『Sweep! カーリング娘と雪女』
第六話




(十一)


 雨が、降り続いている。
 赤色と薄桃色の傘が二輪、重なり合うようにして濡れた道を進む。
 傘の持ち主は、和子と千雪。
 無惨な姿になった千雪の髪型を整えるため、カーリングアリーナから一番近い理髪店へと和子が千雪を連れて行った帰り道だった。
 並んで歩く二人はしばし無言だった。間を持たせるように口を開いたのは千雪だった。
「似合いますか?」
 傘を左手に持ちかえてから、右手を髪の先を切りそろえて軽くなったうなじのあたりにやりながら、千雪はそう尋ねる。
 彼女が自分でハサミを入れた際には、長髪を全て切り落とすには至らなかったのだが、結局は彼女自身の意思でショートボブになってしまった。その見慣れない髪型を目にしながら、和子は泣き笑いの表情で頭を振った。
「まったく、無茶するんだから」
「申し訳ありません」
「だいたい、どこからあのハサミが出てきたのよ?」
「あれは、前髪を切るのに使っていたものです」
「あ、あれって自分でやってたんだ」
「はい。他の方に髪を切っていただくのが苦手なんです。今日も緊張して手を握りっぱなしだったので、力が入らない状態です」
 苦笑を浮かべながら、千雪は傘の柄を肩と頭に挟み、両手の指を屈伸させてみせる。
「知らなかったな……。髪を伸ばしていたのって、そのせい?」
 和子の問いに、千雪がこくりとうなずく。
「カーリングをやるのに、長い髪が邪魔になることは判っていました。それでも、髪を短くしてまでやるのはどうかな、とずっと思っていました。侮っていると言われても反論は出来ません」
「そのこと、『レディ・レックス』の人達は知ってたの?」
「はい。何度も髪を切れと言われていましたから。特に左右田さんには」
「それじゃあ、その千雪が自分から髪を切ったらびっくりするわね。それくらいの覚悟だって事だもんね。わたしたちだって驚いたよ。えーっと、勝利の女神は前髪しかない、だったっけ? あれは幸運の女神、だったかな。とにかくまあ、そんな風に思えば、これはこれでいいのかも知れないけど……」
 改めて和子は千雪の髪をまじまじと見る。今までと雰囲気が違うのは確かだが、これはこれで悪くないような気もしてきた。元の素材がいいのだから、どんな髪型でも構わないと言えばそれまでだが。
「申し訳ありません。ああする以外に、約束を反古には出来そうもなかったので」
「ま、おかげで向こうもびっくりして引き下がってくれたけど。これからが大変だよ」
 和子は自分が口にした言葉の意味を改めて考える。愛里達が千雪を呼び戻すことをあきらめた訳ではないからだ。約束した三ヶ月後の再戦で和子達が勝てなければ、今度こそ千雪は長野へと帰らねばならない。
 それが判っているだけに、千雪はもちろん、和子の表情も冴えない。二人はとぼとぼとした足取りで寮の前まで戻ってくる。
「ああ、こんなにしてもうて……」
 前から悲鳴が聞こえて、和子と千雪は揃って顔を上げた。
 見れば、二人と同じように傘をさした空音が半泣きで立ちつくしていた。
「ご心配をおかけしました」
「心配とか、そんなん関係ないって。あぁ、せっかくの髪が、勿体ない事してもて……」
 傘を放り出して駆け寄ってきた空音は、背伸びしながら腕を伸ばし、短くなった千雪の髪をなでておろおろとしている。
「わたくしが切ったのは髪ではありませんよ」
 千雪の静かな声。意味の判らないゆかりと和子は顔を見合わせる。
「それって?」
「切り落としたのはわたくしの中途半端な気持ちです。未練もこだわりも、今日で全て切り捨てました。これからは皆様と一緒に全力を尽くして『レディ・レックス』を迎え撃つ為に練習に励むつもりです。ですから、そんな顔をなさらないで下さい」
 きっぱりと言い切る千雪の表情は、泣き顔の空音とは対照的に晴れやかなものだった。
 当人にそんな顔をされては、空音も渋々引き下がらざるを得ない。
「そ、そうなんか……? うん。えらい、千雪はええ事言うたわ」
 くるりと笑顔を作った空音が千雪の手をとって無理矢理に握手をして、ぶんぶんと腕を振り回した。呆気にとられる千雪の前で空音が声を張り上げた。
「おっしゃ。決戦は三ヶ月後や。今度は絶対に勝つで!」

 (十二)


