『バトル・オブ・甲子園』
第十四話“矜持”




(1)


 焼きそばの模擬店はグラウンドのほうにテントを張ってあった。雨や風だったら大事だっただろうが、幸いにも良く晴れ、風もない。
 ソフトボール部の模擬店だけに、カウンター代わりの長机の向こう側にはボーイッシュなショートカットに、いかにも体育会系らしい日焼けした顔が並ぶ。
「目の前で焼くのかと思ったら、パックで売ってるんだな」
「保健所かどこかの許可が下りなかったそうです。家庭科室で調理したのを、こっちに運んできているから大変みたいですね」
 小山田が説明する間にも、ソフトボール部員二名が、クリーム色の大きなケースに焼きそばの入った透明パックを満載して運び込んでくる。それらは行列を作っていた人々にあっという間に売れていく。
「繁盛してるなあ」
「私、並んで買ってきますから、高梨さんは席のほうで待っていて下さい」
「そりゃ、悪いよ。行くんなら俺が」
「ソフト部には知り合いが何人かいるんです。黙って並んでいるより、早く買えると思いますけど」
「へぇ、そうなのか」
 思いがけない小山田の提案に高梨は苦笑いする。小山田は、じゃ、行って来ますと言い残し、カウンターの裏手のほうに向かっていった。
 残された高梨は、言われたとおり、露天に置かれた席の方に向かう。小山田本人が自ら申し出たことだからなにも問題ないのだが、ひどく釈然としない気持ちになる。
 そういう考え方は却って古くさい、男女差別に近いものだろうか、などと考えていると、彼の姿に気づいた依岡が、高梨のところにやってきた。
 エプロン姿が妙に似合わない依岡の姿に思わず笑ってしまいそうになり、慌てて奥歯をかみしめて表情が緩むのを押さえる。
「美紀が来てるわよ。なにこんなところでぼさっとしてるのよ」
 笑いをこらえている上に、痛いところをつかれただけに、高梨の態度も必要以上にぶっきらぼうになる。
「来てるも何も、一緒に来たんだ。小山田さんが、自分が行ったほうが早く買えるからって言ったんでな。俺が行って、喧嘩になっても困るし」
 どうしても高梨の頭には、ソフトボール部に怨まれているだろうな、という思いがある。高梨が怒りにまかせて勝負を挑み、三振の山を築いたりしなかったら、ソフトボール部は週三回、野球グラウンドのほうを使えたのだ。
「なんだ、そうなの。……ふーん、変な気の回しかたをするのね。私たちはもう、いちいち気にしてないよ」
「そうか。なら良いんだが」
 依岡のほうが肩をすくめる。
「なんだかんだ言って、野球部も秋季大会の予選突破して、地区大会まで行ったでしょ? あれで、こっちも大きく出られなくなったのよ。悔しいけど、ソフト部より野球部のほうが人気あるし」
 高梨はどう返事をして良いものか迷った。とにかく、面倒な事態に巻き込まれる可能性が低くなったことが判り、とりあえず安堵してみる。
 と、依岡が高梨の腕を軽くひいて、グランドの隅のほうに引っ張っていく。
「なんだよ?」
「美紀とは、うまくいってるみたいね」
 依岡が面白げな顔つきをして、小声で訊ねてくる。
「いや、それなんだけどさ。俺にも良く判らないんだ」
 依岡にどこまで話して良いものか考えながら、高梨が言った。
「ふーん。ま、彼女は今のままでも満足してるみたいだし、いっか。あとさ、ちょーっと確認しておきたいんだけど」
 依岡が周囲を伺いつつ、さらに声を潜める。
「なんだ? あんまりややこしいことは聞くなよ」
「えっと、もしかして高梨君、七菜に気があるってこと、ないよね?」
「七菜って、綾瀬か? さっき、石毛にもそれ聞かれたんだが……」
 無い、と言い切ってしまうと綾瀬に失礼かな、とも思ったが、とりあえず否定しておく。
「ふうん。あ、あの、市川君だっけ? 君のツレ」
 身を乗り出してきて、依岡が言う。高梨はうんざりした顔になる。
「ツレって言い方するな」
「別にいいじゃない。で、市川君は七菜のこと意識してたりしない?」
「意識してるのは意識してると思う。学年トップクラスの美人とか、よく言ってるからな」
「そ、そうなんだ。へえ……」
「なんだ? そういう依岡は市川に気があるってか」
 軽い冗談のつもりだったが、依岡は思いきり息を詰まらせ、盛大にむせた。
