『ぷにF1』 第一話


――Angel's Circuit





(一)


 三月十一日。オーストラリア。
 南半球の三月は夏である。太陽は頭上高くにあり、強い日差しが地上に降り注いでいる。
 アルバートパーク・サーキットで開催されるF1シリーズの開幕戦は明日であるが、熱心なファンが予選を観戦すべく多数詰めかけている。
 誰のファンであろうと、どのチームを応援していようと、彼らの表情は明るい。当然だろう。たとえ優勝出来るのは一人きりであり、一チームのみであるにしても、まだこの段階では全てが同一線上に並んでいるのだから……。
 午後からの予選と明日の決勝に備え、各チームは午前中の一時間だけ許されたフリー走行でマシンの調整に余念がない。新型マシンの出来不出来が今シーズン全体の成績に直結してくる。どのチームも、少なからぬ予算を投入して開発した新型のマシンを引っさげてサーキットに乗り込んでいる。
 ラップタイムを百分の一秒でも削り取るべく、各マシンが突き刺すような気迫を発散させながらホームストレートを駆け抜ける。その度に、イグゾーストノートと呼ばれるすさまじいエンジン排気音が響きわたる。
 在原駆は、ゴムとオイルの匂いと人々の熱気が立ちこめる、雑然とした空気に気圧され、落ち着かない様子で周囲を見回した。場所はサーキットに隣接するジャックウェル・久遠シノダ・F1レーシングチームのパドックだ。
 落ち着かないのも無理はない、と自分に言い聞かせている。
 日本国内最高峰のレースであるフォーミュラニッポンに参戦するドライバーだった駆は、昨年の十月、大クラッシュにより全治三ヶ月という重傷を負った。今はどうにか怪我は治ったものの、彼が入院している間にチームのドライバーシートは他のドライバーに奪われてしまった。
 だが、一ランク下のF3でも走り続けたい、という闘志を今の駆は持てないでいる。なにしろ命を失いかねない事故を経験したのだ。恐怖のほうが先に立つ。入院中はモータースポーツに関するニュースを完全にシャットアウトしていたほどだ。
(だったら、なんで俺はこんなところにいるんだ?)
 自問して、自嘲気味に苦笑する。どんなに恐怖を感じていようと、走りたいという欲求が静かに自分の中で息吹いているのを自覚している。今はまだそれが目覚めきっていないだけだ。
「それはそうと、はやいところ小田切さんに会っておかないと……」
 ジャックウェルにエンジンを供給している久遠シノダのチーフ・小田切には、フォーミュラニッポン時代から世話になっている。もっとも、フォーミュラニッポンのマシンは今ではほとんどが久遠シノダのエンジンを積んでいるから、小田切を知らない方がモグリである。
 久遠シノダは篠田技研製エンジンのチューニングを行っているが、今季からはシノダ・レーシング・ディベロップメント(SRD)がイングランド・アメリカン・レーシング(EAR)にエンジン供給を行っており、久遠の立場は微妙なものとなっていた。来季はシノダが二チームにエンジンを供給するとも噂されている。
 それはともかく、ドライバーシートを失って無職状態だった駆に、久遠シノダのF1部門にアシスタントスタッフとして参加する気はないか、とその小田切から連絡があったのはつい先日の事だ。同時に関係者用のパスとスタッフジャケットまで郵送されてきたことに、駆は驚きながらも感謝していた。
 もちろんドライバーとして参加する訳ではないが、曲がりなりにも憧れのF1チームの一員として行動を共に出来るのだ。リハビリを兼ねて雑用係をやるのも悪くない、と思い立ってはるばるオーストラリアまでやってきたのだが、勝手が判らずに立ち往生してしまったのは誤算だった。
 イギリスF3にフル参戦したことがある割にはずいぶんと不細工な話ではあるが、今の駆はF1の空気にすっかり呑まれてしまっていた。
 と。
 何か声が聞こえたような気がして振り向くと、少し離れたところに人が立っているのが視界に入った。
 ひどく小柄で、そのくせ黄色いドライバースーツに全身を固め、小脇にヘルメットを抱えている。みたところ、十代半ばほどの少女だった。顔立ちは日本人のそれだ。
 コスプレにしてはえらく気合いが入ってるじゃないか、と思って見ていると、視線に気づいたのか、その当人は目を細め、柔らかそうな頬を緩めて微笑んだ。
 その瞬間、駆は辺りから音が消え、景色が全て光に包まれたような感覚に捕らわれた。
 三月のオーストラリアのまぶしい日差しの中、少女の姿はどこか神々しささえ感じさせた。彼女の周りにだけ、一際強く光が集まっているようだった。
(いったいなんなんだ?)
