(1)
昼休み。
教室の入り口から、ひょいと依岡が顔を出した。
ソフトボール部の一年生で、綾瀬とは中学時代の同級生だ。高梨はどうしても野球部とソフトボール部の確執が頭にある為、胡散臭そうな視線を彼女にも向けてしまう。
親友とは言え、綾瀬もその辺りの事情には詳しい、というか半ば当事者であり、どういう顔で相対すればよいか判らない様子で曖昧な笑顔を見せる。
ところが、依岡のほうは以前のトラブルなど忘れ去ったかのような顔で高梨の元までやってきた。
「なに?」
「美紀がね、高梨君を呼んで欲しいって」
「ミキ……って?」
それを聞いて、依岡が眉を逆立てる。
「こら。ちゃんと名前覚えてあげなきゃ可哀想でしょ! 小山田美紀。女子応援団の」
「ああ。なんでまた」
高梨は相変わらず人の名前と顔を覚えるのが苦手だ。とぼけた口調で問い返す。
「本人から聞きなさいよ」
「……判った」
いきなり呼び出して何のようだろうと思いつつ、高梨が席を立つ。
「屋上で待ってるから」
「おう」
風が強いせいか、その日は屋上には人影はまばらだった。
「ごめんなさい、わざわざ来て貰って」
小山田が心底申し訳なさそうに頭を下げた。風で舞い上がってしまう髪の毛とスカートをそれぞれ手で押さえて気にしている。
「別にいいけどもさ。依岡と一緒のクラスだったんだ」
「恭子を知ってるんですか? 無理に高梨さんを呼び立てるつもりはなかったんですが、恭子が強引に……」
「ああ、あいつ恭子って言うんだ。名字しか知らなかった。ま、あいつなら人の話なんか聞きそうにもないわな」
高梨は、綾瀬やソフトボール部と野球部との関係などについて簡単に説明した。
「遅くなりましたが、準々決勝突破、おめでとうございます」
相変わらず、同級生を相手にしているという自覚があるとは思えない丁寧な物腰の小山田が再び頭を下げた。
「まあ、自分たちが一番驚いているよ」
高梨が正直なところを口にした。
恐縮しながらも楽しげな顔をしていた小山田が、ふいに表情を曇らせた。
「そういえば……。肩のほう、大丈夫ですか?」
「え?」
「昨日帰られるとき、なんだかすごいギプスみたいなのを肩にされていたので心配したんですが……」
「ああ、あれは氷で冷やしてただけだから。切れた毛細血管の内出血を止めて疲労の回復を早めるってんで投げ終わったピッチャーはたいていやってることだよ」
「じゃあ、大丈夫なんですね。良かった……」
小山田がぱっと明るい表情になる。
「百三十七キロでていた、って近くで応援していた人が言ってました。凄いそうですね」
正岡のことかな、と高梨は思う。夏合宿の時にスピードガンを持ち込んできていたのを思い出したのだ。
「百三十七かあ。まあまあだな。もっと速いのは、いくらでもいるよ」
高梨は言った。小山田は、その言葉がどこまで謙遜で、どこまで本気なのか計りかねている様子だった。
「明日も応援に行きます」
「平日だろ、大丈夫なの?」
「応援団として行くわけですから、公欠です」
「ああそうか。俺達と一緒の扱いな訳だ」
「野球部がここまで勝ち残るのは珍しいそうですから」
小山田がはにかむように言った。
