(1)
月曜日。
「いやあ参った参った。おまえも格好つけてないで、一緒に来れば良かったんだ」
朝っぱらの開口一番、市川は教室で高梨の顔を見るなり、早口でまくしたてた。
「ほう。日曜日のプール、ずいぶんと良いことがあったみたいだな」
一限目の授業に必要なあれこれを鞄の中から取り出しながら、高梨は気のない返事をかえす。
「綾瀬がな、黒地に蛍光色のラインで縁取りした競泳用みたいな全然きわどくない水着なんだけどな。ぐっとこう、身体が引き締まっててよ、うん、まあ、良いもの見させてもらった」
聞き流している高梨をよそに、市川は一方的にまくしたてる。
「あとな、樫尾さんのほうはなんちゅうか、いまいちだった」
見かけは思ったより悪くないんだが、やっぱりどうみてもぱっとしないんだよな。ま、樋口の彼女だから、俺がどうこう言えた義理じゃないけどよ。
「言ってろよ。そんなことより、今日はアレじゃないか?」
「おう、そうだった」
市川が表情を引き締める。ちょうど、教室に綾瀬が入ってくるところを視界の端に留めたせいもある。が、すぐに肩の力を抜く。
「いまさら気を入れても、どうにもならん。これからだ、これから」
今日は夏合宿に先立ち、背番号が更新になる日でもあった。
市川には、率直なところ、あまり背番号を貰える目処はない。自分に言い聞かせるように呟いた。
その日の練習では、背番号の更新に先立って紅白戦が組まれ、高梨は初めて先発を命じられた。キャッチャーは高根である。
両チームとも、かつてのレギュラーも今まで一度も試合参加機会の無かった一年生も同じ割合で混成した布陣となっていた。背番号の無い選手は、背中を白くあけたままの参加である。恥ずかしいと思う気があるなら、死にものぐるいで背番号を獲りにいかねばならない。
もっとも、今日の試合だけでレギュラーが決定される訳ではない。今日だけ張り切ったところでどうにもならないのもまた事実だった。
試合は根川との投げ合いになった。両者共に迫力不足の打線を相手に一点も与えない好投を続けたが、最終回、ランナーを二塁において高梨が投げたフォークボールがすっぽ抜け、山口にサヨナラヒットを食らって負けた。
被安打数は根川のほうが多かったくらいなので、やはり根川のしぶとさを改めて思い知らされた高梨であった。
紅白戦が終わったところで、志摩監督が選手をベンチ前に集めた。
「秋季大会の前に、改めてレギュラーを固定するからな。いまは暫定的なものだ」
と志摩監督は念押しするが、高梨達にしてみればここで番号を貰えるか否かは、決して軽い思いで受け止めることは出来ない。
志摩監督は名前を呼び上げた選手に背番号を手渡していく。
高梨は今までの一六番から、背番号十となった。二番手投手の証である。市川は残念ながら一六名の中に名を連ねることが出来なかった。
帰り際。
高梨は綾瀬に後ろから呼び止められた。市川は先に帰っている。
「なんだ?」
目標は甲子園、と景気良くぶちあげた市川は三年生が卒業してもなお背番号をもらえず、楽しくやれれば良いと言っていた俺がチームの一翼を本格的に担うのか、と皮肉めいた感慨を抱きながら歩いていた高梨は、怪訝そうに綾瀬の方に向き直った。
「昨日、なにしてたの?」
「なにって……、走り込んで、それから弟と遊んでた」
