(1)
大栄高野球グラウンド。一塁側ブルペン。
見るからにぎこちないフォームで高梨がボールを投げる。
「どうだ?」
「いや、ダメだな。見ててバレバレだよ」
ボールを受ける市川がやれやれと首を振った。
「どうもうまくないなあ」
高梨も市川の真似をするように首を左右に振り、フェンスの網目に丸めて突っ込んであった野球の解説書を引っこ抜いた。付箋を貼ったページを開き、チェンジアップの握りと投げ方にもう一度目を通す。
「今更、こんな解説書片手に変化球の練習ってのもなあ」
グラブが邪魔なので右脇に挟み、右手でページを開きながら左手でボールを握ってみる。思わず高梨はため息をもらしていた。既に何度も読み返した解説書だ。
いままで実戦でこそほとんど使っていないとはいえ、中学時代からチェンジアップの練習はしているし、握りもすでに頭に入っている。それでも頭で考えるようにはいかない。
「仕方ないだろ、結局最後は自分流だとしても、基礎からやり直してるんだから」
市川が珍しく真剣な表情で応じる。
実際、あまり時間をかけていられない。出来れば今日一日でコツを掴んでしまいたいところだ。なにしろ明後日には井町北高との三回戦を控えている。ここで勝てばベスト八進出だ。
高梨の隣では崎辺が石毛を相手に、同じようにチェンジアップの練習をしている。背番号がないどころか、公式試合に出られる見込みもないまま地区予選を迎えたが、くさることなく練習に参加しているのは誉められていい、と高梨は思う。
崎辺が高梨と全く同じフォームでふりかぶって、投げる。
「なんだか、崎辺のほうがうまくなったぞ」
捕球した石毛がにんまりと笑う。高梨もそれを認めざるを得なかった。
「器用なもんだなぁ」
「いえ、そんな……。それに私がチェンジアップを使えても、あまり威力はありませんし」
崎辺が頬を赤らめて照れる。
「まあ、結局は速球を活かすための手でもあるしな」
「しかし、球離れが見やすいフォームの問題はいずれなんとかせんといかんぞ」
市川が口を挟んでくる。
「もちろんだ。大会が終わったら、夏合宿では本格的にフォーム改造に取り組まないといけないな」
大会が終わったら。その言葉に高梨は自分で驚く。出来れば終わらずに予選を勝ち抜ければ良いのだが、現実にその可能性がどれぐらいあるかは客観的に受け止めねばなるまい。
二時間後。高梨はスタメンを相手にシートバッティングを買ってでて、チェンジアップの出来を試してみることにした。
「まだ少しぎこちないかな。よく見れば違いが判るよ」
丁寧な口調ながらそう言って切って捨てたのは樋口だったが、他の部員達からはおおむね「使えるんじゃないか?」という返事が戻ってきた。
「あいつはまあ、天才だからな」
市川が打撃練習に戻った樋口を見ながら、肩をすくめる。
「だけど、樋口が見抜けるということは、強いチームのレギュラークラスになれば、試合中にでもクセがバレるとみたほうがいいな」
「出だしで派手に見せておいて、だんだん使う頻度をおとしていくというのはどうだ? それなら相手が逆に疑心暗鬼になる。まさかチェンジアップを待ち球にはしないだろ」
「高根先輩とも相談しておくか。市川がマスクかぶってるとは限らないもんな」
いいながら、高梨はまたボールを手にチェンジアップのフォームを確認していた。一日二日でマスター出来れば苦労はないが、なにもしないで呆然と試合を迎える訳にもいかないのだ。
「おーい、高梨! ちょっと来い」
志摩監督が直々に高梨を呼びに来た。慌てて駆け寄る。
「はい、なんですか」
「どうだ。明日の試合、いけそうか」
こう聞かれて口ごもるような性格ではない。高梨は間髪入れずにうなずいた。
「もちろんです。先発、行かせてください」
「よし。期待している。河野はここまでよく頑張ってくれたが、同じ手が通用するのもここまでだろう。短いイニングならともかく、試合を作るにはお前の力が必要だ」
「判りましたっ。ありがとうございます」
日頃はどことなく影の薄い監督だったが、この時ばかりはやけに頼もしくみえた。根が単純な高梨は、監督の期待が純粋に嬉しく、深々と頭をさげた。
(2)
