『バトル・オブ・甲子園』
第十七話”策謀”




(1)


 地区予選の組み合わせ抽選が行われた翌日、今予選を戦うスタメンが決定され、志摩監督から部員達に伝えられた。

 一番 越川(二年) RF 背番号9。
 二番 高根(三年)  C 背番号2。
 三番 山口(三年) 3B 背番号5。
 四番 宮本(三年) SS 背番号6。
 五番 榎本(二年) 1B 背番号3。
 六番 石原(三年) 2B 背番号4。
 七番 小清水(三年) LF 背番号7。
 八番 樋口(二年) CF 背番号8
 九番 河野(一年)  P 背番号13。

 事前に高梨も宮本主将から聞いた通り、先発のマウンドに立つのは一年の河野。アンダースローをぶつけて相手のカンを狂わせるのが狙いだ。
 一年前までマネージャ役を兼任していた小柄な山口が今や三番を打つ一方、勝負強さにいま一つ信頼性のない樋口は、レギュラーこそ失っていないものの未だに八番を任されている。目算がそうそう決まらないのも、高校野球ならではだ。
 一回戦は、九日に行われた開会式から一週間後と決まった。連日、メンバーを固定した状態での実践的な練習でその時に備えることになる。やり残したことはなにもないつもりだったが、いざとなると何もかもが不安になってくるのを抑えることは難しい。
 調整に主眼が置かれていることを自覚しながらも、いつも以上にハードな練習になってしまう。
「今頃になって焦ってもダメなんだってば」
 いつもは発破をかける役まわりの綾瀬が苦笑とも困惑ともつかぬ表情で、練習を終えて疲れ切った表情の部員達に声を掛ける。
 瞬く間に日は過ぎて、いよいよ一回戦を翌日に迎えることになった。

「一回戦で終わるのだけは勘弁して欲しいよなぁ。相手が井町南じゃ、出番が回ってきそうにもない」
 練習を早め切り上げ、いつもより早い時間での下校途中の川沿いの歩道。夕焼けを仰ぎながら市川が嘆息する。
「綾瀬の情報じゃ、今年の井町南高はどうなんだ?」
「圧倒的なスタープレイヤーってのはいないみたい。だけど、相手が相手だから、楽観できそうなことはなんにも言えない」
 綾瀬が申し訳なさそうに首を振る。
「勝ちたいなあ」
 高梨が思わず、包み隠さない本音を口にする。
「あれ。意外だな、高梨先輩がそんなこと言うんだ」
 不思議そうな声をあげたのは矢沢だった。中学でもマネージャ経験があるだけに、綾瀬についてよく仕事をこなしている。
 てきぱきとした仕事ぶりの綾瀬と、いかにも忙しげにちょこまかとしている矢沢の対比はユーモラスで、一年前より確実に技量を向上させ、まなざしにも真剣味を帯びてきた大栄高野球部員達も、つい苦笑を漏らす光景がグラウンドではよく観られていた。
 矢沢は高梨や市川と同じ中学の出身であるから、当然帰り道も途中までは同じコースを取ることになる。特に示し合わせた訳でもなかったが、このところは高梨、市川、綾瀬、そして矢沢の四人で下校することが多い。
「なんで意外なんだ?」
「中学の時は、試合の前でも、もっとリラックスしてたと思ったから」
「今と中学とじゃ、状況が違うよ」
「そうだぜ。なんつったってオレ達の目標は甲子園なんだからな。気合い入れていくしかないだろ、こういう場合」
 市川がフォローに回る。
「そうよ、だって高梨君と市川君は、私に約束してくれたもの。甲子園に連れてってくれる、って。ね」
 綾瀬が口を挟んだ。最後の「ね」は当然のことながら高梨と市川に向けられている。
「まあな」
「大丈夫だ。オレ達は上手くなってる」
 歯切れの悪い高梨より、スタメンに名を連ねない市川のほうが調子がいい。
「そうよ。みんな上手くなってる。自分達の実力、信じていいと思うよ」
 いつも厳しい綾瀬が珍しく誉めて励ます。高梨は、自分の実力と言うよりも綾瀬の言葉を信じたいと思った。

(2)