高梨の弟、隼児は中学二年。高梨と同じ市立中学の野球部で、やはり高梨同様にエースで四番、この夏で三年生が退部すると同時に新主将に就任している。
高梨と違って、隼児はバッティングにより才能があるらしい。本人もピッチングよりも打席に入る方が面白いと言う。中学ではなんでもこなしているが、高校に進学すれば野手一本に絞ることに決めているらしかった。
日曜日は偶然隼児も部活が休みだったため、高梨は小学校の校庭に入り込んで、近所の小学生らと一緒にゴムボールと木ぎれで野球ごっこで遊んでいたのである。
高梨は再び歩き出した。綾瀬も隣に並ぶ。時間があえば、駅までは同じ道を通って帰る。ここ数ヶ月、続いた光景だった。
「ふうん……」
「市川のやつ、ずいぶん昨日は楽しかったみたいだな」
「うん、まあ」
綾瀬のほうは妙に歯切れが悪い。道沿いを流れる川に視線を向ける。
「私は、あんまり面白くなかったな」
だって市川君、可愛い娘がいるとすぐにそっちに声掛けに行っちゃうし、樋口君と樫尾さんは二人だけの世界だし。
「ふうん」
としか、高梨としてみれば応じようがない。どうやら市川は言うほど綾瀬に積極的にアプローチした訳ではなさそうだった。
「高梨君って、わたしが最初想像してたのと、ちょっと感じが違うみたい」
ややあって、ぽつりと綾瀬が呟いた。珍しく元気なく見えた。
「どう違うんだ?」
「だって、楽しく野球やるのがモットーなんでしょ? いまはなんだかシャカリキになってる気がする」
「甲子園に連れてけ、って言ったのはそっちじゃないか。まあ、市川じゃないけれど、甲子園ってでかい目標があると、やっぱり気合いの入り方も違ってくる」
「本当に行けると思う?」
「判らないな、そればっかりは。まあ、言えるのは、行く気のない連中が行けるはずのないところだってことだ。あきらめた順に脱落するんだと思えば、そう簡単に投げ出せないよ」
どうも気まずい雰囲気のまま、駅前まで戻ってくる。
「ああそうだ。言い忘れるところだった」
バス停前で足を止め、ふいに綾瀬が言った。
「樫尾さん、今度の夏合宿から野球部の女子マネになるの。監督と主将にはもう話を通してあるから」
「ううっ!?」
妙なうめき声をあげ、高梨は綾瀬の顔を凝視する。
「なによ、そんなに驚いて?」
言う綾瀬の表情には、どこか復讐でも果たしたような屈託が伺えた。
「樋口はどうなんだよ?」
それに、石毛の立場は? 一年生捕手である石毛の調子に悪影響が出れば、高梨としても無縁ではいられなくなるのだ。疑問が口をついて出そうになるが、さすがにそこまでは言葉に出来ない。
「そんなの、大丈夫よ。樫尾さんがそうしたい、って言ったんだから」
突き放すような口調も、いつもの綾瀬らしくなかった。高梨も返事に詰まる。
バスが来た。綾瀬はじゃあと言ってくるりと背を向け、バスに乗り込んだ。
「なんだって、こうなるんだよ?」
残された高梨は呆然とするばかりだった。この手の話に鈍い高梨にしても、ろくでもない話であることだけは判った。
(2)
ソーッ、ソーレッ!
「一!」
ソーレッ!
「二!」
ソーレッ!
「三!」
ソーレッ!
「一二三四、一二三四! 二二三四!」
ダイエーッ、ファイッ!
「オゥ!」
ファイッ!
「オゥ!」
ダイエーッ、ファイッ!
「オゥ!」
ファイッ!
