『バトル・オブ・甲子園』
第十五話”鼓動”




(1)


 四月。
 舞い散る桜の花びらが、ブルペンで投球練習をしている高梨内記の目の前をかすめた。
「だいぶん球が来るようになったな。……どうかしたか?」
 ボールを投げ込んだ姿勢のまま、花びらの行方を目で追っていた高梨に、ミットにボールを収めた市川秀が訊ねる。
「いや、もう春だなと思って」
「あれから一年だ。はやいもんだ」
 言いながら、市川はボールを投げ返す。
「そうだな」
 高梨達は、始業式を明日に控えていた。
 冬の間、練習試合を行っていなかった大栄高も、三月の声を聞くと同時に再び本格的に始動していた。
 貧打は相変わらずだったが、冬の間続けていた地道なトレーニングの甲斐あって、高梨のピッチングは安定していた。
 守備陣も一年前のおぼつかなさが嘘のように堅実に機能していた。自信をもって、新入部員を受け入れられる態勢が整ったといえる。
「使えそうな部員が入ってくれるといいな」
「ああ、全くだ。ただ、あんまり使えすぎると、オレの居場所が無くなる」
 本気とも冗談ともつかぬ市川の言葉に、高梨は笑った。

 翌日。
 校舎の正面玄関横の掲示板に張り出されたクラス名簿には、生徒が群がっていた。
「なんでぇ、三人ともクラスばらばらかよ」
 人垣の後ろから名簿を眺めていた市川が口を尖らせる。三人とは、自分と高梨、そして野球部のマネージャである綾瀬七菜のことだ。
「お前は自分で理系コース選んだんだから、別のクラスで当たり前だよ」
 高梨が突き放した口調で言う。
「でも、市川君が理系って、ちょっと意外だったけどね」
 綾瀬が、相変わらずのやりとりにくすくすと笑う。
「まあ、なんていうか、キャッチャーは頭を使うポジションだからな」
「お前の場合、理系でも文系でも成績にたいして差がないってだけじゃないか。それも、かなり下のレベルだぞ」
 赤点を喰らっているのはどっこいどっこいだった。高梨も偉そうに言える筋合いではないのだが、言わずにはいられない。
「まあ、そこはそれ。気分の問題で」
「ねぇ、ちょっとは否定したら」
 市川の言葉に、綾瀬がついに吹き出す。
「それはともかく、高梨。お前、依岡と一緒のクラスだな」
「あ、ホントだ。大変ね」
 急に真顔になった市川の指摘に、綾瀬も少しばかり同情的な目で高梨を見る。
 依岡恭子はソフトボール部の副主将だ。以前、ソフトボール部と野球部が専用グラウンドの使用時間を巡ってもめたとき、高梨はソフトボール部員を打席に立たせ、本気の速球で三振の山を築いてみせたことがあった。
 向こうはその事件をそれほど気にしていない様子なのだが、逆に高梨のほうが大人げないことをしてしまった、と気後れするようになってしまっている。
「まあ、大人しくしてるさ」
「その点、見てみろよ。俺のクラスには小山田さんがいるぜ」
「ふーん、それで?」
 どこか意地悪げな口振りで綾瀬が訊ねる。
「いやまあ、美人がいると楽しいな、と」
「相変わらずね」
 市川の、いわば予想通りの答えに綾瀬は再びくすくすと笑う。市川の女好きはいまに始まったことではないし、女好きといっても美人をみつけてはおおげさに喜ぶだけで、それ以上のアクションを起こしてトラブルを引き起こす訳でもない。実害がないのであれば綾瀬としても文句は言わなかった。
「でも、三人ばらばらになっちゃったのって、ちょっと寂しいわね」
「そうかなぁ」
 クラスが別になったからといって、高梨に特別な感慨はない。授業よりも部活動に学校生活のウエイトがかなり偏っているせいだろう。その返事に綾瀬は明らかにがっかりとした顔つきになっていたのだが、高梨はそれさえも気づかなかった。

