『ぷにF1』 第六話


――Angel's Circuit





(一)


 例年、ポイント争いのおおかたの行方もほぼ定まったこの時期は、F1においては来シーズンに向けての具体的な発表が各チームから相次ぐ時期でもある。
 駆の注目を引いたのは、フィールセンがジャックウェルとの契約を二年延長したことだ。良好とは言いかねる蓮との関係を思えば、意外としか言いようのない結果だった。
「失礼とは思いますが、お伺いしたいことがあります」
 プレス相手のインタビューが終わったのを見計らい、駆はフィールセンに声を掛けた。
「なにをだね」
「なぜ、来年もここで走ることにしたんですか。はっきり言って、蓮のことでは、かなり頭に来ているんじゃないですか? シーズンを戦いながら開発を進めていたNJ10Bはお蔵入りになりましたし。それになんといっても蓮はニコルソン監督が手塩にかけて育てたドライバーで、しかもセカンドドライバーとしての役割を果たさないのに、監督はペナルティを貸すわけでもなく放置している」
「君は、私がレンより劣るタイムしか出せないのに、ファーストドライバーの地位にとどまるのが不満なのかね」
「いえ、そういうわけでは……。ただ、俺もドライバーですから、もし貴方の立場に立たされたら、我慢できないんじゃないか、と」
 我ながら、相当失礼な事を言っているな、と駆は思う。
 フィールセンは眉一つ動かさなかった。
「君がどう考えようと勝手だが、私は自分がプロフェッショナルであることに誇りを持っている。プロフェッショナルなF1ドライバーだ」
「はい」
「だから、どのような環境にあろうと、与えられた条件の中で最高の成績だけを残すことを考える。ジャックウェルは、私を必要としている。ならば、それを断る理由はなにもない。それに」
 そこまで言って言葉を切ると、不意に、いつも気難しげな顔をしているフィールセンが表情を崩した。意外に爽やかな顔つきになる。
「それに、なんでしょうか」
「今の成績で、胸を張って他のチームに移籍出来る状況と思うかね?」
「あ……」
 駆は思わず声をあげ、それから言葉に詰まってしまった。フィールセンの言うとおりだった。これまで蓮との関係に気を取られて、肝心なことをすっかり忘れていたのだ。
「とにかく、セカンドドライバーにあっさり前に出られてしまうファーストドライバー、というレッテルを返上しない限り、私はジャックウェルから離れられないし、離れるつもりもない。そういうことだ」
「よく判りました。ありがとうございます。嫌な質問に正直に応えていただきまして」
 駆は深々と頭を下げた。レッテルという点では、駆自身、『速いかもしれないが、危なっかしいドライバー』という評価を崩せない限り、ドライバーとしての未来はないのだ。そう思うと、急にフィールセンに親近感を覚え始めていた。
「私にも判らないことがある。君もドライバーだと聞く。しかも引退した訳ではなく、現役の。それが、レンのマシンセッティングを手伝う仕事を与えられて、満足かね」
 まるで駆の思いを見透かしたかのように、フィールセンのほうから訊ねてきた。
「……シートを失ったのは腕のせいもありますが、怪我のせいでもありますから。近いうちに復帰するつもりですよ。それまでF1の世界を勉強できるのは非常にラッキーだと思っています」
 そう言いながら、駆の中にあるすっきりしない思いはまだ消えていなかった。
「ふむ。だが、だとしたら一層、いつまでもジャックウェルと行動を共にしている場合ではあるまい」
 フィールセンの指摘に、駆は神妙な面もちでうなずいた。
 彼の言うとおりだった。いつまでも久遠の一員という立場で蓮のサポートをしていたのでは、フォーミュラニッポンへの復帰の道が遠のく一方だった。
 レオ・パルスからのオファーの話は、駆はまだ返事をしていなかった。どちらにしろ、来シーズンの話であると割り切っていた。
 格下のカテゴリーであろうと、とにかくレースに出て、好タイムを出しさえすれば、より上にステップアップするためのアピールになる。だが、半年以上もステアすら握っていない状態で復帰を目指すためには、政治的とも思えるような働きかけが必要になってくる。
「ドライバーは走っていてこそ価値を認めてもらえる。その事を忘れないようにしたまえ」
「貴重なアドバイス、ありがとうございます」
 また駆は頭を下げた。フィールセンは軽く頷くと、ピットへと戻っていった。

