一九九二年七月下旬、バルセロナ。
新納和斗は百メートル走の三次予選を迎えていた。夢にまで見たオリンピック。決勝に残れるなどとは思わないが、やれるだけやって見せるだけだ。日本人の意地を見せてやる。日本では東峰体育大の仲間が、鹿児島の親戚たちが応援してくれているに違いない。たとえ、その他全ての日本人にとって無関係のことであっても、彼らがいる限り全力で走ろう。新納は心の中でそう誓っていた。
スタートブロックを人一倍慎重に合わせる。新納はスタートに全てを賭けていた。一瞬で決まる勝負の、さらにその始まりの瞬間に賭けていたのだ。
左右の選手を見る。有名無名、様々な選手がいる。その誰もが自分より大きく新納には感じられた。これは緊張による錯覚ではなく、実際に新納よりもふたまわりは大きいのだ。実際、彼らにすれば新納など、ほんの子供にしかみえないだろう。
(だが、それはそれだ)
と、新納は思う。スタートだけなら相手がふたまわり大きかろうが勝つ自信がある。問題はその後だ……。
クラウチングスタートで構える。他の選手が両手を肩幅についているのに対して、新納だけはコースの幅ぎりぎりに手をつく。彼のスタート方法は、信奉するかつての名スプリンター、飯島秀雄のロケットスタートを模倣したものだ。もっとも新納自身は当然のことながらこのスタートを実際に見たわけではない。
(位置について、用意)に相当するスペイン語の合図に続き一瞬の静寂があり、そして号砲が鳴った。
新納は選手達の誰よりも早く反応して飛び出した。彼と同じ種目の井上、青戸はすでに二次予選で敗退していた。彼が最後の砦なのだ。
スタートは文句なしだった。完全に自分のものにしていたのだ。現代では時代おくれといわれるスタート方法であるが、新納はコーチ達に注意されても頑固にこだわっていた。新納は彼なりに現在の科学至上主義に抵抗していた。磨き抜かれた体と完成された走法だけが、勝負を決めるのであれば、それはもはや人間の勝負ではなく、数値で出来た世界に存在するコンピュータの勝負になってしまう。人間の能力を数値化し、コンピュータの中で勝負すればいい。新納はそんな現状に我慢できなかった。それでは勝負の醍醐味も感動もなにもないではないか、と。
が、現実は非情であった。新納がトップを走っていられたのは四十メートル地点までだった。地力に勝る外国のランナーが次々と彼を追い抜いていった。百メートルに達したとき、彼は五位だった。タイム十秒六一。決して悪くはないが決勝に進める記録ではない。
日本陸上の百メートル陣はここに全滅した。
もともと、万に一つの勝ち目のない戦いではあった。実力も体格も違い過ぎた。それにしても、あまりにあっけない敗北。そして彼らの敗北の悲劇性を増していたのは、この事実を日本人のほとんどが知らないという現実だった。水泳で一四歳の岩崎恭子が金メダルを取り、柔道では「ヤワラちゃん」こと田村亮子が銀メダルを取った。日本人の関心はこの二つに集中していた。記録を残せなかった者に用はない、といわんばかりだった。
けれども新納たちは記録を残せなかった訳ではない。四百メートル走で高野は八位になった。日本のマスコミは競ってこの快挙を報じた。日本人はアナウンサーの「高野は世界の八位だっ」の絶叫に涙した。だが新納たちが四百メートルリレーにおいて日本新記録で六位に入賞したことを、果たして何人の日本人が知っていたというのだ。彼らの快挙はまるで悪いことでもあるかのように黙殺された。
日本人は(正確には日本のマスコミは)スポーツに感動を求める。個人に華やかさがあれば、たとえ優勝できなくても、その健闘をたたえ、感動のドラマを伝える。逆に華やかさのない選手は、優勝したとしても派手に報道されることはない。同じ競技、同じ種目であっても、その華やかさに個人差というものは確かに存在している。その個人差がどうして生まれるのかは判らないが、新納がその華やかさを持ち合わせていないのは確かなようであった。
