(1)
午後からの二回戦第三試合に試合を控える大栄高の選手達は昼前に、県営球場のサブグラウンドに入ってウォーミングアップを終えた。
スポーツドリンクでも買おうと県営球場バックネット裏の通路に出た高梨は、自動販売機の前で偶然に井町南高の抑えのエース・渡辺と出くわした。
高梨よりも一回りごつい体格と、それに似つかぬ童顔、そして気合いの入った五分刈り。渡辺の持つ特徴のことごとくが、ちぐはぐな印象を見る者に与える。
今日これからの対戦相手に挨拶する気にもなれず、横目に見ながら自動販売機に硬貨を入れる。
高梨の指はごく自然に愛飲している銘柄のボタンを押していた。
「なんだかんだで長いつきあいになるよな」
不意に渡辺から親しげに話しかけられて、スポーツドリンクを手に取った高梨は少しばかり面食らった。
高梨は確かに、小学校の頃から渡辺の名前を知っている。同い年の県下屈指のピッチャーとなれば、嫌でも事あるごとに名前を目にするのだから当然だ。
一方の小学校、中学校とさしたる球歴を持たない高梨を、渡辺が意識していることを知って驚いたのだ。
「まあな」
あまり卑屈になるのもしゃくなので、敢えてぶっきらぼうに応じる。渡辺とて井町南高不動のエースという訳ではない。背番号こそ一番を背負っているが、スタミナに定評のある一年生・夏目に半ばエースの座を奪われているのだから。
「なんか、大変だったらしいな」
「ああ、まあ」
高梨の思いを知ってか知らずか、人なつっこい渡辺の表情が曇る。河野の身内に不幸があったことは噂で聞き知っているらしいと察した高梨は、言葉少なに応じた。
「だからって、こっちも手加減してやれるほど余裕ないしな」
「判ってる」
「じゃ、次はグラウンドの上で、だ」
にやっと笑って渡辺は自陣のベンチに向かって歩き去っていった。その広い背中は圧倒的な自信に満ちているように、見送る高梨には思われた。
しばらくして大栄高のベンチに戻ってきた高梨は少々憮然としていた。普段は控えているスポーツドリンクのガブ飲みをしてしまう。傍らから見ればやけ酒をあおっているようにも見えただろう。
「なんであんなになれなれしいんだ?」
「なんの話?」
高梨の独り言を綾瀬が聞きとがめる。高梨はさきほどの出来事を手短に綾瀬に話して聞かせた。
「それだけ向こうは高梨君の事をよく調べてるってことじゃない?」
グラウンドを挟んだ相手ベンチの様子をうかがおうと軽くつま先立ちになった綾瀬が、高梨のほうも見ずに言った。
「なんで俺のことを調べたらそうなるんだよ」
「ほら、テレビでよく見る芸能人のニュースとか色々聞いてるうちに、その人のことをなんでも知ってるような気になって、そのうち自分の知り合いのような風に思いこんじゃうことって無い? そんな感じだと思う」
綾瀬の声は妙に楽しげだった。
「つまり高梨は有名人ってワケだ」
市川が横から口を出す。知名度の具合から言えば渡辺のほうがはるかに上のはずなのだが、そのあたりは頓着しないのがいかにも市川らしい。
「あんまりいい気分はしないな。こっちは向こうのことを通り一遍の事しか知らないってのに。ケツの穴まで見られてるわけじゃないだろうけど」
「ま」
品のない高梨の例えに綾瀬が絶句する。聞くとはなしに高梨達の会話を耳にしていた他の部員達がその様子ににやついていた。
(2)
午後一時三十分から、試合が始まる。天気は晴れ。ただ、レフト側からライト側にかけて時折突風が吹く。身を切るほど、との表現は少々オーバーだが、その冷たさは冬の気配を濃厚に感じさせる。
寒さのせいばかりでもないが、今日の高梨の調子は最高潮とは言い難かった。人間、いつもいつもコンディションを万全に出来る訳ではない。
ピッチャーの調子など毎日変わって当然で、しかも単純に良い悪いに二分出来るものでもない。
高梨の球は走っていたが、うわずり気味、つまり高めを突きがちだった。適度な荒れ球が的を絞らせない格好になり、井町南高のバッターはボールの下腹を叩いてのフライが続いた。しかし、当たりは時にひやりとさせられるほど強烈だ。それでもなんとか無失点でイニングを重ねる。
