翌朝のホームルーム。担任に連れられて千雪が二年一組の教室に姿を表すと、期せずして男女問わず生徒達から、ほうと声が上がった。 ざわめく生徒達に背を向け、担任が黒板にチョークで『初島千雪』と大書きする。書き終えたところで千雪に挨拶を促した。 「この度、長野からこちらでお世話になることになりました、初島千雪ともうします。転校は初めての経験で、何かと判らないこともあるかと思いますので、皆様、よろしくお願いいたします」 深々と千雪が頭を下げる。やや緊張気味の挨拶だったが、丁寧な物腰に生徒達が好意的な笑みを浮かべる。 千雪は窓側の最後列の席をあてがわれた。クラスの誰もが好奇心を抑えかねているが、ホームルームから間をおかずに一時限目の授業が始まってしまう。 一時限目が終わりを告げるチャイムが鳴り、クラス内に雑然とした空気が満ちると同時に、千雪は新しいクラスメイトに取り囲まれた。淡海学園の紺色のブレザーの中にあっては、白いセーラー服はいやが上にも目立つ。 五分ほどの間、興味本意の質問責めに遭っていた千雪が、ようやく人垣をかきわけて和子の元に笑顔で歩み寄ってきた。 「同じクラスになれて良かったです」 「うん、そうだね」 「もう知り合いになったん?」 嬉しそうにうなずく和子の隣の席から、天宮空音がひょっこりと顔を出した。 中学生と言っても通用しそうなほどの小柄な体躯であり、その体つきからは女らしさという要素がすっぽりと抜け落ちてしまっている。 いや、見た目だけではなく、その無茶な言動も女子高生というよりはガキ大将のようだ。小学校当時のあだ名は『サル』あるいは『サル音』だったという。 事実、発育が遅れているようにみえて、一年の際に全校で実施した運動テストで、女子平均よりかなり上を記録していた。身のこなしがとにかく軽いのだ。 ショートカットにしても跳ね上がってしまうほどの癖毛なのだが、本人はそれに頓着する様子もない。年頃の女のコとなれば、それなりに落ち着いてお洒落にも気を遣うようになってくるのが普通なのだが、こと空音に関しては化粧どころかリップクリームすらも必要さを感じないらしい。 いずれにせよ、すらりとした容姿で落ち着いた物腰の千雪との取り合わせは、とても同い年には見えない。 「知り合ったっていうか、寮のルームメイトになったのよ」 「へえ。さすがに和子は手がはやいなぁ」 「なにが『さすが』なのよっ。ああ、初島さん、誤解しないでね」 慌てる和子に、千雪は忍び笑いをもらし「はい」とうなずいた。 「んで、前は長野の学校なんやって? どんなところ?」 「田舎ですよ。のんびりしたところです」 千雪は照れたように、はにかみながら答える。 丁寧な口調は転校してきたばかりで緊張しているからというより、もともとそれが彼女の地なのだろう。 「へぇ。こことおんなじようなところなんかな。ワコもこっちに来た時はびっくりしたやろ?」 そう言って、和子のほうを振り返って空音は悪戯っぽい笑い声をあげた。 「まあ、ここの田舎ぶりに驚いた事は否定しないけどもさ」 淡海学園は一学年四クラスとこじんまりとした学校で、生徒のうち約三分の二が地元出身者である。残り三分の一は寮生活をしている。空音は淡海村の出で、自転車で通える距離に住んでいる。 なにもそんなところに話題のとっかかりを見つけなくてもいいだろうに、と和子は自分のことを棚に上げて言葉に詰まってしまった。下手に否定するのも肯定するのも、千雪の心証を害しそうな気がして出来ない。 「大丈夫ですよ。わたくしも、都会の町並みはあまり好きではありませんから」 「そうかぁ。地元のモンでなかったら、肌にあわんと辛いやろからな。せや、ゆかりもこっち来ぃな」 千雪の言葉に頷いた空音は、ふと何事かに気づいたように窓際の席に座り外を見ている女生徒に声をかけた。 「いい。興味ない」 そっけない返事を返したのは芝辻ゆかり。茶髪をポニーテールに結わえている。