『ぷにF1』 第四話
――Angel's Circuit
(一)
サンマリノ以降、ジャックウェルには依然として厳しい戦況が続いていた。
第五戦はスペイン・カタロニアサーキット。
数本のストレートあり、低速、中速、高速それぞれでクリアすべき複合コーナーあり、とドライバーの腕もマシン性能も試されるコースレイアウトとなっている。事実、多くのチームがこのサーキットをニューマシンのテストに用い、その実力を分析する。
レースウィーク前に、蓮は二一歳の誕生日を迎えていた。パドックでは、誕生日ケーキが用意され、立てられたロウソクを吹き消してみせるパフォーマンスでサービスにつとめる。プレスはドライバーの誕生日だけでなく、チーム参戦回数やドライバーの出場回数といった、節目をネタにすることが多い。
「ホントは、誕生日って言われてもぜんぜんピンと来ないんだけどね」
散々無邪気にはしゃいで見せた後、プレスが引き上げた段になって、蓮は駆にそうこぼしてみせた。少なくとも蓮にとっては、全く実感の沸かない話には違いなかった。
従って、誕生日を勝利で飾りたい、といったモチベーションは彼女にはない。だからといって、走りが消極的になるはずもない。いつもと変わらない彼女なりのベストでコースに挑む。
結果は、予選七番手ながら決勝では十二位に終わった。
ここまで予選より順位をあげるか、リタイアかのどちらかだった蓮がはじめて順位を下げての完走となった。目立ったトラブルもなく、蓮の走りが精彩を欠いた訳ではなかったのだが、あまり良いところ無く終わってしまった。
ドイツのニュルブルクリンクで行われた第六戦・ヨーロッパグランプリでは、予選六位につけたのは良かったが、決勝ではギアトラブルでリタイアしてしまった。
対して、ファーストドライバーであるフィールセンは、スペインでは予選八番手から決勝六位で一ポイントを獲得したものの、ヨーロッパグランプリでは蓮と同様にリタイアに終わった。一向に改善されないギアボックスのトラブルに泣く形になった。
ここまでの戦績で、予選のようなここ一番での速さでは蓮が上、レース全体を通した強さではフィールセンにまだ分がある、という評価が定まってきていた。
まだまだ蓮の走りには、決勝での長丁場を戦い抜くには安定感が欠けると見られているのだ。だが、彼らに共通する意見は、マシンの信頼性がもう少し高ければ、成績も良くなる筈だ、というものだった。
しかし、F1において信頼性に欠けるのは、徹底してマシン開発を行った結果の裏返しでもある。一概にその点だけを指摘して済む問題ではない。
メカに関する付け焼き刃的な知識をなんとか少しでも高めようとしている駆には、そのジレンマが痛いほどに判った。少なくとも、現場では誰もがベストを尽くそうとしているし、マシン開発に携わるエンジニア達にとってもそれは同様だろう。
それでも、問題がある以上は必ずどこかに原因がある事もまた事実なのだ。そして、それを充分に検討する余裕も与えられないまま、次のレースが巡ってくるのである。
三月に開幕し、半年に渡って全一七戦で争われるF1グランプリは、六月に入って、一七戦の中でも特に重要な一戦を迎えようとしていた。
第七戦のモナコ・グランプリである。
モナコは、F1にあっては象徴的な意味合いを持つ伝統あるレースで、そうでなければ、安全面での規定が年々厳しくなる中にあって、条件としては最悪に近い公道コースによるレースがいつまでも開催出来る筈がなかった。
チャーター機でマシンが到着した火曜日にあわせて現地入りした駆は、思い立ってまだ公道として用いられているモンテカルロ市街地コースを、バイクで下見してみることにした。
レイアウトも路面状況も、通常のサーキットとは全く違う為、実際に走ったことのない駆にはアドバイスのしようがない。せめて実際に走ってみることで、なにかの参考になればと思ったのだ。
専用のサーキットであれば、オフロード用のバイクを持ち込むことさえ許可されないだろう。それだけに、貴重な経験となる筈だった。
世界中の大金持ちが集うモナコ。
地中海に面した斜面に広がる町並みは、それ自体が巨大なリゾート地となっている。超高級ホテルが建ち並び、ヨットハーバーには純白のヨットやクルーザーが舳先を並べている。
レースウィークであり、F1ファンのみならず、観光の一環としての客も、既にかなりの数が押し寄せてきている。国にとって極めて重要な収入源となっている事がよく判る光景だった。
(自分のカネじゃ、到底こんなところには来られないよな)
F1チームスタッフの一員になったことを素直に喜びつつ、ホテルからスタート地点まで移動した駆は、到着すると一度バイクを止めた。腕時計のストップウォッチ機能をオンにして、アクセルをふかす。
もちろん、同じ事を考えるのは駆だけである筈がない。さすがに現役F1ドライバーがスポーツカーを持ち込んで走っているのを見かけることは無かったが、レーサー気取りの連中が、週末にはレースコースとなる道を危なっかしく走っている。
とはいえ、駆も人のことを言えた筋合いではなかった。
オフロードのバイクであっても、タイヤのグリップを気にするような高速で飛ばすことはしなかった。というよりも、他の車が多すぎて、したくても出来なかったのだ。他の邪魔をしているつもりはなかったが、目障りには思われていたかも知れない。
