(五)
その日のうちに和子と千雪はカーリング部の創設を学校に話をつけた。本来であれば新しい部を作るには部員数と実績に制限があるのだが、村を挙げて振興に取り組んでいることもあり、驚くほどすんなりと話はまとまった。
もちろん、部という枠が出来ても、部員がいなければ話にならない。和子と千雪は折を見てカーリング部の入部希望者を募った。
元々、淡海学園の体育会系の部活動は軒並み低調で、対外的に評価されている部はほとんど無い。生徒数が少なく、また部を強化する為の費用を充分に確保できないからだ。
そんな中にあってさえ、カーリング部には対外試合の目途すら全くない。
結局は体育の授業で充分ということで、空音とゆかりの他に新メンバーを集めることさえままならなかった。しかも、ゆかりはテニス部との掛け持ちである。
だいたい、遊びならばいざしらず、真剣にスポーツに取り組むには理由がいる。『なぜ数ある種目の中からその競技を選んだのか』と聞かれる可能性がないのは、野球かサッカーぐらいかも知れない。
他ならぬ和子自身が、千雪の助けになりたいから、という以上の答えを持ち合わせていないぐらいだから、部員が集まらないのも致し方なかった。
たった四人では、かろうじてチームは組めても紅白戦すら出来ない。従ってカーリング部の主な活動は、自分達も千雪の指導を受けつつ、カーリングの普及推進に協力することになった。近隣の他校にカーリングをやっているところなどありはしないのだから、やむを得なかった。
――まあ、これで五教科合計四百七十九点ね。幸子ちゃんも和子お姉ちゃんを見習って勉強頑張りましょうね。
(お母さん……。わたしは、ただ……)
――しっかりしなさい。これまでなんの為に勉強してきたと思ってるの。
(誉めてもらいたかった、だけなのに……)
――なんてこと。これじゃあお母さん、恥ずかしくて外も歩けやしない。どうしてくれるのよ。
(……いい学校に行きたくて勉強してきた訳じゃない。だからそんなこと言わないでよ)
「和子さん。遅刻してしまいますよ」
軽く揺さぶられ、和子は目を開けた。
二段ベッドの上の段を支えるパイプが目に映る。寮の自分の部屋だ。
夢。起こしてくれたのは、お母さんじゃない。
ぼんやりと視線を横にずらすと、前屈みになった千雪が穏やかな微笑を浮かべ、和子の顔をうかがっていた。
「……ん。ありがと」
和子は目をこすりながら、二段ベットと一体になった棚に手を伸ばした。指先で探り当てた眼鏡を掛け、時計を見る。
いつもの起床時間だった。とりたてて寝坊したという訳でもない。
(わたしがうなされてたから、気を回してくれたのかな)
「お時間、少し早すぎましたでしょうか」
和子の考えを読みとったかのように、千雪が心配そうな声を出した。和子は気ぜわしく頭を振ってそれを遮る。
「ううん、そんなことないよ」
時計の頭部を軽く叩いて目覚ましのスイッチを切り、ベッドから降りる。ちらりと千雪の恰好を見て少し露悪的な笑顔を作る。途端に、千雪の表情が不安げなものになる。
「……わたくしの恰好、なにか変ですか?」
「んー。ヘンってことはないけどね。時々、ドキっとすることがあるんだ」
「え?」
千雪は既に着替えを終えているが、もう転校時に着ていた白いセーラー服姿ではない。
ブラウスに赤いリボンタイ、紺を貴重にしたチェック地のスカートという淡海学園の夏の制服である。
野暮ったいデザインのセーラー服ではいまいち判らなかったうらやましさを禁じ得ない千雪の体つきが、今では言わずもがなという風情である。
特に、スカートの丈が一気に短くなったせいで、膝から太股にかけてのラインが露わになり、柔らかそうな肉付きが……。
和子は再び、今度は水浴びを終えた犬のような勢いで頭を振った。
「どうかなさいました?」
「ごめん。ヘンなのはこっちだった。すぐ着替えるから、ちょっと待っててね」
千雪に見守られながら、ぎくしゃくとした動きでベッドから降りてパジャマを脱ぎはじめる。変な方向に目覚めてしまわないか、和子は少し自分に自信が無くなった。夢を見ている間に感じていたざらついた感情は、どこかへ吹き飛んでしまっていた。
千雪が村に来てから一ヶ月余りが経っていた。
相変わらずカーリング部の部員は集まらないものの、徐々にアリーナに顔を出す村人の数は増えていた。
