『バトル・オブ・甲子園』
第九話”相応”




(1)


 二番打者の放った痛烈なライナーが一塁線を破ったところで、高梨は我に返った。
 初球をセンター・樋口の頭上を破るランニングホームランにされて、茫然自失の状態にあったらしい。
 右手にはめたグラブで頬を打ち、自らに気合いを入れ直す。
 ライト・小清水がラインよりに守っていた為に、バッターランナーは一塁どまり。
 ここでゲッツーに討ち取れば傷口は最小限で済む。高梨は戦う気持ちを失っていなかった。低めに構える高根のグラブ目がけて、投げる。
 その気持ちをあざ笑うかのように、打球をレフト前に運ばれる。さらに安打が出て一点追加。
 焦るな、落ち着け。まだ初回。二点とられただけじゃないか。
 五番打者に対して、ストレート二球でストライクを二つ取る。
 一球外さず、勝負に出る。フォークボール。落ちた。が、バットがその落ちた先に振り出されていた。
 打球音はやや鈍い。一塁後方。ライト・小清水が前進するが、ぽとりと落ちる。ランナーはハーフライナーの可能性をはじめから無視するかのように打球があがると同時にスタートしていた。それどころか、二塁ランナーは三塁を蹴ってホームへと突っ込んでいく。
 小清水があわて気味に返球。しかし、キャッチャー・高根のブロックをかいくぐってホームイン。
 ワンアウトも取ることが出来ないまま、三失点。
 逃げ出したかった。ゲームならリセットボタンを押してやりなおしたかった。
 ベンチを見る。投手交代の動きはない。根川はキャッチボールすらしていない。
 高根がマウンドまで駆けてきた。
「一つ一つ、確実にアウトを取っていこう。なに、気にするな」
 ぽんと高梨の肩を叩き、戻っていく。
 確実に、か。高梨は大きく鼻から息を吹き、もう一度グラブで頬をはたいた。いまさらうろたえてもどうにもならない。
 六番打者が、左打席で構える。
 高梨は、またも簡単にツーストライクに追い込む。
 今度は一球外す。続く四球目。高根のサインは外に逃げるスライダー。
 高梨は迷わずうなずき、投げた。フォークを決め球として使ってくることを予想していたらしい六番打者のバットが空を切る。三振。
「よし」
 わずかながら、ピッチングにリズム――勢いがついてきた。
 七番打者は、初球に手を出してきた。詰まった当たりはショート正面へ。
 二塁へ送球。セカンドはさらに一塁に転送。
 ダブルプレー。際限もなく続くかと思われた一回裏の攻撃が終わった。
「大変だったね」
 ベンチに引き上げてきた高梨に、樋口が言った。
「ああ。やられた。初っぱなの当たり、凄まじかったな」
「とんでもないパワーだよ。完全に頭を抜かれた」
 樋口ががっくりと肩を落とす。
「樋口の責任じゃないさ。バットで取り返してくれ」
「難しいよ」
 折しも、二回表の先頭打者、四番が情けない当たりをサード前に転がしたところだった。
 あっというまに大栄高の攻撃は終わり、二回裏へ。
 高梨は八番、九番を丁寧なピッチングで討ち取った。
 ツーアウト、ランナーなしで打順がトップに戻る。さきほど痛い目に遭わせてくれたバッターだ。
「今度は討ち取る」
 初球、いきなりフォークボールから入る。トップバッターがフルスイング。空振り。
 奇襲が成功したことに、高梨は密かにほくそ笑む。
 二球目、外角へ。ストライクゾーンからボール二個分ほどおおきく外れた。が、バッターは腕を伸ばして軽くボールを打った。
 打球はライト前で跳ねた。
「くそ。あんな簡単に流し打ちされるなんて」
 ツーアウト一塁。あわてることはない。ともすれば自分を見失いそうになる状況で、深呼吸して気持ちを落ち着ける。
 二番打者の打球はセンターへ。さきほどのランニングホームランをいやでも思い出す壮大な弧を描く。
 しかし、深々と守っていたセンター・樋口の守備範囲だった。背走し、フェンスに身体が触れるくらいまで走り、グラブを掲げて捕球する。
「あぶねえ」
 高梨は胸をなで下ろした。