二日という時間は瞬く間に過ぎ、大栄高は輪島城址公園内にある輪島城球場での三回戦を迎えた。第一試合のため、早朝から集合してウォーミングアップを行うことになる。なにしろ、輪島城球場は大栄高からはJRの准急行で一時間弱かかる。
この日も良く晴れていた。城址公園だけあってあちこちに小さな森があって、朝からセミがやかましく鳴いている。
周囲を掘に囲まれた公園内の遊歩道を歩いて球場に乗り込むと、既に大栄高の応援団が球場の正面入り口前で打ち合わせをしていた。
女子応援団の小山田美紀が高梨に気づき、駆け寄ってくる。
「私達も一生懸命応援しますから、頑張って下さいね」
「判った。前の試合みたく、不細工なところは見せたくないから」
「私は高梨さんのこと、不細工だなんて思いませんよ?」
「ああ、いや、そりゃまあ……」
このあたりはどうも綾瀬や崎辺と話している時と違って言葉がうまくかみ合ってくれない。
「あの、高梨さん」
気づけば、真剣な面もちの小山田が高梨の顔をじっと見つめている。
「ん?」
「わたし、まだ諦めてませんから」
樋口を除く野球部全員が歯がみして悔しがるような愛らしい笑みを残し、小山田は応援団の元に駆け去っていった。
「参ったね、どうも……」
高梨としては、そんな言葉を漏らす意外になにも出来なかった。
三回戦の相手である井町北高は、打撃主体のチームである。打撃練習でも強烈な当たりを景気良く飛ばしている。
「ここで勝てばベスト八か。あとちょっとだよな」
「ここからが大変なんですけどね」
大栄高は先にウォーミングアップを終えている。一塁側ベンチ側からグラウンド上で打撃練習を行っている井町北高の選手達を眺め渡す宮本主将は厳しい顔だ。
高梨は登板を控え、市川を相手にキャッチボールを繰り返す。
「チームとしての実力はウチと互角だと思う。ただ、バッティングの総合力では向こうが上かもね。高梨君のピッチングの出来が勝敗の分かれ目ってところ。頑張ってね」
さすがに試合前だけあって、綾瀬の表情も真剣そのものだった。
急に、耳慣れた音が聞こえてきた。大栄高の吹奏楽部が男女応援団と共に音あわせの練習を行い始めたのだ。
「なあ、市川」
キャッチボールを終え、近寄ってきた市川に高梨が珍しく深刻そうな表情で声をかける。
「どうしたよ、暗い声出して。なんか問題発生か?」
高梨の目は大栄高応援団に向けられていたが、どこかそれよりも遠くをみるような目になっていた。そして、ぽつりと一言。
「女って、怖えよな……」
「なんだそりゃ」
力の抜ける高梨の言葉に、市川の膝がカクンと曲がった。
(3)
初回は両チーム共に三者凡退で始まった。
井町北高の先発・嶋野はそれほど球が速い訳でもなく、恐ろしい切れ味の変化球がある訳でもない。しかし全体的にまとまりのよいピッチングをする。
一方、久々の先発マウンドとなった高梨の調子も良い。やや球が真ん中に集まり気味ではあるが、全体的に低めに散らすコントロールがついている。ストレートは伸び、得意のスライダーもよくキレている。
二回表。井町北高の四番打者・梅原が右打席に入ると、グラウンドの空気がぴしりと引き締まった。高梨もマウンド上で背筋を伸ばす。
公式戦通算で四十二本のホームランを放っている強打者で、井町北高が打撃に優れると称されるのは、この梅原の存在が大きい。
高梨はマスクをかぶる高根の配球に従って、二球続けてストレートをインコースぎりぎり一杯にに投じた。
「強気だなぁ。ホームランコースは外れてるとはいえ」
高梨は高根を信じてそんな言葉を口にしたが、ひやりとしたのは同じだ。
「どうも落ちつかねえな」
しかし、意外な配球に梅原も調子を狂わされているらしい。三球目は外角へのスライダー。これはわずかにストライクゾーンを外れた。
四球目のサインは、チェンジアップだった。この試合、チェンジアップの指示が出たのは初めてだ。
「今日の高根先輩はやけに攻めの配球だよな」
自分でも未知数な面があるチェンジアップをいきなり四番打者に使う。恐れはない。むしろ笑ってしまうような状況だと高梨は思う。
