『バトル・オブ・甲子園』
第十話”奮起”




(1)


 三〇分近く揺られたJRの電車を降り、一〇分ほど歩いて家に着く。ちょうど高梨の弟・隼児が庭で金属バットを手に素振りをしているところだった。
「お、今日は随分早いな」
 高梨は言った。中学と高校の違いはあれ、共に野球部に所属している身である。練習を終えての帰宅時間はそれほど差が無い。練習が終わる時間はむしろ高梨の方が早いときすらあった。家までの距離があるから、高梨がやや遅れて帰宅するというパターンだ。
 隼児は素振りするにしても一息ついてからの場合が多いため、高梨の帰宅時に隼児が素振りしているという光景を目にすることはあまりない。
「テスト期間中」隼児はそっけない。
「だったら勉強しろよ」と、高梨は苦笑い。高梨達の高校では、中間テストは十月の中旬だが、中学はやや早いらしい。
「どっちにしろ、野球で進学するから必要ないね」
 もっともかも、と思う。ちなみに学校の成績は高梨とどっこいどっこいだ。
「そうか。……俺も素振りするわ」
 高梨は言った。隼児がにやっと笑って頷く。
 家には金属バットが二本、木製のバットが二本ある。金属バットと木製のうち一本ずつは少年野球用。木製バットは、彼らの父親が学生時代に用いていたもの。もっとも、高梨兄弟が長年オモチャにしたせいで、すっかり痛んでいる。
 高梨は家に一旦入って着替えると、ニスも剥げきってぼろぼろになった木製バットを持ち出して、彼らが「砂場」と呼び慣わしている庭に出た。
 元々は本当にコンクリートに混ぜる砂が放置されていた空き地だったのだが、まだ二人が小学校にあがろうかという頃、野球ごっこをして遊べるようにという父親の配慮で、今ではボールが外の道路に飛び出さないように四方をブロック塀で囲んである。
 ここで高梨はもっぱらボール投げを好んで投手となり、隼児は素振りばかり繰り返してスラッガーへと成長した。二人にとって今でもここは大事な練習場所だった。
「兄貴のチームはどうなんだ? 秋季大会がすぐだよな」
 夕闇の中、バットを振り始めた高梨に、休憩をとっている隼児が問うた。
「打線が不安要素。て訳だから、こうやって練習してる」
「あれだよな。兄貴も、もうちょっと強いところに入ってたら良かったのにな」
「そんな強い学校だったら、今でも控えで試合にでられなかったはずさ」
「そんなもんかなあ」
 隼児は高梨の現状に不満があるらしい。
「勝つのは大事だけど、俺は自主的に勝ちに行きたい。誰かに『勝て』と無理強いされるのは嫌だ」
「兄貴らしいな。最終的に目指すところは同じなのにな」
「性分だから仕方がないさ」
「それはいいけど」兄の素振りをしばし見学していた隼児も、再び自分の練習に復帰して言った。「再来年の夏、直接対戦出来ればいいよな、兄貴」
「お前にだけは打たれたくないよ」
「そうかな? 俺は兄貴の球をうちたいけど」
 表情も判然としなくなるほど薄暗くなった中、隼児は言って、意味ありげに笑った。

(2)


 九月二十四日。
 秋季大会の組み合わせ抽選が実施された。
 秋季大会自体が神宮第二球場で行われる全国大会出場を賭けたものである上に、春のセンバツの出場チーム選考を兼ねている。
 夏の甲子園大会に比べて地味である点は否定できないが、決して適当にやり過ごして良いものではない。
「一回戦の相手は、浜永高よ」
 宮本主将、志摩監督のお供として抽選会場に足を運んでいた綾瀬が帰校して報告する。ベンチ前で休憩中だった部員達から、おお、と声が挙がった。レベル的には大栄高と同等か、やや上といったところ。もっとも、三年生が抜けた新チームでは、彼我の力量を正確に推し量ることは難しい。
「エースの百瀬ってのが、結構デキるらしい」
 雁首そろえた部員の中から、そんな声が聞こえた。
 頷いて、あとで調べておくわ、と言った綾瀬は、トーナメント表の写しを持っていた。促されるまま、綾瀬がそれを広げる。高梨達は頭を付き合わせてそれをのぞき込み、一回戦を突破できた場合対戦するであろうチームをあれやこれやと議論する。
「今回の目標は二回は勝つってところかな」
「そうだな」
 夏の大会で、一回戦をかろうじて勝利したものの、二回戦で見るも無惨な負けを喫しているだけに、それよりは上に行きたいという思いがある。
「だけど、今回は随分組み合わせに恵まれてるじゃないか?」
 高根の言葉に、部員達の表情に喜色が浮かぶ。輪島城東や井町南といった強豪校が軒並み反対側のブロックにひしめいているのに気づいたからだ。
 確かにその通りだった。一回戦を突破した場合、あたる相手は山中高か美保商。どちらもレベル的に大栄高よりさらに低めの高校である。三回戦で当たる可能性のある四校のうち、一番強そうな土居商工にしても、決して勝てない相手ではない。
 そして、ここを勝ち残れば準決勝、すなわちベスト八に名を連ねることが出来る。十分に手の届きそうな情勢である。
 せめて負けるなら、強豪校相手のほうが後腐れ無くて良い、というのは部員達の共通した意識となっていた。泣くに泣けないような相手には、絶対に負けたくない。
「行くところまで、いっちまおうぜ」
 石原のおどけたような台詞に、部員達が沸いた。

