『ぷにF1』 第五話


――Angel's Circuit





(一)


 F1グランプリ第八戦は、カナダ・グランプリ。
 第三戦のサンマリノから、イギリス、スペイン、ヨーロッパ(ドイツ)、モナコと続いたヨーロッパ・ラウンドの第一ラウンドと、第九戦のフランスから第十五戦のイタリアまでの第二ラウンドとの間に挟まれた格好になる。
 ノートルダム島に設けられたジム=ヴィクトーリ・サーキットがレースの舞台である。
 モントリオールのビル群が間近に望見出来る場所にあり、モナコグランプリとはまた異なった趣の都会的な雰囲気があるサーキットだ。
 予選結果はフィールセンが五番手、蓮が七番手となった。ウィリアムズ勢がやや順位を下げているが、相変わらず上位はフェラーリとマクラーレンが占めている。
 決勝では、蓮は六番手からスタートしたEARシノダのジャッキー=ヴィクトーリを、スタートの飛び出しでかわして順位を一つ上げた。
 ジャッキー=ヴィクトーリは、サーキット名にも冠されている伝説のF1ドライバー・ジム=ヴィクトーリの実子である。従って、相当に張り切っていたのだが、そういう相手を敵に回したとき、蓮は妙に強い。
 しかし、ここ一発での速さを持つアロウズのヨッヘン=フォレスタルに、ホームストレートでかわされるという一幕もあった。アロウズのマシン・A21は直線での最高速度にかけてはフェラーリ、マクラーレンにも引けを取らないものがあり、ジャックウェルのNJ10ではいささか分が悪かった。
 が、どうにか蓮は六位でフィニッシュした。
 五番手スタートのフィールセンはスタート直後に電装系にトラブルを抱え、無念のリタイア。
 予選での好成績が決勝での成績につながらない苦しい展開が続いていた。

 この頃になると、NJ10の信頼性の無さは、誰の目にも明らかになっていた。改良版となるNJ10Bが開発チームの手でテストされているが、実戦投入にはまだしばらくかかりそうだった。
 それまでは、なんとかNJ10の手直しで凌ぐしかない。
 好調なチームにとっては二週間に一度のレースが間延びして思われるが、マシンの不調に苦しむチームには、態勢を立て直す間も与えられない過酷なスケジュールに思われてくることになる。
(NJ11があればなあ)
 蓮がスケッチブックに描いた未来のF1マシンに駆は思いを馳せる。
 来年に登場したのでは間に合わない。今年の後半に投入できるのであれば、まだ戦える可能性がある。
 だが、今の駆の立場では、なんの権限もないのだ。速いマシンを求めて文句を言っていれば事足りるドライバーとしての自分が懐かしかった。

(二)


 第九戦からは再びヨーロッパに戻る。ヨーロッパラウンドの第二弾は、フランスのマニクール・サーキットから始まる。
 ここで、全十七戦で争われる今シーズンの折り返しとなる。
 F1の世界においてはこの時期になると、前半戦の成績を元に、来シーズンに向けてのチーム編成についての構想が次第に明らかになってくる。
 一見、気が早過ぎるように思われるが、マシン開発で致命的な遅れを出さないためには、F1チームは常に先手を取る形で行動しなければならない。
 従って、プレスが格好のネタとして喜ぶような重大発表がいくつか行われた。
 ポイント争いをしている上位陣はともかく、成績の思わしくないドライバーにとっては、来シーズンのシートが確保できるかどうか、というレヴェルの話となってくる。駆にとっても全く他人事とは思えない。