 土曜日。
 ホッケンハイムは雨。コースは水浸しになり、それどころか、サーキットの設備の中まで雨が流れ込むほどの雨量に、誰もが波乱を予感する。
 フリー走行の為にコースに姿を現したNJ11に、報道陣から感嘆の声が漏れる。F1マシンはフロントとリアに設けたウイングにより、車体を路面に押しつけるダウンフォースを得て走る。そうしなければ、強大なエンジンパワーがタイヤを空転させるばかりになるからだ。
 獲得するダウンフォースは、ウイングの角度によって調整する。路面に対して角度がついた、つまりウイングが立っている状態であるほどより大きなダウンフォースを必要としていることを意味する。従ってウイングは、セッティングのコンセプトが最もはっきりと目に見えるポイントとなっている。
 NJ11のウイングはほとんど水平近くまで寝かされていた。正面から見るとリアウイングに書かれたイリシスのスポンサー名が読めないほどだ。ウイングが寝ていると、最高速度は稼げるがコーナリングの際に充分にグリップしない恐れがある。ここまで寝かせてこられるのは、サスペンションやマシン全体のデザインが効果を発揮している事を意味している。
 しかしながら、その真価を発揮したくともあまりにも条件が悪かった。雨天の中行われた予選では、フィールセンは十七番手とこれまでにない悪い成績に沈む。それを横目に、蓮のほうはNJ11を自在に操り、悠々と六番手につけてきた。
 最近ではもう、蓮は同じルーキーという視点でジェイソン=バトルと比較されること自体珍しくなっていた。すっかりトップドライバーを脅かす存在としての扱いである。

 日曜日。どうにか雨は止んでいるものの、今にも泣き出しそうにどんよりと曇っている。
 スタートで、二番手から飛び出したアルベルト=シューバッハが第一コーナーへの進入ラインに強引にマシンをねじ込んだところで、四番手からスタートしたベネトンのジャンピエロ=フィリアノに背後から追突されてコースアウト。これでレースを終えるという結果となった。このチャンスをルッキネンがのがず筈がない。ポールポジションからスタートした彼は後方の波乱をしり目に独走ペースを作り始める。
 シューバッハのリタイアもあって三位にあがった蓮だが、予選ではフィールセン同様、雨に泣かされて十八番手と下位に甘んじていたフェラーリのバリチェスが、猛然と追い上げて来ていた。蓮はこれを懸命にブロックして走る。
 ここで思いも掛けない事件が起こった。
 コース上に観客が入り込んだのだ。その為、イエローフラッグ、ついでセイフティカーの導入となった。追い越し禁止となって、バリチェスのアタックも自動的に中断され、ピットの駆達は一息つく。
 だが、気を抜くことは許されなかった。人騒がせな観客がようやく排除され、レースが中盤から終盤へとさしかかる頃になってマシン同士の戦いが再開されてほどなく、とうとう雨が降り出した。
 まだ小雨模様ではあるが、路面が濡れるのを見て取り、各チームのマシンが先を争ってピットレーンへと入ってくる。タイヤをレインタイヤへと交換する為である。ルッキネンもまたピット前へと戻り、首位の座を明け渡す。むろん、それは一時的である筈だった。
 だが、ルッキネンの――すなわちマクラーレンが下した常識的な判断は、思わぬ形で裏切られることになる。
「レン、フィールセンのタイヤ交換が終わった。ピットインだ」
 ニコルソン監督が蓮に指示を出す。しかし。
「このままでいけるよ、こんな雨ぐらいっ」
 蓮は鋭い声でピットインを拒否した。それは怒っているというより、一番楽しいところを横から邪魔されたことに対する不満の表れだった。
(この状況を、蓮は楽しんでいるんだ……)
「このまま行かせましょう。残りの周回も少ないですし、今の蓮ならバリチェスを抑えてみせますよ」
 駆はニコルソン監督に向かって声を上げた。
 判断は一刻を争う。迷いは禁物だった。トップを死守出来るか、一時的にトップをあけ渡してでも残りのわずかな周回での追い上げに賭けるか。
「……判った」
 ニコルソン監督が頷き、指示を出す。ピットクルーはレインタイヤへの交換準備を整えたまま待機し、監督以下は他チームの動向に目を光らせる。
 上位二台がタイヤ交換のタイムロスで順位を下げ、自動的に蓮がトップ、二位がバリチェスとなる。
 雨模様のコンディションの中、結局、蓮の他にピットインしなかったのはバリチェスのみ。トップを行く蓮がピットに戻らなかった為、セオリー通りタイヤ交換をしていたのでは追い抜くチャンスをみすみす失う、との判断だった。
 ウェットコンディションの中、依然としてドライタイヤを履いたままの二台のマシンによる、激しい攻防が繰り広げられる。タイムは落ちるが、タイヤ交換のロスタイムがあるため、二台の背後から迫る陰はない。
 一歩間違えばスピンやクラッシュをおこしかねない危険な争いを制したのは、バリチェスだった。最終コーナーからの立ち上がりで、蓮のタイヤが滑ってマシンがふらついた一瞬、バリチェスのキレの良いオーバーテイクにしてやられたのだ。
 だがともかく、蓮はブラジルに続き、二位でチェッカーフラッグを受けることとなった。
 すっかり雨があがり、雲の間から青空さえ覗く中、表彰式が行われる。
 アルベルト=シューバッハの陰に隠れていた苦労人・バリチェスの優勝を、他チームのドライバー達ですら祝福する。表彰台の頂点に立ったバリチェスは人目もはばからず号泣していた。
(蓮の直感はやっぱりシルヴァ譲りなのかな。それにしても惜しかった。もう少しで優勝だったのに……)
 だが、その光景を見ながら、ひとり駆だけは蓮の――そして彼女の中に潜むシルヴァの魂の――心情をおもんばかっていた。

