『バトル・オブ・甲子園』
第三話”苦渋”




(1)


 湯川商工戦、当日。ここ数日雨模様だった為に天候が心配されたが、幸いなことに雲量は多いものの晴れてくれた。
 だが。
「こりゃ、今日は荒れるな」
 試合前。湯川商工に乗り込み、グラウンドを眺め回した高梨は小さく呟く。
 天候ではなく、試合が荒れる、そう言っているのだった。
 何故ならば、グラウンドといえば聞こえはいいが、単に校庭にマウンドとバックネットが据えられているだけであり、大栄高のような専用グラウンドではない。
 ある意味当然の事ながら、その形は長方形に近く、外野、特に右翼側が異常に狭くなっている。さらに間の悪いことに、さほどは強くないが追い風が吹いていて打球を後押しする格好になる。凡フライが柵越えしかねないのだ。
 だが、高梨にとっては前回ほど神経を使う必要がないのは事実だった。
 今日は順当に正岡が先発し、オーダーも正岡が以前組んだ通りの形で提出されているからだ。まず、出場機会は無いだろう。
 それはそれであまり気持ちの良いものではないのだが、なにしろ一年生である。あまり高望みをしたところで仕方がない。高梨にとって、その種の割り切りは比較的得意だった。
 前回良いところ無しだった安原は、従来通り俊足を買われてトップバッターに固定されたまま。樋口もまた、九番打者ながらスタメン出場である。今度こそ一年生部員期待の星としての実力を発揮して欲しい、高梨は願う。
 しかし、主将としてのベストオーダーを組んだ筈の正岡の顔は、あまり冴えているとは言い難かった。高梨と違って、グラウンドの狭さを危ぶんでいるのとも違う。どちらかといえば前回の時と大差の無い落ち着きの無さなのである。
「また腹具合でも悪いんですか?」
 これが試合前の癖なのかな、そんなことを考えながらしれっとした顔で高梨が尋ねる。
「馬鹿野郎、またお前にオーダーをいじられちゃかなわん」
 対照的にむっつりとしたままの正岡。さすがにそれ以上理由を尋ねることは憚られ、高梨も言葉をつぐむ。

 そして試合が始まる。
 ジャンケンで大栄高は後攻を選んでいた。守備に散った大栄高の選手達がさかんに声を張り上げる。
 今日こそは本来のピッチングを見せてくれるだろう、高梨はベンチで声援を送りながら正岡のフォームを注視する。なんだかんだと言いつつ、高梨は正岡の力量をやや無条件に信じ切っていた。
 だが、正岡の球は走っていない。
 初回、トップバッターは討ち取ったが、二番打者に三塁線を破られる長打を喰らう。ランナー二塁で三番打者はライトフライ。ランナーはタッチアップで三塁に。
 ここで四番打者が素振りを数度行ってから、右打席で堂々たる構えを見せる。垂直に近く立った金属バット。グリップの位置がこめかみのあたりまで掲げられる。ややクローズ気味のスタンスだが、背筋は伸び、ヘルメットの庇からかいま見える眼光は鋭い。
(この選手、出来る)
 気迫というか、オーラと言うべきなのか。高梨は殺気じみた四番打者の目つきだけで、その実力の高さを感じ取ったような気がした。正岡・高根のバッテリーがそれを察し、まともな勝負をしないように、と心の中で願う。声をあげてそれを正岡の耳に届かせようなどとは思わない。
 そんなことするくらいなら、思い切り下品なヤジで相手の四番打者を撹乱したほうが効果がある、そんなことを考えていると、正岡が初球を投じた。
 四番打者への球は、典型的な球威のない棒球がど真ん中に入る。
 案の定、強烈な打球音がグラウンドに響き、隣接する校舎に木霊する。打球は低い弾道を描いて背走するレフト・安原の頭上を越えて、グランドを仕切る高いフェンスにダイレクトで命中する。クッションボールの処理はまずくなかったが、どんな神業的強肩の持ち主でも、フェンス直撃の球を受けては三塁ランナーを捕殺する事は出来ない。
 あっさりと三塁ランナーが生還して、大栄高は先取点を奪われた。正岡は後続をたったものの、そのキレのない球に、高梨は生来の気楽さをしまい込まざるを得なくなっていた。
(なにが起こっているんだ?)
 単に立ち上がりが悪いタイプなのか、それともまた腹具合が本当におかしいのか。前回同様、いやな展開になりそうな悪い予感がした。

