そこに、バスケットのリングがいつの間にか設置されて、バスケットスペースに改装されていたのだ。
(スリー・オン・スリーのコートか……)
 スリー・オン・スリーは、呼び名通り、通常五名ずつで行うバスケットボールを、三対三でプレイする。ただし、バスケットボールと違ってコートの大きさは半分で、ゴールは一つしかない。オフェンス側がゴールを決めるか、ディフェンス側がボールをキープすることで攻撃と防御がチェンジされる。
 いずれにせよ、バスケットの簡略版と考えて差し支えない。柊も、バスケット部の練習の一環としてプレイしたことはある。
 見ると、小柄なプレイヤーが一人だけコート内に入り、リングに向けてシュート練習をしている。
 白いTシャツに、青いショートパンツ。プロ選手のユニフォームのように、赤い字で背番号とローマ字の名前が記されていた。
 なにかの冗談のようにもみえる、背番号ゼロ。実際のバスケットの試合ではありえない。試合では審判は指の本数でファウルした選手の番号を示す為、誤解を避けるために背番号は四以上の数字しか使えないからだ。
 そのあり得ない番号の上にかかれた名前は「ZEKE」。そして柊の目をひいたのは、見間違えようもないオレンジ色のバンダナ。
「あいつ。……全家、零美だっけか」
 柊は岡田から聞いた背番号十二の名前を思い出した。
 足を止めてシュート練習を眺めていた柊は、知らず知らずの内に、芝生の斜面を降りて、コートの間際まで近づいていた。
 荒っぽく見えて、それでいて無駄のない零美の動き。一つ一つの動作に女子離れしたキレが感じられる。
 筋力が強いのか、手首を返して押し出すボールの回転も力強く、軌道を安定させる要因となっている。スリー・ポイント・シュートすら、高々とした弧をボールに描かせて難なく決める。
 リングをくぐって落ちてくるボールに零美が突進してそれをかすめ取り、実戦を想定しているかのようなジグザグのドリブルをしながらゴールから距離を取る。低く、速く、手に吸い付くような正確なドリブル。
 と、何を思ったのかボールを思い切りバウンドさせる。身長より遙かに高く跳ね上がったボールの行方を柊は目で追う。
 真上にあがったボールは、零美の頭上目掛けて落ちてくる。そのままヘディングでもするのかと思ってみていると、寸前でひょいと半歩横に飛び退き、頭の高さに上げた右の二の腕と頭でボールを挟んで止める。その間、零美は一度もボールの行方を目で確認していない。
 耳が痛いだろうに、と柊が思っていると、ふいに零美がまっすぐに視線を向けてきた。
「キミ、この間の試合のキャプテンでしょ?」
 反射的に身を固くした柊に、そう笑顔で尋ねてくる。柔らかい声だった。気圧される思いを抱きながら柊はうなずく。
「覚えてたの?」
「まあね。ボクはあんまり人の顔覚えるの得意じゃないけど、キミのことは覚えてた。あのチームで、一人だけ光ってたから。他の選手も悪くはないけど、まあまあだね」
「そりゃどうも」
 今時一人称が『ボク』というのは相当キテるな、半ば以上呆れながら柊は応じた。
 にっ、と笑った零美が肩からボールを外した。コートに転げ落ちたボールが弱々しくバウンドする。
 そして、弾んで戻ってきたボールを、零美は右手で掴んだ。まるで磁石のようにボールが掌に吸い付いて見える。小さな手のどこにそんな力が、と柊がさきほどとは違った種類の呆気にとられるほどの握力だった。
「ねえ、キミは名前なんていうの?」
 こんなところで会うとは思わなかったな、と柊が思っていると、さらに零美が聞いてくる。
「川染」
「それは知ってる。下の名前。なんてよむのか判らなかったんだ」
「柊。ひいらぎと書いて『しゅう』」
「へえ。変わってるね。でも、格好良いじゃん。シュートの『しゅう』だもんね」
 屈託無く破顔した零美も、改めて名乗りをあげる。全家を「ぜけ」と読むのだと聞いて、柊はわずかに眉を寄せる。確かにTシャツにかかれた綴りからすればそう発音するのだろうが。
