『バトル・オブ・甲子園』
第十三話“饗宴”




(1)


 地区大会の開会式は隣県の県営球場で実施される。大栄高の一回戦はその二日後に組まれていた。
 開会式前日。
 放課後、練習を前に部室に集った高梨達は埃っぽい机の上に地図を広げ、あれやこれやと今後の予定に関して話し合っていた。なにしろ県外への遠征など縁の無い野球部である。段取りを把握することから始める必要があった。
「特急で一時間半かかるってよ。遠いなあ」
 県営球場の位置を地図で確認し、どこから持ち出してきたのか分厚い時刻表をひっくり返していた榎本が、頓狂な声をあげた。
 同意とも反意ともつかぬうめき声が、あちらこちらからあがる。
「交通費、出ねえもんなあ」
 石原が頭を振る。
「出たとしたって、結局部費からさっぴくんだから一緒だぞ」
 宮本がしかめ面で言う。予算は主将の宮本のみならず、部員全員にとって頭の痛い問題だった。
「大会に出るとなれば、そんなもんだぜ」市川だけが予算などは些末な問題と割り切っていた。「それにOB会とかがカンパ募るって話だしな」
「おいおい、秋季大会でもうそれか」
 いくらなんでも浮かれすぎだ、万が一、甲子園に出るとなったらどうなるんだ。高梨達はそういって苦い笑いを交わした。

 十月二十五日、日曜日。開会式。
「どこも強そうなところばっかりだよなあ」
「ネームバリューに負けるよ」
 始発の特急列車に乗り込んでやってきた県営球場。各校はライト側に設けられた入場口に向け、廊下に整列する。強豪校の選手達が帯びている熱気に、大栄高は気圧されそうになっていた。
「行進ぐらい、まともにやってみせようぜ」
 宮本が小声でささやいて気を落ち着けさせる。
 やがて、ブラスバンドの演奏に乗っての行進が始まる。天気は快晴。風はなく、グラウンドは暖かな陽光に満ちていた。
 大栄高の名前が記されたプラカードを先頭に、足並みを揃えて行進。内野側をぐるりと回って整列する。
 休日ではあるが、観客はやはりほとんどが何らかの関係者。それでも、場内に、大栄高の名前が読み上げられると、晴れがましい気持ちになる。
(甲子園で、こうやって行進するとなったらどんな気分なんだろう!)
 実質的な意味をほとんど持たないセレモニーの間じゅう、高梨はここが甲子園だったら、と思い続けていた。
 甲子園。
 入部当初から高梨と市川、そして綾瀬にとって共通の目的地。
 負け続けのチームにあっては限りなく遠い目標のようにも思われたが、秋季大会では県内ベスト四入りを果たしたのだ。それも、高梨の左腕に拠るところが大きかった。
 彼自身は決して自惚れるようなことはしないが、予選の大部分を投げ通したという経験と自信は、しっかりと胸の奥にしまいこまれている。
 彼の相棒、市川も、入部当初は役割すら定まらぬ扱いだったが、秋季大会では代打で活躍し、念願だったキャッチャーとして守備にもついている。
 聞けば、二学期早々のソフトボール部との勝負で、高梨の女房役としてマスクをかぶり、好リードしたことが、実は志摩監督の市川への評価を高めたきっかけらしい、と高梨は後から綾瀬に聞いていた。
 練習中にいくら守備などでアピールしようが成果があがらなかったのに、遊びのような対戦で評価されるとは皮肉なものだが、結果オーライである。
(あと二年のうちに、甲子園に行けるだろうか? いや、こうなったら絶対に行ってやる。市川とバッテリー組んで、甲子園のマウンドに立つ!)
 選手宣誓を聞きながら、高梨は心の中で自分だけの宣誓を行った。

(2)


