『バトル・オブ・甲子園』
第二十三話”再来”




(1)


 夏までは高梨は自分自身と、せいぜい崎辺の練習を気にしていれば済んだのだが、主将ともなると、部員全員の動きに目を配っていなければならない。面倒だとばかりも言っていられない。
 秋期大会の予選まで間がない。前年に負けない成果を出そうと、皆張り切っているように見える。
 高梨は投球練習を終えると、アメリカンノックを終えて一息ついている大谷のところに足を向けた。
「だいぶセカンドの守備にも慣れてきたみたいだな」
「まあ、なんとかな」
 落ちくぼみ気味の目をさらに細め、汗を拭きながら大谷が答える。
 大谷は中学までは部活に所属していない。空手の道場に通っていた。なぜ野球を、などという無粋な問いは高梨は向けたことはない。経験不足を一年半かけてようやく取り返してきた努力を買うだけだ。
「セカンドには一年にめぼしいヤツがいないからな。期待してるぜ。もっとも、ことによっちゃコンバートして穴埋めすることだってあり得るから、油断するなよ」
「判ってるって」
 ここにきて、それなりに自信をつけてきた大谷がにっと笑って頷く。
 岸野が続いて志摩監督にアメリカンノックを受け始めた。身体を右に左にと躍らせて緩く転がるボールに飛びついていく。
「もう一皮むけると、いいサードになるんだろうがな」
「まだ、強い打球とか、ダイビングキャッチとかに身体が怖がるときがあるよな。本当はサード向きじゃないかも知れないけど」
 大谷が寸評する。他人のこととなると客観的にみられるものだ。もっとも、空手経験者だけに、身体が怖がるという反応に対しては高梨よりも視点は辛いだろう。
「まあ、まだ真面目に取り組んでなんとか克服しようとしているからいいよ。横山もそれなりにな。あいつの反応速度とバカ肩はどうしても必要になる」
「中川、落とすのか?」
「落とすっていうかな。そりゃまあ、一年の頃みたく無断で休んだりはしないけど、だからって居残りしてまで練習するほどの気合いは無いわけだし。それだったら、小林のあのアホみたいな練習へののめり込みを買いたいじゃないか」
 一年の小林は、誰よりも早くグラウンドに出て雑草引きやトンボを担いで整備をはじめ、全員が練習を終えた後の真っ暗なグラウンドで、ひとりバックホームの練習をしていたりする。
「将来性も考えないといけないしな」
 大谷が、お前も大変だな、と高梨に苦笑を向ける。
「まあな。俺だって二年だけでレギュラー組んで来年の夏までやりたいぜ。下級生に目を配って素質を見抜くなんて面倒だし気も遣う」
「勝ちたいからな。大栄高野球部がもってる全ての力を試合につぎ込めるようにしたいんだな」
「それもある。あと、ここで下級生を放り出したら、せっかく力を付けてきた大栄高野球部の実力が、俺達が卒業したあとガタ落ちになってしまう。正岡さんや宮本さんに文句言われたくないし」
 それが高梨の偽らざる思いだった。

(2)


 九月十六日。
 放課後の練習に先立ち、練習用ユニフォームに着替えてランニングをしていた高梨を、綾瀬が手でメガホンを作って呼び止めた。
「なんだよ」
「高梨君、練習熱心なのはいいけど、もう準備は出来てるの?」
「なんの準備?」
「まさか忘れてたとか。今日は秋季大会の抽選日でしょ」
 両腰に手を当てた綾瀬が眉を寄せる。
「そうかー。俺が行くんだな」
 相変わらずと言うべきか、他人事のような事を言い出す高梨だった。綾瀬に睨まれ、小走りで部室まで戻って制服に着替えて志摩監督に連れられて出かける。