何周か走り込み、おおよそのレイアウトを把握してスタート地点に戻ってくると、蓮が歩道で手を振っていた。小田切も一緒にいる。
「蓮、どうした? それに小田切さんも」
「ねえカケル、ボクにも乗せてよ」
「二輪の免許持ってるのか?」
蓮は首を振った。
「じゃ、ダメだろ。F1ドライバーが無免許運転で捕まったら洒落にならない」
「だから、うしろに乗せてよ」
「また二人乗りか……。危ないぞ」
「ちゃんとしがみついてるから大丈夫だよ」
この会話は、ブラジル以降、何度か繰り返されたものだった。蓮は駆のバイクの後ろに乗るのがお気に入りらしく、最近ではサーキットにくる時はニコルソン監督の車に乗り、ホテルに戻る際はほとんど駆に任せきりとなっている。
駆としては、バイクの腕を信頼してくれるのはありがたいが、万が一の事を考えるとあまり喜んでいられない。複雑な気持ちになる。
「しょうがないな。小田切さん、どうします?」
「まあ、下見になるんだ。つきあってやってくれ」
「はい、了解です」
蓮はいつものようにF1で使っているヘルメットと手袋は持ってきていたが、装備はそれだけだった。そのヘルメットをかぶり、蓮は駆の後ろでバイクにまたがった。駆の腰に両手をまわしてしがみついてくる。ヘルメットが背中に押しつけられてくるのが判った。
「落っこちるなよ」
「判ってるよ。毎回言わないでよ。ボク、そんなにドジじゃないもん」
「ま、そりゃそうだろうけど。油断はするなよ。四輪と違って、バイクはコケる事があるんだから」
乾いたエンジン音が響く。同じ高音であっても、F1マシン用エンジンの力強さは感じられず、音が軽い。排気量で十倍以上も違うのだから当然といえば当然だが。
駆は再びコースに沿ってバイクを走らせた。
「どうだ?」
エンジン音と周囲の騒音に負けないように、駆は背後の蓮に呼びかけた。
「え、なにが?」
「コースの下見になってるのか、ってこと!」
蓮はしがみついているばかりで、本当にコースの下見になっているのか、駆にはやや疑問が残った。
「うん、楽しいよ!」
案の定、訳の判らない返事が戻ってくる。だが、走っているうちに駆もどうでも良くなってきた。たっぷり一時間、ぐるぐると同じところを走り続けた。
(二)
金曜日。朝。
「……しまった!」
午前中のフリー走行を控えた駆の朝は、ののしり声で始まった。彼にしては珍しい寝坊だった。世界各地を転戦するF1チームの生活リズムに慣れ始めた、という油断があったのかもしれない。
慌てて着替えると、ホテルでの朝食もとらずに飛び出し、すぐにバイクに跨ってサーキットに向かった。
市街地コースの中にホテルがあったのが幸いだった。ピットまでは、歩いてでもたどり着けるほどの距離である。
なんとかフリー走行の開始直前に辿り着いたが、当然ながら既に監督以下の主要スタッフは既にピットに顔を揃えていた。フィールセンのマシンの暖機が始まっている。
「申し訳ありません、寝過ごしてしまって……。あれ、どうしたんですか?」
小田切が難しい顔をしているのは、駆が遅刻したからでは無かったようだ。
「蓮がまだ来ていない。一緒じゃなかったのか?」
「は?」
駆は、ちらりとニコルソン監督のほうを見る。普段、蓮がサーキット入りするときは監督の車に同乗し、ホテルに戻るときは駆がバイクのバックシートに乗せて帰るのがいつものパターンになっている。
「ホテルからここにくる時に、ロビーに居なかったんだ。すぐ近くだから、歩いて先に来ているのかと思っていたんだが」
さすがにニコルソン監督もバツの悪そうな顔をしていた。
「前代未聞ですね。蓮のヤツも、一体なにをやってるんだか」
駆も、自分も寝坊している以上あまり大きな口は叩けない。
「そういう訳だ。急げば今からでも午前のフリー走行には間に合う。ちょっと走って叩き起こしてきてくれないか。最悪でも、午後には間に合わせないと話にならない」
ニコルソン監督の頼みに、駆はすぐさま頷いた。
「判りました。迎えに行ってきます」
「レーシングスーツを着せて、ヘルメットをかぶせるのを忘れないように。少々恥をかくかもしれんが、いい薬になるだろう」
確かに、寝坊して遅刻したドライバーを乗せてサーキットにバイクで乗り付けるシーンは、滑稽かも知れない。だが、蓮はそんなことは気にしないだろう。
再びオフロードバイクにまたがった駆は、元来た道を駆け戻ることになった。
ロビーで途方に暮れているかも知れない、と思い、部屋に戻る前に先にそちらに回って探してみるが、小柄な蓮の姿は見あたらない。
「まだ寝てやがるのか?」
部屋の番号はあらかじめ聞いていた。蓮の部屋の前まで来て、ノックしてみる。
「蓮、いるか?」
返事らしい返事を待たず、ドアノブを回す。開いた。
「なにやってるんだ。午前のフリー走行に間に合わないんじゃ、大恥だぞ」
部屋に入り、ベッドの布団に潜り込んでいる蓮の姿を発見する。
「まだ寝てるのか……」
シーツをはぎ取って怒鳴りつけようとして、駆は言葉を飲み込んだ。
様子がおかしい。うっすら目をあけた蓮は力無い笑みを浮かべるが、息が苦しそうだ。顔がひどく火照っている。
「どうした」
「なんか、熱あるみたい……」
どうやら、風邪を引いたらしい。駆が額に手を当ててみると、酷く熱い。
「頼むよ、こんな時によ」
駆は思わず脱力して、床に両膝をついていた。
「う〜」蓮の声も情けない。「大丈夫、明日には治ってるから……」