 十月二十七日。
 大栄高の一回戦の相手は光世学園。
 実力的に言えば、おそらく勝てる相手ではないのだろう。大栄高はトーナメント表の組み合わせに助けられて調子づいてここまで勝ちあがってきたが、本当の実力とは言い難い。フロック中のフロック。
 しかしそれを自覚していても、周囲からそんな馬鹿にした視線で見られるのはつらい。
 せめて一矢報いたい。
 なにか自信を裏打ちするものが欲しくなり、試合直前、高梨はダグアウトの綾瀬に正直なところを聞いてみることにした。
「綾瀬の目から見て、俺達は強くなってるか?」
 秋季地区大会でも、女子スコアラー一名のベンチ入りが認められている。後列のベンチの隅に座り、スコアブックをチェックしていた綾瀬が顔を上げる。
「春から比べて?」
「ああ」
「うーん、やっぱりレベルはあがってきていると思うよ」
 打球は早くなったし、外野からの返球も正確になってきた。情けない走塁ミスも無くなったし、内野は全然届きそうにもない打球に飛びついて止められるようになってきた。思いつくまま、と言った感じで綾瀬は指摘していく。
「なるほどな。だったら、俺達がここまでこれたのはフロックなんかじゃなくて必然ってことか?」
「うーん、それはどうかなあ。トーナメントに助けられたのも確かだし」
「今日、勝てると思うか?」
「……私、勝てるか勝てないか、考え込まないことにしたの」
「なんでまた」
「だって。試合に出るのは私じゃなくて、高梨君達だもの。だから」
 綾瀬はどこか含みのある口調で言った。勝てるか勝てないか、じゃなくて私が言うのは、絶対に勝ってよ、の一言だけ。

 光世学園の先発は山田。スリークォーター気味の位置から腕の出てくるサウスポーだ。対して大栄高は、高梨が今回も先発マウンドを任された。
 一回表。光世学園の先攻で試合が始まる。
 マウンド上に登った高梨は、スコアボードの上部に据え付けられたアナログ式の大時計に目をやった。
 正午を半時間ほど過ぎている。
 おやつの時間までには、全てがはっきりしているんだな、他人事のような心境で高梨はそう思った。

(3)


「駄目だったかぁ」
 試合終了後。球場のロッカールームで着替えていた高梨達のところに、正岡が顔を出した。
「学校のほうは大丈夫なんですか?」
 進学する気は無いからと言って、授業を勝手にさぼったのではまずかろう。高梨が問いかけると、
「前々から、この日は腹が痛くなることになっていてな」
 と悪びれる様子もなく、言う。
 高梨も苦笑するしかない。正岡の相変わらずのペースには未だに慣れることは出来ないが、かといって不快なものではない。
「しかしまあ、負けたとはいえ、悪くない内容だった」
 正岡がばしばしと高梨の肩を叩く。
「この分だと来年あたり、本当に甲子園に出られるかも知れんぞ」
「だといいんですけどね」
「俺が請け合う」
 高梨は正岡の言葉を聞きながら、光世学園との一戦を頭の中で反芻していた。
 初回は共に三者凡退の立ち上がり。しかし二回表、高梨は先頭打者の四番・山下に三遊間を破られる強烈なヒットを放たれた。さらにワンアウト後ヒットを二つ重ねられて先取点を許してしまう。
 その裏、大栄高の四番・宮本もチーム初安打をレフトに運ぶ。ここまでは互角の展開だった。が、その後がまずかった。五番・榎本が送りバントを失敗してピッチャーへの小フライ。エンドラン気味にスタートを切っていた宮本は戻れずにダブルプレーとなってしまったのである。
 その後は高梨・山田共に一歩も譲らぬ投手戦となった。三回裏、高根が内外野の間に落ちるポテンヒットを放った後は、大栄高打線は完全に沈黙してしまった。
 五回を終わった時点で大栄高は二安打。対する光世学園も三安打。
 高梨は腕が良く振れ、球は走っていた。速球は百四十キロを超えているのではないか、とさえ思える。が、この速球だけで押さえ込めるほど光世学園打線も甘くない。高根の配球は速球を見せ球にして、シュートを引っかけさせるというものだった。この思惑は的中し、光世学園打線は変化するボールの上っ面を叩き、内野ゴロの山を築いていた。
 対して山田の武器は大きくホップしてくる直球。球にキレがあり、甘いコースに入ってくるように見える球についバットが出てしまうのだが、ボールの下腹を叩いているためにポップフライとなる。大栄高は内野フライを大量生産する結果となった。
 打てない苛立ちは鉄壁の守備となって表れた。七回表。四番・山下が放った一・二塁間へのライナーをセカンド・石原が飛びついて捕る。その後、五番・松本が右中間に二塁打を放ってピンチを迎えるが、今度は三遊間を破りそうな当たりをショート・宮本が好捕して高梨をもり立てる。
 だが、ぎりぎりのところで凌いでいる大栄高に、二回表に失った一点が重くのしかかる。山田は大栄高打線を完全に手玉にとっていた。
 八回表。高梨は三者凡退にこそ討ち取っていたが、この回、今日一番の大きな当たりを放たれていた。三塁線をわずかに切れるファールとなったが、距離に関しては完全にフェンス越えだった。さすがに捕まり始めていることを自覚せずにいられない。
 そして九回表。ついに予感通り、高梨はヒットとフィルダースチョイスで致命的な二点目を失った。九回裏、山田に完全に呑まれている大栄高打線にこれを跳ね返す力は無く、代打攻勢も実らぬまま、たちまちツーアウトをとられる。
 最後のバッターとなったのは、高梨に対する代打・市川だった。県の予選では二打数ニ安打、打率十割を誇った市川だが、山田の前にセカンドゴロに倒れ、ゲームセット。
 高梨は三時までにはけりがついている、と予想していたが、実際の試合時間は二時間足らずで終わるスピーディなものであった。
「さあ、行こう。ぐずぐずしてると次がつかえる」
 試合終了後、宮本が声をあげ、部員達を促した。高梨も大きなバッグを担いでロッカールームを後にした。

