『バトル・オブ・甲子園』
第十六話”薫風”




(1)


「こらー、しばむらーっ! ぼさっとすんなーっ!」
 ノックバットを構える宮本主将の怒号が野球専用グラウンドに木霊する。グラウンドの各地に散っている他の部員もやれやれと言った風情で苦笑しあい、同情するそぶりすら見せない。
「『しばむら』って誰よ?」
 一塁側ブルペンで投球練習をしていた高梨は、たまたま近くを通りかかった綾瀬に尋ねた。
「あれ、高梨くん知らなかった? 一年の柴村くん。ほら、あのぼやーっとした」
 綾瀬がセンター方向を指さす。フェンス際に転がるボールを追いかけている一年生部員がいた。
「ああ、あいつか」
 高梨が納得顔でうなずく。
 一年で、ぼやーっとした部員、という表現だけで誰か特定出来てしまうあたり、よほど際だっている。
「でも彼、なんか凄いらしいわよ」
 フォローするように、綾瀬が肩をすくめ気味に首を振った。
「凄いって、なにが?」
「そりゃ、ウチで凄いことに意味があるとしたら、真っ先に野球センスの有る無しに決まってるじゃないの。守備も打撃も走塁もウチじゃトップクラスだ、って宮本主将も言っていたし。新人戦は期待大ね」
 宮本主将が事ある毎に怒鳴りつけているのも、その才能に期待するところが大きいからだ。
「へぇ。あのぼややんとした奴がねぇ。俺は、新城のほうがだいぶ計算できると思うけどもな」
「ああ、確かにあの『なおりん』の弟さんだったら期待もてそうだもんね」
 なおりん――大栄高女子バレー部主将・新城奈織のあだ名を口にした綾瀬は、半ば冗談、半ば本気で身震いしてみせた。
 その気持ちは高梨にもよく判った。
 全国レベルの強豪である大栄高の女子バレー部は、体育会系の部活動が盛んなこの高校にあってさえ屈指の猛練習ぶりで知られ、生徒達から一目置かれている。
 決して妥協を許さず、ハードワークを自ら身体を張って率いる奈織の存在は、女子バレー部員のみならず全校生徒にとてもっぱら畏怖の対象となっており、一部では『魔王』という呼び名で通用するほどだ。
 新学期が始まって一週間が経って、その弟が入部してきた時は野球部じゅうが震撼したものだった。実際に顔をあわせて数日を過ごしてみると、無口なところ以外はあまり似ていない姉弟であることが判って高梨達は胸をなで下ろしていた。
「だろ? 有望な新人がいるってことは、わるかないよな」
「ったく、そんなことばっか言ってないで、自分のやることしなさいよ」
 言って、綾瀬は高梨の傍らに立つ人影に目配せした。
「ん? ああ、判ってるって」
「ならいいけど。崎辺さん、頑張ってね。わかんないことあったら、どんどん聞いて構わないんだから」
 高梨の生返事を軽くいなして、綾瀬は未だに緊張の抜けきらない表情で二人のやりとりを聞いていた崎辺ににっこりと笑いかけた。
「はい」
 崎辺が生真面目に頷く。それを確認して、綾瀬は満足そうな笑みを再びみせて、自分の仕事へと戻っていった。