見返りのない戦い。これ程空しいものはない。新納の心に疑念がわいた。俺はなんのために走っていたのだ。自分は決して目立ちたがりやではない。だが、日本の代表が日本人に見向きもされなかった。この思いが彼をひどく傷つけ、やり場のない憤りが彼の心を暗くした。
彼の本当の戦いが始まった。
一九九二年十一月某日。
千葉ロッテマリーンズ球団事務所では、二十一日のドラフト会議にむけ、連日のように会議が開かれていた。
「武藤君の一位指名は公表してもかまわないのでは……」木樽スカウト部長代理が重光昭夫オーナー代行に尋ねた。頷くオーナー代行。会議に出席している人々の間に安堵の空気が流れた。
プリンスホテルの武藤潤一郎は千葉ロッテを逆指名していた。二年前に、亜細亜大の小池にひじ鉄を食わされたスカウト達にとって、涙が出るほどありがたい話だった。なんとしても、この話を確実にものにしたい。そのための公表作戦がオーナー代行に認められた。木樽はふうっと息をついた。が、その空気を破って、オーナー代行が尋ねた。
「今期の観客動員数はどのぐらいだったかね」
いきなりの質問に、幹部の一人が資料をめくりながら、
「百三十万五千人、一試合平均二万とんで百人ですが」
と、答えた。
「マリンスタジアムの収容人員は三万七十五人だったな」
「はい」
「なら、毎試合一万人分の空席があったという訳だな」
会議室が一瞬シーンとなった。オーナー代行は返事など期待していない、とばかりに話し続けた。
「今年はマリーンズ元年だったから、最下位でも百三十万の観客を動員できたのだ。今のままでは来年もこれだけ動員できるかわからないぞ。武藤君は悪くない。彼はいいピッチャーだ。しかし実力と人気は比例するとは限らんのだ。はっきりいって彼では客を呼べん。誰でもいい。不可能と思われる手段を講じても、客を呼べる選手を獲得してほしい」
スカウト陣の誰もが本当に不可能だ、と思った。ただ一人、若手スカウト林場を除いては。
林場は得意そうにオーナー代行にひとつの提案をだした。
話はすこし遡る。スカウト会議の二日前、林場は東峰体育大を訪れていた。
東峰体育大のウェイトトレーニングルームでは、陸上部員達が筋肉強化に励んでいた。もっともただ鍛えればいい、というものではなくて短距離には短距離に、長距離には長距離にそれぞれ適した筋肉が必要とされる。そういった科学的分野において、この大学はトップレベルだといえた。新納だけがその流れに逆行していた。その新納が日本を代表するスプリンターなのだから、関係者には頭の痛い話であった。
その新納はベンチプレスの台に腰掛けたまま、なにかを考えているようだった。さっき流れに逆行している、と書いたが、それは練習をさぼるという意味ではない。むしろ科学的には不必要と思われるほど練習をすることが問題であったのだ。
バルセロナから帰って以来、どこか気の抜けた感じがある。が、そこに居合わせた人々は、オリンピックが終わって目標がなくなったからだろう、というぐらいにしか考えていなかった。よくある事だ、と。
が、新納自身は気の抜けた原因を断定出来ないでいた。先日、中島重工からウチにこないか、と誘われた。中島重工はスポーツに熱心な会社だ。傍目にはなんの問題もなさそうに見える。が、新納は迷っていた。果たしてこれからも短距離を走り続けることが、本当に自分の望む道なのか……。
「新納先輩、お客さんです。グランドのほうへ来てください」
グランドにいた二回生の部員が、新納のところまでやってきてそう言った。
「あぁ、判った。誰?」
新納は薩摩弁を押し殺した妙なイントネーションでその部員に尋ねたが、その部員は、さあ、と首を横にふった。
新納が外にでると、一人の男がグランドへおりる階段の途中にいるのが見えた。
「あっ、わざわざすいません、陸上部だからってグランドにいるとはかぎりませんよねぇ」
