『Sweep! カーリング娘と雪女』
第一話


 本作品は、カーリングポータルサイトからリンクされています。

西日本のここですよー。
って、先方でリンクされている自分のページを強調してどうするんだ、という気もしますが。

こちらからお越しになった方も、そうでない方も、
よろしければ当HP「アクトワン・スタジアム」管理者、
島津まで感想など送っていただけると、
大変うれしく思います。




 (一)


 そこだけ雪が積もっているのか、と見間違えた。
 まだ朝晩は肌寒い時もあるとはいえもう五月の初旬である。佐伯和子はありえるはずのない想像に苦笑しながら眼鏡のフレームに手をやり、あらためて目を凝らした。
 私立淡海高校の校舎と寮とをつなぐレンガ敷きの遊歩道。その脇に置かれたベンチに端座する少女がそこにいた。
 彼女の着る上下ともに純白のセーラー服は陽光を浴び、まばゆいばかりだった。そして彼女自身の腕も足も顔もまた一点の曇りもなく、抜けるように白かった。
「おはようございます」
 和子はそう声をかけた。
 そろえた両膝の上に軽く握った手を置き、姿勢を正し、顔を上げて陽光を正面から浴びていた少女が、ゆっくりと目を開く。
 腰にかかるほどの長い黒髪が揺れた。前髪は眉にかかるあたりで切りそろえられている。通った鼻筋や、切れ長の目に小さな唇など、彼女の持つ雰囲気の全てが日本人形を思わせた。
 そのせいか、初めて見る顔にもかかわらず、和子は言葉に出来ない懐かしさが胸にこみ上げてくるのを感じた。
 和子と同年代の筈なのだが、その面立ちは見ようによってはひどく大人びてみえ、また幼子のような無邪気さも感じさせた。半世紀前のものといっても通用しそうなほど古風なデザインのセーラー服のせいかもしれない。
 少女は和子に顔を向け、うっすらと笑みを浮かべた。
「はい、おはようございます」
 涼やかな声ではあるが、どこかとぼけたような口調だった。
 和子の肩にいつの間にか入っていた力が抜け、自然と口元がほころんだ。
「これからよろしくね、初島千雪さん」
 和子の言葉に千雪が目を見開き、驚きの表情になる。
「どうしてわたくしの名前を?」
「今日から寮のルームメイトだから。話は一応聞いてるのよ。あ、荷物、もう届いてるから」
「ありがとうございます。ええと、お名前をお聞かせいただけますか?」
「あ、ごめん。佐伯和子です。よろしくね」
「はい。こちらこそよろしくお願い致します」
 再び頭を下げて微笑む千雪を見ていると、和子はなぜか無性に嬉しくなる。
 それは、いままで感じたことのない種類の気持ちだった。千雪のことは何一つ知らないのに、まるで長年離れていた自分の半身を見つけたような気分でもあり、彼女の全てを知りたいという欲求が胸の奥にわき上がってくるのを抑えきれない。
 ベンチの隣に座り、身を乗り出すようにして矢継ぎ早に質問を浴びせる和子に対し、千雪は一つ一つ丁寧に答えていく。戸惑ってはいるが、決して不快な様子は見せない。
 際限ない問いを遮る恰好になったのは、千雪が左手首の腕時計に目を落としたからだった。
「あ、もう時間? これから学園長のところに行くんでしょ」
「はい。よくご存じですね」
「っていうか、学園長室まで案内するように言われてたの。わたしも呼ばれてるんだけどね。さ、行こう」
 和子はひょいと立ち上がり、掌をさしのべた。
「はい」
 千雪がほっそりとした指を差し出すと、和子がその手をとる。和子には、千雪のひんやりとした指の感触と同時に、暖かな気持ちまで伝わってくるような気がした。