 野球部と応援団が一団となって特急列車に乗り込む。
 高梨にとっては半ば予想された結果である。悔しいことは確かだが、負けたことよりも実力差を思い知らされた事のほうが辛い。
(もっと練習して、一流校相手にも投げ負けないようにしないと。俺が崩れたら打線も士気が下がる)
 高梨は厳しい表情で、そんなことを考える。
 しかし周囲の者達にとって、相手高の強さ以上に、高梨の奮闘ぶりのほうがよほど鮮烈な印象を与えたらしかった。
「残念でしたね」
 高梨が驚いたことに、同じ車両に乗り込んだ小山田は目を赤く腫らし、ぐずぐずと鼻をならしながら口元を手で覆っていた。彼女の回りにいた女子応援団員も肩を抱き合って泣いていた。
 思わず、なにかあったの、と訊ねてしまったほどだ。
「高梨さんは、あんなに頑張ったのに、負けちゃうなんて……」
「せっかく応援団も駆り出されてきてたのに、来た甲斐がないよな」
「そんなことはないです。高梨さん、ほんとうに凄かったのに……」
 後は嗚咽になって、言葉にならない。
「そんなに凄いつもりはないんだけどな」
 そこに、宮本が二年生部員数名と共に寄ってきた。
「いや、お前は大した奴だよ」
 と、宮本が言うと、周囲の二年生部員も大きく頷いた。
「お前がいなきゃ、ここまで来られなかったもんな」
 と石原。山口が頷き、言葉を継ぐ。
「光世学園相手に六安打二失点だったら上出来じゃないか。俺達が不甲斐ないばっかりに負けちまったが、高梨は胸張っていいからな」
「正直言って、ここまでやる奴とは思わなかったぞ。すっかりうちのエースだな」
 と根川も言う。背番号一のプライドというものは、取り立てて持ち合わせていないらしい。
 口々に高梨を褒めそやす。
「俺だけの力じゃないですよ。守備が良くもり立ててくれるから、安心して投げられるんです」
 今までなら抜けるかと思った当たりを内野陣が飛びついて止めてくれるから、直球を見せ球にした変化球でゴロを打たせるピッチングに徹することが出来る。
「そう言ってもらえると助かる」宮本が笑いを含んだ声で言った。高梨が謙遜するのをある程度見越していたような口振りだった。「なんにせよ、お前がいてくれるお陰で、しばらくは楽しめそうだ」

