(1)
三回戦の相手が決まった。井門高。対戦相手とみられていた土居商工は、伏兵・井門高に敗戦を喫していた。
試合を明日に控え、授業中も上の空の高梨。昼休みになり、教室で弁当を掻き込みながらも対戦相手のことが気にかかる。一つ二つ勝ったぐらいで天狗になるわけにもいかなかった。
「井門高ってのはどんなチームなんだ?」
今回は特に、全く情報を持たないだけに、高梨は何度目かの独り言をもらして首をひねる。
「とにかく、エースの三根投手でもってるチームだってよ。なあ?」
高梨と一緒に食事をしていた――というより、三限目の早弁ですでに昼食を終えていた――市川が大きな声で言った。後半部は、少し離れたところで、これも友人等二人と共に昼食を摂っている綾瀬に向けた言葉だ。
自分たちの話を邪魔されたからか、少し不機嫌そうな顔を向けた綾瀬が頷くのを高梨は視野に収める。
「それは井門高とやるとに決まったときにも聞いた。ここまで全イニング無失点は伊達じゃないってか」
綾瀬が席を立って、高梨達のところまで来る。
「左の下手投げって、打ちにくいのかな?」
「下手投げだからってソフトボールと同じに考えるなよ。だけど、二回戦……山中高のエースも左の下手投げだったぜ」
「蒲口君ね。私は打席に入ってないから、違いがよく判らないけど……」
「いいさ。強力打線に立ち向かうより気が楽だ」
「ねえねえ」
さっきまで綾瀬と話していた女子生徒達も、高梨達のところにやってきた。いかに授業を熱心に受けていないとはいえ、二学期ともなれば同じクラスの生徒は全員顔と名前が一致する。
話しかけてきた長身は大出、その後ろに隠れるようになっている小柄が三脇という名前であることは高梨にも判った。
「試合、応援に行くからね」
大出が言った。明日は土曜日だった。
「だから、絶対勝ってよ」
その後ろから三脇も言葉を重ねる。
「あー、勝てる相手ならな」
「もう。こっちはまじめに言ってるのに」
高梨のとぼけた口調に、大出が頬をふくらませる。
「気にしないで。高梨君はいつもこんな調子だから」
こう綾瀬に言いきられて、さすがに高梨も反論する。
「えらい言われようだなあ。どんな相手か判らないんだから、勝てるか勝てないか判らないだろ。こっちとしちゃ、全イニング無失点の凄腕のピッチャーがいるってことしか耳に入ってないんだ」
「続報とか、無いの?」
高梨の言葉に相づちをうつ風もなく、市川が身を乗り出すようにして綾瀬に問う。
「うーん、そう言われても」
「いいよ。当たってみれば判ることだから」
綾瀬の困り顔を見て、あまり頼りにしてばかりじゃ綾瀬の負担が大きくなるだけだな、と高梨は反省した。
(2)
翌日。
井門高の先攻で始まった試合は予想通り、高梨・三根両投手の投手戦となった。三根はともかく、高梨はいつの間にかエース扱いで、当然のように先発マウンドに送られている。高梨にしても、後ろに打たれ強い根川がいてくれるというのは頼もしかった。
三回までにどちらも一本ずつ安打を浴び、大記録の夢は早くも消えたものの、両者とも要所を締め、連打を食らうことなく淡々と凡打の山を築いてイニングを消化していく。
綾瀬の情報通り、左アンダーハンドの三根投手の球はくせ者だった。まともな直球は一度も来ない。驚くほど速い球が無い代わりに、恐ろしく制球力があった。球を低めに集め、ボール一個分のストライクゾーンの出し入れで大栄高打線を翻弄する。決め球のシンカーに、樋口が三球三振を食らう一幕もあった。
高梨も負けてはいない。制球力と変化球では譲るものの、彼には百四十キロ近い速球があった。安定感の増してきたフォークも、今大会を通じて自信を深めてきたシュートもあった。井門高打線に三塁を踏ませず、付け入る隙を与えない。
盛り上がりに欠ける展開で両者無失点のまま、七回表が終わる。
ベンチで志摩監督は渋面を作っている。
七回裏、この回の先頭打者となる榎本に、志摩監督は代打を送った。動かずにはおれなくなったのだろう。
打席にはいるのは背番号一三・石見。
打力を買われ、今大会から五番打者に抜擢された榎本だが、ここまでわずか一安打と不振にあえいでいる。戦績的には榎本と大差ないものの、二年生の落ち着きを期待しての代打起用だった。
