(1)
鬼浜高戦の行われる市営球場に向かう電車の中。駅の売店で買ったスポーツ新聞を広げて市川がにやついている。
「ちゃんと昨日の結果も出てるぜ」
「そりゃ載るだろ」
なんだかんだ言いつつ、市川の周りに野球部員が集まって新聞をのぞき込む。
自分の好投を伝える記事をみて、高梨もそう悪い気はしない。
今日の試合についても展望が記されている。高梨がどこまで鬼浜高の誇るウミヘビ打線を抑えられるか、そして鬼浜高のエース・坂田を大栄高打線が捉えることが出来るかが勝負の鍵と書かれていた。
打線の破壊力では大栄高が一段劣るという意味でもあるのだろう。
もっとも、秋季大会で一蹴して以来、大栄高に苦手意識はない。高梨も、ウミヘビ打線は手強さこそ感じているが、手に負えないとも思わない。
「結局は坂田の出来次第だろうな。俺達が先に点を取れれば、高梨を助けてやれるんだが……」
宮本主将の言葉が、皆の思いを代弁していた。
この日の準々決勝第一試合に組まれた大栄高対鬼浜高戦は、ジャンケンの結果大栄高が高校をとった。先発投手としてメンバー表に名を連ねたのはエース・坂田ではなく、背番号10をつけた二年生・奥村だった。
練習試合ではよく第二試合で投げていた姿をみているから、全く知らない相手ではないが、なんとなく肩すかしを喰わされたような空気がベンチに流れた。
「データあるか?」
とまどったような声で、大栄高の一番打者・越川が綾瀬に問うた。真っ先に相対することになるだけに、気になるのも当然だろう。
当然、大栄高の部員達はエースである坂田への対策を中心に考えてきたが、奥村も綾瀬のファイルに名前があり、全くのノーマークではない。ただ、もっぱら練習試合の第一試合に出ていたレギュラーメンバーには、あまり奥村と直接対戦した経験がない。
「たぶん、大丈夫だと思います。割とよく打ってるし、やっぱり一段レベルが落ちる感じです」
鬼浜高のファイルをぱらぱらとめくりながら、綾瀬がやや自信なさげな返事をする。
「坂田はどうしたんだろうな。まさか、こっちを舐めてかかってるとはおもえないが」
宮本主将も相手がエースを出してこなかったことで首をひねっている。昨年の秋季大会で、格下と見て手痛い目にあった事を彼らが忘れているはずがない。
ここまで連投となっているため、ここで自分たちと同じように温存する作戦だろうか、と高梨も考える。しかしあれは、河野が他校にデータのないアンダースローであることが大前提だった。相手に手の内を知られていては効果はない。
「故障でもしているのかもな」
根川が呟いた。
ありえない話ではない。井町南も同じようにエースを欠いて大栄高に不覚をとっている。去年の大栄高でも正岡は故障を抱え、満足なピッチングが出来なかった。
「言うまでもないが、情け無用だぞ。こっちの打力が侮られているのは確かなんだからな」
宮本主将が、戦意をそがれたような顔を見合わせている部員達を叱咤した。
一回表。鬼浜高の攻撃。
高梨は先発投手である二番・奥村にセンター前ヒットを許したものの、左打者の三番・奥田に外角に逃げるスライダーを注文通り引っかけさせてショートゴロでダブルプレーに打ち取る。
その裏、大栄高の攻撃は、先頭打者の越川がレフト前へと運ぶ。手探りの状態でもきっちりとバットをあわせる様に、一番打者としての成長の跡が伺えた。
続く高根は、前の試合ではホームランを打っているが、ここは志摩監督のサインに従ってチームプレイに徹し、バントエンドラン気味の送りバントで越川を二塁に進める。とにかく一点でもいいから先取点が欲しいのだ。
が、三番・山口は初球の難しい球に手を出してしまった。ショートの頭を越えそうだったが、鬼浜高も打撃だけで勝ちあがっているチームではない。ショート・大井がジャンプ一番、これを好補。
大栄高ベンチは四番・宮本に期待を託す。