 その日の夕方。
「今度の大会は、俺達も戦力だ」
 練習を終え、部室で着替えながら高梨はそう切り出した。
 樋口をはじめ、背番号を背負った一年生部員達が高梨の周りに集まり、その言葉に注目している。
 三年生が引退し、部室に余裕が出来たため、いままではてんでバラバラな場所でそれぞれ着替えていた一年生達も、自分たちの場所を確保できるようになっている。一年生と二年生の着替える場所に明確な線引きがなされるようになっていた。
「先輩達の足を引っ張らないよう、一年生ここにあり、ってな活躍が出来るよう、頑張ろう」
 二年生部員に聞こえないよう、高梨は小声で言った。別に聞かれてこまる訳ではないが、やはり遠慮がある。
「いっぱしの副主将ぶりだね」
 樋口が皮肉めいたことを言った。もっとも口調には笑いが含まれている。一年生部員達も失笑に近いものを口元に浮かべる。
「なに言ってやがるんだ。ホントならお前が言うべき事じゃないか。お前が言わないから、俺が言ってる」
「ごめん。僕はどうもそういうのが苦手で」
「そんなのだから、いつまでたっても九番打者なんだぜ。さっさとクリンアップに食い込んでくれよな」
 高梨の言葉に、再び失笑が漏れる。樋口は肩をすくめる。頼りなげな仕草が妙に似合っていた。
 抽選会を前に、暫定的にくまれていたスターティングラインアップに修正が加えられていた。
 特筆すべきは、三番に抜擢された山口だろう。高梨達が入部した時には、小柄な体格で先入観があったのか、半ばマネージャのような仕事をさせられていた男である。数少ないチャンスでアピールし、ついにレギュラーの座を射止めたのだ。意外なパンチ力の持ち主である。
 一年生も新たに多数がスタメンに名を連ねている。
 高梨は背番号十、樋口は背番号八で、これは動きが無くて当然だった。
 逆に夏の地区予選ではベンチ入りしていた横山と中川が依然十七番、十八番で動き無しなのは少し問題があるといえた。期待されたほどに成績が伸びていないのが原因だった。
 その代わりに、越川、榎本の二人が背番号一桁を背負い、一気にスタメンとなった。
 特に榎本は夏頃から、高梨が密かに期待をかけていた選手である。元々打撃力はあったが守備に不安が残っていた。が、この夏の合宿での特訓でなにかつかんだのか、球際に強いプレイをしばしばみせるようになっていた。
 そして高梨にとって喜ばしいことに、市川もようやっとのことで背番号を手にしていた。一六番。皮肉にも、以前高梨が背負っていた番号である。もっとも、代打要員でも内野守備がためでも、ましてや控えの捕手でもなさそうだった。おそらくベースコーチか伝令役であろう。
 その中にあって、高梨が先ほど口にしたとおり、春からスタメンを張っていた樋口は、背番号同様に、新オーダーにおいても九番のままだった。
 高梨などは大いに不満だったのだが、樋口当人がそれをあっさりと受け止めている様子だった。
 チャンスに弱いから仕方ないよ、九番打者タイプなんだ、と樋口は肩をすくめる。が、綾瀬が付けているスコアブックによれば、樋口の打率はチームトップ、三割七分五厘を記録している。もったいない、と高梨は常々思っている。
「ま、これからは一年生がどんどん前に出ていいんだ。一年の期待を自分一人が背負ってるなんて考えなくていいんだからな。自分のことだけ考えて打席にはいりゃいいさ」
 高梨の妙な励ましに、一年生達が笑った。樋口も苦笑いしていたが、高梨の言葉を間に受けてか、どこか肩の荷が下りたような顔つきをしていた。

(3)