しかしここは奏効せず、石見はファーストゴロに倒れた。
その後も両チーム共に打線に決め手を欠き、最終回を迎える。ここまで井門高は散発三安打。大栄高も四安打。
九回表。
先頭打者は二番・峰。投手の三根と音は同じだが字が違う。今日の試合は、ここまで三打数一安打。
高梨はちらり、と嫌な予感がした。
俺はスタミナがあるほうなのかな、という思いが頭をもたげてきたのだ。
球威は落ちてないか。変化球の曲がりは鈍っていないか。
初球。いままでは肘への負担が気になって投げ控えていたが、今大会中になって自信を付けてきた外角に逃げるシュートを投げ込む。が、ストライクゾーンを大きく外れるボール球。峰のバットはぴくりとも動かない。
まずいかな? と思っているところに、高根のサインは内角高めのストレート。
びびらずに行け、と力を込めて投げ込む。
消音バットであることを忘れさせるような凄まじい金属音が球場内に轟いた。高梨が顔を歪めて振り返る。
センター・樋口が背を向けたまま、グラブを構えることもなく見送っていた。鈍い音。センターバックスクリーンを打球が直撃した音だった。
九回裏、大栄高の先頭打者が凡打に倒れる。
「ここまで来たのになあ」
石原が頭を抱えていた。本人は今日も二安打を放っているだけに、一点も取れない状況が歯がゆくてならないのだろう。
「あきらめるのはまだ早いぞ。向こうだってへばってきているんだ」
ネクストバッターズサークルから滑り止めスプレーを取りに戻ってきた宮本が憤然とした調子で言い放ち、打席に向かう。
「大丈夫だ」
ベンチ前で高根相手にキャッチボールをしていた高梨が、ベンチの奥で青い顔をしている樋口に言う。
「先輩はきっと打ってくれるよ」
樋口は頷いたが、それを横で聞いていた高根が渋面を作っていた。
「またそういう安請け合いをだな――」
確かに根拠のない空手形に等しい台詞だったが、宮本は期待に応えた。
ツーストライクを簡単に取られた宮本だが、決め球であるシンカーを狙い打った打球は鋭く一、二塁間を破った。広く開いた左中間さえも貫いた。
クッションボールを素早く処理したセンターがセカンドに返球するが、悠々と宮本は二塁ベース上に立っていた。
七回裏から榎本に代わった五番打者・石見が打席に入る。
石見の打球はショートへ。横っ飛びでワンバウンドのボールに飛びつき、止めていた。抜けた、と思った宮本が飛び出していた。彼にしても気が逸る事もあるが、らしからぬミスだった。
宮本は頭から二塁ベースに飛び込んでいたが、惜しくもタッチアウト。ツーアウト、ランナー一塁と変わる。
六番・小清水に代わって、代打・吉田。
吉田は初球から打ちに出た。なにも考えていないかのようなフルスイングだが、ボールはバットの根っこにぶちあたる。勢いのない打球がふらふらとあがり、センター前にぽとりと落ちた。ランナー一、二塁。
悲痛な響きの大栄高の応援に、勢いが戻ってくる。対する井門高のほうが気持ちで押され始めている様子だった。
観客の空気はチームの空気でもある。七番・高根にも志摩監督は代打を出そうとしていた。
地区大会でベンチ入りを許されるのは十八名。残りの選手はそれほど多くない。
志摩監督は、一塁ベースコーチについていた市川を手招きして呼び戻してきた。
喜色を浮かべて、市川はヘルメットをかぶり、金属バットをひっつかんで打席へと駆け込んでいく。
ぶんぶんと打席でバットを振り回して構える。気合いだけはどんな選手にも負けない。そして神経の図太さも、こういう極限状態ではむしろ頼もしい。
市川の打球はライト前へ。ライトが怒濤の走りで突っ込むが、取れない。ワンバウンド、ほとんど勘だけでグラブに収める。が、勢い余って前のめりに転倒する。その間に、暴走気味にスタートを切っていた二塁ランナーの石見が本塁を駆け抜けていた。
歓声が怒濤となってグラウンドに流れ落ちてくる。
同点。一塁ベース上の市川は得意満面で両腕をつきあげている。吉田は三塁まで進んでいた。
続いて高梨にも、代打が送られた。