 一回裏。
 湯川商工の投手の球威は想像通り、大したものではなかった。単純に比較すれば、正岡のほうが力量は上だ。もしかしたら高梨のほうがまだ上かも知れない。
 だが、大栄高打線は震わず、三番打者・滝沢が放ったショートへの強襲内野安打を得点に結びつけることが出来ずにチェンジになる。
 日頃の練習の成果が活かされていない。高梨は内心で断言する。だが、それが何故なのかは、よく判らない。
 高梨はベンチの隅で後ろ手に腕を組み、どこをみているのか判らない視線をグランド上に送る志摩監督の横顔をちらりと伺った。
 この監督は、ここ一番というときに限って指示を下さない悪癖がある。少なくとも高梨はそう感じて、わずかばかりの軽蔑をしていた。正岡に遠慮するような素振りを見せることすらある。野球戦術に関して自信がないのか、それとも生来の小心者なのか。恐らくはその両方なのだろう。

 湿りがちの打線に気落ちした訳でもないだろうが、正岡の調子はどうにも低空飛行のままだった。
 二回には長打を浴び、確実にスクイズで追加点を奪われると、三回にはまたも四番打者に、飛距離120メートルはあろうかという特大のスリーランを喰らう。実に三回を終えた時点で、十失点にもなっていたのである。
「またアイツにやられたなあ」
 ベンチに戻ってきた正岡が妙にさばさばした調子で、守備位置へと向かう湯川商工の四番打者のほうを伺う。
「知ってる人ですか?」高梨が問いかける。本当は打たれて何故そんなにあっさりしているのか聞きたいところだが、さすがにそこまで無神経ではない。
「知ってるもなにも、顔をよく見てみろ」
「……?」
 言われるまま、四番打者の顔を高梨は注視する。が、遠くてよく見えない。
「アイツは大林の従兄弟だ」
「あっ」
 言われてみてはじめて、無愛想な顔立ちに共通項を発見する。今まで眼光の鋭さだけに気を取られ、顔全体にまで意識が届いていなかったのだ。
「俺とアイツは同じ中学だったんだ。昔っから良く打つ奴だったが。今ではアイツも主将だ」
「余計なことを」
 見れば、当の大林が肩を怒らせて正岡を睨み付けていた。
 その表情を見て、大林が何故今日の試合を前にして苛立っていたのか、高梨にはなんとなく判るような気がした。主将で四番の従兄弟を前にしては、レギュラーとはいえ、地味な七番打者では体裁が悪かろう。しかも、正岡は事情を全て知った上で、湯川商工戦を組んでいたのだ。
 そして暢気な調子の正岡がペースをあげきらない内に、失点は十にまで膨れ上がっていたのだ。
 高梨がこれをどう理解すれば良いのか判断に迷っている間にも、試合は進んでいる。
 そして正岡は五回表、三回目のアットバットとなった大林に、あわや二打席連続本塁打とひやりとさせる特大のセンターフライを放たれたところで、
「どうにも相性が悪いな」
 とばかりにマウンドを根川に譲った。
 オーソドックスな右オーバースローである正岡の投球を見せられたあとでは、根川の変則的な左スリークォーターから来るクセ球はいかにも打ちにくい。途端に、かさに掛かって攻め立てていた湯川商工打線の勢いが鈍った。
(最初から根川先輩が先発しておけば!)
 高梨は歯がみする。おそらく湯川商工打線は、中学時代のチームメイトだったという大林の従兄弟から、正岡の配球やクセを情報収集して対策を立てていたに違いないのだ。
 だが高梨が一人憤ったところで、もはやどうにもならないのだった。

 六回裏。
 大栄高の四番・宮本が積極果敢に初球打ちに出て、三遊間を破るヒットを放つ。
 どうもショートの動きが急造じみた粗い守備であることは、高梨の目にも留まっていた。それを見透かして狙い打ったかのような打球だった。
 さらに五番・児玉もライト前にヒットを放ち、チャンスを広げる。
 勝利の目はほとんど無いとはいえ、狭いグラウンドである。大量得点を挙げれば大逆転の可能性は皆無ではない。要は諦めないことだ。
 せめて代打でも良いから試合に出たい。懸命の声援を送りながら、高梨は心底そう思った。
 “勝たなきゃおもしろくない。”
 八大清水戦の後、綾瀬に言った高梨自身の言葉だ。少なくとも、自分の所属するチームがこんな不甲斐ない負け方ばかりするのは絶対に嫌だ。
 ここで大栄高の打順は、正岡の後に六番に入っている根川。バッティングには自信が無いのか、いかにも頼りなげな顔をして打席に入る。
(八大清水戦でも先制点を叩き出してくれたんだ、ここは意外と……)
 高梨の密かな期待に答え、根川がライト前ポテンヒット。宮本が盗塁練習の成果をみせつけるかのような好走塁で一気に本塁を駆け抜ける。
(やっぱり、そういう強運というか、ツキのある人なんだな)
 高梨は妙なところで感心していたが、所詮は十点差が九点差になったに過ぎない。勝敗は既に決しているも同然だった。
 この後は、両チーム共に体力を温存するかのように凡打の山を築いた。根川は七回以降、二塁を踏ませぬ好投をみせて湯川商工打線をねじふせたが、大栄高打線もまた、音無しのまま最終回も成す術無く三者凡退に終わったのである。
 スコア十対一。八大清水戦以上の惨敗に、高梨は言葉もなかった。自分が勝敗になんら関与していないことは、彼にとってはなんの慰めにもならなかった。

