『バトル・オブ・甲子園』
第七話”思惑”




(1)

 八回裏。
 試合開始時点でかなり陽は傾いていた。西の空には夕焼けの気配が漂っている。
 延長戦になったら、ナイターになるんだろうか。
 根川の後を受けてマウンドに向かう途中、高梨は自分が引きずる長い影に視線を落としてから、球場の照明施設に視線を向けた。
 照明を使うには金がかかる。もしかしたら再試合になるかも知れない。いや、それ以前にチームが同点に追いつかないことには考えても仕方のないことか。
 足の裏に伝わる感触を確かめるように、高梨はスパイクで何度かプレート上の土を払い、踏み込む右足が収まるマウンド上の窪みに足を実際に突っ込んでみた。
 投球練習を始める。肩は出来上がっている。実際の感覚を掴むためと、実戦に挑む前のテンションを作り上げていくための儀式のようなものだ。
 やがて、投球練習は終わった。マウンドに内野陣が集まってくる。
「落ち着いて行け、つったって、高梨はいつも落ち着いてるから大丈夫だな」
 ファーストの滝沢が言うと、むしろ緊張した面もちの他の選手達の表情が緩んだ。高梨は小さく頷いて応じた。
「締めていこうぜ」
 高根が軽く高梨の肩をミットで叩くと、部員達もそれぞれの守備位置に散った。
 試合再開。
 輪島城南高の先頭打者への初球。外角に外すカーブ。明らかなボール球だったにもかかわらず、相手は手を出してきた。打球はどんづまりでファーストへ。
 滝沢がそれを確実な動作で捕り、自らベースを踏んだ。ワンアウト。
 幸先よく簡単にアウトが捕れ、高梨は頬を緩めた。
 このまま押し切ってやる。
 高梨の調子はまずまずだった。
 ストレートは重く高根のミットを鳴らし、フォークも良いときの落差の鋭さを発揮してくれた。課題となっていた変化球のキレも、市川相手の特訓で多少は冴えていた。
 高梨は八回を三者凡退に切って取った。

 九回表。
 最終回の攻撃。
 少なくとも流れは大栄高に傾いている。部員達は肌でそれを感じ取っていた。
 一点差で負けているという現実は重い。勝てるかも知れない、という思いが部員達の全身から立ち上っているだけに、実際に打席に入る選手達へのプレッシャーは、決して練習試合ではありえなかったほどに高まっている。
 打線は下位にまわる。
 輪島城南高のエース・鹿内はかなり疲労の色を浮かべているが、交代の気配はない。全幅の信頼を受けているのか、二番手以降がよほど頼りないのか、恐らくその両方だろう。
 そんな中、大林が粘った末に四球で塁に出る。待望の同点ランナーである。
 ここで志摩監督は高根に変え、佐々木を代打に送った。え、と高梨は思う。すでに四日市は代打に出ている。誰がキャッチャーをやるというのか。
「その気になりゃ、球を取るのは簡単だ」
 正岡が無責任なことをいう。
 確かに高根では好打は期待できない。送りバントすらままならないほど、打撃が下手なのだ。
 しかし、志摩監督の采配は結果的には奏功しなかった。佐々木は二度送りバントを失敗し、強打に出たあたりは平凡なレフトフライに終わった。
 ワンアウト一塁。九番打者・樋口が四度目の打席に向かう。
「打ってくれよ!」
 ほとんど悲鳴のような高梨の声に、樋口が反応した。振り向き、ちらりと笑みをみせる。
「あいつ、意外と余裕あるなあ」
 滝沢が思わず声を漏らしたのを、高梨は聞いた。おそらく今の場面は、滝沢にとっても怖じ気づくような状況なのだろう。
 そんな中で笑ってみせられる、というのはどういうことか。ただでさえチャンスにはあまり強くないはずの樋口が。
 右打席に入った樋口が構えた。
「なんか、打てそうだなあ」
 滝沢が、相変わらず感じ入ったような声を出した。
「判るもんなんですか?」
 高梨が素直な気持ちで尋ねた。滝沢がうなずく。
「昔な、ある強打者と何度も対戦した投手の言葉で、その打者を評して『苦笑いの中に自信があり、上を向いて打席に入る時は頭の中がクリアーで、下を向いているときは混乱している』ってのがあるんだ」
 滝沢がやや得意げに言った。少なくとも樋口は、いつもより顔が上を向いて、背筋が伸びてる。要らんこと考えて混乱している風はない。
 滝沢の言葉通りというべきか、樋口は初球、外角高めのきわどいボール球を見送った。打ち気に逸っている時にはつい手がでてしまうようなコースとスピードだったのだ。
 二球目、今度は投手の球がワンバウンド。
 ボール球が二球続いたことで、さらに樋口が優位に立つ。
「雰囲気が出来てきたな」
 と呟いたのは児玉だった。
 三球目。案の定、鹿内はストライクゾーンへ球を置きに来た。樋口がすり足から、バットを旋回させる。金属音がグラウンドに響きわたった。
「行った!」
 瞬間、大栄高ベンチは総立ちとなった。
 打球はレフトのポール際へと伸びていく。身を乗り出して打球の行方を追う大栄高の選手達。
「切れるなっ!」
「入れ、入れっ!」
 わめき声。同時に相手チームの選手も又、まったく逆の意味合いのこもった声を張り上げている。
 その両者の声に挟まれたかのように、弧を描いた打球はポールを直撃した。力無く跳ねたボールがフェアグラウンドに落ちてくる。
「よっしゃあっ!」
 高梨は、おもわず自分の右手に左拳を打ち付けていた。
 樋口はとりたてて喜びを身体で示すこともなく、淡々とした調子でダイヤモンドを小走りに駆け抜け、大林に続いてホームベースへと帰還した。
 ついに、逆転。