背番号十五。一年生の岸野だった。
「頼む」
「なんとかしたいぜ、俺も」
ほとんど泣き笑いの表情でバットを担いだ岸野が応じる。
(速攻で行けよ。相手がペースを取り戻す前にカタをつけるんだ)
高梨の願いは通じた。
痛烈な当たりが高いワンバウンドとなってショートの前へ。吉田はちゅうちょなく突っ込む。岸野も全力疾走。突っ込んで来たショートが拾い上げ――、そしてボールに手が付かずにファンブルした。
市川が、吉田が、そして岸野がそれぞれむかうべきベースに向けてヘッドスライディングで飛び込んでいた。自分はタッチアウトになっていないが、他の誰かがアウトになっていれば延長戦になるが――。
三人が恐る恐る顔を上げ、状況を確認する。
井門高のショートが自分の守備位置で頭を抱えてうずくまっていた。焦ってボールをお手玉した彼は、どこにも投げることが出来なかったのである。
爆発する歓声と、試合終了を告げるサイレンを、市川達は放心したような顔つきで聞いていた。躍り上がってベンチから飛び出してくる仲間の姿にようやっとのことで自分たちの勝利を確認し、転げるような足取りでホームベース前の整列に加わる。
準々決勝の対戦相手は既に決まっていた。その日の第一試合で妻屋星陵を下した鬼浜高である。
鬼浜高は「海ヘビ打線」の異名をとる強力打線が売りものである。
(3)
ユニフォーム姿のまま球場の外に出ると、思いがけない光景にでくわした。
先ほどまでスタンドで観戦していた人々が、高梨達を出迎えてくれたのだ。
見知った顔もある。大栄高の制服を着た同級生や上級生も多い。しかし、高梨の知らぬ人物も多かった。
プロ野球選手なら、愛車か球団のバスに乗り込み、球場を後にするところをファンが見送ればさまになるのだろうが、高梨達はJRで球場に来ている。応援に来た人々も帰り道は似たようなもの。一緒に帰るというのはなんとなく締まらない。
そんなことを思いながら駅の改札をくぐり、プラットフォームで電車を待つ。例によって部員達は一カ所に固まっている。
ところが、一種近づきがたい空気を発散する高梨達のところへ、大栄高の制服を着た生徒が数名やってくる。
「ご苦労様でした」
その中から、一人の女子生徒が挨拶する。ブラスバンド部の主将だった。宮本が野球部を代表して会釈した。精神的に練れている宮本は表情になにも出さないが、市川あたりは露骨に白けた顔をしている。
相手は男子・女子両応援団、およびブラスバンド部の主将などからなる応援の主要メンバー達であった。
もっとも、さきほどの井門高戦で実際に応援をしていたのは男子応援団とブラスバント部の一部だけだった。まさかここまで勝ちあがってくるとは予想できず、秋季大会ということもあり、まともな応援態勢を整えていなかったのである。
案の定、彼らの話は、鬼浜高戦での応援態勢に関してだった。選手ごとの応援マーチなどを決めたいとブラスバンド部の主将は言った。
「へえ、やっとうちの学校も本気になってくれたんだ」
やりとりを少し離れた場所で観ている市川の口調には、どこか含むところがあった。
「まあそう言うな。俺達だってここまで来れるとは予想外の面もあるんだから」
高梨はここまでの三試合、さほど相手チームの応援に気圧されたという印象はない。自分が投げるときは常に相手チームの応援団の声援が飛ぶのだから、それを気にしていては投手などつとまらない。
ただ、時として相手チームの盛大な応援に士気が挫けることよりも、味方チームの応援の貧弱さに滅入ることのほうが多い、というのも高梨の経験にあった。
「選手全員の応援マーチを決めたいそうだ。候補曲も二十曲ほどあるらしいから。適当に全員選べ」
宮本が、ブラスバンド部の主将から手渡されたウォークマンを掲げて言った。応援曲が録音されたものらしい。
折しも電車が来た。高梨達はぞろぞろと電車に乗り込む。車両の半分を占拠するほどの人数だった。
「なにも電車の中で話す事じゃないよ」
真っ先に石原がウォークマンに耳を傾け、あれでもないこれでもないと言っている様を見て、樋口が漏らした。
「何せ明日の試合に間に合わせないと駄目なんだからな。向こうも必死だろ」