「無理すんな。こんな身体で走れるかよ」
「大丈夫だもん!」
むきになって蓮が言う。だが、どうみても走らせられる状況ではない。言葉とは裏腹に、身体も起こせない状態なのだ。
「寝てろ。いいな」
無理に言い聞かせ、駆は国際規格の携帯電話を取り出した。小田切に電話を入れ、医者の手配と、今日の走行を見合わせるよう伝える。
「明日までに治せればいいがな。代理のドライバーを呼んでくるのは、ニコルソン監督でも大変だろう。ジャックウェルにはテストドライバー契約しているのがいたかな……。まったく、俺がスーパーライセンスを持っていたら、代わりに乗ってやりたいところだぜ」
駆はぶつぶつと言いながら洗面所に行き、タオルを水で冷やしてしぼり、唸る蓮の額に乗せた。部屋に戻れば風邪薬もあるが、医者を呼んだからまだ飲ませないほうが良いだろう。風邪のつもりで対処しているが、もしかしたら他の病気かも知れない。
ベッドの隅に腰を下ろし、蓮の顔を伺う。
しばらく唸っていた蓮は、駆が来たことで安心したのか、それとも今日のフリー走行に参加出来ないことが決定して気が抜けたのか、やがて眠ってしまった。
しばらく、駆はじっと蓮の寝顔を見下ろしていた。
「やっぱり、まだ子供だよなぁ。これで二十一歳だなんて、詐欺だぜ」
あまりにか弱げな姿に、駆は胸が締め付けられる思いを抱いた。こんな小さな身体で、大の男にとってさえハードなF1ドライバーをやっているのだ。体調を崩すのも無理はない。
好きでやっていることと言えばそれまでだが、何故そこまでしなければならないのか。
不意に、今まで感じたこともない居たたまれなさにとらわれ、駆は腰を浮かせて窓際に歩み寄った。そこからはコースが見下ろせる。フリー走行の時間になっていた。マシンが数台、すでにコース上に入っている。
(蓮は、なんの為に走っているんだろう?)
その問いは、結局は自分自身にも向けられるのだ。今なお駆は、レーサーであることを辞めたつもりはない。今シーズンはともかく、来年はもう一度再起をかけてチームと交渉していくつもりだ。
その為なら、F1ドライバー・伊高蓮のドライビングアドバイザーを勤めていた、という経歴も大いに利用させてもらうつもりでいる。
だが、そこまでしてレースにこだわるのは何故なのか。死ぬほどの思いをしておきながら。自分自身、その答えが判らない。
「今回は、残念だが致し方ないらしい」
駆が考え込んでいると、声がした。駆の独り言ではなかった。寝ていた筈の蓮の声だった。
「蓮?」
駆が振り向くと、上体をベッドから起こし、駆のほうを見ている蓮と目があった。
駆は戸惑った。声音は確かに蓮のものだが、その口調はいつもと違っていた。そして、駆を見つめる彼女の表情も、普段の無邪気さが消え、どこか遠くをみるようなものになっている。
「さすがにこの身体では、一シーズンを完調で乗り越えるだけの体力は無かったようだ」
「おい、蓮、大丈夫か? 何言ってるんだ?」
熱にうかされてうわ言を口走っているとしか、駆には思えない。
「驚かせてすまない。とはいえ、こういう時でもなければ、君と話をすることも出来ないのでね」
静かにほほえむ蓮に薄気味悪さを感じながら、駆は彼女の元に近づいた。
「やっぱり熱があるな」
「確かに。今は彼女もよく眠っている」
「……まるで、なんかに取り憑かれているみたいなしゃべり方じゃないか」
「取り憑く、か。ある意味、その通りだ。私にとっても不本意ではあるが」
蓮の笑みが自嘲じみたものになる。
「今、俺と話しているのは蓮じゃないってのか?」
熱でおかしくなっているのか、それとも二重人格の気でもあったのだろうか、と思いつつ駆は恐る恐る訊ねた。
「私の名は、エヤトン=シルヴァ。F1ドライバーだったといえば、判ってもらえるだろうか」
「エヤトンだって……」
駆は絶句する。だが、そう名乗った蓮の様子は、多少熱のせいで頬を紅潮させてはいても、落ち着いていて、冗談を言っているようにも見えない。そもそも、冗談にもなんにもなっていないのだ。
「君が驚くのも無理はない。常識では考えられないことだからな」
自分がエヤトンだという蓮の口から出たそんな言葉に、駆もぎこちなくうなずく。
完全に相手のペースにはまっている。そう自覚して、却って開き直ることが出来た。こうなったら、とことんインタビューしてやる、と。
「じゃ、じゃあ。蓮はエヤトンの生まれ変わりだったのか?」
「生まれ変わり、か。それは少し違うな」
そう呟き、エヤトンは説明を始めた。
「私はサンマリノGPでクラッシュし、命を落とした。その筈だった。だが、神は私を見捨てなかった」
そういや、エヤトンはサーキットで神を見ることが出来ると、臆面も無く言い切っていたな、と思い出しながら駆は頷いた。
「神は、私が、自分の持つ力を最大限に発揮できないまま現世を離れる事に未練を持っているとご存じだった。そして、その才能を後に続くドライバーの一人に託す事をお許しになったのだ」
「それが、蓮だと?」
蓮――エヤトンが頷いた。
「私がサンマリノでクラッシュしたのと同じ時間、アイルランドでも不幸な事故が起こっていた。自動車事故だ。夫婦と一人娘の乗っていた自動車の単独事故だった」
炎上する車の中に、運転していた父親と助手席の母親は取り残され、かろうじて後部座席にいた娘は偶然車外に投げ出されて助かったが、ひどい怪我を追っていた。
