(1)
後頭部に適度に固い何かがぶつかったのに気づいて、高梨は顔を上げた。
ほんのわずかな一瞬、置かれた状況を把握するのに時間がかかった。授業中だった。黒板上にスピーカーと並んで設置されている時計に目をやる。四時間目の授業が間もなく終わろうという刻限だった。
(誰だ、消しゴム投げやがったのは)
上手い具合に頭に当たった後、高梨の机に着地していた消しゴムを見つけ、高梨が不機嫌そうに振り返る。
見れば、消しゴムの持ち主であろう綾瀬が、しかめ面で高梨を睨んでいた。
(なんなんだよ?)
声を出さず、口だけを動かしてそう問う。綾瀬のほうは渋い顔つきで小刻みに首を横に振るばかり。
「どうした、高梨?」
黒板に背を向けている高梨を、教壇に立つ教師が見とがめて名前を呼ぶ。
「あ……」
その後、高梨が担任に問題をあてられ、答えることが出来なかったのは言うまでもない。
昼休み。
「なあ、綾瀬のせいで先生にみつかっちまったじゃないか?」
授業の終わりを告げるチャイムが鳴るのを待ちかねて、高梨が教室の最後列にある綾瀬の席まで行き、眉を上げて抗議する。
「言っておくけど、居眠りしてた高梨君が悪いんだからね」怒りたいのは高梨のほうなのに、綾瀬のほうが機嫌が悪い。「中間テスト終わってやれやれなんて言ってたら、すぐに期末テストもあるんだから」
「それを言うなよな」
綾瀬の言いたいことに気づいて、高梨は気勢をそがれた顔つきになった。高校生活始めての中間テストで、高梨は一教科とはいえ赤点を取り、補習及び追試を喰らっていた。
当然、補習に参加する分、練習時間を割かれる事になるのである。野球で名を馳せる強豪校ならばともかく、大栄高では野球部員だからといってなんら他の生徒と待遇は変わらない。
「……まあ、朝の練習とかも大変だろうとは思うけど」
高梨がトーンダウンしたのにあわせ、綾瀬も声を潜めた。
二人のやりとりに、市川が当然のように首を突っ込んでくる。
「そのあたりで勘弁してやってくれよ。な」
「お前が言うな」
高梨がすかさず突っ込みを入れた。市川は二教科が赤点だった。
「いつも思うけど、高梨君達を見てると厭きないわ」
綾瀬が笑い声をかみ殺している。
「まったく、なんでこんな奴と一緒の高校に入ったのか、時々判らなくなるぜ」
「だからそれは俺の台詞だっての」
「はいはい、そこらへんで――」
その時、教室のドアを半分ほど開けて、違う教室の女子生徒が綾瀬の名を呼んだ。口調に親しさが感じられた。以前からの知り合いらしかった。
綾瀬は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐにいつもの明るい調子の笑顔になって、席を立った。
「だれだ?」と、高梨が市川に訊く。女子生徒の情報に関しては市川に訊くのが一番簡単で確実だった。
「確か、ソフトボール部の一年だ。このあいだ、グランドで練習やってるのを見た。名前は確か……依岡だったかな」
「さすがに詳しいな」
大栄高には体育用のグランドと、野球部が用いる専用グランドがある。
もっとも厳密には後者は野球部の専用ではなく、ソフトボール部が週に二回、土日のいずれかと平日のうち一日を使用している。
専用グランドの利用は野球部の練習メニューを優先して、空いている時にソフトボール部が使う形になっていて、随分と不公平なようにも見える。もっとも、ソフトボール部は体育グランドにも使用権をもっているため、とりたてて練習不足という訳でもない。
「ソフトボール部ねえ。もしかしたら綾瀬の中学の時のチームメイトか、対戦相手なのかもな」
「なるほどな」
市川が、高梨の推測に頷く。綾瀬が垣間見せた曇り顔が気になったが、誰だっていろいろとあるもんだからな、と高梨はすぐにその事を忘れてしまった。
「さ、はやいところ飯喰っちまおうぜ。五限目は英語だからな。ぶっとばされないように予習しておかないと」
英語の教師は柔道部の顧問でもある巨漢、気合い負けするものではないが、さすがに腕っ節にものを言わされるとかなわない。
「おっとそうだった」
二人はそれぞれの席に戻り、急いで弁当箱を鞄の中から引っぱり出した。
(2)
六月に入って以来、一年生も本格的な実戦練習に組み込まれるようになっていた。とはいえ、基礎練習がおろそかにされて良いはずがない。
