『バトル・オブ・甲子園』
第十八話”黙考”




(1)


  季節は夏。空は雲一つなく晴れ渡り、朝早くから一気に気温が上昇している。
 はやくもアスファルトの路面に陽炎が立ち上ってゆらめき始めている。野球用具の詰まった黒いバッグを担いで駅の改札を出た高梨は、まぶしげに顔をしかめながら大栄高に向かう道を歩き始めた。
「あ、高梨君! 今日の相手は乾高ね。わたしの予想だと、島大附のほうがちょっと有利だったんじゃないかと思ったんだけど……」
 ちょうど駅前のバス停に到着した市バスから降りてきた綾瀬が、高梨の姿に気づいて声を掛けてきた。
「乾高って、どんなチーム? 新聞とか読んでも、あんまり判らないんだよな」
「へえ、高梨君でも新聞読むことあるんだ」
 からかい口調の綾瀬が笑う。嫌そうな顔をする高梨をみて満足したのか、表情を引き締めて言葉を継ぐ。
「少なくとも一回戦よりは楽なはずよ。ただ、島大附は足攻めに引っかき回されたみたいだから、その辺りは注意ね」
 いつものことながら、綾瀬はどこから仕入れてきたのかきちんと情報を持っている。足技のあるチームだと警戒することでどれほど具体的な効果があがるかは判らないが、少なくとも知らないよりはいい。
「監督はまだ同じ手を使うかな? 河野のフィールディングはそんなに良くないぞ」
 アンダースローの河野を先発にたてて相手打線を戸惑わせ、後半を高梨か根川の継投で逃げ切るという策である。
 高梨が口にしたとおり、河野は、牽制球やバント処理がそれほど得意ではない。もっとも高梨にしても文句を言えるほど上手な訳でもないが。
「乾高にしたって、もし自分たちが島大附に勝って一回戦を突破できても、次に当たるのは井町南だと思っていたはずでしょうから。ウチのことをどれくらい研究しているか……」
「ま、そのへんは監督任せだな」
「他人事みたいに言わないでよ。このままじゃエースは河野くんってことになっちゃうわよ」
 口を尖らせた綾瀬にそう言われても、高梨はそれほど気にも留めなかった。

(2)


 大栄高の二回戦は第二試合、午前中の試合開始だった。高梨達は朝から学校のグラウンドで軽い練習を行ってから野球場へと乗り込んだ。
 志摩監督が先発マウンドに送ったのは、従来の作戦通り河野だった。
「気にするなよ。今日は二番手で出番があるからな」
 先発を外された高梨を気遣うように宮本主将が言う。だが、彼に肩を叩かれた当の高梨は、笑って首を振るばかりだった。
「判ってますよ。今後の事を考えたら、河野にはまだ成長してもらわないといけませんから」
「相変わらず、余裕なのか覇気がないのかわからんな」
 肩すかしを食った恰好の宮本主将はへの字口だが、やはり高梨は気にしない。

 主将同士がジャンケンした結果、先攻は大栄高と決まった。
 乾高は左投げの二年生・岩崎をマウンドに送った。
 腕の良いサウスポーが相手のチームにいるというのは、大栄高ナインにとってあまり歓迎できる状況ではない。高梨や根川を相手に打撃練習をしている自分たちもそうだが、相手チームも左投手を苦にしないことが予測できるからだ。
 試合開始。先頭打者の越川は、初球から手を出していった。彼が放った打球はショート正面を突いた。
「惜しい!」
 大栄高ベンチが揃って天を仰ぐほどのいい当たりだった。
「球のキレは断然高梨のほうが上だぜ。なんとかなる」
 ベンチに戻ってきた越川がにっと笑ってベンチを見回し、言った。
 その言葉通り、続く高根が左中間を深々と破る二塁打を放った。
 三番・山口が負けじと右中間に鋭い打球を飛ばす。高根は悠々とホームイン。打球の当たりが良すぎたのと、バックホームするという山口の読みが甘く、二塁でタッチアウトになったが、あっという間の先制である。
「前から、立ち上がりの速攻だけはいいんだよな」
「尻すぼみにならなきゃいいがな」
 過去三年、手痛い逆転負けを何度も経験しているせいか、幸先のいい先制点にも三年生部員はいまひとつ盛り上がりに欠ける。
 その後、宮本主将がセンター前に運んだ。おしくも五番・榎本はサードゴロに倒れたが、これも打球の勢いは悪くなかった。
「たいした事はないな」
 とは榎木の弁。強がっている訳ではなく、本心だろう。
「すくなくとも井町南の平林あたりとは大違いだ」
 と、先ほど惜しい当たりに倒れた越川もそう請け合った。