「失礼します」
 学園長室のドアをノックしてから一礼して中に入ると、そこには老境に差し掛かった二人の男が顔を揃えていた。
 行事などの際にしばしば見かけてどちらの顔も見知っているので、和子は緊張した。一方の男達は、にこやかに二人を出迎えた。
 耳の上にかろうじて頭髪が残るほかは見事にはげ上がっているのは淡海村の村長・高野。かろうじてオールバックの髪型らしきものを維持しているほうは学園長の木村だった。どちらも小柄で、腰こそ曲がっていないが足取りはかなりおぼつかないものになっている。
 学園長や村長という肩書きが無ければ、良く日に灼けた面立ちは一介の農夫にしかみえない。それも当然と言えば当然で、二人はこの村の出身の同窓であり、かつ実際今でも田畑に出る本物の農家でもあるのだ。
 千雪が淡海学園に転校してきたのは、この二人の働きかけによるものだった。二人は相次いで、遠路来村した千雪を歓迎する言葉を並べたてた。その間、和子は小さくなりながら三人のやりとりを聞いているしかない。
 やがて、高野もカヤの外におかれている和子に気づいた。
「ああ、すまんな。おいおいと話をしていくことになると思うんやけど、佐伯さんは初島さんと相部屋やし、なんで初島さんが転校してきたんか、経緯を聞いといてもらったほうがええやろな」
 高野がそう前置きをして、説明を始めた。

