『Sweep! カーリング娘と雪女』
第八話




(十五)



 八月の初旬。
 ゆかりが定期的にカーリング部の練習に加わるようになって、実戦練習の機会は飛躍的に増えていた。この日も午前十時半になって、テニス部の練習をそこそこに切り上げて合流したゆかりを加え、たまたまその日に千雪の指導を受けていたシニアチームと対戦することになった。
 シニアチームと呼ぶと聞こえはいいが、近所のおばちゃん達である。
 もっとも、力強いテイクアウトなどはないものの、ぴたりと狙った位置にとめてくる巧さを随所にみせるのは千雪の辛抱強い指導の賜だった。
 エンドの序盤で優位に立ち、後半はガードでしのぐ戦術が基本のようだ、と和子は油断しないよう気を引き締めてかかる。
 千雪と幾度と無く繰り返したシミュレーションで得た経験を活かして、ディフェンシブな中にも二点、三点を狙う大胆な手筋を織り交ぜていく。
 その結果、和子達は相手のミスにもつけ込み、四対二と競り勝った。
「よっしゃ」
 スウィーパーの空音が小さくガッツポーズしながら、和子の元にスライダーを滑らせて、笑顔でハイタッチする。しかし、遅れて近づいてきたゆかりは浮かぬ顔だ。
「勝つには勝ったけど、荒っぽくない? これじゃ『レディ・レックス』には通じないんじゃないの?」
「ごめん。とりあえず一度は勝っておきたかったから。それに、どの程度自分の作戦が通用するのか試しておきたかったし」
 練習に顔を出したら出したで、ゆかりはあれこれと注文が細かい。和子は閉口しながら、相手チームのメンバーに聞こえないよう、ゆかりにそっと耳打ちした。
「目標がもっと上にあることは忘れてないから、我慢して頂戴ね」
 ゆかりも不満げな顔ながらもうなずく。
「さ、掃除しよか」
 試合内容はともかく、勝って上機嫌の空音がストーンを片づけはじめる。
 勝ったチームが使ったシートを掃除するのがカーリングにおける暗黙の了解であり、従って和子達がクリーニングをすることになる。
「あ、ちょっと待って。それより先に」
「なんや?」
 和子に止められた空音が首を傾げるが、和子が指さした先を見て納得する。
 通路脇に置かれたホワイトボードの前に、千雪がシニアチームの面々を集めていた。
 これから試合の内容を振り返る研究会を行うのだ。ホワイトボード上のマグネットだけでなく、ストーンの実物がハウスにあったほうが話がしやすいだろう。それに、シニアチームがどのような戦術を立てていたのかを聞くのは、和子達にとっても大事なのだ。
「まず第一エンドのポイントとなったのは最終ショットです。ここでダブルテイクアウトを狙うのは悪くない手でしたが、ガードストーンの位置を考えると、慎重かつスピードに乗ったショットが必要になります」
 千雪が、青と赤のプラスチックカバーがついたマグネットを、ホワイトボードに描かれたハウスを模した図の上に滑らせる。実際のハウスにもストーンが残っていて、それを和子達が模式図に会わせるような形に動かしていく。
 千雪は当たり前のように説明しているが、全てのエンドにおけるショットとストーンの位置関係が頭の中に入っていなければ出来ない芸当である。一つのショットで複数のストーンが動くこともあり、囲碁や将棋のように棋譜を残せるものでもない。
「いやあ、ちょっと難しいとは思ってたんやけどなぁ」
 シニアチームのスキップが照れ笑いを浮かべ、周囲の失笑を買う。
「神の視点かあ……」
 ホワイトボード上の模式図とハウスとを見比べながら、和子は思わずそう呟いていた。
 ホワイトボードを使うのは、ハウスを真上から見ることで戦術の理解を助けるためだ。愛里ほどではないにしても、千雪にも実際のハウスを見ているだけで、ある程度は位置関係を把握する能力があるのだろう。その説明にはよどみがない。
 が、肝心の和子は、ハウスに散らばるストーンを見ているだけでは、高度な戦術を考えるだけの空間把握がまだうまく出来ない。マグネット囲碁盤が頼りだ。
 ゆかりに釘を刺されるまでもなく、シニアチームに勝ったところで浮かれている場合ではないのは確かだ。
(相手のレベルがこっちより下だったから勝てたけど、ゆかりが言った通り『レディ・レックス』には通用しない……。判ってるんだけど、わたし達の力じゃ、そう積極的な戦術は取れないし)
 和子は、半ば無意識のうちに千雪の真似をして天を仰いでいた。
 辛いときこそ顔を上げる。
 それは千雪が口にした言葉だ。うつむいていては見えない道筋を、視野を広げて見つけだしたいという願いを込めるのだ、と。
 いい言葉ではあるが、実践はなかなかに難しい。
 もちろんアリーナの中であるから、天を仰いでも目に映るのは空ではない。無粋な骨組みがむきだしになった天井と、こから吊り下げられた照明だけだ。
 テレビ中継のように高い位置から垂直に見下ろすことが出来るなら、愛里の『神の視点』に対抗できる。しかし、まさか試合中に天井の骨組みによじのぼってリンクを見下ろす訳にはいかない。
「せめて、わたし達に有利ななにかがあれば、それを最大限に生かして戦えるのにな」
 そう考える和子の耳に、シニアチームの選手達があげる笑い声が飛び込む。その途端、ひらめくものがあった。
「……そうか」

