『バトル・オブ・甲子園』
第一話”始動”




 「人類の闘争において、かくも多くの人々が、かくも少数の人々にかくも多くのことを負ったことはなかったであろう」
 ――ウィンストン=チャーチル





(1)


 大栄高校は敷地内に多くの桜の木が植えられていることで、地元では有名だった。折しも春、暖かな午後の陽光の下、桜の花が微風に煽られて舞い散り、新入生を迎えて新たな学期が始まったことを実感させる。
 入学式を終えた新入生達は各自のクラスを確認し、今期から使用されるという真新しい校舎に入る。教室で担任教師と初対面して今後の課程に関して簡単な説明を受けた。さらに担任の指示で各人が名前と出身中学を名乗りあう自己紹介を済ませたところで、当日の義務から解放された。
 その後、八クラス、総勢三二二名からなる彼らは二つのグループに分かれて行動することになる。まっすぐ帰宅の途につく者、そして、高校生活三年間を大きく左右するであろう、クラブ選びに向かう者である。
 一年二組・高梨内記は後者であった。もっとも、彼の心中では、入るべきクラブは既に決定している。すぐに部室の方に向かっても良かったのだが、客観的な目で練習風景を見ておこうと思い、偶然同じクラスになった中学以来の悪友・市川秀と共にグランドの方に足を運ぶ。

「あ、高梨君に市川君じゃない。こんなところでどうしたの?」
 ふいに明るい声を掛けられたとき、グランド沿いに植えられた桜の樹の下からグランドの光景を眺めていた高梨には、相手が誰か判らなかった。
 振り返ると、記憶の隅に引っかかる顔があった。が、名前を思い出せない。
「……えっと、誰だっけ?」
 彼女――綾瀬七菜と名乗った――は少し残念そうな表情を見せていた。
「これでも一応、クラスメイトなんだけどな」
 高梨は、へえ、という顔をしたが、特に言葉もなかった。
「高梨君って、名前、”ナイキ”って言うんでしょ? 自己紹介の時、ちょっと変わった名前だなって思って、すぐに名前覚えちゃった」
「まあ、よく言われるけどね。で、なんの用だっけ?」
「そうそう、それ。高梨君は部活動、どうするか決めたの?」
「俺? 見ての通り、野球部だけど」
 高梨が、グランドで練習を行う野球部のほうに軽く顎をしゃくってみせる。
 彼にとっては考えるまでもなかった。中学時代も野球部で、三年では主将だった。選手層が薄かったこともあって、キャッチャー以外のポジションは大抵こなすオールマイティーなプレイヤーだったのだ。
 ここ大栄高野球部はお世辞にも強豪とは言えない。春夏共に、甲子園への出場経験も無い。地区予選を勝ち抜いて甲子園に向かう為の道のりはかなり遠いものがある。
 もっとも、高梨自身は何が何でも甲子園に、とまでは思い詰めていない。楽しく野球が出来れば文句は言わない事が信条であった。中学時代、余りに楽しくやりすぎたせいか大した記録を残せていないことも、気にはしていない。
「へえ、もう決めてるんだ」
 綾瀬が意味ありげに何度も頷く。
「こいつはもう、野球部ってガチガチに決まってるんだぜ、そんでもって俺とバッテリー組むんだ」
 不意に高梨の首に背後から腕が巻き付いてきた。
「なんだよ市川、うっとうしいなぁ!」
 高梨が声を挙げて市川の腕をふりほどく。
 市川は中学時代、高梨とバッテリーを組んでいたのだ。
「なあ綾瀬、何やるか決まってないなら、野球部のマネージャにならないか?」
 高梨の抗議を無視して、市川が尋ねる。
「マネージャーか……」綾瀬が顎に指を当てて考える仕草をする。「中学の時はソフトボール部だったんだけどね……。ちょっと他の部もみてから考えようかな、って思ってるの」
 綾瀬が高梨の様子をうかがうように視線を向ける。このとき、高梨達は大栄高のソフトボール部が全国大会出場経験を何度も持つ強豪であることを知っていれば多少反応も変わっただろう。だが当の高梨は、気のない調子で二度三度うなずいてみせただけだった。
「じゃ、私は別の所も回ってくるから。私が言うのもヘンだけど、入部を決めてるんなら挨拶は早めにしておいたほうわよ」
 綾瀬はそう言い残して、体育館の方へと足を向けた。 
「いい線いってると思わないか?」
 綾瀬の姿が後者の向こうに消えたのを見計らって、市川が顔をニヤつかせた。
「何が?」
「綾瀬だよ、少なくとも今日一日、校内を見回した限りはベストだぜ。容姿・性格、文句無しだ」
「お前は相変わらずだな」
 高梨がげんなりとした顔を見せる。高梨にしても真面目一辺倒にはほど遠い性格だが、時折市川の調子の軽さに辟易するときがある。
「そういうお前もな。まったく、ボール追いかけてるだけで幸せなんて、安上がりでいいよな。男なら、野望の一つも持っていた方がいいぜ」
「野望ねえ。市川の場合は甲子園か?」
「おうよ」市川が胸を張る。高梨とバッテリーを組み、甲子園に出場する。中学時代から、常々市川はそう公言していた。高梨には、何が何でも甲子園へ、というこだわりはない。むしろ勝つことにこだわって楽しく野球が出来なくなるのは困ると思っている。
「ま、ここで話をしていても仕方ない。部室の方へ行こう」
 高梨が促し、二人はその場を離れた。

