(1)
対八大清水戦の練習試合は四回裏に入っていた。再び樋口に打順が回ってくる。
「今度はいいところ見せてくれよな」
高梨が声を掛ける。樋口が振り向く。その表情は緊張とも、いきなり予告もなくクリーンアップを任された事に対する理不尽な怒りにも見えた。
右打席についた樋口のスタンスに、高梨が眉をひそめる。
「やっぱり緊張してるのか……」
落胆の気持ちを隠せない。普段ならば樋口のバッティングフォームは、その優男然とした容貌同様に、力みのないものの筈だった。ところが今、打席に立つ樋口は要らぬ所にばかり力が入ってしまっている。
「そりゃ、いきなり一年坊主が三番打者だ。びびって当然だ」
高梨の隣りでどっかと座る正岡が、高梨のほうをみて呆れたように言った。
「誰だってそう思う。だったら却って、失敗して当然の開き直りの気持ちでプレイ出来るじゃないですか」
「誰もお前みたいに、勝手にスタメンを書き換えてしれっとしていられるほど、図太い訳じゃないんだ」
試合前「他の部員には報せるな」と言っていたにもかかわらず、正岡のほうが、スタメン組み替えの事を口の端の登らせてしまう。高梨が慌てて咳払いする。
その間にも樋口は、好球を見逃した後に、焦って難しい球に手を出すという嫌なパターンで軽く討ち取られてしまっていた。
「こりゃ、得点が期待出来そうにもないな。おい、高梨。大量得点を期待出来ない以上、失点を抑えなきゃ勝てない。せいぜい肩でも作って準備しとけ」
正岡が物騒なことを言い出す。高梨は慌ててベンチを出て、自称”投手兼外野手兼代打の切り札兼ムードメーカー”の三年生、背番号10・四日市とキャッチボールを始めた。
五回表。正岡の言葉がにわかに真実味を帯びてきた。
それまで順調に試合を進めてきた根川が、打順が二巡目に入り、変則フォームに慣れ始めた八大清水打線に捕まったのだ。連打とまたも外野のエラーが絡んでノーアウト満塁。
こうなると、技巧でかわすピッチングはいかにも危なっかしく見えてくる。ノーアウト満塁では、打たせて取るとばかりも言っていられなくなる。
一点を覚悟した上で、ダブルプレー狙いの中間守備に内野陣が動く。外野陣もまた、大量失点を防ぐために深く構える。
打順は下位打線に降りつつある。なんとか凌ぎきるために、慎重にも慎重を期した投球を。高梨が祈るような気持ちで、キャッチボールの手を止めて戦況を見つめる。
ところが、根川の初球は甘い高めに入ってしまった。八大清水の打者がこれに軽くバットを合わせて弾き返す。深い守備が裏目に出る、浅いライト前ヒット。三塁ランナーが悠々と生還して、あっさり同点に追いつかれてしまう。
「うーん、限界なのかなあ……」
高梨の呟きを、いつの間にか彼の背後に立っていた正岡が聞きとがめる。
「今日の采配、お前に任せるぞ。代わりたいなら、代わりにマウンドに行け」
正岡の思いも寄らない言葉に高梨は数拍迷ったが、これ以上根川を引っ張って傷口を広げるよりは、と決断する。
「判りました。行きます」
いきなり、自分でも予想していなかった高校での初マウンド。緊張はしていたが、それなりの自信もあった。
高根と簡単なサインの打ち合わせを済ませ、ウォーミングアップの球を投げ込む。肩は万全にはほど遠い暖まり具合だったが、それでもキャッチボールでそれなりに暖めていたし、根川の球よりは球が走っているという自負があった。
試合再開。ともかく、ノーアウト満塁である。不用意な攻め口は、取り返しの付かない失点につながる。
(とにかく、一失点は覚悟の上で、傷口を広げないようにしないと)
高梨は腹を括った。、高根のサインを伺い、三人のランナーを警戒しながら、セットポジションから初球、ストレートを投げ込む。
右打者の外角低め一杯に決まる、我ながら上出来の球だった。
