『ぷにF1』 第七話
――Angel's Circuit
(一)
日本。鈴鹿サーキット。鋭い日差しが照りつける中、湿気を帯びた風が吹き抜けた。
スポンサーのワッペンを何もつけない、青一色のレーシングスーツに身を固めた駆の姿がピットにあった。防暑対策は施されていても限度がある。スーツの中は早くも汗だくになっている。
それでも、駆の表情には苦痛は伺えない。緊張と興奮に蒸し暑ささえ忘れているかのようだ。
「よろしくお願いします!」
「よく来たな。F1チームで何を学んできたか、みせてもらおうじゃないか」
レオ・パルスの国吉監督は目を細め、にやりと挑戦的に笑った。小柄ながら、戦国武将のようないかつい風貌を前に、駆は思わず背筋を伸ばした。
国吉監督の口調はぶっきらぼうではあったが、決して威圧的ではない。
だが、生まれた時代が速すぎた為にF1にフル参戦がかなわなかった、かつての名ドライバーの眼光の鋭さに駆は圧倒されていた。
(学んできたことを見せろと言われても……)
こっちは蓮のお守りで精一杯だったんだ、とも言えずに困っている駆の内心を知ってか知らずか、国吉監督はピットで暖気を行っているマシンの元に向かう。
「知っての通り、ウチの若いのがマシンを一台潰してしまったんで、ニューマシンを投入することになった。残念ながら年式落ちだが、新品だ」
国吉監督の言葉通り、チームカラーであるスカイブルーのカラーリングが施されたマシンのカウルは、一点の曇りなく光を反射して輝いて見えた。
レイナード製のシャシーに積んだエンジンは久遠のものだ。
リズミカルにエンジンをアイドリングさせ、車体を振動させる様は、ドライバーの手で一刻も早くコース上に連れだして欲しいと訴えているようだった。
フォーミュラニッポンのマシンは、エンジンの排気量自体では自然吸気三千CCで、F1と変わらない。
ただ、エンジン回転数に上限が設定されており、それによってエンジンパワーを押さえ、一部チームのマシン性能が飛び抜けてしまわないよう計られている。
バラクラバの上からヘルメットをかぶり、身体を軽くほぐしてからマシンに乗り込んだ駆は、浅くなっている呼吸を自覚して息苦しいヘルメットの中で深呼吸して軽く目を閉じた。
(蓮……、いや、エヤトン=シルヴァ、どうか力を貸して下さい)
祈りのような呟きを小さく漏らすと、久々のフォーミュラマシンに緊張しながらピットを後にした。
だが、一度コース上に出てしまえば、自分でも拍子抜けしてしまうほど恐怖心に心を縛られずに済んでいた。
(なんだ、全然平気じゃないか)
事故の記憶を忘れた訳ではない。今でも鮮明に思い返すことは出来る。だが、それだけだ。こうやってマシンを走らせていても、まったく影響を感じない。
以前のドライバー感覚は失われていない。いや、むしろ鋭敏にさえなっているようだ。マシンの全ての挙動が手に取るように判った。
(乗れている……。へっ、まるで蓮になった気分だ。あいつもこんな風にマシンの動きを自分のものにしていたのかな。行ける。まだ行けるぞっ!)