 その晩、駆の部屋には蓮の身体を借りたエヤトン=シルヴァが訪れていた。
「NJ11はどうやら戦えるマシンになっているようです」
 駆の言葉に、蓮がうなずく。今の蓮はエヤトン=シルヴァが表に出ているせいで、その瞳はどこか遠くを見るような虚ろなものになっている。
「あれは、本来なら来年登場すべきマシンだ。ディテールは来年のレギュレーションに合致したものから若干変更が加えられてはいるがね。いずれにせよ半年は先取りしている」
「ありがとうございました」
「それで、例のオファーを受ける気になったかね。これでレンも充分に戦えるのだから。君もこれ以上気を揉む必要もない」
「はぁ……。ですが、こうなったら欲が出てきました。蓮の走りをもっと見ていたいという欲が。本当は自分もレーサーとして復帰しないといけないことは判っているんですが、もうしばらくは……」
「そうか。だが、あまり時間は残されていないぞ。フォーミュラニッポンでも、既に今シーズンは半分過ぎてしまっているのだ。決断は早くすべきだ」
 蓮はすこし残念そうな表情を見せた。駆も申し訳ない気がしていたが、どうしても「今シーズンはずっと一緒だよっ」と言っていた蓮の事を思うと、吹っ切ることが出来ないでいた。

(二)


 第十二戦、ハンガリー。ブダペストからほど近くにあるハンガロリンクは、ホームストレートを除いて、ひたすらに曲がりくねった中低速コースの連続するレイアウトを持つ。
 高速コースとして知られる前戦の舞台・ドイツのホッケンハイムリンクとは好対照であった。NJ11にとっては、ホッケンハイムとは全く異なった条件での戦闘力を試されることになる。
 開幕からの三連勝で圧勝ムード漂っていたシューバッハが、ここ三戦連続リタイアとなり、ルッキネンの追い上げを受けていた。
 彼は嫌な流れを断ち切るように、鋭い走りでポールポジションを決めた。二番手はルッキネン。マクラーレンは予選ではややセッティングに苦しんでいたが、翌日には完璧に仕上げてきた。この辺りは強豪チームの実力をかいま見せたと言える。
 決勝では、ルッキネンがスタート時の第一コーナーへの飛び込みでシューバッハを抑えた。そして、そのまま最後まで何事もなく走りきった。なんら波乱の起こらない、観客を魅了するオーバーテイクが全くない『完璧な』レースであった。シューバッハは二位に終わる。
 これでルッキネンがついにポイント争いでトップに立った。蓮は五位入賞を果たしたものの、上位陣を脅かすまでには距離を詰めることが出来なかった。
「もうちょっとさ、絡みたいよね、上位にさ」
 文字通り指をくわえながら、ピットウォールに腰掛けた蓮は表彰台でのシャンペンファイトを羨ましげに眺めていた。
「そう焦るなよ。気持ちは判らなくもないけども、ここまでもう二回も表彰台にあがっているんだ。ルーキーとしては驚異的だぜ。NJ11が走るマシンだってことはドイツと今回とで証明出来たんだし、また表彰台に登れるさ」
 そうであってくれれば良い、と駆は内心で呟いていた。