(2)


 新しい週になると同時に月も変わり、六月に入っていた。
 月曜日恒例の週間ミーティングで、正岡は一年生の基礎体力強化がこの二ヶ月で一段落したとして、一年生も本格的な全体練習に参加を認める旨、宣言した。これから夏の地区大会に向けて、実戦的な練習ばかりになっていくのだ。
 それまで、高梨と樋口以外はまともにポジションすら決まっていない状態だったため、いやがおうにも一年生の士気はあがった。
「こう見えてもお前らの適正はしっかりこの目で確かめてある」
 正岡は胸を張り、今日は一年生を主体とした陣容でのシートノックを行う、と伝えた。これは、多くの一年生部員にとってはただの練習ではなく、ポジションを決める大事なものだった。
 投手役を務めるのは、当然高梨である。
 だが、肝心の捕手は市川でなく、石毛という名前の一年生部員だった。彼も又、中学時代はキャッチャーだったという。市川に比べると随分と小柄で的が小さそうに思われたが、その童顔には小兵特有の精気が溢れているように見えた。
 そして市川はといえば、なんと遊撃のポジションを割り振られていた。強肩が条件であることと戦術眼が要求されることをのぞけば、ほとんど両者には互換性がない。
「まったく冗談じゃないよな」
 市川自身はシートノックでも目立ったミスを犯さず、高梨の球を受けた石毛もまた、小さな身体を精一杯動かして高梨の球を捕球していた。
 それでも市川にとっては不満なのか、ここのところ一緒に帰ることの無かった習慣をどこかに忘れてきたような顔をして高梨と共に帰宅の途につき、さかんに愚痴をこぼす。
「ま、出来れば俺もお前に捕ってもらいたいとは思う。だけど、ま、いいんじゃないのか?」
「他人事だと思いやがってよ。なあ、俺と石毛、どっちがキャッチャーとして上だ?」
「難しいこと聞くなよな」
 高梨が困り顔になる。
 実際の所、甲乙を付けられるほど、彼は石毛の力量を把握していない。ただ、感触としては打撃では石毛が上、守備及び肩は市川が上、というところだった。
「はっきり言って今のレギュラーの高根先輩は、バッティングはからきしだ。要は打てるキャッチャーが欲しいってことじゃないのか?」
 説明を聞いてくさる市川に、高梨は補足する。どんぐりの背比べ、というのが本心だが、さすがに当人の前では口に出来ない。
「だけどなあ」
「高根先輩はまだ二年だ。キャッチャーに関しては順当に行ったら、どうやってもレギュラーを取れるのは三年になってからだ」
 そう言って高梨は市川をなだめる。
 キャッチャーはそもそも他のポジションとの互換性が少ない。ピッチャーのように何人も必要ではない。キャッチャーにこだわっていたら、三年の最後までまともに試合に出られないかも知れないのだ。今の内に違うポジションを知っておくのは悪くない、高梨は本気でそう思っている。
「それをいうならなぁ」市川はまだ口をとがらせている。「今のショートのレギュラーは誰だと思ってるんだ? 宮本先輩だぞ」
「……あ。そうか」高梨も困った表情になる。ショートのレギュラーは、二年生ながら四番打者を務める宮本なのである。
「前向きに行けよ、市川。どの道バッティングではかなわないと割り切れば。守備で期待されてるんだろう?」
「確かに、俺はバッティングより守備のほうが好きだ。だがな、試合を自分の手で組み立てたいんだ。ショートじゃ無理だ」
「だったら、せいぜい強肩に磨きをかけておけばいいじゃないか。いつでもキャッチャーとしてお呼びがかかるようによ」
「お前はいいよな、いつも気楽でよ」
「前向きと言ってくれよ」
 高梨の言葉に、市川もようやく笑顔をみせた。

(3)