「びっくりさせないでよ。なんで急にそんな話になる訳?」
「悪い。やけに熱心だと思ったからさ」
「念のためよ、念のため。七菜とは親友だからね。彼女が野球部でどんな風な扱いされてるか、気になるから」
「ひどい言いぐさじゃないか」
「そりゃ、私は今でも、七菜がソフト部に来てくれないかなー、って思ってるクチだから」
「そういや、中学じゃ二人してソフトボールやってたんだよな」
「そ、七菜がピッチャーで、私がキャッチャー。ちょうど高梨君と市川君と同じパターン」
「へえ。綾瀬ってピッチャーやってたのか。初耳だな」
「なによ、半年以上同じクラスで同じ部活やってて、そんなことも知らなかったの? こりゃ、たいしたつき合いじゃないわね」
 依岡がまた肩をすくめて首を振る。だが、どこか嬉しそうにも見える。
 このままではまたぞろ綾瀬の引き抜きが始まらないとも限らない。高梨は念のため釘を刺しておくことにした。
「言っておくけどな、綾瀬はマネージャとして野球部に欠かせない戦力だぞ。そう簡単にソフト部に行ってもらっちゃ困る。本人も自分の意志で野球部に残ってるしな」
「うん、まあ、そんなところよね」
 意外にもあっさり依岡は引き下がった。勢い込んで言った高梨のほうが自分の台詞にばつが悪くなる。
「それより、そろそろ美紀が変な気をもんじゃ可哀想だから、私、仕事に戻るわ」
「おう、そうしてくれ」
 依岡と入れ違いになるように、小山田がパックを二つ買って戻ってきた。
「恭子となんの話だったんですか?」
「まあ、いろいろとな」
「野球の話ですか?」
 自分が野球に詳しくないことを自覚しているのか、少し寂しげな口調での問いかけ。
「まあ、そうと言えなくもない、かな」
 高梨は適当なことを言ってごまかした。なぜ、小山田と話をしていると、気分は悪くない筈なのに気詰まりになってしまうのか、なんとなく判り始めていた。
 野球が判らない人間には、高梨の人となりも本当の意味で理解出来ないのだ。そして、そのことに小山田も気づき始めている。
 高梨が浮かぬ顔をしたせいか、小山田も目を伏せた。申し訳ないなあ、と思うが、どうにも話を弾ませることが出来ない。
 とはいえ。高梨は上滑りしそうな思考を落ち着けるように箸を割り、焼きそばを食べ始めた。それをみて小山田も倣う。
「ちょっと薄味だな」
「そうですね。ソースを節約してるのかも」
 言って、小山田ははにかむような笑顔を見せた。やはりこの手のたわいのない会話こそ、彼女の望むべきものであるらしい。
 ふんぎりを付けないとな。薄味の焼きそばを噛みしめながら、高梨は胸の奥でそう呟いた。ソースとは別の苦みがどこかから沸いてくる。
 小山田の顔を正面から見据える。くそ、やっぱり美人だな。
「……どうかしましたか?」
 小山田が聞いてくる。高梨は、焼きそばをお互いに食べ終わるまでは切り出すのを待つことにした。がっつくようにして自分の分を平らげる。小山田はすこし不思議そうな顔をしながら、自分の分を食べ終えた。
 さあ。いよいよだ。
「えっと」
 高梨は諦めの悪さに泣きたくなりながら、口を開いた。
「はい?」
「あのさ、小山田さん。俺達ってやっぱり、付き合ってるって事になるんだろうか?」
「えっ?」
 問われた小山田の顔が、みるみる赤くなっていく。
「それは……」
「いやさ。もしそうだとしたら、俺、たぶん小山田さんになんにもしてあげられないんだ。ほら、自他共に認める野球莫迦だしさ。どっか遊びにいくなんてまずあり得ないし」
「……」
 自分の言っていることの照れくささに、もう高梨は小山田の表情を見ることも出来ず、顔をそむけて言葉を続ける。
「友達つき合いでかまわないっていうんなら、俺は小山田さんのことは大事な友達だと思う。だけど、それ以上の事は期待しないで欲しいんだ」
 もしかして俺は、思い切り舞い上がってるだけの勘違い野郎か? 高梨の頭にそんな考えが浮かんだ。
「……判りました」
 消え入りそうな小さな声で、小山田は言った。
 しばしの沈黙。小山田が立ち上がる。高梨が驚いたことには、小山田は爽やかささえ感じさせる笑みを浮かべていた。
「でも私、あきらめませんから」