 校舎の裏手にある、コンクリートブロックが剥き出しの無骨な二階建ての部室棟。その一番西側の部屋が野球部だった。
「失礼しますっ!」
 市川がノックし、二人して大声をあげる。
「あいてるぞ、入れ」
 中から野太い声が聞こえた。高梨がドアのノブを持ち、ドアを開ける。
「入部希望か?」
 中には大柄な部員が一人だけいた。背番号1をつけた練習用ユニフォームを着ている。
「はい」二人が声を揃えて答え、それぞれ名前とポジションを名乗る。
「慌てるな。入部希望の用紙に名前とクラスを書いてくれれば良いからよ。キャプテンの正岡だ。ちょうど今から練習に出るところでな。ついてこい」
 ごつい顔に不敵な笑みを浮かべた正岡が二人を連れて部室を出る。高梨の顔を間近で見たとき、おや、という表情をみせたが、すぐにそれは消えた。
「最初に行っておくが、我が野球部を弱小と侮って、練習も楽そうだと考えているなら大間違いだぞ」
 歩きながら、正岡が後ろに続く二人にそう言い放つ。
「覚悟の上です」市川が調子よく答える。正岡は鼻で笑った。
「少なくともこの二年間では、新入部員の半分は一月持たずに辞めていく。それだけハードな練習を行っている。何しろ、目指すは甲子園だからな」
 正岡はエースナンバー1を背負う、名実共にチームの大黒柱だった。その男の言葉には冗談のカケラも感じられない重いものがあった。
「大丈夫かな? ついていけるかな?」
 高梨が小声で市川に尋ねる。
「心配するなって。ダウンするときはお前より俺のほうが先だ」
 市川が励ましともつかぬ言葉をささやき返す間に、三人はグランドの角にあるバックネット裏にまで来ていた。
 と、ふいに市川が高梨の肩を叩く。
「見ろよ」
「なんだ?」
 市川が指さした先には、外野でシートノックを受けている選手がいた。
「お、ありゃあ樋口じゃないか!?」
 樋口は高梨達と同じ一年生の筈である。
「なんで今日からもう練習に参加してるんだ?」
「あいつは特別だ。春休みから練習に出てきてるんだ。監督曰く、野球部久々の逸材だそうだ。特に我が野球部は、昨期まで校舎改築の煽りを喰って外野の守備練習がままならなかった。外野陣にとっては良い刺激になるだろう」
 高梨達の会話に、正岡が割り込んだ。言葉とは裏腹に表情は冴えない。
 大栄高監督・志摩は国語の教師であり、部の指揮を専門としている訳ではない。その指導はあまり熱心とはいいがたい。
「だそうだ、って、事実あいつは大したバッターですよ? 何度もやられましたから。なあ高梨?」
「まあ、そうなるかな……」
 市川の言葉に、高梨は軽く口をとがらせて不承不承うなずく。相手のことを褒めるのは好きじゃなかった。
「ほう。お前らはアイツと対戦したことがあるのか。ま、その辺りの話はそのうち聞かせて貰うさ。ともかく、ヤツは監督の知人の息子らしくてな。その分評価が高くなるらしい」
 正岡もまた、余り良い顔をしていなかった。根っからの実力主義の男なのだった。
 とはいえ監督の知人とは言うものの、そもそも大栄高野球部にとって監督の価値はそれほど高くない。練習メニューの作成や、練習試合等の取り決めは大抵が主将の役目となっているからだ。
「ま、味方でいてくれるのは歓迎しますよ」
 高梨が、当たり障りのない言葉で樋口の話題をうち切った。
「ところで、だ」
 しばらく難しい顔つきで樋口の守備を見ていた正岡が声音を変えた。
「さっきお前らが話していた女子だけどな、同級生か?」
「はあ?」
「いやなに。実は我が部には女子マネが不在でな。出来ればああいうしっかりした感じの女子にマネージャーをやってもらいたいと思ってだな」
 妙に上擦った声で言う正岡の顔つきは、さきほどまでの不敵な感じから一転、情けないものになっている。
「そういうことなら」市川が胸を叩く。「俺に任せて下さい。ああ、高梨はこういうことやらせても役に立ちゃしませんから」
「そ、そうか。頼む」心なしか顔を赤くしていた正岡が安堵の表情を見せた。
「あの、それで入部希望者の用紙は……?」高梨が尋ねる。
「おっと、忘れるところだった」正岡が調子を取り戻したような声を出した。「おーい、山口! 入部希望者が来たぞ! 紙持ってこい!」
 正岡が呼んだのは、ウインドブレーカーを来た小柄な部員だった。手板とボールペンを持って駆け寄ってくる。
「じゃ、俺は練習に行くから。お前ら、名前書いたら今日は帰って良いぞ。明日からみっちり絞ってやるから覚悟しろ。あ、マネージャの件は頼むわ」
 正岡は早口で言いたいことだけ行って、ランニングを始めた。入れ替わりにやってきた山口が手板を二人の前に差し出す。
「マネージャが入ってくれると、俺も練習に復帰できて大助かりなんだけどな……」
 山口が名前を書き始めた二人の前で小声でぼやくのを聞いて、高梨と市川は顔を見合わせていた。