 九月三十日。
 一回戦、当日。大栄高からほど近い市営球場での第一試合は昼前にはじまる。平日の為、朝の二時限目まで授業を受ける。
 それからグラウンドでウォーミングアップを済ませ、そのままユニフォーム姿でJRに揺られて試合会場である市営球場に向かう。
 毎度の事ながら、野球部が頭数そろえて、でかいバッグを抱えて電車内に乗り込むと、一種異様な威圧感を放つものだな、と高梨は他人事のように考えていた。
 第一試合であるから、前の試合の進み具合に気を揉む必要はない。時間通り、大栄高の、球場での練習時間になる。
 全体でグラウンドを一周、ゆっくりと走り込んでストレッチを終えてから、野手と投手に別れる。高梨は市川をブルペンとして連れだし、大栄高が陣取る三塁側のファウルグラウンドにあるブルペンに赴く。
「やっと、お前と一緒にベンチで試合を観られるな」
 市川は嬉しそうだった。高梨も笑って、ちくりと言葉を刺す。
「小さいこと言ってるぞ。目標は甲子園なんだろうが」
「おっとそうだった」
 苦笑いをうかべながら、市川はベース後方で準備を整える。ベンチ入りが楽しくて仕方ないという調子だった。これまでスタンドで応援しているのは、市川としてはやりきれない思いだったのだろう。
 市川を相手に投げると、やはり安心できた。いつかバッテリーを組むことが出来ればな、球種をあれこれと試しながら投げ込みつつ、高梨はそんなことを思う。
 いつの間にか、志摩監督がブルペンまで歩み寄って来ていた。
「高梨、ちょっと来い」
「あ、はい」
 ボールを投げる手を止め、高梨は志摩監督に促されるままベンチ裏まで降りる。
「今日の先発を任せようと思う」
「俺が、ですか?」
 高梨はあまり普段、志摩監督と話をした覚えがない。普段から寡黙なこともあるが、積極的に口出しして指導するタイプではない。どこか近づきがたい雰囲気があり、しかも近づかなくてもどうにかなってしまうので、あまり話しかける機会も無かったのだ。
 それだけに、いきなり先発を指名されて、高梨は戸惑ってしまう。
「根川は押さえに置いておきたい。駒不足だからな。それに根川は体力の回復に時間がかかる。連投が効かない」
「……判りました」
 高梨はうなずいた。無論、不安はある。それ以上に疑問もある。しかしそれらをここで口にするのはやめておこうと高梨は思った。先発を任されたのだ。となれば全力を尽くすのみ。

 宮本は先攻後攻を決めるジャンケンに勝ち、後攻を取った。
 定刻通り、試合が始まる。
 まっさらなマウンドに登った高梨は一つ大きな深呼吸をした。がらがらの内野スタンドには補欠部員とマネージャ・樫尾の姿があった。ベンチ入り出来る女子マネージャは一人だけなのだ。
(樋口の奴、スタンドで応援してる石毛に彼女取られなきゃいいけどな)
 ばかばかしい思いつきに口元がゆるむ。
 さらに、やけにスタンドが静かな理由も理解する。大栄高の応援団が来ていないのだ。同じ日に開催されているソフトボール部の応援のほうに駆り出されてしまったためらしい。
 この間の事で、意趣返しされてるのかもな、と高梨は思う。まあ、勝ち上がっていけばそのうち、嫌でも応援に来ることになるだろう。
 うん、こんなことまで気が回るなんて、俺は落ち着いているぞ、と言い聞かせながら、試合開始を告げるサイレンを聞く。
 浜永高の一番打者はピッチャーの百瀬。ピッチャーが一番打者というのは珍しいが、よほどの俊足なのだろう。
 内角低めのシュート。空振り。今度は外角低めにストレート。ぎりぎり一杯に決まる。百瀬はこれを見送ってツーストライク。 
 高根のサインはフォーク。三球勝負を仕掛けるつもりらしい。高梨はうなずき、注文通り、真ん中低めのフォーク。綺麗に落ちた。百瀬のバットが回り、三振に討ち取る。
 続いて、二番、三番と無難に片づけての上々の立ち上がり。
「今日は球が走ってるな」
 戻ってきた高梨に、一塁コーチ役の市川が嬉しそうに言って、すれ違いにグラウンドへと飛び出していった。
 一方、浜永高の先発・百瀬も、大栄高打線を三者凡退に仕留める。
 二回裏。四番・宮本が一塁線を破るヒットを放つも、後続が続かない。
 高梨のほうは黙々と投げ、三回まで九人で片づける。
 レベル的に大栄高と大差ない、という情報は正しかったらしい。加えて、大栄高は何度も、身分不相応な強豪校と対戦してはボロ負けしながら、一流チームのすごさを肌で感じ取ってきていた。
 井町南、輪島城東、知多大知多。打席から、恐るべき気迫をたたきつけてくるあの連中に比べれば、浜永の打線はどうということは無かった。
「おい、完全試合だなあ」
 宮本が真顔で言った。この男は日頃冗談の一つも飛ばさない面白みに欠ける性格の持ち主だが、人情の機微を介さない訳ではない。高梨がにやっと笑うと、部員達の間から好意的な笑いが漏れた。
 要するに宮本の言葉は、高梨に話しかけながら、はやく点を取って高梨を楽にしてやろうという、ナインへの発破なのだ。
 だが、三回裏も、先頭打者の七番・高根はピッチャー正面のライナー、八番・高梨は凡フライに倒れた。
 ネクストバッターズサークルで素振りを続けていた、九番・樋口が打席に向かう。
「頼むぜ、樋口」
 すれ違いざま、高梨はそう声をかけていた。いきなりだったので、樋口は返事をする間もない様子だった。
 思えば入学から半年近くが経過しているのだ。
 場慣れして、少しは重圧に耐える術も身につけてきているはず。高梨は純粋に期待していた。
 期待に応え、樋口が放った打球は右中間を破った。高梨は大きく頷いた。
 だが、一番・石原はショートゴロ。得点を奪えない。
 