 NJ11は、前バージョンのNJ10より信頼性が増していた。
 未だ未知数な側面を残すものの、現時点でのジャックウェルにとっては最高の切り札を投入したことは間違いない。しかし、残るは五戦。どこまで成績を上げてこられるか。
 チーム成績ではフェラーリとマクラーレン、個人成績ではシューバッハとルッキネンに既に年間総合優勝争いが絞られてはいるが、ジャックウェルとて勝負を放棄できる筈もない。少しでも好成績を残すべく、モチベーションを懸命に維持しながらの転戦を続ける。
 第十三戦、ベルギーグランプリ。
 舞台となるスパ・フランコルシャンは、ドライバーズサーキットと呼ばれ、マシン性能もさることながら、ドライバーの技量によってタイム差がはっきりと表れる難しいコースレイアウトをしている。それだけに、各ドライバーは自分の実力を誇示するかのように攻め込んでいくことになる。
 フリー走行の前日、来年から新規参戦のトモタ・モータースポーツが公式記者会見を行った。
 そしてトモタに対抗するように、シノダの社長もEARを激励に訪れていた。
 ニコルソン監督は、来季のワークス仕様エンジンを供給してくれるシノダ社長の元にはせ参じて上機嫌だったが、久遠のスタッフ達はそれを複雑な思いで受け止める。
 EARが元々シノダの準ワークス・チームであることから、久遠シノダ・エンジンを積むジャックウェルがまるで二軍扱いを受けてきた事に対する不満もある。マシンのポテンシャルも、ドライバーの力量も、EARを上回っているという自負があるだけになおさらだ。
「つまりはNJ11も、結局はシノダのワークスエンジンを積む来年型マシンの為のテストベッドに過ぎないんだ」
 フリー走行前日、ホテルの自室で、駆は部屋に遊びに来た蓮を前に、つい愚痴めいたものをこぼしてしまう。
「トモタはワークスなんだってね。速いのかな?」
 だぶだぶのTシャツにスパッツという、いささかしどけない格好の蓮は、部屋の真ん中で腕立て伏せをやっている。
 なにも他人の部屋に来て腕立て伏せはないだろう、と思いながらも、つい駆はその回数を数えてしまう。
「すぐにトップチームの仲間入りをするとは思えないけど、トモタは大金そそぎ込んでくるだろうからな。シノダは日本におけるF1参戦に関しては先駆者としての意地があるから、表だっては口に出さないけど、相当に対抗心を持ってるはずだ」
「じゃ、ウチがシノダのワークスエンジンを使うようになるのも、そのせい?」
 一定のリズムを全く崩すことなく、蓮の腕立て伏せは五十回以上も続いている。華奢な見かけに寄らず、薄い肉付きの下では極限までチューンされた筋肉が息づいているらしい。
 そうでなければ、重力の四倍もの負荷がかかる高速コーナーに身体が耐えられる筈がない。
「理由の一つには違いないだろうな」
「ふうん……。なるほどね。シノダも大変なんだ。ワークスとしての意地もあるだろうし。EARはまだなんかバタついたところがあるしね。ジャックウェルのほうが実力はあるよ」
「蓮……、もしかして」
 腕立て伏せを終え、やけにまともな事を口にする蓮を前に、おもわず駆はシルヴァの名を口にしそうになった。ふと、シルヴァが蓮の身体を借りて話しているような気がしたのだ。
「なに? ボク、何かへんなこと言った?」
 だが、当の蓮はきょとんとした顔で駆を見つめている。どうやら駆の思い過ごしだったらしい。
「いや、別になんでもない」
「そうだ。ねえ、カケル。ボクの部屋に来ない? テレビゲームやろうよ」
「ゲーム?」
 誘われるままに蓮の泊まっている部屋に行くと、ノート型のパソコンがテーブルの上に置いてあった。USBハブにゲームパッドが二つ繋がっている。
「この間、ジェイソンに貰ったんだよ。スポンサーの人から貰ったけど、他に使ってるのがあるから要らないってさ。内緒だよ」
 得意げに蓮が言い、パソコンの電源を入れた。
 バトルが所属するウィリアムズのスポンサーの中に、パソコンメーカーがある。と同時に、ジャックウェルもまた、別のコンピュータ関係の企業をスポンサーに持っている。さすがにそのあたりは蓮も気になるんだな、と駆は苦笑した。
 シーズン中の好成績を評価され、いくつかスポンサーを獲得した経緯もあり、それなりに舞台裏が判ってきているらしい。
 やがて画面上にウィンドウズが立ち上がると、駆は早速ゲームを起動させた。
「なんだ? F1のゲームか」
 スポーツ関係のゲームを多く手がけているソフトメーカーのロゴが表示され、F1と大書きされているのをみて、駆は少し呆れた声を出した。
「そうだよ。対戦も出来るんだよ。リアルで面白いよ。ボクはちょっと走ってコツつかんでるから、カケルにはフリー走行の時間をあげる。それから対戦やろうよ」
「よっしゃ」
 たかがゲームとはいえ、F1である。本物のF1ドライバーと対戦する機会など、普通ならそうあるものではない。
 さっそくマシンとコースを適当に選んで走ってみる。ゲームは本物志向で、マシンを細かなところまでセッティング出来る。だがともかく、ドライビングの感覚を掴まないことには、セッティング変更による影響がどの程度あるのかも判断しようがない。ともかく蓮の言う『フリー走行』を行ってみる。
 三十分ほど頑張ってみると、ほぼベストと思われる感触が得られた。
「よーし、対戦やろう」
 蓮は張り切った声を出してパッドを手にした。
 チームやドライバーは今シーズンに準拠したものになっていた。ドライバー選択で、蓮は迷わず自分自身を選ぶ。駆は、ドライバーにパラメータが設定されていて、選び方で走りに差が出ることを考え、アルベルト=シューバッハを選ぶ。
「へへん。シューバッハなんかに負けないよっ」
 自信満々の蓮。
 コース選択でオーストラリア・アルバートパークを第一戦の舞台に選ぶ。既に今シーズンの終わったコースの方が、気楽に出来ると考えてのことだった。下手にこれから走るサーキットなどを選べば、下見を兼ねた走りになってしまう。もっとも、そんな事を考えているのは駆だけだろうが。
 そして……。