「神はその少女に素質を見出しておられた。そして、その少女の命を助け、私の才能を託すことを私にお許しになった。だが、私にしてもそのような行為は初めての経験だった。その少女が、それまでの記憶を失ってしまうことになったのは私の責任でもある」
沈痛な面もちの蓮。そこにいるのは、あのいつもの無邪気な蓮ではなかった。
「蓮は、ドライバーとしての才能を得た代わりに、記憶を失った、と?」
「そういうことになる。ニコルソン=ジャックウェルの元に導き、ドライバーとしての手ほどきを受けるようにし向けたのも私だ。彼女は自分自身の才能と、私の託した才能を発揮し、見事にF1という舞台にまで足を踏み入れることが出来た。私は、このレン=イタカを誇りに思っている」
「一つ教えて下さい。蓮の才能は貴方から与えられたものもあるという事ですが。蓮は本当に自分の意思で走っているんですか? 貴方に走らされているんじゃないんですか?」
「私がしたのは、彼女の深層心理に、私の経験してきたレースの記憶と経験を植え付けただけだ。彼女の走りは、彼女自身のものである」
駆は、ふうと大きな息をつき、深々と頭を下げた。何故かは説明できないが、そうするべきだと思ったのだ。
「ありがとうございます」
「礼を言われるような事ではない。その結果として、彼女が記憶を失ったのも事実なのだ」
「どうやったら、蓮の記憶は戻るんですか?」
駆の問いかけに蓮――エヤトンはしばし考える顔つきになった。
「その為には、私を超えることだ」
「貴方自身を……どうやって」
エヤトン=シルヴァがF1で残した成績を超えろというのか。無茶だ。F1史上でも屈指の天才ドライバーを上回るなど。たとえ、その記憶が蓮の中に息づいているとしても。
駆はすっかり混乱して、天井を仰いだまま言葉も出ない。しばし沈黙が流れた。
「カケル……」
寝ぼけたような蓮の声が聞こえて、駆は我に返った。
「蓮、いまさっき……」
「いまの、なんだったんだろう」
蓮の声が不安に震えている。
「覚えてるのか? さっきまでのこと」
「うん。なんかぼーっとしちゃって。良くわからないけど、なにか言っていた気がする。熱があるからかな、頭がはっきりしないよ」
怯えた顔の蓮。口調がいつもよりも頼りなげだ。
「あー、そりゃ熱のせいだよ。しっかり休んで、はやく良くならないとな」
しばし頭を振って気持ちを落ち着けた駆は、これ以上エヤトンの話はしないでおこう、と決めた。
蓮を混乱させたくなかった。蓮の両親が既に亡くなっている、という話も、駆は胸の内に収めておくことにする。
「うん……。ごめん。明日は、きっと大丈夫だから」
「簡単にそんな台詞を口にするんじゃない」
頭を撫でる。こうやっていつもの蓮を前にしていると、先ほどまでエヤトンが蓮の身体を借りて話していた、という事が白日夢に過ぎなかったのではないか、という気さえしてくる。
やがて医師が到着し、蓮の診察を行った。結果はやはり風邪による体調不良だった。薬を飲み、一晩ゆっくり寝て体力を回復させる事になった。
予選用のセッティングは、土曜日午前のフリー走行だけで決めざるをえない。こうなってはもはや好成績は期待できないが、欠場するよりはマシだった。
(三)
幸いにも、土曜日の朝には蓮の熱もすっかり下がり、いつものペースを取り戻していた。
「心配掛けてごめんね。もう大丈夫だから」
ピットで元気な顔を見せた蓮が駆に声を掛ける。
「……ああ。良かったな」
駆の生返事に蓮は小首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
エヤトンとの会話を思い出すと、どうしても歯切れが悪くなる。隠し事をしているというのは気持ちの良いものではないが、本当のことを話す気にもなれない。
「心配しなくてもだいじょぶだよ。だって、この間下見をしたから、バッチリだもん。それに、ここは好きなコースだしね。タバコ箱一個分まで壁にタイヤを寄せてコーナーを攻め込めるのが楽しみだよ」
一度下見をしただけで、フリー走行を欠場した結果、まだ一度も走った経験が無いドライバーの言葉ではなかった。メカニック達が好意的な失笑を漏らす。プレスの感想はより辛辣なものになる。
ただ一人、駆だけが蓮の言葉を真剣に受け止めていた。タバコ箱一箱分までコースを攻める、とは他ならぬエヤトンのドライビングテクニックを評する時に用いられた常套句だったからだ。
そして、蓮が実際にマシンをコース内に進入させ、伸び伸びとした走りを展開すると誰も彼女の大口を馬鹿に出来なくなった。
ルーキーは無論のこと、ベテランでさえも攻めきるには手を焼くコースを、蓮は言葉通り楽しんでいた。
マシンセッティングの方向性に関しては、今回ばかり駆達は苦労のしどころが無かった。タイトであり、なおかつミュー(摩擦係数)の低いコースだけに、とにかくグリップを高めることを考えていれば良かった。裏を返せば、それ以外に考えることは無い、とも言える。
また、搭載されるエンジンも、エンジンも中低速用でパワーバンドを広く使えるように、久遠の手でチューンされたスペシャルバージョンがピットに運び込まれていた。開発能力でシノダのワークスエンジンに劣るとはいえ、久遠とて経験を積んでいる。そうそうひけをとるものではなかった。
午前の結果を元にセッティングに微調整を加えて、午後からの予選に臨む。