「堂々と授業がさぼれるとなると、頑張らないとなあ」
高梨の口調に、小山田が忍び笑いを漏らした。
(2)
火曜日。
秋季大会準決勝・井町南高戦は午後一時開始だった。午前中、二限目まで授業を受けた後、市営球場へと移動し、着替えてグラウンド上でウォーミングアップする。
スタンドの観客は、やはり平日だけあって、鬼浜高戦よりやや少な目だった。そんな中、ブラスバンド部、男子・女子寮応援団が総出で応援しているのは滑稽な感すらあった。
対する井町南高が、野球部の控え部員だけで応援を繰り広げているのとはあまりに対照的だった。
むろん、総勢二十数名そこそこの大栄高野球部では、控え選手の応援では対抗しようもない。
「あちらさんは、準決勝くらいで応援団繰り出す必要も無いって感じだな」
応援だけは圧倒している両校のスタンドを見比べての市川の感想である。
先発は高梨と同じ一年生で背番号一〇をつけたサウスポー・渡辺。大栄高は戦力層の薄さが原因だが、井町南高が同じ事をやると、なんとも相手に舐められているような感覚があった。
投球フォームも似ているところが多い、というのが第一印象だった。ただし、球の速さと切れにはやはり一段差を付けられている感じがあった。身体も一回り大きく見える。
「見てみろよ、相手のベンチ」
榎本が嫌そうな顔をして言った。言われるままに見てみる。
「なにかあるのか?」
「あの自信ありげな顔が並んでいるのをみると、それだけで気圧される」
「ま、向こうは強豪校だからな」
一泡吹かせてやろうぜ、と市川が言い、高梨達はうなずきあった。
この試合も、先発は高梨。実質的なエース扱いである。
試合前、高梨は志摩監督に「五回持たせろ。後は根川に任せる」と指示した。もとより、完投できる体力が残っているか不安のある高梨は安心してマウンドに臨めた。
高梨は一回表、三人とも平凡なゴロに仕留めて上々の立ち上がり。
「ストレートが良く走っている」
疲れはなさそうだな、と高根が分析して言った。飛ばしすぎるなよ、と釘を刺すことも忘れない。
渡辺に対する大栄高打線は、一番・石原、二番・越川こそ凡打に倒れたが、三番・山口が一二塁間を破ってライト前に鋭い打球を運ぶ。
半年前までマネージャ同然の扱いを受けていた男がよくぞここまで、と思わせる成長ぶりだった。こういう当たりをみせられると、やはり試合の中で実力が高まってきているのだと高梨も納得できた。
四番・宮本もしぶとく打球をはじき返してランナー一二塁と先制のチャンスを掴むが、ここで今大会不振の五番・榎本がブレーキとなって得点できず。
「それほど手強い相手には思えないな」
一塁上から戻ってくる宮本が高根からグラブを受け取りながら言った。高梨相手に打撃練習しているからかな、と言ってにやりと笑う。
二回裏。
先頭打者の小清水が出会い頭の初球を叩き、ヒットで出る。すかさず高根が送りバントでランナーを得点圏に進める。渡辺の球は、この段階ではすぐに捉えられそうに見えた。
ここで八番・高梨に打順が回る。
中学時代は結構得意だったつもりの打撃だが、今大会での打率は二割にすら満たない。
(今もスタンドじゃ、小山田が応援してくれてるのかな?)