今大会、好調を維持している宮本は見事にレフト前へ運んだ。しかし当たりがある意味良すぎた。速い打球がレフトの正面でワンバウンドしたため、越川は三塁を回りかけたところで本塁突入を断念。白い軌跡を引きながらノーバウンドでレフトからの返球がキャッチャーに達した光景に、両チームともため息をもらす。
五番・石原は気負いすぎてバットを振り回すも打球が前に飛ばず、最後は高めの吊り球に手を出して敢えなく三振。一・三塁のチャンスを潰す。
「まあ、先は長い。この調子だと俺達のほうが先にうち崩すさ」
自信ありげな宮本主将の慰めに送られて高梨はマウンドへ向かう。
四番・清水をレフトフライ、五番・小笠原をサードゴロ。先ほどのファインプレイで勢い込む六番・大井をスライダーで三振に切って取り、試合の流れを相手に傾けさせない。
二回裏。大栄高打線は六番・石原こそ凡退したが、七番・小清水から続く下位打線が連打を浴びせて奥村を完全に捉えた。
「行けるぞ」
「まるで棒球だ。なっちゃいねえ」
樋口に続き、高梨もタイムリーヒットを放って上位打線へとつなげる。
大栄高打線の志気は一気に天を衝くほどだ。奥村とて鬼浜高の二番手となれば、それなりの巧者である。しかし、初戦で井町南高を下して勢いに乗り、一戦ごとに力を付けてきた彼らを押さえ込むには、奥村は全くの力不足だった。
奥村の投げる球は球威が見る間に落ち、いまや彼は為す術の無くマウンド上で蒼白になって立ちつくす。
まさかここまで早く崩れるとは予想していなかったのか、鬼浜高のベンチではリリーフの準備が整わずに右往左往している。パニック状態の奥村も、時間稼ぎをすることすら忘れ去っているようだ。
逆に、なんとか早くこのイニングを終わらせたいと投げ急いでいる。日々の練習で身につけた投球フォームさえ崩れ、全く威力のない球を投げ込んでくる。これを大栄高打線は次々と面白いように打ち返す。
長短打をからめ、気づいてみれば打者一巡してなおも打ち続け、一イニング十一点という今までになかったビッグイニングとなった。
「シートバッティングでもここまで連打は続かないぞ」
二回が終わった時点ではやくも二打数二安打と気を吐く宮本は満足げだった。
「ちょっとかわいそうな気もしますね」
「馬鹿をいうな。一歩間違えばやられていたのはこっちだ」
高梨はほぼ勝敗を決する援護をもらい、以降の回は余裕を持って投げることが出来た。集中力がきれかかっているとはいえウミヘビ打線は決してあきらめることなく立ち向かってきた。逆に高梨のほうが気圧されるほどだった。
それでも、いまや県下のどこに出しても恥ずかしくない堅守を誇る内野が難しいあたりを次々に好捕し、もり立ててくれる。高梨は二点を失ったものの六回を完投した。
試合は六回裏、三回からマウンドに登って大栄高打線を抑えていた鬼浜高のエース・坂田を下位打線が攻め立て、高梨がライト前にタイムリーヒットを放った時点で十点差がつき、六回コールドゲームとなった。
(2)
帰りの電車では例によって、応援団と部員達が一緒くたになって乗り込んでいる。快進撃を続けてはいても、野球部員達のためにバスを貸し切ってくれたりはしないらしい。むしろそういう予算はOB会などからの寄付でまかなうのが普通なのだろう。
たいした歴史も持たない大栄高野球部OB会では、あまり最初から期待は出来ない。電車で揺られて帰るのも慣れてしまった。
マネージャ三人は座る席を確保しているが、部員達はトレーニングを兼ねて通路に立っている。頭数がそれなりにあるので、他の客の迷惑にならないようにするのもなかなか大変だ。
「ウチの野球部って強かったんですねぇ。これでベスト4ですもんね」
矢沢が、いまさらのような事を言い出した。
「お前なあ。春からこっち、どこ見てたんだよ」
高梨と並んで通路に立つ市川が顔をしかめて応じる。
「だって、中学時代は勝ったり負けたりで、こんな勝ってばかりの先輩を見るのって初めてなんですよ」
「中学の時と一緒にするなよ。なあ高梨」
「ん? まあな。やっぱり目標が明確になると、真剣にもなるよ」