 やがて研究会も終わり、改めて和子達は片づけをはじめた。
 実のところ、毎日使っているブラシやスライダーは、千雪のものを除いては、アリーナが管理している公有物である。
 毎回使う用具が変わっても困るので、無断で専用扱いにして手元に取り込んでしまっている。もちろん、借り物であるという意識はあるから、手入れは特にきっちりとしておかねばならない。
「マイブラシにマイスライダー、か。欲しいけど、このあたりじゃ売ってる場所もわからないもんね」
 和子の口からそんな独り言がもれる。
 バックライン側の通路奥に置かれたベンチに腰掛け、スライダーの底面をウェスで丁寧に磨き、ブラシの毛が抜けかかっていないかをチェックする。
 そこへ高野村長が村役場の職員を連れて顔を出した。
「練習のほうはしっかりやっとるようやね」
 高野は満足げに目を細めながら言った。
 和子達の真剣な練習ぶりは、そうせざるを得なくなった経緯を含めてアリーナに足を運ぶ村人にも伝わっている。皆、千雪を大事に思っているから、和子達にも期待がかかるし、用具の私物化などについても可能な限り便宜を図ってくれる。
「もちろんです。ただ、実力差を短期間で埋めきるのはやはり無理があると思います。そこで……」
 和子は、さきほど思いついたプランを幾つか高野に説明した。
「いまや初島さんは、村にとってもかけがえのない人材です。むざむざ返したくありません」
 和子の締めくくりの言葉に、高野村長は静かにうなずいた。
「出来るだけの支援はするつもりや。参考にさせてもらう。せや、忘れるところやった。君らのユニフォームが出来てきたんでな」
 村長が直々にユニフォームを発注して届けてくるところに、いかに期待がかかっているかを否応なく思い知る。
 村役場の職員が、リンク後方のベンチ横に段ボール箱を置いた。
 その中から取り出したユニフォームに、和子達は目を輝かせた。
 赤を基調とする『レディ・レックス』に対抗するように、和子達に与えられたのは紺青色のユニフォームだった。
「いくらユニフォームと言うてみたって、ジャージはジャージやからなぁ。恰好ええも悪いもないねんけど」
 そう言いながらも空音はまんざらではない様子で、早速ビニール袋を破ってジャージを取り出し、サイズを確かめている。
 胸に淡海学園の校章が入ったジャージと白地のポロシャツの背中には、それぞれの名前がローマ字で記されている。
 大抵の団体競技であれば名前の下には背番号が書かれているのが普通だが、カーリングにおいては背番号という概念がない。
 名前だけのユニフォームはどこか間が抜けているように見えなくもなかったが、これはこれで仕方がない。
 事実、公式ルールである日本カーリング協会競技規則をひっくり返してみても、『ストーンが割れた場合の判定』という、なにもこんなことまで、と思うような細かな記述がされている一方、試合時の服装に関する規定は何もないくらいである。カーリングほど、ユニフォームに無頓着な競技も珍しいだろう。
「試合の正確な日程も決まったで。十月十一日の土曜日、時間は午後二時半」
 それぞれが自分のユニフォームを手にしている様に目を細めた高野が、大事な情報を付け加えた。
「あと、一ヶ月半ですね」自然、和子の表情は真剣なものになる。「それで、さっきの話なんですが」
「判っとる。なるべく早急に手配する」
「お願いいたします」
 もしかしたら和子の考えているのはフェアな手段ではないのかもしれない。しかし、思いつく限りの方策を立てなければ、馬鹿正直に戦うだけでは絶対に勝てないのも事実だった。