まず小学校からの帰り道に子供達が来るようになった。実際の練習よりも、リンク上をスケートのように滑るだけで彼らはおおはしゃぎだった。
農作業の合間にやってくる農家の人たちは、アリーナに涼みに来ているような感じではあった。それでも、まだゲートボールをやるには老け込んだつもりはなく、グラウンドゴルフのようなお遊びに時間をかけて熱中する気にもなれない、という手合いにはカーリングは適度にチャレンジングな競技に見えたらしい。
部活動が盛んな為か、中学生の参加者がいないのが残念なところだったが、誰にも見向きされないという最悪の事態を回避出来て、高野村長は胸をなで下ろしていることだろう。
だがそれもこれも、千雪の人気によるものだ、と和子は思う。
いったいあの情熱はどこから来るのだろう。一人でも多くの村人にカーリングを知って貰おうと、ひたむきな千雪の姿をみていると、カーリングをやったことのない人間が一般的に抱く滑稽なイメージを忘れてしまいそうになる。
「あのコ、本当はどこかのお嬢様と違うんか?」
時代錯誤な印象さえ与える馬鹿丁寧な口調のせいか、これまでに何度も和子はそう訊ねられた。
実際に和子も気になって、直接千雪に家系について聞いてみたこともある。返ってきたのは、実家は戦前は地主だったらしいが農地改革で多くの田畑を失い、いまではただの農家だという、あまり意外性のない答えだった。礼儀作法は祖父母に教え込まれたもので、家柄がどうこうというものではない、という。
生まれ育ちはどうあれ、明るく、きさくで、誰に対しても丁寧かつ熱心にカーリングの指導を行う千雪は皆に好かれていた。
よそ者を拒絶する本能的な反応は淡海村の住人とて例外ではない。しかし千雪は相手に警戒心を呼び起こす前に、その懐に飛び込んでいくように見えた。
実際、千雪は転校以来、アリーナに足を運ばない日はないほどだった。平日の放課後だけでなく、土日も時間の許す限りシートの上に立っている。
この日も、授業を終えた和子達はアリーナで小学生を相手に指導を行っていた。
最初はリンクが物珍しくてふざけてばかりいた子供達も、今では千雪の言葉には素直に耳を傾けるようになっている。
常時顔を出す小学生は男女あわせておよそ十人ほどなので、メンバーをその都度入れ替えながら対戦をさせている。
各人の力量に目に見えた差が出てくれば、小学生代表チームを編成することも出来るだろう。将来のオリンピック代表選手候補達ということになる。
「長野屈指のプレイヤーって肩書きが、ええ方向に働いてるんかもねぇ」
千雪は、子供達にまとわりつかれて往生しながらもスウィーピングの動作を実戦して見せている。そんな姿に目を細めてゆかりが分析する。
「そんな凄い選手がわざわざウチの村にやってきた。それだけでなんとなくプライドを満足させてくれるから?」
「そんなところ。違うかな?」
「そうかも。でも、やっぱりあの熱心さに惹かれるのよ。わたし達だってそうでしょ」
最初はストーンに回転をかけて滑らせることすらままならなかった和子達も、それなりに見られるショットが出来るようになってきた。
もっとも、運動神経という点では人並み以下の和子は、スウィーピングの技術がいっこうに上達していない。和子自身、それほど自分に才能があるとも思えないし、自分の技量向上には、それほど熱心に取り組む気も無かった。千雪と同じ場所にいられれば、それでいいのだ。
ふと、千雪はどうなのだろう、と和子は思った。一流のカーリング選手として、それこそオリンピックを目指すのなら、こんなところで素人の指導に時間をとられていて良いはずがない。
和子の思いに気づいた訳でもないだろうが、スウィーピングをする小学生の背に回ってフォームを矯正していた千雪が、アリーナの壁にかかる時計に目をやって身体を起こした。手袋をした手をぱんぱんと鳴らす。
「今日はこれで終わりです」
「えー。まだ時間あるやん」
それを聞いて、千雪の指導を受けていた小学生男子チームの面々が、一斉に不満の声を挙げる。押しに弱い千雪は、それだけで言葉に詰まってしまう。
「悪いけど、わたし達は来週からテストなの。その間は、練習を早めに切り上げて勉強するようにって学校から言われてるの。ごめんね」