女子硬式テニス部の副主将だけあって、健康的に日灼けした快活な雰囲気ながら、ややきつい目つきによって取っつきにくい印象を周囲に与えている。 それを気にしないのは、クラスの中でも空音ぐらいのものだ。どうやら二人の間には単に旧友というだけではなく、家同士になにか事情があるらしいのだが、和子はそれほど興味もなかったので確かめていない。 「まぁ、ゆかりはテニスにしか興味あらへんか。それにしてもや。カーリングいうたら、漬け物石みたいなんを滑らせて、便所ブラシみたいなんで氷を磨くやつやろ? やってる人って初めて見たわ」 少しの間つまらなさそうな顔をした空音が、千雪に向き直るやあけすけな感想を口にする。和子は反射的にその肩を小突いていた。 「空音! また失礼なことを言う!」 「痛いって! もう。せやけど、ワコも考えてみぃな。ぶっちゃけたところ、ウチらの中でカーリングのことを正確に判ってるのっておらんやろ?」 「長野では、結構盛んにやっている競技ですから……。全国的にはマイナーなスポーツなのは事実ですけど」 千雪の白い頬がすうっと紅潮した。周囲の空気が冷えたような感覚を覚え、和子の表情が強ばる。 「佐伯さんも、お笑いになりますか?」 口調こそ静かだったが、千雪の切れ長の目には悲しみの色があった。 やや唐突に話を振られた和子は、うろたえ気味に頭を振った。 「あ、ううん。ちょっと初島さんがカーリングをやってる姿って想像できないな、とは思ったけど」 ルールは良くわからないが、オリンピック中継を見たことはあって、だいたいどんな格好かは判っているつもりだ。ただ、目の前の千雪と、映像で見たジャージ姿の選手達とが重ならなかった。 「それから、わたしのことは和子でいいよ。空音みたいにワコって呼んでくれてもかまわないし」 なれなれしいかなとは思ったが、取り繕うようにそう付け加える。 「ありがとうございます。ではわたくしのことも、千雪と呼び捨てにしてください」 千雪の表情に、いつものたおやかな笑みが戻り、和子は胸をなで下ろした。 「それで、カーリングってどんなスポーツなの?」 気を取り直して和子が訊ねると、空音も同調するようにうなずいた。 「せや。三限目の体育はさっそくカーリングやるって話やからな。ウチらもちゃんと知っておかんといかんのやった」 「では、簡単にルールから説明いたしますね」 千雪は自分の席に戻ると真新しいノートを開き、一番後ろの白紙のページに幾重かの同心円を描いた。和子達も千雪の席の横に移動してノートを覗き込む。 「カーリングとは、ハウスと呼ばれる円形の的の中心……、これをティーと言いますが、このティーに、自陣のストーンを滑り込ませるゲームです。一チームは四人。敵味方交互に一人二投ずつ投げ込んで、最終的にストーンをティー近くに残したチームが得点出来ます。敵味方の十六投を一エンドとよび、野球での一回に相当します。スコアボードも野球に似ています」 千雪はハウスの図の横に、縦横の線を引いてスコアボードの図を描いた。 「ただ、野球が九回で戦われるのに対し、カーリングは正式なルールでは十エンドです。実際には六エンドほどに短縮して行う事も多いですね。さきほどお話したような得点の仕方ですので、一エンドにつき、得点できるのはどちらか一方だけとなります」 「氷をブラシで磨いてるのはどうしてかな?」 「はい。カーリングでは、ストーンを滑らせる際の強弱と角度の正確さが勝負のカギとなります。リンクをブラシでこするのはスウィープと言います。リンク上にはペブルと呼ばれる、細かい氷の粒があり、ブラシにこすられてこのペブルが溶け、潤滑剤の役割を果たします。これによって、滑走距離や弧を描く角度を調整するのです」 千雪の話に、他のクラスメイトも周りに集まって説明に耳を傾ける。今日の体育の授業でやることが決まっている以上、いつまでも知らないでは済まされないだけに、皆、それなりに真剣だ。 「そうなんだ……。