 和子達は早めの昼食を取ったあと、午後からも別のチームと二試合をこなした。
 相手チームの時間の都合もあって五エンド制の短い試合だったが、一日に三試合もやると、握力は失われ、利き腕が持ち上がらなくなるほどに疲れるのも事実だ。
 そのせいで惜しくも三試合目は落としてしまったが、二試合目は和子の攻めの采配が功を奏して勝利をもぎ取っていたこともあり、皆の表情は明るかった。
「思ったんだけど、『レディ・レックス』って、すごく強かったんだね。こんなこと、今更すぎるけど」
 四人揃っての帰り道で、和子がためいき混じりに呟く。
 ショットの正確さ。巧みなスウィーピング。先の先を読む戦略眼。当たり前のこととはいえ、『レディ・レックス』は、村のチームとは比べものにならないほど高度な技術を持っている。
 『神の視点を持つカーラー』という愛里の異名は伊達ではない。そのことを今になって思い知る。対戦した時は初めての試合で舞い上がり、相手のすごさを客観的に認めるどころではなかったのだ。
「それはウチも思った。ありゃ、とんでもない連中やわ。それに前の試合の時は、たぶんまだ本気を出してへんかったな」
「確かに。この前にやったときはよく判らなかったけど、今日の練習試合ではっきりと思い知った感じね。でも、それだけアタシたちのレベルも上がってるって事でしょ。向こうのすごさが判るほどには、カーリングの奥深さが見えてきたって訳だし」
「その通りですよ」
 ゆかりの言葉に、並んで歩く千雪がしみじみとうなずいている。スキーもスケートも経験した事がない年輩の男女を相手に、曲がりなりにもカーリングの試合が出来るようになるだけの技術を教え込んだのだ。勝ち負けだけの問題ではなく、感慨深いものがあるのだろう。
「結局、ワコがいちばんカーリングにハマったな。最初はなんやテキトーにやっとったくせに」
 空音の少し意地悪げな言葉。だが和子はあっさりとうなずいた。
「そうかも。でも、空音もゆかりもそれぐらいハマってくれないと、今度の勝負に勝てないんだからね」
「ま、熱心さはともかく、一番練習が必要なのが誰かは言うまでもないと思うけれど」
「うぅ」
 ゆかりのきつい一言に、今度は和子も切り返せず口ごもる。その様子にゆかりが「冗談よ」と明るい笑い声をあげた。


(十六)


 夏休みが終わり、二学期を迎える。練習漬けの日々ではあったが、和子達は合間を見ては各教科からこれでもかと出された宿題もこなし、始業式の時点で全て片づけていた。
 和子は小学校当時から、夏休みの宿題は遅くても八月の上旬にケリをつけなければ気が済まないタイプだった。空音あたりは和子の宿題を伏し拝むようにして書き写していたので、小・中学校時代がどんな風だったかは訊かなくても判った。
 その間に、高野は約束通り、迅速に和子の策を実行に移してくれていた。
 それは、アリーナ正面入り口横の掲示板をはじめ、村役場、公民館、学園、雑貨屋、農協、消防団詰め所等々に、ポスターが張り出すというものだった。
 十月十一日に長野一部リーグ準優勝チーム『レディ・レックス』と淡海村代表として淡海学園女子カーリング部が対戦するので、皆で応援しようとの旨が書き記されている。
 人口二千人の村で、六百もの観客席をもつアリーナが満員になるとも思えなかったが、一人でも多くの人が自分達を応援してくれるのであれば、それだけ相手にとってプレッシャーになる。和子はそう考えていたのだった。

