『バトル・オブ・甲子園』
第六話”本番”




(1)



 綾瀬がおずおずと口を開く。
「輪島――」
「まさか、輪島城東か?」
 高梨が問う。井町南と度々決勝戦で激突し(なおかつ六割以上の勝率を誇る)県下屈指の強豪チームだ。
 そもそも、高梨達の県に高校はそれほど多くはない。数校の強豪校による寡占状態が長らく続いている。
 綾瀬はふるふると首を振った。
「城東じゃなくて、城南」
「なんだ」
 高梨と石毛が顔を見合わせて肩の力を抜く。一文字違いとはいえ、輪島城東と輪島城南ではまったく校風が異なる。城南は典型的な進学校であり、野球部のレベルは大して高くない。
「一安心だな。脅かすなよ」
「でも、そうでもないのよ」
 綾瀬は浮かぬ顔つきを崩さなかった。
「なんでまた?」
「トーナメント表見るとね、もし城南に勝ったら、二回戦で問題の輪島城東に当たるから。シード校で一回戦は参加しないから、絶対そうなる訳」
「あちゃあ」
 高梨が左手で自分の額をぱしんと叩いた。石毛も眉間に深い皺を刻んでいた。
「こら、なにをごちゃごちゃ騒いどるんだ」
 練習用ユニフォームに着替えた正岡が肩を怒らせてブルペンのほうへ歩いてくる。綾瀬はそそくさと部室のほうへ引き上げ、高梨と石毛も練習を再開することにした。

 結局その日は、部員達の間で一回戦の対戦相手となった輪島城南と、仮に勝てたとしても間違いなくぶつかることになる輪島城東、その二校の話題で持ちきりだった。

(2)


 夕闇迫る川沿いの道。いつもは後片づけやらなんやらで最後のほうまで居残っている綾瀬が、高梨と市川と一緒に駅前までの帰途に付いていた。
「先輩達、けっこう盛り上がってたね」
 綾瀬が意外そうに言った。
「そりゃ、どうやっても二回戦どまりとは言え、いや、だからこそ、絶対に初戦は突破しないとな」
 市川が応じる。
「なんだか後ろ向きじゃない?」
「春以来」市川が難しい顔つきで言った。「これまで練習試合で、同レベルの相手でもまともに勝った事ないんだぜ?」
「せめて、一つでも多く勝ち続ける、ってくらいの前向きな発言にならない? 実力はきっとみんなあるんだからさ」
「どうかな」
 しばしの沈黙。それぞれが互いの立場の違い、それを思った。
 ――たとえ控えだろうが、一年生ながら背番号を貰えるであろう高梨。
 ――今年の夏はスタンドからの応援を余儀なくされる、ポジションすら決まらない市川。
 ――何が起ころうと、絶対にプレイヤーとしての立場を共有できない綾瀬。
「あ、そうだ。高梨君、もうすぐ誕生日だよね?」
 綾瀬が雰囲気を変えるように話題を高梨にふってきた。
「そうだけど? 良く知ってるな」
 確かに一週間後、七月八日が高梨の誕生日だった。言われるまで、高梨自身が半ば忘れていただけに、驚いていた。
「ダテに名簿とか、スコアブックとか管理してないわ」
 綾瀬が得意そうに澄まし顔になる。
「へえ。じゃあ、俺の誕生日も覚えてるわけ?」
 市川が聞く。
「うーんとね。……ごめん、全員の分覚えてるわけじゃないんだ。」
 綾瀬は困ったように肩をすくめ、舌を出していた。
 その姿を高梨は見ながら、俺は18歳の誕生日を迎える頃、どんな立場に立たされているのだろうかと思った。

(3)