(4)


 十一月。
 野球漬けの毎日でほとんど意識の外に追いやっていたが、気が付けば文化祭が目前に迫っていた。
「えーっと。文化祭実行委員会から、部としての出し物を今日中に決めて報告するように、というお達しがあった」
 練習前のミーティング。部員達を前に、宮本はいつになく歯切れの悪い口調で言った。珍しく困り顔で、ちらちらと綾瀬の顔を伺っている。
 一方、事情を知っている二年生はにやついている。一年生部員及び綾瀬と樫尾は、宮本の態度を計りかねていた。
(なんだってんだろ?)
 もちろん、高梨もその一人である。
 宮本はわざとらしく、大きな咳払いをした。
「野球部は伝統的に、女装喫茶をやっている。今年も同じようにやっていきたいと思う」
 二年生がどっと沸く。嫌な想像をして顔をしかめたのは一年生達だ。
「予想がついていると思うが、少数精鋭で行く。実際に女装するのは一年生、二年生各三名というところだ」
 宮本が、同情するような声音で言った。うんざりとした表情になっている女子マネージャ二名に顔を向け、人選は任せる、と付け加える。
「ここは樋口だろー!」
 唐突に、市川が大声を張り上げた。おおっ、とどよめきが起こる。
「確かにこいつの顔は女形にはもってこいだろ」
「うん、私もそう思う」
 綾瀬がうんうん、と頷く。樋口の女装と聞いて、意外と乗り気になっているらしかった。横で樫尾があたふたとしているが、部員達の前で反対出来るような性格ではない。困り顔の樋口と顔を見合わせるのがせいぜいだった。

 結局、女装をさせられるのは一年生が樋口、岸野、そして言い出しっぺの市川の名前があがった。
 二年生は調子乗りにかけては野球部一の石原が立候補した他、小柄な山口と色白な小清水がそれぞれ女装に適しているだろうとして推薦された。
 ミーティングが終わり、練習が始まる。
「やあ、なんか楽しみだなあ」
 と、市川がグラウンドに向かいながら言った。樋口に推薦返しを喰らって女装する羽目になったのだが、本人は割と気楽な雰囲気で周囲が拍子抜けしていた。
「俺はお前の女装なんざ見たくないぞ」
 心底うんざりという口調で高梨が言うが、市川は意に介さない。
 傍らでは綾瀬が、
「私は結構樋口君の女装、楽しみだなぁ」
 などと樫尾と樋口に話しかけ、二人を困惑させていた。

(5)


 文化祭当日の朝。
 野球部が借りた生物室は、前日に大わらわで喫茶店の準備が済ませてあった。あとは人間の用意だけだった。
「……完璧だわ」
 生物室の一角を布幕で仕切って作ったスタッフルーム。しぶる樋口をとっつかまえて、持参した私服を着せ、化粧まで担当した綾瀬が樋口の姿を、そう評した。
「大したもんだな」
 荷物運びを仰せつかっていた高梨が、朝一番にコンビニエンスストアに寄って買ってきた水二リットルのペットボトルを五本、音を立てて床に置く。
「すごいでしょ。私より美人なんだもの、やになっちゃう」
「ああ、全く」
「ちょっとー!」
 深く頷いた高梨に、綾瀬が頬を膨らませる。
「冗談冗談。だけどまあ、異様に似合ってるよな。ガタイが良すぎるのが玉にきずってところか?」 
「誉められても、嬉しくないよ」
 樋口が肩を落とす。
「仕方ないだろ、これも運命だ」
 日焼けはしていても地肌は白く、目鼻立ちが整っているから化粧次第でどうにでもなるのだが、体つきまではごまかせない。
 多少着やせするタイプ、とは綾瀬の分析だが、彼女の持ってきた私服はサイズが違いすぎて、今日一日で使い潰すことになるのが目に見えていた。もちろん、綾瀬も最初からそのつもりで持ってきたのだが。
「謙遜するな、樫尾さんも惚れ直すぞ」
 陽気な声で言いながら市川が部屋に入ってきた。部室で着替えてここまでやってきた女装部隊もその後からぞろぞろと続く。
「うわーっ!」
 そのみるも無惨な姿に、思わず高梨は悲鳴を上げていた。傍らでは何も口にしていない筈の綾瀬が喉を詰まらせ、目を白黒させながらむせていた。