林場はこう言ってしまってから、これは少し慣れ慣れし過ぎたかな、と思った。スカウトのくせに人見知りをするところのある林場は、初対面というのが苦手だった。新納はそんな林場を不思議そうに見ている。「失礼ですが、どちら様でしょうか」
「あっ、私はスカウトをやっているものです。千葉ロッテマリーンズの……」
林場の態度は不自然なまでにへりくだっていた。相手が相手だけに仕方のないことではあったが。
「スカウト、ですか?」
新納は首をかしげた。どうもよく判らない。
「君が不思議がるのも無理はない。こんなことは前代未聞、いや、正確に言えば二度めの事だから」
林場はそういって新納の出方を待った。果たして、新納は反応した。「飯島さんのことですか。代走専門でプロ野球に入った……」
「そう、その通り。良く知ってるね」
「飯島さんのことはいろいろと調べましたから。尊敬しているんです」
新納の眼が鋭くなったことに林場は気付いていた。これからが正念場だ、と心にいいきかせる。
新納が続けた。
「飯島さんが活躍できなかったことも知っています。あれでは客寄せに過ぎません。どうして同じことを繰り返そうとくりかえそうとするんですか。それに……」
「同じじゃない」
林場は新納の言葉を遮った。額の脂汗を拭う。ここで引きさがれば、ただの笑い者だ。
「君は、飯島さんは活躍できなかった、といった。だけど飯島が走者の場合の次打者の打率は四割二分四厘。出塁率は四割九分一厘もあったんだ。ただの客寄せじゃない」
新納はぐっと詰まった。林場はここぞとばかりにまくしたてる。
「僕は君の事も調べさせてもらったよ。僕が君のことを選んだのは、君が高校一年まで野球をやっていたからだ。それに、もし飯島さんのことを尊敬しているのなら、自分が仇を討つ、ぐらいの気にならないか」
新納は言葉がでなかった。林場は名刺を渡し、
「慌てなくてもいい。もし返事が決まったら、連絡してくれ」
そういってグランドをあとにした。
野球場のほうから金属バットの鋭い音が聞こえた。
野球のスパイクに慣れんといかんなあ、コーチにも相談しないと。ウェイトルームへと戻る新納の足取りは軽かった。
新納は鹿児島県鹿児島市の出身だった。ロッテのキャンプが、例年すぐそばの鴨池球場で行われているのも不思議な縁といえた。実際、新納には親に連れられてキャンプを見にいった記憶もある。
新納は中学に入ると、野球部に入った。打撃、守備、ともにまあまあだったが、走塁に関しては誰にも負けなかった。
やがて中学を卒業した新納は、そこそこに強い、という理由で鹿児島北高校に入り、野球を続けた。一年の終わりには、一番・センターの座を確保していたのだからセンスがあったのだろう。が、充実した日々は長くは続かなかった。
厳しい練習の毎日が突然にして終わった。顧問の教師の不祥事と、部員の不祥事が、立て続けに発覚したのだ。普通ならある程度の謹慎で終わるはずだった。だが話はそれだけで終わらなかった。どういう経緯があったのか判らないが、なんと校長は野球部の無期活動停止を決定してしまった。
野球部の部員達は、やがてあちこちの運動部に仮入部していった。俊足でならした新納が陸上部に引き抜かれるのに、そう長い時間はかからなかった。
野球部が再開されないまま、新納は高校を卒業した。できれば新納はここで野球に戻りたかった。しかし、高校陸上の九州大会で百メートル走を大会新記録で優勝した逸材を陸上界が手放すはずがなかった。
半自動的に推薦で東峰体育大に入学した新納は、能力を完全に開花させ日本を代表するスプリンターに成長した。もはや、野球に戻る機会も必要性もなくなっていた。
東峰体育大陸上部顧問・飛田はそういった経緯を知っていた。だが、その飛田にしても、初めて新納にプロ野球入りの話を聞かされたときは腰を抜かした。
「おまえ、本気か?」
そう聞くのがやっとだった。
「もちろんです」