 トランスポーターと共にサーキットに到着したジャックウェルや久遠のスタッフは、マシンをピットに運び込み、工具類を整然とピット内に並べ、と慌ただしい。
 その反面、この段階では駆には何もできない。
 モーターホーム横に設営されたテントの下で、英字のプレス・リリースに目を通していた駆は、思わずため息をついた。どこにも身の置き所が無く、自分の境遇が改めて空しく思われる。
「在原君、話があるんだが」
 声が掛けられた。いつの間に来たのか、小田切が立っていた。
「なんでしょうか?」
 忙しい身である筈の小田切がわざわざ顔を出したのはよほど重大な問題が発生したからに違いない。プレス・リリースを畳んだ駆は、緊張しながら小田切に促されてモーターホームの裏手に足を向けた。
「久遠が今季限りでF1から撤退することは君も知っているだろう」
 人目をはばかるように、小田切が声をひそめた。
「今、プレス・リリースを読んだところです。シノダのワークスがEARだけでなく、ジャックウェルにもエンジンを供給する事が決定したとか。この手の話は、噂がそのまま真実のように書かれますから、本当のところはどうかと思いますが」
 自分の今後にも関わることだけに、駆は言葉を選びながら応えた。
「この際はっきりしておくが、それは噂じゃなくて真実だよ。前々から噂になっていたが、今回で本決まりだ」
「……そうなんですか。じゃあ、俺が蓮の面倒をみるのも今シーズン限りということですね。まあ、彼女も最近は随分とマシンのコンディションをメカニックに伝えられるようになりましたから。来年からはなんとか大丈夫だと思います。俺がいつまでもそばについていても始まらないでしょうから」
 正直、ショックではあったが、あまりそれを表に出してはいけない。自分などより、小田切を初めとした久遠のスタッフの方がよほど辛いのだから。
 駆はその思いから、無理に明るい声を出し、早口で言った。
「彼女の事は私も心配していない。むしろ私は君の今後が心配だ。どうせシートが無いならと思って引っ張ってしまったが、来期の事を考えると、果たしてこれで良かったのか」
「少なくとも私は、大変貴重な経験をさせていただいたことに感謝しています」
「そう言ってもらえるとこちらとしても気が楽になる。それに、いい加減、自分でマシンを走らせてみたくなってる頃じゃないかな?」
 小田切の言葉に、駆は口元を引き締めて何度も頷いた。
「そうですね。蓮の走りを見ていると、こっちも楽しんで走れそうな気がしてきますし」
 口にこそしなかったが、駆は内心でレースに飢えていた。ピットで気を揉んでいるだけでは飽き足らなくなっていた。
 事故の忌まわしい記憶を忘れた訳ではないが、やはりドライバーとしての本能がうずき、レースに出たくて仕方が無くなっていた。
 だが、それを言葉にはしなかった。
 シートを失った駆に、F1チームに同行出来る機会を与えてくれた小田切に恩義を感じていたし、この経験が次に生きると信じていたからだ。
 そう自分を納得させていたのだが、やはり自分に嘘はつけない。
「そうだろうと思った。……実は、チーム・レオ・パルスから、君にオファーが来ている」
「あのレオ・パルスですか!」
 思いもかけない小田切の話に、駆は思わず声を上擦らせていた。
 チーム・レオ・パルスとは、フォーミュラニッポンに参戦している強豪チームである。駆が昨シーズン所属していたファイブスター・レーシングよりも実績のあるチームだ。
「だがもちろん、テストがある。ブランクのある君には少々きついかもしれないが。テストの結果いかんでは来シーズンの契約もあり得るかも知れないぞ」
「チャンスですね。しかも、滅多にないような話です」
 と言いつつ、喜色を浮かべていた駆の表情に次第に陰がさす。
「小田切さんが、手を回してくれたんですか?」
「うん、まあ、ちょっと当たりをつけてみただけの話だ。別に無理強いした訳でもないし、どちらかが利益を得るような何かがあった訳でもない」
「ですが、骨折りしていただいたんですね。ありがとうございます、いろいろと気を遣わせてしまって。……ですが、その返事は、今ここでしないとダメでしょうか?」
「そういうと思ったよ」ふっと笑って、小田切は肩をすくめた。「君の欠点は、その押しの弱さだな。ドライバーはもっと前に出る事を考えた方がいいぞ」
「性分ですよ。それに、とにかく今シーズンは蓮のサポートに徹して構わないつもりでいましたから。今、オファーを受けてテストに参加すれば、それも出来なくなる……」
「気持ちは判るが、それでは君が来季のシートを確保するのは難しい。判るね。今、レオ・パルスのテストを受ければ、今シーズン中にフォーミュラニッポンか、F3のシートをスポット参戦の形で獲得出来る可能性もある」
「……」
「ドライバーを引退したつもりは無かったんだろう?」
「はい。ですが……」
 煮え切らない駆の返事に、小田切はふうと息をついた。
「仕事のない君が無為の時間を過ごすぐらいなら、と思っていたのだが、かえって問題をややこしくしてしまったかな」
「いえ、そんなことは。本当に感謝しているんです。F1チームのスタッフになれたことは、良い経験でしたし」
 慌てて居住まいを正し、駆は言った。嘘ではなかった。ただ、このまま自分が日本に戻ってしまったのでは、蓮を見捨てることになってしまいそうで、ふんぎりが付かなかったのだ。
「……仕方ないな」
 ややあって、小田切の方が先に口を開いた。レオ・パルスのほうには私の方から連絡を入れておく。こちらもシーズンの忙しい時期だから、もうしばらく待って欲しい、と言えば向こうも納得するだろう。だが、あまり引き延ばしても、誰にとっても良い結果にはならなくなるぞ。
「はい、ありがとうございます」
 駆は深々と頭を下げた。自分の気持ちに決着を付けなければならない時が迫っていた。忙しい身の小田切が立ち去っても、駆はその場を動けずにいた。
 小田切と入れ替わるようにして、蓮が歩いてきた。歩き方にいつもの元気がない。
「よっ、どうした?」
「カケルもいなくなっちゃうの?」
 駆のすぐ近くまで来た蓮が上目遣いで訊ねた。
「久遠の撤退の話を聞いたんだな」
「うん」
「まぁ、結局そうなるな。久遠が撤退する以上は。俺も小田切さんに呼ばれて参加させてもらってる身だし――」
「ボクがカケルを雇うよっ。そうすれば来年もいっしょだよ」
 突然、悲鳴のような声を上げた蓮が駆の腕にしがみついてくる。
「そいつはありがたい申し出だけど、それは出来ないよ」
 駆は肩をすくめ、首を振った。嬉しかったが、蓮の言うとおりにする訳にはいかなかった。
 レオ・パルスからのオファーの事は口にしなかった。まだ受けるか決めかねていたし、そもそもテストに合格出来るかも判らないからだ。
「カケルはボクの事がキライなの?」
「そんな事はないさ。だけど俺にもドライバーとしての誇りはあるんだ。今のポジションがベストだと思えないんだ。自分の実力がどの程度か、もう一度見極めるためにチャレンジをしたいんだ」
「う〜」
 蓮は目を潤ませ、口をヘの字にして見上げてくる。涙が今にもこぼれそうだった。
「……だからそんな顔すんなって。少なくとも今シーズンは久遠はジャックウェルと一緒に戦うんだからさ」
 微妙な言い回しで明言を避けた駆が蓮の頭を撫でてやると、蓮の表情も緩んだ。
「うんっ。だから今年は、ボクとカケルはずっと一緒だよ。ぜったい、約束だよ」
「あ、ああ……」
 すがりついてくる蓮を見ていると、この場でレオ・パルスからのオファーを口にすることは到底出来なかった。