(2)


 九回裏。
 守備に就くべくベンチを出た樋口が、高梨に声を掛ける。
「さっきの声援のおかげで打てた」
「なんの話だ?」
「僕が打席に入ってるとき、高梨君は『打ってくれ』と言っただろう? それで打てた」
「そんな応援ぐらいで打てるのか?」
「今回は、特別かな。高梨君みたいなタイプでも、自分がマウンドに立つとなるとああなのか、って思ったら力が抜けた」
 誉められてるんだかなんだか判らないな、高梨がそういうと、樋口はまたわずかに笑みを見せて、守備位置へと走っていった。
 高梨がマウンドに立つ。
 確かに、得点を上げて貰えない限り、九回裏のマウンドに立つことはなかった筈だ。そのあたりの気負いが言動に出ていたのかと思うと、高梨もよけいな力が抜けるような気がした。
(きっちり決めてやる)
 冷静さを意識しながらも全身の血が燃え立つような興奮の中、高梨の頭の中に、その言葉が繰り返し反響する。
 高根の装具を借りて、キャッチャーとしてボックスに入ったのは高根の代打に出た佐々木だった。
 ベンチから出る前、高梨は佐々木に、大丈夫なのかと尋ねた。
「こうみえても、中学時代はキャッチャーやってた」
 佐々木はこう答えていた。もっとも、高校に入ってからは一度もやったことはないが、とただでさえ下がり気味な太い眉を寄せて、佐々木は気弱げに笑ったが。
「ま、なるようになるさ」
 小さく呟いて、高梨は気合いを込めてボールを投じた。
 先頭打者を伸びのあるストレートで三振に討ち取る。
 続く打者を、初球のカーブをひっかけさせてセカンドゴロに。
(あと、ひとり)
 ふん、と大きく鼻をならし、高梨はキャッチャー・佐々木の山なりの返球を捕った。
 気分を落ち着かせるように顔を上げ、スタンドのほうに視線を送る。
 数こそ少ないが、熱心な応援。
 その中には、市川のような控え選手もいる。選手の親や親戚もいる。学校の生徒も。
 彼らが、自分の一挙手一投足を見守っているのだ。
 高梨は、そのことを強く自覚した。
 たかが地区予選一回戦ですら、この晴れがましさだ。甲子園に行くなどとなったら、どうなってしまうのだろう。
 しかしまずは、ここを確実に締めなくては。高梨は最後の打者になるつもりは毛頭無いであろう、右打者と視線を絡めた。どちらも気合い負けはしていない。
(揉み潰してやる)
 やや高揚した気分のまま、投球フォームに入る。右膝を蹴り上げ、左腕を引き、踏み込み、投げる。
 球離れの瞬間、しまったと思った。棒球。甘いコースに入る。
 右打者のバットが鋭く一閃した。強烈なセンター返し。反射的に高梨は届きもしないのにグラブを天に差し上げたほどだ。打球はやや低い角度ながらも、加速が付いたように伸びる。
 センター・樋口が背走する。確実にクッションボールを処理して、などという気配を微塵も感じさせず、強引に落下点に走り込み、跳んだ。目一杯伸び上がった姿勢で差し出したグラブの中に、打球が収まった。
 瞬間、高梨は無意識のうちに、左手で小さなガッツポーズを作っていた。
 試合終了を告げるサイレン。歓声が湧く中、グラウンドに散っていた大栄高の選手達がホームベース付近まで戻ってくる。樋口が先輩選手達に手荒い祝福を受けてはにかんでいるのが見えた。
 スコア、六対五。大栄高は、勝ったのだ。高梨にとっては久しく遠ざかっていた勝利の感触だった。