ふわりと投じられたチェンジアップに梅原は完全にタイミングを外された。バットが空を切る。
「よっしゃ」
思わずマウンド上で小さくガッツポーズ。グラウンドに散る大栄高の選手達も一気に勢いづき、声を張り上げてくる。
高梨はその後、チェンジアップを織り交ぜた配球で五番、六番を打ち取って三者凡退で終えた。
「凄かったです、高梨先輩……」
ベンチに戻ってきた高梨にタオルを差し出す崎辺の目が潤んでいる。
グラブを置いた高梨は汗を拭きながら渋い顔だ。
「ああ。いちおうチェンジアップの練習の成果が出てよかった。だけど、嫌な空振りの仕方だったな」
高梨は、梅原を三振に討ち取ったシーンを脳裏に蘇らせていた。三振は三振だが、どうにも後味がよくない。
「え? どうしてですか」
ルールはよく勉強し、練習も熱心に行っているが、実戦経験のない崎辺にはピンと来ないことがいろいろとある。それを一つ一つ教えるのを、高梨は意外と苦にしていない。飲み込みの速い崎辺にあれこれと説明するのは自分の知識を確認する意味でも有意義なのだ。
「武道でいうところの残身っていうのかな。予期しないボールにバットが出てしまった場合は、バットを振り抜いた後の姿勢が崩れるんだ。チェンジアップで崩した割にはそれがなかったからな」
球筋が予測の範囲内にあったってことだ、と高梨は顔をしかめた。一方の崎辺は試合の流れよりも、高梨の眼力に感心したように何度も頷いていた。
二回裏、大栄高の四番・宮本がサードの頭上を越えるヒットを放った。やはりチーム一の打撃力を持つのは宮本主将だった。今大会でもよく当たりが出ている。
五番・榎本にはすかさず送りバントのサインが出された。が、榎本は二球続けてバントを失敗する。
「なにやってんだ」
さすがに志摩監督も渋面をつくる。ちょっとしたことで勢いが相手側に流れてしまうのが高校野球の恐ろしさである。些細なミスもゆるがせにすべきではないとでも言いたげだった。
ところが、強打に切りかえた榎本は、ショートとレフトの間にポテンヒットを放った。バントシフトを敷いていた井町北の守備陣形が裏目に出た恰好になった。
ノーアウト一、二塁。思いがけない形で先制のチャンスが広がった。
ここで六番・石原は初球攻撃に出た。ベースカバーの関係で広めに開いていた一、二塁間を真っ二つに破った。さらにセンターの守備がまずく、もたつく間に宮本、榎本が相次いで生還。石原も二塁に達した。
続いて今大会四割近い打率を記録している調子のいい七番・小清水。しかしこの打席では粘った末にボテボテのファーストゴロ。二塁の石原が三塁へと進塁したのがせめてもの救いだった。
八番・樋口に打順が回る。
期待されながら勝負弱い面をいつになったら吹っ切れるのか、高梨はもどかしい。
「頑張れよ。犠牲フライでもいいんだからな」
思わず、ベンチを出た高梨はそう声を掛ける。
ネクストバッターズサークルを出た樋口は無言で振り返り、小さく頷いた。心持ち顔が青い。
「なんでなんだろうな。アイツほどの才能がありゃ、堂々としてて当然なのに」
バットケースから自分のバットを引き抜き、ネクストバッターズサークルへと向かう高梨がそう呟く。
「誰もが高梨君みたいに図太くはないわよ」
すかさず綾瀬の突っ込みが入った。スコアブックを熱心につけながら、しっかりと高梨の独り言にも耳を傾けているのだ。
樋口は、カウント1−1から、レフトとセンターの間に打球を飛ばした。インコースに差し込まれたストレートをバットの根っこで打ち返した為、詰まり気味の当たりだった。しかしそれが幸いして外野手二人の間に落ちる。
それを見て石原が生還。三点目を挙げた。
一気にたたみかけるチャンスだったが、九番・高梨は初球の難しい外角低めに手を出してしまった。
「しまった……」
打球は絵に描いたようなゲッツーコースに飛び、大栄高の攻撃は終わってしまった。
「ま、こういうこともあるか」
どことなく憮然とした調子の宮本主将が、自ら高梨のグラブを持ってベンチを飛び出してきた。ベンチに戻りかけていた高梨にグラブを手渡し、守備位置へと向かっていく。
高梨は気持ちを切り替え、ツーアウトから連打を浴びてひやりとさせられたが、どうにか三回表も無失点で切り抜ける。