高梨は、最初はなにがなんでも甲子園というつもりで入部した訳ではなかった。しかし、周囲の真剣さに引っ張られるように、自然と甲子園を念頭に置いて日々の練習にも力が入るようになっていた。
入部当初は頼りなく見えた先輩達が、一戦ごとに力を付けていくのも発憤材料になっていた。
「あの……。高梨先輩の中学時代って、どんなだったの?」
おずおずと崎辺が矢沢に聞く。マネージャでなく選手として入部したいと宮本主将を困らせた崎辺も、普段は万事引っ込み思案で、控えめだ。物怖じしない矢沢のほうがよほど選手向きの性格におもえるから不思議なものだ。
「えっとね――」
「こらこら。本人の前でそういう話をするな」
けっこういい加減にやってきた中学時代のことは、今になってみると高梨には弱みに近い。崎辺相手に示しがつかなくなると後々やりにくいので、高梨はたまりかねて口を挟んだ。
「いいじゃない。わたしも興味あるな、高梨君の中学時代の話」
綾瀬までが目を輝かせて話に加わってくる。
「やめろって。せっかくサヨナラ勝ちの決勝打も打って、気分良く帰れるってのに」
「コールド勝ちの条件になる得点をあげるのも、やっぱりサヨナラって言うんですか」
真剣な顔で崎辺に問われると、高梨も思わず返事に詰まる。
「そういやこの表現じゃおかしいのか? ま、どっちでもいいけど」
「今日の課題はバッティングだって言ってたものね。昨日の特訓の成果が出て良かったじゃないの」
綾瀬がにこにことしている。
「なんだ、昨日の特訓って」
すかさず、市川が話に首を突っ込んでくる。
「特訓ってほどじゃない。昨日、試合を見たあとで学校に戻ってきて、鬼浜のデータを調べなおしたあとでちょっとトスバッティングをやったんだよ」
そんなに急に効果が現れるのならば苦労はしないのだ。
「へえ。オレもスタメンで使ってくれるんならやりたいところだな。にしてもいよいよベスト4に進出だぞ。もうあとちょっとじゃないか」
市川がうれしさを抑えきれないと言わんばかりにばしばしと高梨の肩を叩く。
あと二つ勝てば甲子園。だが、次に大栄高に立ちふさがるのは、押しも押されもせぬ強豪、輪島城東である。
大栄高と反対側のブロックから勝ち上がってきている二校より、一段上のクラスの難敵である。
「事実上の決勝戦みたいなものだ」
という思いはあながち誤りでもないかも知れない。
高梨は鬼浜高のエース・坂田の事を思った。三回から登板した坂田のピッチングは、やはり奥村より一段上のレベルにあった。大量失点でほぼ勝敗を喫した状況にあって、気持ちを切らずに投げ込んでくる様は悲壮なものだった。
やはり、ただ温存しただけでは無かったのかもしれない。どこか故障を抱えていたのだとしたら、どれだけ無念な敗戦であることか。
勝ち進むということは、それだけ他の高校を蹴落としていく事に他ならないのだ。次の相手は輪島城東。蹴落とされる率はこちらのほうが遙かに高い。
どうやったって、ここまで来てしまったら、勝つ以外に悔いの残らない試合なんて出来そうもないな、苦戦必至の一戦を明日に控え、高梨はそんなことを考えていた。
(3)
準決勝、当日。
この日は、朝から空模様が怪しかった。
「出来れば、一日ぐらい休ませて欲しいもんだけどな」
グラウンドでウォーミングアップをしながら、高梨は空を仰いだ。
これくらいで泣き言をいうのは情けないのかもしれないが、三連投となるだけに、つい愚痴をこぼしてしまう。
今にも雨が降り出しそうな天気だが、降水確率は30%。実際に雨に降られる可能性は低い。日差しに照りつけられない分ありがたいところだが、風が無く、蒸し暑い。
強豪チームとの体格差はいまさら驚くまでもない。
大栄高の選手達が力を付けてきたとはいえ、身体までが大きくなる筈もない。しかし、ここまで勝ち上がってきたという点では同じこと。それも、自分たちは輪島城東のライバルである井町南を下しているのだ。挑戦者としての資格は充分にあるはずだった。