(2)


「じゃあ、ふっちまったってことか、おい!? 勿体ねえ!」
 野球部模擬店の控え室に戻ってきた高梨に、市川が大声をあげた。本人は真剣なのだが、女装姿のままだけにどうも直視できない。高梨が顔をしかめる。
「だからお前に話すのは嫌だったんだ。落ち着け」
 小山田の笑顔の意味を図りかねて、市川に相談したことを高梨は心底後悔した。本題に入る前に市川がわめき出すのは、十分に想像できた筈だったのに……。
「だってよお、小山田美紀だぞ? お前の高望みはどんなんだ、一体」
「俺、野球の話しかできないからなあ。小山田さんは野球詳しくないから、なに話していいか判らないんだ」
「情けねえの。お前、後悔するぜ」
 市川はそう断言した。おおいに盛り上がった文化祭とその後夜祭の中にあって、高梨はひどく空虚な気分だった。自分のふんぎりが間違いではなかったことを信じたかった。

 文化祭が終わり、翌日は一限目だけを潰して後かたづけに費やした後、通常通りの授業が始まる。
 昼休み。依岡が教室に顔を出すなり高梨を連れて廊下の隅に引っ張っていく。野球部とソフトボール部の仲が良くないという噂はクラスの生徒も知っているため、また面倒なことに巻き込まれてるな、という視線が高梨に向けられる。
 市川は助け船を出そうとはせず、綾瀬もこの件には首を突っ込みたくないらしい。沈黙を守っていた。
 高梨を連れて屋上に続く階段の踊り場まで来たところで、依岡が振り返った。
「美紀をふったって本当?」
 ただでさえきつ目の依岡の顔立ちだが、今日は目尻がつりあがっていた。おっかねえなあ、と思うが、黙っているわけにも行かない。小山田本人に詰問されていないだけ、高梨も腹が据わった。
「早耳だなあ。というか、市川から聞いたか?」
「誰からだっていいでしょ。第一、本人からも相談されたんだから。なにが悪かったんだろう、って」
 依岡は本気で怒っているようだった。膨れ面で言う。高梨はその言葉を頭の中で反復し、やっぱり市川からも情報が入ったな、と確信する。
「あの娘、本気だったのに」
「だからだよ」
 ぼそりと高梨が応じる。
「遊びだったらいいっての?」
 依岡の眉がつり上がる。さらに声が高くなった。ほとんど悲鳴に近い。
「誤解するなよ」思わず、高梨の声音もややきびしいものになる。「今の俺は、その小山田さんの本気を受け止める余裕が無いんだ。今は、甲子園に行くことしか考えられない」
 ふっと、依岡の殺気立った雰囲気が緩んだ。あまりに身も蓋もない高梨の言いぐさに毒気を抜かれたようだった。
「……本気で言ってるんでしょうね、それ」
「だから、この冬の間に、一皮むける為の何かを掴みたいんだ。このままじゃ、一流校に勝てない。井町南や輪島城東に勝つためには、他の何かに割く時間が惜しい」
「……後悔するわよ」
 依岡の言葉に、高梨は驚いてまじまじと依岡の顔を見つめる。
「な、なによ」
「いや、市川と同じ事言ってるもんだから。後悔するって」
「そりゃそうよ。美紀みたいにいい娘を相手になんにも出来ないんじゃ、後悔するしかないでしょ?」
「……小山田さんの為に甲子園に行ってやる、という気持ちになれないんだ。そんな奴と一緒にいたら、小山田さんのほうがつまらない」
「変わってるわね、あんた」
「かもな」
 今はともかく、やっぱりそのうち後悔するんだろうな、げっそりとする思いで高梨はそう自覚していた。意地でも甲子園に行かねばならない理由が出来た。甲子園に行って、自分の選択が正しかったと証明するために。他の誰でもない、自分自身を納得させるためには、それしか無かった。