「相手は打撃のチームだ。一度火がつくとやっかいだぞ。油断するな」
「はい。すみませんでした」
宮本主将がベンチに戻ってくるなり、皆の前で高梨に注意を与えてくる。
三年生にとってはこれが最後の試合になるかも知れないのだ。それをぶち壊しにするような真似はしたくないな、と高梨も思う。
「判っちゃいるけど、やりにくいよな」
「高梨先輩には皆さん期待してますから」
「怒られ役を期待されてもうれしくないぞ」
「ふふっ、やっぱりそうこないといけませんよ、先輩」
崎辺が忍び笑いを漏らす。それを見て高梨は意外な思いにとらわれた。
考えてみれば、こうやって崎辺の笑顔をみた記憶がほとんどないのだ。いつも硬い表情か、謝っている姿しか思い出せない。
ようやっと崎辺も気持ちがほぐれて来たんだろうか、笑うと結構可愛い顔だな、などと高梨はつい場違いなことを考えた。
三回裏。大栄高の攻撃はトップの越川から。
ここで井町北高ベンチがはやくも動いた。嶋野に代わって背番号十二・左投げの宮田がマウンドにのぼる。
「やっぱりピッチャーに信頼があんまりないってことでしょうか?」と、崎辺。
「かもな」
「ごめん。今出てきたあのピッチャーのデータは全く無いの」
崎辺と高梨の会話を聞きつけ、綾瀬がすまなさそうな顔を向けてくる。
が、宮田に対して越川は粘りに粘って貴重な情報を後続に伝えた。もっとも、越川は凡退したものの、特筆するような球ではない事が判れば充分だった。嶋野に比べてぬきんでたものがあるようには見えない。
「ウチのチームは右打者ばっかりだからな。左投げは苦にならねぇんだ。高梨と根川先輩相手に打ち込んでる訳だし」
越川は戻ってきてそううそぶいた。事実、後続はさっそくヒットを放つ。得点にこそつながらなかったが攻略は可能に思われた。
四回表。井町北高は三番からの好打順。踏ん張りどころである。
高梨は三番打者をショートゴロに打ち取ったところで、再び梅原と相対する。強打者の風格漂う梅原が打席に向かうだけで井町北高の応援団がヒートアップするのが判る。
高根は相変わらずストレート主体の配球で攻めるつもりらしい。高梨がサイン通りに投じた内角を衝くストレートを梅原が打った。強烈な打球がサードに飛んだ。
「うわっ」
三塁線を破られたか、と誰もが覚悟したが、小柄な山口が横っ飛びにジャンプしてグラブの先端にボールを引っかけていた。
わあっと大栄側ベンチとスタンドから歓声があがる。
「プロばりだ!」
高梨もうなるしかない。高梨が入部した当時、マネージャ兼任だった山口がこれほどの選手に成長するとは、誰が想像しただろう。当時の正岡主将も今のプレイを見ていれば目を丸くしたに違いない。
このファインプレーにも助けられ、高梨は強打を誇る井町北高のクリンアップトリオを三者凡退におさえた。
四回裏。小清水と樋口がヒットで出塁し、ワンアウト一、二塁としたが、また高梨がボテボテのショートゴロを打ってしまい、ゲッツーでチャンスを潰す。さすがに二打席連続ゲッツーで、高梨もバツが悪い。
「今回はせっかくピッチングの調子がいいのに。打撃がこれじゃあな……」
「ほら、くよくよしないの。高梨君が落ち込んでいたら、みんな心配でしょ」
綾瀬に発破をかけられる始末だ。
次に試合が動いたのは、またも大栄高の攻撃時だった。相手の力量を見て取った大栄高打線には余裕があった。打順は一巡して一番・越川から。再び粘った末にピッチャーゴロに倒れたが、続く高根が初球を痛烈に叩いた。
打球は風にも乗って意外と伸びた。そしてレフトのポールぎりぎりに飛び込むホームランとなった。再び大栄高応援団が陣取るスタンドから大歓声。
日頃、どちらかといえば寡黙で目立たない高根が躍り上がってダイヤモンドを一周する。公式戦ではおそらく初ホームランである筈だった。
「今日は高根先輩、やたら張り切ってるよな」
負けていられない、と高梨は気持ちを新たにする。
気合いを入れ直したのは高梨だけではなく、大栄高打線は完全に勢いにのっていた。