 いつもより早く帰宅したからといって、なにをしなければならないというものでもない。
 身体に染みついたリズムが微妙に狂ってしまうような気さえする。
 仕方ないので、高梨は学生服を脱いでジャージ姿になり、素振りでもしておこうと家の横にある砂場に出る。小さな頃からの練習場だ。
(市川は甲子園が目標だと言い切ったけど、俺はどうだろう? 綾瀬に言われたからプレッシャーって訳でもないんだけどな……)
 どういう形で出番が回ってくるのか。先発ではないために、いろいろと気を回してしまう。なるようにしかならないとは判っていても、つい考え込んでしまうのが高梨のクセだ。
「お、今日は兄貴のほうが早かったね」
 砂場を囲う壁の横から、高梨隼児が顔を覗かせていた。
「おう」
「いよいよ明日か。いきなり井町南じゃ大変だな。大丈夫?」
 隼児は高梨より二つ年下ではあるが、その体格は既に高梨にもひけは取らない。その上背と子供っぽい口調のギャップに苦笑する。
「そりゃ、ここで終わりたくはないけど、まともにぶつかって勝てる相手じゃないよな」
「じゃ、なにか策があるんだ?」
「まあな」
「平日じゃなかったら、応援に行くんだけどな」
「見に来ても、あんまりいいところは見せられんかも知れないぞ」
 隼児は笑って首を振った。
「見たいのは大栄よりも井町南のほうだよ」
「そういや、監督が挨拶に来たって? すげぇな。俺の時はなんにもなかった」
 高梨が素振りの手を止めた。
 隼児は、県下屈指のスラッガーとして注目されているらしい。中学に対して、有名校からの挨拶が何度かあったらしい。その中には井町南も含まれている。
「うん。悪くないかなとは思ってるけどね」
 高梨は何気なく聞いた。こいつを敵に回すのは厄介だなと頭のどこかで考えたせいだ。
「なあ。ウチに来る気はないか?」
「大栄に? 考えたこともなかったな」
 隼児は文字通り一笑に付した。まあ、当然の反応だろうなと高梨も自分で言っておきながら、隼児の返事に納得している。
「ま、だからってウチが井町南の引き立て役になるつもりもないさ。……見に来たら、面白い試合が見れるかも知れないしな」
 とにかく自分のベストを尽くすだけだ。高梨は迷いを断ち切るように鋭くバットを一閃させた。

(3)


 市営球場の頭上には雲一つ無い快晴の空が広がり、容赦ない陽光がグラウンドを灼く。熱気がこもり、グラウンドに水を撒くホースの正面に飛び出して頭から水をかぶりたいほどだ。
 井町南高の先発投手がウォーミングアップを開始すると、ざわりとした空気が三塁側の大栄高ベンチに走った。
「誰だ、あいつは?」
 石原が呻いた。井町南ほどの強豪校ともなれば、めぼしい選手の名前は他校にまで流れてくる。大栄高には綾瀬という情報収集を得意とするマネージャもいる。にもかかわらず、マウンドにいるのは誰も知らないピッチャーだった。
 が、意味を持たないざわめきのなかで、河野が周囲の耳に引っかかる言葉を漏らした。
「……なんで、あの安木が先発なんだ」
「知ってるヤツか?」
 険しい顔で河野に向き直った宮本主将が問う。
「ええ。中学が一緒です」
「じゃああのフォームも」
「はい。二人して練習したものです。エースは自分でしたが」
 マウンド上に立つ井町南の背番号11・安木は右のアンダースローだった。
 相手にも右アンダースローのピッチャーがいる。それはすなわち、河野の右アンダースローで相手打線を翻弄するという志摩監督の奇襲が、いきなり破綻したと考えてもいいだろう。
「ああくそ、情報不足もいいところだな」
「ごめんなさい……」
 誰かが漏らした呻きに、綾瀬が消え入りそうな声で応じる。
「違う違う。綾瀬の責任じゃないぞ」高梨は思わず、必要以上の大声で彼女の謝罪をうち消した。「綾瀬はスパイじゃないんだから、そんなこと気にする必要ないって。それより、向こうがこっちの手の内を読んできたってことじゃないのか?」
「こら。くだらない詮索は後回しだ。今はヤツを攻略することだけを考えるんだ」
 宮本が高梨の長口上を叱咤する。
「考えてみりゃ、こっちも河野相手にだいぶ打撃練習も積んでるんだ。そうそうアンダースローだからってびびりゃしないぞ」
「それに、河野の話じゃ、中学時代は河野のほうが実力は上だったって言うじゃないか。井町南が何を考えてるかはともかく、いけるぞ」
 三年生が強気の言葉をかわし、頷きあう。決して勝ちに恵まれてきた訳ではない三年間だが、その集大成である。最後を弱気なまま終わるわけにはいかないのだ。