 回を追うに連れ、自分の調子が必ずしも悪くないことを高梨は思い出していた。初回にいきなり三点を奪われたのはショックだったが、それもコントロールや変化球の切れに起因するものではなさそうだった。ただ、相手がうまいという現実が横たわっているだけだった。
 相手チームは動きが違う。スピードが違う。
 駄目なのか。これまでの四ヶ月の練習は、そして合宿の成果はなんだったというのか。相も変わらず負けっぷりをさらすだけなのか。
「勝てない、のか」
 歯ぎしりする思いで、高梨は呟く。そしてベンチ内を見回して、愕然とした。
 そこは、あきらめが支配していた。
 正岡主将がこの場にいれば、いくらでも喝を入れているところだろう。現に宮本新主将も勢いを出そうと率先して声を出しているが、士気はあがらない。
 負け慣れはしていたが、ここまで一方的にやられてしまうチームではなかったはずだ。
 こんなことでいいのか、こんなんじゃだめだ、と焦燥が募る間に、ずるずると回が進んだ。
 高梨は五回と八回に一点ずつ失い、計五失点。
 対して大栄高は凡打の山だ。空気は次第に沈痛なものになっていく。
 ついに最終回。大栄高の攻撃は七番から。
 セカンドゴロとレフトへの浅いフライに簡単に倒れ、ツーアウト。
 樋口に打順が回る。
「一矢報いてくれ、ってところだ。このままじゃ悔しすぎる」
「……判った。僕も、最後のバッターはイヤだ」
 打席に入った樋口が構える。
 円川が、球威がまったく衰えない速球を投げ込んでくる。変化球の切れもまるで疲れを感じさせない。
 しかし、ここまでの打席で全て凡打に倒れている樋口だったが、カウント二-二で三振をねらいに来たフォークボールを狙い打った。
 高梨が先頭打者に食らったランニングホームランにも劣らぬ鋭い衝撃音と共に、打球が三遊間へ飛んだ。
 抜けた、と思った瞬間、高梨達が常識として持っているショートの守備位置から頭一つ飛び出したところにショートのグラブが差し出されていた。
 乾いた音がして、グラブに打球が収まった。一塁に向かって走り出していた樋口が唇をかんだ。

 スコア、五対〇。
 気がつけば円川に無四球、被安打一本に牛耳られていた。その虎の子のランナーすらゲッツーで潰され、きっちり二十七人で片づけられていた。
 円川は大栄高打線に二塁さえ踏ませていなかった。五対〇という得点差以上の力量の違いを思い知らされる完敗であった。

(2)


 試合後。
「前のチームと全然変わらないなあ。進歩がないというか、なんというか。点が入らない分、ひどくなったんじゃないか?」
 スタンドで観戦していた正岡が、ベンチ前まで降りてきて言った。
「観に来てたんですか?」
 球場設計の具合が悪いのか、西の空に傾いた夕日がまともにベンチの中に茜色の光を差し込んでくる。まぶしさに目を細めながら、高梨は正岡をみあげた。
「暇だからな」
「……返す言葉も無いですよ。この春からこっち、こんな試合ばかりで」
 逆光になった正岡を前に、ユニフォームの上を脱ぎながら高梨は頭を振る。綾瀬が手際よく用意してくれた氷水をつめたビニル袋を左肩に押し当てて冷やす。
「その半分は俺達三年の責任だが、こっちに尻を向けるんじゃない」正岡は困ったような顔をした。「しかしまあ、立ち上がりの悪さはともかく、その後はお前は良くやったよ。問題は打線だ」
「はあ」
 左肩よりも、氷水を押さえる右手に冷たさを感じながら、高梨が生返事を返す。
 確かに、大栄打線は一安打・無得点に終わっていた。相手が相手とはいえ、あまりにも不甲斐なかった。
「ガッツが欠けてるんですよ。先輩がいたときは、もう少し余裕があって、前向きだったのに。今年のチームは最初から気合い負けしてるんですよ。だからお得意の速攻先制も出来なかった」
 二年の先輩への批判めいた事を言っているな、と高梨は自覚する。なるべく言葉を選んだつもりだったが。
「確かになあ。滝沢が抜けた穴はでかいな」
「はやく樋口がクリンアップを打ってくれればと思いますよ」
「あいつ、使えるのか?」
 正岡が小声で聞く。
「はい。少なくともオレは頼ってますけどね。なんか、プレッシャーに弱いところもあるみたいですが」
「その割には女連れとはふてえ野郎だ」
「ありゃ、ただのマネージャですよ。まあ、そんな噂があるのは知ってますが」
 噂どころかまったくの事実だろうが、高梨はそこまで説明する気にもなれなかった。
「ふん、まあいい。なんにせよ、打線がアテにならないからってふてるな。いつまでも相手に一点もやらなきゃ、そのうち味方が一点取って勝てるんだからな」
「そこまで体力無いですよ」
「だったら自分のバットでなんとかしろ」
 相変わらず、無茶を言う正岡だった。