 F1の舞台となるサーキット、というただでさえ非日常の空間にあってさえ、彼女は非現実的な雰囲気をもって、そこにたたずんでいた。
 その口元が小さく動く。
 声は聞こえなかったが、その唇の動きは『待っていた』と言ったように見えた。読唇術など初歩も知らない駆だったが、何故かその時はそう直感したのだ。
「え、一体、君は……」
 一歩、彼女に向けて踏み出した瞬間、背後から破裂音が聞こえた。駆は反射的に首を竦め、音のした方に目をやった。特に騒ぎになっている様子もない。どうやら、浮かれた観客の一人がクラッカーかなにかを鳴らしただけだったらしい。
 無意味な音だったが、それは呆然となっていた駆の意識をはっきりさせる効果をもたらした。非現実的な感覚は駆の中から消え去っていた。
 改めて、さきほどの少女の姿を探し求めた。
 いない。つい今さっきまで彼女が立っていた場所には、誰もいない。
「そんな馬鹿な……」
 駆はうめき、辺りを見回す。そんな筈はない。音に気を取られて振り向いたあの一瞬だけで、駆の視界外に走り去ることなど出来そうもないのだ。
「誰を捜してるの?」
 女の子の声が間近から聞こえた。今度ははっきりと耳に言葉として届いた。
 駆は自分の胸元が見えるほどに下を向いた。
 なんと、先ほどの少女がすぐ前に立って、駆の顔を見上げていたのだ。駆より頭二つか三つ分は背が低いため、死角に入ってしまったらしい。
「ねぇ、キミは誰? 見かけない顔だけど」
 駆が驚いている間もなく、日本語で、そう問いかけを重ねてくる。舌足らずな口調だった。
 生意気な口のきき方をする子供だな、と駆は先ほどの神秘的な印象を裏切られた思いがした。だがそのことに文句を言っても始まらない。
「えっと、小田切さんに呼ばれて来たんだ。どこにいるか知らないかな?」
 駆は膝を曲げ、目線をあわせつつ問うた。
「ふぅん。じゃ、キミはエンジンメカニックなの?」
「そういう訳じゃないんだ。ちょっと、手伝って欲しいと言われててね」
 女のコは小首を傾げた。駆もそれ以上言葉が続かず、間の抜けた空気が流れた。
「おいおい、監督や私より先にドライバーと顔合わせを済ませているのか?」
 背後から聞き覚えのある声が掛けられた。やはり日本語だ。
 駆が顔を上げて向き直ると、小田切と、彼と同年代と思しき外国人が駆のほうを向いて笑っていた。
 小田切の隣にいる外国人の顔を、駆は知っていた。慌てて直立不動になる。
「小田切さん。それに、ニコルソン監督。この度は、どうも……」
「オダギリ、彼が、キミの言っていた『アシスタント』かね?」
 外国人――ジャックウェル・久遠シノダ・レーシングチームの監督、ニコルソン=ジャックウェルは傍らの小田切に訊ねた。
 鼻の下に髭をたくわえたニコルソン監督は、自身も元ドライバーだったというだけあって、年齢に似合わぬがっしりとした体躯の持ち主だった。眼光の鋭さは獲物を狙う肉食獣のそれだ。値踏みするように駆の顔を見つめている。
「はい。カケル=アリハラと言います。アシスタントとは言っても、具体的になにをするのかはまだ聞いていないんですが」
「在原君の仕事は、彼女のサポートだよ」
 小田切はそういって、先ほど駆が話していた女のコのほうを向いた。
「ボクは伊高蓮。よろしくね」
 女の子――蓮はそう言って微笑んだ。さきほどの笑みに比べると、無邪気さだけが前に出た笑顔だ。
「レン、ワシはちょっとこの坊主に話がある。マシンの調整も済んでいるんだ。時間がないぞ。そろそろ走ってこい」
「ラジャー」
 ニコルソン監督の言葉に、蓮はおどけたように敬礼して、ピットへ向かって、とてとて、と走っていった。駆はしばし呆気にとられてそれを見送るしかなかった。
「ま、こんなところで立ち話もなんだ。我々もピットに行こう」
「サポートと言われましたが、彼女、一体何者なんですか?」
 歩きながら駆は率直に訊ねる。イギリスF3時代に実地で身につけた英語だ。聞き取れないほど酷い発音ではなかったはずだが、小田切とニコルソン監督はその問いに、顔を見合わせた。
「まさかとは思うが、伊高蓮を知らない訳じゃないだろう?」
 と、小田切が日本語で小声で訊ねてくる。困った表情をしている。
「さっきから、どこかで聞いた名前だと思ってるんですが……」
 駆の言葉は歯切れが悪い。聞き覚えがあるというのは嘘ではないが、どこで聞いたのかどうにも思い出せない。
「こんなヤツで大丈夫なのか?」
 と、ニコルソン監督も心配げに小田切に訊ねている。小田切も肩をすくめた。
「彼女はジャックウェル・久遠シノダのセカンドドライバーだ。まだ二十歳で、しかも女性ドライバーだが、とにかく速い。タイムを見る限り、同じルーキーの、ウィリアムズのジェイソン=バトルと比較しても決して見劣りしない。……本当にそんなことも知らずにここに来たのか?」
 小田切にそう言われて、駆もようやくどこで聞いたかを思い出す。去年だったか、雑誌か何かで読んだのだ。英国F3で活躍している日系ドライバーがいるという……。