 本戦の前日になって、和子達は淡海学園主催の壮行試合を行った。相手は淵上が率いる淡海学園の男子チームである。
 淵上達はカーリング部という形式はとっていないが、男子テニス部から一人、他にも体育会系の部活動からそこそこ腕の良い面子を二人集めた混成チームとなっている。
 それでも残念ながら力量は和子達のほうが上だ。淵上達は男子だけあってショットにはパワーがあるものの、それを武器にするには大ざっぱすぎた。
 作戦の厚みもスウィープの精度も、『レディ・レックス』などとは比べ物にもならない。
 六エンド制で試合を始めたが、第六エンドを行うまでもなかった。
 甘いガードをすり抜けてのテイクアウトやカムアラウンドが面白いように決まる。五エンドが終わった時点で十一対一と一方的なリードをつけた。
 一エンドでの最高可能得点は八点だから、この時点で和子達の勝利である。
 和子達の実力がそれだけついてきたと考えるべきなのだろう。目的意識の差がそのまま結果にも現れたとも言える。
「参った。ここまで差がつくとは正直なところ、思わんかった。よう鍛えとるなぁ。練習にならんで済まんかったわ」
 淵上が肩を落として頭を振ると、それが合図であったかのように応援に来ていた百名ほどの生徒から暖かな拍手が起こった。
 皆、和子達の健闘を期待していた。淡海村の代表であると同時に、学園の代表でもあるのだ。
「よぅし。明日もこの調子やで」
 空音が気負った声を挙げるのとは裏腹に、和子は自らの肩に背負う重圧を思った。

「ちょっと前に芝辻に聞いたんやけど、カーリングでオリンピックに出たるって啖呵切ったんやってな」
 ストーンの片づけを始めた和子をさりげなく手伝いながら、淵上が小声で訊ねてきた。
「あ、はは。あれは成り行きみたいなものだから。でも、冗談で言ったつもりもないよ」
 ああ見えて案外、ゆかりもおしゃべりなんだから、と和子は内心でだけ顔をしかめる。
「そうか。高校を出たら、そのあとはどうするんや。カーリングの強いところに就職するつもりか」
 いきなり真剣な表情で訊ねてくる淵上に、和子は驚いて顔を上げた。
「そんなこと、まだ決められないよ。ここに残ったまま、ずっとカーリングが出来ればいいんだけど」
「初島かて、卒業したら長野に帰るんやないか。それに付いていく訳にもいかんやろ」
「うん……」
 和子はうつむいて力のない返事をするしか出来なかった。
「俺は卒業したら北海道の農業大学に行く。酪農を勉強して、親父の後を継がなあかんからな」
「え、そうなんだ」
 和子は思わず淵上の横顔を見つめた。明確なビジョンを持っている淵上のことが、少し羨ましくなり、同時に眩しく思える。
「わたしはやっぱり進学かな。カーリング部か同好会がある大学、探してみようかな」
「お、本気でカーリングに人生賭ける気やな。先も大事やけど、明日も頑張れよ」
 和子には淵上の笑顔がどうにもまぶしくて、はっきりとした返事が出来なかった。そして、そんな二人のやりとりをゆかりが横目でちらちらと伺っていることにも、まるで気づいていなかった。