 翌朝。日曜日。アリーナに和子の姿があった。
 自然教育園の滞在施設で一泊した『レディ・レックス』のメンバーは、朝食を摂ったあとすぐ長野に帰る事になっているらしい。
 和子が目覚ましの力を借りて起きたとき、千雪の姿は無かった。律儀な千雪は、愛里達の見送りをするつもりなのだろう。
 その思いを馬鹿にするわけではないが、あんな目に遭わされてもまだ親睦を深めようという気には、今の和子には到底なれない。出来るのは、自分の不甲斐なさを責めつつ、次で挽回する為に行動を起こすことだけだ。
「寮におらんと思ったら。朝から練習か。えらい熱心やな」
 チェック地の開襟シャツにショートパンツというラフな私服姿で、空音がリンクにひょっこりと顔を出した。
「だって、次は絶対に勝たなくちゃいけないんだからね」
 ショットの姿勢を崩して立ち上がった和子が伸びをし、それから膝の屈伸を数度繰り返す。超人的な体力が必要とされる競技ではないが、真剣にやろうとすればスポーツ選手の身体ではない和子にはキツい。
「ま、ワコが本気になったら、絶対に勝てるわぁ」
 空音は深く考えず、安請け合いする。
「まだみんなみたいにうまく出来ないけど、頑張って追いつかないとね」
 言いながら和子は再びショットの体勢に入った。左膝を外側に倒して身体をリンクに押しつけるように姿勢を低くしてハックを蹴り、ストーンを滑らせる。
 うまく回転のかからないストーンはずるずるとセンターラインから外れて、ハウスより手前でシートの横にはみ出す。
「あらら。昨日のミラクルショットはなんやったんや」
 空音のからかうような口振りにも、反論できない和子は肩をすくめるしかない。
「くやしいな。まだうまく滑るかどうか運任せのレベルだもの。ホントに昨日の最後のは奇跡みたいなものだった」
「体重のかけ方が問題なんやと思うよ。ウチも最初は勘違いしとったけど、腕の力で放り出す訳やないもん。あと、ウチとワコの課題は足腰の強化なんやろね。千雪はともかく、テニスで鍛えとるゆかりとちごうて鍛え方が足りん。ハックを蹴る勢いが足りんかったら、どうやってもストーンに力がない」
「なるほど。それにフォーム固めも大事だよね」
 空音に改めて教えてもらいながら、和子は基礎の基礎を再確認して練習を続けた。
「さっき空音はミラクルショットって言ったけど、ミラクルじゃなくて技術に裏打ちされた精度の高いショットが出来るようになりたいな……」
「せやな。期待してるで。ワコは頭もええねんから、作戦面でも気張ってもらわんと。よっしゃ、ウチも練習しよ」
 空音は更衣室へと駆け足で戻っていった。最初から練習する気で、ジャージを持ってきているらしい。それを苦笑で見送った和子は、表情を引き締め、改めてアリーナを見回した。
「今日からは、この場所が私にとっての生活の中心になる」
 そう、声に出してみる。
 期末テストという関門はあるが、それを乗り切ればもうすぐ夏休みがやってくる。
 持てる時間の大部分をカーリングの練習につぎ込む覚悟は決まっていた。千雪を守るためでもあるが、なによりも『レディ・レックス』にあれほどの目に遭わされて、馬鹿にされて、このまま引き下がるわけにはいかない。
 和子達に与えられた時間はあまりに少ないが、悩んでいても仕方がない。とにかく練習あるのみだ。
 空音と二人でしばらくああだこうだとやっている間に、小学生や村人達がちらほらと訪れ出し、愛里達の見送りを終えた千雪もリンクに姿を見せた。
 既に千雪が髪を切ったことは、細かな経緯はともかく村中に知れ渡っている。練習に来ていた村人達が彼女の髪型をみて、なんともいえない悲しげな顔になる。
 年輩の女性であろうが小学生であろうが、その思いに差は無かった。もうあの艶やかな長髪を見ることが出来ないというだけで、村の人達はがっかりしているようだった。
 それは和子達にとっても同様だったが、改めて言葉にはしない。
「どないやった?」
 髪のことには触れず、空音が訊ねる。何についての問いかけかを特定する単語が一切含まれない質問だったが、千雪はその語調だけで察しが付いたようだった。
「間違いなく三ヶ月後に来ると約束していただきました。正式な日時までは、まだ決まっていませんが」
「今から三ヶ月後だから、十月ぐらいってことになるかな。これだけの期間じゃ、地力で劣るのは仕方ない。けど、出来るだけのことはやりたいと思ってる」
 和子は空音と千雪の顔を見回しながら言った。この場にゆかりがいないのが気にかかったが、テニス部との掛け持ちだから仕方がない。
「せやけど、アンフェアな手はあかんねんな」
 頷いた空音が改めて念を押す。
「当然。けど、今度も向こうがこちらに来て試合をするのよ。サッカーでいうところのアウェーってこと。だから、わたしたちがホームゲームである優位を最大限に活かすことを考えたいとは思ってる」
「考えられる手は全部打つってことやな。で、具体的には?」
「まだこれから」
「なんや、頼りないスキップやな」
 首を振った和子の返事に空音が口をとがらせる。
「昨日の今日なんだから、そんなにすぐに思いつく訳ないでしょ」
「時期的には悪くないと思います。リーグ戦のはじまる前ですから、実戦勘が一番衰えている時期とも言えます」
 千雪がフォローを入れるように言った。たとえ気休めに過ぎなくとも、その心遣いが和子には嬉しかった。