「すみません、去年のクラッシュの後、どうもモータースポーツの情報をシャットアウトしていたもので……」
 消え入りそうな声を出し、頭を下げる。身の置き所がないとはこのことだ。だが、内心では、いくらなんでもあの子供体型で二十歳というのは何かの間違いだろう、と思っている。
「彼女はバトルと同じく、フォーミュラフォードとF3を一年ずつしか経験せずにF1にステップアップしている。才能はニコルソン監督も太鼓判なんだが、いかんせんレース経験が浅い。その上、メカニカルな知識が充分でなく、マシンセッティング等では少々おぼつかない面がある。それを君にサポートしてもらおうと思ったんだがね。つまり、ドライビング・アドバイザーというわけだ」
「はぁ……」
 ピットでは、一台のF1マシンがエンジン音を轟かせ、調整を行っていた。タイヤウォーマーも外され、臨戦態勢にあることが判る。
 ノーズにスズメバチを描いた、黄色と黒のカラーリングが派手なボディ。
 スポンサーの関係で、ここ数年、この二色がジャックウェルのトレードカラーとなっている。もちろん、F1マシンである以上、各所にスポンサーや商品の名前が貼られていることは言うまでもない。
 ジャックウェル・久遠シノダが今シーズンに投入するマシン・NJ10である。
 リアウイングの側面の隅に記されたカーナンバーは『6』。『R・Itaka』とゴシック体で名前も書かれている。
 搭載された久遠シノダV10エンジンが吐き出す轟音はピット内に満ち、マシンは己の存在を誇示していた。排気管からはごく薄い白煙が立ち上り、エンジンが正常に駆動していることが伺える。
 さすがに、それまで間の抜けた顔で小田切と監督の話を聞いていた駆も、戦闘態勢にあるF1マシンを間近で見て、表情が引き締まった。
 既に蓮はコクピットにその小柄な身体を沈み込ませていた。視界が確保できているのか心配になるほど、頭の位置が低い。
「準備オーケーです」
 蓮のマシンのチーフメカニックであるフレディー=スペンサーの声に、ニコルソン監督は大きく頷いた。
「よーし、行って来い!」
 無線を介さなければ聞こえるはずもないのだが、蓮はその声に応じるように左手を小さく上げ、マシンをピットロードへと走らせていった。
 初めて間近でみるF1マシンの後ろ姿を見送った駆は、改めてニコルソン監督のほうに向き直った。
「勉強不足で申し訳ありません。どうせ恥をかいたんですからこの際に聞いておきますけど、どういう経緯で彼女はF1ドライバーになったんです? 日本人みたいですけど、失礼ですが日本のモータースポーツ関係では、ほとんど聞いたことのない存在なんですが」
 開き直った駆の問いかけに、ニコルソン監督はやれやれと頭を振りながら話し始めた。
「……もう六年前になるかな。ちょうど、サンマリノでグランプリが終わった翌日の事だ。ウィリアムズ・ルノーに乗っていた、エヤトン=シルヴァがクラッシュして死んだレースだ。覚えているかね」
「はい」
 駆は頷いた。忘れる筈もない。
 日本ではバブル経済崩壊の地響きが聞こえ、日本企業がモータースポーツにジャパンマネーを持ち込むことが次第に苦しくなっていた時代。日本で最も名が知られ、親しまれていたF1ドライバー・エヤトン=シルヴァの死が決定打となり、多くの日本人をF1から遠ざける事になり、ブームは去った。
 景気の悪化と、レースに対する理解の低さは、スポンサーによる資金提供に頼らざるを得ないレースチームにどれほど深刻な問題を与えたか。当時、フォーミュラ・ジュニアからF3へのステップアップを計ろうとしていた駆にも苦い記憶はいくらでもある。
「サンマリノから戻ってくると、ワシの持っているカートスクールに妙なヤツが訪ねて来ていてな。カネもドライバースーツも何も持ってないが、カートに一度乗せてくれと言うんだ。台詞がふるっていた。『ここで使ってるカートをどれでもボクに貸してくれたら、きっとボクはここの最高タイムを出してみせるよ』と来たもんだ」
「それで貸したんですか?」
「普通なら門前払いだがな。普段は運営は別の者に任せているんだが、その日はたまたまワシが様子を見に行っていた。そういう日に顔を出したのもちょっとした巡り合わせだろう。エヤトンの死で気が滅入っていたこともある。ひたむきなドライビングを見て気晴らしにでもなればと、試しに乗せてみた」
「そうしたら、速かった、と」
「速かったなんてもんじゃなかったな。どうやったらカートがあそこまで速く走れるようになるのか、と思うほどの桁違いのスピードで走りやがったんだ、あのレンはな」
 ニコルソン監督は当時を懐かしむ優しげな目になった。
「そこからはトントン拍子でF1ですか」
「序盤はかなり苦しんだ。レースでは速いが、他のことでな。なにしろ、あいつはカートスクールに来るまでの記憶を綺麗さっぱりに無くしていたんだ」