見かねて和子が助け船を出した。小学生の一人の頭を手袋をしたままなで回す。
「ちぇ、帰ろうぜぇ」
「ああ、あなた達は別に練習続けて構わないわよ?」
「千雪がおらんと、オモロない」
「こら。高校生のお姉ちゃんを呼び捨てにするな」
空音が、失礼なことを言った小学生の頭を捕まえて、ぐりぐりと振り回す。周りの小学生が爆笑した。
「試合やらへんほうがオモロないんと違う?」
空音が促し、小学生達を半ば強引にチーム分けして試合を始めさせる。
「終わったらちゃんと片づけするんやで」
と言い含めることは忘れない。
「自分で片づけるのが面倒だから押しつけたわね。案外と抜け目無いんだから」
和子はそのやりとりをみて肩をすくめた。
(六)
和子達が制服に着替えてアリーナの正面出入り口に出たところで、高野村長と出くわした。
「どうやら、なんとかそれらしい形になってきたようやね」
高野村長は引き扉をそっと開け、小学生同士で試合が行われている様を見て、満足げにうなずく。
「村長はやらへんのん?」と、空音。
「いやいや、なかなか時間がのうてな。それより、ちょうど良かった。淡海の女子カーリングチームに試合の申込があったんでな。それを伝えとこうと思ってな」
「ウチらと試合ですか!」
空音が鼻息も荒く喜色を浮かべる。
彼女が意気込むのも当然だった。これまで、仲間内で遊びのような試合をしたことしかない。本格的な対外戦は初の経験となる。
千雪は、和子達がどんなプレイをしても下手だとは決して口にせず、上手ですよとしか言わない。だから、その『上手』が全国的に見てどれほどのレベルにあるのか判断する術がないのだ。
「わたし達じゃないよ。淡海の女子チームって話でしょ」
和子が冷静なツッコミをいれる。
「んなこと言うたって、一番チームとしてまともなんはウチらやろ? 千雪もおるし。ゆかりにもはよ教えたらんとな」
「先走らないの。で、相手はどこですか」
いつもながらの空音を横に置いて、和子は高野村長に訊ねた。
「初島さんが所属していた『レディ・レックス』や。向こうも、初島さんがこっちでうまくやっているか心配しておるようでな。再来週に、親善試合の名目で顔を見に来るということらしい。せっかくやから、講習会でもしてもらおうかと考えとる」
高野の言葉に、一斉に千雪に注目が集まった。当の千雪は表情を強ばらせている。
「えっと、千雪が前に入っていたチームって、昨シーズン一部リーグ準優勝っていう? 初試合の相手にしては強すぎません?」
和子は千雪の困惑顔を横目に見ながら言った。
「こちらで相手を選べるわけではないし、これはただの親善試合。ハイレベルな技術を見せてもらえれば参考にもなって良いと思うが、どうやろ」
「良かったなぁ、千雪。友達が会いに来てくれるんやって」
が、空音に肩を叩かれた千雪は、傍目にも判るほど青ざめていた。
(七)
今では千雪もクッションその他の生活用品を買い揃え、学期当初はやや殺風景だった寮の部屋の中には、二人分の生活感が感じられるようになっていた。
「そろそろ始めようか」
カーリングの親善試合も気になるが、中間テストが間近なので、試験勉強もしておかなければならないのだ。
「よろしくお願いいたしますね」
千雪は神妙な表情で、深々と頭を下げた。
「やだなあ。千雪だって、そんなに勉強が苦手な訳じゃないでしょ」
小テストなどの成績を聞く限り、千雪の頭は決して悪くない。ただ、カーリングを村の人達に教えるのをどうしても優先してしまう為、勉強の時間が充分にとれないでいる様子だった。
一応、和子は一年生の間はテストで五番以下になったことがない。一年の時も同じクラスだった空音には、「もっと偏差値のええ学校にいけたのにウチみたいなところに来て、反則や」とよく文句を言われていた。
とはいえ、和子は事前の勉強も無しに試験に望めるような性格ではない。去年は一人で部屋を独占していたが、今年は千雪と二人での勉強会をする格好になっていた。
二時間ほどテーブルに向かい合い、和子の主導で勉強を続ける。
和子の見立ての通り、一度集中して取り組めば千雪の飲み込みはかなり速い。
「これぐらいにしとこっか。あんまりいっぺんにやっても効率悪いし」
和子は自ら終了の合図を知らせるように、シャープペンをノートの上に転がした。
「はい。ありがとうございました」