 兵庫県加古郡淡海村。
 県庁所在地・神戸市の北西部にある県内唯一のこの村は、日本全土に張り巡らされた道路網の編み目からこぼれ落ちた陸の孤島であり、ご多分に漏れず緩やかな過疎化に向かいつつある。人口は約二千名。
 地元出身の高野が十年来村長を務めてきた中で、『村おこし』は常に村の施策の第一に掲げられる項目であった。
 四年前、数少ない若い世代が村外に流出していくのを少しでも阻止すべく、村出身の有力者であった木村に働きかけ、私立淡海学園高校を創設した。しかし、それだけでは足りない。
 高野の最大の悩みは、村の中に目玉となるべきものがなにもないことだった。
 稲作はもちろん、小規模な酪農業なども行われているが、これといった特色や特産品をもたない。観光地として売り出せるような施設も、歴史的建造物もない。あるのはなんの変哲もない山地と田圃ばかりだった。
 バブル時代末期、遊んでいる村有の山地を切り開いてゴルフ場を作るというプランが出たこともあったが、高野はこれを蹴っていた。
 ゴルフ場では結局のところ村おこしにならないからだ、というのが当時も今も変わらぬ高野の信念だった。いくばくかの賃料を得るために、豊かな自然を売り渡す訳にはいかなかった。当時は村人から非難の声もあがったが、今では高野の判断が正しかったと誰もが認めている。
 とはいえ、それで事態が打開できた訳ではない。
 転機となったのは、高野が偶然テレビで目にした冬季オリンピックの映像であった。北海道の片田舎から出てきた女子カーリングのチームが日本代表として戦っている光景に、高野は強い衝撃を受けたのだった。
 どこかユーモラスで親しみのもてるカーリングの試合光景を見ながら、高野は淡海村にも全国で通じるような独自の競技があれば、と思わずにはいられなかった。
 そしてふと、村で設備を作ってカーリングを広めることは出来ないものだろうかという考えに思い至ったのである。
 映像を見る限り、動きそのものはそう激しくはないから、鍛え抜かれたアスリートでなくても気軽に出来そうにも思える。
 ウインタースポーツという先入観さえ外せば、屋内競技であり、淡海村のように真冬でも雪が積もらない場所でも設備さえあれば競技は可能だろう。スキーやボブスレーのように、積雪があり、氷が溶けない寒冷地だけのスポーツとは違うのだ。
 そう思い立った高野が調べてみると、いろいろと面白いことが判ってきた。
 現在、カーリングは北海道と長野県の二ヶ所で盛んに行われている。そのほかには東京や福岡などに拠点があるが、規模的にはかなり落ちる。
 毎年全国大会が開催されているが、西日本はそれだけで一つのブロックとして扱われ、参加チームが少ないために四回ほど勝てば、それだけで西日本代表として全国大会に出場できるのだ。
 種目がなんであれ、自分たちの村から全国大会に出場するチームが出るとなれば、村人達も勇気づけられることだろう。幸いなことに、オリンピックで採用されるほどの競技でありながら、長野と北海道以外では、村おこしの起爆剤として目を付けている市町村は西日本ではまだなさそうだった。
 手をこまねいていれば、過疎に悩む他の地方自治体に先を越されてしまうかも知れない。オリンピックのカーリング中継を見て発想を得たのは自分一人とは限らないだろう。
 高野は信念と行動の人だった。学園を作ったときと変わらぬ、あるいはそれ以上の情熱を持ってカーリングを淡海村に根付かせるために手を打ち始めた。
 これが失敗に終われば高野が後ろ指を指されるだけにはとどまらず、乏しい予算をやりくりしてきた淡海村の財政が完全に傾くほどの悪影響がでるのは必至だった。高野は長年にわたって築き上げてきた経験と信頼を全て注ぎ込む覚悟で臨んでいた。
 まずなにより、カーリングをする場所がなければ普及もなにもない。
 高野は村の有力農家から、減反で余り気味の田圃を比較的安い賃貸料で借り受ける契約をとりかわした。次いで、半ば事後承諾のような形で農業委員会の審査を経て、カーリング場を作る敷地として確保した。
 カーリングを行うコートの事をシートと呼ぶが、これは一面だけで全長五十メートル近くにもなる大がかりなものだ。
 氷を張る事を考えても露天では話にならない。かといって、村の財政では本格的な鉄筋コンクリートの立派な建物を建てる予算はない。
 そこで、農舎などで用いられる規格化されたスレート葺きの建物となった。見てくれこそ悪くなったが、コストはかなり削減された。
 他にもリンクの氷を維持するために、カーリングの盛んなカナダから装置を輸入することになった以外は、可能な限り安価に抑える為に腐心した。
 その甲斐あって、高野がカーリングに村の命運を託すことを思いついてからほぼ一年が経過した頃、おそらく西日本では唯一といっても差し支えのないカーリング専用リンクが完成した。
 同時に、ストーンやブラシなどの用具も買いそろえた。用具と一口に言っても、ストーンは新品だと一組で何十万円もする。これを中古品でどうにか見繕うなど、そこには涙ぐましい努力があった。
 だが、設備や用具などのハード面が揃っても、それだけでは村人達同士で試合を楽しむこともままならない。カーリングに関する文献さえ簡単には手に入らないのが実状であるから、なんとしてもカーリング経験者を招いて指導をしてもらわねばならない。
 とはいえ、村の予算は既に設備投資で使い果たしている。
 指導者を招くにしても講演の講師のように一日二日来てもらうだけでは駄目で、長期間にわたって村に滞在してもらわねばならない。こちらからの依頼であるから、相応の報酬を払わねばならないだろう。
 だが、予算はない。村有地の売却か、それが無理なら自分の持つ先祖伝来の田畑を手放すことさえ考えた高野であるが、そもそも村の農地では今どき簡単には買い手がつかない。
 高野の苦衷を察し、思い切った案を提示してきたのは淡海学園の理事長を務める木村だった。それは、北海道と長野の各高校に、カーリング経験者を特待生として淡海学園に迎えたいという申し出を行うというものだった。
 かつて高野が高校を創設したいと考えた際、周囲が反対する中、先頭に立って働いた木村もまた、高野に劣らず村の行く末を案じていた。
 学生であれば、学費を無料にしても報酬まで払うわけではない。学園で勉学に励む一方で、若い世代にカーリングを浸透させてもらえれば充分に価値はある、というのが木村の判断だった。
 しかし実のところ、その案を了承した高野は奇手ではあるが実現性は薄いとも感じていた。自分たちにとってはメリットがあっても、北海道や長野の高校生が、いかに特待生扱いにしろわざわざ転校してくるだけの魅力はないと考えるのが普通だ。
 だが、数週間後、一件だけではあったが二人を喜ばせる申込みがあった。長野県一部リーグで昨シーズンの準優勝チームに所属していた現役選手が名乗りを上げてくれたのだ。
 実績は申し分ない。期待以上と言ってもよい。高野達に反対する理由は何もなかった。
 そうして淡海村にやってきたのが、初島千雪だった。

 (二)