「記憶を、ですか?」
 意外な話に、駆はおもわずオウム返しに聞き直していた。ニコルソン監督がうなずく。
「覚えていたのはレン=イタカという名前ぐらいだ。当然、警察にも照会してみたが、どうも日本人らしいとなるとどうにも捜査が進まない。余所のチームにくれてやるくらいなら、と身元引受人として家に引き取ることにしたのは良いが、レンは自分の歳も判らない有様だった」
「そんな状態で、なんでカートに乗せてくれなんて言い出したんですかね?」
「全くの謎だよ、そいつは。レンに言わせれば、『そこに行けば良いことがある』って声が聞こえたそうだがな。レースの神様がワシにレンを引き合わせてくれたんだと、今では信じている」
 監督の言葉に、駆の脳裏にさきほど出会った時の神秘的なイメージが走った。だが、実際に蓮と話してみた雰囲気とは全く異なっている。幻を見たような気分だったが、あるいは本当に『神懸かり』の走りを蓮は見せるのかも知れない。
 駆がそんなことを考えていると、ちょうどコースを一周し終えた蓮のNJ10がホームストレートを立ち上がってくるところだった。ニコルソン監督がピットウォールの手前まで足を運び、鋭い視線を向ける。駆もそれに倣った。
 甲高い排気音と低く轟く駆動音を奏でながら、そのマシンはホームストレートを駆け抜け、そのまま第一コーナーへと鋭く飛び込んでいく。ピットを出た周はタイムの計測は行われない。一周を流して走ったマシンは、最終コーナーから立ち上がってくると同時に爆発的に加速してタイムアタックに入る。
 一周する間、テレメータが弾き出すデータと、コース各所に配されたカメラからの映像で蓮の走りを見守る。最終コーナーを再び立ち上がり、フィニッシュ・ラインを越えた。
 百分の一秒まで正確に弾き出す電子計測器によってタイムが測定される。
「速いぞ! 三番手につけた」
 ピットクルーがざわついた。モニタに表示されたタイム表に駆も目を走らせる。蓮の上にいるのは、マクラーレンとフェラーリのナンバーワン・ドライバー達のみだ。
「やってくれるね。あれは決勝用のセッティングだってのに、あいつは、決勝も予選もなにも考えてない」
 ニコルソン監督は苦々しげに言い放ったが、その口振りには慈父の響きがあった。
 甲高い、久遠シノダのエンジン音を轟かせたNJ10がコーナーの向こうに姿を消す。あの小さい身体で、しかも女のコが、F1マシンを自在に操っている。
 駆はニコルソン監督のいう『レースの神様』という言葉を信じる気になっていた。
「確かに。生で走りを見せつけられると、こっちとしても信じたくなりますよ。……あ、さっき、『レンは自分の歳も判らなかった』という話でしたが、プロフィールには一応誕生日とか載っているんでしょう?」
「当然だ。年齢不詳じゃあなにかと都合が悪い。第一、自動車の免許が取れないんじゃサーキットでフォーミュラマシンを走らせるどころじゃない。仕方ないからスクールに来た日を誕生日ということにして、年齢は適当に見繕った」
「じゃあ、今年で二十一歳というのは正確じゃないんですね。下手したら、本当はまだ十六か十七歳かも知れませんよ。見たところ、二十歳というには若すぎます」
「ふむ……。『日本人は若く見える』という話を聞いていたものだから、少し上に見積もったんだが。日本人の目から見ても若すぎるか。まあ、ワシとしては、どうせなら一日も速くカートからステップアップさせてやりたかったからな」
 そう言って、ニコルソン監督はふっと笑った。
 半ば確信犯というわけか。駆は内心で呆れながらも、さすがにそれを口にはしない。
「ともかく、レンはいずれ世界を制する走りが出来るドライバーだ。それは間違いない。一日でも速くその日が来て欲しいと、ワシは願っておる」
 ニコルソン監督は真顔で言い切った。
 駆は、雑誌等で頭に入れていたこの監督評を、ようやくのことで思い出し始めていた。元々監督というよりは、チーム経営に力が入るタイプで、実戦での作戦指揮はほとんどスタッフ任せにするという。自分が育ててきた筈の蓮を駆に任す事を認めているのも、その性格にあるのだろう。
 スポンサーを獲得し、戦闘力のあるエンジン供給メーカーとの契約にこぎ着ける手腕は、ジャックウェルがF1に参戦した当時から言われてきたことだった。レーススクールを経営する一方、F1以外での主要なカテゴリーのレースでは何度も優勝してきた実績もある。
(この人にとって、レースとはなんなのだろう?)
 ふと、そんな思いが駆の頭を過ぎる。
 その後、蓮は十周ほどマシンを走らせ続けたところでピットロードへと戻ってきた。
 マシンがピットに戻され、コクピットから降りると、マスコミ関係者が蓮に群がった。背の低い蓮はたちまち人垣の中に埋もれてどこにいるのか判らなくなってしまう。その様子を駆はただ眺めていることしか出来なかった。
(ドライビング・アドバイザーと言われたって、なにをどうしたらいいっていうんだ?)