「デカけりゃいいってもんじゃないぜ」
そううそぶく部員すらいる。少なくとも、雰囲気に飲まれてはいない。
全く臆することなく牙をむいてくる大栄高に、輪島城東の先発、左腕・平野のほうが気圧されたらしい。
初回、立ち上がり直後の調子がでないところを捉え、幸先良く連打で二点を奪った。
思いがけないあっさりとした先制に、フル編成で乗り込んできている大栄高応援団の盛り上がりも怖いほどだ。
「輪島城東のピッチャーでも、大舞台になるとあがるのか」
格下とみて余裕を見せていた風情の輪島城東の選手達の顔つきも、この二点でさすがに真剣なものに変わる。
「もうちょっと油断しておいてほしかったがな」
いきなり円陣を組んで気合いを入れなおす輪島城東の選手達の蛮声を聞きながら、宮本主将が苦笑いを浮かべる。しかしそれは無理な相談だろう。実力差からいえば、そんな駆け引きの通じる相手ではないのだ。
高梨は一回表こそ三者凡退に抑えたが、二回、四番・青地に火の出るような打球を左中間に運ばれる。
「さすがにすさまじいぞ」
暑さが原因とは言い切れない汗が高梨の額から噴き出る。
五番にも、痛烈な打球を運ばれた。
急遽球種に取り入れたチェンジアップも、球離れのタイミングが見やすいというフォームの欠点そのものを改善するものではない。外角低めに決まった筈の快速球を豪快にはじき飛ばされるのでは、どうにも手がつけられない。
一イニングで投じた数球だけで、チェンジアップのクセを見抜かれたらしく、まったく通じなくなった。バレるチェンジアップはただのスローボールに過ぎない。ねらい打ちされてたちまち二点を失い、同点に追いつかれる。
「こりゃ、チェンジアップはダメだ」
マウンドに足を運んだ高根が悔しげに首を振った。これで配球の組み立てがかなり苦しくなり、その後、三回にも一点、五回に一点と追加点を奪われた。いや、むしろ四失点で済んでいるのはマシなほうだろう。守備練習に時間を割いてきた大栄高の守備陣は一年前とは見違えるほどの域に達していた。
宮本は内野の陣形を指示するだけでなく遊撃手として球際の強さを遺憾なく発揮し、再三、抜けそうなあたりを飛びついて止めていた。
センター・樋口もセンター前に落ちた打球を矢のような送球で一塁に送り、形だけ二塁を伺うそぶりをみせていた打者走者を刺殺して高梨を援護する。
圧巻だったのはライトの越川のプレイで、ライト前ヒットになる筈の打球を強引な突進で捕球してその勢いを助走に変えて一塁に投げ、輪島城東からライトゴロを奪って打者の顔色を失わせた。
だが守備では気を吐くものの、輪島城東のエース・平野も尻上がりに調子をあげ、こちらも強力打線同様、手のつけられない域に達していく。球威は回を追うごとに増していき、シュートのキレは空恐ろしいほどだ。打線は二回以降沈黙を余儀なくされた。単打は時折でるのだが、後続が続かない。
七回裏、高梨はマウンドを根川に譲った。六回を投げて四失点。二点差が重くのしかかる。
代わった回に、根川はまたも四番・青地が起点となる輪島城東の集中打を浴び、致命的ともいえる三点を失った。
鬼浜高相手に一イニング十一点の猛攻をみせた大栄高打線にも、この五点差を跳ね返す力は残されていなかった。
格の違いを嫌と言うほど思い知らされる結果である。
「それなりに練習もしてきた。相手の研究だってやってきた。それでもダメなのか、俺達の力では……」
高梨は為す術もなく敗戦を迎えようとしている現実が、どうしても納得できなかった。
「これで最後だな」
宮本は、淡々と打席に向かっていった。
高校生活最後となる一振りにすべてを込めようとする様に、崎辺がこらえきれずに嗚咽を漏らした。悔しい、ただ悔しい。ユニフォームを着てベンチ入りすることさえ出来ない彼女の心境はいかばかりか。
いや、スタンドでは、ベンチ入り出来なかった三年生がこの瞬間を迎えているのだ。