「今日はシュートがキレているから、シュートをメインに組み立てるぞ」
 ベンチからでる間際の高梨に、装具を整えた高根が言った。この数ヶ月の間に、高根も高梨の球の癖を飲み込んでいた。
 確かに高梨の調子は良かった。日頃はあまり切れないシュートが、切れ味鋭く曲がっている。
 二番、三番打者を連続三振に仕留めて悠然とマウンドを降りる。
 試合は投手戦の様相を呈していた。打線の破壊力不足は以前から高梨の危惧していたとおりだが、自分の調子が想像以上に良いので、あまり気にはなっていなかった。
 むしろ、彼の回りの選手のほうが、申し訳なさそうにしているのが気になった。
「済まない。さっさと一点欲しいところなんだが」
 四回裏の先頭バッター・越川が凡退して引き上げてきて歯がみする。
「気にするなよ。それより、どうもこっちのことを研究されてる気がしないか?」
 高梨の言葉に、部員達は顔を見合わせた。笑い飛ばす者はいなかった。
「確かに。あの百瀬ってピッチャー、くせ者だな。コントロールは良いが、球威も変化球も、高梨より一段劣るのに、なかなか捉えきれない」
 宮本の言葉に、部員達の顔にも真剣味が増す。
「向こうにも綾瀬みたいなのがいるのかもな」
 ベンチの隅でスコアブックとにらめっこをしていた綾瀬が、急に自分の名前が出たので慌てて顔を上げて、何事かと宮本達のほうを伺っていた。

 五回、六回と大栄高はツーアウトからランナーを出すものの、むなしく残塁数を増やすのみ。一方の高梨は低めにシュートを集め、打ち気に逸る浜永打線に凡ゴロの山を築かせつつ、時折ここぞという場面でフォークを効果的に使って三振を奪っていった。
 七回表。高梨は三番打者を討ち取ってまたも三者凡退に押さえる。小走りにベンチに駆け戻ってくると、ベンチの空気は一種異様なものとなっていた。
「おい、ホントに完全試合になっちまうぞ」
 市川の表情からも笑みが消えていた。焦りがある。もし高梨が九回をパーフェクトに抑え込んでも、チームが得点をしていなければ延長戦になるだけなのだ。延長になったところで失点して、さらに負けるような事になっては悔やんでも悔やみきれない。
 だが、なんとしても点を、と意気込む大栄高打線に対して、浜永高も負けてはいない。百瀬投手も、守備に散る選手達も、打てない打線の苛立ちを守備への意欲に変えて立ち向かってくる。安打は出るのだが、ダブルプレーに仕留められたり、ツーアウトからで攻撃の起点と出来ないまま、七回裏、さらに八回裏の攻撃も終わる。
 いよいよ九回表。
 マウンドに向かいながら、いまだ一本のヒットも一つのフォアボールも許していない高梨は、俺はどのくらいバテてきてるのかな、などと考えていた。
 今の段階で投手交代などあり得ないが、次の試合の先発を、監督はどうするつもりなんだろう、と思う。
 七番打者からの下位打線。
 初球だった。決して甘くはなかったのだが、高梨の投じた内角高めへのストレートを、三塁線を破るヒットにされたのだ。当たりが良すぎて、ランナーは二塁に進めなかったほどだ。
 油断があった、とは高梨は口が裂けても言えない。球筋を読まれ、さらに食い下がる気迫が一枚上手だったのだ、と考えた。それほどに、完璧に球を捉えたバッティングだった。
 マウンドに内野陣が集まってくる。
「心配いらないですよ、キャプテン」
 何か言いかけた宮本に、高梨は笑ってみせた。ショックは無い、といえば嘘になるが、少なくとも高梨は落ち込んでいなかった。まだ点を許した訳ではないのだ。
 固くなっていた内野陣の表情が、高梨の調子にあわせるように緩んだ。
「判った」
「ゲッツーで喰ってやるからな」
 セカンド・石原が相変わらずの軽い調子で言った。宮本も頷いている。
 伝令が出るまでもなく、選手は守備位置に散った。
 完全試合は夢と消えた。それどころか、致命的な一点をうばわれかねない状況。
 だが高梨は、負けるとは思わなかった。ここまでのピッチングが間違いでなかったことを証明するためにも、ここは勝たねばならないのだ。
 意気消沈するかと思われた高梨の球は、依然としてキレを保っていた。八番打者はフォークを空振りして三振。
 続く九番打者は、初球の外角低めにきまるフォークに簡単に手を出してショートゴロを放った。宮本――石原――榎本と渡り、注文通りのダブルプレーが完成した。
「よし、これから、これから!」
 ベンチへと戻りながら、宮本が選手達に檄を飛ばしていた。