 フォーミュラニッポンのドライバー、という肩書きなど、モータースポーツの頂点に君臨するF1ドライバーの前では全く役に立たない。
 困り果てているところに、ようやくマスコミから解放された蓮のほうから、駆の元へと歩み寄ってきた。
「やあ、なにしてるの?」
 蓮の口調にはなんの屈託もない。さきほど「まだ十六、十七かもしれない」とニコルソン監督に話したが、精神年齢は公称の二十歳どころか、いいところ十歳前後だな、とさえ駆は思う。
「君のドライビング・アドバイザーをさせてもらうことになったよ。と言っても、なにをどうすればまだよく判ってないんだけど……」
「なにそれ、ヘンなの」
 蓮は笑った。駆もあまりの状況に、笑うしかないと思う。だが、笑ってばかりもいられなかった。
「えっと、それで、かなり調子は良いようだけど?」
「うーん。どうなのかなぁ。ボクはこのコースを走るのが初めてだし、まだもっとうまく走れるような気がするんだけど」
 小首を傾げる蓮。
「そうなのか……」
 駆も言葉が続かなくなってしまう。この目の前にいる小柄な女のコがF1ドライバーであるという現実を、頭のどこかが理解するのを拒否しているような感じだった。
「他人事みたいに言っている場合じゃないぞ。なんの為に呼んだと思ってるんだ」
 強く肩を叩かれて振り向くと、小田切が立っていた。
「小田切さん。ドライビング・アドバイザーなんて言われましても、こっちはF1に乗った事すらない身です。とても彼女にアドバイスなんて出来ません」
「だから、ぼんやり見ていたっていうのか? たとえば、ウイングのセッティングはあれでベストか? トランスミッションのギア比は適切か? オーバーやアンダーは出ていないか? タイヤの空気圧はどうだ。サスペンションは固いのか、柔らかいのか。お前はどう見た?」
 厳しい口調で小田切は駆に言った。
「それを、俺に見ろ、と? 直接乗っている彼女ではなく、俺に……」
「そうだ」
「あ、それいいな。ボク、マシンのセッティングは良く判らないんだ。だから、誰かに正解を出してもらえると、難しい事を考えなくて済むから、賛成だよ」
 蓮が無邪気に口を挟んでくる。
「とにかく、エンジンに問題は今の段階では発生していない。午後の予選ではセッティングを煮詰めていく。今度は力になってもらうぞ」
「……判りました」
 小田切と蓮の視線を前に、駆としてはそう応えるより無かった。
 ピットが再び慌ただしくなった。ジャックウェル・久遠シノダのファーストドライバー・ヘイウッド=フィールセンのマシンがコース上から帰ってきたのだ。
 カーナンバー『5』を記したNJ10がピットまで戻されると、フィールセンが降り立った。やはりマスコミに取り囲まれ、ひとしきりインタビューを受けた後に解放される。
「おつかれー」
 蓮は手を挙げて、そんな無邪気な声をかける。だが、フィールセンはちらりと蓮のほうを見ただけで鼻を鳴らすと、そのまま足早にパドックの方へと去っていった。
「どうしたんだろ?」
 首を傾げている蓮。駆は嫌な気がしてピットの各所に配されているモニタの一つを見上げた。フリー走行でのラップタイムが表示されている。
 蓮の名前が、フィールセンより上にある。タイム差はコンマ五秒というところ。ファーストドライバーであるフィールセンとしては面白くないだろう。ましてや、蓮はニコルソン監督が自ら身元引受人となって育ててきた秘蔵っ子だ。
「フィールセンは今年でF1ドライバー七年目になる先輩だ。ちょっとは立ててやらないと、後で困ったことになるぞ。彼はファーストドライバーだからな」
 思えば、これが駆の蓮に対する最初の『アドバイス』だった。
「えー? だけど、本気で走ればボクのほうが速いんだよ」
「たとえそうだとしても、無闇にフィールセンの前を走っちゃダメだ」
「ぶぅ」
 頬を膨らませて、不満げに駆を見上げる蓮。前途多難の思いを駆は抱かずにいられなかった。
 ちょうど、午前のフリー走行終了を告げるブザーが鳴り響いた。この後、昼休みを挟んで午後から予選が始まるのである。

(二)


 予選の結果、蓮は六番手につけた。フリー走行の時より順位は下がったが、これはここ一発で集中できるベテランドライバーを相手にする以上は仕方のないことだった。
 それでも、上位には前年度覇者のマクラーレン・メルセデスの二台と、フェラーリの二台、そしてジャックウェル・久遠シノダのファーストドライバー、フィールセンしかいない。
 フリー走行で遅れをとった彼は、死に物狂いとも思える走りで蓮のタイムを上回ったのだ。一方の蓮は、セッティングを自分で決められない弱点を抱えたまま、感性だけを武器に走っての結果だった。
 アルバートパークは、短い直線と、ことごとくブラインドになったコーナーが交互に現れる難しいコースだ。市街地コースにありがちな九十度コーナーが無いだけマシというところ。一部公道をそのまま用いるため、タイヤがしっかり路面をグリップしない場所もある。
 駆の見たところ、蓮のマシンはストレートエンドでスピードが頭打ちになっているように見えた。ウイングを寝かし気味にしつつ、その分落ちるグリップをタイヤ空気圧を減らし、サスペンションを柔らかいものに変更して対応するようにアドバイスを出したものの、チーフメカニックのスペンサーにその案を却下されてしまった。
