『バトル・オブ・甲子園』
第二十六話”重圧”




(1)


 十月十九日の地区ブロック大会の抽選会により、大栄高の一回戦の相手はT県の山喰高に決まった。
 山喰高は甲子園への出場経験もある伝統校で、秋季大会における平均得点が八点余りという戦績を見る限りは、かなり攻撃型のチームであるらしい。
 仮に大栄高が山喰高を破り二回戦に進出すれば、井町南高とK県の秋季大会優勝校・矢口商工との勝者との対戦となる。
 大栄高にとっては先だっての県予選のリベンジ戦となる。なんとしても勝ちあがりたいところだ。井町南高の選手達も思いは同じだろう。

 地区ブロック大会の開会式は前年と同じく県営球場で行われる。
 ユニフォームだけを鞄に詰めた部員達が朝早くに学校のグラウンドに集合すると、手回しがいいというべきか、校舎の壁に「祝・野球部地区大会出場」などと大書きした垂れ幕が掲げられているのが嫌でも目に付いた。
「この地区大会で勝ち上がってはじめて神宮にまでいけるってのになぁ。あんまり期待されてないのかもな」
 垂れ幕を見上げながら、市川が呆れ声を出す。
「まあ、そういうなって」
 一緒になって勝手なことを言えないのが、主将という高梨の立場のつらいところだ。
「なんか元気ないな」
 市川に少しばかり怪訝そうな顔を向けられ、高梨は咳払いをした。確かに気がかりなことが一つあったのだ。
「うん? 大したことじゃないけど。……弟がさ、井町南に進学したいんだとさ。宮本先輩になんて言おうかなと思って」
 お互いに勝ちあがれば二回戦で対戦する相手だけに、なんとも心境としては複雑だ。
 市川も、さすがに軽口を飛ばして終わらせる訳にもいかないのか、妙な顔になった。
「まあ、まだ入学が決定したわけでもないだろうし、まだ黙ってていいんじゃないのか。戦力として期待できる選手が入らないのは痛いけど、しょうがないだろ」
「まあな」
 高梨は肩をすくめた。

「垂れ幕やった割りに、全校応援じゃないんだよな」
「まだ地区大会だからなぁ」
「各県でベスト四入りを果たした有力高が顔をそろえているんだし、去年もここまでは来られたんだから、まず一勝が目標だろうな」
 開会式に向かう為に乗り込んだ電車内では、部員達が好き勝手なことを言い合っている。
 あまり騒ぐな、と高梨が注意をするが、手持ち無沙汰でだべるぐらいしかする事がないのは彼自身も同じなので、あまり効き目はない。
「ウチの学校じゃ、野球部専用バスってワケにもいかないってのは最初から判ってるんだけどな」
 榎本が眠そうに目をこすっている。
「プロのスカウトとかも観戦しに来てるんだろうな」
「だとしても、ウチで目当てになるのは高梨か樋口ぐらいだろ」
「練習中にスカウトとか見かけたことないぞ」
「当たり前だろ、高校生に直接交渉するのは禁じ手なんだから」
「監督のところには来てるのか?」
「しらねぇよ。高梨は、監督からなにか話を聞いてるか?」
「いや。聞いたこともない。そういうレベルじゃないんだろ」
「ああいうのって、選手には直接来ないんじゃないのか。もしあるとしたら、監督に話が行くんだろ」
 市川が身を乗り出して訳知り顔で言う。
「どっちにしろ、お前には来ないよ」
 越川のつっこみに、話を聞いていた部員達から笑いがおこる。
「市川の進路はどうだっていいけどもさ、監督といえば、ウチの監督、今年度いっぱいで転勤になるらしいぜ」
 監督本人に聞こえないよう、周囲を見回してから榎本が小声でささやいた。
「ホントかよ。今頃からそんな話が出てくるもんか?」
 高梨は顔をしかめながら、おなじく声を低くして応じる。
「そういうのは毎年みたいに話のネタになるだけだろ」
「でも、もし監督変わるとしたら、来年はどうなるんだろな」
 監督とはいうものの、志摩監督は専門の指導者ではなく、大栄高の教師である。 
 決して名将というワケではないが、高梨にとっては特にやりにくいこともない監督だった。
 転任の噂が事実だとすれば、有終の美を飾らせてあげたいものだと高梨は思った。