よし、とばかりに続いてもう一度、サイン通りに外角に逃げるシュートを投じる。と、思いがけず内に入ってしまった。やばい、と思った瞬間、バッターが強打に出た。
鈍い打球音。完全に詰まった当たり。ボテボテのゴロがサード前に転がる。と、何を思ったのかサード・宮本がバックホームしていた。
キャッチャーの高根も自分に返球が来るとは思わなかったのか、タッチが遅れた。躊躇無く頭から飛び込んでいた八大清水のランナーが、先にホームベースに手を触れていた。
「セーフ!」
主審が宣言する。高根は憤怒の表情で一塁に転送するが、打者走者も意外な俊足ぶりを発揮して、一塁ベースを駆け抜けていた。
(2)
それからどうなったのか、高梨はよく覚えていない。
エラーとフィルダースチョイスで、高梨にもよく判らないうちに四点を失っていた。
とにかく、打たれたという感覚は全くない。気づけば、スコア五対一になっていたのだ。
ようやくの事でスリーアウトを奪い、マウンドから降りてきた時には疲労感、というより徒労感ですっかり足取りが重くなっていた。
不甲斐なかった。高根とバッテリーを組むのは初めてのことで、お互いの癖を飲み込めていない。マウンドに上がる前は大して重視もしていなかった事実が、高梨には想像以上に負担になっていた。今更ながらに市川のありがたさを思い知る。
「大丈夫だ、そうがっかりするな。取り返してやる」
三打数二安打と一人気を吐く滝沢がそう力強く声を掛けてくれたのが、せめてもの慰めだった。が、高梨がもっとも期待を掛けていた樋口にはまったく当たりが出ない。
とにかく、ここぞ、という場面は作るものの、肝心な場面でタイムリーが出ないのだ。いたずらに残塁を重ねている間に試合は終盤に入っていた。
(負けたな)
声にこそ出さないが、高梨はチームの空気を察し、そう感じる。辛かった。その責任を作ったのは自分だった。オーダーを組んだのも、根川に替わってマウンドに上がったのも、全て高梨が自分の責任でやったことだった。
言い訳のしようもなかった。
高梨はその後、六回と七回をどうにか無失点で切り抜けた。思い切って高根のサインにも時折首を振り、持ち前の速球を低めに集めるピッチングに専念したお陰だった。
しかし、八回表、上位打線に戻ってきたところでワンアウトを取ったものの、そこから連打された時点で、高梨はベンチの指示を仰いだ。高根の配球がワンパターンに陥りつつあることも、高梨は悟り始めていた。
とかく陰の薄い志摩監督が主審に投手交代を告げる。
三番手は四日市かと思えば、正岡がむっとした表情でマウンドに上がってくる。
「すいませんでした」
謝りながら高梨が正岡にボールを渡す。正岡は無言だった。
この回、正岡はまたも守備陣の乱れに端を発する一点を奪われて、得点差を四点に広げられた。やはり球のキレが練習時に比べると悪いと高梨の目には映ったが、ベンチの重苦しい空気はそれ以上に深刻だった。
八回裏、意地で一点を返したものの打線は最後までつながらないまま、戦前の楽勝ムードが馬鹿馬鹿しくなるような試合が終わった。スコア二対五。惨敗だった。
(3)
高梨達は部室にまで、後味の悪さを濃厚に引きずって戻っていた。
「試合に出られただけでも、良しとしなくちゃな」
背番号のついていない真っ白な自分のユニフォームを指さし、市川が慰める。それから小声で付け加える。
「オレが受けていたら、もっと違った配球組み立ててやったのにな」
「準備不足、練習不足だ。仕方ない」
力無く高梨が応じる。肉体的な疲労よりも精神的な脱力感のせいで、着替えが進まない。
「気にするなよ、監督と主将の采配ミスだってばよ」
かすれたような声を高梨の耳に吹き込んで、さっさと帰り支度を済ませた市川が先に部室を出る。高梨もあきらめたような溜め息を一つついて、ユニフォームを脱いだ。