「ね、もう一回、もう一回やろーよー」
 腰を浮かせて自分の部屋に戻りかけた駆の腕に、蓮がしがみついていた。
「これぐらいにしておこうぜ。目が悪くなったらどうするんだ」
 既に、オーストラリアから実際のスケジュールと同じ順にコースを変え、モナコグランプリを終えたところだった。実際の二割ほどの周回数しか走らず、ピット作業もないスプリント勝負とはいえ、ここまで七戦、全て駆が勝っていた。
「勝ち逃げなんて許さないよっ! だっておかしいよぉ、ボクが一度も勝てないなんてっ」
「ゲームだからな。本物とは違うよ」
 蓮は実際と同じような感覚でドライビングしようとする。それはF1ドライバーの感覚を鈍らせない為には正しいのかもしれないが、自動車の免許を持っていない素人でも楽しめるように作られたゲームだけに、本物志向ではあっても簡略化された部分も少なからず存在する。
 ゲームの特性を掴んでプレイすれば、蓮より速いタイムを出すのはそう難しいことではなかった。
(ま、蓮がこんなゲームのせいで実際のドライビング感覚を狂わせるようなことがあったら一大事だからな……)
「だってだって。ボクは何度もこれで遊んでるのに。カケルは今回が初めてなのに」
 納得できない蓮は、腕をぶんぶんと振り回して言い募る。
「きっと、ゲームの蓮は、パラメータが低く選択されているから、ドライバーとして選ぶと損なんだよ」
「う〜。あと一回だけ。いいでしょ?」
 すがるような目つきで頼まれては、駆としても断りきれない。苦笑しながら「本当にこれが最後だぞ」と応じる。蓮の表情がぱっと輝いた。
「よーし、今度は勝つからね。あ、カケルも手を抜いたらダメなんだからねっ。次、カナダグランプリ」
 嬉々としてコース選択をはじめる蓮。手を抜くなと言われた駆も、負けてやるつもりも無かった。おそらく、また勝ってしまうとうるさいだろうなと思いつつも、ドライバーとしての意地が頭をもたげていた。