三番・山口こそ惜しい当たりのセンターライナーに倒れたが、四番・宮本が一塁線を破って今日の試合三打数三安打となるヒットを放つと、榎本も四球を選んで出塁。この二人を石原が左中間を破る二塁打でホームに返した。
これでスコア六対零。あと一点奪えばコールド勝ちである。
「相手打線につけいる隙を与えない前に試合を終わらせてやりたいな」
前の試合であやうくピッチングフォームから球種を読まれて試合を潰しかけただけに、高梨としては油断せずに押し切ってしまいたい。
七回表、井町北高の攻撃。ワンアウトランナー無しの状況で、三度梅谷に打順が回る。さすがに、よもやの一方的な展開になってしまい、梅谷の表情には鬼気迫るものがある。
ここまでの二打席は打ち取っているが、高梨にとってもどうにも不気味な存在であることに変わりはない。
「ここで、抑えられるかどうかが今日の試合の勝敗を決める……」
たとえ六点差あっても、まだ三イニング残っている。打撃に自信を持っているチームだけに、一度集中打が出始めればどう転ぶか判らないのだ。
高根は相変わらずの強気の配球だった。逃げることで逆に相手に食らいつかれると考えているのかも知れない。ホームランを飛ばして勢いづいているのだろう。
だが、そうそう強気一辺倒で逃げ切れるものでもなかった。
三球目。高梨のストレートはやや甘く入った。それを梅谷が見逃さず、鋭く強振した。
ぞっとするような金属質の打球音が響きわたり、ボールが高々と打ち上げられた。白い球が残像を曳くような勢いで、まっしぐらに青空高く駆け上っていく。
「やられたかっ!」
高梨は打球を振り仰ぎ、思わずそう声を出してしまったほどだ。
だが、センターの樋口はあきらめずに背走、左中間の一番深いところのフェンスに背中をつけ、落ちてくる打球にあわせてジャンプ一番、このボールを掴み取った。
「すげぇ!」
再び高梨は舌を巻く。
風がレフト側からライト側へと吹いている事と、飛んだ位置、そしてわずかに上がりすぎた弾道が梅原にとって不運だった。単純な飛距離でいえば、さきほどの高根の当たりよりも間違いなく飛んでいるのだから。
結局、このファインプレーによって勝敗の行方は定まったといえる。気落ちしたか、井町北高の五番打者は力無い当たりのファーストゴロに倒れると、その裏、大栄高が宮本の四本目のヒットを含む三連打で一点を加えた時点でコールドゲームとなったのである。
終わってみれば高梨は強打で鳴る井町北高打線を、無四球三安打無失点と完璧に封じ込めていた。
「チェンジアップの練習の甲斐があったなあ」
整列を終え、ベンチに引き揚げてきた高梨に、市川が我が事のように喜びながら声をかけてくる。
「これで一本でもヒットを打ってりゃ気持ちも良かったんだけどな」
「もう。高望みしないの。これでベスト八よ。胸をはって頂戴」
「ですけど、まだまだ上を目指せる訳ですから。頼もしいですよね」
綾瀬の苦言に、すかさず崎辺がフォローをいれてくる。
「せんぱぁい、これからどうしますかぁ?」
内野席の最前列通路から、スタンドでの応援にまわっていた矢沢がフェンスにしがみつきながら訊ねてくる。
「俺は少し後の試合を見てから帰りたいけど、主将、どうするんですか?」
高梨は市川とクールダウンのキャッチボールをはじめながら、後かたづけを仕切っている宮本に問いをふった。
「まあ、今日は自由行動にしよう。見ておきたい奴はいったんスタンドに集合だ」
宮本主将の言葉に高梨は安堵の表情をみせる。
試合を見たいのは本当だが、応援団の小山田と一緒に帰るのが怖いとはもちろん口には出来ない。
(4)
高梨達が観戦する中、第二試合では鬼浜高が山津中央高を十一対三とやはりコールド勝ちで撃破した。
この鬼浜高が大栄高にとって準々決勝の相手となる。
鬼浜高が誇る海ヘビ打線は今年も健在である。昨秋以来の因縁で、練習試合などの交流もある。対戦成績では大栄高に分があるとはいえ、勢いにのっているのはどちらも同じだ。
「鬼浜にはもともと練習試合で河野の存在もバレてるし、ここまでの戦績をみていたら当然、河野対策もしてきていることだろう。もう河野の先発策はナシだろう」