 その後、昼になるまで三人はストーンを滑らせ続けた。
「ふぅ、腹へったー」
 ヤケを起こしたような空音の叫びが練習終了の合図だった。
「そろそろお昼ご飯にしよっか」
 和子の提案で、アリーナの敷地に隣接する自然教育園の食堂に足を向ける。都会から農業を体験しにくる人たちを受け入れている施設だが、地元でとれた農産物を使う食堂が中にあり、村民も自由に利用できる。
 食堂で注文した品の内訳は、空音が豚骨ラーメン、和子と千雪が天ぷらうどんだった。
 食堂とはいえ村の農家の主婦がパートでやっているような店だからそれほどメニューが多い訳でもないし、懐具合の問題もあって、みな質素なものだ。
 三人は食堂に並ぶ白いテーブルの一番隅の席に座った。
「これ、安いのはええねんけど、それだけやもんなぁ」
 空音が豚骨ラーメンの丼を見下ろしながらひとくさりする。
 もっとも、文句を言う一方できっちり割り箸をぱきりと綺麗に割り、胡椒をかける手を止めないので、いまいち真剣味が薄い。
 食堂の人に聞こえるよ、と和子が注意しようとしたが、それよりも先に厨房から出てきた食堂の店員が、エプロンで手を拭きながら話し掛けてきた。
(言わんこっちゃない)
 と和子は身構えたが、店員は空音に文句を言いにきた訳では無かった。
「娘がとてもお世話になっているそうで。これからも仲良くしてやってくださいね」
(え、それってどういう?)
 咄嗟に声が出ない和子にかわり、空音が胸を張った。
「まかしとき」
 お願いしますね、と何度も頭を下げながら店員は厨房へと戻っていく。
「だれ?」
 その後姿を見送ってから和子が小声で尋ねると、空音は意外そうな顔をした。
「ゆかりのお母さんやないの。知らんかったん?」
「へぇ、初耳」
 言いながら、さきほどみせた彼女の人懐こい顔を思い浮かべてみる。あまりゆかりのイメージと重ならなかった。