(2)


 その日は練習に参加することなく、下校することになった。
 大栄高の生徒のうち、多くが学校の東、山の手にある私鉄で、郊外のニュータウンから通ってきている。高梨達のように、校区の西に住み、学校の南にあるいて一〇分余りのところに駅があるJRで通っているのは少数派である。
「さあ。明日からは寝る間もないほどの猛練習が待ってる。今日はせいぜい身体を休めておくか。それとも、怠惰な生活の名残に思い切り遊びまくるか?」
 校歌にも歌われていながら、今ではすっかり清らかさを失ってしまった川沿いの歩道を歩きながら、市川が言った。
「寝る間もないほど、ってのはどうかな? そこまで大栄の野球部は凄くない」
「馬鹿、そんなことで甲子園が狙えると思うのかよ」
 高梨の言葉に、市川がしかめ面をする。高梨は思わず苦笑してしまうのだが、対する市川は大まじめに、高梨とバッテリーを組んで甲子園に出場するつもりでいる。

「あれ? 高梨君達も帰りはこっち方向なんだ?」
 後ろから声を掛けてきたのは綾瀬だった。彼女も又、めぼしいクラブを見て回っての帰り道らしかった。
 市川が、高梨にだけ見えるように顔を向けて頬に笑みを刻んでみせる。ツイてる。その顔はそう言っていた。
「そうだけど?」
「ね、二人、家は近所なの?」
「同じ中学だから、それなりに近いよ」
 振り向いてそう応えたのは市川だった。
「ふうん、仲も良いんだ。男の友情かあ」
「そういうこと。俺達は熱い男の友情で結ばれているのさ」
 市川がそう言って高梨の首に腕を回す。
「ええい、やめろ。うっとうしい!」高梨が声を上げて市川の腕をふりほどく。そのやりとりに綾瀬がけたけたと笑った。
 10分ほどあれやこれやと互いの中学時代の話をしながら歩いて、駅前まで来る。ここから綾瀬はバス、高梨と市川はJRでそれぞれ帰宅の途につく。
「じゃあね! また明日!」
 バス停の前で、綾瀬が高梨達に向かって手を振る。ちょうど綾瀬の家の方向に向かうバスが来るところだった。
「なあ綾瀬」手を振り返し、市川と共に背を向けて歩きかけた高梨がふいに立ち止まって綾瀬の方に向き直る。「野球部のマネージャ、やらないか?」
「え?」綾瀬が突然の言葉に目を丸くする。
 バスが停車し、乗車口を開く。高梨は無言で綾瀬の返事を待つ。バスがアイドリングさせるエンジン音が妙にうるさく聞こえる。
「うーん。高梨君が甲子園に連れていってくれるって約束してくれるなら、考えても良いな!」
 乗車口に片足を乗せた綾瀬が、笑い声混じりに大きな声で言った。
 高梨がそれに答えるよりも先に、市川が高梨を押しのけるようにして前に出る。
「約束するぜ! 俺が、こいつと一緒に甲子園に連れて行ってやるさ!」
 市川の安請け合いに、綾瀬の笑みが大きくなる。何か言いかけたが、バスの発車時間が迫っていた。綾瀬が車内に身体を進めると、それを待ちかねたかのように自動ドアが閉まった。ひときわエンジン音が高まり、バスが発車する。