 曰く、「このコースはコーナーをいかに高速でターン出来るかにかかっている。ウイングの設定は前年度からの経験則に基づいており、無闇に寝かせられない」とのことだった。
 そう言われてしまえば、今日飛び込みで来たばかりの駆としては引き下がるしかない。いちおう小田切を通じてニコルソン監督も駆の存在を認めてはいるが、その権限は極めて曖昧であった。
「どうもなんだか、俺は蓮のマネージャとして雇われていると思われているらしいぞ? スペンサーにメカニックのことまで口を出すな、と言われた」
 ミーティングを終えた駆は身の置き所が無く、思わず蓮にそうこぼしてしまう。
「ふぅん。うまくいかないもんだね」
 一方の蓮は、タイムがルーキーとしては上出来のものであった為か、あっけらかんとしたものだった。もっとも、彼女自身は、「決勝では一番でゴールするよっ」と堂々とマスコミ相手にぶちあげてニコルソン監督以下を苦笑させていたのだが。

 明日の準備を済ませたドライバーは一足先に引き上げるが、メカニック達は深夜までマシンの調整に追われることになる。小田切以下、久遠のスタッフも同様だ。駆だけはどうしてよいのか自分の立場を把握できない。
「どうした、在原君。なにをやってるんだ?」
 パドックでまごついている駆に、小田切が声を掛けた。
「戻ってよいか、判らなかったもので。一応、久遠のスタッフですから、残っていないといけないのかな、と」
「なんだ、そんなことか。戻って構わないぞ。どのみちメカニックの仕事をさせるつもりもない」
「それが実は、急な話だったもので、戻ると言われてもホテルをとってなくて……」
「何を言ってる。君はもう、久遠の一員であり、ジャックウェルの一員なんだ。心配しなくても、ちゃんとホテルの名簿に名前は入れてある」
「あ、ありがとうございます」
 駆が恐縮して頭を下げると、小田切が肩をすくめて笑った。
「とはいっても、私と同室だがな。先に戻っていてくれ。寝ていて構わない。こっちのことは気にする必要はない」

 サーキットからホテルに戻っても、駆には特にしなければならないこともなく、時間を持て余してしまう。まだスタッフとも馴染めていないし、決勝を明日に控えたF1チームがどのようなスケジュールで動いているのかもはっきりと判らない。
 無理もないさ、と自分に言い聞かせる。
 あまりにも展開が急すぎた。なにをやるのか聞きもせずにやってきて、いきなりF1ドライバーにアドバイスしろと言う方が無茶なのだ。
 ホテルの部屋。電気もつけずに、欧米人サイズのでかいベッドに身体を投げだし、天井を仰ぎ見ながら、そう思う。
 悩んだところで状況は変わらない。小田切に言われたとおり、目を凝らしてマシンの挙動を自分の感覚で掴み取り、ドライバーのフィーリングとつきあわせ、それをセッティングに反映させるだけだ。だが、簡単な話ではない。
「自分でステアを握るんだったら、なにも悩むことなんか無いんだ……」
 どうしても思いは、昨季の鈴鹿サーキットでのクラッシュに向かってしまう。

 フォーミュラニッポンの最終戦。
 レース中盤、二位を走行していた駆はトップのマシンの背後に迫って第一コーナーへと飛び込んだ。トップのマシンを抜く自信はあった。だが、マシンのグリップ力ぎりぎりのコーナリングを決めたつもりだったが、いきなりグリップが失われ、マシンはスピンし、砂煙をあげてコースアウトしてしまった。
 頭に血がのぼったが、幸いにもエンジンは止まっていなかった。コースアウトした勢いを失わずにそのままコース上に復帰しようとしたとき、周回遅れのマシンが排気煙と砂煙の向こうから姿を現し、駆のマシンの横腹にヒットしたのだ。
 彼が次に気が付いた時は病院のベッドの上だった……。マシンは大破し、スピンの原因が機械的な要素であると結論づけるものはなにも発見されなかった。結果、ハンドリングのミスと結論付けられた。
 そこそこ速いかも知れないが、危なっかしいドライバー。駆の評価がそう定着するのに時間はかからなかった。
 失ったのはドライバーとしての評価だけでない。可能性を残していたシーズン総合優勝も、来季のシートさえも駆は失った。
 だが、今さらそれを言っても始まらない。ここに来た以上、小田切の期待に応え、あの伊高蓮という女のコの為に一肌脱ぐしかない。自分がその任に耐えるだけの能力を持っていれば良いんだが……。

(三)


 日曜日。オーストラリアグランプリ決勝。天気は晴れ。気温二十五度。
 報道関係者やチームのメカニック達がコース上から退去させられ、ダミーグリッドに並んでいたマシンがフォーメーションラップに入る。
「セッティングはアレで良かったのか?」
 ピットに戻った小田切が駆に訊ねる。
「まあ、スペンサーも彼女も、朝のフリー走行の結果を見た上で、イニシャルセッティングで良いって言ってるんだから、それでいいんでしょう」
 駆の口調はぶっきらぼうになっていた。昨日の決意とは裏腹に、スペンサーと蓮のミーティングに、なんとなく口を挟みかねたのだ。昨日の今日であり、駆は気後れせずにチーム運営の核心に切り込めるほど図太い神経の持ち主ではなかった。
「そんな事では困るな。君のドライバーとしての腕を買っているからこそ、こうして呼んだのだから」
「はぁ……。ですが、ドライバーの癖はそれぞれですから。俺の好みでセッティングをする訳にはいかないじゃないですか。第一、俺はF1マシンに乗ったこと自体無い」
「そこは想像力を働かせて、だ」