新納が答えた。飛田は唸った。出来ることならば引き留めたいと思った。百メートルを一○秒一九で走ったことのある男を失うという手はない。もしそうなれば、陸上界にとって大きな痛手となるに違いないだろう。
が、飛田は、新納が陸上を続けることに疑問を持っていたことも知っていた。
「引き留めても無駄だろうな」
「申し訳ありません。ですが……」
「言わんでいい。自分の道は自分で、だ。なぁ」
飛田は手を差し出した。その手をとり、がっちりと握手する新納。もう後戻りはできなかった。
一九九二年十一月二十一日。
東京・港区の新高輪プリンスホテルでドラフト会議が始まった。話題は超高校級のスラッガー、星稜高の松井と、バルセロナでの日本代表の三菱自動車京都の伊藤や日本石油の小桧山などにしぼられていた。
もっとも伊藤はヤクルト、小桧山は新生の横浜へと決まっているのも同然だった。
松井は抽選の結果、巨人が交渉権を獲得した。千葉ロッテも武藤を順当に獲得した。
たが、千葉ロッテの関係者の緊張は続いていた。二位指名でオリックスに日産自動車九州の金田を獲られ、三位指名の三菱重工神戸の五十嵐も外して横浜に奪われてしまっても、彼らの状態に変わりはなかった。最後にとびきりの難問が控えていたからだ。指名すること自体に問題はない。そのあとに続くに違いない、興味本意の報道を受けることが彼らの気を重くしていた。そのことを始めから計算し、納得していたとしても、だ。
一方の新納は、ひとり大学の寮で報告をじりじりとしながら待っていた。テレビはもちろんつけている。が、テレビで放送されるのはせいぜい三位指名まで。林場スカウトも下位指名になるのは仕方がない、と話していたから、おそらくテレビでみることは出来ない、と考えていた。
それにしても、と新納は思った。千葉ロッテはどうして自分を獲得する気になったのだろう。新納はこのことを両親と、ごく親しい友人にしか話していない。もし千葉ロッテ側の気が変わって指名されなくても、恥をかくのを極力さけようと考えたからだ。つまり、まだ現実の事と思えないのだ。そして当然ながら、マスコミのどこも新納に関する情報を伝えてはいない。テレビでは、三位指名で千葉ロッテが東洋大の和田孝志を獲得したことを伝えていた。
スカウト用の控え室にいる林場の緊張は尋常ではなかった。事前の計画では新納は七位で指名することになっていた。それまで林場の出番はない。それでも心配症の林場は、もし他球団が先に新納を指名したら、とありえないことまで考えて胃を痛めていた。
林場はここまでの道のりを思い出していた。自分が新納獲得の提案を持ち出したとき、上層部はおどろく程あっさりと承認した。交渉期間は一か月もなかったが、なんとかここまで漕ぎ着けた。あとは指名のあとで、俺が新納本人に電話し、あとで挨拶に伺うだけだ。
翌日の、どこのスポーツ新聞の一面はもちろん「松井、巨人へ」であった。新納の記事は、三面に小さな見出しとともに載っていただけであった。だが、新納にとっては四、五面に載っていたドラフト選手の一覧のほうが、よりプロ選手になるという実感を湧かせるものであった。
「七位 新納和斗 二二歳 外野手 東峰体育大 身長一七六センチ
体重六九キロ 右投左打 生年月日 一九七○年六月二七日 入団可能性 微妙」
やがて林場や、その他の球団関係者が挨拶にやってきた。だがそれよりも先に、ダンボール一箱ものロッテ製のお菓子が送られてきて新納を苦笑させた。余談になるが千葉マリンスタジアムのベンチにも、ロッテのお菓子が置いてあり、自由に食べることが出来るようになっている。もっとも新納は、甘い物はあまり好きでなかったが……。
十二月中旬の大安の日を選び、千葉ロッテの本社で入団発表が行われた。もちろんその中に新納もいた。背番号は九九。契約金二千八百万、年俸五百五十万。
第二話に続く
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