「……やったなあ、おい」
 バスをしばし見送っていた市川が、高梨の背中をひっぱたいた。
「なにがだよ」
「これで綾瀬が野球部のマネージャに来てくれることになったんじゃねえか。正岡キャプテンにも顔向け出来る」
「俺はまだ約束してないぞ」
「いいじゃねえか、目的は一緒なんだからさ。第一、そのつもりが無かったら、なんで綾瀬をマネージャに誘ったんだよ?」
「さあな。俺も良く判らない」高梨はとぼけた台詞を口にする。「一緒にいたら面白い事が色々ありそうだったからな」

 翌日の放課後。
 部室棟の前には中学時代の練習用ユニフォームを着た高梨と市川、そしてマネージャとして前任の山口から引き継ぎを行っている綾瀬の姿があった。
「高梨君に言われたから、決めた訳じゃないからね」練習が始まる前、綾瀬は「本当に来るとは思わなかった」と驚く高梨を前に、そう切り出していた。「自分で考えて決めたんだから。でも」
「でも?」高梨が首を傾げる。
「約束だよ。甲子園」
「任せとけ」例によってそう答えたのは市川のほうだった。

(3)


 高梨達が入部してから、瞬く間に一ヶ月が過ぎた。ゴールデンウィークにも練習漬けであることを知った新入部員の何名かがあっさりとリタイアしていた。無論、一年の練習は素振りやキャッチボール、ランニングといった基礎練習がメインである。選手層が薄いためにシートノックなどでランナー役などを務める者もいるが、じっくりと練習に参加出来る訳ではないので、なかなか技術として身に付かない。
 辛く、単調なばかりの練習の日々が続く。例外は、常に上級生と同じ練習メニューを与えられている樋口、将来のエースとして投球練習にも参加している高梨、そして高梨の投球練習の相手をする捕る市川ぐらいだった。
 そんな状況の中、高梨は中学の野球部で主将を務めていた経験から、練習中に気づいたことを、練習が終わった後の部室でメモする事を習慣づけていた。
 それは自身の練習内容に関するものだけでなく、他の部員の動きについても言及してあり、おいそれと他人に見せられない率直さでそれらは記されていた。

――”二年生では一番手投手である、根川先輩の投球フォームは肘の使い方が悪く、コントロールはついても球に伸びがない”

――”高根先輩はキャッチャーとしては捕球からスローイングまでの動きがかなり速い。が、トスバッティングで空振りするところを見た。打撃はあまり得意でなさそう”

――”滝沢先輩のバッティングはパワフル。しかし変化球が来ると捉えられない恐れも”

 到底入部したばかりの一年生が上級生を評する内容とは思えないが、どうせ他人に見せるつもりはない。見られたとしても、他の部員の目を盗んで殴り書いた文字は、高梨ですら時折読めないほど乱れている。