 割り当てられた寮の部屋で、千雪は学習机の椅子に腰掛けて和子の帰りを待っていた。
 クラスの副委員長である和子は担任にもなにかと頼りにされ、日曜日だというのに職員室に足を運んで仕事を仰せつかっているのだ。
 学園長室で村長の長い話を一緒に聞いた後、和子は千雪をこの部屋に案内してくれた。そして、すぐ終わるからと言って職員室に向かったきり、既に半時間近くが経っていた。
 さすがに手持ちぶさたになった千雪は、改めて部屋の中を見回した。
 下側しか使われていないと思われる二段ベッド。クローゼット。白地に水色の格子模様が入ったシンプルなデザインのクッション。透明な天板の丸テーブル。褪せたオレンジ色のカーペット。
 二段ベッドの反対側の壁には、勉強机が並んで据えられている。入り口側に近い机の棚には文房具や教科書が並んでいて和子が使っているのが一目瞭然だったので、千雪は奥側の机と対になった椅子に座っていた。
 やがて意を決した千雪は、さして多くない私物を段ボール箱から出し始めた。ルームメイトである和子の許可を得てからにしたかったが、こうして待っていても仕方がない。
 寮生活は初めての経験だった。多すぎる私物をもてあますことの無いよう、送り届けた荷物は極力少な目にしてあった。衣服、文具、洗面用具の他にはカーリングの用具や教本といった程度だ。全てを並べ、整理するのに半時間もかからない。
 一番最後に千雪が手にしたのは写真立てだった。千雪自身と、かつての仲間達が誇らしげな笑顔でこちらを見ている。
 それをしばらく悲しげな瞳で見つめていた千雪は、写真立てを机の隅に置くとなにかを吹っ切るように小さく息をつき、椅子に座りなおした。
 膝の上にのせた両手に目線を落としたまま、じっと和子が戻ってくるのを待つ。
 一人でいることは苦にならなかった。長野に居た頃も、カーリングを始めるまではずっと一人きりだったのだから。
 望まれてやって来たとはいえ、異郷の地だ。心からの親友は二度と作れないと半ばあきらめていた。
(だけど、佐伯さんがいてくれた……)
 そう心の中で呟くだけで、千雪の胸の中が温かいもので満たされる。
 と同時に、自分が長野から離れざるを得なくなった出来事を思い返さずにはいられなかった。その『出来事』さえ無ければ、自分だってわざわざ住み慣れた長野から出ることなど思いも寄らなかった。気心の通じ合った仲間と離れることもなかった。
 忘れたくなるようなつらい出来事だったが、それだけにかえってその情景は千雪の脳裏に鮮明に焼き付いていて、今でもありありと思い返すことが出来た。

 千雪が所属していたチーム『レディ・レックス』は、長野県屈指の好チームとして名を馳せていた。
 なかでも、千雪の同級生で、無二の親友である加賀井愛里は『神の視点を持つカーラー』という大仰な異名を与えられ、冷静沈着なスキップ(リーダー)として高い評価を受けていた。
 親子ほどに年の離れたリーグの選手たちからも一目置かれており、チームはリーグ優勝を果たしてオリンピック強化A指定チームに選ばれることを目指し、一致団結して試合を戦っていた。
 次回の冬季五輪開催までの期間を考えた場合、まだ猶予があることはある。しかし、指定が一年遅れればそれだけ練習設備の使用条件にも差がついてしまう。マイナーな種目のアマチュアチームは、どこも資金面では苦しい状態にある。A指定チームが受ける強化費一つとってみても魅力的なのだ。