「梓の情報もたまには間違うこともあるんだな……」
「『ぜけ』が正解だよ。『ぜんけ』はあだ名みたいなもの。そのほうが発音しやすいから」
「ふうん。なるほどね」
 口の中で全家の読み方を呟いてみる。確かに本人の言うとおりだった。柊は話しながら、零美の瞳の色に興味を覚えていた。
 単純に澄んでいる訳ではない。むしろ湖水のように深みのある色。それは、経験や知性の存在を感じさせた。単なるバスケ少女の目ではない。試合中の無邪気さを知っているだけに、却って柊は困惑した。
「あのさ――」
「ああ、色々と話したいのは山々なんだけどさ。ボクにはちょっとこれからヤボ用があるんだな、これが」
「野暮用?」
「そ。いわゆる一つの遺恨試合。少しばかり気合いいれてかからないとヤバイんだ」
 軽い調子で聞き捨てならない事を言う。呆気にとられている柊に構わず、彼女はコート脇にスポーツバッグと一緒に置いてあった、小型のCDラジカセの再生ボタンを押す。
 ユーロビートの、とにかく速いテンポのリズム。零美はドリブルを始めた。ドリブルと言うより、ボールを交えたダンスだった。
 ボールのバウンド、その強弱を完全にコントロールしていることが判った。そうでなければ、ボールまでがリズムに乗って跳ねるはずがない。胴回しや首回しといった、基本的なハンドリング練習を織り交ぜつつ、さきほどみせたボールを掴む握力を披露するなど、動きは実にバリエーションに飛んでいる。
 次第に、他のチームや、ジョギング中に通りすがった人が足を止めて、コートの外から遠巻きに零美のウォーミングアップを見学している。
 両足の下でボールを通すレッグスルーや、柊も試合中にしてやられたバック・チェンジといった、見た目に派手なだけでなく、実戦にも有効な動きも取り入れられていた。
 五分近い曲にあわせて軽快なドリブルを終えた零美がボールを脇に抱える。
「ウォーミングアップ、終了」
 またも邪気のない微笑みを浮かべて、零美が宣言した。自然と拍手が起こる。柊はその輪に加わらなかったが、それは零美のパフォーマンスに感銘を受けなかったからではない。むしろその技量の高さを思い知らされて、今さらながらに唖然としていたのである。
(こんな奴を相手に試合していたのか……)
 その時、間合いを計ったように違った種類のざわめきが起こり、人垣が割れた。
 長身の女性が一人、花道を歩くように前に進み出てくる。日本人にはどうあがいても手に入れられない、つやのある金髪をポニーテールにまとめている。柊は外国人を見慣れないから、とにかく白人だ、としか判らない。
「さて。ちょうど良い具合に来たみたいだね」
 零美が言った。柊のほうを振り向いて、どういう意味があるのか、にこりと笑う。遺恨試合の割には、どちらにも殺気だったものが感じられない。
「ここが、ホームグラウンド?」
 日本語で、その金髪女性が零美に問いかける。零美とは頭二つ分はゆうに背が高い。
「そういうこと。遠路はるばるご苦労だったね。道に迷わなかった?」
 見上げる零美の表情に気後れはまるで感じられない。あるのは笑顔だけだ。
「問題ありません」
「外国人相手とはね」
 どう答えて良いのか、傍らの柊は意味のない事を呟いていた。
「こいつ、ケイト。日本に留学してるクセに、ろくすっぽ学校にもいかないでバスケばっかやってる不良ガイジンだよ」
 笑みを浮かべて零美がケイトを指さす。
 ケイトの身長は百八十センチを越えている。柊にとっても見上げるような長身だった。零美の背たけはケイトの胸までしかない。
「ケイト=スティングレイです。ジークのトモダチですか?」
 訛ってはいるが、充分に聞き取れる日本語でケイトが柊に問うた。
 零美の「不良ガイジン」という紹介の仕方に柊は身構えていたが、ただの素行不良の外国人が、そうそう日本語を操れるはずもない。零美の辛らつな言葉の真意を柊は計りかねた。