 一回表。
 越川が右打席に入る。右投げの安木が繰り出す球は、やはり右打者には球離れのタイミングが掴みづらい。
 積極的に打ちに行ったが、内角の難しいボールを転がしてしまい、平凡なセカンドゴロ。
 続く高根、山口も凡退し、あっさりと攻撃を終了する。
「スピードはまあまあだが、コントロールがかなりいいから、右打者にはきついぞ」
 三人が口を揃える。志摩監督と宮本主将が渋い顔になった。大栄高は右打者が多いだけに、攻略に手間取りそうだった。
 一回裏。
 同期の申し分ない立ち上がりを間近で見せられて奮起しないほうがおかしい。河野もまた、ペース配分をまるで考えていないかのような力投で井町南打線を三者凡退に切って取る。
 堂々、胸を張ってマウンドを降りてくる。
「あんまり飛ばしすぎるなよ」
「あとは先輩にお任せするつもりですから」
 河野は高梨の言葉にもそっけない。物怖じしないところは買っていいだろう。しかし、高梨は紙一重の危うさを感じずにはいられなかった。
 二回表、先頭打者は宮本。
 先代の破天荒な正岡主将に比べれば、堅実で面白みの少ない主将だったが、責任感にかけては人一倍のものがある。そして人知れず努力を重ねているタイプだ。大栄高打線で、井町南を相手取って互角の打撃が出来るのは、彼しかいないだろう。
 潜在能力では樋口のほうが上かも知れないが、プレッシャーの掛かる場面ではいまいち期待できない。やはり宮本が押しも押されもしない四番打者なのだ。
「早打ちで相手を助けるより、球数を稼いで自分の配球に疑問を抱かせるべきだな。自滅してもらうより、どうにも仕方がない」
 打席に向かう前、ベンチで見送る部員達に、独り言のようにそう言い残していた。
 実際、主将としての責任からか、彼は自らヒットを狙うのではなく、可能な限り相手に多く投げさせようと試みた。
 内角低めに鋭く食い込んでくるストレートも、高めの吊り球も、バットの先に引っかけそうなきわどい外角いっぱいに決まるカーブも、全てカットしてファールゾーンに転がす。
 最後はキャッチャーフライに倒れはしたが、実に一人で十二球を投げさせていた。
「バットには当たる。あとはタイミングだな」
 戻ってきた宮本主将が、悔しげな表情でそう部員達に伝える。皆が一様にうなずく。
「あんまりいいチェンジアップを持っていないようだから、ストレートと変化球のタイミングを見計らうだけだな。クセとかが見抜ければいいんだが……」
 どうだ、と宮本が河野に尋ねた。視線が河野に集まる。
「よく、判りません。同じチームのピッチャーのクセを盗むなんて、考えていませんでしたから」
 河野の正直な返事に、誰もが失望の色をみせる。藁をもすがる思いは皆同じだ。
「ま、それを責めてもどうにもならん。攻略の糸口はもう掴んでいるんだ。焦らずにいこう」