千雪もあれをやってたんだよね」 ぱたぱたとブラシを動かす千雪のユーモラスな姿が、和子にはどうにも想像しづらい。 「もちろんです。チームの四人にはショットをする順にリード、セカンド、サード、スキップというポジションが割り当てられますが、基本的にスキップ以外の三人は、ショットする時以外はスウィープをする役に回るんですよ」 「どうしてスキップはそのスウィープをやらないの?」 「カーリングにおいては監督は存在しません。作戦を組み立て、指示を下すのがスキップの役目なのです。ただ指示をするだけではなく、スキップは各順の最後に自らストーンを滑らせるので、選手と監督の両方を兼ねる事になります。スキップが滑らせる際にはサードがスキップの代わりに指揮を執ります。わたくしは、このサードを務めておりました」 「ふうん。副キャプテンって訳だ。凄いね」 和子が感心して大きくうなずくと、千雪ははにかみながら頭を振る。 「四人で一チームですから、凄いということはありません。では、実際にどういう形で点を取っていくか説明いたしますね」 千雪は先ほど書いた同心円の中に、小さな円をいくつか無造作に書き入れた。これがハウス内に入ったストーンを表していることは、今までの説明で和子にも判った。 「ショットしたストーンをハウスに入れることは『ドロー』、味方のストーンに当てて、当てられたストーンをハウス内に押し込むことを『レイズ』、相手のストーンをハウスから弾き出すことを『テイクアウト』と呼びます。他にもいくつか、カーリングの基本であると同時に神髄となる技術があります」 千雪はそう言いながら、矢印を書き加えてストーンの動きを示していく。 「また、ハウスの手前でストーンを止め、相手が滑らせるラインをふさぐ戦術を『ガード』と呼びます。ティーの中心近くを確保したチームはガードで相手のラインを潰し、相手チームはこのガードをこじあけようとします」 「うん、判るよ」 「ただのガードだったストーンが、弾かれたことでハウスに近づき、勝敗を左右するような貴重な存在になることもあります。常に先を読んだ駆け引きが繰り広げられることから、カーリングは『氷上のチェス』とも呼ばれています。ですが、カーリングは単なる競技ではないのです。一種の芸術とでも言えばいいのか……」 瞳を輝かせて熱っぽく語る千雪の表情は、昨日出会って以来、和子が初めて目にするものだった。千雪の一面を、和子は驚きと好意を持って受け入れる。 「千雪がカーリングを始めたきっかけって、どんなのかな」 「……わたくしがはじめてリンクに立ったのは小学校三年の時でした。加賀井さんという同級の方に誘われたのがきっかけでした」 この時、千雪がわずかに言いよどんだ事に和子は気づかなかった。小学生の時からやっていたという言葉に気を取られていた。 「へえ。じゃあもう七年ぐらいになるんだ」 「はい。わたくしを誘ってくださった加賀井さんは当時からとってもお上手で、今では地元のカーラーから、『神の視点を持つカーラー』と呼ばれています。あ、カーラーというのはカーリングのプレイヤーという意味です」 千雪が愛里の名を出した時、わずかに眉を寄せて表情が曇った。しかしその反面、口調は我が事のように自慢げにも聞こえた。 「『神の視点』ってどんなの?」 「まず、ハウス――ストーンを滑り込ませる的ですね――これは直径四メートル近くあります」 ストーンをショットする際には、ハックと呼ばれる台を蹴り、身体ごとストーンを押し出すようにしてリンク上を滑走する。助走の踏み切り線となるホッグラインからハウス目掛けて投じるのだが、この距離は四十メートル近くに及ぶ。 「このハウスの上に立って四方を見回しても、彼我のストーンの配置を数センチ単位で正確に見抜くことは簡単ではありません。ですが距離と空間を己の視点だけで把握する能力を、加賀井さんは持っているのです。ちょうど真上からリンクを俯瞰するかのように。