いつものように先陣を切って飛び出そうとする蓮を駆は止めた。路面状況が他車のタイヤのカスによって程良くコーティングされる頃合いを見計らって、ピットアウトさせるのだ。
「ねーぇ、ま〜だ〜ぁ?」
焦れた蓮がコクピットの中から両腕をバタつかせる。目の前に他のマシンの走りを知らせるモニタが差し出されているのだが、蓮はまったく気にもとめようとしない。
「ちょっと待てって。今はちょっと込み合ってる。ミナルディのマシンの後ろに出るような事があったら最悪だからな」
ミナルディは有力なスポンサーを獲得できず、予算不足に苦しんでいるチームだ。マシンの開発にも充分な予算をかけられず、このチームの二台のマシンは常に予選・決勝共に最下位をうろついている。
「どっちでもいいから、はやくぅ」
予選開始から一五分ほど経過したところで、満を持して蓮のNJ10がコースインする。
蓮の走りは窮屈なコースにあってまったくスムーズなものだった。一度目のアタックでセッティングに問題がないことを確かめ、間をおかずに二度目のアタックを行う。その度に予選タイムのトップに躍り出る。が、これはまだ他車が様子見をしている段階だからアテにはならない。
事実、フェラーリ、マクラーレン勢がアタックを行うと、次々と蓮のタイムを上回る。だが、自分の走りに自信を持ったのか、もう蓮は焦る様子を見せない。まだ本気中の本気で走っていないと言わんばかりだ。
その様子を頼もしく思いながら、駆も落ち着いてアタックのタイミングを見計らう。
ポールポジションを争うシューバッハとルッキネンが共に三度目のアタックを終えた。現段階のトップはシューバッハ。二位がルッキネン。蓮は四番手に後退している。
(そろそろだな……)
残り十五分というところで、駆はニコルソン監督のほうに頷きかけ、ゴーサインの合図を出した。蓮のマシンからタイヤウォーマーが外された。
蓮がギアをニュートラルにしたまま数度アクセルを踏み込むと、エンジンが鋭く反応して突き抜けるような轟音を響かせる。
エンジンのパワーを感じ取って満足したのか、蓮は親指を立ててピットアウト。三度目のタイムアタックへと向かう。
「行くよ、行っちゃうよっ!」
ピットから出てコースを一周した後、歓声じみた声を無線で飛ばしながら、ぐんとマシンを加速させてコントロールラインを走り抜けていく。
モンテカルロ市街地の特設コースは一周が三・三六七キロメートル。片道一車線ずつの公道は、F1ドライバーには閉所恐怖症に陥りかねないほどの狭苦しさを感じさせる。
右曲がりのサン・デボテ・コーナーをクリアすると微妙に左右にうねった登り坂を、久遠エンジンを轟かせて駆けのぼる。高級ホテル街の立ち並ぶ中、カジノ、ミラボーという二つの右曲がりのコーナーをテンポよくクリアする。
と、今度は急激な下りとなり、ローズヘアピンで左に曲がる。クセのあるコーナーの連続だが、蓮のスピードのコントロールとステアさばきは絶妙だった。コース幅を目一杯使いながらも危なっかしさを感じさせない。
坂を下りきったところで、その次は有名なトンネル内を抜ける。中低速での加速性能を高めたエンジンは快調。マシン速度が最大になった直後、一歩間違えば海へとダイブしかねないシケインが立ちはだかる。
激しいブレーキングで減速してこれをクリアし、その後、タバコ・コーナーからヘアピンを抜け、最終コーナーへと至る。全周通じて曲がった先が見えない、いわゆるブラインドコーナーばかりにも関わらず、蓮の走りには臆したところが全くみられなかった。動物的カンとでも言うべきものが備わっているとしか言いようがなかった。
宣言通り、彼女はコンクリートウォールにタイヤをこすりかねないほどコース幅を目一杯使って攻め込んでいた。パーフェクトな一周をみせ、再びコントロールライン上を駆け抜ける。
蓮の名前が、モニタに表示される順位表の一番上に躍り出た。シューバッハのタイムをコンマ一秒強も上回ったのだ。
ピットに詰めていたスタッフと、彼らを取り巻いていたプレスからどよめきが起こった。
「このままいけばポールか……」
駆が思わず呟く。残り時間はあと八分ほどある。
「だが、いくらなんでもそれは問屋が卸さないだろう」
小田切が戸惑いながらも首を振った。
その言葉通りだった。
四回目のタイムアタックを残していたトップドライバー達が、目の色を変えて蓮の記録を破ろうと挑んでいく。
追い越しをしかけるポイントのほとんどないモナコでは、予選の順位が決勝の結果に大きく響いてくる。一つでも順位をあげておく事が、勝つためには何よりも必要なのだ。
だが、彼らの懸命の走りをもってしても、蓮のタイムをうち破れない。
気負ったドライバーが勢い込んでコース上に一度に入ってしまった為、コースが混み合い、思うようにアタック出来なくなってしまったのだ。
何台ものマシンが連続して走る為、路面温度も高まり、タイヤのグリップ力が悪くなったのも響いた。
そんななかで、かろうじてアルベルト=シューバッハのみが四回目のアタックで蓮の記録を更新した。しかし、堂々の予選二位で、蓮は第一列のグリッドを確保したのだ。
「望外の出来だ」
予選終了後、プレスのインタビューに上機嫌で応じたニコルソン監督は感激の面もちだった。
「マシントラブルが無ければ、表彰台も見えた」
「ここまで来たからには、ただ表彰台に登るだけじゃなくて、その真ん中に立たせてやりたいです」
駆が横から挟んだ言葉に、ニコルソン監督は、日頃あまり見せない曇った表情をみせた。