 榎本はあわやというフライをセンターに飛ばした。石原は二遊間を破りそうな鋭い当たりを放った。しかしどちらも井町南の堅守に阻まれ出塁には至らなかった。
 その裏、井町南も河野を攻めあぐねながらも痛烈な打球を飛ばす。山口が頭上を抜けそうな打球をジャンプの頂点で突き上げたグラブに収めた。高根が相手ベンチに頭から飛び込みそうな勢いでファウルボールをキャッチする。河野もまた、強烈なピッチャー返しを、それこそ反射神経だけで捕球した。
「いい試合ですね」
 まだベンチで待機している高梨の横についている崎辺が、誰に言うともなく呟いた。
 地区予選では女子マネージャのベンチ入り人数が決まっていない為、実戦を経験させる意味でマネージャ扱いで崎辺もベンチ入りしていた。スタンドでの応援組には樫尾がついている。もっとも、二回戦以降に進出できた場合は、綾瀬以外の三人はくじ引きなりジャンケンをしてベンチ組とスタンド組を決定することになる。
「この試合、間近で見られてよかったです」
 崎辺の表情は一進一退の攻防からくる緊張のせいか、見るからに青ざめている。
 が、その瞳は、自分の所属する野球部が、名門相手に一歩も引かない試合をしている喜びに輝いていた。
 三回表。
 スタメン唯一の左打者・小清水が悠然と打席に入る。
「アイツは、練習の時は、割と河野の球を打っていたよな」
 宮本主将の呟きに、河野が頷いた。
「はい。左だと球離れのタイミングがよく見えるので、いい具合にスイングが合うそうです」
「安木相手にも、そのタイミングが通じることを祈りたい気分だな」
 が、期待も空しく小清水の当たりはどん詰まりのポップフライ。二塁手がバックし、センターとライトも前進してくる。と、三者の連携が取れずに譲り合ってしまい、間にボールがぽとりと落ちた。
 これまで好守備の時以外は沈黙を余儀なくされていた大栄高応援団が、ここぞとばかりにはやし立てる。
「この一本で流れはこっちのもんだ!」
「頼むぞ、樋口、いったれ!」
 ベンチと観客席から、続く打者の樋口にゲキが飛ぶ。
 高梨は試合前に、樋口に掛けた自らの言葉を思い起こしていた。
「ここで奮起しないようだと、去年一年だけじゃなく、今年も八番打者に置かれている意味がない」
 樋口は、判った、と頷いていた。この打席、その真価が問われることになる。
 そして、樋口は期待に応えた。初球をすかさず狙い打ち、綺麗に三遊間を破ったのだ。
 ノーアウト、ランナー一塁、二塁とチャンスが広がる。
 打順は九番、河野。素振りをしながら打席に入る。志摩監督としては当然送りバントを仕掛けたいところだが、三塁でフォースアウトの可能性もある。
「まずいぞ」
 ベンチで見守る選手の誰かからそう、声が漏れた。
 確かに、と高梨も眉を寄せる。
「なにがまずいんでしょう?」
 居合わせる人間の中で、判っていない数名の側にいる崎辺が、消え入りそうな声で高梨に尋ねた。
「河野のヤツ、気合いが先に走り過ぎている。いきりたってるんだ。あれじゃ周りの状況がなにも見えなくなっちまう。送りバントさせるのも、ためらっちまうような感じだな」
 井町南は明らかにバントシフトを敷いている。
 志摩監督の両手が小刻みに動き、サインを送る。
 そのサインを見ていた高梨は思わず表情に懸念の色を出さないよう、メガホンを叩いて声援を送るふりをしなくてはならなかった。
 ――一球目は強打の構え。二球目以降にバント。
 という指示だったからだ。
 バントシフトのまっただ中にボールを転がして、無視一・二塁のチャンスをフイにするのは、ためらわれたのだろう。気負いすぎている河野には荷が勝ちすぎているとも言えなくはない。
 だが、いかにもこちらの都合しか考えていない策のように高梨には思われた。
 安木の初球。打ってみろと言わんばかりのど真ん中に打ち頃のストレートが入ってくる。
 あるいは素直にバントさせても構わないとの判断だったのかも知れない。が、河野はつり込まれるようにバットを強振していた。
 志摩監督の策に従うなら、この強打策はあくまでもバントをしやすくするための演技でなければならないところだったが、つり込まれるように河野のバットはボールを捉えていた。
 キン、と打球音が響いた。ボールはレフトへ飛んだ。あまりにも平凡なフライ。当然、タッチアップは出来ない。
「まあ、ダブルプレーとかやらかさなかっただけマシかな」
 高梨が、河野にやや同情するような呟きをもらした。戻ってきた河野が志摩監督にかなりきつい調子で注意を受けている。
 その光景を見ている部員達の誰もが、チャンスを潰し、せっかくこちらに傾きつつあった流れが戻ってしまったような、イヤな感触を抱いた。そしてそれは井町南にとっても、そして特にマウンド上の安木にとっても同じだったのだろう。
 一瞬の気のゆるみ。打順が一巡し、打席に入った一番・越川への初球は、河野に投じたど真ん中ほどではないが、甘いコースに入ってきた。
 越川はためらうことなく初球打ちに出た。しっかりボールを手元に引きつけ、バットを振り抜く。腰が回る。打球は低い弾道で右中間を破った。
 小清水と樋口が相次いでホームベースを駆け抜ける。越川は足から二塁ベースに滑り込んだ。
 二点先制。一気にベンチが盛り上がる。
 高根も続いてライト前にボールを運んだ。二塁にいた越川はホームを伺ったが、ライトからの返球はすさまじく、低い軌道を描いてキャッチャーミットにノーバウンドで収まっていた。