それだけではなく、リンクの氷の状況を手に取るように見抜くんですよ」 ふと、我に返ったように目をしばたたいた千雪は、恥ずかしげに頬を染め、目を伏せた。 「こんな話、あまり楽しくはないでしょう?」 「ううん。……なんだか羨ましいな」 我知らず、ぽつりとそんな言葉が和子の口から漏れていた。 「そうでしょうか? 確かに、これから皆さんカーリングに接することになる訳ですが、いままでウインタースポーツそのものに縁がない様子ですけど」 「私が羨ましいのはカーリングが出来る環境じゃなくて、そうやって自分の大事なものを熱心に語れる千雪のことよ。私はそんな風に人に話せるものをなにも持ってないから。私もカーリングをやったら、千雪みたいな気持ちになれるのかな?」 和子の真剣な言葉にも、千雪は笑って首を振る。 「人それぞれですから。わたくしは他の方にカーリングを無理強いするつもりで来た訳ではありませんわ。それに――」 なにか言いかけた千雪の笑顔がふっと寂しげなものになった。 「それに?」 「思い入れは時に人を縛ります。わたくしのように……」 千雪の言葉を、和子ははっきりと理解出来た訳ではなかった。ただ、千雪がなにかしらの屈託を抱えていることだけは伝わってきた。 「ごめんね、嫌なこと話させちゃったみたいで」 「とんでもないです。このような話、初日から真剣に聞いていただけるとは思っていませんでしたから」 手を振りながらの今度の千雪の笑顔は、どこか痛々しく見えた。 和子はなにか慰めの言葉をかけようとしたが、それを思いつけぬまま二時限の始まりを告げるチャイムがなってしまい、声をかける機会を逸してしまった。 (四) 淡海村立カーリングアリーナは、学校から東に歩いて五分ほどのところにある淡海自然教育園に隣接して建設されている。自然教育園とは農業体験を希望する人を受け入れる為の施設である。そこが管理する田畑で収穫された農作物を食材として用いる食堂があることから、昼食時にここまで足を伸ばす淡海学園の生徒も少なくない。 三時限目は二年の一組と二組合同で体育であり、生徒達はぞろぞろと歩いて移動する。 「遠くから見ると、ホント、ただの農舎みたいなんだよねー」 千雪と並んで歩く和子が、前方のアリーナを望見しながら呟く。 南北に細長く伸びた建物の南側に庇が張り出した正面入り口がある。その扉がガラス製であることと、壁面から旗竿が立っている他は、外見上の造りはほとんど農舎と変わらない。 「作ってるときは新しい体育館かなんかやと思ったんやけどな。村長も妙なことを思いついたもんやな」 空音がつまらなさそうな声で応じる。 学校とアリーナを結ぶ道が一車線だけの農道であることが、その印象を強めている。向かって左手には、敷地となった田圃を村に貸している農家が所有する竹林が手つかずに残っていたりもする。 さらに近くに牛舎があって、牛糞の匂いがわずかながら風に混じっている。 「幻滅した?」 あまりと言えばあまりな環境であり、少し心配になって、和子は千雪に訊ねる。 カーリング特待生として招かれたのに、肝心のアリーナのみてくれの悪さに落胆しているかもしれないと思ったのだ。 千雪は首を左右に振った。 「いえ。長野にある民間のアリーナは、ここよりも、その、質素な感じですから。専用施設というだけで素晴らしいと思います」 「へぇ。千雪のお墨付きなら間違いないかぁ」 「中身がホンマに農舎やったら笑うけどな」 好き勝手なことを言い合いながら、和子達は正面入り口からアリーナに入った。土足厳禁であるが、スリッパが人数分用意されている訳でもない。 「この奥かな?」 靴を脱いだ和子は靴下のまま歩いて、左右に伸びる廊下を挟んだ向かいの位置にある引き扉を開いた。 「う、さむぅ」 流れ出てきた冷気に、真っ先に空音が声をあげた。外が汗ばむほどの暖かさだっただけに、ひんやりとした空気に和子も肩を震わせた。 ただ、冷気よりも目の前の光景に、言葉もない。 室内も外から見た印象と同じく、小さな体育館といった感じだった。