第三試合は輪島城東が湯川商工を横綱相撲で倒して勝ち名乗りをあげた。井町南高が既に姿を消している今、おそらく輪島城東は十中八九、優勝を手にした気でいる筈だ。第四試合の勝者・原短大付との対戦となるが、格が違いすぎた。
別会場である市営球場で行われている四試合の結果はまだ判らないが、この試合の結果によってベスト八が出そろうことになる。
第四試合の勝敗を見届けたところで高梨達居残り組もJRで帰途につき、大栄高最寄り駅で解散となる。そのまま家に帰ってしまっても良かったのだが、高梨は綾瀬と駅を出た。宮本主将や市川他、数名も行動を同じくしている。
「鬼浜高のデータあるかな」
高梨が聞くと、綾瀬は大きく頷いた。
「もちろん。いつかそういう事もあるとおもって用意してあるから」
嬉しそうな声を出して、綾瀬は自ら先頭切って学校へと戻る。そして部室に入ると、綾瀬が管理している他、普段は誰もほとんど手をつけないスチール製の書架から、背表紙に『鬼浜高』と書かれたファイルを引っぱり出してきた。
「エースは坂田くん。去年の秋からおなじみの相手よね」
部室の机にファイルを広げ、部員達は額を突き合わせて書かれた内容を読む。オーソドックスな右オーバースローの坂田とは、昨秋以来何度も対戦している。
「そうだな。カーブがよく落ちるんだ。あとは四番の……、へえ、この間の練習試合のぶんは、きちんと配球表まで残してある。相変わらず綾瀬はマメだよなぁ」
高梨が感心したように声をあげると、肩を並べていた綾瀬が素速くフォローをいれる。
「あ、それ書いたのって樫尾さんよ。鬼浜の海ヘビ打線はやっぱり脅威だから、少しでも攻略法の参考になればと思ってね」
「あんまり詳しくなかったのに、樫尾さんも頑張ってるんだな」
鬼浜打線のデータはとりあえず投手である高梨に渡された。他の部員達は坂田投手の配球データから傾向を読みとろうと鳩首する。
「そうよ。だから高梨君もたまにはきちんと資料をみて役立ててよね」
「だから今こうやって見てるんじゃないか。ウチほどデータ収集に熱心なところ、他にないだろうな」
ファイルを抱えて高梨が部員の輪から抜け出すと、綾瀬もついてきた。
「そうだ。そのファイル、河野君にもちゃんと見せてあげてよ」
「見たきゃ、勝手に見るだろ」
「ちょっと高梨さん。そういう言い方はないんじゃないんですか?」
綾瀬がむっとした顔になる。綾瀬のクセで、機嫌が悪くなるほど丁寧語になる。
「俺がなんか言ったって、結局アイツに見る気がなけりゃ、頭に入らないさ。マウンドの上でこれを開いて確認する訳にもいかないしな」
高梨がファイルの表紙をぽんぽんと叩く。綾瀬は眉間に皺を刻んだままため息をつく。
「副主将の高梨君が、夏が終わったら新しい主将になるんでしょ。そうなったら、主将として河野君にも指示を出す必要があるんじゃない?」
「まだ先のことは考えたくないなぁ」
「それじゃあ今のうちに決定しとくぞ。高梨、お前、次の主将な」
まじめ腐った表情で顔を上げた宮本が断言する。
「やっぱり俺ですか?」
「他にいないだろう」
宮本がいうと、集まっていた部員達も一様にうなずいていた。
「参りましたね。正式決定は地区予選が終わってからにして欲しかったんですが」
「気にするな。勝ち続ける限りは、まだ俺が主将だからな」
冗談ともつかぬ強気の言葉に笑いがもれる。
ベスト八進出。自分達は確かに強くなっている。その実感が静かな余裕となって表れていた。鬼浜高は侮れる相手ではないが、戦績は悪くない。データもある。
(ここまで来たら、負けたくないな)
素直に高梨はそう思った。
「素振りでもして帰るかな……」
ぼそっと呟く。
「なに? それだったらトスバッティングぐらいなら手伝うけど」
「そうか。悪いなぁ、頼むよ。どうもバッティングがこの調子じゃ気が済まない。チェンジアップにも目処が付いたし、鬼浜戦の課題はバッティングということで」
「それはいいけど、あんまり入れ込みすぎないでね。高梨君じゃないみたいだから」
そういって綾瀬は、けたけたと笑った。
第二十話に続く
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