「ちゃんと日本語喋れるんだ。で、ジークって?」
「ボクのこと。ZEKEは英語読みだとジークって読むんだって。それにほら、ゼロ戦の意味なんだってさ」
 横から零美が口を挟んできた。両手を広げて身体を左右に傾け、飛行機の真似をする。ゼロ戦――昔の日本の戦闘機のつもりなのだろう。
 ゼロ戦は軽快な飛びっぷりで知られた戦闘機だ。おそらく零美の動きの素早さもイメージしているのだろう。ただ、柊も同じ呼び方をする気には、あまりなれなかったが。
「ゼロ戦ねえ……。まあ、会うのは二回目で、今回で知り合いになったってところかな」
 後半部はケイトに向けた答えだ。答えながら、会うのが二回目なのにずいぶん親しげに話をしていたことに今になって気づく。
「この娘は良い子ですよ」
 ケイトがそんな事を言う。まなざしが優しげだ。
「それはいいけどさ」
 零美は少し思案する表情になった。
「どうしたの?」と、柊。
「審判がいたほうがいい」
「じゃあ、私が――」
「気持ちはありがたいけど、公正じゃない気がする」
「この間、私達が負けたから、貴女に不公平なジャッジをするとでも?」
 柊はすこしむっとして問う。苦笑じみたものを浮かべて零美が首を振る。観衆の中を見回し、一人の二十歳前後の青年に目を留める。
「こんにちは。審判お願いできますか?」
「仕方ないね」
 人垣の中から前に進み出た青年。審判を二つ返事で引き受けるくらいなのだからバスケットの心得は当然あるのだろうが、体格はむしろ武道家の趣があった。二の腕の太さと胸板の厚さは驚異的ではあった。
 あるいはアメリカンフットボールの選手なのかも、と柊は思う。零美とはどういう知り合いなのか。少なくとも互いに顔見知りであることは間違いない。二人は小声で二言三言かわしてから離れた。
「十一点先取でいこう。後のルールはいつもの通りで。文句無いね」
 青年の言葉に、零美とケイトは大きくうなずく。
 ワン・オン・ワンの試合が始まった。
 体格差は比較するまでもないのだが、ちょこまかと動き回る零美に対し、ケイトのボール捌きも決して鈍重ではない。むしろ全ての動きが軽々としている。
 となれば、いくら敏捷な零美と言えど、苦戦するしかない。
 いつしか、柊は零美に声援を送っている自分に気づいた。
 参ったな、と柊は思った。私、こいつのファンになったのかな。
 金属質の風切り音が聞こえそうな零美の突進。壁のように立ちはだかるケイトの長い腕を、這うような低さでくぐり抜け、ゴール下まで飛び込み、シュート。だがその軌道は追いついてきたケイトの伸ばした手に阻まれる。
 良い試合だ。柊はそう思った。そして、零美はバスケットが上手い、という当たり前の事実をようやく受け入れる気になった。
 今までずっと腹の中に抱え込んでいた、あんなチビに好き勝手やられて負けた、という鬱屈したものが晴れていく気がした。
 体格は関係なかった。体格のハンディを弾き返すほどに、零美はバスケットが上手いのだ。
 そう思うと、いてもたってもいられないような気分になってきた。西蘭高バスケット部のみんなにそのことを教えて回りたくなる。
 試合は、十一対九で零美が勝った。ケイトが挙げた九点は、全てスリー・ポイント・シュートによるものだった。
 二人は試合を終えると握手をかわし、審判役の青年に礼を言ってから、仲良く並んでコート脇の芝生に大の字になった。地形を活かし、窪地状になったところにコートがあるため、周囲が観客席のような斜面になっているのだ。
 柊は興味を押さえかねて、二人の間に膝をつき、正座するような格好で顔をのぞき込んだ。
「どうだった?」
 柊の顔を見上げて、得意そうに零美が聞いてくる。
「すごい、二人とも」
「まあね」
 零美は嬉しそうに鼻をこすった。蒸れたのか、オレンジ色のバンダナをとる。今まではっきりとは判らなかった、ショートボブの髪型が露わになる。小柄な容姿と相まって、小学生の少年のようにも見える。