(それなのに……)
 千雪は、彼我のストーンが入り乱れたハウス周辺を眺め渡して絶望的な気持ちになった。
 カーリングは一チームを四人で編成し、リード、セカンド、サード、スキップと各ポジションに分かれる。それぞれのチームがポジションごとに交互に二投ずつ放ち、ハウスと呼ばれる二重円の中心に自チームのストーンを置くことを目指す。スキップは指揮官として作戦を指示するが、最後には自らもショットの順番が回ってくる。
 スキップがショットする際に、代理スキップとしてハウス内に立ち入ることを許されるのはサードである。『レディ・レックス』では千雪がこのポジションを務めている。
 ハウスのど真ん中に相手方の黄色いストーンが陣取っている。その手前に味方の赤いストーンがあるが、さらにその前では黄色のストーンが千雪達のストーンの進入を阻んでいた。
 両チームあわせて十六投を終えた時点で得点を判定し、この単位をエンドと呼ぶのだが、現在は最終エンドを迎えて『レディ・レックス』は六対七と一点リードを許し、既に十五投が終わっている。
 しかしながら、スキップの愛里がこれから投じるラストショットには、すべてをひっくり返せる可能性がまだ残っていた。
 ハウスの左右には敵味方のストーンが入り乱れ、中央部へのアプローチはほぼ不可能に見える。しかし、ガードと呼ばれる進路を阻むストーンを、右側からぎりぎりにかすめるラインだけがかろうじて開いている。
 だがそれも、ただハウスの中心であるティーを狙うだけではだめだ。
 ここで二点を奪って逆転するためには、ティーに最も近いナンバーワンと呼ばれる敵ストーンに正確にヒットさせて、敵ストーンを遠くに押しださなければならない。そして同時に、ショットしたストーンをティーの近くとどめ置かせる必要がある。
 これは『ヒット・アンド・ステイ』と呼ばれ、ショットのウエイト(スピード)と、リンクをブラシで磨くスウィーピングに高度な技術が求められる戦術である。
 カーリングはラストショットを放てる後攻が圧倒的に有利になる。ここで同点に持ち込んでも、延長戦は得点した愛里達が先攻になってしまう。そこで得点できなければ負けは必至だった。つまり、ここで決めない限り、勝ちはない。
 それは単に試合を落とすだけでは済まない。『レディ・レックス』は今日が最終戦であり、この試合の勝敗にリーグ優勝がかかっているのだ。
(大丈夫。愛里なら出来ます)
 弱気を払うように頭を振った千雪は自らに言い聞かせ、手の震えを抑えながらティーをブラシで指し示す。いちいち言葉を交わさなくても、愛里にはすべて判っている筈だ。
 ただ、リンクのコンディションが良くないのが気にかかる。当然だろう。一エンドにつき敵味方が合計十六回ストーンを滑らせて、そのたびに散々スウィーピングを受けている。その上、両チームの選手達が放つ、文字通りの熱気がリンクの氷を溶かしている。
 放たれたストーンがイレギュラーな動きを見せれば、それだけで千雪の思い描いた作戦が水泡に帰してしまう。
 滑らせた石の進路をブラシで掃き清めるユーモラスな競技は、同時にコンマ一度の温度差でも滑りが変わってくるデリケートなゲームでもあるのだ。
 愛里がじわりと滑走を始め、静かにストーンのハンドルをリリースした。ストーンは緩やかに回転し、弧を描きながら近づいてくる。
 見守る千雪の表情から強ばりが消える。全てを失う恐怖に抜けそうになっていた膝の震えも止まった。
 室温が上がった結果、氷が溶け、試合前半よりも滑りやすくなっている。しかし、それさえも計算にいれて放たれた愛里のショットはきわめて正確だった。
 山根と左右田、『レディ・レックス』の二人のスイーパーが小刻みにブラシを動かす。
 イメージ通りのライン上をストーンが滑ってくる。
「ストップ!」
 タイミングを見計らった千雪の叫び声を受けて、スウィーパーが手を止めた。二人はストーンの動きにあわせてその前方を滑りながら見守る。
(これで、勝てる……。えっ?)
 狙い澄ました一撃がハウスへと飛び込んでくる寸前、千雪の目が見開かれた。愛里のストーンが、わずかではあるが、つんのめるように速度を落としたのだ。
 間近でみていた千雪にしか判らないほどの減速だったが、これによって弧を描く曲率が変わる。
「スイープ!」
 理解しかねるままの千雪の叫びに、我に返ったようにスウィーパー二人が懸命にコートをこすりはじめた。しかし、一度落ちてしまった速度を回復する術はない。
 磁石に吸い寄せられるようにハウスの中心へと滑り込む筈のストーンは、中央の黄色い敵ストーンにヒットしたものの、はじき飛ばせずに触れあったまま止まった。
「ああ……」
「やったあ!」
 千雪のため息をかき消すように、相手チームから歓声があがる。逆転はならず、この瞬間、『レディ・レックス』は一部リーグ準優勝に終わった。それは同時にチームが強化A指定を逃し、オリンピックという夢が一歩遠ざかったことを意味する。
 何が起こったのか判らず、千雪はその場に立ち尽くしていた。