 大栄高の最寄り駅から電車で二十分。県庁舎近くのとあるホテルの大広間が抽選会場になっていた。
 高梨達は抽選会の開始時間ぎりぎりに会場に駆け込む形になった。既にほとんどの学校が顔を揃えている。
「へぇ、こういう風になってんだな」
 大栄高に割り当てられた椅子を探しながら、部屋の中を見回して高梨が呟く。中学時代には組み合わせ抽選にまでは参加していないから、この雰囲気は初めての経験だ。
「あんまりそわそわしてるとみっともないよ」
 一年の時から参加して場慣れしている綾瀬が小声でたしなめてくる。
「別にあがってる訳じゃないよ。こんなもんかなー、と」
 大広間の前面には大きなホワイトボードが置かれ、トーナメント表が記されていた。その斜め前には抽選箱がテーブルクロスのかけられた長机があり、高野連関係者がその後ろに陣取っている。
 やがて定刻が来て、抽選会が始まった。
 トーナメント表に向かい合う形で各校の主将と監督、そしてマネージャ用に百席を越す椅子が並べられ、名前を呼ばれ次第、主将が前に出てクジを引く。
 主将からクジを受け取った係員が番号を確かめ、用意されていた学校名のプレートをトーナメント表へと順次貼り付けられていく。
 大栄高の名前も呼ばれた。「はい」と答え、高梨は席を立って抽選箱の前に出た。
 特に感慨も緊張もなく、抽選箱に無造作に左手をつっこんでクジを引き出す。
「一四番です。お願いします」
 係員に渡し、自分の席に戻ってくる。その間に、大栄高のプレートも一四番の位置に貼り付けられていた。
「どうだろう?」
 自分のクジがどういう結果になったのか、自分で考えるより綾瀬に聞いて分析して貰ったほうがはやい。すぐ隣の席に座る綾瀬に聞いていた。
「悪くないわよ。井町南も輪島城東も、あと鬼浜高も私達とは別のブロックだから、決勝まで当たらない。正岡主将も宮本主将も、クジ運はあんまり良くないほうだったけど、高梨君の場合は黄金の左腕ね。」
「そんなことを誉められてもな。だいたい、決勝までいければの話だろ」
「行ってもらわないと困るわよ。夏からこっち、ずっとそのつもりでいたんだからね」
 綾瀬の口調には冗談味が全く感じられない。
「そりゃ、いければいいが」
「一回戦の相手は山中高。ばりばりの進学校だから、順当に行けば勝てるはずよ」
「おいおい、相手に聞こえると気まずいだろう?」
 高梨が小声で言うと、綾瀬はくすりと笑い「それも心理戦の一つじゃない?」と舌を出した。

 学校に戻り、組み合わせの結果を発表すると部員達が沸いた。
「井町南と輪島城東とどっちかだけ倒せばいいんだものな。しかも当たるとしても決勝だ」
「ってことは、もしそこで負けても準優勝だから」
「ブロック大会に進めるってことだ」
 部員達が目を輝かせて頷きあう。昨年はブロック大会には出場したものの、一回戦で完敗していた。今年はその上を目指したい。その活躍次第では春のセンバツも夢ではなくなるのだ。
 もっとも、高梨は浮かれ気味の部員を前に不安にかられていた。不本意ながらなだめ役に回らざるを得ない。
「あんまりなめてかかると足下をすくわれるぞ。俺達だって、なめてかかってきた強豪を何度か慌てさせてるんだからな。まずは一つ勝たないと始まらないんだぜ」
 主将ってのは気を遣うばっかりでなんにもいいことがないな。正論をはきながら内心でため息をつく高梨だった。

(3)


 組み合わせ抽選の結果が出てから数日後。志摩監督が秋季大会に向けた新しい背番号の割り振りとスタメンを発表する。その選定には高梨の意向がほぼそのまま反映されていた。

 一番 越川(二年) RF 背番号9。
 二番 岸野(二年) 3B 背番号5。
 三番 樋口(二年) CF 背番号8。
 四番 榎本(二年) 1B 背番号3。
 五番 大谷(二年) 2B 背番号4。
 六番 市川(二年) C  背番号2。
 七番 横山(二年) SS 背番号6。
 八番 高梨(二年) P  背番号1。
 九番 小林(一年) LF 背番号7。

 結局、高梨は悩みに悩んだ末、実績がないのでいまいち頼りないと感じてはいたが、二年の大谷、横山、岸野を選び、一年では小林だけがレギュラーに名を連ねた。これまで積み上げてきた一年間の実績の差を重んじた結果だ。
 ショートは葉田にするか直前まで考えあぐねたのだが、横山の肩と打球に対する反応の良さに賭けた。葉田はまだ身体が充分に出来上がっていないと高梨はみていた。
 崎辺については、高野連側から女子の公式戦参加に関してなんら進展した話が聞こえてこないこともあり、背番号は無い。
 もっとも、仮に参加が認められたとしても三番目の投手としてベンチ入りさせられるレベルには達していない。
「なんとかしてやりたいんだけどな」
 練習試合などの際にはマネージャを兼任するような恰好になっている崎辺の事を思うと、高梨はどうも気が重いものを感じる。本人が熱心に練習に取り組んでいるのを一番近くでみているだけに、なんらかの結果に結びついて欲しいと願わずにいられないのだった。

(4)