(三)


 土曜日の予選では、ここまで蓮を相手にいささか見劣りのする成績となっているジェイソン=バトルが三番手につけた。だが、NJ11の挙動を隅々まで会得した蓮は見事、予選二番手に食い込む。モナコグランプリ以来の好成績だった。

 決勝当日。
 スパは雨だった。そもそも、このサーキットでは天候の変化がめまぐるしく、コースの一部では晴れ、別の場所では雨、などという状況も珍しくはない。タイヤの選択は死活問題となる。
 午前のフリー走行が終わった後になってジャックウェルのモーターホームに顔を出した春日部は、雨模様の空を憂鬱そうに眺めながら、テントの下に置かれた椅子に、どさりと腰を落とした。
「最近、彼女もだいぶ落ち着いてきたな。デビュー当時はほんのガキにしか見えなかったが、プレス相手にも堂々としたものだ」
「確かに」
 駆も頷く。
 NJ11を手に入れてからなのか、近頃の蓮はインタビューで、他のドライバーと変わらないまともなコメントを残すようになっている。
 破天荒な無邪気さが無くなっていくことを残念がる向きもあったが、行動の読めない彼女に振り回されることも多かったせいもあり、ジャックウェルではおおむね彼女の傾向を歓迎している節があった。
「そうだ。お前さんに教えておかないといかんかったな。彼女の過去について、少し判った事がある」
 春日部が急に声を潜めた。
「なんですか?」
「いやなに、彼女が日系だとしても、その親の親、つまり伊高蓮にとっての祖父母は日本にいるんじゃないかと思ってだな。伊高なんて名字はそうそうないから、ちょっと片っ端調べてみたんだ」
「それで、どうでした?」
「それらしいのがいたよ。ただし、父方じゃなくて、母方。伊高ってのは母方の姓だったみたいだな。アイルランド人の結婚した娘の両親にあって話を聞いた。確かに蓮という名前の孫がいたそうだ。戸籍謄本でも確認した」
「そうですか。で、その母親は今どこに?」
 シルヴァが蓮の口を借りて話した内容が事実だとすれば、恐らく生きてはいない。それを判っていながら、駆はそう訊ねずにはいられなかった。
「……行方不明だそうだ。連絡がとれないらしい。事故か事件かはまだ調べてきれていないが、こいつはどうも調べたところで楽しい話になりそうもない」
 春日部は残念そうに首を振った。駆はふうと息をもらした。
「春日部さん、やけに蓮に熱心ですが、どうしてです? 彼女が日本人だと証明されると、日本人ドライバーがF1に参加してることになって、日本でもF1が盛り上がるという読みですか」
「盛り上がる、か。まあそうだな。だが俺は、エヤトン=シルヴァの亡霊を倒したいと思ってるんだ」
「え! エヤトンの亡霊っ!」
 思いがけず出てきたエヤトンの名前を耳にして、駆は思わず裏返った声をあげていた。まだ春日部に蓮とシルヴァの関係について話したことは無かった。それともどこかのルートから情報をつかんだのだろうか。
「急にでかい声を出すなよ。びっくりするじゃねぇか」
 春日部が顔をしかめていた。
「驚いたのはこっちですよ。いつから春日部さんはオカルトライターに転向したんですか」
 懸命に動揺を抑え、取り繕うような早口で春日部の反応を伺う。
「亡霊ってのはそういう意味じゃねえよ。日本におけるF1の現状をたとえてみただけだ」