(三)


 予選では蓮は九番手。フィールセンは八番手で、おおむねこの辺りが現状におけるジャックウェルの実力らしかった。
 決勝では、もはや恒例となった蓮のロケットスタートにより、フィールセンがまたしてもかわされた。その後、ポールポジションからのスタートだったシューバッハがマシントラブルでリタイアした結果、順位が一つ繰り上がり、蓮は六位入賞に食い込んだ。
 優勝はランディ=クルサージ。二位はエウロ=ルッキネン。カナダグランプリではフェラーリがワン・ツー・フィニッシュを決めたが、今回はそっくりそれをマクラーレンが応酬した格好になる。
 この時点でもコンストラクターズ・ポイントはフェラーリの八九ポイントに対してマクラーレンは八三。次回のオーストリアグランプリの結果如何では、逆転もあり得る状況となった。
 クルサージを表彰台の中央に据え、表彰式が始まっている。表彰台にドライバーを送り込めなかったチームはそれを横目に慌ただしく撤収の準備を進めていく。
 そんな中、蓮はピットウォールの上に腰を降ろし、浮かない顔つきで足をぶらぶらと揺らしながら表彰式を眺めていた。駆がそれに気づく。
「どうした? 入賞出来たのに、不満か?」
「……どうしてボクは、シューバッハやルッキネンに勝てないんだろうって思ってたところ」
「まだ蓮はルーキーじゃないか、それはいくらなんでも高望みってもんじゃ――」
 駆の言葉は中途で止まった。
「どうしたの?」
「ん、いや、なんでもない」
 咳払いしてごまかす駆を、蓮は不思議そうに見上げていた。
(もし、蓮の中にエヤトン=シルヴァの魂が宿っているんだったら、そりゃシューバッハやルッキネンみたいな『若造』に後れをとって、黙っているわけにはいかないよな)
 もちろん、その通りに蓮に言える筈もなかった。