「ピンチの後にチャンスあり、だぜ」
 ベンチの意気は決して沈んでいなかった。一点、ただの一点で良いのだ。それで試合は決する。
 ここまで散発三安打、一四球という大栄高の打順は、五番・榎本から。
 元々守備よりも打撃を期待され、一年唯一のクリンアップを任される榎本だが、いざ蓋をあけてみると、意外にもファーストの守備に精彩を放っていた。打球への反応が良く、今日の試合、ヒットになっても仕方のない当たりを少なくとも二本、飛びついてミットに納めている。
 その代わりというのも妙な表現だが、ここまでバッティングのほうはまるでタイミングがあっていない。
 志摩監督もそのことが判ったのか、ここで榎本に対して背番号一三をつけた代打・石見を送る。タイプ的には榎本と似た選手だが、二年だけあって本番での勝負勘に期待したのだろう。
 しかしながら、石見は五球連続ファールなどで粘ったものの、最後はセンターフライを打ち上げてしまった。
 続いて六番・小清水。彼も今日は無安打だったが、ヒット性の当たりを放っていたこともあり、そのまま打席に入る。
 小清水はその期待に応え、セカンド後方にポテンヒットを放った。
 続く七番・高根に対し、志摩監督のサインはバント。一打サヨナラのチャンスを創り出す作戦だった。高根はサイン通り、綺麗にボールを一塁線沿いに転がして小清水を二塁に送った。
 ここで八番・高梨に打順が回る。
 榎本同様に今日はまだ無安打だけに、代打かな、と高梨は思ったが、ここまで無失点、被安打一の高梨を引っ込めるような真似を志摩監督はしなかった。
 左打席に立った高梨は、バットを短めにもって構える。
(なにも俺が決める必要は無いんだ。俺の後ろには樋口が控えている)
 ちらりとネクストバッターズサークルで素振りをしている樋口の様子を伺う。チャンスに弱いという樋口だが、高梨は期待をかけていた。
 浜永高にも、樋口の打撃センスが優れていることは情報として伝わっているのかもしれない。一点入ればサヨナラ負けという状況では、空いている一塁ベースを埋めるという選択肢があるにもかかわらず、高梨に対して勝負を挑んできた。
 自分のバットでなんとかしろ、と、夏休みの合宿での知多大知多との練習試合後に正岡から言われた言葉を思い出す。
 そういや、あのとき俺達は、知多大知多の円川投手に、一安打無四球、唯一のランナーもゲッツーで潰される屈辱を味わったんだっけな。その屈辱を、今は浜永高が味わっているわけか。
 そう考えると、不思議に気が楽になった。知多大知多の円川投手は自ら五番打者としてクリンアップの一角を占めていた。高梨は自分が中軸打者であるかのように、悠然とバットを構えた。相手を呑んでかかる気持ちで、マウンド上の百瀬に鋭い視線を向ける。
 初球、高めに外れるボール。二球目、外角のボール球、と思ったらぎりぎりストライクゾーンをかすめていた。三球目、百瀬も緊張しているのか、ベースの五十センチ前にボールを叩きつけていた。キャッチャーが身体をはってこれを止める。
 バッティングカウントになる。高梨は内角に来る事を予想して決め打ちすることにした。
 そして百瀬の球は、魅入られたように内角へのスライダー。高梨は右足を一塁側に開くようにして打球を軽く弾き返した。
 思いの外速い打球は、セカンドとファーストの間を越えていった。
 二塁ランナーの小清水が歯を食いしばって走っているのと、浜永高のライトがボールを抑えるのを交互に観ながら高梨は一塁ベースへと向かった。
 三塁ベースコーチの二年生・背番号一四をつけた植村が腕をぐるぐるまわし、本塁突入を指示していた。身体を傾けて、勢いを殺すことなく小清水がホームに向かって走る。
 ボールはライトからセカンドの中継を経て、キャッチャーの元へと返ってきた。
 クロスプレーになるか、と思われたが返球は一塁側に逸れていた。三塁線上でブロックの態勢を取っていたキャッチャーが、絶望的な表情を浮かべ、上体を起こして捕球の為に体を三塁線上からどける。
 そこに、小清水が足から教科書通りのスライディングで滑り込み、左手でゴム製のホームベースを撫でた。
 主審がホームインと試合終了を告げる。高らかにサイレンが鳴り響いた。
 スコア、一対〇。大栄高は勝った。夏の予選一回戦の時のような、冷や汗もの勝利だった。

(4)