 例年ならばほとんどお化け屋敷のノリで客を集めていた野球部の女装喫茶だが、今年はやや趣が違っていた。
 校内でも美形で知られた樋口の女装姿をみようと男女問わず、大挙して押し掛けてきたからである。大笑いしてやろうと底意地の悪い考えを抱いていた男連中は樋口の「美貌」に揃って思わず声を失って軽口の一つも無い。女子は女子で、嫉妬に近い感情を抱くらしく、ことさらに無表情になってしまう。
 冷やかしが多いのはともかく、いつにない大繁盛で注文が殺到すると、野球部員では早々に処理能力の限界に達する。こうなると、段取りを組ませれば抜群の手腕をみせる綾瀬が黙っているはずがない。要領の悪い部員達の指揮に本領を発揮する。
 輸送部隊担当の高梨は二度ばかり材料や紙コップの追加の買い出しに走る羽目になった。しかしそれも午前中まで。午後からは担当を榎本と交代し、晴れて自由の身になる。
「さて。フル出場の市川や樋口、それに綾瀬達には申し訳ないけど、ちょっと校内を見てくるから」
 裏方を仕切る樫尾に一応声を掛ける。
「判った。でも、もし私たちだけで手に負えなくなったら助けてね」
 樫尾の返事。樋口の事はいまはあまり気になっていないらしい。
 この二人はちゃんと恋人同士の関係を進展させてるんだろうか、と一瞬思ってから、くだらないことを気にするのは市川の癖が移ったかな、と一人苦笑する。
 とりあえず、グラウンドのほうに設置されたステージに足を向ける。なにやら人だかりが出来ていて盛り上がっていた。
 ちょうど、午後の一番手として、女子応援団のチアリーディングが行われているところだった。
 野球場のスタンドでは動きが限られているが、ステージ上では音楽に合わせ、勢いの良いかけ声と共に激しい動きをみせる。
 自然、高梨の目は小山田の姿を探している。しばらくして見つける。ステージ前には結構人が集まっていて、簡単に近づけそうもない。
 華やかで騒々しい中にあっても、大栄高の校風なのか、空気はどこか和やかだった。高梨はこの雰囲気を一人楽しんでいた。
 確かに強豪校ではなく、甲子園の道のりは遠いかも知れない。だが、高梨は大栄高に入って良かった、と思った。一年生が実質的なエースとして先発マウンドを任されても、先輩による陰湿ないじめなど影も形もなかった。それどころか、お前がいてくれるお陰で楽しくやれそうだ、とまで言ってくれる。
 確かに大栄高の打線は一流にはほど遠い。光世学園相手に、高梨が六安打二失点に押さえても勝てなかったのは打線が貧弱であるからに他ならない。
 だが高梨は、楽しく野球がやりたくて、敢えて強豪校を選ばなかったつもりだった。秋季大会では思わぬ勝ちに恵まれたが、大栄高はまだまだ実力不足だろう。それでも、楽しい野球が出来ていることに違いなかった。
「よお、こんなところにいたか」
 声がしたので振り向くと、石毛がいた。高梨と同じく、文化祭には重要な役を割り当てられていないので、自由行動が出来る立場だった。相変わらず、太い眉と落ちくぼんだ目のせいで、表情がはっきりつかめない。
「ああ、一通り回ってみるつもりだけどな」
「……小田山さんか」
 石毛が意味ありげに言って笑顔になった。
「まあな」
 ちょうどチアリーディングが終わった。高梨は石毛を誘い、グランド隅にベンチ状に並べて設置された椅子に誘った。
「付き合ってるって噂、本当なんだろ?」
 腰を下ろした高梨の隣に座りながら、石毛が問う。
「……俺にも、よくわからん。美人だしなあ。もし本当に向こうがその気で、好意を持っていてくれるんなら悪い気はしないが、俺がリアクションをしない限り、付き合ってるって事にはならんだろうな」