OBや学校関係者にせっつかれて応援の練習をさせられる羽目になったであろう女子応援団やブラスバンド部の部員達のこと思うと、高梨は「今更手のひら返したように――」と莫迦にする気になれなかった。
「おーい樋口、早めに決めておかないと、いいのが無くなっちまうぞ」
自分は一番最初の曲だけ聴いてそれを選んだ越川が樋口に言って、ウォークマンを渡す。
「僕は、音感悪いから、どういうのがあってるのか……」
「樫尾さんに決めてもらえよ。なに、応援曲なんて打席で聞いてるより、スタンドの観客に聞かせてるようなもんだ。スタンドで応援してる樫尾さんの耳に任せたほうがいい」
市川がからかうように言った。と、樋口はなにを思ったのかそれを真に受けたらしく、綾瀬にスコアブックの付け方を聞いていた樫尾のところまで言ってウォークマンを手になにやら話し始めた。
「見せつけてくれるなあ。なんかいまいち納得出来ん」
「まあそう言うな。今日みたいに活躍してれば、そのうち彼女も出来るさ」
俺は別に欲しいとも思わないけど――と言おうとしたところに、横合いからあまり聞き覚えのない女性の声がかけられた。
「ちょっといいですか?」
「へ?」
つい癖で、気の抜けた返事をかえしてしまう。
灰色のスカートにベスト。大栄高の制服だ。ブラウスのリボンが緑色なのに気づく。一年生だった。
一年四組・小山田美紀と彼女は名乗った。ほっそりとした顎のラインと大きな瞳が高梨の印象に残る。ふと気づくと、少し離れた場所で大出と三脇が笑って立っていた。一緒に試合を観に来ていたらしい。
「感動しました。同じ一年生なのに凄い、って」
「そりゃどうも。だけど今日の殊勲は市川達だぜ。ま、一年が頑張ったのは確かだけど」
言いながら、二年の部員の様子を気にする高梨だが、小山田のほうは頓着する様子もない。
「でも、最後に一点取られるまで全部ゼロに押さえるって凄いと思います」
「あのさあ、どうでもいいけど同級生なのにそんな敬語使われるとなんか調子狂うんだけど」
高梨が困った声を出すと、小山田のほうが顔を赤らめた。
「あ、ごめんなさい。なんだか、同い年に思えなくて。だって、すっごく頼もしく見えたから」
それからしばらく、小山田は高梨にあれこれと尋ねてきた。同時に自分のことも話す。大出達とは大栄高を受験する際に知り合って友達になり、前から高梨のことを聞いていたこと。彼女自身は女子応援団に所属しているが、今日の観戦はまったく一生徒としての立場だったことも説明する。
野球を観に来ていた割には野球には余り詳しくない様子で、興味の対象はもっぱら高梨の個人的な事柄に向いている様子だった。
やがて、電車は大栄高の最寄り駅に到着した。高梨達はこのままJRに乗って帰るが、小山田は乗り換えである。
「明日も頑張って下さい。チアリーダーとして応援、行きますから」
最後までどうしても敬語が抜けないままの小山田がホームにおり、頭を下げた。
綾瀬や野球部の大部分もここで降りる。車内は急にがらんとなった。
「すげえな」ドアが閉まり、列車が走り出したところで市川が呆れたように言った。「小山田美紀っていやあ、うちの学年じゃベスト五に入る美人だぜ。学年全体でもベスト十だ」
「相変わらずだな。綾瀬がナンバーワンだって話はどうなったんだよ?」
入学当初の市川の言葉を思い出し、高梨が苦笑して訊ねる。
「まあ、それはそれ、だ。別に綾瀬の評価が下がったわけじゃないぞ。ただ、タイプが全く違うからな」
「確かに。何も判ってない人にいちいちルールを説明するのは疲れるな」
細かなな動きにまで目を光らせてアドバイスまでしてくれる綾瀬と違い、思い切り野球のことを話せないというもどかしさがあった。
「そういうなよ。あんまり興味なかった野球の話題がしたくて、一生懸命高梨に合わせてくれようとしてたんだぜ?」
「なんであわせなきゃならないんだ?」
「あのなあ。俺が見たところ、小山田はお前に気があるな。うん。絶対間違いない。かあ、いいよなあ、ピッチャーは目立つからなあ」
「ホントかよ」