一周を流して走り、二周目からタイムアタックを始める。
駆は久々に味わうスピードに酔いしれ、夢中になってアクセルをさらに深く踏み込んでいった。
気が付けば、『ピットインせよ』のサインボードがピットウォールから突き出されていた。
F1に比べてレースの周回数が少ないフォーミュラニッポンのマシンは、燃料タンクの容量がそれほど大きく取られていない。
名残を惜しむようにコースを一周し、ピットにマシンを戻す。
気持ちよく走れていたが、果たして国吉監督が満足するタイムが出ていたか。ベルトを外してマシンを降りる段になって、ようやくその点に不安を抱く。
「大したもんだ。コースレコードとはいかないが、燃料の搭載量はレース並みだったし、第一、ほとんど一年ぶりにフォーミュラニッポンのマシンに乗る事を思えば上出来だ」
国吉監督がクロノメーターを片手に、大きく頷いていた。
「ありがとうございます」
雲の上の存在としか思えない大先輩の言葉に、駆は深く頭を下げる。
「残り三戦、こいつで戦ってみる気になったか?」
「え、ですが……?」
それなりに覚悟は決めていたつもりだったが、いきなりの話に駆は戸惑った。
「ん? ジャックウェルのほうも気になるか? 小田切のおやじさんにはこっちから話を持ちかけたからはっきりとは判らないが、向こうは別に構わないと言っているんだろ?」
ちらりと蓮の顔が駆の脳裏をかすめた。しかし、『もうボクはひとりでも大丈夫』という彼女の声も同時に思い出す。
そうだ。
手取り足取りでマシンを触らなくても、もはや蓮は立派なF1ドライバーだ。自分がくっついている必要はない。それよりも、ドライバーとして復帰するのであれば、このチャンスを逃す手はないのだ。
「判りました。私の方からも小田切さんには連絡を入れておきます」
「よし。じゃあ、契約に移ろうか」
国吉監督は、レース以外でも即断即決を是としていた。駆が拍子抜けするほどあっさりと契約はまとまった。
その晩、駆は国際電話をかけて、ジャックウェルと行動を共にしている小田切と連絡を取った。
「よう、どうだった」
「契約を結んでくれるそうです。今シーズンの残り三戦だけですが、成績いかんでは来シーズンの契約も考えてもらえそうです」
受話器の向こうで、こわばった空気が緩むのが駆にも伝わってきた。
「そいつは良かった。ちゃんとマシンを走らせることが出来たんだな」
「はい。やってみたら、あっけないものでした」
「言ってくれるぜ、どれだけ骨折りしたと思っているんだ」
さすがに、小田切が呆れた声を出した。だが、どこか冗談めかしたものがあった。
「その事は本当にもう、どれほど感謝してもしきれません。ありがとうございました」
「いいよいいよ。こうして復活してくれたんなら甲斐があったってことだから」
「それで、一旦そちらに戻ってきちんと挨拶をしないといけないところなんですが、これからスケジュールがかなり立て込むことになりそうなんです」
「ま、監督には伝えておく。どのみち、久遠は今年限りだからな。ところで、彼女にこの話をしたのか?」
「いえ……。俺はどうも蓮の信頼を失ったみたいですから」
「そうなのか……? まあ、日本グランプリで鈴鹿に行った時には顔を出してくれよ」
「もちろんです、お気遣い、いろいろとありがとうございました」
国際電話で長電話などやらかしては、後々電話代で目をむくことになる。要件だけ伝えると早々に駆は電話を切った。
これで良かったんだ。
一抹の寂しさを覚えながら、受話器を見つめる駆はそう思い込もうとした。
(二)
フォーミュラニッポンの決勝当日。天候は快晴。
富士スピードウェイのコース上に、駆の姿があった。
ドライビング・アドバイザーという中途半端な立場ではなく、自らステアを握るドライバーとして。
駆はフロントローと呼ばれる最前列にマシンをおいていた。その斜め前方には、今シーズン絶好調の高峰清正がいる。
使い減りしていないニューマシンであるからか、それともドライビングテクニックが開眼したのか、駆は見違えるような速さでレース関係者を唸らせていた。
日本人最後のF1経験者でもある高峰は、恐るべき事に開幕戦からただ一戦を除いて全て優勝という結果を残している。
国内最高峰と言われるフォーミュラニッポンでこれだけの実力を見せた以上、来季はアメリカのCART(インディ・カー・レース)かF1復帰か、ともかく海外進出は間違いないと言われている。
そして駆は、その高峰を相手にして、予選タイムでわずか百分の六秒にまで迫ったのだ。