「オゥ!」
夏合宿。二列縦隊を組んだ部員達がグラウンドを走る。
初日の立ち上がりだというのに、三年生を失った野球部員達の呼称(かけ声)はどこか凄みに欠けて市営野球場に響いていた。
初日は、打撃練習に力点がおかれた。トスバッティングから、根川がマウンドに登ってのシートバッティングへと移る。
ここで精彩を放ったのが、高梨達が入学当時はマネージャのような役回りだった山口だった。
以前の練習試合でもヒットを放っていたが、小柄な身体に似合わぬ鋭い打球を外野へと立て続けに運ぶ。
山口に限らず、ここで漫然と過ごしては、夏休み後に間をおかずに始まる秋季大会に万全の態勢で望むことは出来ない。なんとなく浮かれ気分になってしまいそうな中、宮本のゲキが飛ぶ。
野手陣とは別メニューとなっているが、高梨もまたシートバッティング練習を横目に見ながら、課題をもって練習に取り組んでいた。
地区大会が始まるまで続けた早朝練習で、どうにかカーブの切れはそこそこ安定してきた。
あとは、快速球の威力を高める切れのあるフォークボール。ここまで、大事なところですっぽ抜けたり落ちなかったりといまいち信頼感のないこのウイニングショットを、高梨は合宿中にモノにすることに決めていた。
肩を作る軽い投球を終えると、後はひたすらフォークボールを落としまくる。
それを受けるのは一年生捕手、背番号一二をつける石毛。市川のほうは、いよいよ本格的に遊撃手になってしまいそうな勢いで、シートバッティング練習の守備位置についている。
「大丈夫かな」
休憩中、グランドの方を見ながらぼそりと言ったのは石毛だった。目が落ちくぼんだ、感情があまりはっきりと表に現れない顔立ちだが、浮かない表情であることは高梨にも判る。
「市川か? まあ、そのうち石毛のライバルにはなるさ。レギュラーはちょっと遠いかもしれんが」
「ああ、いや」
石毛は、照れたような声を出してうつむいた。ああそうか、と高梨は誤解していたことに気づく。
「樫尾のことか」
「……」
石毛の無言はこの場合、同意ととって間違いないはずだった。
以前、樫尾は石毛に告白され、そのことを樋口に相談したという。石毛にしてみれば良い面の皮のはずだが、それでも彼は中途で野球部に入部して右も左も判らないであろう樫尾の身を案じている。
良い奴すぎるかもな、と高梨は思う。市川ぐらいしたたかであるほうが、マウンドにいても安心できるんだが、と考えつつ、当たり障りのないことを言って応じる。
「仕事のほうは綾瀬が教えるから大丈夫だろ。あいつほど手際が良い奴はめったにいないから、あそこまで高望みする気はないけれど」
特に意味もなく、顔をつるりとなでてから、高梨は言った。
「ああ、そうだな」
石毛は自分に言い聞かせるように頷いた。
言われてみてはじめて、高梨も樫尾の様子を練習の合間にそれとなく観察してみることにした。綾瀬がどういうつもりで彼女の入部を認めたのか、すこし知りたくなったのだ。
樫尾が新たに加わったことで、綾瀬の負担は確かに軽減した様子だった。
仕事ぶりは悪くない。少なくとも熱心であることはすぐに判った。
細かなところによく気がつくのは女性ならではというべきか。もっとも、あまり野球のルールには詳しくないらしく、スコアブックの付け方などは綾瀬に聞いても、すぐには飲み込めていない様子だった。
データ収集による戦術分析や、相手チームの偵察といったスコアラー的な仕事は綾瀬の独壇場であろう。その分、それら以外の雑事で樫尾の出番があるということになる。
「そこまでして樋口にくっついていたいんかねえ」
市川あたりはそう言って首を傾げるが、高梨にはただ「恋人の側にいたいから」だけでは無いように思われた。
こればかりは樫尾本人と、樋口自身から聞くしかないだろう。しかし、高梨はそこまで頑張る気になれなかった。
(3)
初日から三日の間、フォークボールの特訓を続けているうちに、どうやらコツを身体が覚えてきはじめた。それらしくなってきた、と高梨は手応えを感じる。
三日目の午後。メインとなったシートバッティング練習が、その成果を試す絶好の機会となった。