 しかし、結局は三年生にとってささやかな良い思い出を作ったに過ぎなかった。
 翌週の二回戦、対輪島城東戦では二一対二、五回コールド負けで大栄高は敗れ去り、正岡達三年生の夏は終わったのである。

(3)


 翌日。
 二回戦大敗のショックは既に無くなっていた。彼らには未来があった。あんまりさばさばしすぎてるのも高梨はどうかと思ったが、必要以上に暗くなっても仕方がなかった。
 ただ、一学期も終わらないうちに既に地区大会に敗北して、学校の生徒と顔を合わせなくてはならないという状態にならずにほっとしていた。
 練習に先立ち、制服姿のままの正岡が一塁側ベンチ前に一、二年生部員を集めて、挨拶をはじめた。一年の時から主将を務めてきた男の、辞任の挨拶である。
 高梨達はそれなりに感慨深く耳を傾ける。
 その後、正岡は後任の発表を行った。
「宮本、頼むぞ」
 正岡が指名したのは、前打線では五番を務めていた宮本だった。
 高梨の予想では根川だったのだが、やはりあの茫洋とした雰囲気は主将向きではないと判断されたらしかった。
 あらかじめ話は聞いていたらしく、宮本は慌てた様子もなく前に出て、彼が率いることになる部員達を前に、就任の挨拶を行った。
 良き伝統を引き継ぎ、先輩達の名を汚さぬ為にも、全力を以て主将の任を果たす旨を宣言する。
 まさしく質実剛健。正岡のようなケレンは全く感じさせないが、その分素直に頼りがいを感じることの出来る男の挨拶は、高梨に安堵感を与えた。同時に、あくの強い正岡がいない野球部というのがどんな姿になるのか、想像が付きかねたのも事実だった。
 そして、三年生を欠いての最初の練習が始まる。主力を欠いた野球部は、しばらくはチームとしての体裁を整えることすらままならない。
 その分、一年生にとっては正念場である。この機会を逃せば、あと一年間控えに甘んじることになりかねないのだ。
 根川が実質的なエースとなるであろう投手陣の中にあって、なし崩し的に二番手投手の役を与えられることになる高梨も、そのことを実感していた。
 戸惑いと決意を混在させた練習は、ほどよい緊張感に溢れた、新鮮みのあるものとなった。