昨年の駆のクラッシュは、眼前で発生したスピンに駆が突っ込んだ為に起こった。駆自身が原因の事故ではなかったが、本当にマシンを操れるドライバーなら回避出来ていたのではないか、と駆の腕に疑問符がついたのも確かだった。
その為、今回の参戦にも危惧の声が漏れ聞こえていたのだが、駆は予選の走りだけで雑音を封じてみせていた。
(蓮のようにエヤトン=シルヴァとは言わないが、俺にもかつての英雄ドライバーの一人ぐらい、憑いていて欲しいもんだ)
ダミーグリッドを出てコースを一周し、本来のグリッドへとマシンを収めた駆はそんなことを考えていた。斜め前にいる高峰の速さは良く知っているが、何故かあまり敵愾心が沸かない。
もし今、駆が「ライバルは誰か」と問われたなら、恐らく間髪入れず、伊高蓮の名前を挙げるだろう。
今の彼は、同じコース上にいる他のドライバーを敵として認識していなかった。ベストの走りで結果を残すことしか頭になかった。
エンジン音が高まっていく。レッドシグナルが消える。
スタート。白煙をからませながらマシンが一斉に第一コーナーへと殺到する。
間髪入れずに飛び出した駆もノーズをコーナーのイン側へと突き立てようとした。
だが、インを高峰が塞ぐ。
無理せずに引いた駆は、高峰の後ろに張り付くテイル・トゥ・ノーズの態勢を維持して後を追う。タイヤの暖まり具合を気に留めつつ、カーブではぐいぐいとマシンをコース内側ぎりぎりのラインに押し込んでいく。
二周、三周と食いついたまま周回を重ねる。
さすがに高峰の速さは他のドライバーとは桁違いであった。だが、その高峰を相手に駆は全く引き離されずにいるのだ。
フォーミュラニッポンは、本来はタイヤ交換も燃料補給も必要としない距離で行われるスプリント・レースである。が、駆け引きの要素を増やしてレースを面白くするために、レース中に最低一度のタイヤ交換が義務づけられている。
先にタイヤ交換を済ませたのは駆のほうだった。一度は順位を下げるが、その後、他のマシンも次々とピットインして順位が元に戻る。残念ながら、というべきか、高峰もタイヤ交換も問題なく終え、駆の前にマシンを滑らせてくる。
(アレをどこで仕掛けるか……)
駆の頭にあるのは、コーナーへの突入でクリッピングポイントを手前に取って、オーバースピードぎりぎりでアウトにはらみながらマシンを旋回させて脱出する、蓮が得意とするライン取りだった。
高峰のマシンとは性能は互角、ドライビング・テクニックでもほとんど差がつかない以上、無謀であっても追い越しをかけるにはあの手を使わざるを得ない。
正常なライン以外は、レースが進むに連れて路面上にタイヤのカスや砂埃が積もってタイヤのグリップが失われる危険地帯となる。
蓮であればラインを外しても本能的にマシンをコントロールしてしまうのだろうが、駆には簡単に出来ることには思えない。
(だが、やるしかない)
残り五周。駆は高峰の背後につきながら、敢えて攻撃を仕掛けずに高峰の挙動を伺うことに専念する。やや間隔が開いた。
仕掛けどころを、駆は第一コーナーに定めた。ホームストレートへの立ち上がりからスリップストリームに入ってマシンを引っ張らせ、飛び込みの直前でイン側に飛び込むのだ。
ふと、失敗すれば二度とまともなドライバーとして認めてもらえなくなるな、という思いが頭をかすめた。危険な走りしか出来ないドライバー、という烙印は、今度こそ拭いがたいものとなってしまう。
それならば、このまま二位でチェッカーを受けても上出来ではないのか……。
だが、残り四周となってマシンが実際に最終コーナーの立ち上がりまできた時点で、駆はその弱気を振り払った。マシンの持つスピードのほうが、自動的に弱きを吹き飛ばしたと言えるかも知れない。
モナコで予選二位につけた蓮はどうしたか。シューバッハ相手に、堂々とトップを奪いにかかったのだ。
蓮には負けられない。ドライバーとしてのプライドだ。
ホームストレートで駆のマシンのノーズが、高峰のマシンのギアボックスに触れるほどに接近する。スリップストリームの乱気流で、駆の首ががくがくと揺さぶられた。
アクセルを踏み抜くほどに踏みつけて最大限に加速し、第一コーナーへと向かう。
(ここだっ!)
ほんのわずかなハンドル操作。駆のマシンがひらり、と高峰の右側に躍り出た。
だが、前には出られない。ブレーキング競争となる。
そもそも本来のラインを走るつもりのない駆のほうが、ブレーキのタイミングが遅い。高峰が先にブレーキをかけた。
駆が前に出た。
(やってみせる!)