(3)


 十一月も中旬になり、季節は晩秋から本格的な冬を迎えようとしていた。
 温暖な気候ではあるが、冬季には練習試合は基本的に行わない、と志摩監督のお達しがあった。つまり、今日の紅白戦が今年最後の試合ということらしい。
「勝って終わらないと、気分が悪いぞ」
 レギュラーメンバーを揃えた紅組を率いる宮本がそう檄を飛ばすまでもなく、紅組の先発である高梨は全力で勝ちに行くつもりだった。
 もっとも、高梨以上に張り切っているのが市川だった。彼は紅組の正捕手としてスタメンに名を連ねているからだ。
 一回表、先攻の白組トップバッター・石原を迎える前に、市川がマウンドまで駆け登ってきた。
「どうした?」
「いや、試合の頭からお前とバッテリー組むなんてなあ、と思ったらちょっと呼吸あわせておきたくてな」
 市川は感慨深げだった。紅組スタメンということは、すなわち根川と組んでいる高根に継ぐ二番手捕手の座を獲得した事を意味している。
「なんだそりゃ。まあ気持ちは判る。俺も安心して投げられる」
 高梨はそう応じる。内心ではやや違ったことを考えている。
 試合前、高梨は宮本に対して正直に、なぜ市川がスタメンなのか訊ねたのだ。正岡と比べて宮本とは、これまであまり面と向かって話したことがなく、高梨はやや緊張しての問いかけだった。高梨は妙なところで人見知りする癖がある。

「市川より、石毛のほうが適任だっていうのか?」
 宮本は質問に対して質問で答えた。
「技術的な面では、ほぼ互角だと思います。市川のほうが、先に機会を与えられましたけど」
「打撃なら市川、守備なら石毛ってところか?」
 宮本がさらに問うた。
「はい」
 なんだ、ちゃんと判ってるじゃないか、と思いつつ高梨は宮本の言葉を待つ。
「もしかして自分が市川と中学時代のバッテリーだから、市川がひいきされてるんじゃないかと思ってるのか?」
「そうです」
 生真面目な表情で高梨が応じると、宮本は意味ありげな笑みを浮かべた。
「それはお前の思い過ごしだ。……そうか、普段から一緒にいると、意外と市川の効能に気づかないものなのかもな」
「効能、ですか」
「キャッチャーってのはグラウンド上ではチームの牽引役だ。実戦では技術以上にメンタル面が重視されるときもある。力量にさほど差が無いのであれば、陽気で声のでかいほうを使う。そういうことだ」
「はあ」
 つい、正岡と相対しているときのような生返事を返してしまう。つまり、市川がスタメンに選ばれたのは、石毛より騒々しい性格だからというだけに過ぎないのだ。
 こりゃ本人が聞いたらむくれるな、と高梨は思った。するとそれが表情に出たらしく、宮本も顔を引き締めて、この話は市川と石毛の耳には絶対に入れるなよ、と念を押した。

「よっしゃ。ここでいいところみせて、一挙にレギュラー獲りだ」
 市川は高梨の気も知らず、鼻息も荒い。景気良く高梨の右肩をミットで殴ると、装具をならしながら、がに股の小走りでキャッチャーズボックスに戻る。
「しまっていこーっ!」
 市川がミットとマスクを高々と掲げ、校舎の向こう側にまで届きそうな大声で怒鳴る。確かにこの大声は石毛には真似できない。守備位置に散った選手達も、苦笑気味に声を返す。
(石毛の奴も、みょうなところでケチを付けられたもんだ)
 紅組の控えとして登録され、一塁塁審役を割り振られて一塁ベース後方にいる石毛のほうに一瞬だけ視線を向ける。同情はするが、市川と組める事の喜びのほうが今は大きい。
(許せよ、石毛)
 高梨はホーム方向に向き直ると、ノーワインドアップモーションの投球動作に入った。