 小田切は苦笑しながら言った。おそらく無茶を言っているという事は自覚しているのだ。
「ジャックウェルの秘蔵っ子、なんとかいっぱしのドライバーとして認めてもらえると良いですがね」
「他人事のように言うな。スペンサーがなんと言おうと、ドライバーとしての意見を簡単に引っ込めるな。それが彼女の為にもなる」
「その為には、まず蓮が俺の事を信頼してくれないとダメですけどね」
 このレースで、蓮が直線でのスピード不足を訴えてくれれば、自分の意見にチーフメカニックも納得してくれるだろう、と駆は考える。だがそれは、蓮が思うような走りを出来ないことを意味している。

 フォーメーションラップを終えた全二二台のマシンが、前の順位のマシンの斜め後方に互い違いに並ぶ、スタッガードと呼ばれる方式のグリッド上に並ぶ。ポールポジションは過去二年連続総合優勝のマクラーレン・メルセデスを駆るエウロ=ルッキネン。斜め後方に、セカンドドライバーのランディ=クルサージを従えている。
 ルッキネンの背後につける三番手は、『皇帝』と呼ばれるフェラーリのファーストドライバー、アルベルト=シューバッハだった。やはり彼の斜め後ろに控える四番手は、同じフェラーリのルーシャス=バリチェス。フィールセンと連は、共にフェラーリのマシンを眼前に見てのスタートとなる。
 五つのレッドシグナルが一つずつ点灯していき、思わず息を詰めるような間をおいてブラックアウトした。
 マシンが一斉にスタートする。第一コーナーへの飛び込みはルッキネンが制した。ついでクルサージ、シューバッハ、バリチェスが予選順位通りに飛び込んでいく。この時、その後方で異変が起こった。なんと、六番手スタートの蓮が二列縦隊の中央突破を計り、斜め前にいた五番手スタートのフィールセンの頭を抑えてしまったのだ。
 セカンドドライバーはファーストドライバーになにかトラブルが発生しない限り、その後方でアシスト役に回るのが鉄則である。予選順位がファーストドライバーより前になったのならともかく、スタートでファーストドライバーを抜くセカンドドライバーなど、常識はずれも良いところだった。
 だが、驚いている間もなく、蓮は久遠シノダエンジンの強力なパワーにものを言わせ、二つ目のコーナーで四番手スタートのフェラーリのルーシャス=バリチェスもかわし、順位を四位にまで跳ね上げていた。こうなってしまっては、ニコルソン監督としても、フィールセンを前に出せと指示を出すわけにはいかない。
 その後は、順位の変動のないまま先頭集団は周回を重ねていく。蓮の走りのキレは衰えを知らないが、他のマシンも決して簡単に引き下がりはしない。マクラーレンの二台が逃げ、それをかろうじてシューバッハが追撃、やや間があいた位置をキープし、蓮は走る。
 ピットウォールを隔てたホームストレートを、空気を切り裂き、爆音を響かせてマシンが次々と駆け抜けていく。
「負けるなっ。このまま表彰台まで行けっ!」
 聞こえるはずもないのだが、駆が声を張り上げる。もはや、スペンサーと自分の意見のどちらが正しかったなど関係無かった。
 蓮の直線のスピードはやはり物足りない。だが、彼女の本領発揮はコーナーのクリアの仕方だった。
 通常、コーナーをクリアする際には、コーナーのアウト側いっぱいにマシンを持っていき、充分に速度を落としてから、イン側に決めたクリッピングポイントと呼ばれる一点をかすめ、コース幅いっぱいを使って脱出するのがセオリーだ。俗に言う、アウト・イン・アウト、スロー・イン・ファースト・アウトと呼ばれる大原則である。
 だが、蓮はそのセオリーの許容範囲ぎりぎりのレーシングラインをとる。他のドライバーよりコーナーへ切れ込んでいくタイミングが速い。そしてブレーキングのタイミングは極めて遅い。したがってコーナーの脱出時にはアウト側にはらんでしまうのだが、そこを踏みとどまって通常のラインに乗りつつ、素速くアクセルを踏み込んでコーナーを立ち上がってみせる。
 無茶なように見えるのは、マシンの限界を越えてしまいそうなスピードで飛び込んで行くからだ。タイヤがグリップ力の限界を越えれば、マシンは良くてコースアウト、下手をすればスピンして重大な事故につながりかねない。だが蓮は、常に他のドライバーよりも限界の見極めがつくと言わんばかりにコース上に踏みとどまり続けている。
「なんであんなライン取りでコースアウトしないんだ……」
「レンは、グリップの限界を理屈や数値でなく、自らの五感で常に把握出来る力を持っている。同時に、ミッションのギア、エンジンの回転数、アクセルの踏み込み、この三つが生み出すトラクションを完全に掌中に収めているんだ」
 ニコルソン監督の言葉に、駆は唸ることしか出来なかった。感心はするが、同時に疑問も抱く。
 コーナリングの際にレーシングラインをほんのわずかとはいえ外ながら走ることは、他のマシンがラインから掃き出したコース上のゴミや、タイヤの滓をラジエターに吸い込む事を意味する。レーシングライン以外は路面状態も悪いため、タイヤのグリップ力は低下し、損耗も通常より激しくなる。一時的にタイムは稼げるにしても、危険だった。
 給油やタイヤ交換を必要としない、スプリントレースであるフォーミュラフォードやF3で身に付けたテクニックなのだろうが、それがどこまで長丁場であるF1で通用するのか。
(天賦の才能なんだろうが、もっとうまく使うことは出来ないだろうか?)