 七月五日。
 対輪島城南戦の日程は七月一七日に組まれていた。わずか二週間ほどではあるが、明確な目標を与えられた部員達の練習には熱が入り始めていた。
 七月一三日には、地区大会を前に背番号の更新が控えている。もちろんその点を視野に入れた上での練習である。
「地区大会では、ここの地区では一八人までベンチ入り出来る」
 ブルペンでの投球練習の合間に、正岡が高梨に言った。
 並んで投げ込んでいた高梨の見る限り、正岡はそれなりに調子をあげてきている。
 しかし、どこか不安が募るのも事実だった。日に何百球と投げ込んで制球力を養うのが普通の高校野球部のエースにしては、投げ込む量が圧倒的に少なく思えるのだ。
 かといって、それを咎めるコーチもいない。監督はまったく正岡の好きなようにさせている。もしかしたら人前で殊更に努力するのを照れ、隠れて練習するタイプなのかもしれなかったが(フォーム改造を密かに実施していたように)、高梨にはどうも引っかかっている。
 それはともかくとして。
甲子園大会ではベンチ入りは一六人であるが、地区大会でのベンチ入り人数は地区ごとに異なっている。一種の温情に近いものだろうと高梨は思う。
「三年にとっては、最後の大会ですからね。一人でも多くベンチ入り出来たほうが――」
「ところが、そうはいかないんだな」
 正岡がにやりと笑った。
 彼が言うには、伝統的に大栄高では、地区大会のみベンチ入り可能な背番号一七及び一八は、一年生に与えられるのだった。
「今年の一年坊主はちょうど一〇人。お前と樋口は最初から背番号貰ってるから除外するとして、あと八人だ。お前なら八人のうち、誰と誰を選ぶ?」
 またか。高梨は露骨に嫌そうな顔をした。正岡は前から、こういう高梨にとって返事に困る質問をぶつける傾向にある。あるいは弱ってる高梨の顔を見るのが趣味なのかも知れない。
 それはそれとして、高梨は素早く同期の顔ぶれを頭の中に思い浮かべる。
 本音を言えば当然市川に参加して貰いたい。しかし実際にはポジションも固まらない状態では難しいだろう。石毛も、二年生に高根という正捕手がいて、三年に四日市がいる以上は捕手は足りている。
「中川と、榎本あたりでしょうかね?」
 練習での扱いから、高梨はそう言った。中川は外野手で、打撃のほうは十人並みだが強肩。榎本はファーストで、守備はザルだが時折打撃練習で目を見張るような球を飛ばす。それぞれ、守備固めと代打としてなら使えるかもしれないと高梨は客観的な目で思う。
「ほう。市川と言わなかったな? 友達だろうが」
 正岡が面白そうな顔をした。
「あいつは今ベンチ入りしても、出番がありませんよ。そのうち伸びてくるとは思いますがね。で、正解はどうなんです?」
「監督とも話してるんだが、まあ中川は当たりだ。あと、榎本より横山だろうな」
「あいつですか? なんでまた」
 高梨は怪訝そうな顔をした。横山は確かにいかにも野球部らしい大柄な体格の持ち主で、守備での動きにもキレがある。ただ、時折無断で練習をさぼる問題児でもあった。その為、正式なポジションも決まっていない。市川とは事情が異なるが、やはり実戦参加させるのには不安が残る。
「枠の無駄遣いにならないですかね?」
「どの道、背番号一七や一八なんざ、伝令に使うのがせいぜいだ。試合で出番なんか無い。それより、グラウンドレベルで地区大会の雰囲気を見て勉強することに意味がある」
 甲子園出場など夢のまた夢という野球部の発想だな、高梨は寂しく思った。あと二年でどこまで変えることが出来るのだろうか。

 結局七月一三日の背番号更新では、レギュラークラスの変動はほとんど無く、二桁背番号の一部で入れ替えがあったにとどまった。一年生は正岡の言葉通り樋口が背番号八、高梨が一六、あと横山が一七、中川が一八で収まった。

(4)