 その晩。
 駆の部屋のドアがノックされた。
 一瞬身構えたが、前にもこのぐらいの時間に蓮が訪ねてきたことがあったな、と思い出す。サンマリノグランプリのフリー走行を終えた夜だった。
 あの時は、眠れない、と言って押し掛けておきながら、ベッドに横になるとあっという間に寝てしまったんだったっけな、と苦笑しながら覗き穴で確認する。やはり蓮だった。ドアを開ける。
「どうした?」
 だがそこに立っている蓮は、いつもとは全く雰囲気が異なっていた。
「入って構わないかな?」
 蓮が静かな口調で尋ねてくる。身体がゆらゆらと揺れていた。どこか目が虚ろで、まぶたが重たげに見える。
「もしかして、エヤトン=シルヴァですか」
 躊躇いがちに問いかけると、蓮はゆっくりとうなずいた。
 駆は慌てて「どうぞ」と招き入れた。そこにいるのは蓮に違いないのに、発散される空気が駆を圧倒していた。
「なにか飲みますか?」
「ビールをもらおうか。そのほうが君も話がしやすいだろう」
 蓮が微笑んだ。普段の無邪気さとはがらりと変わって、深みのある笑みだった。
 駆はとりあえず冷蔵庫から缶ビールを出し、グラス二つを持ってテーブルに向かい合って座った。
 グラスにビールを注ぐ駆の手が震えていた。相手が既にこの世の存在ではないから、というより、日本では今でも最も名の知られた最強のF1ドライバーを前にしている事に対する畏怖の表れであった。
「いったい今日はどういう話でしょう?」
「君に聞きたいことがあってね」
「なんでしょうか」
「フォーミュラニッポンのチームから採用テストの話が来ているそうだが、まだ返事をしていないのはなぜかと思ってね」
 蓮にその事を言った覚えは無かった。だが、相手が相手だけに、何を知っていても驚きはしなかった。
「それは……」
 思わず口ごもると、蓮の身体を借りたシルヴァが身を乗り出してくる。
「レンの身を案じているのか?」
「それもあります。せめて今シーズンはついていてやりたいんです。蓮は、マシンの出来が良くなくて苦しんでいますし」
「だがそのために、君はドライバーとしての人生を失おうとしている」
「仰るとおりですよ。ですが、ドライビングアドバイザーとして参加している以上は、その中でベストを尽くしたいんです」
 駆は自分の言葉に、自嘲気味に笑った。ビールをコップの半分ほど一気に飲む。苦いばかりだった。
「それも立派な考え方だ。だが、私としては、レン=イタカの為に才能あるドライバーがみすみすチャンスを逃すのを見ているのは心苦しいのだ」
「才能あるドライバー。私がですか」
 駆は驚いて聞き返していた。蓮――シルヴァがうなずく。
「でなければ、レンも君のことを信頼しない。口にはあまり出さないかもしれないが、それは彼女自身も君に対する評価を意識していないからだ。実際には、ドライバーとしての君を充分に評価しているんだ」
「ありがたい話です。だとしたらなおさら、蓮をまともなマシンに乗せてやりたいと思いますよ。NJ10は信頼性に欠ける気むずかしいマシンです。せめて開発中のNJ10Bを早く投入してもらえればと思っていますが」
 駆の言葉に、蓮は静かに首を左右に振った。
「同じコンセプトの延長線上にあるNJ10Bのポテンシャルは、NJ10からそれほど進化したものではない。実戦投入されても、苦労は終わらない」
 メカにはまったく疎い蓮にマシンの研究開発を任せることは出来ない為、彼女はほとんどNJ10Bのテストには参加していない。にもかかわらず、詳細に見てきたように断言した。
「そうですか。残念です」
 しばし沈黙が部屋に流れた。シルヴァの言うことであれば間違いはないだろう、と駆は無条件に納得していた。
 ビールで唇をしめらせた蓮が、言葉を選ぶように口を開いた。シャンペンファイトをしただけでアルコールに当てられて酔っぱらって寝てしまった時とは違い、今の蓮は全く酔ったそぶりも見せない。
「心配することはない。レンは新型マシンを手に入れられることになっている」
「もしかして、NJ11ですか? レンがスケッチを描いていた……」
「そうだ」
 蓮は知らなくても、シルヴァがNJ11の存在を知っていた。だから、蓮は見たこともないNJ11の詳細なスケッチを描くことが出来たのだ。謎が一つ解け、改めて駆はここにいる蓮がただのドライバーではなく、シルヴァに選ばれた存在である事を納得せざるを得なかった。
「あのマシンなら、現時点であれば表彰台を狙える戦闘力を発揮できるはずだ」
 本当ですか、とは駆は尋ねなかった。あのエヤトン=シルヴァが断言するのである。疑問を差し挟むことなど出来るはずがなかった。