「仕事、ねぇ。あいつはこれからなにをするつもりなんだろうな」
 ユニフォームの洗濯からスコアブックの整理、練習試合の段取りから他校の戦力分析まで、綾瀬がこなす仕事は多岐に渡るため、高梨にも綾瀬の行動をいつも把握出来ている訳ではない。
「あの……」
「ん、ああ、わりい。いいから、やってくれよ」
 じいっと自分を見つめる崎辺の視線に気づき、高梨はバツが悪くなって歯切れの悪い声をかける。
 それでも、その指示を受けて崎辺はどこかぎくしゃくとした動作でブルペンのマウンド上に立ち、プレートに左足を乗せた。
 右脚を蹴り上げ、右腕を振る反動で腰をひねる。
 しなった左腕が振り抜かれ、指先からボールが放たれる。
 白球は十八メートルあまりの距離を、緩やかな放物線を描き、ブルペンキャッチャーをつとめる石毛のミットに収まった。高低はいいが、左打席側にやや外れたボール球になった。
「悪くないけど、動きが固いな。崎辺は身体をもっとうまく使える筈だよ」
「はい……」
 筋力の点では比較しようもないが、柔軟性にかけてはやはり女性だけあって、高梨よりも崎辺のほうが上だった。
「踏み込んだ右膝が――」
 言いながら、高梨は自分も投球のモーションを起こしていた。蹴り上げた右脚を、ホームベース方向に踏み込んだところで動きを一旦止める。その姿勢のまま、右膝を左右に動かした。
「外側に割れる……、つまり、三塁側に流れてるな。よけいなところで力を逃がしているんだ。普通、そんなんじゃ投げられないんだろうけど、身体が柔らかい分、なんとかなってしまってるような気がする」
 崎辺は高梨の言葉にいちいちうなずき、もう一度モーションを起こし、投げ込んだ。
「どうですか?」
 崎辺が不安と期待の入り交じった表情で、背後に回った高梨を振り返って尋ねた。
「さっきよりは良くなったとは思うんだけどな。どういったらいいのか」
「はあ……」
「こら。もっとちゃんと指導しなきゃダメじゃないの」
 雑巾をひっかけたボール籠を両手に下げた綾瀬が戻ってきていた。口元は笑ったまま高梨のほうを睨んでいる。
「人になにかを教えるなんて、生まれて初めてなんだ。そううまく行くかよ。綾瀬のほうがこういうの得意そうだけどな」
「ソフトの投げ方ならともかく、野球のフォームなんて私にも判らないわよ」
「で、いちいち俺達のやってることを監視してる訳でもないだろ。なんかあるのか?」
「そうそう。練習試合が決まったから、それを伝えておかないと、と思ってね。山津中央。それ伝えておこうと思って」
 特に凄腕の新入部員が入ったって話は聞かないから、順当にいけば勝てる相手。と綾瀬は相変わらずの情報網で分析してみせる。
「楽しみですね」
 練習試合という話を聞いて、それまで二人のやりとりを見ているだけだった、崎辺の表情が引き締まった。
「言っとくけど、出番は期待しない方がいいぞ。一年生を加えたチームで、試さなきゃならないことが山ほどあるからな」
「はい」
 また、生真面目に崎辺が頷いた。