ラインを外しただけで、グリップ力が失われ、マシンが細かく跳ねるようだ。スピンの恐怖に胃も喉も、なにもかもが締め付けられる。
コーナーへの突入はうまくいった。だが、このままではオーバースピードになってコースアウトするか、スピンするかのどちらかだ。
(持ちこたえてやるっ)
歯を食いしばり、アクセルを微妙にあおりながらステアを保持する。
レース専用タイヤはグリップ力が充分にあり、しかもウイングによるダウンフォースが確保されている。従って、フォーミュラマシンでは四輪ドリフトによるコーナリングは通常見られない。観客は珍しいシーンを目撃することとなった。
車体のきしみまでも駆は感じていた。
気が付けば、コース幅いっぱいを使ったコーナリングに駆は成功していた。蓮のライン取りに比べればいささかぎくしゃくしたものとなったが、コースにほかと違ったくっきりとしたタイヤ痕を刻みながらコーナーを立ち上がったとき、彼の前には誰もいなかった。
その後、高峰の猛追を受けながらもトップを譲らす、駆はそのままトップでチェッカーを受けた。
「なんだ、俺にも出来るじゃないか。悩むだけ損したぜ」
観客席に向かってガッツポーズを繰り返しながらのウイニングラン。駆はヘルメットの下で心からの笑い声をあげていた。
表彰式。
これまで、F1ドライバー達が繰り広げるのを眺めているだけだったシャンペンファイトを自分の手で行う快感に、駆は震えるような喜びを感じた。
F1とのレヴェルの差は肌で感じていたが、今はそれを不満に思うより、勝利の味をかみしめていたかった。
(三)
復帰後初出場にして初優勝という快挙から、瞬く間に一週間が過ぎた。
フォーミュラニッポンは残り二戦を残すのみであり、やはり来シーズンに向けての準備も必要になる。
駆はレオ・パルスの一員としてマシンのテストやスポンサーへの挨拶などで追われることになった。
日曜日にもレースは無くても、駆に対してスポンサーになりたいという企業からの申し出があった為、そちらとの打ち合わせを行った。
マネージャをおけるような身分ではないから、交渉ごとは自分自身が足を運んで行うしかない。
なんとか契約を取りまとめてアパートに帰り着いた時には、もう深夜になっていた。
「どうやら、間に合ったみたいだな」
テレビをつけた駆は安堵のため息をもらし、畳の上に座り込んだ。
イタリア・モンツァで行われたF1グランプリ第十四戦の録画中継が、ちょうど始まろうとしているところだった。
中継を観るまで、今日一日、駆はF1の結果が耳に入らないように情報をシャットアウトしていた。
それは、昨シーズンの事故の時のようにレースに対する恐怖心がそうさせるのではなく、蓮の活躍を人づてに聞くより、直接自分の目で確かめたかったからだ。
とはいえ、フォーミュラニッポンの関係者と、スポンサーになりたいと申し出てくる相手と顔をつきあわせている中で、F1の情報だけを耳にしないようにするのはひと苦労だった。
その甲斐あって、駆はまだ結果を知らない。中継をじっくりと楽しむつもりだった。
今の蓮とNJ11なら、高速サーキットであるモンツァでも入賞、あわよくば表彰台も夢ではない。
自分の力が必要とされなくなったことには寂しさを感じていたが、こうやって駆自身もフォーミュラニッポンのドライバーとして復帰できたことを思えば、これがベストの選択だったのだろう。
「もしかしたら、あの言葉も蓮なりに気を回した結果だったのかもな……。ま、あの蓮はそんな事は考えないか。まぁ、シルヴァの魂を受け継いだドライバーに、なにをアドバイスするんだってな」
思わず口をついて出た独り言に苦笑する。ほどなく、中継が始まった。駆はテレビの前に座り直し、見慣れた顔ぶれがテレビに映るのを確認する。
フォーメーションラップを終えてグリッドに並んだ二二台のマシンが、レッドシグナルが消えると同時に一斉に スタートする。長い直線の中途に第一シケインが設けられており、マシンの速度を強制的に鈍らせる。