 始業式を終えて高梨が部室に顔を出すと、先に市川が着替えていた。
「今年の新人、目玉がいるかな」
 などと言いながら高梨もユニフォームに着替える。一年前、二人してこの部室に足を運んだときには、正岡主将(当時)がいかつい顔で出迎えてくれたものだ。
「まあ、たいてい一人は目立つヤツがいるもんだ」
 揃って部室を出てグラウンドへ向かう途中、まだ身体に馴染んでいない、真新しい赤いブレザーと灰色のスカート姿の一年生が駆け寄ってきた。
「せんぱいっ!」
「よっ、久しぶりだな。ウチの学校に入ってたのか」
「はい」
 矢沢美代子は高梨に声をかけられ、輝くような笑顔を満面に浮かべた。
「相変わらず小せぇなぁ」
 市川が、矢沢の頭の上で掌を旋回させる。
「むぅ。これでも去年より二センチほど背は伸びてますよ」
「胸は?」
「……」
 失礼な問いに対し、返事の代わりに右ローキックが市川の左脚のすねに決まった。
 
 グラウンドでは、体育用の赤いジャージに着替えた綾瀬が手板を持って、新入部員の受付を行っていた。去年は、今ではレギュラーに名を連ねる山口がこの役目を押しつけられていたが、今年はこの手の仕事は綾瀬に任せておけば万事間違いがないので、高梨達は気が楽だった。
「おーい、こいつの名前も書いといてくれ」
 物珍しげにグラウンドを眺め回している矢沢と、何故か足を引きずっている市川をつれた高梨が綾瀬に声を掛ける。
「え? 入部希望者なの?」
「俺達が出た中学の後輩だよ」
「よろしくお願いします。矢沢美代子です。中学の時も野球部のマネージャをやってました」
 へえ、と綾瀬が矢沢を見る目つきが変わった。
「じゃ、わたしよりも経験はあるんだ」
 任せちゃおうかな、と言う綾瀬を前に、市川が首を振る。
「まあまあ。こいつは綾瀬ほど役には立たないよ」
「なんでですかぁ」
 ぷう、と矢沢が頬を膨らませる。確かに、入部する前からいきなりこんな事を言われては立つ瀬がないが、高梨もこればかりは市川のほうに同意せざるを得ない。
「矢沢が駄目ってんじゃなくてな。綾瀬が凄すぎるんだよ」
「そうなんですか?」
 市川はともかく、高梨にも言われて矢沢がさすがに不安げな表情を見せる。
「別に張り合う必要はないと思うぜ。綾瀬も、後輩が入ると仕事も楽になるだろうし」
「そうね。樫尾さんと二人でやれないことはなかったけど、やっぱり人数がいると違ってくると思うし」
「あの。もう一人増えるかも知れませんよ」
 と、矢沢。
「そうなの?」
「同じクラスなんですけど、野球に興味あるってコがいるんです。明日には来るかも知れません」
「その子、美人?」
 市川が訊ねると、途端に再び矢沢のローキックが飛んだ。
「もう! これじゃ中学の時と一緒じゃないですかっ」

(2)