 しばらくの間、三人はそれぞれの思いを抱きながら麺をすすり、汁を喉に流し込む。
 器の底が透けて見える関西風のうどん出汁は、入学当初の和子にとってはちょっとしたカルチャーショックだったが、今では特に違和感もなく食べられるようになっている。千雪も関西の味付けに慣れるつもりなのか、敢えて和子と同じうどんを注文していた。
 その箸使いは相変わらず完璧で、汁を飛ばす気配すらない。ともすれば見とれてしまいそうになるので、和子は敢えて目の前の自分の器に集中する。
 結局、いつもの早食いを発揮して、和子が一番に食べ終えて器の上に箸を置いた。
「こういうのを作ってみたんだけど」
 持ち歩いている小物入れから小さなマグネット式の囲碁盤を取り出す。
「囲碁?」空音が眉間にしわを寄せる。
「机上演習をやろうと思ってね。昨日の晩にコンビニまで行って買ってきたの」
 盤面にはペンで同心円を描いてあった。カーリングのハウスを模している事はすぐに見て取れる。
「コンビニ言うても、井ノ坂のか?」
 呆れ声の空音に向かって和子はうなずく。井ノ坂とは淡海村の東にある三木市との境にある地名で、そこにあるコンビニエンスストアが淡海学園から一番近い。近いとは言っても、歩いていける距離ではない。
「バスに乗って隣の町まで出ないとコンビニにも行けないなんてね。たぶん帰りは終バスだったと思う」
 終バスとは言うものの、午後九時半頃の話である。
「ふうん。これでカーリングのシミュレーションをやるって訳なんやねぇ」
「そう。技術も大事だけど、作戦もおろそかに出来ないから」
 と、和子は今度は細かな数字が書かれた表と、サイコロを取り出す。
「次はなにを始めるん?」
「囲碁と違って、狙った位置にストーンがいかなくても、ほころびをつくろって戦術を立て直す柔軟性が求められると思うから。このサイコロで不確定要素を出す」
「おもしろなってったな。よし、ウチが敵の役をやるわ。っと、ちょっと待ってな」
 麺を食べ終えた空音がカウンターまで向かい、ご飯を追加注文して戻ってくる。
「またやるの?」
 和子がげっそりした表情になる。もちろん、空音が和子の考えを意に介すはずもない。千雪はこれからなにが起こるのかわからずきょとんとしている。
「ラーメンの後の即席おじやは、ウチの三大好物の一つやで。鍋物の後の雑炊はええのに、なんで誰も認めてくれんかなー」
 ぶつくさ言いながら、空音はご飯茶碗をひっくり返し、無造作に豚骨ラーメンの器にご飯を放り込んだ。
「!」
 空音の隣の席で千雪が口に手を当て、意志の力で悲鳴を押さえ込む様を和子は見た。
 千雪の背筋はむち打たれたようにピンと伸び、見開かれた目は空音の手元に釘付けになっている。
「ホンマはよう汁を吸わせてやらんといかんねんけどなー。冷やご飯のほうがええし。でも、ワコの持ってきたそれも気になるし、さっさと食べるわー」
 箸で器の中をぐりぐりとかき混ぜながら、空音は鼻歌まじりだ。到底、女子高生の所行とは思えない。それを見る千雪の顔から血の気が引いている。今にも倒れてしまいそうだ。
 やがて頃合い良しと見計らってか、空音は一気にこの即製豚骨おじやをずるずる音を立てて掻き込んだ。あっと言う間に器が空になる。
「よっしゃ、かかってきぃや」
 満足げにげっぷなどしながら、空音が口元をぬぐって和子の出した囲碁盤に身体を向ける。
「じゃ、じゃあ、わたしが先攻ね」
 さすがに何度見ても平然とはしていられない。どもりながら和子は狙う位置を宣言し、サイコロを振った。
 本来あるべきショットの強さとライン取りに対して、ぶれが出なければシミュレーションにならない。どの程度のぶれが出るかは振ったサイコロの目に基づき、和子自身が一晩かかってつくった誤差表に照らしあわせて実際に止まる位置を弾き出す。
 ハウスの前縁を狙って放たれたストーンは、やや左にずれ、勢いも強くてティーライン上にまで達した。
「マメやなあ、こんなんまで作って」
 言いながらも、空音も狙う位置を宣言してサイコロを振る。テイクアウトを狙ったショットだったが、これも外れてサイドラインを割った。
「ちょっと精度のぶれが大きすぎるんとちゃうか?」
「まだ試してる最中だからね。ばらつきを少なくして強いチーム用の一覧表も作るつもりではいるんだけど」
「さすがにウチらのスキップはぬかりないな」
 しばらく、空音を相手に机上練習をしていくうちに、和子はある事に気づいた。
「神の視点って、こういうことなのかな」
「加賀井愛里やったっけ? 千雪は、向こうのスキップがそれを持ってるて言うたなぁ」
「え、は、はい。真上からハウスを見下ろすのと、ハウスの上に立って周囲を見回すのとでは見え方が全く違ってきますから……」
 カーリングの机上演習もさることながら、空音特製の豚骨おじやの衝撃がよほど強かったのか、千雪の返事はどこか上の空だった。
「『神の視点』かぁ。身体はリンクの上にあっても、その目は遙かな高みから全てを見下ろす。そんな感じかしらね」
 和子はそんなことを呟きながら、ティー近くに食い込んだ空音のストーンに対するテイクアウトを狙ってサイコロを振った。全く誤差のないところに狙い通り飛び込んだストーンは、綺麗に空音のストーンを押し出した。
「わちゃあ……」
 厳しい一投を受け、戦局の不利を見て取った空音が額をぴしゃりと叩いた。
 結局、この一撃が効いて、和子が二点を奪ってエンドを終えた。
 とはいえ、しょせんは文字通りの机上の空論に過ぎない。こんな風に簡単にいけばよいのだが、と和子は自分が勝ってもさほど喜びを感じなかった。


 第七話に続く

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