 一回戦を恐れ、あるいは待ち望む、じりじりするような日々が過ぎた。
 七月一四日には、地区大会参加六二校が二つの球場に分散して集結し、地区大会開会式が行われた。高梨もまた、背番号を背負って開会式に参加した。
 そして七月一七日。対輪島城南戦当日。
 一学期ももう終わり、まもなく夏休みだという認識は、高梨にはほとんど無くなっていた。本当の意味で一段落するのは、地区予選のどこかで敗北した時だろう。もしかしたらそれは今日なのかも知れないのだ。
 輪島城南戦は第四試合になる。幸いにも開催球場が大栄高からほど近いため、午前中は最後の調整を学校で行うことになっていた。
 細かいメニューは与えられず、ひたすらテンションを最高の状態に持っていくための軽いウォーミングアップが続けられる。
 空は快晴。入道雲の沸き立つ真夏の日差しが容赦なく大栄高グラウンドを灼いていた。
「あまり入れ込んで投げてると、本番でバテるぞ」
 久々に市川と組んでの投球練習を行っていた高梨に、背番号十四を付けた根川がのっそりとした声で言った。
 二番手投手だから普通は背番号十をつけるべきなのだろうが、志摩監督には何か特別な背番号付与基準があるらしく、十を背負っているのは二番手捕手でありユーティリティプレイヤーである四日市である。
(この人は、そう簡単にバテそうもないけどな)
 高梨は内心でそんな事を考えながらも素直に助言に従い、軽く投げ込んだだけで切り上げてベンチに引き上げた。
 市川のほうは、スタンドでの応援の準備があるため、のんびりする間もなく、部室前へと駆り出されていた。
 大応援団の投入など思いも寄らない段階である為、控え部員がどこまで効果的な声援が送れるかも重要な要素だった。応援が実際の試合に影響を与えない自己満足だと考えるのはあまりに早計である。自軍の声援が敵より劣っていると感じることは、時として自軍の実力が相手を下回ると思い知らされたときよりショックとなる。
 ベンチでは、綾瀬が肩から下げる角張ったカバンから何冊ものスコアブックやノートを取り出し、なにやら分析を行っていた。
「輪島城南は攻守にバランスの取れたチームってところね。エースピッチャーの鹿内君は、井町南の渡さんみたいに大きいフォームから投げ込んでくるけど、球威はやっぱり全然レベル下だから、慌てずに狙っていけるわ」
 高梨の顔をみた綾瀬が、すらすらと言った。
「詳しいなあ。偵察してきたのか?」
 驚く高梨に、綾瀬はぺろりと舌を出した。聞けば、この二週間、輪島城南戦の情報収集にほとんどの時間を費やしたという。
「道理で、最近練習時間に見かけないと思ったら」
「だって、絶対に一回戦は勝たないとね」
 試合に出ることがかなわない以上、可能な限りのバックアップをしたい、その気持ちは高梨にもよく判った。もっとも、判りはしたが自分が同じ立場になりたいとは思わない。たとえ競技が野球でなくとも、自分で試合を直接左右できる立場にいたいと思うタイプだった。
「そういえば」
 高梨は唐突に言った。
「なに?」
「今年の春から、スコアブックとか、ちゃんと付けてるんだろ?」
「うん、まあ」
 綾瀬は中学時代、ソフトボール部でスコアブックの付け方を覚えていた。いままで大栄高の記録はひどく杜撰で、チーム分析の役に立つような代物ではなかったのだが、今年の春から綾瀬が一手に管理を引き受けたおかげで、データとして役に立つものが残っている。
「レギュラークラスの打率ってどんなもんなんだ?」
「打率? えっとね。ちょっと待ってね……」
 分厚いバインダーに挟まれた用紙を綾瀬が繰り、開いて高梨に見せた。パソコンやワープロを使えないのか、それともなにかポリシーがあるのか(頻繁に書き換える必要からか)、全て手書きの一覧表だった。
「う、ひでえもんだな。ほとんど一割台だ」
 綾瀬の几帳面な字で記された記録を見て、高梨が顔をしかめた。かろうじて二割に達しているのが滝沢、児玉のクリーンアップの二人だけ。高根に至っては一割を切っている。
「まあ、昔のデータと通算してるから、正確じゃないんだけど……」
 と言いつつ、綾瀬はこの春からのデータだけを計算した一覧表も見せる。言葉の割りに、今年の春からの分と比較しても、目立った違いは無かった。