 九月二十八日に秋季大会が始まった。
 この日、市営球場で行われる第二試合に、大栄高対山中高の試合が組まれていた。
 試合前の三塁側ベンチで、盛大にくしゃみを放った後、高梨は鼻をすすった。
「やだ、高梨君、風邪?」
 誰かに噂されてるわね、と来るかと高梨は思ったが、綾瀬の言葉はいきなり厳しいところをついてきた。
「いや、そんなにひどい訳じゃない。投げるよ」
 実際、一昨日あたりからあまり調子が良くなかった。浮かぬ調子で鼻を鳴らしながら高梨が応じる。
「無理しないでね。先は長いんだから。河野君もいるし」
「判ってるよ。調子が悪くなったらさっさとマウンドを降りるさ」
 山中高は実力的にはさほどのものではない。とはいえ油断するつもりもない。
 高梨はジャンケンで勝って大栄高が後攻をとり、試合が始まる。
 一回表。
 先発マウンドに立った高梨は幸先よくトップバッターを三振にきってとったものの、二番打者にセンター前へのポテンヒットを許す。
 三番が送りバントを仕掛けてきた。やや虚をつかれたものの、高梨は無難に一塁にボールを送る。ツーアウト、ランナー二塁。
「いきなり送りバントとはな」
 カバーに走り込んできていた市川に、高梨はしかめ顔でそんな言葉をかける。風邪気味の体調のせいで、咄嗟の判断力が鈍りがちなことを自覚する。
「それだけ、そう簡単にランナーを出せないと思ってるんだろ」
 市川は山中高に対して、聞こえよがしな返事をする。市川お得意の言葉での揺さぶり攻撃だ。
 だが、この強気の台詞はあくまでも相手に聞かせる為のものであり、本当に相手を舐めてかかる訳にはいかない。
 かつて、大栄高を格下とあなどり、先制を許した強豪チームはいくつもあった。第一、立場が逆になったと考えるにはあまりにも早計だ。
(ストレートの走りが悪いな……)
 高梨も自身の体調がいまいちなだけに、ピッチングがやや消極的になる。
 四番に対し、変化球でかわそうとしたところ、ファウルで粘られ、最後はチェンジアップにタイミングをあわされた。
 鋭い打球音。
(しまった……!)
 四番の放った当たりは風にも乗って予想外に大きく伸びる。
 レフト・小林が帽子を飛ばして懸命に背走するが頭上を破られた。ワンバウンドでフェンスに達する。二塁からランナーが生還し、先取点を奪われた。
 どうにか五番を三振にうちとって後続を立ったものの、ベンチに戻ってきた高梨は大量に汗をかいていた。
「ちょっと……。大丈夫?」
 発破をかけようと勢い込んだ綾瀬が、その表情を見て思わず言葉に詰まっていた。軽口を叩く余裕もない。
「汗を出したら、調子も戻るだろ」
 高梨はそう返すのが精一杯だった。高梨にも意地がある。試合前は調子が悪ければさっさとマウンドを降りるとは口にしたものの、このまま引き下がるわけにはいかない。
 大英高の攻撃は、一・二番は倒れたものの、三番・樋口、四番・榎本の連打に続き、五番・大谷がタイムリーを放って一点を奪い、すぐさま同点に追いついた。
 その後、高梨は三回にも一点を失ったが、打順が一巡した四回以降は地力の差が如実に現れはじめた。高梨は自らも一塁線を破る二塁打を放ち、市川も二安打と気を吐く。
 懸念していた大谷が、ようやく本来の持ち味である長打力を発揮した。左中間に飛び込むホームランを放ったのだ。一発だけでなく、単打を連ねて大栄高はじりじりと点差を広げていく。
 六回表、またも連打で三点目を奪われたが、その裏に樋口がタイムリーヒットを放って十三点目をあげた結果、十三対三のコールド勝ちとなった。
 大谷のホームランを含めて十九安打を浴びせての、まずは順当勝ちということになるが、高梨は失った三点の事を考えていた。大量得点に守られていたとはいえ、やはり今後を占う意味では到底納得のいく出来ではなかった。
「身体は大丈夫なの?」
 綾瀬も公式戦初勝利を喜ぶよりも、汗を拭きながらベンチに戻ってきた高梨の不調を気に掛けている。
「ま、今日は早めにゆっくり寝るさ」
 浮かぬ顔なのは自身の体調もあるが、試合で出てしまった三つのエラーだ。越川がまたも鮮やかなライトゴロを決めた一方、大谷が序盤で二度ボールをこぼしていたのだ。
 横山は強肩をみせて深いショートゴロをさばき、とりあえず及第点だったが、岸野がなんでもないゴロを後ろに逸らすなど、やはり安定感に欠いていた。
 責任をおしつける訳ではないが、そういうエラーが三回と六回の失点に絡んでいるのも事実だった。
 守備のもろさは、山中高もとても誉められたものではなかった。しかし、本気で甲子園を云々する段階になってきたとしたら、やはり引き締めてかからねばならないだろう。
「まだまだ課題が多いな」
 勝利の喜びをかみしめ、笑顔で荷物を片づけている部員達に聞こえないよう、高梨はぽつりと呟いた。