 ドアがノックされ、千雪は顔を上げた。回想を断ち切る。
「はい。どうぞ」
 千雪が返事をすると、和子が顔を覗かせた。
「教科書とか届いていたから、ついでに預かってきたよ。片づけとか、終わった?」
「ありがとうございます。整理のほうは、大体は。荷物を最小限にしてきましたので」
「さすが、手際がいいね。手間取ってるようだったら手伝おうかと思ったんだけど、必要なかったみたいね」
 部屋の中を見回し、感心したように何度もうなずいてから、スリッパを脱いで部屋に入った和子は「わたしも、もうちょっと片づけしておかないとダメだなぁ……」と、言わずもがなの感想を漏らしながら、クッションの上にぺたんと腰を下ろす。
「佐伯さんは、一年の時からこちらの学校ですか?」
「えっ、うん……。私、中学の頃は身体が弱くてさ。進学するときにどうしようかって話になって、転地療養みたいな感じで。もう、今は全然平気なんだけどね」
 千雪の問いに、あまり歯切れの良くない口調で和子が応じる。
「そうですか。お身体が……」
「気にしないで。ほら見てよ。不健康そうに見える?」
 心配げに顔色をうかがってくる千雪に慌てた和子は、立ち上がってその場で身体をくるりと一回転させてみせた。
「いいえ。ここはのどかでいいところですものね。療養の効果があったようですね」
「……でも、いくらなんでも田舎過ぎる気がするけど」
 立ったついでに、和子は備え付けの冷蔵庫から小振りの紅茶のペットボトルを出してきた。流し台に手を伸ばし、愛用のコップを掴む。
「そうですわね。正直なところをもうしますと、わたくしが前に住んでいたところはもう少し都会でしたわ。近くに電車が通っておりましたから」
「うわ、負けてるよ、ここ」
 ややあって、顔を見合わせて、二人同時に吹き出した。
「さぁてと。転入を祝って乾杯、と行きたいところなんだけど、コップが一つしかなくてさ。初島さん、持ってる?」
「申し訳ありません。なるべく荷物は移った先で揃えるようにとのお話でしたので、必要最小限のものしか……」
「じゃ、ま、仕方ないか。今日はこれ使ってよ」
 和子はペットボトルの中身の半分を手にしたコップに注ぎ、それを千雪に渡した。
「でしたらわたくしがそちらを――」
「いいから。初島さんの転入歓迎の乾杯なんだから。ペットボトルに口づけで飲ませちゃ悪いよ」
 言って、和子はペットボトルをかざして「乾杯!」と声を上げた。困り顔の千雪もカップをそっと差し出し、軽くペットボトルの腹にカップの縁を触れさせる。
 冷えた紅茶で口を湿らせた和子がほうっとため息をつく。
「いやぁ、一年ずっとこの部屋一人きりだったから、ルームメイトって言われて緊張しちゃってさぁ。でも良かったよ、怖そうな子だったらどうしようかと思った」
「わたくしも安心いたしました。なにも判りませんので、よろしくお願いいたします」
 千雪が床に正座して三つ指をついて改めて深々と頭を下げる。和子は慌てて手を振る。
「ううん、こちらこそ。だって初島さんって私達のカーリングの先生だもんね。……って、床に直接座ってないでさ。クッションとかも無いの?」
「はい。どうしても荷物がかさばってしまいますので」
 妙な話だが、ぴしりと背筋を伸ばして膝の上で指を揃えた手を乗せる千雪は、正座がよく似合っていた。
「そ、そう……? 来客用のクッションも要るって判ってたんだけどねぇ。この部屋に他の寮の子とかもあんまり来ないし、ちょっとずぼらしちゃってたんだ。ごめんね」
 居心地悪げに身じろぎした和子だが、固辞して押し問答するのもためらわれた。間を持たせるように、ペットボトルのキャップを外して紅茶を口に含む。
 千雪の視線を感じる。妙な緊張感で手が汗ばんでしまう。助けを求めるように時計を見た。
「じゃ、じゃあ。だいぶ早いけど晩御飯にしようか? その後でお風呂。案内するから」
「はい」
 柔らかな声音の返事に救われたように、和子は思わず息をついていた。