一方、大栄高打線も、先発した背番号十・夏目を相手に手も足も出ないという訳ではなかった。
初回、先頭打者の越川が幸先良くライト前にクリーンヒットを放つ。
が、二番・横山が粘った挙げ句につまらない吊り球に手を出してゲッツーを食らうと、二回にはやはり無死一、二塁のチャンスを市川が凡ゴロを転がしてつぶしてしまった。
総合力では相手が上回ることを認めざるを得ない、と高梨は感じていた。練習は重ねてきたつもりだが、歴戦の強豪校である井町南高と、この二年でどうにか体裁を整えてきた大栄高では全てにおいて厚みが違う。
その証拠に、三回表、打順が一巡すると井町南高のバッター達は高梨の球を正確に叩き始めた。
球を低めに散らそうと意識する高梨と市川の配球により、九番・夏目はセカンドゴロ、一番・吉村はセンターフライと順調に仕留めたところまででは良かったが、二番打者・畑中に左中間を破る二塁打を許した。
その後も、内野陣の守備範囲のぎりぎり外側をかすめて外野に抜ける当たりを連続して放たれ、高梨は二点を失った。
どうにか五番打者・江草をピッチャーライナーでくい止めたが、高梨の表情は厳しいものになっている。
「大丈夫だ。こっちも相手の球は見えている」
三回裏、大栄高の打順は下位に回り、八番・小林から。夏目の速球に手こずりながら小林は粘ったものの、サードゴロに倒れた。
九番に入る高梨が打席に向かい、足元を固める。
(なんとか口火を切らなきゃな……)
鋭い目つきでマウンド上の夏目を見据える。妙な人なつこさを感じさせた渡辺とは異なり、学年が下の夏目の表情はふてぶてしいものだった。だが気後れはしない。
夏目のフォーム自体はあまり威圧感を感じさせないゆったりとしたものだ。それでいながら球は手元で恐ろしいほどに伸びてくる。
初球、高梨はその速球をイメージするあまり、緩い球にタイミングがあわず空振りした。
二球目のカーブも上っ面を叩き、打球はファウルグラウンドにすっ飛んでいった。
(球離れのタイミングが、見えていることは見えているんだ)
ストレートを待っていることを見抜かれていることに薄々気づきながらも、ここにきて狙い球を変えたくなかった。高梨は口を真一文字に結び、バットを構える。
この後、ボール球が二球続いた。
カウントが悪くなり、いやでもストライク狙いになるところだが、夏目はコントロールにはよほど自信があるのか、五球目は外角ぎりぎりの厳しいところをついてきた。しかしそれは、高梨の読みの範囲内でもあった。
外角を衝くストレートを逆らわずに叩き、打球をレフト前に運んだ。
一塁ベース上を蹴る構えだけみせて一塁上に戻り、高梨は小さく息を吐いた。マウンド上の夏目に目を向けるが、こちらを見向きもしない。
「ま、余裕ってこったろうな」
思わず独り言が漏れた。
高梨の好打に後押しされたかのように、一番・越川も続いてレフト前にヒットを放った。
二番・横山は差し込まれたが、バットに当たった打球はふらふらとライト線上に飛び、懸命に走り込む右翼手をあざわらうかのようにフェアグラウンド内で跳ねた。
勢いに後押しされた樋口が鋭い打球をライトへと送り、これが二点タイムリーヒットとなった。
二塁から一気にホームベースを踏み、ベンチに戻ってきた高梨の表情にもようやく笑顔が戻る。
「まだこれからだぜ」
出番を待つ部員達も口々に気勢を上げた。
この後、榎本、大谷が連打を浴びせ、さらに二点を追加した。なおもランナー一、二塁のチャンスが続く。
「よっしゃ、このままうち崩してやる」
鼻息も荒く打席に向かった市川だが、またしても難しい球をひっかけた。ぼてぼての当たりは夏目の正面に転がる。夏目はそつなくこの打球を転送し、ゲッツーとなってしまった。
「毎回ダブルプレイを食らってたんじゃ、世話無いぞ」
志摩監督も渋い顔つきで頭を抱えている。
しかし、それでも逆転に成功した事に違いはない。
「抑えていこうぜ」
悪びれる様子もない市川に苦笑しながら高梨はマウンドに向かった。やがて装具を付け終えた市川もベンチから走り出てくる。その足取りは少しも重くない。この強心臓ぶりは高梨も見習いたいと思ってしまう。