(四)


 第十戦、A1リンクで開催されたオーストリアグランプリで、蓮は予選五番手につけ、一時は三位を走行して二度目の表彰台が期待された。が、完走直前というところでまたしてもトラブルが発生し、コース脇にマシンを止める羽目になった。
「くやしいよぉ〜。こんなのばっかりだよ。ボクが悪いんじゃないよっ、すぐ壊れるマシンが悪いんだもん!」
 リタイアがよほど腹に据えかねたのか、マシンから降りて歩いてピットエリアまで戻ってきた蓮はプレスを相手に言いたい放題だった。それを見つけた駆が慌てて飛んでいき、肩を抱くようにしてジャックウェルのピットまで引っ張っていく。このまま放置しておいたら何を言い出すか判らない。
「あー、判ってる判ってる。蓮のせいじゃないさ。だけど、誰が悪いって訳じゃないんだ。少しでも良くしようと、みんな頑張ってるんだからな」
「う〜」
 むずかる蓮をなだめていた駆は、ピット奥でニコルソン監督と何事か早口で言い交わしている小田切の姿を見つけて表情をこわばらせた。
 来シーズンのシノダ・ワークスエンジン導入で、久遠の立場はいささか微妙なものとなっている。感情的になってゴタゴタが起こったのでなければ良いが、と緊張しながらみていると、やがて話が終わったのか、小田切が駆の元に小走りに駆け寄ってきた。
 その表情はレースの散々な結果とは裏腹に、明るく輝いている。どうやら言い争いをしていた訳ではないらしい。
「なにかあったんですか?」
「完成したんだよ。新型が」
「新型……。噂のNJ10Bですか」
「いや、どうやらそうじゃないらしい」
 そこで小田切は声を潜め、耳をそばだてているプレスがいないのを確認してから小声でささやいた。
「見てのお楽しみということらしいが、監督はNJ11と呼んでいた。NJ10Bの技術を取り入れて、さらに進化したバージョンだ。本当なら来シーズン用に設計を進めていたマシンらしいが、テコ入れの為にNJ10Bの開発を取りやめて突貫工事で完成させたらしい。来週、イギリスでテストを行う。結果いかんでは、次から投入することになるだろう」
「また随分と急な話ですね」
 二週間前、シルヴァが「新しいマシンを手に入れられる」と言っていた事を思い出す。だからそれほど驚きはしなかったが、やはり話が漏れ聞こえてから二週間で実戦投入をする、という判断にはやはり虚を突かれる思いがした。
「ジャックウェルは元々そういう傾向が強い。うまくいけば他チームを出し抜けるだろう。うまくいかなければ、完走もままならないような、今より酷い状態になる。一種のバクチだが、現状を考えれば挑戦してみる価値はあると思う」
「期待したいですね」