「なんちゅうか、酷いオーダーだったよなあ。オーダー組んだ奴の顔が見てみたいぜ」
市川と入れ替わるようにしてやってきた正岡が、高梨に面と向かって皮肉ってみせる。高梨には返す言葉が無く、うなだれるばかりである。
だが、正岡は部室を去り際に高梨の肩を軽く叩き、「残念だったな」と耳元でささやいた。顔をあげた高梨の目に映った正岡の顔が、今までみたことがない穏やかなものであったことに、高梨は驚いた。
部室を出て辺りを見回したが、市川の姿は無かった。先に帰ってしまったらしかった。中学時代は大抵一緒に帰っていたものだが、最近では別々に帰ることが多くなっている。市川が高梨を置いて、先に帰ってしまうのである。
とはいえ、仲が悪くなったとかいう訳では全くない。高梨も深く考えず、問いただすような事もしなかったので、なんとなくその状況が続いている。
一人での帰り道、ふと高梨の視線が川の流れに向く。
大した考えがあるわけでもなかったが、なんとなく歩道を降り、ブロックに固められた河岸の土手に力無く腰を落とす。西の空は早くも夕焼けに染まり始めている。
「情けないよなあ」
高梨が溜め息混じりに独り言を呟き、大きく肩を落とす。
誤算は色々あった。まず、なんといっても安原を初めとして守備・走塁の出来がひどかった。樋口も残念ながら期待はずれの結果しか残してくれなかった。
安原先輩はともかく、と高梨は思った。樋口が足を引っ張ったのは何故だろう? あいつの実力は、一年ですでに大栄高ではレギュラーを張れるだけのものがあると思ったんだが……。
樋口は高梨や市川と同じ一年生でありながら、チームの一員として認められている。正岡が考えていたオーダーでも、樋口の名前は九番打者としてスタメンに上がっていたのだ。高梨の身びいきがきつすぎるということは無い筈である。
あがって固くなっていたのは確かだ。だとすれば場数を踏めばそのうちになんとかなるのかも知れない。とはいえ、チーム力全般が理想にはほど遠いのは事実である。しかし、方法はあるはずだった。それなりに戦えるチームになるための方法が。
「こんなところで何してるのよ?」
しばらくあれこれとチームの今後を考えていると、頭上から声が降ってくる。高梨が顔を上げると、道の上から綾瀬が両膝に手を乗せて、前屈みになる格好で高梨を見下ろしていた。スカートを下から見上げる形になってあらぬ言いがかりを付けられても困るので、高梨は川のほうに視線をねじ曲げた。
「こんな状況で、こんな場所で、こんな格好してたら絵になるかなあ、と思ってさ」
困惑気味の表情を見せていた綾瀬が、自分のほうを見もせずにとぼけた事を言う高梨の態度に眉をつり上げる。当然、顔を見ていない高梨は綾瀬が腹を立てた様子には気づかない。
「呆れた……。落ち込んでるかと思ったら。心配するだけ損だったわ。全然大丈夫なんじゃないの」
ふくれ面でそう言いながら綾瀬が、菱形状に敷き詰められたコンクリートブロックが剥き出しになっている土手を降りてくる。
「滑るから気をつけろよ」相変わらず、綾瀬の耳には緊張感を感じさせない高梨の声。
「これでも運動神経は良い方なんです」口をとがらせて応じる綾瀬。怒ると敬語になる癖があるらしかった。
「……大丈夫なもんか。がっくり来てるよ」
「え? ああ、さっきの話ね。ただの練習試合よ。それに試合に出られただけで十分じゃないか、って市川君が言ってたわ。私もそう思うけど?」
そう言いながら、高梨の隣りにしゃがみ込む。
「俺がショックなのは打たれたことじゃない。負けたことでもない」
「じゃあ何よ?」
「今のチームの力では、勝てない」
高梨は真剣な顔つきで、そう断言していた。
「あら」綾瀬がしたり顔で首を傾げ、皮肉っぽくやり返す。「高梨君は、”楽しい野球”がモットーじゃなかったの?」