「早く先輩達みたいに、本格的な練習をやりてえよなあ」
 練習を終えての帰り道、市川が事あるごとにぼやく。
「基礎をしっかりやっておかないと、後で泣きを見るぜ。それとも俺の球が速くて手が痛くなって嫌になったか?」
 その度に高梨は冗談を交えてなだめなければならなかった。
「こんな事で甲子園に行けるようになると思うか?」
「甲子園か」
 二言目には甲子園へ、と野望を隠さない市川と違って、高梨はどっちでも良いと思っている。
 偶に紅白戦形式での実戦練習が行われる程度で、高梨が本物の試合に餓え始めていた頃、折良く八幡大学附属清水高(通称:八大清水)との練習試合を、綾瀬が組んできた。
 未だ半人前扱いの高梨達と違って、綾瀬は俄然精彩を放っていた。山口からマネージャの仕事を引き継いで間もないにも関わらず、てきぱきとした仕事ぶりは上級生達をも感心させていた。
 特に正岡などは、「俺の見立て通りだったろう?」などと鼻高々の様子で、市川は「実際に勧誘したのは俺達なのにな」と高梨に漏らしたりしていた。
 それはさておき、試合は次の日曜日。場所は大栄高のグランドと決まっていた。
「相手は守備力重視のチームだから、下手な失点をしなければ勝てるわ」
 月曜日の練習前ミーティングで練習試合に関する説明を行ったあと、綾瀬は高梨にそう言い切ってみせる。受け売りの言葉ではない自信が感じ取れた。
「いつの間に偵察してきたんだ?」
 高梨の問いに、綾瀬は笑って「企業秘密」とだけ応えた。
「ま、どっちにしろ俺の出番は無いよ。正岡キャプテンのピッチングを見て勉強するさ」
 あきらめにも似た言葉を呟く高梨を前に、綾瀬も困った表情を見せるばかりだった。

(4)


 日曜日。八大清水がグランドに出て、試合前の調整を行っている。
 ただの練習試合とはいえ、相手も新入部員を加えた新チームでの初めての試合ということもあり、緊張感がみなぎっている。
 この練習試合に先だって、正岡が新チームにおける背番号(すなわち、ベンチ入り選手)を発表していた。高梨は背番号16を貰い、ベンチ入りを果たしていた。いきなり背番号8を貰った樋口と比較すると見劣りするが、一年生で背番号を貰ったのは彼ら二人のみ、となればあまりがっかりもしていられない。市川はしきりに悔しがったが、こればかりは主将の判断が全てだからどうしようもない。

 一塁側ベンチで、相手の調整風景を見ていた高梨が、横でむっつりとした顔つきをしている正岡の様子がいつもと違うのに気づく。
「キャプテン、顔色が悪いですよ」
 高梨にしてみれば、とりたてて深く考えての言葉ではなかった。ただ、キャプテンでも試合前は緊張するのかな、と思っただけだった。
 だが、意外な答えが返ってきた。
「どうも今朝から腹の具合が悪くてな……。力が入らん」
 脂汗を浮かべて、正岡がばつの悪そうな顔をする。日頃から口やかましく健康管理を注意する綾瀬の尻馬に乗るようにして、体調を崩した者に対して「自己管理がなってない! たるんでる!」と言いたい放題だった事を思えば、いわば当然の態度だろう。
 しかし高梨としても、正岡の変調を笑ってばかりもいられない。
「病院に行きますか」周囲に聞かれないよう、小声で尋ねる。
「いや。ちょっと便所行って来るわ。ああそうだ、ついでだから高梨、お前スタメン表を向こうの監督に渡してきてくれ。マネージャが持ってる」
 そう言い残すと、正岡は高梨の返事も聞かずに校舎のほうへ行ってしまった。