 本格化した練習の日々が続く。六月末には早くも地区予選が始まる。一年の多くはベンチ入りも叶わないだろうが、高梨にはその目が残っている。
 大黒柱である正岡がエースとして頼りになるのであれば、サウスポーの根川とユーティリティプレイヤーである四日市をベンチ入りさせておけば投手陣はほぼ足るところである。
 しかしながら、湯川商工戦でみせた余りにも散々な正岡の内容を勘案すると、湯川と同じ左でも、タイプの全く違う本格派である高梨を外せなくなってくる。
 そう分析してみせるのは市川である。
「ま、俺はどっちでも構わないが。試合には出たいが、ピッチャーである必要は特に無いな」
「お前がそんなこと言っていてどうするんだ?」
 彼は遊撃手として練習に参加してはいるが、まだキャッチャーとして高梨の球を受けるという希望は捨てていない。内野用のグラブとキャッチャーミットの両方を持参して来る毎日である。
「だけど、球を投げて貰わないことには、いくらキャーミ持ってたって意味無いだろ?」
 部室で着替えている際に市川の荷物に気づいた高梨はその理由を聞かされ、半ば呆れ顔で聞く。
「だからだよ」我が意を得たりという声で市川がにんまりする。「俺が捕るのはお前の球と決めてある。早朝練習につき合え」
「早朝練習?」高梨は思わず尋ね返す。
 大栄高では基本的に練習は放課後のみである。早朝練習は夏休みでもなければ実施されない。
「自主練だよ、自主練。今まで学校の練習が終わった後やってたが、どうにも成果が挙がらないんでな、朝やることにした」
「じゃあ、この間までさっさと帰ってたのは、家帰ってから練習してたからなのか?」
「練習つっても素振りくらいしか出来ないけどな」
 自嘲気味に言う市川だが、高梨は市川の密かな努力に感動さえ覚えていた。
「ま、気が済むんなら協力するさ」
「ありがたい。待ってろよ、じきにレギュラーになってやるからな」

(4)


 かくして始まった早朝練習は、当初高梨と市川だけの秘密練習の様相を呈していた。
 初めの頃はあまり乗り気では無かった高梨だが、次第に自分なりの課題を見つけ出していた。
 ピッチャーの優劣を判断する要素は様々に絡み合っていて簡単には分類できない。球速、コントロール、持久力、変化球、マウンド度胸、等々。どれも一朝一夕に向上するものではないが、高梨はこのうち、変化球に的を絞って練習に取り組むことに決めていた。
 球種を分類することも又一概には言い切れないが、速球(直球)、曲がる球、落ちる球、スローボール(チェンジアップ)の四種に大別できる。
 高梨の球質は余り重くはなく、剛速球というよりは快速球と評した方がその印象に近い。最高球速は130キロ前後というところで、剛球でねじ伏せるというピッチングは難しいし、また高梨のスタイルではない。むしろ、速球を主体としながら、変化球を用いて打たせて取る手法が妥当、と彼自身は判断している。
 変化球の代名詞たるカーブが、実は高梨はあまり得意ではない。重力に引かれて落ちるような、見栄えのしないカーブである。
 シュートあるいはスライダーに関して言えば、高梨はスライダーを得意としている。対照的にシュートのキレは良くない。肘を痛めるという話を懸念しているせいもあった。また、スライダーも多投すれば直球のキレが悪くなるという説を踏まえ、むやみに用いないことに決めている。
 フォークボールは、決まるときは自分でも驚くほどの落差をみせるが、むしろすっぽ抜けてバックネットまで飛んでいってしまう方が確率としては高く、自信を持って使えない。
 要するに、まだまだ発展途上なのだった。先の八大清水戦でも、球のキレに相応の自信がありながら、自分でもよく判らない内に打ち込まれてしまったのも、”使える”球種が不足している為と言えた。
「なんといってもカーブがまともに使えないことには、話にならないぞ」
 中学時代からその問題について話題になる度、市川にそう断言される。高梨も、何度かカーブのマスターに本腰を入れようとするのだが、どうしても中途半端な形に終わってしまう。
 高梨は、今度こそは、の念で練習に取り組み始めていた。いきおい、暴投やショートバウンドが市川を見舞うことになる。しかしその分、フィールディングの練習になると思えば、迷惑を掛けているという自覚は高梨にはなかった。