打席に向かいながら、ちらりとスタンドをうかがう。前回はスタンドの応援に気を配る余裕もなかった。言い傾向じゃないか、と高梨は自分に言い聞かせる。
ブラスバンドの応援曲。選手それぞれにテーマ曲を付ける凝りようだ。当然、高梨のもある。テープを聴かされ、その場で適当に選んだ曲だったが、後で聞いたところによると、結構有名な漫画の主題歌をアレンジしたものだという。そう言われても高梨にはピンと来ないが。
応援曲に耳を傾けながらスタンドを見つめる。女子応援団の赤いユニフォームが階段に陣取っているのが見える。さすがに、小山田がどこにいるのかまでは判らない。
高梨が左打席に入り、ワッグルして構える。先取点のチャンス。気負いがないといえば嘘になる。
渡辺の球はよく走っていた。疲労の色は感じられない。ここまでは二年生の投手を主軸に据えていたのかも知れない。
速球は百四十キロを超えているだろう。簡単には打てそうもない。高梨は変化球に的を絞った。
ツーストライクを立て続けに取られたが、その後きわどいボール球が連続する。
五球目。カーブが来た。バットを振り出す。当たった。が、小山田にいいところをみせようと思って力んだか、引っかけてぼてぼてのセカンドゴロになる。
(俺よりカーブの出来は数段上か)
高梨は苦い思いを抱きながら、一塁ベース目がけて懸命に走る。
当たりが緩い分、二塁ランナーが三塁に進めたが、高梨にとっては不本意な結果だった。
彼の落胆を和らげてくれたのが、九番・樋口だった。マウンド上の渡辺の足下を抜けるセンター返しで小清水をホームベースに生還させたのだ。
「この調子で勝負強くなってくれるとウチは強くなるぞ」
宮本が呟くように言った。高梨も全く同意見だった。
三回表。
井町南高の先頭打者に、一塁線を破られて初ヒットを許す。ここで続くバッターが送りバントでランナーを二塁へ進ませると、先ほどの大栄高と同じように凡ゴロでツーアウト三塁という形になる。
「ここで凌げるかどうかでこの試合が決まる」
マウンド上の高梨は口元を引き締め、高根のサインを伺う。
テンポよくストレートを内外に投げ分けてツーストライクを奪う。外角に一球外してから、内角をえぐるシュート。態勢が崩れた状態で振られたバットにはシャープさが無く、一塁・榎本の目の前に力無く転がった。榎本は自ら一塁ベースを踏んだ。
(この試合も、いけるかも知れない)
高梨は密かに自信を抱いた。
ところが、決して油断したつもりはないのだが、微妙なところで緊張と精神的余裕とのバランスが崩れたのかも知れない。
四回表。井町南高の打順が一巡したところで高梨がつかまってしまう。かつては正岡が同じパターンに良く陥っていたものだが、自分がその立場に立たされるとどうにもやりきれない。
ストレートとシュートを主体にしてカウントを稼ぎ、フォークで決める高梨のピッチングのパターンを井町南高が掴み始めたのだ。リードする高根はやむなく、このところあまりキレの良くないカーブも交えた配球を組み立て始めたが、井町南高の打線はその程度ではかわしきれない。
サード・山口が三塁線を抜ける当たりを横っ飛びで飛びつくファインプレーなどもあったが、長短打を絡めてあっという間に三点を奪われて試合をひっくり返される。
ようやく井町南高の攻撃が終わったときには、高梨は汗だくになっていた。
「虚脱してんじゃねーよ」
市川がベンチに戻ってきた高梨の肩を小突いた。
「そんなんじゃないさ。……いや、そうかも知れないか」
「まったく、俺も信じられないぜ。急に崩れたな」
「なんだか、急に疲れがやってきたみたいだ」
緊張の糸が切れたような状況で、高梨は力無く呟く。思えば、中一日開けているとはいえ、今回のような連続した登板は初めての経験だった。
五回表。どうにかワンアウトを奪い、高梨は立ち直ったようにみえた。しかし、そこから内野と外野の間に落ちるポテンヒットを打たれると、続いて一塁線を破られる二塁打で四点目を失う。