 残された高梨は仕方なく、グランドの隅で裏方としての準備をしていた綾瀬を探し出して事情を説明する。
「スタメン表? 主将はもう書いていたと思ったけど?」
 綾瀬が持っていた表を見てみると、確かに先発投手として正岡の名前の他、三年生部員のスタメンはほぼ記入されていた。しかし、一、二年生部員の名前が未記入である。第一、正岡のあの調子では先発は難しい。
「要するに、こっちでスタメンを組んでおけ、という意味だな」
 高梨がそう言いながら、綾瀬の手からスタメン表を掴み取る。
「ちょっと、そんな勝手な判断を。主将に怒られるわよ?」
 綾瀬が眉をつり上げるが、高梨は意に介さない。
「試合前に腹壊してるほうが悪いんだって。えーと、そうだ、成績表持ってるよな? 見せてくれないか」
 スタメン表を前にさっそく名前を記入しかかった高梨が、不安げな表情でその様子をみていた綾瀬に尋ねる。
「成績表をどうするの?」
「まだ俺は先輩方のプレーを良く知らないからな。打線組むのも、打率一つ判ってるだけで随分と楽に……、なんだこりゃ?」
 得意げに説明していた高梨だが、綾瀬が差し出した成績一覧表を開いて、一瞬言葉を失った。
「なんだ、って、成績表だけど」
「それは判ってるよ。打率の欄、全員一割台だ……。おいおい、ウチの先輩方のバッティングはこんなに貧弱だったか? それに、この打数の少なさはなんなんだ?」
 三年生部員でも、軒並み20打席程度しか記録が残っていないのである。
「えーと」綾瀬が適切な言葉を探すように視線を宙に踊らせる。「それは、地区大会だけの、つまり、練習試合とか以外の成績だけ載ってるの。まあ、公式戦の分でも記録とりわすれているのもあるみたいだし」
 ずいぶんずさんな、と高梨が毒づくと、綾瀬も消極的にそれに賛同した。
「これじゃあ判断材料にならないなあ」
「ごめんね、役に立てなくて」
 珍しく綾瀬がしょげたので、高梨は慌てた。
「綾瀬のせいじゃないさ。先代がいい加減だっただけだ。ま、数字が当てにならないとなれば、こっちの記憶を頼りにするさ」
「ねえ、無理にいじらなくても、主将が書いたのを、ピッチャーの所だけ変えて出せばいいと思うけど……」
「いや。主将はほら、自分を6番打者に据えてる。打撃にもそれなりに自信があるから、こうしてるんだ。ピッチャーが変わる以上、このまま鵜呑みにして出したら後で馬鹿にされる」
 高梨はきっぱりと断言して、自分なりのオーダー作りを始めた。
 まず、トスバッティングの時に空振りしているのを目撃したキャッチャーの高根を、八番から九番に下げ、六番ピッチャー・正岡となっていたのを消し、八番を空白にしたまま九番打者を七番に上げ、同様に七番に入っていた樋口を思い切って三番に押し上げる。
 いきなりのスタメンだが、あいつはこれくらいやってのけるだろう、と高梨は確信していた。何しろ一年生部員で唯一、一桁の背番号を背負う期待の選手なのだから。
 空いた八番の枠に、よほど自分の名前を書き込みたい誘惑に駆られたが、さすがにそこまで図々しくなかった。素直に背番号14・根川の名前を入れる。
「よし、こんなもんかな」
 にんまりとする高梨とは対照的に、傍らの綾瀬は不安げに表情を強ばらせていた。

(5)