この後、高梨は毎回のようにランナーを背負う苦しい展開であった。井町南高にとって高梨の球筋は見慣れたものになっている。そもそも、少々球が速いだけでねじ伏せられるようなたやすい相手ではない。
だが、高梨もバックの堅守に助けられ、得点を許さない。
特に今日は当たりに恵まれない樋口が、その穴埋めとばかりに守備範囲ぎりぎりの難しい打球を立て続けに二つもダイビングキャッチで好捕していた。
後逸すれば傷口を広げかねないリスクを背負った果敢なプレーに、観客も大いに沸いた。
一方、大栄高打線も強烈な打球こそ運べないが、懸命の走塁でポテンヒットでもランナーを出し、得点圏にまで進むものの、本塁が遠い。
同点のまま、ついに両者ゆずらないまま九回裏の大栄高の攻撃も無得点に終わり、延長戦へと突入した。
高梨が十回表のマウンドへと向かう。
ここまで来ると、さすがに疲れは隠せないものになっている。
しかも、相手の攻撃は一番からの好打順となっている。
(河野がいたら、ここは交代させられていたかもな)
高梨の頭に、ちらりとそんな思いがよぎる。彼にもエースとしてのプライドはある。しかし同時に主将としての自覚もそれなりにある。チームの勝利のためなら、潔くマウンドを譲ることにわだかまりはない。
しかし、残念ながら河野以外には後を託せる投手が大栄高にはいないのも事実だ。選手層の薄さは隠しようもない。となれば、ここは最後まで高梨自身が責任をとるしかない。
先頭打者・一番の吉村に対しては外角へのシュートが決まり、三振に仕留める。しかしながら続く二番・畑中に痛恨のフォアボールを与えてしまった。
三番・上条に相対する。二年生ながら去年までは目立たない控え選手だったが、夏以降、急速に力を付け、一躍クリーンアップに抜擢された成長株だ。
(一点もやれない)
いやでも地力の差を、得点以上に高梨は感じざるを得なかった。それは決して、隣の芝生が青く見えるというだけではなく、選手層の厚さ一つとっても客観的な事実だろう。
ここで失点しては、おそらく大栄高に跳ね返すだけの余力はない。
一点とれば充分と考えているのなら、たとえクリーンアップであっても送りバントを仕掛けてくるか。それとも、そのような真似はしてこないか。
高梨は慎重に外角低めへと初球を投じる。
ストレートの伸びはかなり鈍っている。変化球頼みにならざるを得ない。
初球のカーブは外れた。つづいてほぼ同じコースながらスライダーが今度は決まる。
三球目は高めの吊り球。上条は見送ってボール。
四球目、膝元いっぱいの内角を攻める。打ち損じともカットともつかぬ窮屈なスイングの打球はファウルグラウンドに転がった。
五球目、再び外角へフォークボールを落とす。
上条のバットが空を切った。
「よっしゃ」
マウンド上で、高梨は思わず小さくガッツポーズをしていた。
最大の山場を乗り切り、なんとか切り抜けられそうな予感を抱く。
五番打者・江草を打席に迎えたときも、強気の姿勢は変わらない。変化球で押せばなんとかなるという思いがあるからだ。
初球だった。内角を突くスライダーが甘く入った。
江草も、井町南高でクリーンアップの一角を死守する好打者、この失投を見逃さない。金属バットの打撃音が轟いた。
打球は高々と舞い上がり、センターバックスクリーンへとたたき込まれていた。
これが決勝点となり、大栄高はスコア四対六でまたも膝を屈することとなった。十回裏、夏目に代わってマウンドに立った渡辺は、悠々と大栄高打線を三者凡退に切り捨てたからである。
(3)
帰りの電車に乗った部員達の雰囲気に重苦しさはあまり無かった。
疲労感と、幾分かの満足感すら感じさせた。強豪・井町南高と互角に渡り合った事が、ある種の充実した気分を味あわせてくれるからかもしれない。
高梨がそんなことを考えていると、
「いい試合だったね」
と、綾瀬がぽつりと言った。どうやら同じような思いを抱いていたらしい。高梨は応えない。素直には応えられない。
ややあって、綾瀬は小さくため息をつき、自分の言葉を反省するかのように頭を左右に振った。
「ちょっと、慰めがミエミエすぎる台詞だったかな? でも、ホントにそう思ってるんだけどね」