さらに不運な内野安打でランナーが一・三塁となったところで志摩監督は投手交代を告げた。この頃になると、高梨の球威は目に見えて落ちていた。自覚こそ無かったものの、今までの疲労の蓄積は相当なものであったらしい。
替わった根川だが、勢いに乗った井町南高打線を押さえることが出来ず、五回表には結局四点を失った。得点は一対七。
あわよくば、という戦前のもりあがった気分は吹っ飛び、大栄高はコールド負けを心配する展開に追い込まれていた。
六回以降、根川はペースを取り戻して井町南高打線をほぼ完璧に押さえ込んだ。だが、打線が好投手・渡辺を捉えきれない。球速、変化球のキレがわずかずつ高梨を上回っている上に、高梨と違って体力に余裕があるのか、球威が衰えないのだ。配球も、微妙に各打者のポイントを外してくる。
七回裏。ここまでの三打席、犠打一つをのぞく二打数、全くタイミングのあっていなかった高根に替え、背番号一六・市川が代打に選ばれた。
敗色漂う中、一塁ベースコーチとして一人大声で味方を鼓舞する姿勢を買われての抜擢らしかった。むろん、一年生の正捕手候補である石毛がベンチ入り出来なかったことも関係しているのだろうが。
市川は全く臆することなく渡辺に立ち向かう。そして、ゴロで一二塁間を抜けるライト前ヒットを打って面目躍如。
そして八回表から、市川は高根にかわってそのままキャッチャーとしてマスクをかぶることとなった。
全く急な話に市川は面食らっていたが、もとよりキャッチャー志望を強く訴え、常に捕手用の装具を携えて試合に臨んでいた市川のこと、異論のあるはずもない。急いでレガースを付ける。
「そのうち、お前の球が捕れそうだな」
高梨に向かってそう言い残し、どたどたとキャッチャーズボックスへと向かう。
「しまっていこーっ!」
両手を高々と掲げて、朗々たる大声でグラウンド中に声を響かせる市川。一瞬、高梨達は点差を忘れる思いだった。
市川のリードが良かったのか、根川は八回を三者凡退におさえる。セカンド・石原の安定した守備に助けられ、根川は自信を持って本来の打たせて取るピッチングが出来た様子だった。
八回裏、樋口がツーベースで出塁し、石原がライト前ヒットで一点を返したが反撃もここまでだった。
根川の踏ん張りでどうにかコールド負けは免れたものの、スコア二対七。実力差通りの完敗だった。
(3)
ホームに電車が来た。例によって野球部と応援団がぞろぞろと乗り込む。一旦学校に帰ることになっているため、野球部員は制服に着替え直している。
席が一つだけ空いていたので、高梨はそこに綾瀬を座らせた。少し遠慮しそうだったので、「俺達は負けたバツとして立ってる」と冗談めかして言うと、綾瀬も笑顔を見せて「じゃ、遠慮なく」と座った。背負っていたオレンジ色のナップザックを膝の上に載せる。
高梨達は荷物を足下に置き、綾瀬の前に立つ。
「負けちまったなあ」
そういう市川はあまりがっかりした様子ではなかった。
「さばさばしすぎよ、市川君。もうちょっと残念がってくれないと、こっちも慰めたりできないじゃない」
綾瀬が市川を見上げて無茶なことを言い、頬を膨らませる。ベンチ入りを許されて、試合中の雰囲気も知っているだけになおさら、あまりに負け慣れた雰囲気に面食らっているのだった。
「そう言うなよ。上出来だろ」
「甲子園はどうなるのよ。せっかくのチャンスだったのに」
綾瀬にしては珍しく、機嫌の悪さを隠さない感情的な口調で市川を責める。
「あと二年あるだろ。確実に強くなってきてるんだからさ」
「だけど、勝負の世界なんだから、やっぱり負けたらベンチの中でうなだれて球場の人の後かたづけの邪魔になるくらいでないと、ドラマ性ってものが……。悔しさを練習にぶつける、とか」
「ま、夏と違って、先に進める訳だしな。あんまりがっくり来て尾を引く方が怖い」
納得していない調子の綾瀬に、高梨がフォローを入れる。