 ロッカールームで、ユニフォームから制服へと着替える。一旦球場の外で控えとマネージャを含めた野球部全員が集合し、志摩監督の簡単な挨拶を聞いた後に解散となった。
「新チーム初勝利、おめでとう」
 制服姿の綾瀬がオレンジ色のナップザックを肩に掛け、笑顔で高梨に声を掛けてきた。高梨も上機嫌でうなずく。
 連れだって、JRの駅に向かって歩き出す。
「考えてみりゃ、俺にとっちゃ初物づくしだよな。初先発初勝利が初完封だものな」
「それに、初打点が初勝利打点」綾瀬が言葉を継ぎ、少し悪戯っぽい目をして続ける。「ヒット自体、九回のあれが練習試合を含めて初安打だったって、知ってた?」
「うげ、そうだっけか?」
 高梨は記憶を辿る。言われてみれば、フォアボールや相手のエラーで出塁したことはあったが、ヒットを打ったのは今日が初めてだったのだ。
「打率は一割もいってないんだからね。これからは打撃でも頑張って貰わないとね」
「正岡主将とおんなじこと言ってるぞ」
 高梨はからかうような口調で言った。だが、綾瀬は笑わなかった。真剣な顔をしている。
「……頑張ってね。私はデータ集めたり、応援したりすることしか出来ないけれど」
「ああ――」
「任せとけ。一回や二回勝っただけで浮かれてる場合じゃないぜ、これからどんどん勝ち進んで、春のセンバツに出るんだからな」
 例によって大口を叩くのは市川だった。一塁ベースコーチとして声を張り上げていたので、ややしわがれていた。
「ああ、二回戦の相手はどこだっけ?」
「輪島城球場で今日やる予定の、山中高と美保商の勝利チーム。……あ、第二試合だから、そろそろ始まってるかな」
 綾瀬が言って、腕時計に視線を落とした。さらに制服のポケットから定期入れに挟んだ時刻表を出し、電車間に合うかな、と呟きながら時間を確かめている。市営球場から輪島城球場までは、JRで約三十分といったところだ。大栄高とは反対方向になる。
「これから偵察に行くわけ?」
 少し驚いて、高梨は訊ねた。綾瀬はうなずいた。
「これくらいしか、私には出来ること無いから。私のデータがチームに貢献できるなら、嬉しいし」
 綾瀬の笑顔には、どこか屈託が感じられたので、高梨は素直に頷くことが出来なかった。
「俺も観に行こうかなー」
 と市川が言った。綾瀬は少し困ったような顔をした。高梨はそれに気づいた。フォローしてやることにする。
「おいおい、一塁ベースコーチで満足してるんじゃないだろうな? 次、試合に声がかかっても大丈夫なように、練習したほうが良いと思うぜ」
「うん、まあ、そうだろうなあ」
 市川は少し残念そうに、口を曲げたまま二、三度首肯した。ちょうどJRの改札に到着していた。三人は連れだって改札をくぐる。
「あ、じゃあ私、行くね」
 ナップザックを肩にかけ直し、綾瀬は言った。よろしく頼むわ、と市川が声を掛ける。
「ああ、そうだ」
 独り言のように呟いた綾瀬が、高梨の元に来て小声でささやく。
「この間のソフトボール部の件、ありがとうね。私もいろいろ考えたんだけど、やっぱりマネージャで頑張れるだけ頑張ってみようと思うの。だから、高梨君達も私の仕事に張り合いが出るように、頑張ってよ」
「判った。もうしばらくは退屈しなくて済むようにしてやる」
 高梨は、敢えて強気な言葉を発して、綾瀬を反対側のホームへと送り出した。
「甲子園、連れていってやりたいよなあ」
 高梨は溜め息のような声音で呟いた。市川が、お前なら出来るさ、といつものように安請け合いした。

(5)


 続く二回戦は、山中高戦と決まった。
 翌日、綾瀬が試合を見たところ、走攻守どれも、まったく大したことのないチームだという。
「浜永高より、苦戦せずに済みそうよ」
 あまり主観を交えずにチーム力を分析する綾瀬にしては珍しく、そんな事を言って部員達を喜ばせた。

 十月二日。今度は輪島城球場の第三試合として、対山中高戦のカードは組まれていた。一回戦同様平日だったが、移動距離等を考慮して、朝から公欠扱いとなった。球場前に現地集合となる。
「専用バスぐらい欲しいよなあ」
 一時間弱、JRの准急行に揺られて球場入りした市川がぼやく。高梨も苦笑いして応じる。
「甲子園に行けるようになったら、買ってもらえるさ」
 なにか要求を通したければ、とにかく公式戦で勝つことだ、と高梨は思った。判りやすい。そういう割り切った考え方は俺好みだな、と高梨は一人得心していた。少なくとも、試合を前に軽口を叩く余裕があった。

 試合は、前の二試合がどちらも一方的なコールドゲームとなったため、定刻よりやや早めに始まることとなった。
 オーダーは一回戦と全く変わらず。高梨は再び先発のマウンドに赴くこととなった。
 一回表。宮本がまたもジャンケンに勝って後攻を選んだ為、山中高の攻撃で試合が始まる。
 前の試合、九回までパーフェクトに抑え込んだ余勢を駆って、と高梨は意気込んで先頭バッターに対峙したところ、実にあっさりライト前に打球を運ばれてしまった。
 本当にこのチームは綾瀬の言うような、たいしたことのないチームなんだろうか、と一抹の不安を覚えながら後続の打者と対峙する。
 バッティングフォームは悪くないが、頭抜けて威圧感のある鋭い振りには感じられない。二番打者以降を内野ゴロ二つ、三振一つで無難に討ち取る。ふう、と息をついて高梨はベンチに引き上げる。