「うむ、しかし……。相手はシューバッハだ。レンの今の腕では、おそらくパスするのは難しいだろう。ここは、無理にトップを狙うのではなく、確実に順位を落とさずに表彰台に食い込むことを考えるべきだ。このコースは、それが可能だと思う」
ここに来ての消極的な台詞に、駆は耳を疑った。傍らの蓮も、どう答えて良いのか判らないといった表情で駆の横顔を見ている。
元々、ニコルソン監督はレースの戦術よりも、チームマネジメントに辣腕をふるっている。ギアのトラブルが多発して途中リタイアが続いている事情も影響しているのかも知れない。
だが、駆には賛同できる作戦では無かった。
「ダメです、監督。ここで狙わなくてどうするんですか? チャンスです。なにしろモナコなんですよ。他のグランプリの三勝分の価値があるといわれているんです。それに、蓮は乗れています。それも完璧に。それこそ、エヤトン=シルヴァ並みとまで評価されているんです」
勢い込むあまり、思わずエヤトンの名前を口にする。
だが、スペンサーも慎重論を採った。ギアの問題を指摘していた。高速発揮時のパワー伝達を重視した設計が、中低速での信頼性欠如につながっている為、モナコ市街地のコースではギアトラブルの不安が残るという。
結局、安全策でいくことになった。燃料も多めに積み、無理なく完走を狙うのだ。
「無理な追い越しをかけようとせず、スムーズに走るんだ。いいね」
ニコルソン監督は、蓮にそう釘を刺して、ミーティングを終えた。
「どうすればいいんだろ?」
困り顔で蓮が訊ねてくる。
「どうするもこうするも無いさ」駆は厳しい顔つきのままだった。「昔から、このコースで、予選二番手になったドライバーが考えることは一つしかないんだ。判るか?」
「……サン・デボテでインを突くこと」
よどみない答えに、駆はようやく微笑んだ。
「正解。だったら、やることは決まってるだろう?」
「だけど、監督が――」
「俺は蓮の腕を信じている。蓮なら出来ると信じている」
皆まで言わせずに言い切ると、蓮は電流が走ったように背筋を伸ばした。目をまん丸に見開いて駆の顔を見つめている。
「そりゃ監督に恩義があるのは判る。だけど、走るのはドライバーなんだからな。蓮には優勝出来る力がある」
「……ありがとう、カケル。任せてよ。エヤトン=シルヴァみたいに走ってみせるよ」
蓮は言って、満面の笑みで胸を張った。図らずもシルヴァの名が出た途端、駆は思わず声をあげそうになったが、どうにか腹の中に抑え込む。
彼自身が口にした通り、まだ今はそれを伝える時期ではない、と思ったのだ。少なくとも、決勝を明日に控えた今は。
(四)
日曜日。
予選の好成績で感触を掴んだからか、それとも駆に励まされて気持ちが落ち着いたのか、午前中のフリー走行が始まる前から、蓮はご機嫌だった。
ピットの壁にもたれるようにしてあぐらをかき、鼻歌混じりでスケッチブックを開いて、エンジンの暖気が行われているNJ10に向かい合っていた。
「邪魔になるぞ。なにやってるんだ。コース図でも描いてるのか?」
駆が覗き込むと、蓮は鉛筆でNJ10の絵を描いていた。まだラフスケッチの段階だが、蓮の普段のイメージとはほど遠い、緻密で正確なデッサンが出来ている。
「へへっ、上手でしょ」
「ああ。驚いた。すごいな」
「カケルに誉められた。嬉しいなぁ」
鼻高々の蓮は、じっくりマシンの姿を観察することもなく、さらさらと鉛筆を走らせる。見る間に絵の中のF1マシンがディテールを増していく。
細かなところまで巧みに陰影をつけて書き込まれたF1マシンの絵をしばらく眺めていた駆は、その形状が目の前のNJ10とはかなり異なっていることに気づいた。デッサンが狂っているという訳ではない。蓮はNJ10を見ながら、NJ10ではないF1マシンを描いていた。
「なんなんだ、このマシンは?」
「なんか昨日寝てると、イメージが見えたんだよ。こうやって描いてると、そのイメージがずっとはっきりしてくるんだ」
言いつつ、蓮の鉛筆はノーズからフロントウイングまわりの線を引いていく。その形状に駆は思わずうなった。
NJ10よりもかなり絞り込まれたノーズは高く持ち上げられている。そしてフロントウイングとノーズを繋ぐピラー(支持板)は通常のように垂直ではなく、斜め下にハの字型に広がっている。
正面から見れば、F1マシンが三角形に口を開いているように見える筈だ。
サイドポッドの形状も長くなっている点が違っている。エアインテークは小さくまとめられ、エアディフレクターも小さくなっている。
その他にも、マシン各所の相違点が次第に明らかになってくる。その姿はいままで駆が見たこともないものだった。
「できたー」
スケッチブックを両手で上に掲げた蓮が、出来映えに満足してかにっこりと微笑む。
「レン、そろそろフリー走行が始まる。準備はいいか?」
ニコルソン監督が声を掛けた。駆は蓮の手からスケッチブックをつかみ取り、ニコルソン監督に見せた。
「監督。蓮がこんな絵を描いたんですが、こんな変わった形のマシンが、どこかにあるんですか?」
スケッチブック上のマシンを見せられたジャックウェルの表情がかわる。
「カケル。この件については後で話そう。今はフリー走行の時間が近づいているからな」
「はい。……さあ行こう、蓮」
「は〜い」