折しも、昼過ぎになって正岡が三年生数名と共に顔を見せていた。その夏退部した三年生が夏合宿に差し入れしたり、練習を手伝ったり、というのが大栄高の伝統になっているのだ。
「お久しぶりです」
ブルペンにやってきた正岡に、高梨が頭を下げる。
「おう。なんだか代わり映えしねえなあ」
正岡の調子は相変わらずであった。高梨も苦笑して頷く。
「ま、なんにせよ秋季大会からはお前は二番手、いや、ことによっちゃエース扱いだ。気合い入れてかかれよ」
「はあ」
この先輩を相手にすると、どうにも返事にしまりがなくなる高梨であった。
ウォーミングアップをおえ、シートバッティング練習が始まる。高梨はマウンドに登った。
守備につくのは背番号二桁、あるいはその控えに甘んじる二線級。市川もショートの守備位置に入っている。対して、打席にはいるのは新たなレギュラー達。
ランナーを置き、イニングとアウトカウントを想定して実施されるシートバッティングはどちらかといえば守備と走塁に練習の重点が置かれている。が、高梨は打ち頃の球をストライクゾーンに投げ込む気など全くなかった。
真っ向勝負、全員を三振に切ってとるつもりでマウンドに臨む。
自分が打たれて初めて練習としての意義が出る、まったくの凡打では走塁など考えるだけ無駄になる。投手としては気楽なものだ。が、その気楽さを強気に変えられるのは高梨の強みだった。速球でぐいぐいと押し、ここぞというところでフォークボールを落とした。
春からスタメンに名を連ねていた二年生すら軒並み凡打に倒れ、三振の山を築く。
「これじゃ練習にならんぞ」
フォークを読んでいたところに速球が来たためにどんづまりのショートゴロを放ち、ゲッツーを決められた宮本が苦笑いする。
「百三十五は出てたぞ」
どこからかスピードガンを持ち込んで、一塁側ベンチ前で自ら構えている正岡の声が飛ぶ。おお、と市川が背後で声をあげたのが聞こえた。高梨がわずかに口元をゆるめて頷く。
百四十キロを上回れば全国レベルの速球派投手の仲間入りであろう。高梨はそれなりに調子が上向いてきたことを実感した。
少なくとも、根川の速球より速い。もっとも、根川は速球で勝負するタイプではないが。
右打席に樋口が入る。優しげな面立ちではあるが、その目つきは真剣味を帯びて鋭く輝いている。紛れもない本気だ。
高梨にとって、樋口は中学時代はここぞというところで何度も痛打を食らった相手だ。こと高梨相手では、チャンスに弱いなどということは全くない。
バットを構えた樋口を見据える。今では味方とはいえ、手加減するつもりはない。
想定は、二アウト満塁。樋口としても小細工などにこだわらず思い切りバットを振り抜ける状況である。
初球、高梨は内角高めを衝くストレートを投げ込んだ。内角一杯に決まる球だったが、樋口は見送った。
「一三六キロ!」
正岡が怒鳴った。
二球目も内角高め。今度はわずかにはずれてカウント一−一。樋口のバットはぴくりともしない。まるでこちらの配球を読み切っていたかのようだ。
三球目、今度は内角低め、膝元一杯。樋口が払うように弾く。三塁線に大きく切れる。
「高梨、やきもちか!」
二年生部員の誰かがそう声をあげ、部員達がどっと沸いた。高梨に対してというよりは、樫尾という「彼女連れ」である樋口に対してのヤジであった。
高梨は笑わなかった。樋口も笑わなかった。
それから高梨はコーナーぎりぎりをねらいすぎてカウントを二−三にした。
(やっぱり、敵に回すと厄介な奴だ)
そう、胸の中で呟く。その選球眼には舌を巻くばかりだ。
六球目。ツーアウトのフルカウントであるから、ランナーは高梨が投げると同時に一斉にスタートを切る。
高梨はフォークボールを決め球に持ってきた。高めへの釣り球に見えて、低め一杯に沈み込む必殺の一球、のはずだった。
テイクバックし、左足を踏み込んで打ちに行った樋口のバットが中途で止まった。
白球は低め一杯に決まった、と高梨は思った。
「……ボール!」
主審役の一年生が呻くように言った。
「入ってるよ」と、高根。
「いやあ、入って無いですよ」とはショートの守備位置からボールを見ていた市川。とくにどちらの肩を持つという訳でもなく、見たままを言っているだけだった。