 小田切の言葉通り、翌週の土曜日には、ジャックウェルの本拠地であるシルバーストーン・サーキットで、シェイクダウン・テストが実施された。
 ジャックウェルは遠征時とほぼ同じ規模のメンバーが参加していた。普段はマシン開発には携わらない蓮も、今回ばかりは顔を出している。
 コースは貸し切り状態でマスコミ関係者をシャットアウトしており、サーキットを管理するスタッフと、ジャックウェル関係者以外には誰もいない。
 ひっそりとしたサーキットのパドックにトランスポーターが到着し、ジャックウェルの新型マシン・NJ11が二台、ピット内へと運び込まれた。
 尖ったノーズや絞り込まれたエアインテーク、長いサイドポッドの形状をみれば、それが従来言われていたNJ10Bとは全く別物であることが判る。
 マシンのカラーリングはスポンサーとの関係もあってNJ10と同じ黄色だが、これまでノーズに描かれていたスズメバチの絵が、口を開いたサメの横顔に変わっている。口を開いたように見える異形のノーズを持つNJ11の、トレードキャラクターということらしい。
「こいつを見た時のプレスの反応を思うと、来週が楽しみですね」 
 さっそくメカニック達が取りついてチェック作業を始める中、それを見ながら駆はニコルソン監督にそう話しかけた。
 今回のテストはマスコミ非公開となっていたが、その存在が既に周知となっているNJ10Bのテストとして情報が流れており、いまさら今回のテストに関心を払っているマスコミ関係者は皆無と言って良かった。
「優勝争いをしているチームなら、とてもこうはいかないだろうがな。なんにせよ、今回の新型マシンはかなり新機軸が取り込まれている。人目につくのは実戦デビューするときでいい」
「きっと驚きますよ」
「プレスの連中は怒るだろうがな。取材不足の非は連中にある」
 ニコルソン監督は鼻で笑った。
「それにしても、よくこんなに速く、テストにこぎ着けることが出来ましたね?」
「ワシ自身、未だに信じられないところがある。レンのスケッチが決め手になった。今回のデザインにあたっては、デザイナーが知恵を絞りながらも煮詰めきれなかった箇所があった。それらを、蓮が描いたマシンの図が一挙に解決してしまった。本来であればこのNJ11は、半年後に登場すべきマシンなのだ」
 ニコルソン監督が、なんとも言いようのない口調で駆に説明する。
 もちろん、半年後のマシンのデザインを先取りしたからと言って、それが成功するかどうかはまだ判らない。第一、このNJ11は、本当ならシノダのワークスエンジンを積むはずだったのだから。
 メカニックの手によって、久遠のエンジンが始動される。NJ10と同じ、上方排気方式の排気管から白煙が立ち上る。エンジンが充分に暖まれば、不完全燃焼の証である排気煙はほとんど無色透明へと変化して行くはずだ。
 久遠製のエンジン自体はNJ10に搭載されていたものと全く同じだった。今後、テスト結果に基づいて特性をシャシーにあわせていく必要がある。
 小田切が、わずかな異常の兆候も見逃すまい、とばかりに鋭い目で排気煙を睨んでいた。
「本当は、シノダのエンジンを積む筈だったマシンなんですよね、このマシン」
 なんとなく、シノダに一杯食わせてやったような気になって、駆は小田切にも声を掛けた。
「シャシーや車体内部のレイアウトは、実のところNJ10とほとんど変化していない。変わったのは上物の空力、つまり外見だ」
「あのノーズとウイングまわりのデザインは凄いですよね」
「だが、エンジン担当としては、フロントよりもサイドポッドまわりが気になる。NJ10よりもかなり絞り込まれている。ラジエターに充分な冷却効果が発揮できるかどうか」
 小田切の表情は、NJ11の投入が決定したとジャックウェルに聞いた時よりかなり厳しいものになっていた。
 それが、大事なテストを前にした緊張からくるものか、それともNJ11の異形ぶりに悪い予感がしているからなのか、駆には判断がつかなかった。
 排気煙がかなり薄くなってきた頃、ドライバースーツに着替えを済ませた蓮がピットに顔を出した。
「新型だぁ〜」
ひと目NJ11を見た蓮がそう声を上げると、カウルにぺたりと抱きつくように張りついた。緊張感が漂っていたピットの空気が一度に緩んだ。