(2)


 ゴールデンウィークの土曜日に山津中央高との練習試合が組まれていた。高梨達は山津中央高のグラウンドに乗り込んで試合を行う。進学校でありながら、私学並みのグラウンド設備に驚かされる。
「いいよなぁ、山津中央って男子高だろ?」
 三塁側にまできちんと用意された更衣室でユニフォームに着替えながら、三年の一人が言った。
「なんで男子高が羨ましいんだ。へんな趣味あんのか?」
「馬鹿か。男子高だったら、ソフト部とグラウンド取り合いしなくていいじゃないか」
「ああ、その点なら高梨が押さえ込んでるから大丈夫だ。なあ」
 三年の先輩の会話をぼんやりと聞いていた高梨は、いきなり自分に話を振られて顔をしかめた。
「そんなこと、軽々しく言えないじゃないですか」
 困り顔に、三年生がどっと笑った。

 第一試合の先発は根川だった。志摩監督の話から、高梨は恐らく出番がないと踏んでいた。試合直前になって、一年生部員が宮本主将の指示を神妙な顔で受けている。
「今年の期待の星はどいつだろうな」
 その様をベンチから眺めながら、高梨は他人事のような口振りで言った。
「去年の高梨君のように?」
 スコアブック片手の綾瀬が、高梨のほうではなく、相手高のベンチに目を凝らしたまま口を挟んできた。
「俺じゃないって。去年の目玉は樋口だったろ。なんだかんだ言って、あいつがいるから一年部員にも、なんというか、芯が出来たようなもんだったからな」
「どっちにしろ、今年はチームの投打の主軸になるわけよね」
 言いながら、綾瀬の関心はもっぱら相手高に向けられている。樫尾と矢沢に、スコアブックの付け方を教える傍ら、相手高の戦力分析のポイントを教えているらしい。もっとも、ソフトボール部で実戦経験のある綾瀬とは異なり、樫尾達にはなかなかそのポイントが見抜けないでいるようだ。
「気が早いぞ。主軸はまだ三年の先輩達だろ。俺達は一年生と三年生のつなぎみたいなもんだ」
 今回の練習試合で、はじめて一年生の新入部員が実戦で起用されることになる。高梨はこの試合は高みの見物を決め込むつもりでいた。

 そして試合が始まった。
「だいたいの実力は判ってきたかなぁ」
 新入部員の中では、まずピッチャーでアンダースローの河野が、相手打線を完全に押さえ込んで頭角を現していた。一年生ではまず筆頭にあげられるだろう。上背もあるが、腕が長く、その腕を地面にこすりつけるような位置から投げ込んでくる。
 野手では、なにかと注目されている柴村が、左中間を真っ二つに破る二塁打を放って長打力をアピールした他、新城、葉田といったメンバーがやはり前評判通りのプレイをみせた。逆に、それ以外の部員は可もなく不可もなくといった具合で、まだしばらく戦力として計算するには時間がかかりそうだった。
 残念ながら、まだ崎辺には練習試合でも声がかからなかった。

 練習試合が終わり、引き上げようとしていた高梨は宮本主将に呼び止められた。
「そういやお前んところの弟、かなりやるらしいな」
 高梨の弟・隼児は中学の春季大会で活躍し、地元新聞にも大きく取り上げられていたのだった。県外の強豪野球部がすでに学校側にスカウトを送り込んでいたという話も聞いている。
「そういや、載ってましたね」
「ウチの部に入って来ないもんかな」
「どうでしょう。アイツは俺と違って、強いチームで自分の実力を誇示したがるタチですから」
 答えてから、高梨は首を傾げる。
「今日新人戦だったってのに、もう来年の戦力構想ですか? 第一、来年じゃ先輩はここにいないでしょうに」
「それぐらい判ってるよ。たとえ俺の代では無理でも、その先に希望が持てる方が張り合いがあるじゃないか。お前とお前の弟が投打の軸となって、それを支えるのが今の一年生達ってことになる。どうだ?」
「どうだって言われても。ピンと来ないですねえ。先の話はあんまり考えないんですよ」
 高梨は困惑していた。あまり、弟と一緒にプレイしたいと思ったこともない。おそらく向こうも同じだろう。

(3)