 帰りのバス。空気はそれほど重くなかった。最後でケチがついたが、それまでの合宿での練習は決して無駄ではなかったという意識があるからだ。
 一旦学校に戻ったところで、解散となった。
 高梨は市川、綾瀬と連れだっていつものように三人で帰る。一週間ぶりだからそこそこ感慨があるかと思ったが、なにも無かった。
「判った、高梨君?」
「なにが」
 聞き返す高梨をみて、綾瀬は怒った顔になる。
「試合前に言ったでしょう? 大栄高は本当に甲子園に行けると思う?」
「やってみるより仕方ないだろう。俺も前にも言ったぜ。あきらめた順に脱落して行くんだって」
「高梨君は、自分でやれるから良いわよ……」
 独り言のようなつぶやき。
「マネージャってのは大変なのに、試合を見てるだけで自分の手ではどうすることも出来ない、割に合わない仕事なんだな」
 くたびれもうけだな、と思ったが、それ以上の言葉を口にしなかった。結局のところ、綾瀬の問いを高梨は理解していなかった。

「なんなんだろうな?」
 綾瀬の乗ったバスを見送って、高梨は市川に問うた。
「お前にはわかんねえことだよ、きっと」
 市川はふてくされたような声を返した。

(3)


 夏休みは終わり、二学期を迎えていた。 
 連日の練習漬けに、当初は新しい背番号が身体になじんでいなかった部員も、いっぱしのレギュラーとしての風格を発しはじめていた。練習中の声出しにも重みが感じられるようになった。秋季大会が視野に入っていることもあり、練習にも緊張感が戻ってきている。

 学級委員の絡みで担任の呼び出しを喰らって練習開始に遅れてしまった高梨が、慌ててユニフォームに着替えてグランドに顔を出すと、想像もしなかった光景に出くわしていた。
 グランド上に、見慣れてはいるが、今日この場所で見る筈のないユニフォーム。女子ソフトボール部だ。
「ソフト部がなんで今日こっちにいるんだ?」
 ベンチ前で思わず呟くと、向こうの新キャプテンはずいぶんと気合いが入ってるらしくてな、と先に来ていた市川が苦い顔で言った。
 ホームベース上で、それこそ判定に不服で主審に抗議する監督の風情なのは、ピッチャーで四番を打つ女子ソフトボール部の新主将・神原由香だった。部員のほぼ全員を従えて、野球部に対して強談判に及んでいる。
 応対する羽目になっている宮本主将も困り顔だ。
 ソフトボール部の要求は、野球部専用グランドの利用回数を今までの週二回から週三回に増やすこと。
 補足するならば、ソフトボール部は一週間のうち、平日五日のうち一日と、土日において野球部が使わない日、計二日利用している。この状況を改善したいというのが、彼女の要求だった。
 無論、ソフトボール部にとっての改善は、野球部にとっては状況悪化につながる。
「で、どうなるんだ?」
「どうも、実力のある部が優先的に使うべきだって話になってるらしい」
「そりゃ、まずくないか?」
 大栄高ソフトボール部は、野球部と違って県有数の強豪らしい。実績で比較されると野球部としては不利だ。
 しばらくやりとりを他人事で眺めていたが、結局「勝負して決着を付ける」ことに落ち着いたらしかった。
「妙なことになってきたなあ。漫画みたいだ。勝負ってなあ」