宮本はショートゴロ。榎本に代わった三年生は四球で出塁したが、石原、小清水と凡退し、最後の攻撃は終わった。セカンドゴロに倒れ、最後の打者となった小清水は、一塁ベースへのヘッドスライディングをしなかった。
お定まりのポーズをしてみせることを敢然と拒否するのは、彼なりの意地の表れだったのかも知れない。
スコア二対七。大栄高の完敗であった。
挨拶を終え、応援団の陣取るスタンド前で頭を下げた高梨達が肩を落としてベンチに引き揚げて来ると、綾瀬はベンチに座り込んだまま、立てない様子だった。
「ここまで来たのに……」
スコアブックを胸に抱え、涙をおさえきれずにしゃくりあげている。
その姿を見ていると、失ったものの大きさを思い知らされずにはいられない。
「キャプテン、申し訳ありませんでした」
四点を奪われ、高梨が改めて深々と頭を下げる。
「謝ることはない。それにしてもさすがに遠いな、甲子園は」
宮本は、ハイレベルの戦いを楽しめたことを喜んでいるかのようだった。
彼に限らず、悔やんでも悔やみきれない二年生とは対照的に、三年生の多くは、むしろさばさばとした表情をみせている。
「ピッチングフォームの欠点にもっとはやく気づいていたら……」
「そう自分を責めるな。夏の予選で準決勝進出を果たしたのは、大栄高野球部史上初だそうだ。俺達は胸を張っていい」
去年までは一回戦突破がやっとだった野球部がここまでこれたのだ。弱い時期を身をもって知っているだけに、宮本達に悔いは残らないのだろう。
(4)
準決勝の翌日。
曇天は一日で去り、再び強烈な日差しが降り注いでいた。
この日、大栄高の野球グラウンドでは、恒例となっている、三年の引退と主将の引継が行われた。
先日、宮本主将に直接言い渡されていたとおり、高梨が新キャプテンとして任じられることになった。
大栄高野球部では他校に比べても主将の役割は大きく、練習メニューやスターティングラインナップに対して発言権を持つことになる。あまり直接突っ込んだ話をした事のない志摩監督とも、これからはうまくやっていかねばなるまい。
「うまくやっていけるかなぁ」
「これから責任重大よ、高梨キャプテン」
綾瀬がにっこりと笑って肩をたたく。高梨は苦笑いをするしかない。
例年であれば、この後、三年生の引退試合として三年対一、二年生の試合を行う。一度ベンチに下がった選手でも再度出場できるという特別ルールで、レギュラーをとれなかった三年生もこの時ばかりは必ず出番が回ってくる。
ただ、毎年県予選の一回戦か二回戦で負けてあっさり夏が終わるので問題なかったのだが、今年ばかりは連戦が続いた末の敗戦だった。事情が違ってくる。
「連投の疲れが残ってるだろうから、無理して出なくてもいいぞ。俺自身、ゲップが出るぐらい打席に立たせてもらったからなぁ」
宮本が高梨の肩を気遣う。
「ま、投げるのは河野に任せますよ。指名があったときだけでもマウンドには行きますが」
「高梨には申し訳ないが、最後の記念だからな。お前と一緒に野球をやってたって思い出になる」
「自慢になるからな」
「だから悪いけど、ちょっとは投げてくれよ。全力出す必要はないから」
三年生達に口々に言われ、高梨は熱いものがこみあげてくるのを感じていた。
やっぱり、この高校を選んで正解だった。どこまでも楽しく、面白く野球が出来た。これからもそうでありたい。
試合は終始なごやかな雰囲気で進んだ。思いっきり投げ、思いっきり打つ。一戦必勝とまなじりを決する必要がなくなって、皆が単純に野球を楽しんだ。
好プレーにはやんやの喝采。珍プレーに爆笑と強烈なヤジ。
高梨は一二年生チームのメンバーとして打席に立ち、また請われればマウンドに登った。抑え気味のピッチングでも、控えに甘んじてきた三年生では、きれいに打ち返すことは出来ない。それでも、却って未練を吹っ切るような笑顔で一塁まで走る。その姿をみていると、なんとしても来年は甲子園まで行きたいと願わずにいられない。