(2)

 開会式に参加した翌日には一回戦が予定されていた。かといって泊まりで遠征という贅沢なことが出来るはずもない。
 いったん戻り、翌朝には再び県営球場に向かわねばならない。
 昨日の開会式よりも事前のウォーミングアップを考えると時間がないため、学校には集まらない。逆方向になってしまう一部の部員を除き、学校最寄りのJRの駅前に集合する。
 だが、いつもは真っ先に顔を出して部員がやってくるのを待ちかまえている綾瀬の姿が見えないことに高梨はいぶかった。
「あいつに限って、寝坊したりするはずもないんだがな」
 こういうときばかりは、使う機会がないから、と携帯電話を持っていないのが少しばかり不便に感じる。幸い、駅前であるから公衆電話ぐらいはある。
 綾瀬の携帯に連絡をとろうかと考えはじめていたところに、駅前のバス停に到着した私バスから綾瀬が降りてきた。
 高梨は胸をなで下ろす思いだったが、対照的に綾瀬の顔は真っ青だった。
「なにかあったのか?」
 さすがに高梨も嫌な予感がして表情が曇る。
「大変なの。河野君のお父さんが今朝亡くなったって」
「ホントかよ。河野の親父、なにか病気だったのか?」
「そうじゃなくて、事故みたい。それで学校に連絡があって、担任の先生とかみんな家に行かなくちゃならなくなって……。監督も少し遅れるから、私たちは先に球場に行かないと」
 綾瀬にしては珍しく、話す言葉に脈絡がない。よほど動転しているのだろう。
「なあ、そういうのって俺達も行かなきゃならないのか?」
 そう尋ねるのはなにも薄情だからではない。これから試合があるのだから仕方のない問いかけだった。
「それは大丈夫だと思う。試合、終わってからでも。もちろん、河野君は参加できないけど。でも、わたしは河野君のところにいるつもり。……矢沢さんも樫尾さんもいるし、大丈夫だよね?」
「ああ、まあな」
 高梨は軽いうめき声をあげて腕を組んだ。綾瀬がいないのはなんとも心細い話だが、今それを口にするのもためらわれた。
 事前に志摩監督から聞いた話では、今大会では高梨が先発し、河野が抑えにまわることになっていた。
 河野がいないということは、大栄高の投手陣は事実上、高梨一人が背負うことになる。
 まして、霊前に勝利を報告しない訳にはいかない、という重いプレッシャーも背負うことになった。
 それが危険な兆候であることは充分に理解していた。しかし、だからといって自分の感情をコントロールしきれるほど、高梨は大人ではなかった。他の部員達も似たり寄ったりである。
 結果、試合に向けての集中力を高めることもままならないまま、山喰高戦に挑むことになった。

(3)