「野球は勝たなくちゃ面白くないよ」
「ホントに呆れたわ。すっごく勝手な意見よ、それ」
「かもな」
高梨は投げ遣りに応えた。今日はもう、気力を使い果たした気分だった。綾瀬を言い負かしたいという気分には到底なれそうも無かった。
「正岡主将って、一年の夏から主将務めてるって、知ってた?」
「いや」
綾瀬の問いに、高梨が首を振る。
初耳だったが、特に驚きはしなかった。生まれたときからずっと主将だったと言われても、信じてしまいそうな気さえした。それほど、正岡のリーダーシップは板についていた。
それだけに、オーダーを任せてくれた正岡に対して、申し訳ないという気持ちが改めて沸き起こってくる。
「ひょっとしたら、先輩は高梨君が自分の後継者としてふさわしいかどうか、テストしたんじゃないかな?」
「だとしたら俺は見事に失格だな」
「あとさ、根川先輩ってね、のらりくらりとかわすピッチングで、少々ランナーが出ても大崩れする事は少ないんだって。さっき先輩達が話してるのを聞いちゃったんだ。高梨君、知らなかったでしょう?」
「あの場面で俺が投手交代を進言したのは、気が早すぎたってことか。いや、本当に知らなかった」
高梨が悔しげに首を振る。その仕草をみた綾瀬が、少々調子に乗って責め過ぎたか、と表情に後悔の色をにじませる。
「ごめんね。こっちにちゃんとデータが残っていたら、起用法とかも考えられたのに」
「いいさ。もう済んだことだ」
高梨が綾瀬の謝罪を、実にあっさりと受け流す。どちらにせよ、あの短い時間でスコアブックをひっくり返して戦績を分析している暇など無かったのだ。それに、チームの指揮を取る機会など、当分の間回ってきそうにもなかった。
こうやって綾瀬と試合の話を交わしていなければ、ぐずぐずと考え込んでいたところだった。却って言いたいことを口にしたことで、高梨はすっきりした気分になっていた。
「さ、今日は帰ってさっさと寝るか」
ずしりと重い鞄を片手に立ち上がる。綾瀬も腰を浮かせた。
「そういえば、市川君はどうしたの?」
「さあ。もうガキじゃないから、いちいち一緒に帰るつもりはないんだろ」
「あら、随分と冷たい言い方ね」
綾瀬の顔にも笑顔が戻っていた。
(4)
翌日からまた、練習漬けの日々が始まる。
八大清水戦では思わぬ屈辱の敗戦を喫してしまったが、チームのためには良い刺激になったのかも知れない。元々楽天的な高梨は、気分を完全に切り替えて、そんなことを考えてみたりもする。
練習不足の感を抱いたのは高梨一人ではなかった。正岡もまた、同様の判断を下したらしい。修正された練習メニューには、守備練習が特に時間を割いて盛り込まれていた。
元々、守備練習は打撃や投球などに比べて、おろそかになりがちな項目である。特に大栄高では、グランドが十分に使えなかった時期を挟んでいるために、場所をとらない練習に比重が傾きすぎていたきらいがある。
正岡はそのバランスを手直ししながらメニューを組んでいる様子だった。
部員達も、情けないミスの連発で負けた悔しさを噛みしめているだけに、守備練習にも力を入れて取り組むようになっていた。
そしてもう一つ、練習に関して変わった点があった。いままで上級生と同様の扱いを受けていた樋口が、一年の基礎練習にも参加させられるようになったことである。
季節は春から初夏へと移りつつあった。日差しが日に日にきつくなる時期であるが、この日は曇り空。とはいえ風がなく、やや蒸した空気が身体にまとわりつく。
「都落ち、とか思ってるだろ?」
グランドの外周を延々と走り込んだ後の貴重な休憩時間、バックネットの裏側で座り込んだ市川が、そんな言葉を容赦なく樋口に叩き付ける。
背番号が剥奪された訳でもない以上、”高梨用の壁”扱いされている市川が偉そうに言える筋合いではないのだが、この辺りの向こう見ずと紙一重の度胸の良さは市川の持ち味だった。