もっとも、床は氷が張られ、天井の照明を浴びて輝いている。 五十メートルプールをすっぽり覆うほどの大きさの建物内に広がるリンクは、ボーリングのレーンのように細長く三つに区切られ、それぞれの両端には青と赤で二重円が描かれている。 三面のシートを持つ本格的なカーリングアリーナだった。 大きい、というのが初めて目にする和子の第一印象だ。シートの長さは、テレビでみているだけでは判らなかった。建物の奥行きはシートの前後にある通路の分を含めると優に五十メートルは超えている。あんな先にまで石を滑らせるのか、と驚く。 「カーリングは冬のスポーツだから寒くて当然だけど、よくこんなの作ったわよね」 「更衣室はこっちみたいやな。急いで着替えんと」 後ろで空音が、呆然としている和子達を手招きしていた。 移動に時間をとられた為にやむなく五分遅れで始まった授業は、カーリングのルール説明に終始した。 ホワイトボードを前にした体育教師は、事前に長野県まで出張してカーリングの講習を受けてきただけあり、説明そのものは間違っていない。 ただ、教師自身も実体験が無い分、どこか探るような口調であった。リンクの通路で体育座りをして話を聞く一組の生徒達は、千雪から事前に具体的な話を聞いていたので、実際にブラシやストーンを手にしてみたくてうずうずとしている。 とりあえず今日は基本的な練習だけということになった。最終的には男女別に四人ずつでチームを作り、リーグ戦のようなことをやる予定もあるという。 授業も残り二十分ほどというところでそれらの説明も終わり、ようやく全員がスライダーと呼ばれる専用シューズを履いてシートに足を踏み入れる事が出来た。三面あるシートの両端に男女が散り、ショットの練習を始める。 「目指せオリンピックってか。せやけど練習だけやと、こんなにつまらん競技もないわな」 空音は口を尖らせながら、引いたストーンの反動を利用して身体を滑り出させる。右手で支えていたストーンを、腕を振って押し出すようにして放つ。 体育教師からフォームの説明を聞いていたので滑り出しこそさまになっていたが、リリース時の手首の使い方がまだ身に付いていない。回転のかからないストーンはすぐに大きくフックして、サイドラインに達して止まってしまう。 「あちゃ、結構難しいもんやな」 とはいえ、空音の運動神経は決して悪くない。生徒の中にはスライダーを使って滑ることすらままならない者も結構いる。 「これくらい、簡単でしょ。次はアタシが投げるわ」 ホッグラインの上で首をひねる空音をどかせ、ゆかりがハックの前に立った。左手にストーンを持ち、右腕でブラシを抱えて構える。 「あれっ、ゆかりって左利きだったの?」 訊ねる和子に、ゆかりは少し困ったような表情で振り向いた。 「そうじゃないけど。右肘を痛めたくないから。これ、二十キロ近くあるんでしょ?」 やはりテニス部のことが頭にあるのだ。和子は納得したが、聞き流さなかった千雪が声を掛けてきた。 「腕の力はそれほど必要ありませんよ」 千雪は長い黒髪を一つに束ね、飾り気の無い紐で縛っている。たとえあか抜けないジャージ姿であっても、長刀を携えた武道家のような凛とした立ち振る舞いに、横で見ている和子は感心していた。 「そうなの?」 「それよりも、左で投げるのでしたら、スライダーを左用に履き替えないといけませんね」 右利き用スライダーの場合、ショットの際には前に出した左足に重心をかけて滑るため、左だけ底が平らになっている。当然、左利き用は逆になっている。 「あ、忘れてたわ」 途端にゆかりが顔をしかめ、慣れないスライダーにつんのめりそうになりながら、用具置き場に向かっていった。 その後ろ姿を見送る千雪は、ふと天井を振り仰ぐような仕草をみせた。 和子は、千雪の仕草につられるように彼女が視線の先に目を向けたが、特に何かを見たという訳でもないらしい。そこには、むき出しの無骨な梁から吊り下げられた照明以外には何も見つけられなかった。 (……?) 