その日のメニューに組み込まれていたトスバッティング練習には、高梨も参加していた。
高梨が名を連ねた班には、根川も同様に顔を出している。前々から、あまり打撃には自信を持っていない様子の根川だが、トスバッティングを見る限り、それほどスイングは悪くない。金属バットはしばしば快音を発する。
それにひきかえ、と高梨は思う。どうも今までピッチングに熱を入れていたせいか、彼自身の打撃の勘は、やや狂いがちになっていた。
時折自分でも情けなくなるような当たりを打ち上げる。これでも中学時代はクリーンアップを打った事もあるんだが、と、自分の練習結果に満足できない。
案の定、マネージャとしての仕事の傍ら練習を観ていた綾瀬の目にも、高梨の不振は明らかだったらしい。休憩中の高梨に対し、
「高梨君、最近ちゃんと打撃練習やってないでしょ? さぼってると、どんどん実力が落ちちゃうよ」
などと、言わずもがなの指摘をしてくる始末である。
「判ってる」
高梨は憮然として応じた。別にさぼっていた訳ではない。
高梨の頭には、正岡が投手として限界に達しつつあるという懸念が強くこびりついて離れない。
その分をカバーするために自分が、とまで思っている訳ではない。ただ、一人苦しんでいるであろう正岡の心中を思うと、今は投球練習に専念して正岡の後顧の憂いを無くす事が一番なのではないか、と思ってしまうのだ。
「……どうかしたの?」
思案げな顔になった高梨を心配したのか、綾瀬が訊ねてくる。高梨は首を振った。
「いや。そういえば、昼休みに綾瀬を呼んでたの、あれ、友達か?」
「え? あ、依岡さんのこと? うん、中学の時、ソフトボール部で一緒だったの」
話題をごまかされたことに気づかず、綾瀬が答える。
「へえ」
市川の情報は正確だったが俺の勘も当たっていたな、と高梨は妙な自信を得て、休憩を終えて腰を上げた。
投球練習も大事だし、打撃練習もおろそかに出来ない。まったく忙しいことだった。
高梨が抱いている不安と懸念など何処吹く風、正岡は相変わらずの調子だった。
「なかなか打撃練習も頑張ってるみたいじゃないか」
高梨が投球練習のためにブルペンに向かうと、正岡がそんなことを言い出す。
あれのどこが頑張ってるんだ、と言いたくなるのをこらえ、高梨は神妙な顔をして頷く。
恐らく、正岡は十分に部員達の動きに目を光らせている訳ではないのだろう。適当なことを口にしているからといって、この程度の言葉にいちいち目くじらを立てる意味はない。
「ところでだな、お前。根川のバッティングをみて、どう思う? お前とどっちが上だ?」
前にもこんな事を聞かれたな。高梨は思い出す。あの時は、クリーンアップの一角を占める滝沢と比較されたんだっけか。
「まあ、同じくらいじゃないですか?」
今日は根川先輩の調子が良くて、自分の調子が悪かったですから、と言いたいのをぐっとこらえる。
正岡は、高梨が口にしなかった部分まで悟ったかのように、大きく頷いた。
「そう、その通り」正岡がにやりとする。「まったくレベルの低いどんぐりの背比べだ。いいか高梨、ピッチャーだからって投げるだけじゃ駄目なんだからな。俺みたいに投げて打って走れないとな。……天才はやることが多すぎて辛いぜ」
正岡が高笑いしてから、高梨の背中を思い切りひっぱたいた。やっぱり見るべき所はちゃんと見られているって訳か。背中に走る痛みに顔をしかめながら、高梨はそんなことを思っていた。
(3)
土曜日。
地区大会に向けて、最終的なレギュラーメンバーを選考するべく、紅白戦が行われることとなった。
もちろん、この試合だけでメンバーが決定される訳ではないが、気を抜くわけには行かない。部員達はそれぞれに張り切り、緊張した面もちで紅白いずれかのチームに分かれていった。
正岡率いる紅組は、ほぼレギュラーメンバーを揃えていた。対して、根川がマウンドに登る白組は、控え選手中心であった。
高梨は白組、市川は紅組と、別々のチームに配されてしまった。
「これじゃ出番がなさそうだ」
市川はレギュラーが顔を並べる紅組にまわされた事を嘆く。
「どうやら、どうしても俺達はバッテリーを組む運命には無いみたいだな」
高梨も苦笑いする。もっとも、先発するのは根川に違いないから、あまり出番は期待できそうもない。