「別に」
基礎練習を今までほとんど免除されていたにも関わらず、樋口は他の一年生部員よりも平気な顔をしていた。さすがに基礎体力が違うらしい。
樋口は、何かと突っかかってくる市川のような手合いを全く相手にしていない。
まるで全てが、それこそ自分の処遇すら他人事のようなその態度が、高梨には不思議だった。
「変な奴だな。俺達補欠にゃ用は無いってか」
まともに取り合ってもらえなかった市川が、不満をそのまま高梨の所に持ってきてぶつける。長距離走が苦手の高梨は派手に息をあえがせており、会話は耳に届いていても、何か感想を言える状態ではなかった。
「少なくとも、お前の相手させられて、困ってる俺の姿、あいつも見てるからな」
何度も息を継ぎながら、そう応じる。市川があからさまに嫌な顔をした。
「はーい、みんなご苦労様。こういう地味な走り込みが足腰の強化につながるんだからね。辛いだろうけど、しっかり頑張ってよね」
綾瀬が笑顔を振りまきながら、一年生部員達に水道水で冷やしたタオルを配って回っている。誰もが苦しげな表情を緩めてそれを受け取る中、一人樋口だけが憮然とした表情だった。
「なんかあったの?」
高梨と市川のところへ来た綾瀬が、樋口のほうを伺いながら声を潜めて尋ねる。
「今更一年部員と同じ練習やるのは面白くないんだろ?」
こちらも決して機嫌の良くない市川がそう断ずる。
「ま、真面目に練習やってる分には問題ないさ」高梨がそう諭し、言葉を継ぐ。「ところで、次の練習試合の予定は?」
尋ねられた綾瀬が、左手に提げていたタオルを入れた買い物カゴを両手に抱え、眉を下げて口ごもる。
「それがね。主将は今の段階で練習試合を組んでも、自信を無くすだけだから当分やらないって」
「……」高梨がうなり声を発して黙り込んだ。
彼の頭の中には、八大清水戦の前に見せられた、不備満載の成績表があった。練習試合はただ勝って自信を付けるためだけのものではない。選手の実力を正確に推し量るためには、ある程度の数をこなさなければならない。
前回の試合で失態を晒した安原にせよ、樋口にせよ、雪辱の機会を求めている筈である。第一、負けると決まったわけでもない。
「練習試合組むぐらいなら、その分練習に回せってことか。俺は賛成だな」
市川がやや力の入った表情を見せる。補欠の市川にしてみれば、背番号を持つ部員しかアピールの機会が無い練習試合より、紅白戦や日々の練習のほうが頭角を現せるチャンスがあるから当然だった。
正岡主将の判断に間違いはないのかも知れない。いや、そもそも唯一の正解など存在しないのだ。主将に与えられているのは、無数の選択肢からベターと思われるものを選び出すことだけだ。それが高梨の流儀とはやや異なっているだけのことだ。
高梨は己を納得させる要素を探すかのように曇天を見上げた。と、そのタイミングを見計らったかのように、ぱらぱらと雨が落ちてきた。
「もうすぐ梅雨入りね。でも、体育館とか校舎の廊下とか使って練習はあるんだから、雨で休めるなんて思わないでよね」
高梨と同じように空をふり仰ぐ綾瀬が独り言のように呟いた。雨足は強くもならず、弱くもならず、小雨のまま大栄高グランドに降り注ぎ続けていた。
(5)
翌日の昼過ぎになって、ようやくぐずついていた天気も薄日が差し込むようになった。
練習前のミーティング、正岡はお世辞にも良いとは言い難いグランドを見回して一言。
「今日は盗塁練習やるぞ。時代は機動力野球だからな!」
それを聞いた部員達がげっそりとした顔をみせる。水はけは良いとはいえ、いまなお水分をたっぷり含んだグランドの上で滑り回ったら、練習用ユニフォームは泥だらけになってしまう。
「心配するな。下手な滑り込みをしても却って怪我しなくて済むってもんだ。洗濯? そんなもんはマネージャに任せておけ」