怪訝に思いながら顔をおろした和子は、千雪の寂しげな表情に気づいて慌て気味にフォローをいれる。 「気を悪くしないでね。ゆかりも、別にカーリングをなめてる訳じゃないんだけどもね」 「いえ。ゆかりさんはテニス部ですから、テニスの為に右肘に負担をかけたくないという気持ちも理解できます」 「あのな、ゆかりは中学のときにテニスのやりすぎで右肘を痛めてるんや」 二人のやりとりに気づいた空音が、周囲を気にしながらそっと教えてくれた。 千雪は「そうでしたか」と納得の表情を見せた。 和子はその傍らで頬を赤くする。 ゆかりが右肘を痛めた経験があるというのは、和子にとっても初耳の話だった。千雪を気遣う一方で、ゆかりの内心を全く思いやっていなかった自分に気づき、少し恥ずかしくなったのだ。 「ほんならもういっぺんウチが投げるで。回転かけて投げるんやったな」 空音がその場の空気を払うような大声を出し、ゆかりが置いていったストーンに手をかけ、再びショットを放つ。 すうっと滑ったストーンは今度は比較的真ん中を走っていたが、やがて左によれ始め、勢いを失って止まった。反対側で練習しているところに飛び込まないように置かれた、シートの中央を区切るマットにも達しない。 「なあ、ワコ。それに千雪もぼーっと突っ立っとらんで、スウィープやってえな。投げるだけやったら向こうにまでうまく届かへん」 「やっぱ、わたしもやるの?」と、和子は後込みする。 「当たり前や。ぼんやりしとってもしゃあないやん。練習しとかんと、試合やるときになって困るでぇ」 「だけど……」 ためらう和子の背中を、千雪が押した。 「天宮さんの仰るとおりですわ。基礎から覚えていくのが大事です。そうでないと、試合をやっても面白くないですから」 和子はがっくりと肩を落とした。千雪の見ている前で不格好なところを見せたくない気持ちが、彼女を尻込みさせる。 「空音は運動が得意だからいいけどさぁ」 そう言いたかったが、実に真剣な表情で空音とスウィーピングの間合いを確認する千雪に、それ以上は声をかけかねた。 渋々と、スウィーパーの位置に向かう。 ストーンの速度にあわせ、クロスステップでブラシがけしていくやり方は練習に先立って聞いているが、いざやれと言われてもすぐにうまく出来る自信はなかった。 体重の乗ったスウィープを行うためには、ブラシのヘッドの真上に頭を出し、つま先立ちになりながらブラシを動かさねばならない。腕の力だけでなく、腹筋も太股も、全身に力を入れなければ素早い動きはできない。 見た目は確かにユーモラスなのだが、カーリングはまぎれもなくスポーツなのだと和子は実感する。。 空音の三投目。回転を意識しすぎてあからさまに手首を捻った結果、コマのようにストーンを回転させる恰好になった。いくらなんでもやりすぎである。ストーンは大きくセンターラインからずれる。 「わっ、ちょっと」 さっとストーンの斜め前につけてスウィーピングを始めた千雪と違い、和子はスライダーを使ってリンク上を動き回ることさえおぼつかない。 もっとも、空音のショットも誉められたものではない。どうにか和子がスウィープの位置に入る前に、ストーンは大きく弧を描いてサイドアウトしてしまう。 「あかん」 空音が首を振りながら舌打ちする。 「下手ねぇ。次はアタシがショットをするから、スウィープお願い」 スライダーを履き替えてきたゆかりが早くも構えに入っていた。 「判りました。いつでも結構ですよ」 片手をあげて千雪が応じ、和子のほうを見た。 「うん、次は頑張るよ」 いつまでも千雪の足を引っ張っていたのでは、ルームメイトとしても申し訳がたたない。 身構える和子の視線の先で、ゆかりが見よう見まねで左手に持ったストーンを滑らせた。和子は千雪と向かい合い、肩を触れさせるようにしてスウィープを行う。 空音のショットに比べて、筋の良さは一目で見て取れた。ストーンはわずかに弧を描きながらも、ほぼ真っ直ぐに滑り抜けた。 