白組には一年生の一番手捕手と位置づけられているのであろう石毛もいる。しかし、白組の先発マスクをかぶるのはなんと、ユーティリティプレイヤーの背番号10・四日市である。
とりたてて光るものがある訳ではないが、そこそこ肩が強く、そこそこバッティングをそつなくこなす為、こういう状況では重宝される。ややお調子者のきらいはあるが、本番度胸があり、事に臨んでも動じない、そんな選手だった。
それにしてもピッチャーもやればキャッチャーも出来る控え選手なんて、つくづく器用貧乏な人だよな。マウンド上の根川の球をボックスに入って捕球している四日市をベンチから見ながら、高梨は腹の中でだけ、そんな感想を抱く。
確かに、他のポジションと互換性がないため、融通がきかない筈の捕手もこなせるユーティリティプレイヤーがベンチにいれば、ずいぶんと戦術の幅は広がる。無能と紙一重の万能、といったところかも知れないし、志摩監督が四日市のようなタイプをうまく使いこなせるかどうかも判らないが。
「もしかしたら、市川に期待されてるのもそんな役割なのかな」
アイツがその事を知ったら、きっとむくれるだろうな、と高梨は思い、今思いついた考えは黙っておくことに決めた。
練習時間をあまり多く割いている訳にもいかない、という理由で、五回制という取り決めの元、紅組先攻で試合が始まった。
まずメンバーの力量から考えて、紅組の勝利は疑いない。そもそも、ベストメンバーとされている面子を揃えた紅組が、どれだけの実力を持っているのか見極めるための紅白戦のようなものだ。
逆に言えば、白組に甘んじている部員にとっては、紅組に一泡吹かせることが、自らをレギュラーに引き寄せるきっかけにつながる。誰がこのチャンスをものにするのか、完全な傍観者となっている高梨はその点に注目して試合を見る事に決めた。
案の定、白組先発の根川に対して、紅組打線が初回から襲いかかる。
一番・安原が初球打ちのヒットで出塁する。二番・石原は根川の変則投法にタイミングがあわず三振を喫するものの、続く滝沢が簡単に右中間へのタイムリーツーベースを放って先制する。
続く四番・児玉もヒットで出塁。根川の変則投法を見慣れた仲間内だけに、面白いほどバットの芯に捉えてくる。五番・宮本も痛烈な打球をレフト前に弾き返す。
サードランナーの滝沢が悠々と生還。しかし、児玉はあきらかな暴走をみせ、白組のレフトで四番を務める二年生・小清水の好返球によって本塁上で憤死する。
「あちゃあ」
白組に属していながら、高梨は天を仰いだ。暴走によるタッチアウトは、練習試合でも何度か見られたシーンだった。盗塁練習だけでなく、やはり状況判断力がまだまだ不足しているといえた。
ここで六番・正岡が打席に入る。
投打に活躍、と高梨相手にうそぶいていた正岡の打球は、根川得意のシュートを引っかけてボテボテのファーストゴロ。派手に打ち込まれた感はあったが、根川は二失点でどうにか切り抜けていた。
この調子だったら、あるいはリリーフとして出番があるかも知れない。
早朝の特訓の成果をみせられれば、高梨は気合いを入れ直した。
一回裏。正岡に対し、白組打線は全く手が出ない。
三人が簡単に凡ゴロ、凡フライを打ち上げて終わってしまう。じつにあっさりとしたものだった。
「もうすこし気合い入れてかかれよ。練習にならんぞ!」
正岡はそう言いながらも上機嫌でベンチに引き上げていく。
格下の打線を牛耳ったところで、大した意味はない。高梨の中ではそういう思いが膨れ上がる反面、それで正岡が調子を取り戻せれば結構ではないかという思いも存在していた。
少なくとも、今見る限り、極端にフォームが改造されたという印象はない。腕の振りがややコンパクトに、教科書通りのものに矯正されたようには思えるが。
やはり、腕に負担のかからないフォームと言うことだろう。球速は落ちたが、その分正確さを増したコントロールで、打たせて取るピッチング主体で行くつもりらしかった。
二回表。
紅組の猛攻は続く。
前回の湯川商工戦で従兄弟を前に面目を施せなかった七番・大林が痛烈な当たりをセンター前に弾き返して出塁する。
ここで八番・高根は、前々から高梨が感じているようにバッティングの不得手ぶりをみせつける三振に倒れる。が、九番に入る樋口が、ファーストに入る二年生、背番号15・石見のミットをかすめてライト前に達するヒットを放ってみせる。