(5)


 高梨は翌日になっても風邪気味の状態が治らなかった。結局、末松商との二回戦当日までには体調は良くなったものの、身体のキレを考えて先発を河野に譲ることになった。
 お世辞にも巧打が光るとは言い難い河野のバッティングを考え、打順も一部変更が加えられた。河野を九番に下げ、小林を八番に。他に、二番の岸野と七番の横山を入れ替える。
「俺の出番のないように頼むぞ」
「ゆっくり休んでいて下さい」
 高梨の激励に、不敵とも不遜とも評すべき言葉を残して、河野はマウンドに向かう。
 末松商とは立地的な事情もあって、これまで練習試合でも公式戦でも対戦したことのない相手だ。さすがの綾瀬もほとんど情報をもたない。
「名前が聞こえてくるほどの強豪じゃないのは確かだけど……」
 と、綾瀬は歯切れが悪い。
「心配ないって。河野はうまくやるよ」
 高梨が太鼓判を押したとおり、河野は立ち上がりを三者凡退でまとめてきた。
 一方、末松商先発の太田は、オーソドックスな右オーバースローのフォームから、そこそこ速い球を投げ込んでくる。
 二回までは両者無得点。太田の球は決してバットに捉えられない球ではないのだが、末松商の守備陣の良い動きにも阻まれ、得点に結びつかない。
「もうちょっとで捉えられそうなんだが、当たりがことごとく正面を突くな……」
 樋口も厳しい表情でマウンドの太田を睨む。
 三回表、河野はツーアウトから初安打を許すが、後続を三振に打ち取って事なきを得る。
 その裏、大栄高の攻撃は、八番に入る小林がライト前に運び、九番・河野が手堅く送る。
 ここでトップバッターに戻る。一番・越川は惜しくもセンターフライに倒れたが、その後、二番に入る横山がライト前へのクリーンヒットを放ち、小林が先制のホームを踏んだ。
 その後も、河野は危なげない投球を続け、一方の大栄高打線も太田のねばり強いピッチングの前に攻略のきっかけを掴みきれずに回が進む。
 再び試合が動いたのは六回裏。榎本がレフトの頭上を破る特大の二塁打を放つと、五番・大谷が再び持ち味の長打をみせてくれた。こちらは右中間を深々と破り、榎本は悠々とホームへと帰る。
 これで二対ゼロ。中軸打線が機能すると、やはり試合の流れをぐっと引き寄せることが出来る。
 ようやく大谷は試合の雰囲気にも慣れ、固さがとれてきたようだった。七回には、センター前に抜けようかという当たりを横っ飛びで抑えるファインプレーを見せる。
「こりゃ、ホントに出番がないぜ」
 高梨も、安定した河野のピッチングをただ見ているだけだった。
 八回には、榎本がセンターバックスクリーンにツーランホームランを叩き込み、苦心の投球を続けていた太田をマウンドから引きずり降ろす。
 代わりにマウンドに登った平井は大谷をファーストゴロに打ち取ったものの、勝敗はほぼ決していた。
 九回。ツーアウトからランナーが出たものの、最後は横山が三遊間を破りそうな当たりを好捕して試合終了。河野は五安打を許したものの三塁を踏ませない上々のピッチングだった。

 帰りの電車。
「三回戦の相手はどこだろう?」
「えっと、ちょっと待ってね」
 綾瀬は高梨に訊ねられて、携帯電話で新聞社の情報サービスで速報を確認する。
「便利な時代だよな」
 横からその様子を見るとも無しに見ながら、高梨がすこし年寄りじみたことを言う。実は高梨は携帯電話を持っていない。使い道がないので持とうと思わないのだ。携帯で長話をするような相手もとりたてていない。
「ホントにね。あぁ、次の対戦相手はもう決まってるわ。江ノ川高よ」
 綾瀬の声を聞き、興味津々で様子をうかがっていた部員達の顔にも笑みがこぼれる。
「江ノ川か。あんまり強いところじゃないよな」
「とは思うけど、向こうも二度勝ってきてる訳だし。油断は出来ないわよ。あ……」
「どうした?」
 高梨が綾瀬の携帯を覗き込む。
「鬼浜高が井町南高に敗けたわ」
「やっぱり井町南が来るか」
 高梨は唸った。
 決勝まで大栄高が勝ち残れば対戦する可能性もある相手だ。夏は精彩を欠いたが、新チームになってしっかりと勝ち上がってきている。選手層の厚い学校は三年が引退してもチーム力をあまり落とさない。
 対する自分たちは、ぎりぎりの戦力で試合に臨んでいる。
 今日は問題なく勝てたからいいようなものの、これから先は風邪だのなんだのと言っていられないな、と反省する高梨だった。

 第二十四話に続く

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