フリー走行が終わり、ミーティングを行う。セッティングが正しいことはフリー走行での蓮のタイムをみれば明らかである為、雰囲気は明るかった。駆は、蓮にスタートで飛び出すよう指示したことは黙っていた。蓮もそれは心得ていて神妙にしている。
完走狙いであることを確認してミーティングが終わり、小田切やスペンサー、フィールセン等が退席した後、駆は蓮に声を掛けた。
「さっき書いていたスケッチブックを貸してくれないか?」
「いいけど、どうするの?」
「蓮の絵がうまいから、マシンデザイナーとしてやっていけるかどうか、監督に相談するのさ」
「ボクはそんなつもりは無かったんだけどなぁ」
蓮はそう言いながらも、まんざらではなさそうだった。私物を入れたバッグからスケッチブックを出してきて駆に手渡す。
その後、適当な言葉でごまかしてどうにか蓮を追い立てると、改めて駆はニコルソン監督の前の席に腰を下ろした。
「監督。蓮が描いたこのマシンなんですが。心当たりはありますか?」
駆が差し出したF1マシンの絵を見て、ニコルソン監督はため息をつくように口を開いた。
「実在しているかどうか、と聞かれれば、答えはイエスだ。ただし、コンピュータの中に、データとして存在しているに過ぎない」
現在、NJ10のバージョンアップ版としてテストが続けられているNJ10Bの他に、来シーズンを見据えたニューマシンの開発も同時に行われている。これはジャックウェルに限らず、有力チームであれば当然の動きだった。
ニコルソン監督によれば、蓮が描いたのは、そのニューマシンだという。NJ11という予定名称も監督は口にした。
「それで蓮はこんな絵を……」
「いや、そんな筈はない。ここに描かれたのは最新のデザインだが、そもそもF1マシンのデザインは極秘中の極秘だ。しかも設計は改良に改良を重ねられて変化していく。正確な姿を知っているのはデザイナーとそのスタッフ数人だけだろう。彼らが情報を漏らすなどありえない。ましてや蓮がそれを知ることなど、あるはずがない」
「ですが、蓮は現にこうやって描いているじゃないですか」
「大抵のことには驚かなくなったが、今度ばかりは本当に驚かされるよ。どうにもコメントのしようがない。本当に、レンには不思議な力が備わっているとしか思えないな」
ニコルソン監督の言葉に駆は頷いた。
「一種の予知能力のようなものがあるんでしょうかね」
「かも知れないな。だとすれば、チームの未来を明るくする方法を見つけてもらえるとありがたいのだがな」
「そいつは蓮でなくてもはっきりと判りますよ。ともかくここモナコで勝つことです。今の蓮なら、あながち夢でもないでしょう」
駆の思い詰めた表情を前に、ニコルソン監督の顔つきも真剣みを増す。
「君はいったい……?」
「蓮に、サン・デボテでインを突くように指示しました。恐らくやってくれる筈です」
「監督である私の意向を無視しようと言うのかね?」
「私は、蓮の可能性を信じたいのです。とにかく、チャレンジだけは認めて下さい。失うものが無いとは言いません。ですが、チャレンジしないことで失うものだってあるんです」
「……もうこうなっては、ワシが止めたところでもはやレンは聞く耳を持つまい。仕方あるまい。ただし、それはドライバーとしての判断に全て任せることだ。チームの方針はあくまでも上位をキープすること。その事は覚えて置いてくれよ」
つまり、スタート時の燃料搭載量やマシンセッティングには手を加えず、その上でシューバッハをかわせるチャンスを見つけたら、その時は抜いても構わない、という意味だった。ハンデを抱えた状態では、どちらにしろシューバッハにかなう筈もないから、ニコルソン監督としては最大に妥協したことになる。
「了解です。要は、スタートで蓮がしくじらなければよい訳ですから」
「その通りだ」
コース設備のトラブルなどで、決勝のスタートは二度に渡ってやり直しとなった。各ドライバーはテンションを下げないように自らに言い聞かせながら、辛抱強く三度目のスタートに臨む。
レッドシグナルが五つ並んだ後、一瞬の間を置いて消える。エンジンをアイドリングさせる爆発的な轟音が、同時にひときわすさまじいものへと跳ね上がる。
タイヤスモークをまき散らしながら二番グリッドからタイミング良く猛烈な勢いで飛び出した蓮は、駆と話したとおり、スタート直後に迫るサン・デボテ・コーナーでインへの突入を計った。
シューバッハが斜め前方から切り込んでくる。危うく接触しかねない挙動に、モニタを見守る駆は、自分の心臓が嫌な音を立てたのを聞いた。
だが、完走狙いで安全策を取るNJ10は、ラップタイムを向上させることよりも完走を狙い、ピットストップの戦術に余裕を持たせる意味で、燃料を多めに積んでいる。
その上、シューバッハのスタートも綺麗に決まっていた。久遠のチューンしたシノダ製エンジンの性能自体、加速勝負でフェラーリにわずかながら劣る。
蓮がインにマシンのノーズを突き立てる前に、シューバッハにぴたりとラインをふさがれてしまった。
『う〜』
蓮の悔しげなうなり声が、駆のつけたインカムのレシーバーに飛び込んでくる。
結果として、蓮は二番手走行を余儀なくされた。それでも、シューバッハに離されまいと、テイル・トゥ・ノーズで懸命に食い下がっていく。速いペースで先行する二台に引き離され、三番手以降はやや遅れた。
「あまり無理をするな。抜く必要はない。マシンをいたわれ」
ニコルソン監督が指示を出す。
(勝つ気がないってのか……?)