「確かに、あそこまで食い下がれるようになったんだなあ、って気がするよ」
高梨の代わりに市川が頷いた。
「かも知れないな」
けど負けた、そんな台詞を飲み込んで高梨も呟いた。
綾瀬の気遣いを突き放すような真似をしたくなかったからだ。
「実際、希望は残ってるような気もするよ?」
綾瀬が声を弾ませる。その響きに無理矢理に鼓舞しようとする雰囲気は感じ取れなかった。
「なんの希望だよ」
「なんの、って、もちろん春の選抜出場の希望に決まってるでしょ」
綾瀬は、さも意外そうに高梨の顔を見つめ返してくる。
「準決勝どまりでそれはないだろ」
「判らないわよ。二十一世紀枠ってのもあるんだし。好印象を残せたんじゃないかって、思ってるんだけど」
「ウチの県に強豪校がひしめいてるってんなら、そういう救済措置も期待出来るんだろうけどな」
同県対戦で負けた側が出場出来る可能性はほとんどない。あるとすれば、神宮で行われる秋の全国大会でよほど無惨な負け方をするか、不祥事などを起こして出場を辞退するぐらいだ。
事実上、甲子園行きの機会は来年の夏まで持ち越しという事になる。来年、つまり高梨達にとっては最後の夏だ。
(なんとしても、来年こそは)
何度誓ったか判らない雪辱を胸に秘め、高梨は窓の外に流れる夕暮れの景色に目を向けた。
(4)
「というわけでぇ、今年の文化祭も野球部は女装喫茶やりますっ! 去年よりも準備の時間はないので、きりきりと頑張りましょう!」
月曜日のミーティング。むさくるしい男達が顔を揃える野球部の部室で、綾瀬がひときわかん高い声を張り上げた。
二十名以上いる部員達が、おお、と一斉にどよめく。
例年ならば、この手の仕切りは主将の仕事なのだが、今年は完全に綾瀬をはじめ、マネージャ陣が主導権を握っている。高梨が野球以外の行事にまるで熱意をみせないのもあるが、それ以上に綾瀬が乗りに乗っているからでもある。
「しかも今年は、伝統的な悪趣味なものじゃなくて、マジで行きます! メイドさん衣装です!」
綾瀬が言葉に力を込める。
「おおー」
再度、部員達からは乗り気であるのか判断のつかない声があがる。話の流れがつかめずに戸惑っている、というのがおおかたの本音だろう。
「樋口君は去年に引き続きメインで頑張ってもらうから。去年は大好評で今年もみたいって各方面からまたやって欲しいって頼まれてるのよ。あと、一年は柴村君で決定だから」
「え」
話の筋がよく飲み込めていない柴村の目が点になる。
「大丈夫、柴村君は絶対メイド服似合うから。うん、このツートップなら、去年以上に商売繁盛間違いなし。いい? この文化祭の売り上げは当然ながら大切な部費の足しになるんだから、みんな頑張ってよね」
「おー」
檄を飛ばす綾瀬の熱気にあてられたかのように部員達が声を返す。
「なあ、綾瀬って野球部のマネージャの仕事でたいがい目一杯頑張ってると思ってたけど、まだ余力があったみたいだな。普段よりパワーが一段階上だぜ」
市川が、さすがについていけん、と言いたげに高梨にささやいた。
「まあ、いいんじゃねえの。予算の問題は綾瀬も頭が痛いところだろうし、あんまり文句言うと、『甲子園に連れていってくれるって話はどうなったの?』とか切り返しを食らいかねん」
「そりゃそうだ。どっちにしろ、俺は今年は裏方みたいだな」
根が騒ぎ好きの市川は少々残念そうに呟いた。
そして文化祭当日の朝。
「ぐはー。半端に似合っているだけに余計異様だぁ」
メイド服姿の樋口と柴村を前に、去年に続いて買い出し係として天然水のペットボトル他を抱えて教室に入ってきた高梨が押しつぶしたような声をあげる。
綾瀬が大張り切りで準備しただけあって、衣装はかなり本格的なものだ。青みがかった紺色の長袖ワンピースに白い定番のエプロンドレスだけではなく、カツラの上からはしっかりヘアピースもつけている。
「勘弁してくれよ。こっちの身にもなってくれよ」
「笑ってくれるほうが、僕としても気が楽なんですけど……」
そう反論する樋口と柴村だが、どちらも自分で自分の格好を笑い飛ばせる性格でなく、もじもじと照れてしまう為に、余計に見る側が気恥ずかしくなってしまう。