「なあ、高梨。もうちょっとそれらしいところ見せてくれたら、お前を選んでも良かったんだぜ」
 帰り際、着替えを終えて部室から出てきた高梨に向かって、正岡がにやりとして言った。
「よして下さいよ。ガラじゃないです」
「そうか? お前ぐらいだぜ、毎日の練習内容で気づいたことをノートに書き留めようなんて考えてる奴は」
「知ってましたか?」
 高梨が小さく肩をすくめる。
「別に隠していた訳でもあるまいに」
「そうですか」
「ま、夏合宿には顔出すからよ」
 正岡がにやりと笑った。
「一つ聞いて良いですか?」
「なんだ」
「主将は、肩か肘、壊してませんか?」
 一瞬、沈黙がながれた。正岡が鼻を鳴らす。
「あん? ……実はな、どうも球数が増えると握力が無くなって来るんだ。いろいろ試してみたし、病院にも行ってみたが、どうにもならん。ま、これで野球は足を洗うさ」
 やはりそうだったか。高梨は疑念が晴れた思いだった。ついでに尋ねる。
「大学とか、社会人とかは?」
 正岡は笑って応えなかった。彼の両親が雑貨屋を営んでおり、その跡を継ぐ予定なのだという話を高梨が知ったのは、それからずいぶん後のことだった。

(4)


 市川、綾瀬と連れだっての帰り道。七時前であるから、まだ周囲は明るい陽光が残っている。
「夏合宿って、いつからだっけ?」
 川の流れに目をやりながら、高梨が尋ねた。
「そんなことも知らなかったの? 八月の頭から、一週間」
 綾瀬が間髪入れず返事する。
「しかしなんだな。合宿ってのは普通、地区大会の前にやらないか? まるで、地区大会に負けるのを前提に日程が組んであるみたいだな」
「まあそうなんだけどね」
 綾瀬は少し困ったような顔をして肩をすくめた。
「ほら、強豪校でもないと、なかなか学期中に合宿なんて出来ないから」
「良い機会には違いないな」
 市川が相変わらずの調子で断じた。高梨が頷く。
「はやくレギュラーになってくれよな。高根先輩はいいキャッチャーだから大変だろうけど」
「バッティングじゃ、今でも負けてないぞ。つっても、まだ内野手の練習させられてるからなあ」
 市川が唸るように言った。
 彼の言葉通り、市川はいまだに難しい立場に立たされている。
 捕手への未練が捨てきれない、と表現してしまうと語弊がある。市川は、自分が内野手に転向したとは全く考えていない。いずれ捕手に戻るべき存在だと考えている。
 当然、高根をライバルとして考えねばならないが、それ以前に、捕手として練習に参加できないのでは話にならない。
 今までは入部して間がない新入部員という立場であったからおとなしくしていたが、三年生が抜け、一年生が戦力の一翼を担うようになれば話は別である。監督や新主将に直訴して、なんらかのアピールをするつもりだ、と市川は熱っぽく語った。二桁でも構わないから、背番号を付けてやる、とも。
「とにかく、頑張ってくれ。お前がベンチにいてくれないと、本調子が出ない気がする」
 高梨の言葉に、市川が笑った。
「嬉しいこと言ってくれるねえ。よっしゃ、任せとけ。夏合宿では大活躍してやるからな、相棒」
「『合宿で活躍』って市川君が言うと、なんか変な風に聞こえるのよねー」
 それまで二人のやりとりを眩しそうに見ていた綾瀬が笑いをこらえるように、肩をふるわせて言った。高梨はそりゃそうだと言って笑い声をあげた。
 市川はそう言うなよと一旦口をへの字にまげ、それから、確かにそうかも知れないと言ってその笑いに加わった。