「くそっ」
 高梨はマウンドのくぼみをいらだたしげにスパイクで蹴った。
 市川が両手で地面を押さえつけるようなジェスチャーを見せているのを横目に、高梨はスタンドの応援団の視線を感じていた。さぞ失望していることだろう。  
 強打でならす山喰高打線を相手に、高梨はワンアウトもとれないうちに四連打を浴びてあっさり先制を許してしまったのだ。
 一番・犬飼、二番・島田、三番・竹中といった上位打線のバットの振りはさすがに鋭い。
 高梨自身の球の走りも今ひとつで、どうも高めに浮いてしまうのだ。その後も、体勢を立て直せないまま一回に三点を奪われてしまった。
「落ち着いていこうぜ」
 どうにか山喰高の攻撃を終え、ベンチに戻ってきた高梨を、レギュラーも控えも口々に励ましてくる。だが、ベンチの空気はどうしようもなく重い。
 河野の家の不幸のせいか、綾瀬がいないせいか、それとも先制されたからか。恐らくすべてだろう。
(まずいな……)
 なんとか沈んだ空気を払わねばならない。だが、高梨自身が軽口をたたいて雰囲気を変えられる立場にない。
「わたし、綾瀬さんみたいにアドバイスとか出来ないから、なんて言ったらいいのか……」
 タオルを差し出す樫尾が消え入りそうな声で言う。傍らの崎辺も辛そうだった。
 矢沢をスタンド応援組の統率に回したのは失敗だったかな、とタオルで拭った汗の量に今更ながらに驚きながら高梨は思った。しかし、スコアラーとして一番安心できるのは樫尾であるし、選手として入部した崎辺を、女子だからという理由だけでマネージャ役ばかり押しつけるのも高梨の好みではなかった。 
「綾瀬の見立てじゃ、実力差はそれほどにあるわけじゃないって話だったんだがな」
 我ながら間の抜けた返答しかできない。だが、山喰高の部員達には大舞台に慣れている分、普段通りのプレイが出来ている様子なのも事実だった。
「僕たちは、やれることをやるしかない」
 静かな口調で声を発したのは樋口だった。部員達の視線が彼に集まる。
 日頃、気負った様子を見せることなどほとんどない樋口が、静かに闘志をたぎらせている。樫尾の悲しげな姿を見かねての奮起なのか、それとも負けたくない一心なのかは判らないが、その様子を前に、地に足のつかなかった部員達の表情に精気が戻る。
「まあ、なんとか抑えてくれ。相手のタマだって、練習を観たかぎりじゃそんなに速くないんだ。糸口ぐらいはそのうちつかめるだろう」
 榎本が、気を取り直したように言った。四番打者としての風格さえにじむ。
「やってやろうぜ! このままじゃあ、河野に会わす顔がない」
 練習では打撃好調で、精神的に乗っている市川が声を張り上げると、部員達がうなずきあった。
 高梨はどうにか落ち着きを取り戻して二回こそ無失点に押さえたが、三回表にも、山喰高の四番・川原にホームランを許し、四点差となる。だが、なんとか踏ん張ってそれ以上の得点を許さなかった。
 なにしろ、高梨には後を託せるリリーフがいないのだ。自分がなんとかするしかない。守備陣もともすればほころびようとする守りを懸命に固めている。
 山喰高のエース・鶴賀の荒れ気味の速球を前に、大栄高打線は攻略の糸口をつかめずにいたが、それもいつまでも続かない。四回裏、ツーアウトから四番・榎本が鶴賀の投じた不用意な初球を見逃さず、センターバックスクリーンにソロホームランをたたき込んだ。
「球離れのタイミングが見えてきた」
 と榎本は胸を張る。
 この回の攻撃はこれで終わったが、志気は否応なく高まった。少なくとも、あきらめの気持ちはどこにも無くなっていた。
 高梨も尻上がりに調子をあげていく。右足の踏み込みを意識すると、浮き気味だった球も低めに散らしていけるようになってきた。試合の流れは大栄高に傾きつつあった。 
 六回には市川が樋口を一塁に置いて公式戦初となるツーランホームランを放って気勢を上げた。風に助けられ、ぎりぎりポール際に飛び込んだものだが、ホームランには違いない。
「どんなもんだ!」
 誰よりもベンチに戻ってきた市川自身がはしゃぎ回っている。チーム一番のムードメーカーの一発により、得点差はこれで一点。勢いを完全に取り戻した大栄高は七回にも長短打をからめ、さらには榎本の今日二本目のホームランもあって四点を奪い、一気にスコア七対四とひっくり返したのだ。
 九回表に、エラー絡みで一点を失ったものの、どうにか高梨は完投で勝利を収めた。
「これで河野に顔向け出来る」
 最後の打者を三振に仕留めたマウンド上の高梨の表情は喜びではなく、安堵のそれだった。

(4)