ここで中段からスタートした数台が接触し、コースアウトするマシンが出た。先頭集団はそれにかまわず大きく曲がる第一コーナーをクリアし、第二シケインへと進入していく。
車列の中から、蓮が乗る黄色いマシンが前を行くマシンの後方から強引に躍りでてシケインへと進入していくのを見て、駆は思わず息を呑んだ。
「危ないっ!」
次の瞬間、今シーズン最悪のクラッシュが発生した。左――右――左へと切り返すシケインの進入で、蓮がインをつこうとして先行するマシンに接触、スピンしたのだ。
独特のライン取りで鮮やかにインに切れ込む蓮のいつもの走りではなく、強引さの目立つ進入だった。弾かれた蓮は別のマシンに追突。さらに多重クラッシュを誘発した。
シケインのアウト側にあるグラベルへと、フロントウイングやタイヤをもぎとられたマシンが次々投げ出されていく。かつて駆が経験したような、回転しながら宙を舞い、危うく逆さに地面に叩きつけられそうになるマシンも出た。
事故の発生原因となった蓮も無事では済まず、グラベルに乗り上げたところでエンジンが停止していた。ウイングやサスペンションも傷ついており、レース続行は不可能であった。
レースのほうは、セイフティカー導入でコースの復旧が行われ、ポールポジションでのスタートの為、後方での事故に巻き込まれずに済んだシューバッハがそのまま優勝した。
彼にとってはF1ドライバーとして通算四一勝目の優勝。これは、エヤトン=シルヴァが作った記録に並ぶものだった。
その重みを知っているシューバッハは、レース後の合同記者会見では感極まって涙を流したほどだった。
合同記者会見の映像を最後に、録画中継は終了した。
テレビを切った駆は、しばし呆然と座り込んだまま動けなかった。
「なんで、あんな無茶な飛び込みをやらかしたんだ」
クラッシュしたのは仕方がない。だが、いつもと違った蓮の強引な走りに疑問を抱く。
国際電話で小田切に連絡を取りたい衝動にかられた。現場にいた小田切なら、事情を知っているかも知れないと思ったのだ。
だが、すでに久遠から離れてしまった自分に気づく。もう自分は部外者なのだ。
たとえシルヴァの魂を宿していたとしても、蓮も人間だ。時にはそういうこともある。駆は強引に自分を納得させるしか無かった。
(四)
衝撃のイタリアグランプリから一週間が経ち、駆は山口県美祢市にある、MINEサーキットでのフォーミュラニッポン第九戦を迎えていた。
MINEサーキットは一見、フランスのマニクールを思い起こさせる、凹字を複雑にねじ曲げたようなレイアウトを持つ。
富士スピードウェイに比べてテクニカルな側面が強く、幅が広く作られた右曲がりの第一コーナーぐらいしか追い抜きを仕掛けるポイントはない。
富士とは違った走りが求められる中、駆は第八戦と変わらぬ好調を維持していた。フリー走行では一番時計を叩き出して、高峰の闘志に火をつける格好になった。
予選では鬼気迫る走りの高峰に一歩譲り、駆は二番手に終わった。それでも前回に続き、最前列からのスタートである。
日曜日の決勝直前。
既にレーシングスーツに着替えを済ませ、ピット作業の確認なども終え、あとはダミーグリッドに引き出されたマシンに乗り込むだけ、となった駆の元に春日部が姿を表した。
春日部は日焼けした顔をほころばせながらやあやあ、と近づいてくる。
「お仕事、ご苦労様です」
茶化すような駆の挨拶に、春日部の相好も一層崩れる。
「全く、全く。先週はモンツァ、今日は美祢。来週はインディアナポリスのアメリカグランプリと来たもんだ」
「ああ、春日部さんもモンツァに行っていたんですね」
「たりめぇよ。俺の仕事をなんだと思ってるんだ」
「春日部さん、蓮のクラッシュ、あれ、どう思います? どうも蓮らしくないと思って、あれからずっと気になってるんですよ」
駆が声を潜めると、春日部の表情も曇った。
「あの接触だろ? 日本ではあんまり報道されてないみたいんだが、実はあの後、彼女が出したコメントが、あんまり感じが良くないんだ」
「そうなんですか?」