「それ以前に、今のはスイングだろ?」
とは、スピードガンを構えていた正岡。塁審のように角度をつけて横から見ているだけに、その言葉には説得力があった。
「いや、止まっていた」
これは志摩監督。経緯が経緯だけに、樋口の肩を持つのは当然といえなくもないが、志摩監督はそこまで露骨にするほどの愚者でもない。
結局のところ、練習の上ではどちらとも決める必要はなかった。三振であれば攻撃は終わっているし、フォアボールであれば一点をとってなお満塁。どちらにしろ、守備と走塁の練習に関わってこない。高梨、樋口のどちらにとっても不完全燃焼のまま練習は終わった。
「ま、試合で活躍してくれればいいからさ」
などと、高梨は独り言をつぶやいてみる。
(4)
合宿四日目。
この日は中休みということで、練習はオフになる。
とはいえ完全に自由行動という訳ではなく、昼過ぎから合宿地からほど近くにある山にハイキングに行くことになっていた。
ハイキングというと随分子供じみて聞こえるが、もちろん、足腰強化というお題目がついている。従って、ユニフォーム姿である。
志摩監督や宮本は――ハイキングコースを設定したのは綾瀬だという話だから、彼女は、というべきか――オフとはいえ、部員達をあまり休ませる気はないらしい。
朝食を摂ったあと、宿舎で弁当を貰い、出発。
適当に縦列を作り、歓談しながら山道を登る。
中腹には、真新しいハイウェイが走っている。その休憩所を兼ねた展望台で、自由行動となった。当然、大部分の者は見晴らしの良い場所で弁当を食べ始める。
「こんなところで自由行動って言われてもなー」
速攻で食事を終え、展望台の手すりに両肘をついた市川が気の抜けた言葉をもらす。
高梨は展望台に据えられた自動販売機で買ったジュースを飲み干すと、右手でスチール缶を握りつぶして、ゴミ箱に投げ入れた。
「とりあえず景色は良いぜ。ほら、俺達が合宿してるのはあそこだ」
高梨が眼下を指さした。
「景色なんざ一分も見ていれば充分だよ。これからどうする?」
「上まで行くか?」
高梨は頂上を振り仰いだ。頂上までは行程に入っていない。どれくらいかかるだろうか? 山道の時間を計る術を、高梨は知らない。
「下山時間は四時だったよな」
市川が腕時計に視線を落とす。午後一時。
「いくしか、ねえよな。ここまで来たら」
高梨が呟くように言い、市川がうなずく。
「と、なれば、だ」
「なんだ?」
「どっちが先に到着するか、競争!」
言い捨てて、市川がダッシュでハイウェイを横断して、頂上への登り口まで走る。
「なんだよっ、そりゃあ?」
言いながらも高梨も後を追っていた。
「いっちばーん!」
奇声を上げて、市川が色あせた鳥居をくぐる。間をおかず、高梨も頂上にある神社の敷地に足を踏み入れていた。
「どうだ」
とばかりに息を弾ませた市川が得意げに振り返るが、高梨のほうはさして悔しがる様子もなく、あごをしゃくった。
高梨の視線の先には、拝殿の賽銭箱の前で手を合わせている根川が居た。
顔を見合わせる高梨と市川。
「よお」
振り向いた根川は、相変わらずののっそりとした調子で話しかけてきた。
「なに、お願いしたんです?」
まあだいたいのところは見当がつくが、と思いつつ、高梨が訊ねる。
「俺にも彼女が出来ますようにってな」
ぼそっとした口調で言う。どこまで本心なのか、その茫洋とした表情からはまったく伺いしれない。
「はあ?」
「お前らもよく拝んどけや」
言って、根川は山道を降りていった。
「やっぱり、ちょっとどこか変わってるなあ」
市川があきれたように言う。高梨もつい同意してしまい、否定するタイミングを失った。
二人して苦笑いしながら、ならんで賽銭箱の前に立ち、小銭を投げ入れて手を合わせる。
「樋口のやつ、どんな気分なんだろうなあ。彼女に押し掛け入部されて。大変だよなあ」
手を合わせ終えてそういう市川だが、口調はどちらかといえば羨ましげであった。
「なんだよ、本当に彼女出来ますようにって頼んだのかよ。それよりさっさとキャッチャーでレギュラー獲ってくれよな」
「ああ、判ってる。しかしなあ、どうやってアピールして良いものか、うまい考えが思いつかないんだ。かといって内野守備の練習をさぼる訳にもいかないしな」