練習試合においてはなかなか前評判通りにはいかないが、こうして練習や紅白戦を見る限りは、やはり評価されてしかるべきシャープなバッティングの光る選手であった。
が、それとは好対照に高梨の目を覆わせたのは、一番・安原が放った実に注文通りのショートゴロだった。ものの見事にダブルプレーが完成し、紅組は絶好の追加点のチャンスを逸する。
(4)
試合の要点は、結局の所初回と二回の表裏が終わった時点で、ほぼ出そろっていたと言ってよかった。その後も続いた展開も含め、実に不満と多くの課題が残るものだった。
白組打線は正岡の前に全くヒットが出なかった。打球のほとんどがショート・安原がさばくゴロになるという有様である。最後まで決め手をかくまま、正岡は五回を一安打無失点で投げ終えた。
白組唯一の安打を放ったのは、六番・サードで出場していた二年生、山口だった。そう、高梨達が入部するまでは、女子マネ不在の大栄高にあって、マネージャやスコアラーといった裏方をさせられていた部員である。
綾瀬の入部によってようやく本来の選手として練習に参加出来るようになっていた。もっとも、安打とはいうものの、浅いフライが内野と外野の間にぽとりと落ちたもので、到底クリーンヒットにはほど遠い当たりだったが。
一方の紅組も、褒められたものではなかった。
五回を通じて実に11安打と1失策を誘う猛打をみせたのは良かったが、二回、三回、五回とダブルプレーを喰らってことごとくチャンスを潰していたのである。
四回にはヒットで出塁していた正岡が、高根のセカンドゴロの際にホームに強行突入してタッチアウトになる体たらくであった。
なんと、初回に二点を挙げた後は、全く点が取れなかったのである。試合はスコア2対0、紅組が猛攻のわりにはぱっとしない得点差で勝利していた。
自分の属していた白組が負けたとかいう次元の問題ではなかった。レギュラーメンバー主体のチームである紅組の拙攻ぶりが、如何ともしがたい重いものとなって高梨の心にのしかかっていた。
得るものがあったとすれば、正岡の投球に取りあえず不安を覚えなかったこと。そして、あれだけ連打を浴び続けながら、初回以降は紅組に得点を許さなかった根川のねばり強いピッチングが見られた、という程度だろう。
八大清水戦で、高梨は根川の投球に早々に見切りをつけたものだが、やはり打たれ強いという話は本当だったのだ。
「参ったねえ」
先輩に挨拶して部室を出た途端、市川が首を振りながら、溜め息を漏らす。
「ああ、なんだか不安になってきた」
「気が早いかも知れないが、今年は駄目かもしれんぞ」市川が、高梨がおっかなくて口に出来ない事を平気で言う。「とにかくバッティングはただ打つだけ。戦術判断なんてあったもんじゃない。それに、走塁がてんで駄目なんだよな」
高梨も頷いて同意する。
走塁練習は地味で、見栄えがしない。そして、個人での練習は難しい。どうしてもバッティングのほうが練習しやすく、そして面白い。
その辺りを調整し、強制的にでも練習メニューのバランスを決定するのが監督の役目なのだろうが、志摩監督にはその意思はないらしく、放任されている。これでは勝てるはずがない。
「俺達がバッテリー組めれば、少しは戦えるんだろうけどなあ。今のチームじゃ、どこから手ぇつけていいか判らないぜ、全く」
市川のぼやきを聞きながら、高梨はこの状況において自分たちに一体なにが出来るのか、そればかりを考えていた。
「もっと練習するしかないよな」
「ああ。ソフトボール部にグラウンドを週に二回も貸しているのが、どっかで響いているのかもな。一日グラウンドを離れたら、勘を取り戻すのにやっぱり一日かかる。これじゃ効果があがらない」
「だけど、工夫してボールやバットを使える練習が出来るようにしてるぜ?」
「本物のグラウンドとは訳が違う……」
市川が校舎の裏手側にあたる方向に視線を這わせ、言葉を途切れさせた。
「どうかしたか?」
「今、あそこに樋口が居なかったか?」
「居たらどうだってんだ」
樋口は高梨達より先に着替えを済ませて部室を出ていたはずである。そこら辺りをうろついていたからと言って、高梨はなんとも思わない。
しかし、市川のほうは違うらしかった。
「女、連れてたんだよ」
興味津々といった表情で、校舎のほうに足を向けながら市川が粘ついた声を出す。