 波乱含みの試合が始まる。その直前、高梨からオーダーを組み替えたことを知らされた正岡は、「ふうん」と気のない返事をしただけでそれを黙認した。そのままベンチの端に座り掛けたところで高梨を呼び止める。
「このこと、他の連中に話したか?」
 小声で尋ねる正岡に、高梨は小さく首を振る。
「いいえ。マネージャ以外には」
「よし」正岡がうなずく。ドスの聞いた声で一言。「あんまり言いふらすなよ」
「判ってますよ」
 先攻は八大清水。根川は風貌通りのゆっくりとした変則フォームで初球を投じる。根川は高梨と同じ左腕だが、小さなテイクバックからスリークォーター気味に腕を振り抜く高梨とは対照的に、極めてテイクバックが大きい。打席から見ると背中に回った左手のボールの握りが三塁側に飛び出して見えてしまうほどである。
 高梨がメモしたとおり、肘の使い方は悪く、ほとんどまっすぐ伸ばしたまま振り抜く為、動きの大きさの割りには球は速くない。手首の使い方も不十分で球の回転が押さえられ、キレがなくなっている。
 だが、フォームに幻惑されたのか、八大清水の一番打者は初球から打って出る。打球はレフトへ。やや上空で風が待っているのか、左翼手・安原の足取りがおぼつかない。危ない、と思ったときにはグラブの土手にあててボールをこぼしていた。
 高梨の脳裏に、正岡と初対面したとき、昨期まで校舎改築を行っていた影響でグランドが狭く、外野守備の練習が不足している、という意味の事を言っていた光景が蘇った。
 このミスを見て、八大清水のベンチが一斉に囃し立てる。
「ドンマイ、ドンマイ!」
 それを掻き消すように大栄ベンチからも大声が掛けられる。特に高梨は、この試合に負けるようなことがあっては自分の責任が大きくなるだけに、つい力がこもる。
 声援に支えられて、根川は独特の間合いで繰り出す、決して速くはないが要所を締めたピッチングで続く二番打者を討ち取り、さらに三番打者からゲッツーを奪って結果的に三人で攻撃を断ち切る。
 一回裏。大栄の攻撃。
 一番・安原がライト前に打球を運んで出塁すると、二番・石原も右中間へと大きな当たりを飛ばす。長躯ホームを陥れるか、に見えたが、一塁ランナーであった安原のスタートが悪く、三塁止まり。
 しかしながら、無死、二、三塁という絶好のチャンス。ここで打席に入るのは、高梨が一番期待を賭けて三番に抜擢した樋口である。
 素振りをくれて打席へと向かう樋口の横顔に、高梨はあれっと思った。殊の外、樋口の表情が硬い。青ざめているようにすら見える。
 まさか緊張しているわけではあるまい、と高梨は思いたかったが、どうやら樋口は相当にあがってしまっているらしかった。難しい球に手を出して、ボテボテのサードゴロを打ってしまう。
 まずいことに、本塁突入しか頭になかった三塁走者の安原が飛び出してしまう。さらに慌てて素直に三塁に駆け戻ってしまい、三塁手に簡単にタッチされてしまった上、一塁送球の余裕も与えていた。樋口にとって痛恨のゲッツーとなってしまった。
 四番、滝沢もセカンドゴロに倒れ、絶好のチャンスを逸し、大栄ベンチには嫌な空気が流れた。
「気落とさずに、締めていこうぜ」
 守備に向かう樋口の背中に、高梨がそう声を掛ける。だが返事はなかった。

 二回表。
 八大清水の四番打者が打球をセンターに放った。何でもない平凡なフライ。だが一回表の安原のエラーが脳裏によぎる。樋口のぎこちない動きがさらに不安を煽る。
「あっ!」
 誰かが悲痛な声をあげた。樋口もまた、落球していた。信じられないようなイージーミスが続いてしまった。
 だが、根川は見た目通りに少々のことでは動じない。投球ペースを乱すことなく、続く五番打者を注文通りのダブルプレーに仕留める。六番打者を緩急をつけた投球で翻弄して三振に切って取り、またも三者凡退の体でマウンドを悠然と降りる。
「やるなあ、根川先輩」
 相変わらず、球にはあまり伸びがなく、見かけばかりの豪快なフォームと、ねちっこくストライクゾーンの隅を衝く投球が奏功していた。

 二回裏。五番・児玉、六番・宮本が相次いで三遊間を破るシングルヒットでまた無死一、二塁のチャンスを作る。ここで七番・大林は平凡なライトフライに倒れ、八番に入る根川が打席に立つ。
「ピッチングの調子もいいし、ここは一本タイムリーを……」
 高梨が思わずそんな言葉を漏らしたとき、根川が高めの釣り球に手を出した。打球は力無くあがる。
 これはダメだ、と誰もが思ったが、上空の風はまだ悪戯を続けていた。風に押された打球は二塁ベース後方、内野と外野の面白い位置へ。特に内野はセカンドランナーを警戒してベース近くに張り付いていたために空間があいていた。狙い澄ましたようにその空隙に落ちる。それをみてランナーは一斉にスタートを切る。
 八大清水のセンターがもたつく間に二塁ランナー、児玉が悠々とホームベースを駆け抜けるが、宮本は明らかに暴走だった。無理してホームまで飛び込んできたが、楽々とセンターの返球を受けたキャッチャーにブロックされてアウト。みすみす追加点のチャンスを潰した。
 結局この回の攻撃はこの一点にとどまったが、ともかく大栄が先制した。このままいけば、根川先輩の調子なら勝てる、高梨はそう確信した。だがそれは、全くの希望的観測に過ぎなかったことを、この後思い知らされることになる。

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