 翌週、日曜日。
 今度は、例年『海ヘビ打線』で恐れられる強打のチーム作りをしてくる鬼浜高との練習試合が、大栄高のグラウンドで行われていた。
 昨季の秋季大会で、勢いに乗る大栄高に屈辱のコールド負けを喫した直後に、練習試合を高から申し込んできたことから両校につながりが出来ていた。
 野球部の伝統や格という点では、いささか大栄高の分が悪いのだが、現状では実力はほぼ拮抗している、というのが綾瀬の分析だった。
 いずれにせよ、どちらのチームも新一年生を加えて、夏に向けて体制を整えるべく見極めをつけたいと考えている。勝ち負けを度外視する訳ではないが、とりあえずどちらにとっても、自軍の戦力分析をするにはちょうどよいレベルの相手だった。相手が強すぎても弱すぎても、実力を計る物差しにはならない。
 第一試合、今日は高梨が先発マウンドに登った。キャッチャーは市川。このコンビはほぼ固定されているが、内外野では昨季から一部顔ぶれが変わっている。
 センターの樋口の代わりに柴村が入り、樋口はライトに回った。柴村の肩も決して悪くはないのだが、遠投でのコントロールがまだ心許ない。セカンドには、やはり一年生の葉田が入っている。新城はスタメンには入っていない。
「打たせてとろうぜ。そのほうが新入部員の守備力が判る」
 マウンドに来た市川が、そんなことを言い出す。
「そんな余裕のある相手かよ」
 高梨は苦笑しながら、市川をマウンドから追い払う。相手は名にしおう海ヘビ打線。全力でかかっても押さえ込めるか判らない相手だ。打たせてとる、という姿勢が手を抜いているとは思えないが、一歩間違えば打たれっぱなしになりかねない。
 一度はコールド勝ちした相手とはいえ、陣容も変わっている。見下して戦えるチームではない。
 午後一時。試合が開始される。
 初球、自分の身体がイメージ通りに動くか、感触を確かめながらモーションを起こし、腕を振り抜いた。内角高めにストレートが決まる。
(いい感じだ……)
 身体の感触は申し分ない。球は鋭く走り、ストレートはホップして市川のミットに躍り込んでいた。
 剛球というよりは快速球という高梨の持ち味はそのままに、昨秋と比べてストレートのキレが増していた。もう一球内角を衝いてツーストライクを奪うと、一番バッターは三球目、外角高めに大きく外れるボール球に泳ぎながら手を出して三塁線ぎりぎりにボールが転がった。
 三塁手が難なくさばく。
 一つのアウトで、完全にリズムが出来ていた。続く二番、三番をショートフライに打ち取った。

「お疲れさまでしたっ」
 とタオルを差し出してきたのは綾瀬でも矢沢でもなかった。白い練習用ユニフォーム姿の崎辺だった。
「おう」
 汗をタオルで拭きながらも、高梨はつい、こんなことをさせていいんだろうか? と考えてしまう。体育会系思考で、一年生なら当然と割り切って考えるほうがいいのかもしれないが、なにせ相手は女子部員である。いらぬところまで気を回してしまいがちだ。
 とりあえず本人は、下積みという立場をそれほど悲観している訳ではないらしい。手すきのときは率先してマネージャの仕事も手伝っているようだった。