「じゃあ、エヤトンの亡霊を見たとか、そういう話じゃないんですね」
「当たり前だっつうの。妙なこと言うな」
「すみません、はは、驚いてしまって」
「ま、いいや。話を元に戻すぞ。つまりだ、日本ではバブルの終焉とシルヴァの死が重なって、F1ブームが終わった。今でもF1のイメージといえば、シルヴァとそのライバル達でしかない」
「ええ」
「だから、シノダが復帰しようが、トモタが参戦しようが、やっぱり新しい英雄抜きにはこの現状は打破出来ない。その点、伊高蓮はヒーロー……この場合はヒロインか? になれる可能性があると俺は踏んだ訳だ」
 それだけに、こっちとしては板挟みよ。と春日部は首を振った。伊高蓮が日本人であることを喧伝したい一方、蓮の過去を不用意に暴いた結果、彼女を傷つける行為につながりそうでジレンマを感じているらしい。
「で、そのネタはどうするんですか?」
「まぁ、特ダネの類には違いないんだろうがなぁ。俺じゃなくても、いずれ誰かが嗅ぎつける話だろうし。……とはいえ、こっちもくだらねぇ芸能記者じゃないんだ。鬼の首とったみたいにはやし立てるつもりもないよ。勿体ない話ではあるが」
「ありがとうございます。恐らく、蓮にとってもそのほうが良いでしょう。出来れば春日部さん以外に気づいて欲しくないですね」
「まあな。って、どうした? つまらない話をしちまったか? やけに浮かない顔だな」
 自分でも感じているところを指摘され、駆はぐっと言葉に詰まった。だが、しばし思案の上、覚悟を決めてゆっくりと口を開いた。
「春日部さん、これからの話、オフレコに願えます?」
「ああ、いいぜ。ま、内容によるがな。さぁ話してみろよ」
 悪戯っぽい目で笑い、春日部は駆の話を促した。
「ひどいですね。全然約束してくれないんだもんな」笑いながらも、駆は春日部の口が固いことを知っているので、結局話し出す。「要は、蓮が自分一人でマシンセッティングをこなせるようになってきたから、俺の出番が無くなってきたってことです」
「そうなのか? そいつはなんというか、おめでとうと言うべきか迷うところだな」
「まぁ、役立たずがいつまでもくっついてるのもなんですから、そろそろ引き上げ時だとは思うんですが……」
「レオ・パルスからのオファーがあるんだだろ?」
 いきなり、春日部が思いも掛けないところから切り込んできて、駆はたじろいだ。
「ご存知でしたか?」
 驚く駆に向けて、春日部は大げさに表情をしかめてみせた。
「ご存じもなにもなぁ、こっちはレオ・パルスの国吉監督から釘を刺されてるんだよ。さっさと日本に引っ張ってこいってな。そういつまでも待ってられないって話だぜ。なにしろ、先週のもてぎで、セカンドドライバーの井置がクラッシュして、次の富士には代役を立てないといけないらしいからな」
「本当ですかそれは?」
 お前さんにとっちゃ願ってもない大チャンスじゃないか、と言って春日部はにやっと笑った。
「どうするにしろ、自分の本当にやりたいことがなんなのか、よく考えて決めるこったな。それが、半端なドライバーで終わった先輩としてのアドバイスよ」
 言うだけ言うと、春日部は乾いた笑い声をあげて席を立ち、取材取材、とわざとらしい独り言を呟きながら去っていった。