 またしてもその言葉通り、大栄高打線は二回にも果敢に岩崎を攻め立て、打者一巡の猛攻で四点を挙げてみせた。四回、五回にも一点ずつ加点してスコア六対零と、ほぼ試合を決めた。すくなくともこの時点ではそう思われた。
「コールド勝ちと行きたいなぁ」
 五回裏の守備につく前、グラブを手にベンチから出る宮本主将が独り言のように呟いた。もっとも、その表情は強気な言葉とは裏腹である。試合の流れは水物であり、いつどこで相手側に傾くか判らない。そうなる前に勝負を付けて終わらせてしまいたいのだ。
 主将ともなれば、自分が野球を楽しむだけでは済まないのだろう。主将なんてやるもんじゃないよな、と相変わらず他人事のような顔つきで高梨は思った。

 悪いことに、宮本主将が内心で懸念していたであろう事態が起こった。
 六回裏、ここまで快調に飛ばしていた河野が捕まったのだ。ノーアウトから単打でランナーが出ると、セーフティ気味のバント処理を誤って傷口を広げられた。直後、右中間を破る長打一本で一塁ランナーも長駆してホームに到達していた。
 噂通りの足をつかった攪乱で二点を失う形となった。
「乾高に足攻めがあることは、マネージャが掴んでいたってのに」
 宮本主将が歯がみするが、後の祭りである。
 河野はどうにか六回の攻撃を二失点で凌ぎ、七回の頭から高梨がマウンドに登ることとなった。
 投球練習を始めると、相手ベンチと観客席からため息とも唸りともつかぬ声が波のように重なりあってマウンドにまで響いてきた。
 河野や岩崎とは球速が違うのだ。打席から遠く離れた観客席からですらそう感じるのだ。バッターボックスで構えるバッターの目にはいったいどんな球に見えているのか。大栄高の応援団は必勝を確信して、一気に落ち込みかけていた勢いを取り戻す。
 糸を引くような残像が残る快速球をテンポよく高根のミットに投げ込んで、ウォーミングアップを終える。
 この時、高梨には多少の自信と呼べるものがあった。河野がやれるのなら自分も、という思いだ。
 気負い無く、ワインドアップモーションを起こし、腕を振り抜いた。
 途端に、これまで河野に手こずっていたバッターのスイングから迷いが消え、痛打された。
「なっ」
 高梨の足元を綺麗に抜けるセンター前ヒット。
 その後も、コントロールも悪くなく、球のキレもあるにもかかわらず何故かバットをあわせられてしまう。
 七回は一失点で切り抜けたが、八回も高梨は相手打線に捉えられて、二点を失った後にワンアウト一、二塁と再び追い込まれた。結果として三失点。どうもぴりっとしない内容だった。
「どうした。このレベルでまごつくとは」
 マウンドに集まってきた内野陣が憮然としている。特に宮本主将は厳しい顔つきだった。
「なんか研究されているみたいなんですよ」
 ほとんど打ち損ねがない。どんな球を投げても、まってましたとばかりに叩かれてしまう。こんなはずでは、と気負えば気負うほど相手の術中にはまっているようだった。
 気づけばコールド勝ちどころか、六対五と詰め寄られていた。
 首を傾げながら、高梨は根川にマウンドを譲ることになった。
「お疲れさまでした」
 そういってタオルを差し出す崎辺も顔が真っ青だ。
「根川先輩は勝負運が異様に強いからな。なんとかしてくれるだろう」
 ベンチに戻り、腰を落ち着けた高梨が傍らの市川にそう言い終わらないうちに、乾高のバッターが初球に手を出した。凡ゴロ。たった一球でゲッツーにしとめ、高梨があれほど苦労した難局を切り抜けてしまった。