「なんだか、高梨先輩の個人マネージャみたくなってますよ?」
 矢沢が高梨に小声で耳打ちする。目は気づかれないよう、崎辺のほうに向けたままだ。
「判ってるよ。だけど、どうしたもんかな」
「ま、本人がそれでいいんなら、別に気にすることはないんじゃないですか?」
 第一、とベンチの奥にいる樋口と樫尾の二人を指さす。
「あっちはあっちで、やっぱり個人マネージャみたいな状況みたいですし。チーム全体に目を配るのは、わたしと綾瀬先輩がいればなんとかなりますから」
 と、訳知り顔な矢沢。
「なにが言いたいんだよ?」
「えっと、ですから、どうぞお好きなように、と」
「なんか妙なこと企んでないか?」
「いえいえ」
「おい。そっちで盛り上がってる間に攻撃終わったぞ」
 プロテクターとレガースを着けた市川が苛立った声で高梨を呼ぶ。
 結局この試合、高梨は六回を無失点で終え、後を託した。後は根川が一点失ったものの、味方打線が小刻みに加点し、スコア四対一で勝ちを収めた。
「高梨先輩、今季初勝利、おめでとうございます」
 崎辺が我が事のように喜んでいるのをみて、高梨は照れた。
「おおげさに言われてもなあ、単なる練習試合だぜ」
「それでも、凄いと思います」
 崎辺があんまりにも真剣なので、高梨はごまかしてばかりいるのが悪い気になってきた。
「頑張ればそのうち、練習試合に出られるようになるさ」
「だといいんですけど」
「いっそ、下手投げにでも変えてみるか?」
「え?」
「筋力的な優劣は簡単には埋まらないからな。今、俺が教えてるのは俺と同じフォームだけど、それじゃはっきりいって俺より速い球は投げられないだろう」
「……」
「どうせ球速が出ないんなら、思い切ってフォームを変えてみれば、監督も使ってみたくなるんじゃないかな」
「先輩の仰っていることはよく判ります。けど」
 頷いた。だが、口にした言葉の字面ほど、表情は納得しているように見えない。
「けど?」
「いまはとにかく、上手投げをしっかりマスターすることが先なんじゃないか、と……」
 語尾があいまいに消える。上目づかいに高梨を見る目に怯えの色がある。
「ま、そりゃそうだな」
 軽く言い放った高梨を前に、ようやく安堵のためいきをつく有様だ。
 ブルペンでは、第二試合の先発を予定されている河野が、石毛を相手にピッチング練習を行っている。
 市川に序列で逆転されたとはいえ、石毛もそう悪いキャッチャーではなかった。安心して投げられる相手である。
 河野は珍しいアンダースローのピッチャーである。球速はさほどでもないが、球筋が見づらく、慣れていない相手には有効なピッチャーだと思われていた。
 崎辺が口ごもったのも、フォームをアンダースローに変えたところで河野がいる限り見劣りするという考えがあったからだ。
 そもそも河野にアンダースローそのものを教えられる人間は部内に誰もいないから、半ば勝手にやらせておくしかない。崎辺の指導を任されている高梨としても、下手な手間を増やすメリットはあまりなかった。
 河野は石毛からいろいろと教わっているようだった。ピッチングはともかくとして、野球部員としての一般的な教育は石毛に任せておいてよいと宮本主将も判断しているようだった。
「どうみる?」
 石毛の後方に張られたネット越しに練習を見る市川が高梨に問うた。河野は頼もしい後輩であると同時に、高梨にとってはエースの座を掛けて戦うライバルでもある。その辺りの心理を聞きたいらしい。
「物足りないとみんな言ってるけど、下手投げにしては速いよな。変化球もあるみたいだし。ただ、もうちょっと走り込んだほうがいいと思う」
 昨年の樋口の時もそうだったが、志摩監督は見込んだ一年生を特別扱いで上級生と同列のメニューに参加させる。抜擢されたことを自信につなげる性格であればよいが、樋口のようにプレッシャーに弱い場合は逆効果になることもある。それに、基礎体力トレーニングが免除されてしまうことで、スタミナ面に問題を残してしまう可能性もある。
 特に河野はピッチャーで、もっとも持久力が求められるポジションだ。高梨ならずとも、懸念はいだかざるをえない。
「監督は、完全な分業制でいくつもりだ」
 宮本主将がやってきて、言った。第一試合では猛打賞を記録しているから、機嫌は良い。
「じゃ、ヤツは抑えですか?」
 いや、と宮本は首を振る。
 全く逆。先発だよ。アンダースローに目が慣れない間、出来るだけ長いイニングを引っ張り、その後でお前なり根川なりを出して逃げ切る。そういう作戦らしい。
「なるほど。アンダースローの軌道はバッティングマシンでも再現できない。相手の混乱を招ける。その混乱を最大に利用するには、まず先発でぶつけるほうがいい」
「えらく物わかりがいいな。これから一年坊主に先発マウンドを奪われるんだぞ。悔しくないか?」
 高梨は小首を傾げてから、なにが問題なのかといいたげに頷く。
「この戦法は結局、俺や根川先輩が、終盤に相手打線を押さえ込めるという前提で考えられている訳ですからね。評価されてないってんじゃないかぎり、問題無しですよ」
 その割り切りの良さがお前の最大の武器だよな、と宮本は不要領の表情で笑った。
 第二試合に先発した河野は六回を三安打無失点に抑え、株をあげた。二番手としてマウンドに上がった一年生が二点を失ったが、試合は確実に加点した大栄高が六対二で勝利した。
「オレ達の時は、練習試合でも負けてばっかりだったよな」
 羨ましい、と高梨は素直に思った。
 もっとも、それが原因で猛練習とは無縁でいるつもりだった高梨が、なんだかんだ言いつつ練習に打ち込んでいったのだから、悪いことばかりでもなかったのだが。