これからの大栄高のライバルはもはや鬼浜高ではない。県下最強の輪島城東こそが、倒すべき相手なのだ。
鬼浜高のウミヘビ打線はどうにかねじ伏せることができた。しかし輪島城東の打線には終始強烈な打球を飛ばされ続けた。
輪島城東に勝つにはどうすればいいのか。自分たちがこれまでベストと思ってやってきた事は、本当に自分たちのベストなのか。まだなにかやれることは無いのか。今の高梨には答えが見つけられない。出来るのは、日々の地道な練習だけだ。
しかしそれさえも、ベストである保証はどこにもないのだ。
(5)
八月一日。日曜日。
三年生が引退し、新体制になってはじめての紅白戦が行われる。
宮本、石原、高根、山口、小清水、根川といったチームの中核を失い、残された部員では、どういう形がベストメンバーかすら判らない。残ったレギュラーは越川、榎本、樋口、高梨の四人のみだ。
まだ背番号も決まらない状況での試合は、今後の指針を示す意味でも大事なものとなる。
メンバー編成は高梨に一任されることになった。これが主将としての実質的な初仕事となる。
「うひー、一年のポジションとか、俺まだよく判ってないんだ」
一塁側ベンチでメンバーを書く紙を前に、高梨が悲鳴を上げた。
入部直後、練習試合のスタメンを当時の正岡主将に無断で書き替えたのが今となっては懐かしい。無責任なことをやっていたのだな、と主将の重圧を否応なく感じながら高梨は思う。
「ダメよそんなことじゃ。宮本主将に怒られるわよ。なにやってんだ、って」
綾瀬が言って、ここ半年の記録がびっしりと書き込まれたファイルを高梨に突きつける。
「判ってるけどさ、こっちは崎辺一人でも手一杯だったのに」
「す、すみません」
話を横で聞いていた崎辺が小さくなる。
「こら、そんなこと言ったら崎辺さんがかわいそうでしょ」
綾瀬にたしなめられて高梨は頭をかく。
「あ、すまん。俺は細かいところに目が届かないタチだって言いたかっただけでな。崎辺が悪い訳じゃないんだ」
ああでもないこうでもないと綾瀬にデータを確認してもらいながら、二年生主体の白組と、一年生主体の紅組をなんとか編成する。
例外はキャッチャーで、正捕手候補の市川と石毛がほぼ同格の為、市川を白組、石毛を紅組に回した。
紅組のスタメンに名を連ねる新城、葉田、上坂、柴村といった期待の一年生達がどこまで真価を発揮してくれるのか、白組先発の高梨はむしろ楽しみな気分でマウンドに登った。
紅白戦は、一種気合いが空回りする格好になった。特に夏の予選であれほど頼もしかった守備が見劣りする形で、しばしば落球した。
格上の打線相手に苦闘しただけあって、河野の成長は著しい。百四十キロ超の速球を内外に投げ分ける高梨ともども、実戦経験の乏しい部員ではバットに当てることさえ難しい。
七回制で行ったのだが、両チームともに点を奪えないままに終わった。
「貴重な実戦データになったと思うわ」
夕暮れ前。
樫尾と矢沢がつけたスコアブックをつきあわせて記録を整理しながら、綾瀬は満足げだった。
「とにかく守備を一から鍛えなおさなきゃな」
それが高梨の感想だった。綾瀬もうなずく。両チームあわせて失策四。記録に残らない連携ミスなどもいくつもあった。
「来週からの合宿の、強化事項の一つね」
「合宿か……」
例年通り、甲子園の時期は学校を離れて一週間の夏合宿を行う。準決勝まで勝ち上がったおかげで三年の引退から合宿までの日に余裕がなかったが、綾瀬はそつなく民宿の予約を済ませていた。
単純な技術向上の場にとどまらず、新メンバーの絆を深めてチームワークを高め、なおかつ、ここでいち早く頭角を表すことがレギュラーへの道である。
もちろん、この合宿でなにかを掴まねばならないのはこれまでの控え部員達だけではない。ワンランクを目指すためのきっかけを見つけたい。高梨は切にそう願った。
第二十一話に続く
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