「ねえ」
 高梨と市川が野球談義に花を咲かせたまま駅前に来たところで、綾瀬が声を挟んだ。
「ん?」
「今度の日曜、どこか遊びに行かないの?」
「そういや、日曜日は練習休みだったな」
 今気づいた、というような口調で高梨が言った。どこか連れていってくれるのか、と市川が楽しげに綾瀬に尋ねる。
「普通、そういうのは男の子が考えるもんでしょ。……と、言いたいところだけど、実はプランが無いこともないわ」
「おっ、いいねえ」
「実はね」綾瀬は勿体ぶるように声を潜めた。「じゃーん、これ」
 綾瀬が口で効果音をつけながらスカートのポケットから取り出したのは、校区からほど近くにあるプールの入場券だった。
「おお!」市川が大げさな奇声をあげる。
「えっとね。樋口君と、樫尾さんも誘ってるんだけど、いいよね?」
「樫尾さんって誰?」と、市川が怪訝そうに言って、テンションを下げる。
「あれ? 知らないの? 樋口君の彼女よ」
「試合、観に来ていた娘か?」と、高梨。
「そうそう」
「樫尾って言うのかー」
 市川が間延びした声を挙げた。
「らしくないわねえ。当然市川君は知ってると思ってた」
「樋口の彼女の名前まで、知りたいとは思わないぜ――」
 市川は一瞬何か言いたげなそぶりをみせたが、口をつぐんだ。おそらく、あまり見かけがぱっとしない彼女に対する、あまり綾瀬には聞かせたくない類の評価を口にしそうになったのだろう。
「へえ、そうなんだ」
 つきあいの長い高梨はそのことに気づいたが、綾瀬のほうは判らなかったらしい。苦笑しただけで、追求することはなかった。
「ね、行くでしょ?」
 綾瀬は、高梨のほうに話を向けた。
「……いや、俺はパス」
 ほんの一瞬だけ躊躇して、高梨はそう応じていた。
「どうして?」
 目に見えて残念そうな綾瀬。
「肩、冷やしたくないからな」
 と高梨が言うと、市川が、うわっ古いなあ、と声を挙げた。
 プールで泳ぐと肩を冷やす、というのは、確かに現代では否定された概念である。高梨がその考えを聞いたのは、やはり中高と一貫して野球部に所属した投手であった彼の父親からであった。
「学校じゃ、ちゃんと水泳の授業に参加してるじゃない?」
 綾瀬が聞いた。
「昔は――俺のオヤジの頃は――、水泳も休んでた、って聞いたけどな。まあ、体育の時間は一時間だけど、遊びで行くとなると半日だからなあ」
 精神的な問題なんだよ、と高梨は、不満げな綾瀬に付け加えた。もしプールに行ったあと、調子を崩したりしたら、どうしてもそっちに原因を求めてしまうことになるから。言い訳を作りたくないんだ。
「ふーん」
 綾瀬は手元のチケットをぶらつかせながら、あまり納得していない顔つきで視線をおとした。
「チケット、五枚あるからちょうどいいな、って思っていたんだけど」
「ああ、勘違いするなよ。この堅物野郎は参加しなくても、俺はぜんぜんオッケーなんだからさ」市川が軽い口調で綾瀬に言った。「他の奴、誘ってくれればいいからさ。出来れば女のコがいいな」
「うーん、あんまりアテはないけれど……」
 綾瀬がそう言ったとき、バス停に、綾瀬の乗るバスが到着した。なんとか考えてみる、と綾瀬は言い残してバスに乗った。
「……もしかして、怒らせたかな?」
 バスを見送った高梨が呟く。市川が大声で笑った。
「気にすんなよ。感謝するぜ」
「なにが?」
 JRの駅に向かって歩き出した高梨が尋ねる。市川は大きく頷いた。
「樋口の野郎と、えー、樫尾だったか? ラブラブな連中を前にしたら、綾瀬と俺とだって上手く行くかもしれんじゃないか? お前がいたら、上手くいくものも行かなくなるって、心配したんだ」
「本気かよ?」高梨が呆れ顔で聞く。さっきまでの野球に対する熱心な語り口はなんだったのか。
「おうよ。ここで布石を打ってだな、夏合宿で集中打を浴びせて、ノックアウトだ」
 市川は自信ありげに不敵に笑った。未だに自動化されていない改札で、駅員に定期を見せて通過する。高梨もその後に続く。
「どうでもいいが、あとあと妙な話を俺に持ち込むんじゃねえぞ」
 駅の構内に入ったところで高梨が言った。
 ま、こいつが自信満々なのはいつものことだからな。これが市川にとっての活力源だとすれば、止める理由はない。高梨はそう思った。しかし、どこか心に引っかかるものを感じたのも事実だった。
 その事に高梨は表現しがたい違和感を感じたが、それはちょうど乗るべき電車が駅に到着しているのに気づいた瞬間に彼の内心からかき消え、それから長い間戻ってくることはなかった。

 第八話に続く

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