後ろで聞いていた綾瀬が真っ青になっているのも頓着せず、正岡は軽くそう言ってにんまりとした。
とはいえ、高梨達一年生部員はどこか他人事のような顔で聞いていた。盗塁練習は何人も同時に行えない。機械的にやれば出来ないことはないが、その分目が行き届かなくなる。細かな状況判断に関する指示と、事後の判断確認がかかせない為、あまり多くの人間が参加しても効果が上がらないのだ。
高梨の予想通り、盗塁練習とはいっても、レギュラー以外はスライディングの反復練習組が大半を占めた。予想外だったのは、高梨自身が実戦練習組に回されたことだった。
「お前がピッチャーだってこと、主将は忘れてるんじゃないのか?」
ウォーミングアップを終え、二組に分かれての練習が始まる直前、市川が笑って言った。盗塁練習はどうしても失敗の多くなる練習で、あまり見た目が良くない。
もしかしたら投手役なのでは、という期待も空しく、高梨は実戦練習組のトップを切って、一塁ベース上に立つことになった。
グランド上には、一塁手、二塁手、遊撃手、捕手、そして投手だけが正規の守備位置に付いている。今回は二塁への盗塁だけに絞って練習を行うのである。
「びびって走らないと、いつまでたっても練習が終わらないからな。気合い入れて走れよ!」
マウンド上に仁王立ちになった正岡がそう脅しを掛け、高梨に背を向けてセットポジションの構えに入る。
高梨としては、リードを大きくせざるを得ない。
あわよくば格好良く盗塁を決めてみせたい。静かにリードを広げていく。
正岡がホームに向けて投球する、と思いスタートを切り掛けた瞬間、くるりと正岡の身体が回転して牽制球が来た。
しまった、と高梨はユニフォームを真っ黒にして一塁ベースに滑り込んだが、一塁手の滝沢が悠々とタッチしていた。
「下手くそ! 三年の走りをよくみとけ!」
正岡の怒鳴り声に、高梨はすごすごとフェアグランドの外に出る。
が、観ておけと言われたものの、肝心の三年生部員も軒並み、正岡の牽制球に討ち死にする有様である。なんとかタイミングを見計らってスタートを切っても、走られることを最初から前提として構えている高根の送球は素早く、正確で、誰一人として最後まで二塁を陥れる事が出来なかった。
「これじゃ練習にならんな」
練習終了後、難しい顔で吐き捨てる正岡だが、その反面、自身の牽制の巧みさに満足したのか、取り立てて機嫌が悪いという感じは無かった。
収まらないのは高梨のほうだった。こんな調子では、足を使った攻撃は全くおぼつかないからだ。一年生の自分があれこれと思い悩む事ではないのかも知れないが、練習をすればするほど、勝利が遠のくような不安を抱いていた。
そしてもう一人、心中穏やかならぬ人物が居た。他ならぬ、泥まみれのユニフォームの洗濯を一身に押しつけられた綾瀬である。
練習終了後。
部室棟の裏に使い古した洗濯機がある。綾瀬はその貴重な一台をフル活用して、練習用ユニフォームを洗い続けていた。
「大変そうだな」
制服姿の高梨がそう言いながら、自分の分のユニフォームを渡す。
「大栄高野球部30人分だからね。大変だと思うんなら、手伝ってよね」
あかぬけない赤い体育用ジャージに着替えて奮闘する綾瀬がぼやくように応じる。受け取ったユニフォームを、蛇口をひねりっぱなしにしてある水道栓の脇のカゴに放り出す。
「泥汚れのひどいのは一度手洗いしてからじゃないと、洗濯機の水がすぐに真っ黒になっちゃうのよ」
金盥に洗濯板という古風な代物も、ここでは立派な実用品として重宝されている。綾瀬はジャージを腕まくりして、泥汚れの上に遠慮なく洗剤をぶちまけ、洗濯板にこすりつけて汚れを落としていく。手際は悪くないが、いかんせん洗うべき枚数が多い。