「ほっとけよ。関係ないだろ」
「そうもいくか。あいつ、女にはもてるが特定の彼女は居ないって噂だからな。つき合ってる奴がいるとなれば、面白いじゃねえか。偵察してくる」
言い残して、市川はわざとらしい忍び足で校舎の方に近づいていく。
彼女が居ないかどうかは別として、樋口が女子生徒に人気があるのは確かだった。切れ長の目に通った鼻筋、という二枚目の風貌は汗くさい野球部の中では異質ですらあるが、その辺りも魅力なのだろう。
現に樋口目当ての女子マネージャ希望者も何人か来ていた様子だったが、先任の綾瀬がマネージャの受付を取り仕切って全員不合格にしてしまった、という噂を高梨は聞いたことあった。
もしかしたら、綾瀬も樋口のことが好きなのかも知れないな、と高梨は考えて大きく息を吐いた。
市川の趣味につきあうのもどうかと思ったが、かといってこの場で一人、ただ市川を待っているのも馬鹿らしく、不承不承ながら市川の後に続く。
甲子園出場が夢という市川だが、ある意味でそれ以上に、大栄高の女子生徒に関する情報収集には情熱を傾けているようにも見える。
市川に言わせれば「IDとは、野球にのみ適用される用語ではない」とのことだが、高梨の見る限り、市川の異性への興味はもっぱら情報の集積にのみ頓注され、積極的にその情報を活用してモーションを起こすように見えない。
このくらいの熱心さで、対戦高のデータを集めたら、きっと凄いことになるんだろうな、などと高梨は考えながら、校舎にへばりついて向こう側の様子をうかがう市川に倣って顔を出す。
市川の言ったとおり、樋口が居た。ダイオキシン問題の影響で今は使用されていない焼却炉の横で、一人の女子生徒となにやら話し込んでいる。距離があって声までは聞こえないが、訳有りなのか、どちらの表情もとても恋人同士の会話とは思い難いほどに冴えない。
「誰だ? この間、綾瀬を呼びに来たソフト部の依岡か?」
「お前、相変わらず人の顔を覚えるのが下手だなあ。全然違う」
市川が呆れ顔で言下に否定する。言われてみれば、確かに印象が全く異なっていた。体育会系の明るさ、活発さというものが感じられない、おとなしそうな生徒だった。
「……とはいうものの、知らない顔だな。一年生なのは違いないが」市川が呟いた。
大栄高の女子の制服は、灰色のスカートにえんじ色のブレザーが基本である。既に衣替えが済んで夏服になっているので、今は白いブラウスだけだが。
市川が学年を特定できたのは、なにも彼に特殊な能力があるからではない。胸のリボンの色が学年によって異なるからだ。樋口と話している女子生徒の胸リボンは、今年の一年生の色である深緑色だった。
いずれにせよ、市川の情報網に引っかかってこないノーマークの女子生徒となると、よほど容姿から受ける印象が薄いのだろう。
「中学の時の同級生とかじゃないのか?」
高梨が、綾瀬と依岡との時と同じような台詞を口にする。
「そこまでは判らん。しかし、樋口にしては、なんというか、えらく低めの球に手を出したもんだな」
市川が喜んでいるのか怒っているのか判らぬ声音で言い、口元を歪めた。相手の女子生徒が、あまりぱっとしない雰囲気であることを皮肉っているのだった。
「つまらん事を言うな。そろそろ行くぞ」
「おい、あっ」
高梨は市川の首根っこをつかんで引きずって歩き出した。興味がないと言えば嘘になる。しかし、今は他人のプライベートを云々しているだけの精神的なゆとりがなかった。
(5)
月曜日。大栄高部室前。
週始めのミーティングで、正岡は今まで以上に熱心な口調で、体調管理を怠らず、ベストの状態で地区予選に入れるように、と指示を飛ばす。部員達もまた、日々近づいてくる地区予選に思いを馳せ、真剣な面もちでそれに聞き入る。
「今週の日曜日に、地区予選前、最後の練習試合を行う」
ミーティングの最後に、正岡がそう告げた。部員達が息を詰めて正岡の次の言葉を待つ。
「対戦相手は井町南高である」
部員達の間に、ざわめきが広がっていく。高梨も例外では無かった。唖然として市川と顔を見合わせる。
井町南高。大リーガー張りの豪快なフォームが売りの豪腕投手・渡を擁する、県下屈指の強豪校であった。
第五話に続く
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