 体育会系の部活動がまだ練習をしている早い時間帯のせいか、寮の食堂は閑散としていた。それでも列に並んでしばらく待った後、数品からなる夕食をトレーに受け取った和子達は、南側の窓に面した席に向かい合って座った。
 あまり見晴らしがよいとは言えない立地条件ながら、窓からは西の空に広がる夕焼けが山並みの向こうに見えた。
 誰が決めたのかは知らないが、寮の食事はまずいものと相場が決まっている。
 費用の問題なのか、競争意識が働かない為なのか、それとも世間的にそう認知されているからか。
 とはいえ、淡海学園の寮食に関しては、そこそこ及第点ではないのかと和子は思っている。当事者にしてはその評価があいまいなのは、和子自身に食事に対するこだわりが薄いせいかもしれない。
 食べ盛り、育ち盛りの大多数の寮生にとっては、寮の食事は単調な生活にあって一大イベントであり、和子のような淡泊なスタンスは少数派だ。
 自分でもそのことは自覚していて、せっかくの食事はもっと美味しく味あわねばならない、と強迫観念じみた思いはある。
 しかし、食事を終えるまでの間じゅう、自分の時間が拘束されているようで、ひどく窮屈なのだ。目の前にある皿を一刻も早く片づけることしか考えずにはいられない。食事の時間を惜しんでまで、なにをするという訳でもないのに。
 なぜそうなったのだろうか。
 日頃は一人で食べているせいで、自分の早食いを気にも留めていなかったが、今日ばかりは千雪と向かい合っての食事であり、あまり不作法な食べ方も出来ない。つい考え込んでしまう。
 今晩のメニューは八宝菜と卵スープ、トマトと豆腐のサラダ。八宝菜の汁を飛ばさないように、いつもよりペースを落として慎重に箸を使いながら、和子は記憶をたどる。
 寮に来てから早食いになった訳ではない。まだ家で食事をしていた頃からだ。
 強いて言えば、受験生だった中学三年生にこの傾向が強くなった。
 母親は食事のマナーに関してそれほど口うるさいほうでは無かったが、食事中に単語帳やノートをみることだけは強く禁じていた。
(それもあるけど……、食事をしてるときは、お母さんとずっと顔をあわせてなくちゃいけなかったからかな)
「佐伯さん、どうかいたしましたか?」 
 左手で口元を隠しながら、千雪が訊ねてくる。
「あ、ごめん」
 ぼーっとしていたので千雪に気を遣わせてしまった。反射的に謝った和子は改めて千雪と彼女の前に置かれた数枚の皿を見て、目をしばたたいた。
「いつの間にそんなに食べたの?」
 先ほどから、見るともなしに見ていたつもりだった。
 千雪の箸使いは、いかにも育ちの良さを感じさせる優雅なもので、箸の先しか決して汚さず、口に食べ物が入っている間は絶対に口を開かない。お椀や皿に手を伸ばすときには、必ず一度箸を置き、両手で取ってから右手を離して箸を取る。
 思わず引け目を感じてしまいそうなほど上品な所作であることは確かだったが、反面、そんなのんびりした箸の進め方ではいつになっても食べ終わらないのでは、と思っていたのだ。
 それなのに、気が付けば千雪は和子とそう変わらぬペースで食事を進めていた。
「この八宝菜、おいしいですわね。特にお野菜が。つい箸が進んでしまいます」
 和子の驚き方を違う風に捉えたのか、千雪は口元を隠しながら恥ずかしげに言い訳めいた言葉を口にした。
「う、うん。この白菜とかピーマンとかは、村で穫れたのを使ってるからだと思うよ。大々的に特産地として売り出すようなのはないけど、だいたいの品目は村のどこかで作ってるって聞いたことがある」
 そう応じた和子は、そそくさとした調子で残りをいつもの早食いで一気に平らげた。
 少しばかり下手に格好を付けてみたところで、千雪にはなにもかも見透かされてしまうだろう。それならば、早いうちに降参して地を出してしまったほうがこれからの寮生活が気楽というものだ。
 和子の健啖ぶりを千雪は驚くでもとがめるでもなく、目を細めて見つめるだけだった。