 そうこうしている間に、出発の時間となった。
 強豪校であれば、移動用のバスすらもっているところもある。当然ながら大栄高にはそんな気の利いた者があるはずもなく、電車による移動である。
 総勢三十名あまりの選手及び補欠の部員が一カ所に集まって電車に乗っている光景は、何度みても凄みが効きすぎているように高梨には思われた。

 対輪島城南戦は第三試合が延長戦になったこともあり、夕闇迫る中でのプレイボールとなった。
 輪島城南高がウォーミングアップを済ませ、続いて大栄高の選手達がグラウンドに散る。
 本当に肩の具合は問題ないのだろうか。
 マウンドに登り肩をあたためている正岡の投球を見る度に、高梨の胸に不安がよぎる。しかし、投球そのものには右腕をかばうような仕草はとりたてて見られない。苦痛に表情を歪める姿もない。
「観客が少ないなあ」
 宮本とキャッチボールをしていた滝沢がもらし、それを聞いた部員の中で、張りつめた空気がやや緩んだ。滝沢はプレッシャーがかかる場面であるほど燃えるという、野球選手として得難い資質の持ち主だった。
 高梨もつられるように、大栄高側である三塁側観客席に視線を送った。たしかにスタンドはガラガラにすいていた。ほとんどが大栄高の関係者ばかりである。市川も当然その中にいる。
 見知った顔も多い。もっとも高梨の家族は今日は応援に来ていない。彼の両親は応援に熱心なほうではない。地区大会の決勝でもならなければ顔を見せないだろう。
 そんなことを考えていると、見覚えのある顔で視線がとまった。いつだったか、校舎の裏手で樋口と話し込んでいた一年の女生徒だった。
(石毛に告白されて困ってる、って話を相談された、って樋口は言っていたよな。結局あれは、どうなったんだ?)
 背番号を貰えなかった石毛もまた、スタンドにいるのである。二人の関係がもしうまく行っていないとしたら、顔を合わせるのはどちらにとっても気まずいだろう。
 逆に言えば、野球部の石毛は仕方ないとして、樋口の知り合いだという彼女は、石毛と出会う可能性が高いことを知った上でここまで足を運んでいるのだ。
 市川が言うように、あの娘は本当は樋口に惚れていて、樋口の応援のためにわざわざ応援に来ているのかも知れない。
 そんなことをとりとめもなく考えているうちに練習時間が終わった。
 ベンチに引き上げる。志摩監督が短く「全力を尽くすことだけを考えろ。姿勢が結果を生む。最初から結果を気にするな」と訓示する。
 試合開始時刻が来た。
 審判団がホームベース後方に揃う。両チームの選手が気合いと共に飛び出し、整列そして挨拶を交わす。互いの声は獣のようだった。スタンドから歓声が起こる。
「楽しんでいこうぜ」
 ベンチに戻り際、高梨は樋口に軽い調子で言った。スタンドに彼女が応援に来ているぜ、とは言わなかった。当然知っていると思ったからだ。野暮な真似はしたくない。
 しかし、高梨がリラックスさせようとして放った軽口を聞いても、樋口の表情はやや青ざめているようにみえた。
(頼むぜ、全く。一年生唯一のレギュラーなんだからさ)
 高梨はスコアボードに記されたスタメン表をみた。小さく笑みを浮かべる。打順は全く固定されていて、練習試合の時と変化は無い。さすがに正岡も、高梨に打順を考えろとは言わなかったことを思い出したのだ。

(5)