 奇怪な光景だった。
 グランドに散るのはソフトボール部の選手。そして打席に立つのは野球部。
「ソフトボールの球を打ってみろ」
 ということらしかった。マウンド前のサークルに入ったソフトボール部のピッチャーは神原。
 野球部の面々は戸惑いながらも、勝負に挑む。
 投げ込む球は、強豪との評価に違わず、速い。
 野球部の二年生レギュラーが、ばたばたと凡打――その多くは三振だった――に討ち取られていく。
「まあ、三分の一くらいは、こうなるんじゃないかと思ってたよ」
 ベンチの横で他人事のように眺める市川は、さばさばした調子だった。
「おい……!」
 隣にいた石毛が小声で注意し、市川を小突く。
「相手はソフト部だ。ソフトボールの投げ方で来るのを打てなくても、それはそれで仕方がない」
 高梨は怒りを含んだ声で言った。その目はまっすぐに神原を見据えていた。

「さあ、どうするの?」
 勝ち誇った声で、マウンド前のサークル(ソフトボールにおけるマウンド)に仁王立ちする神原が問う。守備位置に散ったソフトボール部員の選手達も、三塁側ベンチ前の控えもやんやの喝采である。対する野球部は二年生部員を軒並み討ち取られ、声もない。
 いや。
「僕が――」
 金属バットを携えた樋口が、前に踏み出す。その表情は固い。しかし、瞳には紛れもない闘志の色。本気で打ちに行く気迫が肩のあたりからただよっている。
「待てよ」
 いつになく厳しい声で、高梨がそれを止める。
「俺が行く。ただし、投げるのは俺だっ! てめえら、さっさと打席に入りやがれっ!」
 高梨には珍しい怒声だった。
「高梨君……?」
「相手の土俵で勝負してやることはない」
「だけど」
 逡巡する樋口を前に、高梨がにやっと笑ってみせる。
「気にするな。俺達は絶対にこんなところで負けていられない。週三回もグランド明け渡して、甲子園に行けるわけがない」

 一塁側ベンチ前。
「なんでこうなるんだ?」
 高梨に引っ張られるままに、レガースをつけ、ミットをはめた市川が問う。
「ぼやくな。久々にグラウンドで俺の球が捕れるんだ。感謝しろ」
「まあ、な。アピールとしては確かに絶好かも知れんが……」
「なぜ俺が石毛や高根先輩じゃなくて、お前を相棒に選んだと思う? つきあいが長いからだけじゃないぞ」
「んんっ?」
「女が相手でも、気後れしないだろうからな」
「おいおい」
 苦笑する市川だが、高梨は真顔だった。市川もわずかに顔色を変える。
「なにをやろうってんだ」と市川は問うた。
「思い知らせてやるんだ。野球をなめるな、ってな」
 内外野の守備はいっさい付けなかった。先輩達の手をわずらわせる気はなかった。

(4)