 山中高の先発投手は蒲口。左のアンダースローという、あまり見慣れないタイプのピッチャーだった。
 その為、初回、二回と三者凡退に終わったが、三回裏、七番・高根が追い込まれながらセンター前にしぶとくヒットを放った。
 ここで高梨の打席。前の試合で貴重な決勝打を放ったとはいえ、それまでの貧打に泣いただけに、志摩監督は当然のように送りバントのサインを出してくる。まあ、当然だろうなと納得して高梨はボールを転がせた。
 やや一塁側ながらピッチャー正面に転がったために一瞬ひやりとしたが、高根の離塁が絶妙だったのを見越して、捕球した蒲口が無難に一塁に送球してきたので、無事送りバント成功となって高梨は一塁側ベンチに引き上げる。
「ご苦労さん」
 一塁ベースコーチの市川がそんな声をかけてくる。
 本当に苦労なのは、チャンスに打順が回ってきた樋口のほうだよな、と思いながら高梨はベンチの奥に引っ込み、グラブをもって三回裏の投球に備えた。
 チャンスに弱いと自他共に認める樋口。だがいつまでもそれでは困るのだ。センスはチーム屈指なのは誰もが認めるところ。なんとしてもクリンアップを占める選手に、と高梨が考えていると、金属バットの快音が響いた。
 樋口の放った打球は左中間を真っ二つに破っていた。二塁ランナー・高根は律儀にも全力疾走でホームベースを駆け抜けた。樋口も二塁ベースに滑り込んでいる。貴重な先取点は樋口のバットから生まれたのだ。
「今日も行けそうだな」
 宮本が高梨のほうを見て、言った。あとはお前次第だ、とでも言いたげだった。
 その後、後続は断たれたものの大栄高は四回表にも一点を追加した。
 四回裏、高梨は山中高の反撃を受けることとなった。二番打者からの好打順に、ワンアウトながらランナー一、三塁というピンチを迎える。
 打席に入った六番打者は打ち気満々に素振りをくれているが、状況から言って強襲とは限らず、スクイズもありえた。同点のランナーである一塁ランナーを無警戒にする訳にもいかず、内野の布陣はずいぶんと窮屈な体形を強いられることになった。
 じっくり考える時間を与えればこっちが疑心暗鬼に囚われる。恐れず、全力で向かっていこう。高梨はそう心に決め、思い切って内角にストレートを投げ込んだ。
 やや甘めに真ん中寄りに入る。むしろ初球から絶好球が来たことで打者のほうが慌てたきらいがあった。振り遅れ気味に振り出されたバットの先にボールがひっかかった。実に中途半端なスピードの打球がショート前に飛んだ。
 三塁ランナーは一目散に本塁に突っ込む。ショート・宮本は迷わずセカンドに送球した。ボールをグラブに納めた石原は、滑り込んできた一塁ランナーをものともせず、ジャンピングスロー。
 きわどいタイミングだったが、打者走者が一塁ベースを踏むよりほんのわずか一瞬先に、ファースト・榎本が目一杯伸ばしたミットにボールが収まっていた。
 ダブルプレーが完成し、ホームベースを駆け抜けていた三塁ランナーの得点は認められることはなかった。宮本の好判断だった。