 ざわついた空気の中、試合が始まる。
 一回表。
「いつも幸先だけはいいんだよな」
 高梨が何気なく漏らすと、ベンチの何人かが笑った。いつも先制しては逆転され、そのままずるずると、というのがこの春からの負けパターンだったからだ。
 一番・安原は粘った末にサードゴロに倒れた。
 駆け足でベンチに引き上げてきた安原は、ちょっと悔しそうな顔をしながらも「球筋は見える。渡とは段違いだ」と仲間に伝える。データ収集は一番バッターにとって大事な役目だ。
 続く二番・石原は鹿内の球を正確に捉え、サードのグラブをかすめてレフト前に運んだ。
 三番打者・滝沢は初球、甘く入ったストレートを見逃さず、バットを振り抜いた。背筋の震えるような快感が、ベンチで応援する高梨の身体を走った。打球は左中間を真っ二つに破るコースへと綺麗に飛翔していた。
 石原が一気にホームベースにまで帰ってくる。一点先制。
 続いて四番・児玉も負けじと一、二塁間を破る当たり。二塁ベースの滝沢は本塁突入。返球は良い位置に飛び込んできたが、間一髪セーフ。二点目。その間に児玉は二塁に達していた。
「お前の言うとおり、今日も幸先良いな」
 完成に出迎えられて戻ってきた滝沢が、高梨に言って笑った。

 初回に二点を挙げた大栄高に対し、輪島城南は三回まで全て三者凡退に討ち取られていた。正岡の調子は良さそうに見えた。
 しかしながらやはりというべきか、四回裏、輪島城南打線の打順が二巡目に入ったところで、正岡の球が掴まり始めた。
 配球を読み始めていることもあるが、それほど球数が増えたわけでもないのに、はやくも球威が落ちてきているのだ。詰まった当たりしか飛んでいなかったのが、次第にバットが快音を放つようになる。
 ヒットを重ねられ、たちまちのうちに同点に追いつかれる。
 高梨のわだかまっていた不安が的中したのだ。しかしだからと言って、全く喜ぶべきものではなかった。むしろやりきれない思いで高梨はいっぱいだった。
(なんでだ。やっぱりどこか故障してるのか? だとしても、三回までは完璧だったってのに……)
 根川が志摩監督に命じられ、ブルペンで投球練習を始める。
 最後のマウンドになるかも知れない正岡を早い段階で交替させなかったのは、志摩監督なりの温情だったか。しかし結局はいたずらに傷口が広がるのを座して待っていたのも同然だった。
 遂に五点を失ったところで、志摩監督は投手交代を主審に告げた。
 代わって、根川がマウンドに立つ。
 目に見えて球速の衰えてきていた正岡と比べると、根川の球は格段に伸びていた。
 実際、春の頃に比べると球速が増しているようだった。投球フォームは相変わらずの変則だったが。
「根川の強みは、ランナー背負ってもプレッシャーにならないところだろうな。あと、妙な運気みたいなものを持ってる」
 ベンチの奥で汗を拭いていた正岡が高梨に言った。
「運気?」
「まあ、見てろ」
 正岡があごをしゃくってみせた。
 根川は二番打者をピッチャーゴロに討ち取ると、この回の攻撃の口火を切った三番打者を三振に仕留め、悠々とマウンドを降りてきた。