 練習試合は、終わってみれば両者共に無得点。しかし、打線は休養充分で調子を上げている根川・高梨両投手を相手に、決して凡打ばかりではなかった。
 するどい当たりを高梨は何本も食らった。百四十キロ近い速球も、秋季大会で威力を発揮したシュートも、安定度のましてきたフォークにも白組打線は充分食らいついてくる。
 打線はまだまだ発展途上とは言え、大栄高が秋季大会でひと皮向けたのは確かな様子だった。高梨はその手応えを感じていた。

(4)


 十二月になり、いよいよ基礎体力トレーニングに主眼を置いたメニューが組まれる。
 ベースランニングや、部員達が外回りと呼ぶロードワークなど、とにかく下半身強化を目指して走り込む。冬眠しちまえればいいのにな、などという冗談が飛ぶ。
 高梨も来期に向けたトレーニングを開始していた。
 足腰の強化はもちろんだが、みっちりと投げ込みを行う。

 十二月二十一日。
「クリスマスパーティをやりたいんだけど」
 明日の終業式を控え、二学期最後となる週始めのミーティング後、綾瀬が部員達を前に切り出した。
「プレゼント交換をやるから、一品持ち寄りで部室にね」
「なんか古風だねえ。そういや、小学生のころやったような気がするな」
「はいはい、市川君、文句言わないの。二十四日に予定があるなら引き留めないけど?」
「助かった。これで二十四日に家で母ちゃんに小言言われずに済むぞ」
 石原がおどけた調子で言うと、どっと部員達が沸いた。似たような思いをしていた者が結構いたらしい。はしゃぐような調子で部員達が部室を出てグラウンドに向かう。
「それにしても、どうしてウチの部員は、揃いも揃ってクリスマスに暇な訳?」
 やれやれ、と首を振りながら、一人残された綾瀬が言う。自分が企画しておいてその言いぐさはないだろう、と高梨はつっこみを入れたくなったが、綾瀬の言うことも間違いではないので黙っておく。変なとばっちりを喰らってもつまらない。

「あの手の段取りやらせると綾瀬にかなう奴はおらんな」
 小走りにグラウンドに向かいながら、いつもの事ながら、と高梨は感嘆する。
「綾瀬を彼女にした奴は絶対尻に敷かれるな。まあ、面倒なことをなんにも考えなくても済みそうだけど。なあ」
 榎本が高梨に同意を求めるように背中をつつく。
「俺に訊かれてもなぁ」 
「なんだい、そりゃ? お前、綾瀬と付き合うために小山田ふったんじゃなかったのか?」
 つまらん、と榎本が鼻をならす。
「読みが甘いぞぉ、榎本」市川が対照的に得意げに言った。「あのまめな綾瀬に彼氏が出来てみろ。年に一度のクリスマスイブを部活のクリスマス会で使い潰すような真似をする訳ないだろう」
「それもそうか。ってことは、一応綾瀬はまだフリーなんだな」
 榎本がやたら頷きながら言う。
「お前、そんなに尻に敷かれたいか?」
 誰かが混ぜ返し、爆笑となってその場は収まった。
 もちろんクリスマス会は、体育会系男子らしいハイテンションな馬鹿騒ぎとなった。
 樋口と樫尾も参加していたが、敢えてこの二人に絡んで惨めな思いをしたい者もおらず、二人の世界を構築するのを遠くから見守るだけだった。
 ただ一人、高梨だけが樋口に声をかけた。
「話がある。いいか?」
「ああ。構わないけど――」
 樋口は樫尾に視線を向けた。
「ごめん、樫尾さん。男同士の話なんだ」
「……判った」
 高梨は樋口を連れ、部室の外に出た。冬場の日没は早い。すでに夕焼けすら消えかかる時刻だった。
「決闘なんて趣向じゃないだろうね」
「まさか。そんな趣味はねえよ」
「だと思った。で、話って?」
「樫尾さんのこと」
「そっちのほうに話が進むのか。意外だな。高梨君が一番その手の話をしたがらないと思っていたのに」
「ああそういうことだ。その推測は正しい。だもんで、どうにも耐性が無い」
「小山田さんのことだね。噂は聞いてるよ」
 どんな噂か、高梨は確かめる気にはなれなかった。
「……樫尾さんにつきあってくれ、って言ったのは僕のほうだ」
「うへ?」
「彼女は家がすぐ近くにあって、幼稚園に入る前から家族ぐるみのつきあいなんだ」
「なるほどね」
 中学が一緒だったという話は聞いたことがあるが、それどころの話ではなかったのだ。
「客観的に見てそれほどの美人じゃないし、ずっと一緒にいたから何も気にしていなかったけど、石毛に告白されたって聞いてから、どうにも落ち着かなくなった。自分の目の届くところに置いておきたくなった」
「んじゃあ、樫尾さんがマネージャになったのは、樋口の引きだったのか」
 高梨は驚いていた。まったく思いがけない台詞だった。てっきり、樫尾のほうが押し掛けマネージャになったのだろうと考えていたのだ。
「そういうこと。嫌みな奴だと思われただろうけど、僕としてはそのほうが野球に集中できると思った」
「なるほどね。野球に専念するための方法論が、俺とは正反対だったってことか」
 入学当初からレギュラーで、他の一年生部員とは積極的に話しかけることもせず、いわば浮いた状態だった樋口。高梨は、その内心をはじめてかいま見る事が出来たような気がした。