「ルールは?」
 ウォーミングアップする高梨に、神原が問う。
「三振だったらこっちが一ポイント。ヒット性のあたりか四死球ならそっちが一ポイント。詰まったあたりはノーカウント。打者九人が一巡したところでポイントの高い方が勝ち。これでどうだ」
 神原は鼻で笑った。
「三振じゃないと自分たちのポイントにならないなんて、私たちのことを莫迦にしてない?」
 高梨にしてもこれは賭けの要素が強かった。だが、同時に罠を仕掛けた気分にもなっている。相手のバント攻撃を封じたのだ。当たりそこねのポテンヒットも無い。彼女たちは思いきりバットを振り、クリーンヒットをねらうことしか出来ない。ランナーの存在も意識せずに済むため、ワインドアップから思い切り投げ込める。
「不満か?」
「いいえ。どうせなら」
 神原は言った。グラウンドの利用権を賭けるだけじゃつまらない。
「他になにがあるって言うんだ」
「私たちが勝ったら、綾瀬さんをソフトボール部に貰う」
 言った神原の視線が、一塁側ベンチの隅に居た綾瀬に向けられる。
「なに?」高梨の眉間にしわが寄る。
「依岡から聞いてるわ」神原は言った。「プレイヤーとしても、マネージャとしても一流だそうね。野球部で埋もれさせる手は無いわ」
 そういえば、中学時代はソフトボール部で鳴らしたという話を、何度か高梨も聞いたことがあった。もし綾瀬がマネージャとしてあきたらないものを感じているのなら、それも一つの道かもしれない。
 だが。綾瀬の件と、この勝負とは別だ。ここで勝ちを譲るつもりはない。
 賭けるものが大きければ、それだけ燃える。
「先輩、俺達はどうします? ソフト部のマネージャもらいますか?」
 一塁側ベンチの宮本のほうをみて、高梨が声を張り上げて問う。
「いらん。それに、綾瀬も渡せん」
 一喝するように、宮本は怒鳴った。それから付け足すように、
「ソフトボール部には、練習の時に、部員全員で球拾いでもしてもらおう」
 と言った。
「そいつはいいや」
 市川が笑った。確かに控え選手にとっては福音だろう。
 その間、野球部員とソフトボール部員の両方から視線を向けられた綾瀬は肩をすくめ、居心地が悪そうにしていた。
(主将の言うとおりだ。ソフト部に、綾瀬は渡せない)
 これまでの経過を考えれば、自明だった。綾瀬はどう考えているか知らないが、彼女の存在は野球部にはなくてはならない。高梨は口元を引き締めた。

 高梨はマウンドに登り、くぼみを踏み固めるように足を動かす。
 照りつける太陽のまぶしさ、熱量はは未だに夏のそれだ。しかし、高梨はまったく気にしなかった。暑さを忘れた訳ではない。しかし、暑さに苦痛を感じることを忘れた。ただ、暑い。それだけだ。
 全く久しぶりだぜ。
 立てた両膝の間に身体を沈め込むようにして構える市川の姿に、高梨はおかしみを感じる余裕さえあった。
 その姿を見ているだけで、全力を発揮できそうな気がしてくる。
 一番バッターが打席に入る。一応、野球部の部員が審判に入った。もっとも、よほど判定を甘くしないとソフト部のブーイングだろう。
 どのみち、高梨は要所は空振りで仕留めるつもりだった。ソフトボールのスイングでは野球の球を打てないことを思い知らせてやる。それは、野球のスイングではソフトボールを打てないのと同じ事なのだ。
 偉そうにするんじゃない。
「さあ、やろうぜ」
 高梨が凄みのきいた声をあげ、みずからプレイボールを宣言する。
 市川のサインは、内角高め一杯へのシュート。
 さすが、俺のことが良く判ってる。
 小さく頷く。
 右足を蹴り上げ、左腕を引き、力強くホーム方向にまっすぐ踏み込み、腕を振り抜いた。指先から小さくはじけるような音を立て、白球がミット目がけて叩き込まれた。
「ひゃっ!?」
 悲鳴を上げて、バッターが打席から飛び退く。
「ゾーンに入ってるぞ」
 市川がからかうようにいって、両手を動かしてストライクゾーンを示す長方形を空中にジェスチャアした。
 その後、高梨は二球続けて外角低めへとストレートを投げ込む。腰が引けたバッターにこれを捉える術は無い。
 三振に仕留めたところで、市川がマウンドに駆け登ってくる。
「あんまり飛ばすなよ。相手は手の内を探りに来てるんだからな」
「だからこそ、遊び球も使わずに三振取りに行かないと」
「まあ、そういう考えもあるか」
 口をへの字にして、市川は頷いた。小走りにホームベース後方まで駆け戻る。
 高梨は言葉通り、二番、三番を連続して三球三振に切って取る。
 さすがにソフトボール部員も顔色が変わってくる。ここまで高梨が三ポイントをあっという間にあげてしまったからだ。四番、五番が三振に終われば、その時点で勝負は決してしまう。
 四番に入るのは、一年生の依岡。綾瀬の中学時代のクラスメイトだ。
 普段は六番を打っているが、強打で知られるバッターらしい。素振りのスピードが違う。
 神原は下位打線勝負――序盤は高梨の球筋を見極めるつもりだった――を企図した布陣を引いていた。しかし今やこれは全く裏目に出つつあった。
 初球。
 依岡がバットを振る。かつんとバットの先に当たった。が、後方に飛び去る。
 あの調子では何回やっても前には飛ぶまい。そう思うが、怒りにまかせて気合いを込めた速球を投げ込む。ほとんどど真ん中を射抜く。
 為す術もなく、依岡は続けて空振り。三振に倒れる。
 五番打者、神原が打席に赴く。
「これで、後全員がヒット性のあたりを飛ばさないと勝てない訳ですね」
 市川が挑発するように、神原に言った。神原は無言。
 初球。内角へのストレート。見送り。
 二球目。またもストレート。バットを出すが、空振り。
「かすりもしない……」
 うなるように、神原が言葉をもらす。
「ほらほら。ここで打たなきゃ、終わりですよ。もっとも、後続が全部打たなきゃ駄目だから、勝負はもう決まったも同然ですけどね」
 市川はどんどん饒舌になっていく。ささやき戦術どころではない。大声で、グラウンド上に聞こえるように喋っている。
「うるさい!」
 思わず、神原は不機嫌そうな声で怒鳴り返している。高梨はほくそえんだ。完全にこちらのペースに引き込んでいる。
「次で、勝負です」
「貴方が勝手に決めるわけ?」
「キャッチャーですよ、オレは。それに、高梨の考えは分かり切っている」
 でかい声で言いやがって。
 苦笑しながら高梨が振りかぶり、投げる。真ん中低めを衝くコース。
 ストレートのタイミングを見計らい、神原は力を込めて踏み込み、バットを振る。
 タイミングはあっていた。が、高梨のストレートはポップしていた。ソフトボールのライザーボールとは軌道が違う。
「ど真ん中……!」
 ボールの下――虚空をバットで振り抜き、勢い余って打席から転げ出た神原がうなる。
「野球の球を打って良いのは、野球選手だけだっ!」
 マウンド上で、高梨が吼えた。