 五回、六回と両チームとも得点機を掴めない。大栄高の打線は沈黙し、輪島城南はランナーを出すものの、ゲッツーにとられたり、進塁させられずにみすみすチャンスを潰したりで互いに無得点。
 根川のしぶとさは相変わらずで、高梨はつくづく感心させられた。正岡の言う運気なるものが確かに高梨にも感じられた。
 試合が動いたのは七回表、大栄高の攻撃。
 この回のトップバッターは五番・宮本。今日はショートへの併殺打とピッチャーゴロに倒れていた彼は、臆さずに初球をひっぱたき、マウンドの鹿内の足元を抜くセンター前ヒットを放った。
 続いて、相変わらず頼りなげな構えで打席に入った六番・根川が、これまた運気の為せる技か、レフト前にポテンヒットを放つ。さらに、七番・大林もまた、内野と外野のちょうど間へと、計ったように打球を落とす。ただ、見極めが難しかったためにスタートが遅れ、セカンドランナーの宮本は本塁突入は断念した。
 ノーアウト満塁。下位打線が鹿内を再び捉えたことで大栄高ベンチが湧く。しかし、この絶好機に打席に入るのは、打撃では全く期待出来ない高根なのだった。
 こうなると、ノーアウト満塁だけにかえって攻撃側は攻め手の選択肢が限られてしまう。本塁でもフォースアウトになるため、スクイズは無理。ヒッティングとの予想を限定するだけで、内野陣の守りには余裕が出てくる。ノーアウト満塁で意外と得点が入らないのは単なる偶然ではない。
 高梨は「代打かな?」と正直思った。
 打撃に多少覚えのある控え選手もベンチには何名かいる。しかし志摩監督にはなにか別の思惑があるらしかった。根川との呼吸があっていることを惜しんだのかも知れないし、今日の高根の打撃に期待出来るなにかを感じ取っていたのかも知れない。
 ともかく打席に入った高根だが、完全に鹿内のペースに呑まれていた。立て続けに二度空振りすると、三球目の難しい球に無理に手を出した。ボテボテのショートゴロ。
 球の勢いが死んでいた分、併殺を完成させるのには若干の時間が余分に必要だった。ショートは本塁送球を諦め、六−四−三で確実にダブルプレーを取る。この間に三塁ランナーの宮本がホームベースを踏んだ。得点は三対五。二点差に迫った。
 なおもツーアウトながらランナー三塁で、バッターは九番・樋口。九番とはいえ、過去二打席は共にレフト前ヒットを綺麗に飛ばしている。樋口の挙動を見守る視線に期待がこもる。
 が。高梨はやばいと感じていた。樋口はプレッシャーに弱い。人に期待されることをどこか怖がっている感すらある。その為に一層人付き合いが苦手になり、黙々と己を高めることに没頭してしまう。
 なまじ才能があるが為に、そうやって孤立してしまうのだ。孤高と呼ぶにはあまりにも脆い存在なのだ。
 高梨には、樋口が緊張でがちがちに身体をこわばらせているのが手に取るように判った。
 一挙手一投足に落ち着きが無く、意味もなく動作がせわしない。マウンドの鹿内もまた、当然そのことに気づいているはずだ。相手の弱みを知った投手は強い。
(せめて市川並みに、女の事考えてにやけるぐらいの座った腹があればな)
 樋口はセカンドゴロに倒れた。

(6)


七回裏。
 輪島城南高が俄然反撃に転じる。
 二番打者が右中間を真っ二つに割る特大の三塁打を放ち、追加点のチャンスを作る。
 ここで当然打順はクリンアップトリオに回る。高梨は密かに失点を覚悟した。
 ところが、これからが無頼の撃たれ強さを発揮する根川の真骨頂だった。
 三番打者の打球はセカンド・石原の正面。当たりの強さが微妙なものであったため、三塁ランナーはホームに突っ込む。石原が迷わずホームに返球する。
 どんぴしゃのストライクの球が高根のミットに収まる。ブロックも綺麗にきまり、三塁ランナーを本塁突入コースからはじき飛ばす。
 これでワンアウト一塁。
 四番打者は、石原のファインプレーの余韻を吹き飛ばすかのようなセンター寄り左中間への当たりをかっ飛ばした。打球はセンター・樋口が回り込んで抑えたが、打者走者はあわよくば二塁を、と一塁ベースを蹴ってフェアグラウンドにオーバーランする。
 樋口はその動きを見逃していなかった。すかさず一塁・滝沢へと矢のような返球。まさかボールが返ってくるとは想像すらしていなかった四番打者は慌てて頭から一塁ベースに飛び込むが、それより先に滝沢のミットがボールを掴んで四番打者の手にタッチしていた。
 これでツーアウト二塁。最大のピンチは逃れたが、なおも得点圏にランナーがいる。そして打席に入るのは今日三打数一安打の五番打者。
 が、根川はまるでプレッシャーを感じさせない悠々たるピッチングで五番打者をセカンドゴロにきってとった。遂に一点たりとも失わなかった。