高梨は首をひねる。そんな単純に断言して良いものだろうか。もし万一市川の言葉が事実だとしたら、どうするべきなのだろうか。
冷やかし、自分のことのように盛り上がる市川とは対照的に、高梨はいつまでも戸惑い続けていた。
その晩。食事を終えた高梨はシャドウピッチングではなく素振りを家の庭で行っていた。
ピッチングの方はここまで調子よく来ている。むしろ打撃で、打率が一割に満たない状態のほうが気になっていた。打線はあまり期待できない面があった。山中高戦のように畳みかけることもあれば、今日の井門高戦のように九回まで相手投手を捉えられない時もある。
バットを振り続けていると、むしろ様々な雑念が頭を駆けめぐってしまう。気にかかるのはやはり小山田の事だった。高梨には今まで彼女と呼べる存在が居た試しがない。告白なんかされてしまったらどうしようと考えると、柄にもなくにやけてしまう。
やがて隼児も金属バットを手に庭に出てくる。
「さすがに嬉しそうだね」
「あ、ああ。三回戦突破だからな」
慌てて顔を引き締める高梨。同時に背筋が伸び、頭の中から小山田の事を追い払う。
「明日、試合観に行くよ。部活あるけど、休むことにした」
隼児が言った。
「鬼浜だぜ?」
負け試合をみられたくない、という思いをこめて、高梨は応じる。
「一戦一戦力を付けていくってこともあるしさ」
「俺達の場合はどうなのかな? 確かに、一回戦の浜永高戦が一番厄介だった気もするが」
今日の試合も、一点リードされての九回裏の攻撃という絶体絶命のピンチにも、それほど動揺しなかったような気がする。きっと逆転できるという思いがあった。勝負慣れしてきたということなのだろうか。
(4)
準々決勝、対鬼浜高戦当日。
「ここまでくると、観客も多くなってきたなあ」
市川とのキャッチボールの合間、ちらりと内野席を見上げた高梨がうめくように言う。
さすがに日曜日の試合である。多くが学校関係者とはいえ、一回戦の頃には考えられなかったほどの数にまで応援団は膨れ上がっている。
昨日、話をした女子応援団――チアリーダーまでが駆けつけてスタンドの階段に陣取っているのに苦笑する。その中には、ここからでは確認できないが小山田の姿もあるはずだった。ブラスバンドの応援も頭数が増え、先日とは比べものにならないほど厚みを増している。
「勝てば官軍だよなあ、この世の中」
同じような事を考えていたらしい市川も苦笑気味だった。
「ま、期待を裏切らないようにしようぜ」
高梨は言いながら観客席を再び見上げた。その中に隼児の視線を感じる。あいつの前で不格好な真似だけはしたくない。
だが市川は違う意味にとったらしい。にやっと笑い、「がんばれ、相棒」と冗談めかして言った。
両チームのウォーミングアップが終わり、試合直前のグラウンド整備が為されているところで、大栄高ベンチに正岡が顔を出した。周囲の視線を気にする様子もなく、高梨と高根のバッテリーを呼ぶ。
「相手は豪打が売りだ。だからって、慎重な配球など考えるな」
ベンチ裏の通路で、高梨達を前に、正岡は例によってとんでもないことを言い出す。
「じゃ、じゃあ一体」
慌てているのは高根のほうである。高梨のほうはむしろ、正岡らしいなと思っただけだたった。
「思いきっていけ。腕を縮こまらせてボールを置きに行くような真似はするな」
高梨の目を見据えて、言い切る。
「心配するな。お前の球は走ってる。気合いで負けていなければ、そうそう打ち込まれることはない」
「判りました」
自分の球が思うように走らず、不本意な最後の夏を終えたであろう正岡の事を思えば、むげにもできない。いや、このアドバイスはむしろ緊張をほぐす意味でありがたかった。
試合直前、宮本がベンチ前で円陣を組ませる。
「いいか。相手は『海ヘビ打線』だ。が、ピッチャーのほうは――」
宮本はわずかに顔を上げて首を巡らせた。
「――マネージャの情報によれば、オーソドックスな右のオーバーハンド。変化球は未知数だがストレートはそれほど走っていないそうだ。打ち勝つぞ」
珍しく気合いのこもった宮本の声に、選手達が吼える。
「おう!」
高梨は、気分がすうっと軽くなるのを覚えた。