(4)


 ゴールデンウィークが終わって二週間もすると、早くも春季大会を迎えていた。
「春季大会って、去年もあったっけ?」
 入部したての頃の話だが、ひどく昔のように思えて、高梨は間の抜けたことを言い出す。さすがに市川が呆れた。
「お前、なんかノートに日記みたいなのつけてるだろ。そいつ見てみろよ、書いてある筈だぜ」
「練習試合の事しか思い出せないんだけどな」
「そりゃ、春季大会はオレ達はまったくお呼びじゃなかったし、確か一回戦で負けたんだ」
 春季大会そのものは県止まりの大会ではあるが、夏の甲子園に向けての地区予選のシード校を決める意味もある。練習試合とはひと味違った空気があった。公式戦の緊張感はやはりひと味ちがう。
 試合会場となるのは相変わらずどこかの高校のグラウンドだったが、景色すら違って見えるものだ。

 大栄高野球部は、打撃にはいまいち物足りないものが残るが、守備は間違いなくレベルアップを果たしていた。専用球場と通常グラウンドを効果的に使って充分な練習が出来たことが大きい。去年のようなおぼつかなさはもう過去のものだ。
 大会前に聞いていたとおり、志摩監督は先発で河野をぶつけ、打順が二巡ほどして相手打者がアンダースローにタイミングをあわせてくるところまで引っ張り、根川なり高梨にスイッチする作戦を採った。
 打線の爆発こそ無かったが固い守備と投手力を生かし、大栄高は三回戦まで突破した。
 そして、四回戦では甲子園常連の強豪・輪島城東高と対戦することとなった。輪島城東高は井町南高と対戦してこれを下しており、その実力はいまだ衰えを知らない。
 結果、大栄高も奮闘したが、スコア一対六で、惜しくも敗退することとなった。序盤に河野が捕まって四失点すると、あとは挽回のしようが無かった。四番・宮本主将と六番に入った樋口が二塁打を放って一点を奪うのがやっとだった。
「本当に強いところには、奇襲は通じないってことかな」
 試合後。電車に乗り合わせての高校への帰り道で、春季大会を通じて代打での出番が二回あっただけの市川が、つまらなさそうに言った。
 その隣では、調子よく勝ってきただけに、はじめて味わう手ひどい敗戦に河野が肩を落としている。
「まだ伸びる余地はいろいろとあると思う。だからがっかりするのは早いさ」
 特に同情というわけでもなく、高梨はそう声をかける。
「はい」
 河野はそう応えて頷いたが、崎辺のような生真面目な感じではなく、ふてくされているような返事だった。

 結局、シード権を得るには至らなかったが、それなりに実力がついてきている手応えを高梨達は掴むことが出来た。

(5)