 八回表。
 根川の驚異的な粘りをみせられた後だけに、否応なく大栄高打線は奮い立っていた。このまま終わりたくはない。
 打順は一番・安原からの好打順。しかしながら安原、石原と相次いで凡フライを打ち上げて倒れる。
 ツーアウトランナー無しで巡ってきたクリーンアップ。ここで粘りを見せないと、このまま終わってしまう可能性が高い。
 プレッシャーに強い三番・滝沢はここで痛烈な打球を一塁線際に放った。一塁手が飛びついて抑えたかに見えたが、打球はミットの鼻先をかすめてライト線を走っていた。
 滝沢は一気に二塁へと達した。
 ここで四番・児玉が打席に赴く。初回の二点目をあげたタイムリーの再現を大栄高は誰もが期待する。
 輪島城南高の鹿内はかなり疲労の色を浮かべていた。味方打線が四回の五点以来、根川に押さえ込まれていることも響いているのだろう。試合の流れが敵に向いていると感じることほど、いい知れない不安にとらわれることはない。
 いまや彼我の勢いは完全に逆転し、大栄高のペースであるように思われた。
 鹿内が投げ込んだストレートを、児玉が逆らわずレフト前に運んだ。
 滝沢は果敢に三塁を蹴り、本塁に突っ込んだ。
 またも暴走気味の走りに、高梨の背筋を冷たいものが走る。ここで得点できなければ、まずこの試合、勝ちは無い。流れが相手に戻ってしまう。
 滝沢が頭からホームベースに突っ込むのと、レフトからの返球がセカンドの中継を受けてキャッチャーのミットに収まり、ブロックされるのが同時だった。
 盛大に土煙があがる。しかし、主審は間をおかず腕を左右に広げた。
 三塁側スタンドで歓声が爆発する。スコア四対五。ついに一点差においついたのだ。
 本塁送球の間に児玉は二塁を陥れ、さらに攻撃は続く。五番・宮本がすくい上げるようにして放った打球がライト前にぽとりと落ちた。
 打球が浅すぎ、児玉は三塁でストップ。
 ツーアウトながら一、三塁というチャンスで、打順は六番・根川に。
 根川先輩はなんだかんだ言って結構打つからな、と高梨は期待していたのだが、志摩監督の考えは違ったらしい。代打に四日市を送った。
 しかし、その選択は裏目に出たらしく、四日市は平凡なサードゴロに討ち取られた。
「どうするんだ?」
 ベンチの後列で戦況を見つめていた高梨は思った。根川に代打が出た以上、投手が交替することになる。
 根川がマウンドに登ってから、いちおうブルペンで投げ込んで肩は作ってある。しかし、四日市もまたユーティリティプレイヤーとして投手も務めることが出来る。
 一点差を絶対に広げてはならない、大事な場面である。これまで大した実績を残していない自分より、四日市がマウンドに赴くのではないか、高梨はそう思った。
 が、内心では投げたい、試合に出たいという思いも強くある。
 ポンと右肩が叩かれた。振り向くと、正岡がにやついていた。
「さっさと行って来い」
「え?」
 高梨は正岡のほうを向いてから、志摩監督のほうを伺った。監督はベンチを出て主審に投手交代を告げていた。
「頑張って来いよ」
 ヘルメットとバットを持った四日市が、申し訳なさそうな顔をしながら戻ってきて、高梨に言った。
 やがてアナウンスが流れ始める。
「大栄高校、選手の交代をお知らせします。ピッチャー、根川君に代わりまして、高梨君。ピッチャー・高梨君。背番号16」

 第七話に続く

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