「いい感じです。あとはウエイトの調整さえ覚えれば、すぐに試合が出来ますね」 千雪が嬉しそうにゆかりに向けて微笑む。 「このくらい、簡単よ」 得意げに胸をはるでもなく、ゆかりはそううそぶいた。 「ちょっと、ゆかり……」 和子はゆかりに対して少しばかり腹を立てていた。いきなりまともなショットを決められる彼女の運動神経に嫉妬していたこともある。自分もうまくプレイできれば千雪に誉めて貰えるのに、という悔しさがあるから余計だ。 だが、あまりにも面と向かって喧嘩腰の言葉を発するのもためらわれた。こんな時は、空音のように、考えた事を全て口にするような判りやすい性格が羨ましくなる。 と、そこへ。 「おーい、初島ぁ、こっちの面倒も頼むで」 隣のシートから、男子が千雪を呼んでいた。和子達と同じ一組の淵上忠志だった。 和子のクラスの委員長であるだけでなく、三年生のいない男子硬式テニス部で主将をつとめている。地元出身者で、実はカーリング場の敷地を村に貸しているのは、淵上の家だった。淵上の家は村で最大規模を誇る酪農業を営んでおり、彼も家の仕事の手伝いを毎日欠かさないという。 そのためか、いかにもスポーツマンといった見た目も性格も悪くないのに、「馬糞臭い」と女子生徒には避けられがちであったりもする。 神経が図太いのか、単に鈍いだけなのかは判らないが、本人に気にする様子がないのが、クラスの副委員長をしている和子にとっては救いだった。 「あ、はい。判りました。……空音さん、申し訳ありませんがスウィーパーをお願いできますか」 「よっしゃ」 千雪がシート横の通路に出るのと入れ違いに、空音がブラシを小脇に抱えてすいすいと滑ってくる。 「やっぱり大変だよね、千雪は。わたし達だけの練習を手伝ってるだけじゃダメなんだもんね」 千雪が淵上にあれこれと訊ねられ、その度に千雪が身振り手振りで実際の動きを説明している。その後ろ姿を見ながら和子は小さくため息をついた。その中には、自分がゆかり相手に口論をせずに済んだ安堵の意味合いも含められていた。 もちろん空音にはそこまで判らない。言葉だけを聞き、得たりとばかりににやっと笑う。 「せやで。だからウチらがはやいところ一人前にならへんと、千雪も困るやろ」 「うぅ。それはそうなんだけどもさ」 「さ、練習練習」 しかし結局、和子はその日の練習が終わるまで、まともなスウィーピングを行えずじまいだった。 「はよ試合がしたいなぁ。オリンピックとは言わんまでも、対外試合が出来るようになったら、いろいろ遠いところにいけるかもしらんし」 授業の後、女子更衣室でジャージから制服に着替えながら空音が呟く。なにが気に入ったのかは判らないが、最初の気乗りしない口調から一転して、やる気満々である。 もっとも、四時限目の授業があるから、あまりのんびりと話をしていられない。 「村でカーリングが普及したら、学校の授業だけじゃなくて、自分達でチームを作ってリーグ戦とか、やろうと思えばれば出来るんじゃないの?」 さして興味も抱いていない様子もない口振りでゆかりが応じる。マイペースなところを崩さない彼女は、他の生徒が半ば制服に着替え終わっているにも関わらず、まだ彼女はジャージを脱いでいるところだった。 「そうだよ。第一、私たちが基礎技術を身につけないと、試合になんかならないんだから。ねぇ?」 和子も、リンク内で冷やされて温度差で曇ってしまった眼鏡のレンズを拭きながら、おずおずとした口調で付け加える。いま試合をやれと言われてもまともなプレイも出来ず、恥をかくだけだから、自然と予防線を張ってしまう。 と、誰からの返事も戻ってこない事に気づき、眼鏡をかけ直して顔を上げる。 ゆかりはジャージを脱ぎ掛けた恰好のまま、ぽかんと口を開けて固まっていた。 その視線の先には、用具の整備の仕方などを説明していた関係で一番最後に更衣室に戻って着替えを始めた千雪の姿がある。 「結構、着やせするタイプだったのね。