 早朝練習を始めて、一週間ほどが過ぎた。
 二人にとって、早朝練習をやることは特に隠し立てするほどのものでもなかった。かといって、おおっぴらに言いふらすべき事柄でもない、というのが実際の所だった。
「なあ、市川よお」
 一塁側のファールグラウンドの端に設けられたブルペンで、ランニングを行って体を温めてきた高梨が、起こしかけたモーションをとめ、プレートから足を外して問いかける。
「なんだ? こっちは準備完了だぞ」
 そう言う市川は言葉通り、プロテクターもマスクも装着した完全装備である。打者がいない以上、そこまで本式の装備をする必要は本来無いのだが、「実戦的に行う」事に意味がある、と市川は言い切る。本当はショートバウンドを恐れているのかも知れないが。
「本当はもっと、練習時間を増やしていったほうがいいのかも知れないな。俺達の野球部は」
「確かになあ。土日のどっちかは大抵休みになるし、照明施設がないから夜間練習もままならん。……しかしそれは監督や主将の考える事だぜ。また悪い癖が出たな」
 マスクに隠れてよく見えないが、おそらくしかめ面であろう市川の言葉に、高梨も小さく頷く。
「ああ。どうも中学時代の癖が抜けない」
 中学の野球部で主将を務めていた高梨は、つい自分が主将だったら、あるいは監督だったらこうするのに、という視点で野球に関しての物事を考える傾向がある。あるいは、新たな変化球をマスターするにあたり、監督に助言を仰げない(指導者として信頼できない)事に対する恨みのようなものがあるのかも知れない。
 大局的な視点を持つことは決して悪いことではない、と高梨は信じている。が、今の立場では考えても実現出来ない事を、いつまでも考え込んでいても仕方がないのは事実だった。
「よし、いくぞ」
 足をプレートに乗せ直した高梨は、小さめのワインドアップモーションから低く腰を落とし、力の乗ったストレートを市川の構えるミットめがけて投げ込んだ。このところ、カーブの練習ばかりしていて、右腕の感覚が妙な具合になっていないか不安になっていたのだが、ストレートのキレは落ちてはいなかった。内心で胸をなで下ろす。

 高梨達の早朝練習は、真面目な生徒が登校してくる頃合いまでで切り上げるので、他の部員にはまったく気づかれた様子は無かった。
 だが、同じクラスの綾瀬には何か気づくべき要素があったらしかった。
 早朝練習開始から一週間も立たないある朝。彼女は唐突に投球練習中の高梨達の元に姿を見せていた。
「朝からこそこそ何かやってるな、って思ってたら、こういうことか」
 意表を突かれて態度を決めかねている高梨を前に、綾瀬が得意げな笑みを浮かべる。
「なんでこんな朝早くに?」
「うん、ちょっと、気になったことがあってね。ね、それよりどんな練習やってるの?」
 綾瀬がとぼけ、ごまかすように問いかける。
「ただのキャッチボールだよ。それ以上の事は二人じゃできない。半分は自己満足みたいなものだ」
 高梨の変化球練習に関しては触れず、当たり障りのない答えを返す市川だが、どこかつまらなさそうだった。やはり秘密練習という雰囲気を好んでいたからだろう。
「おいおい、ただの自己満足に俺をつき合わせていたのかよ」
 高梨が苦笑する。確かに市川の言葉に同意出来る面もあった。むしろ高梨の方が意義ある練習を行っていたと言えるだろう。
「ふーん。ま、でも、秘密の特訓してるのは高梨君達だけじゃないけどね」
 と、綾瀬は何気なく聞き捨てならない事を口にする。
「え? 俺達以外に誰が早朝練習を?」市川が綾瀬に詰め寄る。
「早朝練習、って訳じゃないみたいなんだけどね」
 そう前置きした綾瀬は、最近正岡が投球フォームをいじっているらしい、と高梨達に伝えた。
「主将から聞いただけで、ホントに見たわけじゃないけど……。この間の試合で、気になるところがあったんじゃないかなあ。そう言えば私も中学でソフトボールやってた時、みんなでフォーム改造とかやったことあったな」綾瀬が当時を懐かしむ口調になる。「やればやるほどヘンになって、ホントに困ったわ」
 当時の混乱ぶりを思い出したのか、綾瀬はおかしそうに笑う。だが高梨は笑わなかった。
(そういうことか……)
 高梨はおぼろげな形で抱いていた懸念が、次第にはっきりとした輪郭を持ち始めるのを自覚していた。
 まだそれを綾瀬や市川に教えるつもりは無かった。ただの推論に過ぎないのだから。
 正岡が練習試合を組みたがらなかったこと。敢えて相性の悪いという大林の従兄弟がいる野球部と練習試合を組み、案の定、球が走らずにめった打ちにあって降板したこと。そしてその後、フォーム改造に取り組んでいること。
 いや、それ以前に、腹痛を理由に登板を回避したことも、推論の補強材料になる。
 高梨は確信した。
 正岡主将は、右腕に故障を抱えている。

 第四話に続く

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