「遺恨試合とか言っていたけど?」
「ああ、忘れるところだった!」
 零美が大きな声をあげて上半身を起こした。
「ボクが勝負に勝ったんだから、言うことを聞いて貰わないとね。連中とは縁切って、ボクのチームに入ること。いいよね?」
「仕方ないですね」
 やはり身体を起こして、ケイトが肩をすくめた。
「なにがあったの? 連中って?」
「この不良ガイジン、ろくでもない連中とチーム組んでたんで、たった今、ボクのチームに引き抜いてやったんだ。まったく、日本人は金髪相手だと全然強く出られないから、こいつったら学校でも好き勝手やってさぼり倒してるんだ」
「ひどい言いぐさです」
 ケイトが少し真顔になって抗議する。こればかりは同感だな、と柊はケイトに同情した。
 とはいえ、ケイトも目は笑っている。辛らつな言葉をぶつけ合うだけの親密な間柄といったところだろうか。
「それは判ったけど、零美のチームって?」
「今のところはボクとケイトの二人だけだけどね」
 言って、それが最高のジョークのように零美は笑い飛ばす。ケイトも大笑いしている。柊だけが取り残されて愛想笑いを浮かべる羽目になった。
「それにしても。負けるとは思いませんでした」
 ややあって、すこし肩を落とし気味にして、ケイトが呟いた。
「失礼かも知れないけど、体格差を活かしてゴール下の競り合いに持ち込めば展開は違っていたかも知れないのに」
 柊は思ったままのことを口にした。
「判ります。しかしながら、ワタシは、それが苦手です」
「ケイトは、ゴール下に突っ込むと却ってダメなんだ。こんなに背が高いんだから、なんとかならないのかなって思うけどね」
 横から零美が、また笑いながらケイトの脇を小突いた。ケイトも肩をすくめて困ったような笑顔になる。
 感じの良い連中だな。その印象が柊の心に焼き付いた。
 しばらくして、零美とケイトは、二人はじゃれあうようにして練習をはじめた。柊も仲間にまぜてもらってパス回しに参加した。
 柊はとにかく、二人の身体能力の高さに舌を巻いた。
 小憎らしいことに、二人は柊にも彼女たちと同じレベルを要求した。その動きが彼女にも可能だと信じて疑わない様子だった。それは明らかに、学校でのバスケット部と逆の立場に立たされることを意味していた。
 身体を鈍らせないためのジョギングの筈が、普段の部活動よりもハードな練習になってしまった。
 昼過ぎまで目一杯走り回って、柊は汗だくになっていた。
 練習が終わった後、柊は零美に様々なことを尋ねた。零美は身の上話をすることを厭わなかった。
 とりたてて親が伝説的バスケットプレイヤーという訳でもない、ごく普通の家庭に生まれた一人っ子。公園の北に出来つつあるニュータウンの入居者だった。
 バスケット部には所属しているものの、今年の春から転入したばかりということもあって部に馴染めず、普段は練習に出ていないという。
「この間の練習試合には出てたじゃないの」
「あれは、学校全体の行事だもん。さぼれなくてさ」
「バスケット部が嫌いなの?」
「というより、試合にフル出場する体力無いから」
「嘘ばっか」
「だって、部活動が嫌いって言ったら、キャプテンやってる柊が可哀想だもん」
 零美はそう言って自分の台詞に笑い、隣で聞いていたケイトも、どこまで理解しているのか判らないがとにかく笑った。心底楽しそうな、感じのいい笑い声だった。柊もこうはっきり言い切られてしまうと、苦笑する他なかった。

 結局、いつになく疲労し、足を引きずるようにして家に帰り着く羽目になったが、柊の心は充実していた。あんなプレイヤーが一人でもウチの部にいてくれたらな。そう思わずにいられなかった。

中編に続く

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