円陣をといた宮本達は一列になり、ベンチ前で中腰になって構える。ホームベースを挟み、鬼浜高のナインも同様の姿勢をとっている。
審判がホームベース前に並ぶ。高梨達は整列すべく、わめき声を一斉にあげて駆けだした。
一回表。
鬼浜高の先発投手・多田の球は、どう贔屓目に見ても十人並みの切れでしか無かった。球速はどうにか一二〇キロ後半。見せた変化球はカーブとチェンジアップのみ。他にもあるのかも知れないが、ウイニングショットとして絶対的なものは持ってない様子だった。
石原が幸先良くヒットで出塁する。が、送りバントが失敗したこともあり、この回は零点。近いイニングに攻略できそうな感触だけを掴む。
一回裏。
今日も高梨が先発である。思い切り、思い切りと呟きながら、ストレートを高根の構えるミットにめがけて投げ込む。ストライク。続いてもう一球ストレートでストライクを取る。
一球外した後、喰らえ、とばかりにフォークを落とす。が、攻める気持ちが上擦ったらしい。
一番打者のバットが一閃。打球は強烈だった。
一瞬にして一、二塁間を打ち抜かれ、打球がライト前に転がっていた。
鬼浜打線は確かに強力だと実感できた。
二番打者は最初からバントの構え。
バントも出来ないような速球を、と攻める気持ちでストレートを投げ込む。
が、二番打者はバットを引き、振り抜いてきた。
再び強烈な打球が二遊間へ。と、ショート・宮本が頭から飛び込んでこの打球を押さえていた。走り込んでくるセカンド・石原にグラブトス。石原は滑り込んできた一塁ランナーを派手に飛び上がってかわしつつ一塁に送球。ダブルプレーを決めた。
三番打者。高めに浮いた球をきっちりと弾かれた。が、これは深めに守っていたセンター・樋口の正面。がっちりとグラブに収める。
「攻めるのはいいが、ストレートだけに頼るなよ」
ベンチに戻り際、高根が高梨に言った。確かに、少々つまり気味になった筈の当たりが驚くほど早い球足で飛ぶのだ。三人で攻撃を切れたのは、飛んだ位置が高梨にとって幸運だったからに過ぎない。
二回表。
この回先頭の小清水がショート強襲の内野安打を放つ。高根が送りバントで二塁に進塁させる。
しかし高梨はどんづまりのピッチャーゴロ。樋口も特大のセンターフライに倒れた為、得点はならなかった。
とはいえ、大栄高ベンチはさほど暗いものでは無かった。打順が一巡し、全員が多田投手の感覚を掴んだからだ。
「次の回当たり、点が入りそうだな」
宮本が静かな口調で言った。
ストレートは最高で百三十足らず。カーブはグラブをはめた左手首の曲げ方で見抜けることを、一塁ベースコーチの市川が見抜いていた。
「大きく曲げてるときはカーブ。曲げてないときはストレート。見破ってくれって言ってるようなもんだぜ」
市川は言って、への字になって相手ベンチに視線を向ける。あまりにわかりやすすぎて、罠かも知れないと疑っている様子だった。
三回表。
一番・石原からはじまる好打順。
速球と変化球を見破れるとなると、俄然打者にとって優位になる。あまりに細かなフォームの違いであれば、それを見抜くことに意識を集中するあまりバットが出ない、などという間抜けな事態もあり得るが、市川が見つけたのはあまりに大きな穴だった。
たちまち連打が出る。
言葉通り、一挙四点を挙げて先発をノックアウト。
二番手・大井がマウンドに登る。背番号十をつけた一年生だ。タイプ的には先発とさほど変わらない。
大井はこの回は大栄高打線の後続を断った。だが、多少目先が変わったに過ぎない。近いうちに再び捉えられるだろうという雰囲気があった。
六回表。
大栄高はここで大井を捉え、さらに三点を追加する。見破りやすい癖こそ無かったが、その球威も変化球も、これまで戦ってきた相手高のピッチャーより一段落ちるレベルでしかない。捉えるのは容易だった。
スコア七−〇と思わぬ一方的展開で迎えた七回裏。
鋭い当たりが二度続いたが、どちらも好守備に助けられ、既にツーアウト。バッターは、八番・ショートの清根。ここまで三失策と、チームの足を引っ張ってしまった選手である。
今にも泣き出しそうな、必死の形相で打席に入り、高梨を睨み付けている。