 あまりに鮮やかなバックホームだったおかげで、越川は躊躇することなく三塁ベースに戻っていた。これがもしきわどい返球であれば、判断に迷って突っ込んでいたかもしれない。
 ワンアウト、一・三塁。まだチャンスは続く。
 続く三番、山口は先の打順でも全く安木のタイミングにあっていなかった。二球続けてファウルした後、一球ボール球を挟んだ勝負のシンカーに手を出した。ぼてぼてのピッチャーゴロ。
 当たりが緩かったのと、三塁の越川の本塁突入を牽制した安木の送球がややもたついた為、高根が二塁でフォースアウトとなったが、山口はボールが転送されるより一瞬早く一塁ベースを駆け抜けていた。
「まだ流れはこっちに残っているみたいだな」
 一つ一つのプレーに一喜一憂。自分が出場していなくても、まったく気が休まることがない。後半の出番に備えている高梨はともかく、出場の機会がない崎辺ですら、懸命になって声援を送っている。
「キャプテン、打って下さいっ!」
 崎辺が矢沢と一緒になって、打席に向かう宮本に向かってひたむきな声を飛ばす。先の打席で、後に続く打線の為、自分がファウル打ちに徹した事を知っているだけに、なおさらだ。
 安木は宮本を迎えて、いかにもやりにくそうな表情で立ちつくしてる。それを見かねて、マウンド上に内野陣が集まる。
 一通りの激励を終えて内野陣が守備位置に散る。安木の目には闘志が宿ってはいるが、どこかおびえの裏返しのようにも見えた。帽子をかぶり直し、ロジンバックを投げ捨てる動作一つに、落ち着きの無さが垣間見える。
 初球。内角低め。膝元いっぱいにストレートが決まる。宮本のバットは動かない。先ほどの打席であれば腕を畳んで打球を弾くようにバットを振り出していた筈だが、全く何事もなかったかのように見送っていた。
「自信満々で見送られるってのは嫌なもんだぜ」
 高梨が言った。
「手が出なかった、ってことはないですか?」
 崎辺が尋ねる。実戦経験がない以上仕方がないのだが、崎辺の考えることは高梨の目からみると微妙にポイントがずれている。もっとも、それを一つずつ教えていくのは決して不快ではなかった。崎辺の飲み込みが早いせいもあるだろう。
「あのコースじゃ、どうやってもクリーンヒットは打てない。いいところにキマってるんだ。それだけに、手を出してくれないと辛い」
「でも、ストライクはストライクです」
「そうだな。でも、マウンドの安木の顔を見てみろよ、完全に追いつめられた表情をしてるぜ」
「はい……」
「いかにいいピッチャーとはいえ、やっぱり一年生だ。空気に呑まれてる。もしかしたら、呑まれてる相手はウチじゃなく、強豪といわれている井町南の名前のほうかも知れないけどな」
「先輩……」
 崎辺が不安そうに唇を噛む。
 二球目。
 高めに上擦るようなストレートが来た。宮本のバットが一閃する。
 金属バットが鋭い音を立てた。
 高梨は、自身の球が打たれたときを思い、反射的に息を呑んでしまった。それくらい会心の当たりであることを示す音だ。
 ボールは高々と空へと飛翔していった。そして、グラウンド上の井町南ナインの誰の手も届かない高さを飛び続け、センターバックスクリーンへと落下した。
 大栄高応援団のボルテージは最高潮に達する。ベンチも同じである。なかでも、矢沢と崎辺の喜びようは格別だった。互いに抱き合って、涙さえ浮かべている。
 殊更に自らを鼓舞するようなポーズを見せることもなく、宮本はダイヤモンドを一周し、ベンチへと戻ってきた。
 ここで、井町南はピッチャーを三年の平林に交代させた。背番号一。押しも押されもせぬエースの登場である。
「エースを温存する策だったかも知れないが、裏目に出たな」
 大栄高ナインはもはや井町南を恐れてはいない。全力でただぶつかるだけだ。
 しかし、さすがにエースの球は早い。五番・榎本は勇躍して剛球を投げ込んでくる平林の前に三振を喫し、三回表の攻撃を終えた。
 この後、六回までは両チーム共に決めてを欠く攻めとなった。河野も健闘していたが、平林のピッチングもさえ渡り、大栄高の勢いを見事に止めていた。
 六回裏、ここまで無失点に抑えてきた河野が連打を浴び、一点を失った。
 打順も三巡目を迎えようとする頃になると、さすがに初回から全力で挑んでいた河野の球威が目に見えて落ち始めていた。
 元々完投するつもりは頭から無く、後を先輩に託す策に従っているだけに、河野としてみればよく保ったほうだと自負があるのだろう。根川にマウンドを譲る際にも、晴れ晴れとした表情を見せていた。
「基礎体力を鍛えて、持久力を養う必要があるな」
 高梨がそう声を掛ける。しかし河野は、ペース配分を頭においておけばまだまだ投げられた、とでも言いたげな顔つきで小さく頷いただけだった。
 不遜としか言い様のない態度ではあったが、高梨はとがめなかった。自分の身体で思い知らねば理解できないという物事はあるものなのだ。
 根川もまた、とらえ所のないいつもの持ち味を充分に発揮し、河野のアンダースローにタイミングを修正した井町南打線を翻弄した。
 そして、そのまま追加点を与えることなく、九回裏の攻撃もしのぎきり、大栄高に勝利をもたらしたのである。
 高梨の出番は無かった。
 しかし、そのことでヘソを曲げる訳にもいかなかった。
 皆の喜びようは尋常なものではない。強豪の一角を見事に崩したのだから。もう優勝したかのような騒ぎである。