 春季大会が終わると、すぐに夏の甲子園大会に向けての予選の抽選日がやってきた。
 その間にも高梨には、専用グラウンドをなんとか確保したい女子ソフトボール部との折衝や、崎辺のコーチなどの役目もあって、なかなかに忙しく過ごしていた。
 もっとも、ソフト部のほうは依岡が同じクラスになったことで話しやすくなったし、崎辺を相手にした練習は、自分にとっても考えさせられることが多く、結構ためになったので苦痛ではなかった。
 入部以来三ヶ月もやっていると、崎辺の投球フォームが自分のそれにそっくりになっているのに嫌でも気づく。
 無論、球威やコントロールはまったくレベルが違うのだが、それでは実力で高梨を上回らない限り、練習試合であっても使い道がない。
「だけどなあ、俺が教えたせいだろうけど、投げ方がそっくりになってきてるぞ」
「あ……。すみません」
 高梨の指摘に、何故か崎辺は頬を赤らめた。
「まあ、謝ることじゃないけども。今のままじゃ、練習試合にも出してもらえないだろうしな」
「とにかく、基礎を固めることに専念したいと思います。先輩の真似をするつもりじゃないんですけど、フォームはこのままでやらせてください」
「まあ、それでいいってんなら、構わない」
 我ながら煮え切らない結論だと高梨は思った。彼にとって、試合に出られずに練習ばかり続けているのはつまらないと感じるのだが、崎辺にとってはどうもそうとばかりも言い切れないらしい。
「抽選、そろそろ終わってますよね」
 話題の接ぎ穂を探すように、崎辺が言った。去年もそうだったが、この日ばかりは主将と監督がいないこともあって、皆、練習にどこか身が入っていない。
 地区大会の抽選会場には、監督と宮本主将、そしてマネージャの綾瀬がと赴いていた。
「去年はいきなりぶちあたって仕舞いだったからなあ。なんとか、まともにやりあえる相手を選んで欲しいもんだ」
「今年は大丈夫ですよ」
 矢沢が安請け合いした。
 矢沢と樫尾のマネージャ二人は居残り組である。
 別段、部員の誰もが二人に不満がある訳でもないが。実際、他校との交渉などにおいて綾瀬の力は抜きんでていて、皆が彼女に任せておけば安心だと考えている。樫尾、矢沢にしたところで、その方面で綾瀬と張り合う気はないのだった。
 抽選の数日前に、高野連が一つの発表を行っていた。今年も大会に女子選手の参加を認めないとするものだった。これは、参加の許可を求める声が幾つかの学校から高野連にあげられていた事に応えるものであった。
 なにも大栄高校が崎辺の為に要請をあげる動きをとった訳ではない。他校にもちらほらと女子選手が姿を見せるようになっている時代の流れによるものだろう。
「漫画のように劇的にはいかんさ」
 高梨はそう、崎辺を慰める。
「一年目から試合に出られるなんて思ってませんよ」
 崎辺の口調はさばさばとしていた。
 抽選に先立ち、背番号が発表になっていた。今年の一年生で背番号を貰ったのは河野が十三番、上野が十七番、葉田が十八番で、都合三人のみ。去年の樋口のようにいきなりレギュラーを獲得した選手はいない。
 それだけ、二年、三年の選手層に信頼度が増してきているのだ。崎辺でなくても、そうそう簡単に試合には出してもらえない。
「で、去年はどこまで行ったんですか?」
「一回戦は勝ったけど、二回戦のシードに井町南がいて、コールド負けだったんだ」
「まあ、一回戦に勝つのがやっとって感じだったけどな」
 市川が首を突っ込んできた。
「今年はもう少し戦えるだろう。組合せ次第だけど」
 そんなことを話し合っているところへ、真っ青な顔をした綾瀬が戻ってきた。
 去年同様、抽選結果が良くなかったとしか思えない様子に、高梨達も顔を曇らせる。
「どうした? まさか、また井町南あたりが二回戦のシードにいるんじゃないだろうな?」
 綾瀬は首を振った。
「それはありえないわ。井町南は春季大会の三回戦で輪島城東とあたって負けているもの」
 三回戦負けではシード校にすらなれない。
「そういや、そうだったか。なあおい、えらく暗いじゃないか。オレ達の相手はどこなんだよ」
 焦れるように高梨が聞く。
「シードに井町南がいてくれたほうがまだ良かったのかも知れないわ」
 歯切れの良い綾瀬にしては珍しく、遠回しな言い回しをする。
「なんで?」
「だって、その井町南が一回戦で私たちの相手だもの」
「は?」
 言葉の意味を理解するのに数拍を要した。
 高梨達は初戦で、県下屈指の強豪校と直接対決を余儀なくされたのだ。状況は、二回戦で輪島城東とあたった去年よりも遙かに悪かった。

 第十七話に続く

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