甲子園こそ遠くなったが、近隣四県から四高ずつ出場する地区大会へと駒を進めることが決定していた。ここを突破すれば神宮第二球場で実施される全国大会に出場出来るし、活躍如何では春のセンバツ出場の可能性もまだ残っている。
綾瀬とは対照的に市川の機嫌が良いのはそれが理由だけではなかった。彼自身は試合の最後にキャッチャーとして守備につく事もできたし、大会での成績は二打数二安打、打率十割を記録していた。結果は負け試合だったが、悔いは残らない。
「実際問題、惚ける間もないんだろ?」
「……それもそうね。もう、聞いてるわよね? 練習試合のこと」
綾瀬も高梨の言葉に頷き、頭を切り換え、話題を転じた。高梨と市川は並んで頷く。
週末に、さっそく練習試合が組まれていた。準々決勝で思わぬコールド勝ちした相手、「ウミヘビ打線」の鬼浜高である。
昨日の放課後、向こうから急遽申し込んできた試合だと綾瀬は言った。
「こんなの初めてだから、どう段取りしてよいか判らなくて困ったわ」
綾瀬はそう言って肩をすくめる。一年のマネージャが練習試合の段取りを仕切っていると知って、鬼浜高の監督はどう思っただろうか、と高梨は思う。
「まさか、復讐戦を挑んでくるとはねえ」
高梨は首をひねった。確かに前回は七対〇、六回コールド負けを食らった相手。彼らにしてみれば格下というあなどる気持ちが無かった事は否定できない。それだけにこの敗戦が納得できないのだろう。
だからといって、こんなにすぐ練習試合を組んで来るというのはどういうつもりだろう、と高梨が考えていると市川が高梨の右肘を小突いた。
「なんだよ」
「小山田に挨拶しておけよ」
「ん?」
市川があごをしゃくった先には、女子応援団の集団から少し離れたところに立っている小山田の姿があった。こちらを見ている。声を掛けたくても、掛けそびれている風情だった。
「くそ、バツが悪いったらありゃしない」
高梨が毒づきながら、荷物を市川に任せて小山田の元に向かう。電車の振動にも足下を取られることなく、手すりや吊革にも一切手をふれずに、立っている客の合間を縫っていく。足腰の安定をみせつけているようなものだったが、当人にその自覚はない。
「せっかく応援してくれていたのになあ」
そう、声を掛ける。
「残念でしたね」
本心からがっかりしている様子の小山田が発する涼やかな声。高梨の心にあらためて罪悪感に近いものが沸く。
「なんとも面目ない」
「そんなことないですよ。高梨さんはよく頑張っていたと思います。やっぱり疲れが出たんですか?」
「え?」
「私、野球のことはよく判らないんですけど」と小山田は前置きしていった。「一試合投げたら、何日も休むのが普通だ、って。高梨さんは一昨日投げたばかりなのに、また今日も投げて、疲れが残っていたんじゃないか、と思って」
「まあ確かに疲労は抜けていないけど、どこの高校も、ピッチャーってのはそんなもんだよ」
「大変なんですね」
尊敬のまなざし。五回持たずノックアウトされた身にはなんとも面はゆい。
「好きでやってることだからねえ。チアリーダーだって試合の間じゅう踊って応援するのは大変だと思うよ」
「ありがとうございます。すみません。こっちが気を遣ってもらって」
小山田はどこまでも控え目だ。高梨としては決して悪い気はしないのだが、どこかこちらも世辞めいた台詞ばかりになってしまって気疲れしてしまう。
「……」
小山田は次の言葉を待つようにじっと高梨の顔を見つめている。市川の評したとおりの美人であるだけに、一度台詞を考えてしまうと、何をどういってよいものやら判らなくなる。
(こりゃあ、まずいぞ)
変な事を口走らないうちに退散したほうが、妙な奴と思われずに済みそうだ、と高梨は判断した。慌てることはなかった。これから何度でも機会はある。
「ま、今日は負けたけどまだ地区大会があるから。また応援してもらわないと」
「はい。頑張って応援します」
「じゃ。俺、ちょっと今日の配球を分析しなきゃならないから」
「あ、そうですか。本当に大変なんですね」