「ここで情けをかけたら、こっちの首が落とされる」
徹底的に叩きつぶすことが礼儀なんだ。いや、第一、俺はそんな偉そうな事を言えるピッチャーじゃない。わずかな気のゆるみが、取り返しの付かない反撃の火の手を噴き上がらせることにつながりかねない。ゲームセットの声を聞くまで、安心は出来ない。
自らに言い聞かせながらも、どこか萎縮するものがあったのか、それとも清根の気迫が上回ったのか。無茶振りに近いスイングが高梨の投じたシュートの辿るべき軌道上に叩き込まれていた。
痛烈な打球音。低く弧を描いたボールがセンター前に落ちる。高梨は顔を歪めてボールの軌道を目で追いつつ、一塁方向にカバーに走る。
だが清根は、ここでせめて一矢報いたい――一点でも返したいとばかりに、気を逸らせすぎた。
彼が一塁ベースを蹴り、オーバーランしたところに、センター・樋口の矢のような送球が正確にファースト・榎本のミットに飛び込んできた。慌てて頭から飛び込んだ清根の手にタッチ。
高梨にとっては唐突に、試合終了を告げる主審の声が聞こえた。男子応援団が太鼓を乱打している。
「え? まだ七回じゃないか」
「なに言ってるんだ、コールドだよ」
ファーストの榎本が、にやついた顔を見せて高梨の肩をグラブで叩き、整列するために走っていった。他の選手達も、内外野からホームベース脇へと駆け戻ってくる。どうやらこの回を無失点に抑えればコールド勝ちだと知らなかったのは高梨だけらしかった。
仕方ないじゃないか、まさか「海ヘビ打線」相手に完封出来るなんて、考えてもみなかったんだから……。
妙な言い訳を考えながら、高梨も慌てて榎本の後を追った。
スコア、七対〇。勢いに乗る大栄高はついに準決勝へと駒を進めたのである。
(5)
翌日。月曜日。
登校時からして、すでに学校の空気が違って感じられた。
名前も知らない上級生や、授業を一度も受けたことのない教師がやあやあと声を掛けてくるのである。
体育会系の部活動が全般的に盛んで、他種目であれば全国大会出場も決して珍しいことではないこの大栄高であっても、やはり野球は特別であるらしかった。
「たいした騒ぎじゃないか」
高梨はやや辟易した調子で市川に言う。
「ま、当然だろうよ。あと二つ勝てば、センバツ――春の甲子園に行けるかもしれないんだぜ」
市川はまんざらでもなさそうだった。
秋季大会は春のセンバツの選考会を兼ねている。ここで優勝すれば即出場決定とはいかないが、確率はかなり高くなる。大栄高は春夏ともに甲子園とはこれまで縁がない。
「その二つが問題なんだけどな」
準決勝は、いわば今回初めて迎える正念場だった。準々決勝で井町南と輪島城東という県下二大強豪校同士が激突している。その勝利チームである井町南と、大栄高が対戦することになっている。
前回対戦したのは、夏休み前の練習試合。初回の出会い頭の得点以外は、ほとんど試合にならない一方的展開だった。
だが、当時のエース・渡は三年生だった。従って今度の新チームにはいない。強豪校であるからレベルが著しく落ちることは無いにしろ、多少は精彩を欠いていることもあり得る。
「なんせ、ここまで調子よく来たんだ」
悔いのないようにやろうぜ。そういう意味合いのこもった台詞だったが、市川のほうは当然、ここで負けても良いなどとは考えていない。
「だからこそ、ここまで来てあっさり負けられるかよ。勝てば春の甲子園だぜ?」
力の差は歴然としている、はずだった。しかし大栄高はここまで勝ち残ってきた。浜永高戦では延長戦を制し、山中高戦では大量十点を奪った。好投手・三根を擁する井門高相手に九回裏ツーアウトから逆転サヨナラ勝ちをしたかと思えば、豪打を以て鳴る鬼浜高を零封、コールドゲームで下してしまった。
高校野球は、公式戦で勝ちあがりながら力を付けていく、という話がしばしば聞かれる。俺達は本当に強くなったのだろうか。明日の準決勝を前にして、快進撃の立て役者の一人でありながら、高梨はいまだに信じがたい思いを抱いていた。
第十二話に続く
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