「そんなにかしこまらなくたっていいのに。……あ、そうだ」
「なんでしょう?」
「千雪って、アリーナでさ、小学生やおじさんおばさんを相手に指導をしている時とか、よく天を仰ぐでしょ。こうやって」
和子が天井を見上げてみせる。
「え……」
「そんな姿を見ちゃうとさ、ちょっと気になって」
和子としては、自然と複雑な心中を察してしまう。
もちろん人の胸の内など、そうそう理解できるものではない。しかし、千雪の置かれている環境を考えれば、なんの屈託もなく日々を過ごしているとは思えないのだ。
「なんか、悩み事でもあるんじゃない?」
「和子さんにはかないませんね。あれはわたくしの癖のようなものです。辛いときほどうつむかずに顔を上げていきたいという気持ちの表れです。顔を下げてしまえば視野がせばまり、あるべき道すら見えなくなってしまうような気がして……」
言いながらうつむいてしまいそうになった事に自分で気づいたのか、千雪はしなをつくるように首を傾げながらぎこちない笑顔を作った。
「やっぱり……。だいたいさ、千雪はどうしてこの村に来たの? あ、別にヘンな意味じゃないよ」
「それは、カーリングの指導の為――」
千雪の言葉を遮るように和子は首を振る。
「そうじゃなくて。聞きたいのは千雪の気持ち。わたし達は千雪にカーリングを教えて貰って嬉しいけど、千雪のほうはこんな低レベルで満足な訳?」
「それは……」
「あ、ごめん。責めてるんじゃないの。ただ、気持ちが知りたくて。特待生って条件につられてって話でもなさそうだし」
「和子さん、それは……」
千雪は自分の机においていた写真立てを手に取り、テーブルのところまで持ってきた。和子がそれを覗き込む。
「あ、前々から気にはなってたけど、なんとなく聞きそびれていたんだ、それ。長野にいた頃のチームメイトだよね」
カーリングのシートを背景にして写真に写っているのは六人。左端に男性が立っている他は全員女性で、同じデザインのジャージに身を固めている。千雪は中腰になって微笑んでいる。
「はい。前のシーズンが始まったときに撮ったものです。わたくしの隣に写っているのが加賀井さんです」
「ああ、この髪の毛が赤っぽい人ね」
「染めてるわけではなくて生まれつきだそうです。後ろの列の背の高い方がリードの左右田さん。その隣がセカンドの山根さん。右端がリザーブの周防さんです」
「男の人は?」
「コーチの不破さんです。加賀井さんの従兄弟にあたる方です」
「へぇ」
不破だけはきりりと顔を引き締めているが、女性五人は皆誇らしげな笑顔だ。そこからは一致団結した雰囲気しか感じ取れない。少なくとも、人間関係で揉めるような事があったとは思えない。
「それで、千雪達になにがあったの?」
「はい……」
千雪は何か言いかけ、ためらうように何度か唇を動かした後、黙り込んでしまった。
和子は慌てた。よほどの事があったのだろう。自分だってこの学園に来たいきさつは空音やゆかりにすら話していない。それなのに不用意なことを訊ねてしまった。
その困惑が伝わったのか、顔を上げた千雪はくるりと表情を明るくした。
「申し訳ありません、長野での事は今はちょっとお話する気になれません。ですが、一つはっきりと言えるのは、今は後悔していないということです。これまでは勝つことばかりを考えていました。むしろ、淡海に来てこういう形でカーリングに触れあえて、わたくしの視野も広がりました。今では、来て良かったと思っています」
その笑顔に、和子は自分のほうが胸をなで下ろす思いだった。膝立ちになっているのに気づいて、改めてクッションの上に座り直す。
「それなら、いいけどさ。でもやっぱり勿体ないよね。……せめて、わたし達のレベルがもうちょっとあがらないと、千雪も物足りないだろうし。頑張るよ。素質、無いかも知れないけど」
「いえ、楽しく参りましょう。それがなによりですから」
千雪は依然として笑顔を保っている。
その裏にどれほどの哀しみを隠しているのか、考えると和子は切ない気持ちになった。
今は無理でも本当の事を話してくれる日が来ればいいと願った。その時は、自分自身の過去も話せそうな気がして。
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