(4)


 大栄高の野球部は、興奮さめやらぬ応援団や父兄等と共に、電車で学校へと戻ることになる。
 一回戦で敗退した井町南が専用バスを用いて移動しているのとは対照的であった。
「連中、一回戦で負けるなんて思ってなかっただろうな」
 いい気味だ、とも、可哀想だ、とも高梨は思わない。
「結果としては、作戦の失敗ということになるのかな」
 市川も、腕を組んで考え込んでいる。三回以降、安木の後を任された平林から大栄高打線は、ヒットこそ放ったものの得点出来なかった。もし平林が先発のマウンドに登っていたらどうなっていたか。市川ならずとも、その点を無視して無邪気に喜ぶ気にはなれないのであった。
「こちらをあなどってエースを温存したのかな」
「あるいは、平林が故障を抱えていたか。故障とまではいかなくとも、一回戦から完投させられない状態だったか」
「こっちの作戦とかぶったのが井町南にとっても誤算だったのかなあ」
「なんにせよ、勝ちは勝ちだ」
 宮本が、勝手なことを言い出す部員にそう言い聞かせる。
「そうですね。井町南の思惑は判りませんが、キャプテンがホームランを打って試合を決めたことは間違いないんですから」
 高梨がそう応じると、部員達がどっと沸いた。
「こいつ、さっそくおべっか使ってやがるぜ」
「おだてても、何もでんぞ」
 といいつつ、宮本主将もまんざらでもない表情だった。六回表にも平林からヒットを放っており、今日の試合で四打数二安打。申し分のない結果を残せているだけに気分の悪いはずがなかった。
「で、次はどこでしたっけ? 井町南のことしか考えて無くて」
「確か、明日の予選の結果次第じゃなかったか?」
「はい。乾高と島田大付属高のどちらかということになります」
 手にした手帳を開き、綾瀬がすばやく宮本主将の問いに答える。
「どんなチームか判るか?」
「島田付にはいいピッチャーがいるそうです。乾高はエースも二番手も左投げですが、レベルはたいした事はありません。ただ、乾高はかなり機動力を使った野球をするようです」
 宮本主将はやれやれ、という具合に首を振った。
「情報が、不足していますか……?」
 不安げな綾瀬に向かって、宮本主将は苦笑いを浮かべる。
「そうじゃない。いったいどうやってそんな情報を手に入れてくるのか、俺にはさっぱりわからん。ウチのマネージャにいてくれて助かる」
 それを聞いて、綾瀬の表情が緩んだ。
「ま、どっちにしろ、今日よりはリラックスして戦えるはずだ。舐めてかかる訳にはいかないが、実力通りに戦えれば、勝てるはずだ」
 宮本主将は、まるで部員達に訓辞をするように呟いた。
 それを聞きながら、次も今日のような試合が出来ればいいんだが、と自分の出番がなかったことを忘れたかのように、高梨は思った。

 第十八話に続く

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