 最終回、乾高の三番手として八回からマウンドに登った谷口投手を大栄高打線が再び捉え、五点を挙げて勝負を決した。
 勝ちはしたが、高梨一人が喜べない結果に終わった。
「相手チームの先発、あのフォームは高梨のによく似ていたなぁ。それのせいじゃないのか。偶然タイミングが良くあったんだろ」
 市川は特に気にする様子もない。だが高梨の表情は晴れない。
「いくらフォームが似ていても、球速は俺のほうが速いと思ったがなぁ」
 このままでは本当に中継ぎになってしまいそうだった。勝利の喜びに純粋に浸れないことに、高梨はかすかな焦りを感じていた。

(3)


 飽きることもなく太陽が熱心に照りつける専用グラウンド。ネットの向こうには勢い良く入道雲が立ち上っているのだが、どういう訳か頭上にまでさしかかって日光を遮ってくれることはない。
 もはや暑さにも慣れたのか、それとも自棄なのか、部員達がさかんに喉をからして声を張り上げ、気合いをアピールしている。
 このいかにも体育会系な雰囲気を嫌って野球部を敬遠する学生がいない訳ではない。しかし、やはり気分を盛り上げていく事も大事なのだ。強靱な精神力は、勝負を左右する運命の一瞬においてプラスに働く場合もある。
 既に一学期の授業は終わり、夏休みに入っている。もっとも、予選に全力を傾けている野球部員達にとってはあまり実感はない。
 そんな中にあって高梨はボールを握ることもなく、ブルペンの周りを歩き回りながら、投球練習中の崎辺のフォームを熱心に眺めている。
 さきほどから崎辺もその視線に気づいていて、ちらちらと高梨の様子をうかがっているのだが、その度に高梨はあごをしゃくるようにして投球練習を続けるように促すのだった。