 野球部は志摩監督の意向で、試合直後に通夜に顔を出すのは差し控え、翌日に練習を完全に休んで河野の家で行われる告別式に野球部の全員で出席した。
 河野は「急なことで先輩達にご迷惑をおかけしました」とうなだれた。日頃の不遜とも言えるふてぶてしさはそこからは感じられなかった。傍らでは、小学生六年生の河野の弟が神妙な様子で控えていて、周囲の涙を誘っていた。
 勝利の報告が出来たことが、高梨にとってはせめてものなぐさめだった。

「つらいもんだよなあ。一回戦に勝ったぐらいじゃ、勝利の報告にならないかもな」
 帰り道。高梨は綾瀬や市川と連れだって歩きながら、ため息混じりに頭を振る。
 高梨の祖父母は父方、母方ともに健在であり、近い親戚の不幸などもほとんど経験がない。告別式の作法など何も判らずに落ち着かなかったのだが、慣れたいとも思わない。
「ほんとね。河野君、かわいそう……」
 綾瀬がうつむきがちに応じる。
「事故死って話だけど、朝っぱらだろ? 河野の親父さんってなにをやってたんだ」
 本人に面と向かって聞けるような雰囲気ではなかった為、高梨はずっと疑問に思っていたのだ。答えをさほど期待するでもなく、声に出してみる。
「それがね。わたしもはっきりとは聞いていないんだけど、新聞配達だって」
 さすがに綾瀬というべきか、そんな返事がかえってきた。
「へぇ。新聞配達ねぇ」
 高梨は曖昧な答え方をした。頭の中では、学生のアルバイトのような仕事で、どれぐらい儲かるもんなんだろうか、と反射的に思いを巡らせていた。
 それが表情にも出たのだろう。綾瀬が浮かぬ顔で言葉を付け加えた。
「なんでも、最近リストラにあっちゃったみたいなの。それで、どうにか再就職先として見つけた仕事だったんだって。慣れないもんだから時間がかかるから、焦って道路に飛び出しちゃったんじゃないかって話を聞いたわ」
「そいつは、本人の前じゃ話せないなあ」
 横で聞いていた市川が渋い表情になる。
 経済的な面ではどうなのだろうか、と高梨はふと心配になった。高校に通えなくなるなどというところまではいかなくても、今まで通り野球部に参加し続けられるのかどうか。
 ため息をつき、高梨は肩を落とした。
 去年と成績の上では一歩進んだかもしれない。しかしこれだけではまだ春の選抜に手が届いたとは言い難い。二回戦の相手は因縁の井町南高だ。負けるわけにはいかない。
「そんなこと無いわよ。後一つか二つ勝てば、選抜の可能性だってあるんだし。相手は勝手知った井町南なんだから、次こそ勝ってよね」
 演技とも思えない綾瀬の明るめの言葉に、高梨はやれやれと首を振った。
「気楽に言ってくれるぜ。そりゃ確かに俺達は井町南の事は知ってるさ。一年生エースの夏目や、控えに回ってる渡辺の球筋や球種も頭に入ってる。酒井の振りがどれだけすごいかとか、江草が変化球に弱いとか、色々な」
 けど、それは相手もおんなじことじゃないか、と高梨は続けた。選手層という意味では大栄高は井町南高とは比較にもならない。
 事実、山喰高戦のスタメンは、県予選の時からほとんど変わっていない。調子を落としたまま立て直せずにいる岸野に代わり、星野が七番・サードに入っている程度だ。星野自身は緊張しながらも奮起しているようだが、経験不足は否めない。
 しかも、二回戦も恐らく河野は参加出来ない。たとえ出たところで、とても普段通りのピッチングは望めまい。高梨がマウンドを死守するしかないのだ。
(まあ、あれこれ考えたって仕方がない。昨日だって打線がカバーしてくれたんだ。みんな、よくやってくれるんだ)
 不意に、開き直りとしか言いようのない腹の据わった気分になった。相手は井町南高とはいえ、いつまでも格上だなどと見上げていていい存在ではない。空元気だろうがなんだろうが、のんでかかるしかないのだ。

 第二十七話に続く

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