「こいつは、一度慣らし運転で走らせただけのマシンだ。くれぐれも慎重にな」
「判ってる。だいじょぶだよ。このマシンのことは、ぜんぶ判ってるような気がするんだ」
 まだカウルに張り付いたまま、蓮は言い切った。シルヴァの力によるものか、彼女は、まだ乗ったこともないNJ11の特性すらもイメージできるらしかった。
 先に、暖気を終えたフィールセン用の一号車がピットを出て、コースへと入っていく。最初の三周を抑えて走り、感触を確かめたところで全力走行を十周行い、ピットに戻ってきた。
 続いて蓮の番だった。それまで出番をまちかねていた蓮は躍るようなハンドルさばきでマシンをコースへと入れた。
 NJ11を駆る蓮は、まさに水を得た魚のようだった。
 直線での加速の伸びが素晴らしい。
 コーナーへの進入では、オーバースピードかと見ている者がヒヤリとするような速度から、ブレーキングで素早く減速し、コーナリングできる限界ぎりぎりのスピードで突っ込む。そ
 して、ノーズが脱出方向に向いたところで鋭く加速してコーナーを抜けていく。その間、四つのタイヤはしっかりと路面をグリップし、車体はまったく揺るがない。
「いいよっ。サイコーだよっ!」
 全力走行を終えた蓮は大はしゃぎだった。
 他チームのマシンがいないという条件の違いはあるが、連は今シーズンのイギリスグランプリでの予選タイムを、一秒近く縮めていた。
 だが、ラップタイムの向上もさることながら、信頼性を高めることが最も重要な課題であった。いくら一周のタイムが速くても、完走出来なければポイントは獲得出来ないのだ。
 蓮とフィールセンは三日間に及ぶテストを行い、決勝並の連続走行でNJ11を走らせ続けた。
 ニューマシンに付き物のマイナートラブルはいくつか発生したが、深刻なものは皆無であった。
 一種異様なマシン形状だが、空力的には洗練され、安定をもたらしていた。空力的安定は、メカニカルな部分にかかる負担も減らし、結果として全体の信頼性を高めることに成功していた。テスト結果は上々であった。
 第十一戦、ドイツ・ホッケンハイムリンクがそのデビュー戦となる。
 現在五六ポイントで総合優勝争いのトップを行く、アルベルト=シューバッハの地元でのグランプリである。
 ジャックウェルのピットに運び込まれたNJ11を見て、予想通りプレスが色めきだった。
 どこのチームでもシーズン中のマシンの改良、バージョンアップは行っている。だが、最近では全くの新型をシーズン途中で導入してくるのは珍しいと言えた。
 ともかく、話に聞いていたNJ10Bとは全く異なる形状であり、しかもどのチームも似通ったデザインのマシンを投入している昨今の状況にあっては、他では見られない異形のマシンであった。
 特に、フロントウイングと斜めに下げられたピラーが作る開口部が特に目を引く。ピラーに俯角が付いているのは、単なる支柱としてではなく、空力的にプラスに働く事を狙った結果であるが、一種のまがまがしささえ感じさせるインパクトを持っていた。
 当然の事ながら、マシンに関する質問がニコルソン監督に集中した。
「NJ11は、本来であれば来シーズンに投入すべくデザインを進めていたマシンだが、NJ10の苦戦もあり、またデザインイメージを予想外に明確にするアイデアが提出された結果、今シーズンの残りを戦うマシンとして投入を決定した。いわば、未来から来たF1マシンだ」
 ニコルソン監督は誇らしげではあったが、どこか奥歯にものの挟まったような言い回しで経緯を説明した。蓮の名が挙がることは一度もなかった。
 恐らく、コンピュータによるデザインが全盛の時代にあって、ドライバーのスケッチ一枚を頼りに設計を煮詰めた事を暴露するのは得策でないと判断したのであろう。蓮にとっては、意図しない形で注目を浴びずに済んだ格好になった。
 誰がデザインしようが、見た目が異様であろうが、結果が全て。NJ11に群がるプレスの姿を望見しながら、ふいに駆はまるで自分自身の存在意義を問いかけられているような気がして、小さく身体を振るわせた。

 第六話に続く

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