「なにを見とれてるのよ」
 そのやりとりを仕事の合間にみていた綾瀬が、高梨の元にやってきてからかった。が、高梨はとくに照れも笑いもしなかった。どちらかといえば不機嫌そうな表情のままだ。綾瀬にしてみればやりにくいだろう。
「フォーム、似てるよな」
 ぼそり、といった調子で高梨が呟いた。言葉足らずだったが、綾瀬には伝わった。高梨と崎辺のフォームがそっくりだということを改めて確認したのだろう。
「そりゃ、高梨君が教えたんだから。なにを今更言ってるのよ」
「うーん。そりゃそうだけどな」
 高梨は崎辺に声をかけて、練習を中断させた。それから、合点がいかないという顔の綾瀬をほったらかしにして、宮本主将の元に向かう。
「シートバッティングをやりたいんですが」
「実戦形式で投げ込むのか? 三回戦が控えてるんだぞ」
 宮本主将はあまり良い顔をしなかった。今行われているシートバッティングでは、一年生の補欠が打撃投手を務めている。
「前みたいに締まりのないピッチングはしたくないですから。それに、俺は投げる側じゃなくて打つ側に回りたいんです」
「どういうことだ?」
「つまりですね。俺と崎辺の投球フォームは似てますよね。だから、崎辺が投げるところを打席でみれば、なにかヒントがつかめるんじゃないかと思うんですよ」
 時間はとりませんから、と高梨は頭を下げる。
「そんなにうまくいくとも思えんが、それで気が済むなら、まあやってみろ」
 宮本主将は練習をいったん中断させて、ブルペンの崎辺を呼んだ。
 その間に、金属バットを手にした高梨はヘルメットをかぶって左打席に入る。
「全力で投げてこいよっ!」
「は、はいっ」
 駆け足でマウンドに登った崎辺が、高梨にそう叱咤され、うわずった声で返事した。
 無理もない。
 これまで、地道に投球練習こそ繰り返してきたが、グラウンドのマウンドに立つのは実は今回が初めてだ。しかも打席には高梨を迎え、練習とはいえ大栄高のレギュラーが守備についている。
 緊張するなというほうが無理だろう。
「なんで、こんなことをするんだ?」
 キャッチャーマスクをかぶる高根が、打席の高梨に問うた。
「自分の投球を打席で見ることは、普通出来ませんからね」
「ま、崎辺にしてみりゃ絶好のチャンスなんだろうが、試合にでれるわけでもないしな……」
 などといいつつ、高根がサインを送る。
 強ばった表情でサインに頷いた崎辺が、ワインドアップモーションで第一球を投じた。
 ど真ん中へのストレート。高梨はバットを動かさずに見送る。
「へえ、まあまあいい球が来るようになったじゃないか」
 捕球した高根が感心した声を出し、片膝をついた姿勢から右腕の力だけで一八メートル余り先の崎辺へと返球する。
 もっとも、いい球といっても実戦で通用する球という訳でもない。山なりでなくまっすぐにミットに収まったという程度でしかない。
 二球目。今度は高梨はバットを振った。金属音。バットの先端でボールの外面を叩いた為、打球はまっしぐらに高梨の背後にある一塁側ベンチに飛び込んだ。
「きゃーっ! ちょっと先輩、狙ってやってますかぁ?」
 たまたまベンチにいあわせた矢沢が驚いた声をあげ、周囲から爆笑を誘った。
「悪い。ボールを待ちきれなかった」
 ヘルメットを少し持ち上げて、高梨は笑いながら矢沢に頭を下げる。
 その後も何球か投げさせたが、遅すぎてタイミングがあわない。
「三メートルほど前に出てくれないか」
「判りました」
 グラウンドの中で唯一盛り上がるマウンドの感触を味わう間もなく、崎辺は前に出た。距離が詰まれば当然、投げてからミットに達するまでの時間が短くなる。
「コントロールは悪くないですから、コーナーに投げわけさせてみて下さい」
 高梨はスタンスを構え直しながら、キャッチャーズボックスの高根に頼む。
「ああ。やってみよう。球種も実戦的に混ぜて行くぞ」
 高梨は崎辺が懸命になって投げる球のほとんどを芯で捉えて、痛烈な当たりを弾き返した。
 しばらくして、右打席に移る。
 今度はバットを振ることなく一球一球、球筋を見極めるように目を凝らしている。
 六十球ほど投げたところで、高梨はストップをかけた。
「ありがとうございました」
そういって頭を下げる崎辺だが、緊張から解放された安堵感もない。練習とは言え、めった打ちに遭わされて平静でいられる筈もなかった。荒い息をつきながら、とぼとぼとフェアグラウンドから出てブルペンへと戻っていく。
「いくらなんでも容赦なし過ぎない? ちょっと崎辺さんが可哀想だったわ」
 崎辺の後ろ姿に綾瀬が表情を曇らせながら、ベンチに戻ってきて汗を拭いている高梨の元にやってくる。
「そうですよ。寿命が三年縮みましたよ」
 ボールを目の前に打ち込まれた矢沢も、こちらはややピントのずれたところで腹を立てて頬を膨らませている。
「確かに崎辺にゃ悪いけど、こっちも必死なんだよ。乾高の連中がなぜ俺の球をああも簡単に打てたのか、どうしても気になってな」
 厳しい表情の高梨は、睨む綾瀬達から目を話さない。
「それで、結論は出た?」
 真剣な口調の高梨を前に、語調をやや落とした綾瀬が訊ねた。
「球離れが見やすい。右でも左でもな」
 投球フォームが素直すぎるのだ、と高梨は自己分析する。その為、球離れのタイミングを相手に読まれやすいのだ。もちろん、相手が左投手を苦にしない事も大きかったが、球速があるだけでは相手を抑えられないのだ。
 この一年の練習の甲斐あって、球の速さに自信を深めていただけに、高梨は思考の切り替えを迫られ、つい難しい顔になってしまうのだ。
「だったら、フォーム改造でもするか」
 三人のやりとりに、市川も首を突っ込んできた。
「リスクが大きいんじゃないですか。今からじゃ、三回戦には間に合わないですよ」
 矢沢の懸念は当然だった。高梨も大きく頷く。
「判ってる。だから、変化球を覚えようと思う。まあ、無い訳じゃないけど、キレがいまいちだからな。正直言うと、崎辺に投げて貰ったの一球目を一塁ベンチに打ち込んだ時に思いついた」
「そうか。それにしても、急造で何とかなるのか」
「今までにも試していた球種だよ。そいつを投げ込んで実戦で安心して使えるようにする」
「なるほど」
 市川にはそれだけで通じたようだった。
 高梨は、これまでなおざりにしてきたチェンジアップに磨きをかけるつもりだった。
 速球に的を絞られてタイミングをあわせられているとしたら、チェンジアップはそれを崩すには最良の手段に違いなかった。
「じゃあ、わたしがそのきっかけを掴む功労者って訳ですね」
 無邪気に微笑む矢沢。気楽なものだと高梨は肩を竦めた。
   
 第十九話に続く

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