 相手が石毛だから口に出来た台詞だった。市川に言えば、どう言い返されるか知れたものではない。
「もったいない」
「俺は一度にいろんなことが出来る性分じゃないんだ。いまは野球の事を考えていたい」
「じきにオフシーズンだけどな」
 石毛が言い、二人は笑った。
 すこしだけ会話がとぎれた間の悪さをとりつくろうように「気持ちは判るぞ」と、石毛が付け加える。
「石毛の場合は、どうだった? 樋口に樫尾さん取られてショックだったろ?」
 一瞬だけ、石毛が息を詰まらせたが、すぐに口元を緩めた。
「噂ってのはいつの間にか広がってるものなんだなぁ。高梨まで知ってるとはな。まあ、取られたというよりは、最初から樫尾さんにとっちゃ眼中じゃなかったみたいだからな。樫尾さんがマネージャとして野球部に来て、よく判ったよ」
「そうか。じゃ、もう吹っ切れてる訳か」
「俺のことより、高梨のほうが面白いことになってるじゃないか。綾瀬はどうするんだ?」
「綾瀬がどうしたって?」
「いや、俺の思い過ごしか? 綾瀬は、高梨と一番親しそうに話してるように見えるからな。その次は市川か」
「ま、同じクラスだから、そうなるんだろ」
「俺はそれだけじゃないと思うぜ。……まあいいさ。それだけじゃないから」
 またしても意味ありげな事を言う。
「気になるな。なんだ、それだけじゃないってのは」
「高梨……。自分の置かれた立場ってのがいまいち判ってないんだな。くそ、代われるものなら代わってもらいたいぐらいだってのに」
 石毛が冗談めかした声音で乱暴な言葉を口にする。高梨は石毛の言葉を待った。
「弱小チームを秋季地区大会まで引っ張っていった一年生エースってのは、それだけで大した存在なんだぜ。それに惹かれてるのは小山田ひとりだけじゃない」
「……そういうことをあれこれ考えるのは苦手なんだよ」
 情けない声を出した高梨をみて、石毛がにやっと笑う。と、その表情が曖昧な形で固まった。高梨も視線を向けた方に振り返る。
「あのぅ」
 赤と白を基調としたチアガールの衣装のままで、小山田が立っていた。いつから石毛と高梨の会話を聞いていたのか判らないが、どこか困惑している様子だった。
 高梨と石毛は席を立った。石毛が小声で高梨にささやく。
「こういう格好がたまらんって奴もいるからな、気を付けろよ」
 何をどう気を付けろと言うんだ、口をへの字にする高梨を残し、石毛はその場を去っていった。
「さて、と。腹減ってない?」
 高梨の問いに、小山田が微笑みながら頷く。
「そうですね。ソフトボール部の模擬店に行きませんか?」
 小山田がソフトボール部の依岡から聞いたところでは、模擬店は焼きそば屋ということだった。
 高梨の頭にはどうしても、野球部とソフトボール部の確執がある。というより、状況をややこしくしたのは高梨自身だ。一人だったら気まずいかもしれないが、小山田がいるから大丈夫だろう、と高梨は気楽に考えた。まさかソフトボール部も野球部員飲食禁止などとは言うまい。
「よし、それでいいや。行こう」
「はい」
 チアガールの衣装は人混みの中にあってもよく目立つ。並んで歩く高梨は周囲が小山田に向ける好奇の視線を意識しながら、俺が勝手に彼氏ぶった態度でいると、小山田さんに迷惑なんじゃないかな、と珍しく弱気になっていた。

 第十四話に続く

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