凄いわ」 やがて、しみじみとした口調でゆかりがぽつりと呟く。皆、なんとはなしに気になっていたらしく、途端に他の女子生徒達の視線が一斉に千雪に向けられた。おー、という声すらどこからともなくあがる。 「そんなことは無いです……」 相手が多すぎて冗談混じりに切り抜ける事も出来ず、顔を真っ赤にした千雪は、胸を隠すようにしながら白いセーラー服の上着に袖を通す。 「ゆかりってば、わたしとおんなじ事言ってるよ……」 和子は思わず頭を抱えた。言いたくなる気持ちは十二分に判るのだが、やはり千雪が可哀想に思える。 「胸がでかいって悩むなんざ、なんちゅう贅沢な悩みやー」 いきなり、空音が悲鳴のような声を挙げた。そのせいで今度は空音(の主に胸あたり)に視線が集まり、千雪と見比べて皆が一様に納得したように頷きあう。 「初島さんは悩んでるなんて一言も言ってないと思うけど。ま、生きていたらそのうちいいこともあるって」 空音に対してフォローにもならない声がどこからともなくあがり、爆笑を誘った。 「人を人生の負け犬みたいに言わんといてか。……にしても、カーリングやったら胸がでかくなるんか? せや、どうせならウチらでチームを作ろうやないか。どうせやったらカーリング部を作ってもうたらええねん」 空音がたいしていじけた風もなく、ゆかりと和子を等分に見ながら言い放つ。 「空音の興味は胸にしかないわけ? って、ウチらって、わたしも入ってる?」 「当たり前や。試合をやるには四人必要やねんから。ウチとゆかりとワコと、あとはもちろん千雪。胸はともかく、試合をせんとつまらんからなー」 胸と試合、どっちに比重がかかっているのか、和子はおっかなくて聞けない。いつもの事ながら、空音に好きに喋らせると何を言い出すのか判ったものではないのだ。 「アタシがテニス部だっての、忘れてないでしょうね」 と、ゆかりが横から静かな口調で一言。彼女にしてみれば当然の疑問だろう。 「当たり前や。ゆかりは兼部でもええがな。今日見たところ、一番サマになってたんはゆかりやからな。ここで名前をいれんワケにもいかんのや」 「それで気が済むんならそうすれば。言っておくけど、練習に顔は出せないわよ」 「しゃあないな。で、ワコには問題はないわな」 細かいことは気にしない空音らしく、ゆかりの適当な返事にも動じずに、和子に話を向けてくる。 「いいのかなぁ。千雪は他にもいろいろと教えなきゃいけないのに、わたし達だけで独占するのはまずいと思うよ」 和子が首を傾げるのを見て、千雪は微笑みながら首を振った。 「わたくしも自分の所属するチームが欲しいと思っておりました。教えるだけでなく、試合に参加したいですから」 「おっしゃ、決まりやな。あ、あと、主将はワコな」 空音のあっさりとした物言いに、和子は思わずむせてせき込んだ。話の風向きが妙な具合になっていた。 「主将……って。それは千雪がやるんじゃないの?」 助けを求めるように千雪に目を向ける。 「わたくしは、学園のカーリング部だけでなく、村の皆様にカーリングを指導するという立場にあります。出来れば、お力を貸していただきたいのですが……」 「そんなこと、急に言われても」 とは言ったものの、千雪の頼みをむげに断れない。第一、誰も見知らぬ土地に一人でやってきた心細さを、和子は誰よりもよく判るつもりだ。 自分の場合は、空音という地元出身者と友達になれたお陰で孤立せずに済んだ。 目立たない一生徒であっても転校生が周囲に溶け込むのは簡単ではない。ましてや学園中にその名を知られる事になった千雪の心中は察するに余りある。 助けてあげたい。 その思いが、尻込みしそうになる和子の背を後ろから押してくれた。 「……判った。カーリングのことはまだなんにも判らないけど、それはみんな同じだもんね。頑張って覚えるからさ。いろいろ教えてよ」 「ありがとうございます」 千雪の顔がぱあっとあかるくなる。その表情を見られただけで、和子はこの話を受けて良かったとさえ思った。 |