樋口の整った顔立ちは今更言うまでもなく、去年も見ているから心配していなかったが、おっとりとした童顔の柴村も、なかなかに様になっている。さすがに綾瀬の見立てに狂いはないというところか。
「いや実際、たまらんぞ。俺、なんかナニがおったちそうな気がする」
設営を担当していた越川が、落ち着かない様子で坊主頭をしきりに掻いている。
「気色の悪いことを言うなよ」
げっそりとした顔の高梨はまともに反論する気力もない。
「でも、すごいですよねえ。綾瀬先輩があれだけ乗り気だったのも判るような気がしますよ。女が女に惚れる? じゃないか、とにかく、樋口先輩も柴村君もすごく綺麗だと思いますもん」
柴村の衣装あわせの作業を手伝っていた矢沢が、悔しそうに口を尖らせている。
「確かに、お前よりは似合ってる」
「むきー!」
矢沢は高梨の向こうずねを蹴ってこようとするが、予想していた高梨は難なくこれをかわす。
「言ったでしょ、今年はマジなんだから。メイド服は上背はともかく、体格をなるべく隠す為なんだからね。ただの趣味じゃないんだから」
教室の三分の一ほどを占める暗幕を張った作業場から顔を出した綾瀬は得意満面だ。
確かに、樋口と柴村の着るワンピースの丈は膝下まであり、さらに茶色のブーツを履いているため、足の太さをあまり感じさせない効果があった。丈だけでなく、腕の部分も全体的にゆったりとしたデザインになっているのも、もちろん計算尽くなのだろう。
とはいえ、この凝りようは計算だけのものであるはずがない。
「いや、半分以上は綾瀬の趣味だと思うぞこれは。これって、今はやりのゴシックロリータってやつか?」
高梨の問いに、綾瀬が少し驚いた表情を見せた。
「高梨君がそんな言葉知ってるとはちょっと意外ね。けど、この衣装とゴスロリとは関係ないわよ」
「そうか。いや、言ってみただけで意味が判ってるわけじゃない。ところで、見た目重視はいいけど、ウエイトレスが二人だけじゃあ、どうにもならんだろ」
「うん。だからちゃんと対策も考えてあるわ」
綾瀬はそう言って、暗幕の向こうに声をかけた。
すると、男装のウエイター姿の崎辺と樫尾が、こちらも恥ずかしがりながら出てきた。崎辺は姿勢もよく、なかなかに様になっているが、さすがに樫尾に同じ着こなしを求めるのは酷というものだった。
「うはー、これはこれでたまんね」
越川が間の抜けた声をあげる。その頭を高梨がすかさずはたく。
「お前はどっちでもいいのかよ。しかし、悪いなあ、二人とも。女装喫茶に女子が出るんじゃ、あとでなに言われることか」
高梨はさすがに下卑たことばかりも口に出来なかった。
その言葉に先に反応したのは崎辺だった。
「わたしは平気です。そういうの、慣れてますから。けど、樫尾先輩は……」
と、崎辺は自分より小柄な樫尾に心配げな目を向ける。
「大丈夫。樋口君が頑張ってるのに、わたしだけ楽なことばかりできないし」
樫尾はけなげな台詞を口にして、自分で照れてしまう。
「そうか。羨ましいってのも違う気がするが、とにかく、頼む。今年は材料も去年の五割増しで準備してるから、万一売れ残ったりしたら部費の足しどころじゃなくなるからな」
我ながら気のきかないことを言ってるな、と高梨は思う。
「さ、もうすぐ開店だから、気合いいれていくわよ」
綾瀬が力強く宣言する。腹をくくったのか、樋口も柴村もそれに応じて頷いていた。
樋口達の頑張りもあり、さらには噂が噂を読んで、野球部の女装(男装)喫茶は昨年以上の大成功をおさめた。綾瀬が得意顔になったことはいうまでもない。
もちろん、この売り上げだけで部費を賄えるほど甘いものではないが、河野の家族の不幸や、公式戦で結果を残せないもどかしさなどの沈んだ空気を払う効果は大きかった。
また宣伝の為、二人の写真を撮って作成したチラシも好評で、後々にまで話題を振りまくことになった。
これが校外にまで流出し、他校の野球部の手に渡った結果、時季はずれの練習試合の申し込みが数校から寄せられたという伝説が残るほどだった。
第二十八話に続く
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