 五回表。二番からの好打順。ここでクリンアップの打撃が爆発した。三点を奪い、蒲口をノックアウト。一年生投手、江口を引っぱり出す。
 六回表。
 高梨同様、ノーワインドアップモーションで投げる江口に対し、下位打線も負けじと長打と犠牲フライでさらに二点を追加。都合七点を挙げて試合を決定づけた。
「決定づけた? ウチにセーフティリードなんかあるもんか」
 盛り上がる仲間を横目に、高梨だけは気を抜いていなかった。大量リードにもかかわらず一点もやらないという慎重なピッチングを続ける。
 が、六回裏。先頭バッターにライト前ヒットを放たれると、つづいて今度はセンター前にはじき返される。
 センター・樋口はセカンド・石原に返球。一塁ランナーへのタッチは当然間に合わないが、石原の目に、一塁ベースを周り、慌てて駆け戻ろうとしているバッターランナーの姿が入った。
 彼は反射的に一塁に送球していた。が、一年生、公式戦二試合目の榎本がセカンドの動きから目を外していた。
 ボールはむなしく一塁側のファウルグラウンドを転がりフェンスに跳ね返って、追いすがった榎本のグラブに収まる。そのときにはランナーは二、三塁にそれぞれ塁を進めていた。
「捕まったか?」
 高梨は焦りを感じた。七点差あるという事実を楽観的に受け止めることが出来ない。負け癖の臭いをそこここに感じているのだ。
 ここでさらに、センター前に運ばれる。樋口の好返球が返ってきて二塁ランナーは三塁にストップしたが、三塁ランナーのホームインを阻止できるはずもない。高梨は一点を失った。
 ベンチから伝令が飛び出してきた。背番号一六、市川だった。
「なにびびってるんだ。お前らしくないぞ」
 市川は両腰に手を当てて渋面を作った。
「どうも、味方の大量リードって場面に慣れなくてな」
「言い訳は監督に言ってろ」市川は面白くなさそうに言った。「交代だとよ」
 市川はあごをしゃくった。ブルペンで肩をならしていた根川がマウンドに向かってくるところだった。
「だったら伝令なんていらないじゃないか」
「まだ六点差あるだろ? お前がごねたら困るからな、ベンチに引っ張ってこいという監督のお達しだ」
「やれやれ」
 人をなんだと思ってるんだ、と腹立たしい思いがしたが、高梨は素直に根川にマウンドを譲った。エースにも花を持たせろということなのだろうと自分を納得させる。
 根川は山中高のスクイズで一点を献上したものの、後続を断った。得点差は五点。
「心配するな。いくらでも点は獲れる」
 例によって、説得力を感じさせない台詞をはいたのは、先ほど榎本との連携が合わずに失点のきっかけを作った石原だった。あの場合、榎本だけが悪い訳ではない。
 だが、今回に限ってはただのビッグマウスではなかった。七回表の先頭打者である石原はレフト線にフェンス直撃の大飛球を放ち、山中高のレフトの処理のまずさも手伝って、いっきに三塁を陥れたからだ。
 さすがに志摩監督も、ここで山口にスクイズは命じなかった。山口は軽くライトフライを打ち上げ、俊足の石原は悠々と本塁を踏んだ。言葉通りの一点追加。
 これで、いちどぐらつきかけていた大栄高の流れは完全なものとなった。九回表に挙げた二点はおまけのようなものだった。根川も後続をぴしゃりと断ち、大栄高は三回戦へと駒を進めた。
 終わってみれば、スコア十対二。大栄高打線は実に十七安打を記録していた。コールド勝ちではないとはいえ、ここまで一方的な勝利は初めてである。

(6)


 翌日。大栄高グラウンド。
 ブルペンの高梨は連投の疲れもさしてみせず、明日の三回戦の備えて、軽い投げ込みをしていた。球を受けるのは今回補欠に回っている石毛。市川がどういうわけか要領よく練習をさぼって高梨の後ろから球筋を見ている。
「いまのところは調子良く来てるなあ。高梨も、チームも」
 市川が言った。
 確かに、合宿から二学期の最初の一時にかけてはかなり沈んでいた、部の空気はかなり良くなった。勝利はやはり何物にも代え難いカンフル剤だった。
「とはいえ、そんな強いところを潰しながら来た訳じゃないからな」
 高梨は石毛からの返球を受けながら、そう応じた。
「組み合わせの妙だよ。そういや三回戦の相手、どこになったんだろうな?」
 市川が呟く。彼だけでなく、練習中の部員達が寄ると触るとその話題になっている。
「まだ試合やってる頃じゃないのか……、いや、そろそろ終わったかな」
 三回戦の相手となるのは、二回戦を現在進行形で戦っている土居商工と井門高のどちらかということになる。土居商工はかつては甲子園出場を果たしたことのある古豪だが、ここ十年は並のチームになっている。対する井門高は、高梨はほとんど予備知識らしきものを持っていなかった。
「下馬評じゃ土居商工のほうが上って話だが、どんなもんだろうな。綾瀬情報待ちだな」
 高梨の呟き。綾瀬は問題の試合を観戦しに球場へ足を運んでいる。本来のマネージャ業が、樫尾に任せても問題なくなっていたので、心おきなく偵察出来るのだった。ただし、平日であるから、試合が第三試合でなければ不可能な芸当と言えた。
「お、噂をすれば影だ。綾瀬が戻ってきたぞ。えらく早いな」
 市川がグラウンド脇の桜並木のほうに視線を送った。確かに早足で歩く綾瀬の姿が見えた。
 高梨も投球練習の手を止めて、一塁側ベンチ前に向かった。
 既に、綾瀬はベンチ前に集まってきた部員達に取り囲まれていた。
「どうなった?」口々に綾瀬に訊ねる。
「井門高が勝ったわ。三対〇」
 綾瀬が報告する。どこか、自分で自分の言葉に納得していない様子だった。
「次の相手は井門高か……。どんなチームだ?」
 高梨が問う。綾瀬は試合内容を思い出すように頭を軽く傾けた。
「それが、どうも良く判らないのよ。私が球場に着いたときは、もう八回ぐらいだったから……。判ってるのは、井門高のエース――三根って名前だったわ――はアンダーハンドだってことくらい」
「なんか、えらく歯切れが悪いな?」
「土居商工、一安打しか打てなかったのよ。調べてみたら、ここまで三根投手は一回戦から全イニング無失点なの」
 また投手戦になるのかな、と高梨は思った。望むところだ、とまでは思えないが、かといって怖じ気づく理由は何も無かった。この二試合での勝利の経験をして、高梨にそれだけの自信を抱かせていた。

 第十一話に続く

 一塁側ベンチに戻る

 INDEXに戻る