 翌日はまだ授業はなく、クラス委員などの選挙が行われた。
 どういう訳か、高梨は図書委員などに選出されてしまう。
 世界史を受け持つクラス担任は、野球部だからといって便宜をはかる気は全くない雰囲気だった。どうも、体育会系クラブの発言権が強い大栄高の現状が不満であるご様子だった。
 他にも体育会系の部活動をやっている生徒が委員に選ばれたせいで少し揉め、時間がかかってしまった。
 どうも難しい先生のクラスになってしまったな、と肩を落としながら部室に行くと、もう他の部員はとっくに着替えてグラウンドに出てしまったようで、がらんとしていた。
 いっそう気勢をそがれる思いで、練習用の白いユニフォームに着替える。
 気を取り直して、外に出ようとしたところで市川と鉢合わせした。
「なんかえらいことになってるぞ」
「なにが?」
「来れば判るよ」
 楽しげでありながら、どこか困った様子の市川に連れられてグラウンドに向かう。
 目に飛び込んできたのは、宮本主将と向かい合う、ユニフォーム姿の女子だった。
「なんだよ、またソフトボール部と喧嘩してるのか?」
「それだったらまだ話は判りやすい」
 市川が言いながら、高梨を人垣の輪の中に押し込む。宮本主将が高梨の顔を見て安堵の表情になった。
「入部希望だそうだ。マネージャじゃなくて、選手としてな」
「女子選手ですか。漫画みたいですね」
 もしかすると、矢沢が言っていたもう一人増えるかも知れない、といっていた女子のことだろうか。と思い至り、周囲を見回す。矢沢と目があった。
 矢沢も困り顔で、片手拝みをして頭を下げている。
「実際問題、どう思う?」と、宮本主将。高梨が参っていることには全然頓着していない。
「俺に訊かないで下さいよ」
「そうもいかんだろ。一応副主将だろうが。で、彼女はピッチャー希望で、しかも左投げだ。入部するとなれば、後輩としてお前に面倒を見て貰わなきゃいかん」
「ですけど、どっちにしろ女子選手は公式の試合には出られない筈ですが」
「本人はそれでも構わないそうだ」
 言うと、宮本主将があらためてその入部希望の女子に顔を向けた。
「お願いします!」
 視線を向けられた当人が、ぺこりと頭を下げる。
 高梨はその場ではなんともいえず、少し離れた場所まで行って宮本主将と頭を寄せ合った。
「監督はなんと言ってるんですか?」
 小声で尋ねる。なんでこんな後ろめたいやりとりをしなければならないのだろう、と少し理不尽な気がしてきた。
「部員で話し合って決めろとさ」
 志摩監督は、責任を負うのが怖いのかも知れない。と高梨は思った。
「んじゃ、別にいいんじゃないですか。断る理由がない」
「そうか? 後でソフトボール部の連中から文句が来ないか心配だよ。もう、もめ事は勘弁だからな」
「まあその時は、綾瀬を代わりに差し出して手打ちにしましょう」
 途端に宮本主将が渋い顔になる。
「無茶苦茶言うなお前は。いくら新入部員のマネージャが入ったからって」
「冗談ですよ。綾瀬にしろ、入部希望のピッチャーの彼女にしろ、結局は本人の意思が最優先だって言いたかっただけです」
「そこまで言うなら仕方がないがな。後は任せる」
 二人して、くだんの新入部員の前に戻る。
「入部を認める。ただし、入る以上は特別扱いはなし。男子と同じ練習メニューに参加することになる。その上、規則が改定されない限り、公式戦への出場は認められない。ちなみに我が部、というより我が校から、規則の改正に関して働きかけを行う可能性はほぼあり得ない」
 それでも構わないか、と宮本主将が念を押す。
「判りました。崎辺ちづかと言います。よろしくお願いします」

 崎辺の問題で手間取りはしたが、その後はさらに入部希望者が数名加わって練習が始まった。
 現状で集まっている新入部員に対して、グラウンド十周のあと、キャッチボールに素振りといった基礎メニューが伝えられる。よほどの実力者であればともかく、入部希望の人数が確定するまではあまり本格的な練習に参加させることはない。
 崎辺も他の新入部員に混じって同じメニューをこなしている。たいしてキツいメニューでもないが、例年、これだけでやめてしまうのが一人二人出てくる。もしかしたら崎辺も、と思いながら高梨はちらちらと練習風景を眺めていたが、どうやら初日から脱落ということにはならなかったらしい。
 
「ありがとうございました」
 練習終了後、高梨は崎辺に個人的に礼を言われて戸惑った。
「礼を言われてもなぁ」
「ですけど、先輩が取りなしてくれなかったら、入部出来なかったかも……」
「まあ、時代の流れだからなあ」
 投げやりなのかよく判らない高梨の台詞。綾瀬あたりであれば年寄り臭いと笑い飛ばすところなのだろうが、さすがに今日顔を合わせたばかりの崎辺にはそんな真似は出来ない。せいぜいあいまいな笑みを浮かべるぐらいだ。

(3)


 一学期の授業が始まったが、まだ本格的な勉強はスタートしていない。前置きなしにいきなり教科書を開いての授業に突入するような教師は、ほとんどの場合嫌われる。
 何事もなく午前の授業が終わって昼休みを迎えると、ソフトボール部の依岡恭子が高梨の机の前にまでやってきた。
「女子の選手が入ったって聞いたんだけど?」
 開口一番、そう訊ねてくる。
「なんか物好きなのがいるんだよ」
「試合に出られないんじゃ、意味がないわよ。ウチに来るように話は出来ないの?」
「つっても、中学時代も別に野球かソフトをやってたって訳じゃないらしいぞ。そんなのを引き抜かなきゃならないほど、そっちは部員の数に困ってないだろ?」
「ところが、そうでもないのよ」
 ため息まじりの依岡。意外な話に高梨も興味を引かれる。
「ホントかよ」
「今年の入部数を知ってる? たったの六人だけ」
 全国大会に進出する名門としては、やはり格好の付かない数字らしい。深刻そうな表情だった。
「まあ、量より質だろ。ウチは十五人かそこらいるけど、半分使えるかどうか怪しい」
「もうひとつ必要な要素があるわ。ガッツよ。今年の新人は、質はともかく覇気が足りない気がしてね。その点――」
「野球部に入るようなヤツなら、腹はすわってるってか」
 高梨が先回りした台詞に、話が早い徒ばかりに頷く依岡。
「まあ、入ってすぐじゃ本人も気まずいでしょうから、機会をみて転部という形で考えてみてよ」
「本人次第だぜ。もしかしたら、よっぽどソフトボールが嫌いなのかもしれないし」
「やっていれば、好きになるわ。公式の試合に出られないとなったら、いくら野球が好きでもつまらなく感じるようになる」
 未練の残る口調で依岡が呟く。
「俺個人の意見としては同感だけど、向こうがどう言うかな。またソフト部と揉めて、勝負なんて話になるのだけは勘弁してくれよ」
「わたしはそれも嫌だから……。とにかく、その……。野球部にトラブルを持ち込みたくて言ってる訳じゃなくて」
 依岡は恥じ入るように、高梨から目線をそらせた。こいつも大変なんだなぁ、と高梨は例によって急に無責任な気持ちになって思った。