 駆はどうしても安心して蓮の走りを眺めている事が出来なかった。
 彼の思いとは無関係にレースは進む。トップの周回数は十八周目となり、ツーストップ作戦のマシンがルーティン・ピットインを間近に控えるところまで来た。
 F1では、給油とタイヤ交換が勝敗を決める重要な鍵となる。燃料を多く積めばそれだけ重くなり、マシンのスピードにダイレクトに悪影響を及ぼす。ピットで給油作業によるロスを差し引いても、レース中に一度か二度の給油を行う方がトータルとして速くなるのである。
 また、F1マシンには高速でカーブを曲がる際には重力のおよそ四倍に相当する荷重がかかる。タイヤが路面をしっかりと掴んでいなければ、マシンは遠心力に負けてコースの外に放り出されてしまうことになる。
 F1用のタイヤは、乗用車に用いられるタイヤとは、同じタイヤという呼び方をすることが疑問に思われるほどに異なっている。どちらもゴムとカーボン(炭素)で構成されているが、その比率が異なる。カーボンを多くしたF1用タイヤは柔らかく、路面に吸い付くようにグリップする。その反面、耐久力が無く、高速で走行するとあっという間にボロボロになってしまう。
 従って、ピットで給油を行うと同時にタイヤを交換するのがセオリーとなっている。F1のタイヤは極めて短時間で取り外しと取り付けが出来る仕組みになっており、熟練したピットクルーのタイヤ交換要員達が迅速に作業を行えば六秒ほどしかかからない。
 反面、一秒間に給油できる量は機械的に定められており、給油を行った秒数でどれぐらいの燃料を積み、次のピットインまでどの程度の周回を走らせるかを概ね予測出来る。
 ピットでのロスタイムとタイヤの摩耗、そして燃料搭載量の多寡によるスピードの差、この兼ね合いがレースの行方を左右するのだ。
 蓮はトップから十五秒遅れで走行している。
 そしてフィールセンとバリチェスをオーバーテイクして五位に浮上してきた、ウィリアムズのクルト=シューバッハ(アルベルト=シューバッハの実弟)を引き連れ、左曲がりのコーナー・125Rに進入した時、それは起こった。
 駆の見つめるモニタの映像で、蓮の車体が微妙にぶれたかと思うと、マシンのノーズがいきなり左を向いた。駆のドライバーとしての目で見ても、立て直す為にカウンターを当てる間もなかったのが判った。NJ10は為す術もなく、スピンしながらコースアウトして砂煙を巻き上げていた。
 バウンドする車体がようやく止まった。エンジンもストールしている上に、アンダートレー(車体の下面)が砂地の上に乗り上げてしまっている。この砂地はグラベルと呼ばれ、コースアウトしたマシンを減速させて事故を防ぐものであるが、車体の低いF1がここに入り込み、起伏に腹をつけてタイヤを空転させてしまうと再スタートは不可能だ。
「一体何が起こったんだ……」
 駆だけでなく、モニタを睨んでいたスタッフが一斉に嘆いた。まだ蓮の姿を映しているモニタの映像を注視する。
 まずステアリングを外し、次いでシートベルトを外して車外に降りる蓮の姿が大写しになった。それからカメラが切り替わり、コース端に、ウィリアムズのマシンのフロントウイングがコース外に転がっているのがアップで捉えられる。
 蓮に頭を抑えられていたクルト=シューバッハが、アウト側から無理なオーバーテイクを仕掛けようとしてフロントウイングをNJ10の右リアタイヤにヒットさせてしまい、蓮をコース外に押し出してしまったのだ。この後、クルトはウイングを失った為にピットインを余儀なくされ、結局はラジエターの損傷によるエンジントラブルでリタイアする羽目になる。
 ジャックウェルのピットクルー達が失望の声をあげる。だが、まだピットイン間近のフィールセンがコース上に残っている為、蓮の事を気遣っている余裕はない。
 レースが半分を過ぎた頃、蓮が歩いてピットにまで戻ってきた。なぜか砂まみれだった。ヘルメットを抱え、その足取りはやはり重い。マスコミの質問に言葉少なに応じてから、モーターホームに戻る。駆はその後を追った。
「この砂はどうしたんだ?」
 頭についた砂を払ってやりながら駆が訊ねる。
「マシンをヒットされて頭がくらくらして、降りるときにグラベルの中でコケちゃったんだ。今は平気なんだけど」
 蓮はぺろりと舌を出す。身体の方は大丈夫そうだった。
「それにしても、惜しかったな。四位だったのになぁ」
 駆の言葉に、蓮は力無く笑った。
「しょうがないよ。不可抗力だもん」そう言ってから、小さく付け加えた。「実は、ボクのマシン、ギアがちょっとおかしかったんだ」
「ギアボックスのトラブルか?」
「わかんない。とにかく四速に入れた筈なのに入ってない感じになって、でもステアリングの液晶表示は四速になってて、もう一度シフトレバーを入れたら五速になって、五速であのコーナーは曲がれないって思って慌ててたら後ろからドカンって」
 舌足らずな口調で、懸命に身振りを交えて言い募る。だが、話の内容は傍目でその身振りを眺めるだけでは信じられないほど重い。
「その話、記者にしたか?」
 蓮はぷるぷると首を振った。
「なんか、ヤバそうだったからやめといた。外からみただけじゃ判らなかっただろうし」
 そういって、蓮はにっと笑った。
「ま、なんにせよ、いい走りだったと思うよ」
「うん……。ボクとしては、もうちょっとストレートで伸びてくれると楽しかったんだけどね」
「やっぱりウイングをもうちょっと寝かせたほうが良かっただろ?」
「うん、カケルの言うとおりだった。スペンサーに言ってみるよ。カケルの言うことを聞いてあげてって」
 その言質をとれただけで、成果としては充分だろう、と駆は思った。初めて出会ったときの不思議な印象は、駆の脳裏からは早くも薄れはじめていた。それを再び思い出すには、この後まだしばらくの時間を必要とする。

 レースは、一位、二位を独占していたマクラーレンの二台が、相次いでエンジントラブルでリタイアし、フェラーリ勢がそのまま繰り上がってワン・ツー・フィニッシュを決めた。 ジャックウェル・久遠シノダのフィールセンは期待空しくリタイア。マスコミには詳しく発表されなかったが、やはりギアのトラブルであった。この後も、ジャックウェルは性能向上と引き替えに信頼性を失った今シーズン仕様のギアボックスに悩まされることになるのだが、今の駆達は漠然とした不安以上のものを感じていなかった。

 第二話に続く

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