市川はぼやくように言った。
二人して山道を降りながらあれこれと策を考えたが、名案は出なかった。
(5)
合宿最終日。
午前中のウォーミングアップを始める段になって、練習試合を組めたと、綾瀬が高梨達に言って来た。
「練習試合? どこと?」
「知多大附属知多高が偶然、近くで合宿してたのよ」
「知多大知多だあ?」
誰かが頓狂な声をあげる。いままで著名なプロ野球選手を数多く輩出している強豪中の強豪であった。
この時期に大栄高と同じ場所で合宿しているということは、彼らも甲子園出場の夢を果たせなかったことを意味している。
だからといって、大栄高と実力が同レベルという訳では全くない。
「……よく、そんなところと話が付けられたな」
さすがは綾瀬、と言いかけて、高梨は言葉を飲み込んだ。
「ねえ、高梨君」
綾瀬がじっと高梨の顔を見つめていた。いつになく真剣な表情だった。
「本物の強豪校相手に戦って、よく考えてちょうだい。本当に大栄高が甲子園に行けるのか」
すがるような声だった。
「やっぱ、でけーな」
市営球場に知多大知多ナインが乗り込んできたのを目に留めるや、誰かがため息をもらした。
同じ高校生とはいうものの、体つきからして違う。
「ウォーミングアップも良く見ておけよ。間違いなく甲子園レベルなんだから」
と、宮本は言うが、実際のところは体格差に気圧されてそこから何かを盗み取ることなど出来そうもなかった。
大栄高ナインは、知多大知多の堂々たる雰囲気に圧倒されるように、こそこそとウォーミングアップを終えた。
気持ちからして負けているな、と高梨は苦い思いで自覚する。が、現実を目の当たりにすると仕方ないようにも思える。第一、ここでなにも感じないような奴は、むしろ図太いというよりただ鈍いだけだ。
ジャンケンで先攻後攻を決める。宮本は負けて大栄高の先攻となった。
「ジャンケンすら勝たしてくれん」
と、ベンチに戻ってきた宮本のぼやきにも、笑って突っ込みを入れられる者は皆無だった。
一回表。
知多大知多の先発は円川。高梨と同じ左腕であった。もっとも向こうは背番号一をつけた二年生のエースであり、オーソドックスなオーバースローから、一四〇キロを越す重いストレートを投げ込んでくる。井町南高の渡とはタイプが違うが、豪腕派と言える。
初球。その豪快なストレートがキャッチャーのミットを激しく鳴らしただけで、大栄高ベンチに萎縮した空気が流れた。
先頭打者の石原は空振りを二度続けた後、ぼてぼてのサードゴロ。
「すげーシュート。こーんなんだぜ」
ベンチに戻ってきた石原が、両手を大きく弧を描く形に動かしてシュートの軌跡を表現する。情報を収集し、それを後続に伝えるのも一番打者の重要な役割である。
しかし、二番打者以降も完璧に抑えられた。かつて、井町南高相手の練習試合では先制して相手を慌てさせたものだが、今回は付け入る隙も無かった。
一回裏。
思いがけず、先発のマウンドは根川ではなく、高梨だった。
こういう相手こそ、「普段なにを考えているか判らないが故に頼りになる」根川に期待したいところのはずなのに、と首を傾げながら高梨はマウンドに登った。
なにはともあれ、先発である。
ゆっくりとマウンドから高根相手にウォームアップのボールを投じながら、打席の後方で素振りを繰り返す一番打者の挙動を伺っていた。
同じ高校生なんだ。びびることはない。何度も胸の中でそう自己暗示をかける。もっとも、「少なくとも嘘は言ってないよな」、と頭のどこか冷めた部分で分析してしまうあたりは高梨らしいところではあった。
試合が再開される。
(『大栄高が甲子園に行けるのか、本物の強豪と戦って確かめてちょうだい』か。綾瀬はなんだって、急にあんなこと言い出したんだろうな)
綾瀬の言葉をしばし思い返していた高梨は、軽く頭を振って高根の構えたミットに意識を集中した。内角高め、サインはストレート。
初球を投げる。
一番打者がバットを一閃した。
強烈な打球音が響く。残光を曳くような勢いのボールが左中間のもっとも深いところに跳び、ダイレクトにフェンスに命中して落ちた。
第九話に続く
一塁側ベンチに戻る
INDEXに戻る