「明日の試合、もし負けたら、千雪とはこれでお別れになってしまうんだよね」
 その晩。夕食と入浴を終えた後、和子と千雪は寮の部屋で囲碁盤での机上演習を行いながら、静かな時間を過ごしていた。
「大丈夫ですよ。わたくし達はきっと勝ちます。その為に、一生懸命に練習してきたではありませんか」
「そうだね。自分を信じるしかないよね」
「ええ。ところで、さきほどの練習試合が終わった後、淵上さんと何をお話されていたのですか? ゆかりさんが少し気にされてましたよ」
「え、えっと。将来のこととか聞いてたんだけど」
 不意に訊ねられて、和子はどぎまぎとしながら応えた。
「まぁ。お二人は将来を約束された仲でしたの? わたくし、全然知りませんでした」
「違うわよ! もう、そんなボケ方しないでよ」
「はい、失礼いたしました」
 慌てる和子の様子に、千雪がくすくすとしのび笑いを漏らす。緊張をほぐすための冗談であることは和子にも判っていたが、千雪にしてはタチが悪い。泡を食ってしまったばつの悪さもあって、和子は肩の力を抜いてため息をついた。
「まったく……。そうだ、今なら、話してくれるかな?」
「え?」
「千雪がここに来ることになった理由。あんまり詮索されたくないことだろうとは思うけど、もし明日の試合で負けたら、その事を聞けないままになっちゃうかも知れないからさ。厄払いだと思って、聞かせてよ」
「お話しすることで厄払いになるのでしたら」
 千雪は苦笑しながら、リーグ最終戦での出来事を語って聞かせた。愛里のストーンが思わぬ減速をみせ、相手のナンバーワンをテイクアウト出来なかった、あの痛恨のショットの話だ。
「それって、加賀井さんがミスショットをしたってことじゃないの? それでどうして千雪が責任を感じなきゃならないのよ」
 話しながらも、やはり辛い過去であるせいか、どんどんうつむき加減になっていく千雪を見かねて、和子は途中で口を挟んだ。
「わたくしもその時はなにが起こったのか判りませんでした。愛里さんのショットにウエイトがかかっていなかったのか、とも。ですが、原因は他にあったのです」
 千雪は押し殺した声で真相を話し始めた。思いは半年以上前のあのリンク上へと飛ぶ。

「どうして……。完璧にラインに乗っていたのに」
 山根が頭を振りながら、脱力したようにハウス上にしゃがみ込む。
「氷のコンディションが悪かったのかな」
 その横にやはりかがみ込んだ左右田も、納得できないと言いたげにティー周りを覗き込んだ。
「ごめん。ミスった」
 向こうのホッグラインから、顔をしかめた愛里がブラシでバランスを取りながらスライダーを滑らせて近づいてきた。
 その表情を見ているだけで千雪の胸が締め付けられるように痛む。愛里にこんな顔をさせたくなかったのに。
「いえ、愛里さんのミスではありませんから――」
「その通りよ」
 千雪の慰めの言葉は、左右田の冷えた声に断ち切られた。
「え?」
「これを見て」
 左右田は、ティー付近で力つきて止まった愛里のストーンのハンドルを持つと、体重を掛けてストーンを傾け、底面を千雪達に見せた。
「あ……」
 千雪は息を呑んだ。
 ストーンの底面に、一本の髪の毛がとぐろをまくようにして絡んでいた。その髪の毛を、左右田が手袋をした左手で引き剥がして、立ち上がった。さらに左腕を突き出し、千雪の前に髪の毛をかざす。
 癖のない長い髪の毛を目の前にして、千雪の顔から血の気が失せる。
「この長さから言って、あなたの髪よ」
「……っ」
「だから、その髪を切りなさいって何度も言ったのよ。こういうことがあるから!」
 抑えきれない怒りに満ちた左右田の剣幕に、千雪はたじろぎ、後ずさった。
 カーリングにおいては、髪の毛一本がストーンに噛んだだけで滑りが悪くなる。だから、たとえストーンのスピードが充分であっても、進路上のゴミを取り除くために『クリーン』と呼ばれる軽いスウィーピングを行う場合もある。
 どの時点で千雪の髪がリンク上に落ちたのかは判らない。しかし、腰に届くほどの長い髪でなければ、勝敗を左右するほどの障害物とはならなかったかも知れない。
「す、すみませんでした……」
 責任の重さに押しつぶされそうになりながら、無意識のうちに千雪は愛里に救いを求めていた。自分をカーリングに誘い、一から根気よく指導してくれた愛里は、常に自分の味方だった。
 髪を切れと言われ続けた千雪をかばってきたのも愛里だった。責任を転嫁するつもりなどない。ただ、「気にしなくていいよ」と一声かけて欲しかった。
 しかし。
 愛里は背中を向けたままだった。うつむいた横顔は、これまで千雪の肩を持ち続けてきた事を後悔しているようにも見えた。
(愛里さん……)
 千雪は言葉もなく、見えない壁に拒絶されたかのように立ちつくすばかりだった。