「嫌なら、断れば良かったんだよ。明日までに乾くのか、これ?」
「乾かないと、練習できないでしょ? ……これでもマネージャだから、断る気は無いわよ」
「熱心なんだな。で、何を手伝えばいい?」
「あ、ホントに手伝ってくれるんだ」綾瀬が顔を輝かせる。「そうね、脱水できてるかどうか見てくれない?」
言われるまま、高梨は手伝いを始める。
「……ひどい練習だった」
思わず、高梨の口から愚痴めいた言葉が漏れる。
「ユニフォームが汚れるから?」綾瀬の軽い調子の問いかけに、高梨は無言で顔を歪めた。それに気づいた綾瀬もまた、沈んだ声で付け足す。「……言ってみただけよ。観ていたけど、もう少しうまく出来ないのかな。例えば牽制が来た瞬間に一旦二塁に行くふりをしてフェイントで一塁に戻るとか」
「出来ない事はないが、結局ランダウンプレーの練習になるだけだからな」
「ふうん。そんなに甘くはないか。あ、昨日言ってた練習試合だけどね。決まったよ」
「え? 昨日は当分やらないって言ってなかったか?」
驚いて高梨が問い返す。
「うん。昨日、主将に聞いてみた。”高梨君が練習試合やりたがってますけど、どうしましょう”って」
「げ、本当にそんな聞き方したのか?」
高梨の手が思わず止まる。
「嘘よ、嘘。そんなことは言ってないよ」綾瀬がくすくすと忍び笑いを漏らす。予想通りの高梨の反応がよほどおかしかったのだろう。「でもね。負けっ放しだったら気分がすっきりしないって言ったら、そしたらやっても良い、って。対戦相手も決めてあるってさ」
「簡単に意見が変わるもんなんだな。今日の盗塁練習は練習試合対策かな」
あの正岡も綾瀬には頭が上がらないのか、高梨はそんなことを考えながら、何の気無しに考えを口にする。
「そうかもね。相手は湯川商工で、今度の日曜日に、向こうのグランドで。……レベル的には大栄高と同じくらいなんじゃないかな? ただし、打撃では向こうの方が上かも。結構凄い四番バッターが居るんだって」
湯川商工と聞いても、高梨はピンと来なかった。とりたてて強豪という訳でもない。綾瀬の言葉通り、大栄高とどんぐりの背比べが良いところのチームの筈だった。今度は勝てるだろう、と高梨は思った。
四番が凄いという噂だが、中学時代に名の知れた選手であれば他の強豪校に入っているだろう。相対的なものであって、絶対的な評価ではないはずだった。
その時、どさりと背後から音がした。ふりむくと、背番号9、ライトのレギュラーである三年・大林が怒ったような表情を見せて立っていた。足元には手に持っていたのであろう鞄が転がっている。
「あ、先輩、ユニフォーム出してくれました?」
綾瀬が尋ねる。だが、大林は二人を睨むようにみつめたまま、黙り込んだままだった。
日頃から寡黙で、あまり高梨の印象に残っていない先輩であるが、ただならぬ気配を感じ、高梨は声を掛けそびれた。
間の悪い沈黙が続き、それを大林自身が破った。
「湯川商工との練習試合、本当なんだな?」
押し潰したような、低い声だった。今にも怒鳴りだしそうな殺気じみた気配が肩のあたりから立ち上っている。
「……はい。さっき、電話で申し込んで、向こうの監督さんに了解ももらいましたけど」
綾瀬が大林の剣幕に怯えたように、か細い小声で応じる。大林は大きくため息を付いて、「そうか、……正岡の奴」とだけ言い残し、鞄を拾って立ち去っていった。
「どうしたんだろ、先輩? 湯川商工と練習試合したら、なにかまずいことがあるのかしら?」
体をすくませていた綾瀬が呟く。
「さあな。なんか事情があるんだろ」
高梨は大林の後ろ姿を見送りながら、今度の試合も又一筋縄ではいかないような、悪い予感がしていた。
第三話に続く
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