駆は絶望的な思いを抱く。確かに、『皇帝』シューバッハをかわすのは実際問題として困難だ。だが、はじめから勝負を捨てたような態度はドライバーとして納得できるものではない。前にいるマシンは抜く。それが、ドライバーの本能なのだ。
蓮に食いつかれてもなお、シューバッハは、走りになんら影響が感じられない。このまま、ポール・トゥ・ウィンで終わるかと思われた。
だが、全七八周で争われるレースが五六周にさしかかったとき、レースが動いた。シューバッハは左リアサスペンションにトラブルを発生させ、ピットインしたままコースに復帰できずにレースを終えたのだ。
この時点で蓮がトップに立つ。既に最後のピットストップでタイヤ交換と給油を終えているため、ピットワークで足をすくわれる事はない。天候は晴れており、雨が番狂わせを演出する可能性もない。何事もなければこのままトップでゴールできる。
「スローダウンさせるんだ!」
ジャックウェルのピットでは、大声での指示が飛び交う。蓮にペースを落としてのクルージング走行が伝えられる。
二位・マクラーレンのランディ=クルサージとの差は既に一分近くある。狭く、一周が短いコースレイアウトだけに、終盤になると、周回遅れのマシンを次々にかわしながらの走りとなる。追い上げたくともそう簡単にはラップタイムは伸びてこない。
だが、メカニック達は厳しい表情でモニタとテレメータリングシステムがもたらすデータを睨み付けている。誰もが、とにかく無事に完走してくれと祈るような気持ちだった。
モニタ画面上では、蓮の後方にクルサージのマシンは映らない。追いすがる者もないまま、レースは残り十周をきる。一周、また一周と何事も起こらないまま時間が経過していく。タイムはやや落ちてきたが、現状のペースを保っていればクルサージに追いつかれる前にチェッカードフラッグを一番に受けられる筈だった。
だが。
『ああーっ!』
悲鳴ともためいきともつかぬ蓮の声がインカムのレシーバーに響いた。ほぼ時を同じくして、テレメータをチェックしていたメカニック達が天をあおぎ、肩を落とす。
優勝を目前にしながら、またしてもギアボックスが潰れたのだ。
モナコでは中低速での激しい加減速の繰り返しとなる。シフトレバーとクラッチを芸術的に扱う昔のマニュアル式のトランスミッションから、ハンドル裏のスイッチだけでギアチェンジが済むセミオートマティックのトランスミッションが用いられるようになって、ドライバーの負担は格段に減っている。
しかし、ギアチェンジの回数が減っている訳ではない。その回数は一レースで実に三千回以上に及ぶ。
この負荷にトランスミッションのギアが耐えきれなくなった。砕けて飛び散った破片がボックスの中を高速で跳ね回り、他のギアも破壊してしまったのだ。
のろのろとNJ10が壁際に寄り、止まる。その傍らを、マクラーレンのマシンが走り抜けていく。コースマーシャルに促されるまで、蓮はコクピットの中でステアを抱え込むようにしてうつむいたままだった。
(またか。またなのか……)
駆もまた、モニタをみつめたまま愕然としていた。あと一歩というところで、初優勝の夢が儚く費えたことが、どうにも信じられない。
ふと、蓮が描いていた来シーズンのマシン・NJ11の姿が脳裏に蘇った。あのマシンがここにあれば、勝てたのだろうか。そんなとりとめもない思いが、脈絡もなく頭に浮かんだ。
レース終了後。表彰式をしり目に、ジャックウェルのピットでは撤収作業が始まる。コース脇に放置されたままになっていた二台のマシンもクレーン車によって回収され、運ばれてくる。フィールセンもまたマシントラブルでリタイアしていたのだ。
それと相前後して蓮も歩いてとぼとぼとピットまで戻ってきた。
「惜しかったな。もうちょっとだったんだがな。でもまあ、よく頑張った」
「……うん」
ピットで蓮は、自分の乗っていたNJ10が戻ってくるのをじっと待っていた。悲しげな表情で作業を見守っている。やがて、夕陽が西の空に傾く頃になり、コースが市街地としての日常を取り戻す頃になっても、その場を動こうとはしない。
「そろそろ、ホテルに戻るか」
「……うん」
疲れている上にショックが大きいのか、蓮の足取りが重い。すぐにその場に立ち止まってため息をついてしまう。駆はうなだれた蓮の手をとり、ピット裏に停めてあるバイクのところまで並んで歩いた。
夕陽を浴び、蓮の小さな手をとりながら身体を寄せ合って歩いていると、本当に蓮はちいさく、か弱げな女の子でしか無かった。
終始無言の蓮をバックシートに載せ、腰に掴まらせていつものようにホテルまで戻る。こういう時は、すぐ近くのホテルが本当にありがたい。
道すがら、蓮の姿に気づいて声を掛けてくる者がいる。先ほどまでレースを観戦していた客だった。好意的な声援を背にして、駆達はホテルまで戻る。
「さ、着いたぞ」
駆がバックシートの蓮に声を掛けたが、蓮は駆の腰にしがみついたまま、シートから降りようとしない。
「蓮、どうした」
「もうしばらく、このまま居させてくれないかなあ?」
その声に疲れは隠せないが、先ほどまでの沈んだ顔から思えば、思いのほか明るい口調だった。
「なんだ? バイクに酔ったか」
「違うよ。……あのね。ボク、ずっと空っぽだったんだ」
「空っぽ?」
「うん。訳も判らないままにカートに乗って、F3に乗って、F1までやってきたけど、自分がなんでレースをやってるのか、ぜんぜんわかんなかったんだ。なにも考えてなかった。そんなものだと思ってた。でも、カケルと出会って判ってきたような気がしてるんだ。走ることの意味が」
「蓮……」
「今、ボクはボクであることの意味を感じてる。かみしめてるんだ。嬉しいよ。カケルのおかげ。ありがとう」
蓮はそう言うと、腰に回した腕に力を込め、ヘルメットをかぶったままの頭を、強く背中に押しつけてくる。
エヤトン=シルヴァは本当に蓮の中にいるのか。熱に浮かされた蓮が、テレビか何かで知った話を元に適当な作り話を無意識のうちに作ってしまっただけではないのか。少なくとも、こんなはかなげな態度を示す蓮が、シルヴァの魂を受け継いでいるとは思えない。
蓮の息づかいを背中に感じながら、駆はよく判らなくなっていた。
第五話に続く
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