(5)


 クリスマス会が終わる頃には、冷え切った夜空に星が瞬いていた。温暖な気候の土地柄だけに、ホワイトクリスマスなどはなかなか望めない。
「さて。クリスマスが終わると、次は正月だな。初詣、どうする?」
 クリスマス会からの帰り道。いつものように高梨は市川と共に川沿いの歩道を歩く。
「中学の時はチームで行ってたが、高校じゃそういうのは無いみたいだな。綾瀬に段取り組んでもらうか」
 市川が応じた。
 確かに綾瀬に頼めば完璧だろう、と高梨は思う。
「良い考えだな」
「だけど、そこまで頼るのもどうかと思うな。せっかくの正月休みだ。中学と違って遠くから通ってる奴もいる。全員集合はきついだろ。伝統でもないんだし」
「それもそうか」
 市川が出した反論に、高梨もうなずく。もとより、それほど意味のある言葉だった訳ではない。
「俺達だけで行くか」
「ま、綾瀬には一応話しておこうぜ。野郎ばっかりじゃ新年早々縁起が悪い」
「ねえ、なんの話」
 タイミング良く二人の後ろから小走りに駆け寄ってくる足音がしたかと思うと、追いついてきた綾瀬が白い息を弾ませながら問うた。
「野球部で初詣に行こうかどうか、って話」
「そっかあ。チーム揃っての必勝祈願ってのもアリだもんね」
 綾瀬は、それは思いつかなかったな、と素直に認めて首を竦めた。
「今日みたいに集まりが良いとは思えないけどな」
「それは来年の懸案事項ということにしておくわ」綾瀬は自分の脳内記憶容量に刻み込むように言い、それから小声で付け加えるように呟いた。「ホントに、必勝祈願しておかないとね。もしかしたらもしかして、ってところまで秋季大会じゃ行けたんだから」

 家に戻るなり、高梨はバットを持ち出し、庭で素振りを始めた。
 今年もあと一週間。
 大栄高野球部に入部して八ヶ月、それなりに楽しく過ごしてきた。負け続けのチームだったが、秋季大会では思わぬ勝ちに恵まれた。
 しかし高梨は満足していない。当時はあれよあれよという間の出来事で、出来過ぎという思いすらあった。が、時間を経て客観的に見られるようになると、出来過ぎという考え方では駄目だと考えるようになった。
 高梨は、中学時代に比べて自分は変わったと思った。
 入部当時、楽しくやれれば良い、そう考えていたのは事実だ。だが今は、それ以上に勝利への欲求が高まっている。さして興味もなかった甲子園のマウンドへ、どうしても足を踏み入れてみたいと思うようになっていた。
 それが綾瀬との約束だからか。むろん、それもある。しかし、一番の理由は自分自身に目覚めた目的意識だ。甲子園に行くこと。それが、一年生の自分をエース扱いして期待してくれた先輩や監督に報いる為の義務、高梨はそう思うようになっていた。
 来年こそは。
 素振りの手を止め、星空を見上げながら、決意を新たにする高梨だった。

 第一部・完

 第十五話に続く

 一塁側ベンチに戻る

 INDEXに戻る