(4)


 一週間が経過したが、一年生はまだしばらくの間、基礎体力トレーニングを中心としたメニューを日々こなすことになる。
 崎辺は一生懸命ついていっているようだが、どこまで保つものか、高梨も半信半疑で見守るしかない。
「毎年何人かは、この時点でやめていくんだろうな」
 ピッチング練習を終え、ベンチで休憩している高梨のところに、綾瀬がボールを収めた籠を抱えてやってきた。泥に汚れたボールをこれから磨くところらしい。
「あれ、矢沢は?」
「樫尾さんに仕事を教わってるところ。でも、矢沢さんのほうが中学での経験があるから、どっちが先輩か判らないみたいな話になってたわ」
 綾瀬が肩をすくめ、籠を足下に置いて自分もベンチに座った。
「ま、矢沢は元気だけが取り柄だからな。あれはあれでムードメーカーになる」
「ちょっと可哀想な言われ方ね」
「そうかな」
「ねえ、気になる? 崎辺さんのこと」
「まあな。ここで脱落するんじゃ、可哀想だしな」
 綾瀬もグラウンドに視線を向けた。ランニングの縦列の最後方から懸命についていく崎辺の姿に目を細める。
「わたしは正直言って、少し羨ましい」
「野球、やってみたいのか?」
 綾瀬は中学時代はソフトボール部のピッチャーだった。高校ではマネージャをやっているものの、気持ちの一割ぐらいはまだ整理の付かない部分が残っているらしい。なんだかんだ言いつつ一年間やってきたが、本心は別のところにあるのかも知れない。
「ううん。そんな勇気は、わたしにはないもの」
 綾瀬は首を振り、肩を竦めた。高梨の勘ぐりは空振りだったらしい。
 高梨がなにか言おうとした時、強烈な打球音が響き、白いボールが青空をバックに弧を描く。
「また行った!」
 市川のひときわでかい声がグラウンドに響いた。
 ボールは、レフト側に張られたネットの上を飛び越えていく。
 外野を守っていた二年生部員が、釈然としない思いと、到底かなわないというあきらめとを一緒くたにして、自棄気味な荒っぽさでフェンス下の扉を開けて場外に飛び出たボールを探しに向かう。
 高梨は、打球の主の顔を見てみたくなり、ベンチを出た。ゲージの後ろで市川がにやついていた。
「誰だ? 頼もしい限りだけど」
「上坂。期待の新人だな」
 今年入部した一年生の中では注目株である。あと、期待されているのが野手では新城、葉田。ピッチャーではアンダースローの河野といった名前が挙がっている。まだ実力をみる機会はないが、紅白戦などでおいおいと明らかになっていくだろう。
「まあでも、いまは気持ちよく打たせてるだけだぜ」
 根川先輩はコントロールの確認をしてるようなものだ、と高梨はみている。同じところに投げ込んでいる以上、タイミングだけの問題だ。
「いきなり萎縮させたら後が困る、か」
「先輩が本気でも困らないヤツもいたがな」
 ひょいと市川が顎をしゃくる。バッティングゲージの中には、樋口の姿があった。
 根川と並んでボールを投げているのは控え投手である。
 こっちは真剣そのものの投球。
 それを樋口は軽々と打ち返している。
「確かにヤツは、一年の入学式の頃からすっ飛ばしてたわな。実戦ではともかく」
 昨年度は下位打線に甘んじた樋口も、今年はチームの中核をになうことになる。負けてはいられないな、と高梨は思った。

 第十六話に続く

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