 決勝では、セイフティカーの先導によるスタートが実施された。スパはスタートライン直後に鋭角のヘアピンカーブが待ちかまえており、雨天の中、まともにグリッドからスタートさせると事故の起こる可能性が極めて高いからだ。だが、この狂気と紙一重のコースレイアウトこそが、スパ最大の見所といっても過言ではない……。
 隊列を組んだまま、コントロールラインを通過していったマシンの群れが第一コーナーへとなだれ込む。ここはなんとか全車無事に通過する。
 だが、いかに安全対策を施そうと、ドライバーの闘志まで抑えることは出来ない。四周目。三番手スタートのバトルのマシンが、コーナリング時に強引にインを衝こうとして、蓮のマシンの右リアタイヤにフロントウイングをヒットさせたのだ。
 蓮は為す術もなくコースのアウト側へとスピンする。後続に追突されなかったのは奇跡的だった。
 だが、反時計回りに一周したNJ11はくるりと鼻先を針路方向に向けると、何事もなかったかのようにそのまま走り出した。ヒットさせたバトルを猛然と追撃する。
 濡れた路面でスピンの危険をものともせずにアクセルを踏み込み、コーナーを豪快にクリアしていく。
 そこから三周かけて順位を四位まで戻し、バトルを射程圏に捉えると、今度は蓮が、ホームストレートの加速からヘアピンへの飛び込みでアウト側からバトルをかわした。
 もちろん、蓮がそれだけで満足するはずがない。再びルッキネンとシューバッハを追う。
 十三周目、トップを行くルッキネンがスピンし、コースアウトした。
 その横を蓮とシューバッハがかわす。
 だが、今度はルッキネンが猛然と追い上げにかかってきた。
 四一周目。ルッキネンは蓮とシューバッハをまとめて抜き去る驚異的なオーバーテイクをみせ、一気にトップに立った。それがこのレースのハイライトだった。
 一位、ルッキネン、二位、シューバッハ。蓮は三位に終わった。
「まあ、こんなところかな」
 会心の優勝に喜ぶルッキネンの傍らで、蓮の笑顔は寂しげにゆがんでいた。だが、七位に終わったフィールセンに比べれば上出来なのも事実だった。
「あの二人には、なかなか勝てないよな」
「……ねえ、カケル。ボク、強くなったよね? 速くなったよね?」
「ん、ああ、そうだな。……どうかしたか?」
 駆を見つめる蓮の瞳はきらきらと輝いていた。
「もう、ボクは大丈夫だよ。いままでありがとう、カケル」
「えっ?」
「ボクはいっぱい、いろんなことをカケルに教えて貰った。だけど、いつまでもカケルをボクのものにはしておけないでしょ? カケルもドライバーなんだから、マシンに乗らないと、やっぱり本当のカケルじゃないと思うんだ」
「……いいのか?」
「寂しいけど、しょうがないよ」
 蓮は肩をすくめた。駆はかえす言葉が無かった。

 雨模様の中で行われた表彰式が終わり、蓮達は合同記者会見場へと向かう。それを見送った駆は、撤収作業を進めるピットへと戻りながら一つの決心をしていた。
(決めた……。レオ・パルスのオファーを受けよう)
 結局のところ、いつまでもここにはいられない。蓮のドライビング・アドバイザーではいられない。それは最初から判っていたのだ。
 蓮自身に言われるまでもなく、NJ11導入後から三戦連続入賞した蓮には、もはや駆のアドバイスはほとんど価値が無いものとなっていた。
(蓮にはエヤトン=シルヴァがついているんだ。もう俺は必要ない)
 サーキットからの撤収作業を指示している小田切の元に、駆は足を運んだ。
「小田切さん。話があるんですが」
「ちょうど良いところに来た。こっちにも話がある。例のレオ・パルスの件なんだが」
 小田切のほうから話を切りだしてきた。駆は緊張で身構えた。
 もしかしたら、もう別のドライバーが見つかったからこの前の話は無かった事にしてくれ、とでも言われるのか……?
「もう聞いているかも知れないが、レオ・パルスのドライバーが先週のレースでクラッシュして、もし君がすぐテストを受けて合格出来るようなら、来週の富士スピードウェイでのレースに出場させたいというんだ。これはチャンスだと思う。もちろん、私としては強制は出来ないが……」
 言いにくそうにしている小田切の言葉を、駆はこぼれそうになる笑みを抑え、手をあげて制した。
「実は、オファーを受ける事をお伝えしたくて、ここに来たんですよ」
「それなら話は早い」
 一瞬あっけにとられた小田切が、安堵の表情を浮かべた。

 第七話に続く

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