「それほどでもないけど」
高梨は適当なことを言って小山田の元を離れ、野球部の集まっている列車の隅に戻ってきた。
「ちょっとスコアブック見せてくれないか?」
まじめな顔を作って綾瀬に言う。
「珍しいわね? 試合の後にそんなこと言ってくるなんて。やっぱり打ち込まれた後はショックだから……」
不思議そうに綾瀬が首を傾げる。おおよその事情を察しているらしい市川がにやついている。
「珍しいとか言うなよ」
万が一、小山田の耳に入るときまりが悪いので、高梨は顔をしかめる。
「判った判った。ちょっと待ってよ」
釈然としない様子ながらも、綾瀬は抱えていたナップザックから、スケッチブックのような厚紙の表紙をしたスコアブックを抜き出して高梨に手渡す。
「一球ごとのデータが残れば便利なんだろうがな」
「無茶言わないでよ。こっちの目が回っちゃうわ」
「判ってるよ。言ってみただけだ」
スコアブックに残った記録を見て対戦相手を一人ずつ思い出しながら、高梨は自分の配球を分析してみる。フォークをウイニングショットとして使う前に、ストレートやシュートをあっさりはじき返されていた印象が強い。目先を変えようという高根のサイン通りカーブを多投しても、そのカーブを今度は狙い打たれていた。
速い球はそれなりになってきたが、カーブやチェンジアップなどの遅く、大きく曲がる球のキレはまだまだ甘く、井町南高のような実力チームが相手ではまるで通用しないのが明らかだった。
「まだまだレベルを挙げていかないと、肝心なところで悔しい思いをするばっかりだ」
今頃になってどっと疲労が噴き出してくるようだった。
(4)
日曜日。
鬼浜高との練習試合が実施された。地区大会出場を決めた大栄高にとっては、重要な調整となる試合である。
が、結果は一対〇の惜敗だった。先発して六回を投げた高梨とその後を継いだ根川は、併せて一二安打を浴びながら、ダブルプレー四度という相手の拙攻に助けられて一失点に押さえた。が、打線が鬼浜高の坂田投手相手に沈黙してしまった。
坂田は右のオーバースロー、さして脅威と思える投手ではなかったのだが、うまくタイミングを外され、打ち気に逸る気持ちを見透かされ、打てない。地区大会では対戦しなかった投手だが、どうやら彼が本来のエースらしかった。
もちろん、思いがけず勝ちあがっただけに試合疲れもあった。一時はかなり鋭くなっていたと思われたバットの振りが鈍っているように見えた。
だがそれ以上に、高梨の目には、なにか憑き物が落ちてしまったような印象があった。特に打線の勝負弱さがあの弱い大栄高に逆戻りしたかのようだった。秋季大会ではあれほど目立った打球の鋭い伸びも、しぶといバッティングも、どこか遠くの話になってしまっていた。
「ま、こういう時もあるさ」
この試合、二安打を放ちながら、ついにホームベースを踏めなかった石原があっさりと総評する。気落ちしていないのは高梨にとって救いだったが、もう少し反省の色があっても罰はあたらないんじゃないか、という気がしていた。
翌週。地区大会の組み合わせが発表された。
一回戦の相手は隣県の光世学園。甲子園出場経験もある学校だった。
だが、それすらもトーナメント表に名を連ねた学校を眺め回すと、まだましな相手に思える。当然の話だが、甲子園常連校が目白押しなのだ。
「仮に光世学園に勝てても、二回戦であたる徳尚高にはどうやったって勝てないぞ」
「わからんぞ。徳尚の一回戦の相手だって弱くはない」
「どっちにしろ、一戦一戦、戦って行くだけだな」
二年の先輩がいっぱしの強豪校気取りで声高に言い合う中、高梨は鬼浜高相手の練習試合で抱いた不安を捨てきれずにいた。果たして大栄高の実力がどんなものなのか、よく判らなくなっていたのだった。
開会式は一週間後、一回戦はさらにその二日後に迫っていた。
第十三話に続く
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