「まぁ、いつもの事と言えばそうなんだが、彼女の無邪気な台詞がな。こっちのほうが速かったとか、追突されたんだとか、強気一辺倒で、少しばかり他のドライバーの反感を買ってるところがある」
「そういや、今まで他のドライバーを巻き込んでリタイアした事は無かったですからね」
「まずいことに、シューバッハが優勝して通算四一勝でシルヴァの記録に並んだだろ。シューバッハの涙の会見でそれなりに関係者が感慨深い気持ちになっていたところに、過去の記録なんかよりこれからが大事だ、本当に今一番速いのが誰かシューバッハに教えてやる、てな感じでぶちあげたもんだからな」
それは、ブラジルで二位入賞を果たした際に、表彰台の一番上がいい、とぶちあげた時のような、失笑を誘うような雰囲気とは全く異なっていた。
いつも邪気のかけらすら感じさせない言動で周囲を和ませていた蓮の、いつにないとげとげしい挑発的なコメントに、関係者も戸惑い、失望していたという。
「そうですか。蓮が、そんな事を……」
駆がよほど険しい顔をしていたのだろう。春日部が慌てたように首を振った。
「おいおい、レース直前だ。余計なことを考えている場合じゃないぞ。お前さんがいなくても弱気にならず、立派にF1ドライバーをやってると考えるべきじゃないか?」
「そうですね」
と応じたものの、駆の表情が晴れることはなかった。
第一列に停められたレオ・パルスのマシンのコクピットに駆は身体を沈める。レースクイーンがパラソルをコクピット上にさしかけて日差しを防いでくれる。
春日部には激励されたが、どうにもテンションが乗ってこなくなっていた。
レースに集中できない。
やがて、コース上から関係者が退去し、フォーメーションラップが始まる。コースを一周してから再びグリッドへとマシンを停める。
レッドシグナルが一つずつ灯り、五つ並んだ後、ブラックアウトする。
スタート。
タイヤと排気管から白煙を沸き立たせながら、第一コーナーへと全車が突っ込んでいく。
駆のスタートも悪くなかったが、高峰がロケットスタートを決めて綺麗に第一コーナーへと飛び込んでいた。
おとなしく高峰の後ろを走りながら、駆の思考の一部は自然と蓮の走りに向いてしまう。
どうして、蓮はあんな強引にシケインに飛び込んだんだろう。どうして、ふてぶてしいコメントでシューバッハや他のドライバーまで敵に回してしまうような事を口にしたんだろう。
考えながらの走りには、当然の事ながらキレが無かった。
(あのライン取りは蓮のものじゃなかった。だが、蓮にはシルヴァの魂が宿っている。だからなんだろうか。……そうか。あのレースで走っていたのはシルヴァなのか?)
レース終盤になって、突然、全ての答えが駆の頭の中で明瞭な輪郭を描いた。そう考えれば、駆の中ではつじつまがあうのだ。
結局、駆は最後まで高峰を捉えることが出来なかった。一時追い上げてきていた三位以下のオーバーテイクも許さなかったが、如何せん高峰が速すぎた。駆は二位で淡々とレースを終えた。
記者会見でも、駆は高峰の健闘を称え、復帰後に優勝、二位と結果を残せて嬉しいとだけコメントした。笑顔は無かった。
「随分まるくなっちまったじゃないか。気合いが抜けたか? そんなこっちゃ、二度と優勝なんか出来ねぇぞ」
厳しい表情で春日部が声を掛けてくる。
「判ってますよ。次までには、必ず何とかしますから」
駆もまた難しい表情のままだった。春日部が首を傾げる。
ピットからパドックへと引き上げながら、駆は改めてフォーミュラニッポンとF1の日程を思い返していた。
来週のアメリカグランプリを観に行っても、一ヶ月以上日程の開くフォーミュラニッポン最終戦の出場に支障はない。
それを確認して、駆の心は決まった。
(会いに行こう、蓮に……、いや、エアトン=シルヴァに。そして真実がどこにあるか、本人の口から確かめるんだ)
第八話に続く
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