 早い夕食を終えた後、やはりこれまた早めの風呂へと向かう。二人ともタオルと替えの下着とジャージを抱えて廊下を歩く。
「このジャージはどうして必要なんでしょう?」
「これはね、ここの寮はあんまり規則はうるさくないんだけど、私服でうろうろするのはあんまり良くないって言われるから。パジャマに着替えるのもまだ早いけど、風呂あがりにまた制服を着るのもヘンでしょ。だから、だいたいジャージを着てるってわけ」
「そうなんですか」
 素直に感心する千雪の様子がおかしく、つい和子の口元がほころんでしまう。

 元々、寮の収容人員数が多めに見積もられているせいか、現在のところかなりの定員割れを起こしている。和子のように二人部屋を一年間ずっと一人で独占していた者も少なくない。従って食堂同様に大浴場もまた、必要以上と思われるほどの大きさがあった。
 脱衣所には、二人の他に誰もいなかった。
 勝手を知っている分、和子のほうが先にロッカーを選んで服を脱いで、千雪を残して浴室に向かう。協調性が無いと言われてしまえばそれまでだが、一年間ずっと一人で行動していたクセはそう簡単に改まらない。
 入学当初は修学旅行気分で、広々とした湯船で人目を忍んで平泳ぎなどをしてふざけてみた事もあったが、一年も経てばそんな気も薄れてしまう。
 もっとも、千雪に限っては間違っても風呂場で泳ぐなどという馬鹿な真似はしそうに無かった。
(いったいどういう人なんだろ。謎だ……)
 ざっと身体を洗って湯船に浸かっていると、遅れて千雪も浴室に入ってきた。
「あ……」
 またしても和子は自分の目を疑う羽目になった。入浴中だから当然眼鏡を外している。逆に言えば眼鏡がなくてもそれとはっきり判ったのだ。
 染み一つ無い真っ白な肌はさておき、同性でも息を呑んでしまうほどに形の良い胸とほっそりとした腰つきは、古風なデザインのセーラー服姿からは想像も付かなかった。
「どうかしましたか?」
 入寮以来、あまりにも何度も和子が呆れとも驚きともつかない顔をするせいか、千雪はすっかり戸惑ってしまっている。
 和子にもそれは判っている。だが、やはりその裸身を初めて目の当たりにすると、馬鹿みたいな顔で見とれる他にないだろう、という言い訳が脳裏を駆けめぐっている。
「初島さんって、着やせするんだ」
 言葉にすると余計になんだか惨めな気持ちになり、湯船に頭のてっぺんまで沈んでしまいたくなる。
「えっ。……そんなことを仰らないで下さい。なんだか恥ずかしいですから」 
 千雪がたちまちにして頬を赤く染めた。視線を感じるのか、もじもじとした様子で身体を洗いはじめる。
 その仕草に、和子は悪戯心がわき上がってくるのを感じた。まぎれもない嫉妬なのだろうと自覚はしていたが、あまりに自分とかけ離れすぎていて、対抗心すら沸いてこない。せいぜい、冗談でまぎらわせるぐらいしか出来そうもない。
「ごめんごめん。でも、どっちかっていうと恥ずかしいのはこっちなんだけどな。見栄えのしない顔と身体でさあ。これから寮のルームメイトってことで比較されるかと思うと、わたしはちょっと先行きが暗い気がする」
 声が上擦って本心が露呈しそうになったが、どうにか和子は冗談めかしてそう言って照れを隠す事に成功した。
「もう、からかわないで下さい……」
「とにかくさ、これからよろしくね。これから毎晩、初島さんの裸が見れると思うと楽しみが増えるわ」
 生真面目な千雪の反応に調子に乗って、なおも身も蓋もない言葉を重ねる。ここでようやく千雪も、恥ずかしがってばかりいたのではこの場が収まらないことに気づいたらしい。いささか露悪的な笑みを浮かべる。
「はい。こんな身体でよろしければ、いくらでもご覧下さい」
 二人して神妙な面もちで頭を下げたあと、顔を見合わせて笑いあう。気の置けない親友として互いを認めあった瞬間だった。
 この時点では、彼女達がこれから半年近くに渡って繰り広げることとなる騒動の中心人物となることなど、二人とも全く予想もしていない。



 第二話に続く

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