(5)


 結局、神原は自分たちの主張を取り下げざるを得なかった。
 とはいえ、心から納得している訳ではなさそうなのはあきらかだった。捨て台詞こそ残さなかったが、いずれ別の方向から再燃する可能性はあった。
 それもこれも、ウチが弱すぎるからだと思うと、高梨はソフト部を悪く言う気にはなれなかった。
「面倒が増えましたね、主将」
 ソフト部が去り、野球部はようやく練習を開始できた。ウォーミングアップを始めた高梨が宮本に言うと、宮本は首をすくめた。
「お前、折衝担当な」
 そう言って、ぽんと肩を叩く。
「うへ?」
 間の抜けた返事をした高梨を放っておいたまま、宮本はさっさと練習を開始してしまった。
「ソフト部の面倒なんか見切れないってのに、どうしろってんだ」
「高梨君……」
 困り果てていた高梨の背後から、声がかけられた。振り向くと、綾瀬も困った顔をしていた。
「どうなんだ? ソフトボール部、入ってみる気はないのかよ」
 声を掛けたものの、どう切り出してよいか迷うような素振りを見せる綾瀬に、高梨のほうが先に問いかけた。ぶっきらぼうな口調になっていることに、自分で驚く。
「……」
「やってみたいんだろ? 見てるだけじゃ、満足できないんだろ。自分が居なくなっても大丈夫なように、樫尾をマネージャとして引き込んだんだろ?」
「……そっか、全部、判ってるんだ」
 綾瀬はうつむいた。
「なんとなく、だけどな。もう何ヶ月も観てきてるからな」
「自分でも、よく判らないの。ソフトボール部でたとえ全国大会まで行けても、甲子園に出られるわけじゃない」
「甲子園、か」
 俺達が連れて言ってやる、と市川のように安請け合い出来ない自分が悔しかった。
 せめて、もう少しまともに戦えるチームにしたい。が、どうすればよいのか。高梨には、まだ道が見えていなかった。
 ただ一つ言えるのは、二年生に頼る訳にはいかないということだった。やるなら、自分たち一年生が中核とならねば、負け犬根性の染みついた大栄高野球部を変えられない。
「まだあきらめた訳じゃないんだ。少なくとも、俺は」
 独り言を呟いた高梨。その横顔をみつめる綾瀬は、どこか羨ましげだった。

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