「そんな事があったんだ」
 単に一試合を落としただけでなく、リーグ優勝を逃し、A指定を受け損ねた原因がただの髪の毛一本だったという話は、和子の想像を絶するものだった。今の自分には、到底及びもつかないハイレベルな試合だったのだろう。
 千雪は、話し終えるときにはすっかりうなだれてしまった。前髪に表情が隠れる。
「けど、やっぱりそれは不可抗力よ。千雪が気に病むことはないよ、きっと。そんなの、責任を千雪一人に押しつけたのって、どうかしてるよ。チームメイトのすることじゃない。……けど、そうか。だから左右田さんはあのとき謝ってたんだ。自分達が悪いことを、頭に登っていた血が冷めた時にはちゃんと判ったんだね」
 和子は小刻みに震える千雪の肩を撫でる。膝の上に乗せた手に視線を落としてうつむいていた千雪が、涙をこらえるように天井を振り仰いだ。
「チームの皆様には、会わせる顔が無いと思っていました。ですが、カーリングを辞めることも出来ずにいました。そんなところに、ちょうど淡海学園がカーリング特待生を募集している事を知り、渡りに船とばかりにお受けしたのです」
「そうだったんだ……」
「結局、わたくしは逃げてきただけなのです」
「そんな」
 そんなことはない、と言いかけて和子は言葉が続かなくなった。
 千雪はカーリングのリンクに立つ度に、その忌まわしい記憶と戦わねばならないのだ。カーリング特待生である以上、かつて彼女を追いつめた仲間の元から離れる事は出来ても、カーリングそのものからは決して逃れられない。
 それが判っていながら特待生としての道を選んだ千雪の思いなど、和子が簡単に判断できるものではない。
「さあ、夜更かしして寝不足で試合をやることになっては、勝てるものも勝てなくなってしまいますよ」
 千雪が自分を奮い立たせるような明るい声を出し、和子をベッドへと追い立てた。もちろん千雪もハシゴを使って二段ベッドの上の段に潜り込む。
 電気を消してしばらくして、しんと静まり返った空気をやぶるように、意を決した和子が重い口を開く。
「あの、さ。千雪に話しておかなきゃならないことがあるんだ」
「なにか秘密でも隠していましたか?」
 和子に過去のことを話したせいか、二段ベッドの上に横になる千雪は、少し悪戯っぽい口調で聞き返してくる。
「秘密ってほどじゃないけど。私がこの学校に来た理由をね。聞いておいて欲しいな、って思ってさ」
「お身体が弱いので、空気の悪い都会の学校には行けない、というお話でしたね。……ですけど、カーリングをずっとやっていて大丈夫でしたか」
 今になって気づいた、といわんばかりに千雪が訊ねてくる。
「それなんだけどさぁ。喘息気味だったのは確かだけど、ホントはそんなに身体が弱い訳じゃないんだ。けど、たまたま受験の時に体調を崩して、試験に全部落ちちゃったの。いくらなんでも浪人させられないって、親が焦ってこの学校を見つけてきたってワケ」
「和子さんのご実家は関東でしたわね。こちらまで来られなくてもよろしかったんではないですか?」
「たぶんね。けど、中学の時はそれなりに勉強とか出来たから、結構期待されてたんだ。偏差値の低いところには行かせられないからって、私の親は、要は言い訳を考えたのよ。……身体が弱くて普通の学校には行けない、って。だから、家の周りの人達が誰も知らないような遠くの田舎の学校がちょうど良かったってこと」
「なんだか、ひどい話ですね。まるで島流しのような」
「けど、私は結局それを受け入れた。自分で自分の生きる道を見つけられなかったから」
「和子さん……。それって」
 千雪が身体を起こし、身を乗り出して下の段を覗き込んだ。頭の下に自分の両肘を組んだ恰好で仰向けになっている和子と、暗がりの中にもかかわらず目があう。もっとも、和子は眼鏡をはずしているから、千雪の細かな表情まで見えているわけではなかったが。
「うん。ま、わたしも千雪と似たような状況だって事が言いたかっただけ。でも、少なくともわたしはここに来たこと、後悔してないよ」
 こくりと千雪がうなずいた。
「それはわたくしも同じです」
 二人は互いの顔に笑みが浮かぶのをはっきりと見た。千雪だけではなく、眼鏡をかけていない和子にも、その思いをはっきりと心で感じ取ることが出来たのだった。



 第九話に続く

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